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武器はどうイランへ渡ったのかイスラエル経由から米国直接取引まで

武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで

政治スキャンダル・秘密工作

1985年8月20日、96発のアメリカ製TOW対戦車ミサイルがイランへ到着した。

だが、この最初の武器はアメリカ軍の倉庫から直接テヘランへ送られたわけではない。
イランへ渡したのはイスラエルだった。
イスラエルが保有していたアメリカ製兵器をイランへ移し、後からアメリカがイスラエルの在庫を補充する――これが最初の仕組みだった。

そのわずか数か月後にはHAWK地対空ミサイルの輸送へCIAまで関与し、1986年になると仕組みそのものが変更される。
今度はアメリカ政府が大統領の秘密活動承認を根拠として兵器を調達し、CIAと民間の仲介ネットワークを使ってイランへ送る形になった。

つまり、「アメリカがイランへ武器を売った」という一文の裏側では、1985年と1986年でまったく同じ取引が行われていたわけではない。

第3回では、TOWミサイルとHAWK関連装備がどのような経路を通ってイランへ渡ったのかを、1985年8月の最初の96発から1986年秋まで時系列で追う。

最初は「アメリカからイランへ直接」ではなかった

1985年の最初の武器取引を理解するとき、最も重要なのは兵器の所有関係である。

イランへ送られたTOWはアメリカ製だったが、最初に送り出したのはイスラエルだった。
イスラエルが自国の在庫からTOWをイランへ渡し、アメリカは減ったイスラエルの在庫を後から補充することを了承する。

構造を単純化すると、次のようになる。

段階 動き
1 イラン側との秘密交渉で米国製兵器の供給が要求される
2 イスラエルが保有する米国製兵器をイランへ移す
3 アメリカ政府がイスラエルへの補充を了承する
4 イラン側は仲介者を通じて代金を支払う

この方法には、アメリカとイランが表面上は直接取引しなくて済むという利点があった。

しかし、イスラエルがアメリカから取得した兵器を第三国へ再移転する以上、アメリカ政府の承認という問題から完全に切り離せるわけではない。
後の独立検察官調査では、レーガン大統領が1985年のイスラエルによる武器移転について事前に説明を受け、承認していたことが検討されている。

1985年8月20日――最初の96発

最初の実際の輸送は1985年8月20日に行われた。

イスラエルから96発のTOW対戦車ミサイルがイランへ到着した。
TOWは有線誘導式の対戦車ミサイルで、当時イランはイラクとの戦争を続けており、軍事装備を必要としていた。

ただし、この取引で重要なのはTOWの性能ではない。

アメリカ政府が公にはイランへの武器供給を認めていない一方で、イスラエルの在庫を利用して米国製兵器がイランへ渡り、その不足分を後からアメリカが埋めるという秘密の経路が成立した点にある。

そして最初の96発が到着しても、期待されていたアメリカ人人質の解放は起きなかった。

仲介者マンウチェル・ゴルバニファルは、兵器が想定していた相手とは違う勢力へ渡ったなどと説明し、さらに多くのTOWを送れば人質解放につながる可能性があると主張した。

この段階で取引は終わらず、追加輸送へ進んだ。

9月14日――さらに408発のTOW

9月上旬、パリでイスラエル側、ゴルバニファル、NSCコンサルタントのマイケル・リディーンらによる交渉が行われた。

そこでゴルバニファルは、人質を解放させるためにはさらに約400発のTOWが必要だと説明した。

9月14日、イスラエルがチャーターした航空機によって408発のTOWがイランへ届けられた。

8月の96発と合わせると、1985年夏にイスラエルからイランへ渡ったTOWは504発になる。

翌9月15日、レバノンで拘束されていたアメリカ人牧師ベンジャミン・ウィアが解放された。

この出来事は、秘密交渉を継続する側にとって大きな意味を持った。
最初の輸送では何も起こらなかったが、追加輸送の直後には実際に一人の人質が戻ってきたからである。

ただし、この時間的な接近だけをもって、408発そのものがウィア解放の唯一の直接原因だったと単純化することはできない。
重要なのは、アメリカ政府内部で「この経路には人質を解放させる可能性がある」という認識が強まったことである。

代金を誰が立て替えたのか――カショギという金融仲介者

武器を運ぶには、輸送だけでなく決済の問題もあった。

イラン側は兵器を受け取る前に全額を支払いたくない。
一方、イスラエル側も支払いを確認しないまま武器を送りたくない。

この時間差を埋めるために登場したのが、サウジアラビア出身の実業家・国際金融家アドナン・カショギ(Adnan Khashoggi)だった。

ウォルシュ独立検察官の調査によれば、カショギはゴルバニファルに対して資金を融通し、イラン側から代金が入るまでの「つなぎ融資」を提供した。

つまり兵器の流れだけを見れば、

イスラエル → イラン

だが、資金の流れにはゴルバニファル、カショギ、イスラエル側関係者など複数の仲介者が存在した。

この複雑な取引構造は、翌1986年にさらに重要になる。
武器そのものだけでなく、売値と政府側の調達価格との差額が大きくなり、その一部がコントラ支援へ利用されるからである。

11月――今度はHAWKミサイルを送ろうとした

1985年秋になると、イラン側の要求はTOWだけではなくなった。

次に問題となったのがHAWK地対空ミサイルだった。
航空機を迎撃するための防空システムであり、イラン側はイラクとの戦争で使用するため関連装備を求めていた。

11月15日、イスラエル国防相イツハク・ラビンは、アメリカ側にイスラエルからイランへの武器供給を引き続き認めるか確認した。
国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレンは、レーガン大統領の承認が継続していると伝えた。

計画では、イスラエルから80発のHAWKを輸送する予定だった。

しかし、この輸送はTOW以上に混乱した。

イスラエル機をそのままテヘランへ飛ばせない

最大の問題の一つは輸送経路だった。

イスラエルとイランは敵対関係にある。
イスラエルの航空機が兵器を積んだまま直接イランへ飛び込むわけにはいかなかった。

当初の計画では、イスラエルの航空機でHAWKを第三国まで運び、そこで別の航空機へ積み替えてイランへ送ることが想定された。

しかし必要な着陸許可や上空通過許可を確保できず、輸送は行き詰まった。

ここでオリバー・ノースがCIAへ助力を求めた。

CIAのデュアン・クラリッジらが飛行許可の確保に関与し、CIAと関係する航空機まで輸送に使用されることになった。

これは重要な転換点だった。

それまで「イスラエルによる武器移転」という形を取っていた活動に、アメリカの情報機関が輸送実務で直接関与してしまったからである。

80発の予定が、届いたのは18発

度重なる輸送上の問題の末、1985年11月24日夜から25日にかけて航空機がテヘランへ到着した。

だが、積まれていたHAWKは予定されていた80発のうち18発だけだった。

さらに問題が起きた。

イラン側が期待していた仕様と、届いたHAWKが一致していなかったのである。
ウォルシュ報告によれば、イラン側はより能力の高い「I-HAWK」と理解していたが、実際に届いた兵器はその期待に合わなかった。
さらに兵器にはイスラエルを示すマーキングも残っていた。

イラン側は受け入れを拒み、残る輸送は中止された。

人質も解放されなかった。

8~9月のTOW取引では少なくとも一人の人質解放という成果があったのに対し、11月のHAWK輸送は、兵器、輸送、政治的説明のすべてで問題を残した。

FACT CHECK|1985年11月に80発のHAWKがイランへ渡ったのか

渡っていない。

計画された輸送量は80発だったが、実際にイランへ到着したのは18発だった。
イラン側が兵器の仕様に不満を示したため残りの輸送は中止され、届けられた兵器も問題となった。

「80発を売却した」という計画値と、「18発が実際に届いた」という実績値を混同しない必要がある。

HAWK輸送がCIAに別の問題を生んだ

11月の失敗にはもう一つ重大な意味があった。

CIAが輸送許可の取得や航空機の手配に関与したことで、「CIAによる秘密活動」として正式な大統領承認が必要ではないかという問題が生じたのである。

アメリカの情報機関が秘密活動を行う場合、大統領がその活動を承認する「Finding」と呼ばれる文書が重要になる。

CIA内部では、11月のHAWK輸送への関与がこの手続を必要とすると判断された。

1985年12月5日、レーガン大統領はイラン秘密活動に関するFindingへ署名した。

しかし、この文書には問題があった。
すでに行われたCIAの活動を事後的に承認する性格があり、さらに武器と人質の関係をかなり直接的に記述していた。

翌1986年になると、秘密活動を続けるための仕組みは改めて作り直されることになる。

1986年1月17日――取引方式そのものが変わる

1986年1月17日、レーガン大統領は新たなFindingへ署名した。

ここから取引は第二段階へ入る。

1985年は基本的に、

イスラエルの兵器 → イラン
アメリカ → イスラエルへ補充

という構造だった。

1986年には、

米国防総省 → CIA → CIAの代理人 → イラン側

という構造が採用された。

Findingでは、対イラン秘密活動の目的として、イラン内部でより穏健な政府形成を促すこと、イラン側から情報を得ること、そしてベイルートのアメリカ人人質解放を促すことなどが挙げられていた。

実務ではCIAが国防総省から兵器を取得し、退役空軍少将リチャード・セコードがCIAの代理人として取引に参加した。

ここで「アメリカからの直接取引」と表現しているのは、必ずしも米軍輸送機がワシントンからテヘランまで一直線に飛んだという意味ではない。

兵器を供給する主体がイスラエル在庫ではなく米政府となり、CIAが調達・決済・輸送体制へ正式に組み込まれたという意味である。

なぜセコードという民間人を間に置いたのか

アメリカ政府が自ら兵器を供給するなら、CIAがそのままイラン側へ渡せばよさそうにも見える。

しかし、実際にはセコードが間に置かれた。

ウォルシュ報告によれば、CIAが国防総省から兵器を購入し、セコードをCIAの代理人として利用する仕組みが作られた。
セコードは輸送、銀行口座、民間企業などを使って実際の取引を処理した。

その背景には、政府の直接関与を見えにくくする狙いがあった。

そしてこのセコードを中心とする民間ネットワークこそ、後に「Enterprise」と呼ばれる仕組みである。

当初は武器取引を実行するための仲介構造だったが、政府の正式な会計系統から外側に置かれたことによって、取引価格と政府への支払額の差額を別用途へ回す余地も生まれた。

この点が第5回で扱う「資金流用」の核心につながる。

1986年2月――今度はアメリカ政府のTOWが動く

新しい仕組みで最初に実行されたのが、1986年2月のTOW輸送だった。

2月18日、500発のTOWがイランへ届けられた。
さらに同月27日までにもう500発が送られ、2月だけで合計1,000発となった。

資金と兵器の流れは、以前より複雑だった。

段階 役割
イラン側 ゴルバニファルらを通じて代金を用意
セコード側 スイスの管理口座で代金を受領
セコード側 → CIA 米政府が設定した兵器代金をCIA側へ支払う
CIA 米陸軍からTOWを取得
民間航空輸送 米国からイスラエルなどを経由して輸送
イラン TOWを受領

最初の500発では、セコードがSouthern Air Transportを手配し、兵器をアメリカからイスラエルへ運ばせた。
その後、別の航空機によってイランへ送られた。

このため物流だけを見るとイスラエルを経由している。
しかし1985年とは異なり、兵器そのものはアメリカ政府の管理下からCIAを通じて供給された。

この違いは大きい。

FACT CHECK|1986年もイスラエルが武器を売っていたのか

1985年と1986年では仕組みが異なる。

1985年夏の504発のTOWはイスラエル所有の米国製兵器だった。
一方、1986年1月17日の大統領Finding以降は、CIAが国防総省から兵器を取得し、セコードらを利用してイランへ送る方式へ移った。

物流上イスラエルを経由することはあったが、「イスラエル自身の在庫を売る取引」と「米政府が供給主体となる取引」は分けて考える必要がある。

5月――HAWK部品とともにアメリカ代表団がテヘランへ入った

1986年春、イラン側は再びHAWK関連装備を求めた。

今度は完成したミサイルだけでなく、HAWK防空システムを維持するためのスペアパーツだった。
交渉では約240種類の部品が対象となった。

そして5月、秘密武器取引はさらに異例の段階へ進む。

前国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレン自身が、オリバー・ノース、元CIA職員ジョージ・ケイブ、NSCスタッフのハワード・タイカーらとともにイランへ向かったのである。

一行は1986年5月25日にテヘランへ到着した。

航空機にはHAWKのスペアパーツの一部が積まれていた。
残りはイスラエルに置かれ、人質が解放されれば追加輸送する計画だった。

ところが交渉は想定どおり進まなかった。

アメリカ側が期待していた高位のイラン政府関係者との政治対話は実現せず、人質も解放されない。
イラン側はさらに多くのHAWK部品を求めた。

追加部品を積んだ航空機は一度イスラエルを出発したものの、人質解放が行われないことから途中で引き返した。

マクファーレン一行は5月28日にイランを離れた。

対イラン関係を大きく転換するはずだった秘密訪問は、ほとんど成果を得られずに終わった。

兵器の「価格」が次の問題になった

1986年の取引には、1985年とは別の重大な問題があった。

イラン側が支払う金額と、アメリカ政府が兵器に設定した価格が大きく異なっていたのである。

例えばHAWKスペアパーツについて、イラン側からセコード側へ支払われた額は、政府側の取得価格を大幅に上回っていた。

その差額は単なる輸送費だけではなかった。

ウォルシュ独立検察官は、1986年のイラン向け武器取引で、イラン側から民間ネットワークへ支払われた金額と、CIA経由で国防総省へ支払われた金額との間に大きな余剰が生じたことを確認している。

そしてオリバー・ノースらは、その余剰の一部をニカラグアのコントラ支援へ回していた。

ここで初めて、

イランへの武器売却

と、

ニカラグアのコントラ支援

が資金面で直接接続する。

ただし、この資金構造そのものは次回以降の中心論点なので、本記事では「武器を運ぶシステムの中に価格差が存在した」という点にとどめる。

8月――残されていたHAWK部品もイランへ

5月のテヘラン交渉が失敗した後も、秘密取引は終わらなかった。

7月24日、レバノンで拘束されていたローレンス・ジェンコ神父が解放された。

その後、ゴルバニファルらは、まだイスラエルに残されていたHAWKスペアパーツをイランへ送るよう要求した。

ノースはポインデクスターを通じて輸送許可を求め、レーガン大統領が承認。
残っていた部品は8月3日から4日にかけてイランへ送られた。

これで5月に途中で止められたHAWK部品取引も、最終的には実行された。

しかしそのころには別の問題が起きていた。

イラン側がアメリカ国防総省の価格情報を入手し、自分たちが兵器・部品に対して非常に高い金額を支払っていることに気づき始めていたのである。

秘密外交は、人質問題だけでなく「なぜこれほど高いのか」という価格交渉にも行き詰まっていった。

10月28日――最後の500発のTOW

1986年後半には、それまでのゴルバニファル経由とは別の接触経路も模索された。

その中で10月28日、さらに500発のTOWがイランへ届けられた。

この500発は、アメリカが同年5月にイスラエルへ送っていたTOWを利用したものだった。
その後アメリカは11月7日と8日に、イスラエルへ新しいTOWを補充している。

11月2日にはレバノンで拘束されていたデービッド・ジェイコブセンが解放された。

しかし翌11月3日、レバノンの雑誌『Al-Shiraa』がマクファーレンのテヘラン訪問を報じる。

約15か月続いた秘密の武器ルートは、ここで公の問題へ変わり始めた。

武器の流れを時系列で整理する

1985年8月から1986年秋までの主要な移転を並べると、取引方式が途中で変わったことが分かる。

時期 内容 基本的な供給構造
1985年8月20日 TOW 96発 イスラエル在庫 → イラン
1985年9月14日 TOW 408発 イスラエル在庫 → イラン
1985年11月24~25日 HAWK 18発 イスラエル在庫 → CIAの輸送支援 → イラン
1986年2月18~27日 TOW 1,000発 米政府 → CIA → セコード側 → イラン
1986年5月 HAWKスペアパーツの一部 米政府 → CIA・民間経路 → テヘラン
1986年8月3~4日 残りのHAWKスペアパーツ 米政府 → CIA・民間経路 → イラン
1986年10月28日 TOW 500発 米政府から補充されたイスラエル在庫 → イラン

TOWだけを合計すると、1985~1986年にイランへ渡った主要な取引分は2,004発となる。

しかし、数字以上に重要なのは、取引の主体が変化したことだ。

1985年にはイスラエルを前面に置くことでアメリカの直接性を薄めていた。
ところがHAWK輸送の混乱を契機にCIAが実務へ入り、1986年には大統領FindingのもとでCIAが政府兵器を取得する仕組みに変わった。

秘密活動は小さくなるどころか、政府、情報機関、NSCスタッフ、外国政府、民間人、航空会社、海外銀行口座をまたぐシステムへ拡大していったのである。

なぜこんな複雑な仕組みにしたのか

一見すると、非常に非効率な方法である。

兵器をイスラエルへ渡し、別の航空機へ積み替え、仲介者の口座を通して代金を処理し、CIAと民間人が役割を分担する。
通常の政府間武器取引と比べれば、関係者も経路も多い。

だが、この複雑さそのものに意味があった。

通常の政府機関を通して公然とイランへ武器を輸出すれば、アメリカが公に掲げていた対イラン政策との矛盾が表面化する。
また議会への通知や武器輸出制度の問題も生じる。

そこで、イスラエル、CIA、NSCスタッフ、セコードらの民間ネットワークを組み合わせ、政府の関与を外部から見えにくくする仕組みが形成された。

しかしその代償として、通常なら政府内部で確認されるはずの

  • 誰が最終的な責任者なのか
  • 誰が価格を決めるのか
  • 誰が銀行口座を管理するのか
  • どこまでが政府資金なのか
  • 利益や余剰金は誰のものなのか
  • 議会へ何を報告するのか

という境界が曖昧になっていった。

これこそが、単なる「秘密兵器輸送」がイラン・コントラ事件へ発展した重要な理由の一つだった。

まとめ|「イスラエル経由」からCIAを組み込んだ仕組みへ

イランへの武器供給は、一つの固定されたルートで続いたわけではない。

1985年8~9月、最初の504発のTOWはイスラエルの在庫からイランへ送られ、アメリカがイスラエルへの補充を認める方式だった。

11月には80発のHAWK輸送が計画されたが、輸送許可の問題からCIAが介入し、実際に届いた18発もイラン側が求めていた仕様と合わず失敗した。

その失敗によってCIAの秘密活動を正式に承認する必要性が問題となり、1986年1月17日には新たな大統領Findingが署名された。

以後はCIAが米政府から兵器を取得し、リチャード・セコードを代理人として利用する方式へ変わる。
2月には1,000発のTOW、5~8月にはHAWK関連部品、10月にはさらに500発のTOWがイランへ渡った。

こうして秘密外交は、単なる外交交渉ではなく巨大な物流・金融システムになった。

そして、そのシステムにはもう一つの特徴があった。

イラン側が支払った金額のすべてが、アメリカ政府へ武器代金として入っていたわけではない。
仲介ネットワークには大きな余剰金が残っていた。

その金は、なぜ存在したのか。
そしてなぜニカラグアへ向かったのか。

その前に次回は、イランとは約1万km離れた中米ニカラグアへ視点を移す。
議会が軍事支援を制限した後も、なぜレーガン政権はコントラを支えようとし、NSCスタッフが秘密の補給網を構築することになったのかを追う。

前の記事:

第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」

次の記事:

第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで[現在の記事]
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事は、ウォルシュ独立検察官最終報告、1987年連邦議会調査、タワー委員会関係資料を中心に、計画された輸送量と実際に輸送された数量、イスラエル所有兵器と米政府供給兵器、政策承認と物流実務を分けて構成しています。「アメリカからの直接取引」は米政府が供給主体となったことを指し、すべての兵器が米国からイランへ直行便で輸送されたという意味ではありません。