1984年10月、アメリカ議会はニカラグアの反政府勢力「コントラ」への軍事支援に、それまで以上に強い制限をかけた。
CIA、国防総省、そして「情報活動に関与するその他の米政府機関・組織」が、ニカラグアでの軍事・準軍事活動を直接・間接に支援するために政府資金を使うことを禁じる内容だった。
通常なら、ここでCIAによる秘密支援作戦は縮小する。
実際、CIAがそれまで行ってきたコントラへの軍事支援には大きな制約がかかった。
しかし、レーガン政権が掲げていた「コントラを存続させる」という政策そのものは消えなかった。
代わりに拡大していったのが、外国政府からの資金、民間募金、退役軍人や民間企業、秘密銀行口座、航空輸送、そして国家安全保障会議(NSC)スタッフを組み合わせた、政府の通常予算とは別の支援経路だった。
後にイラン・コントラ事件の中心人物となるオリバー・ノースは、その中で単なる「連絡役」を超える役割を担うようになる。
第4回では、そもそも議会は何を禁止していたのか、そしてその制限の下で、なぜコントラ支援が秘密のネットワークへ移っていったのかを追う。
CASE FILE 43
イラン・コントラ事件 1985–1987|全10回
イランへの秘密武器取引と、ニカラグアのコントラへの秘密支援。
本来は異なる二つの政策が、どのように一つの政治スキャンダルへ結びついたのかを、公文書・議会調査・独立検察官報告から追う。
- 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
- 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
- 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
- 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制[現在の記事]
- 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
- 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
- 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
- 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
- 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
- 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの
そもそも「コントラ」とは何だったのか
コントラ問題の出発点は、1979年のニカラグア革命にある。
同年、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が、長期独裁を続けていたソモサ政権を倒した。
その後成立したサンディニスタ政権はキューバやソ連との関係を強め、レーガン政権は中米で共産圏の影響力が拡大することを強く警戒した。
1981年以降、CIAはサンディニスタ政権に対抗する武装勢力への秘密支援を本格化させる。
その反政府勢力が、一般に「コントラ(Contras)」と呼ばれた。
コントラには、旧ソモサ政権の国家警備隊出身者だけでなく、サンディニスタ政権に反発したさまざまな勢力が加わっていた。
主な拠点は隣国ホンジュラスなどに置かれ、ニカラグア国内への軍事作戦を行った。
レーガン政権にとってコントラは、サンディニスタ政権へ圧力を加える冷戦政策の重要な手段だった。
しかし議会では、この秘密戦争に対する疑問が強まっていく。
1982年――最初の「ボランド修正」
「ボランド修正(Boland Amendment)」という名称から、一つの法律が数年間ずっと存在したように見える。
実際にはそうではない。
マサチューセッツ州選出の民主党下院議員エドワード・ボランドを中心として成立した、一連の歳出・情報関連法上の制限を総称して「ボランド修正」と呼んでいる。
内容も適用範囲も時期によって異なる。
最初の条項は1982年末に成立した。
この時点では、CIAなどが「ニカラグア政府を転覆させる目的」で資金を使用することを禁止する内容だった。
重要なのは、「コントラに一切関与してはならない」という包括的な禁止ではなかったことである。
レーガン政権側は、コントラ支援の目的は単純な政権転覆ではなく、ニカラグアからエルサルバドルなど周辺国の武装勢力への武器供給を阻止することなどにあると主張し、支援を継続した。
ここから、議会と行政府の間で「コントラ政策をどこまで認めるのか」という綱引きが続くことになる。
1983年――議会は支援額に上限を設けた
1983年末、議会とレーガン政権の間ではひとまず妥協が成立した。
1984会計年度のコントラ支援資金は2,400万ドルに制限された。
政権が求めていた額より少なく、追加資金が必要なら再び議会の承認を得る必要があった。
この上限は翌年、大きな問題になる。
コントラの軍事活動を続ければ資金は減っていく。
CIAやホワイトハウス側が活動を維持したくても、自由に追加予算を投入することはできない。
そこで1984年初めには、国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレンらの間で、アメリカ政府以外の国から資金を集めるという案が検討され始めた。
この発想が、後の秘密支援網へつながる最初の重要な変化だった。
1984年――CIAのニカラグア港湾機雷敷設が議会との対立を悪化させた
議会の警戒を決定的に強めた出来事の一つが、CIAによるニカラグア港湾への機雷敷設だった。
1984年春、この秘密作戦が報道などを通じて明らかになる。
アメリカの情報機関が外国の港に機雷を設置していたことは、議会に強い反発を引き起こした。
それまで議会内に存在していた追加資金への支持も弱まり、コントラ支援の上限を緩和することは難しくなった。
ウォルシュ独立検察官の最終報告では、この時期にレーガン大統領がマクファーレンへ、コントラを「body and soul」――組織として生き残らせるよう求めたとの証言が記録されている。
つまり、議会側では支援を縮小する方向へ進み、ホワイトハウス側ではコントラを存続させる政策を維持するという、正反対の圧力が強くなっていた。
政府予算が使えないなら、外国政府に出してもらえるのか
ここでレーガン政権内部が注目したのが、第三国からの資金だった。
マクファーレンは1984年2月ごろには、外国政府へコントラ支援を働きかける案を検討していた。
CIA長官ウィリアム・ケーシーも、この案を支持した。
同年5月までに、マクファーレンはサウジアラビアからコントラ支援のため月100万ドルの拠出を得ることに成功していた。
その資金をコントラ側へ移す実務を任されたのが、NSCスタッフのオリバー・ノースだった。
ノースは秘密銀行口座の準備などに関与するようになる。
しかし、外国政府へ資金提供を求めること自体に問題がないのかは、政権内部でも疑問視されていた。
1984年6月25日に開かれた国家安全保障計画グループの会合では、国務長官ジョージ・シュルツが第三国への働きかけについて重大な法的・政治的懸念を示し、司法長官の見解を得るべきだと主張した。
翌日の協議では、外国政府が自国の資金を使用し、後でアメリカ政府から補填されないのであれば、第三国との協議は許容され得るという司法長官側の見解が示された。
ここには一つの境界線があった。
議会が止めたのは「米政府資金」である。
ならば、外国政府自身の資金まで同じように禁止されるのか。
この解釈上の余地が、政府予算の外側に支援源を求める方向を後押しした。
FACT CHECK|ボランド修正は「世界中の誰もコントラを支援してはいけない」という法律だったのか
違う。
ボランド修正はアメリカの歳出・情報活動を制限する法律であり、外国政府や米国内の純粋な私人が自己資金で行う行為すべてを直接禁止する法律ではなかった。
だからこそ問題は複雑になった。
外国政府や私人自身による支援と、米政府高官が職務上その資金を集め、移動させ、軍事作戦を調整する行為との境界が問われたのである。
1984年10月――「全面的な資金停止」に近い制限へ
大きな転換点となったのが1984年10月だった。
1985会計年度の歳出法に盛り込まれたボランド条項では、CIA、国防総省、そして情報活動に関与するその他の米政府機関・組織が、ニカラグア国内の軍事・準軍事作戦を直接または間接に支援するために資金を使用することを禁じた。
最初の1982年版が「ニカラグア政府を転覆する目的」を問題にしていたのに対し、1984年版はより広い軍事支援を対象としていた。
| 時期 | 主な内容 |
|---|---|
| 1982年末 | ニカラグア政府転覆を目的とするCIA等の資金使用を制限 |
| 1983年末 | 1984年度のコントラ支援を2,400万ドルに制限 |
| 1984年10月 | 情報活動に関与する米政府機関・組織の資金を、ニカラグアでの軍事・準軍事活動支援へ使用することを広く制限 |
| 1985~1986年 | 制限を維持しつつ、人道支援・通信関連など一部の限定的支援を議会が別途認める |
ウォルシュ独立検察官がコントラ側の捜査で特に注目したのは、1984年10月から1986年10月までのこの時期だった。
それでも「コントラを生き残らせる」方針は変わらなかった
政府資金による軍事支援を止められても、レーガン政権の対ニカラグア政策そのものが変わったわけではなかった。
レーガンはコントラを強く支持しており、1985年の一般教書演説でも彼らを「自由の戦士」と位置づけた。
マクファーレンの証言によれば、大統領からの基本的な指示は、議会で再び支援を認めさせられるまでコントラを存続させることだった。
NSC内では、政治・議会工作を担当する者と、コントラ側との連絡を担当する者に役割が分けられた。
ノースは後者だった。
当初は「政権がコントラを見捨てていないことを示す連絡役」という性格だったが、その役割は急速に広がっていく。
ノースの仕事は「連絡役」から軍事支援の調整へ広がった
ウォルシュ報告によれば、1984年夏以降、ノースはCIA関係者やコントラ指導者、退役軍人、資金提供者をつなぐ中心に近づいていった。
CIA長官ケーシーの紹介を受け、ノースは退役空軍少将リチャード・セコードに接触する。
セコードはコントラ側からの依頼を受け、国際市場で武器を購入する仲介役になった。
またロバート・オーウェンは、ノースとコントラ指導部の間を行き来し、現地の要求を伝え、資金や情報を届ける役割を担った。
1985年になると、ノースはさらに深く関与していた。
CIAから得た情報をコントラの軍事指揮官へ渡し、資金源を探し、武器購入を調整し、コントラ側の作戦や補給について報告を受ける。
ここまで来ると、「私人が勝手にコントラへ寄付した」という話とは性格が異なる。
現職のNSCスタッフが、外国政府、民間人、元CIA・軍関係者、コントラ指導部を接続する位置にいたからである。
サウジ資金は月100万ドルから月200万ドルへ
外国政府からの支援も続いた。
1984年に始まったサウジアラビアからの拠出は、1985年2月には月200万ドルへ倍増した。
ノースはその資金をコントラ側へ移す手配に関わった。
さらに民間からの募金活動にも関与するようになる。
1985年春にはカール・チャネルとリチャード・ミラーらによるコントラ支援募金を助け、潜在的な寄付者への説明、講演者の手配、ホワイトハウスでの写真撮影や大統領との短い接触などを調整した。
形式上は「民間の寄付」であっても、現職NSCスタッフが職務上の立場やホワイトハウスへのアクセスを使って募金を後押ししていたことが、後の調査で問題になった。
資金の出所が政府予算でなければ、それだけで議会統制の問題が消えるわけではなかった。
1985年夏――秘密補給網は「作戦」へ変わる
1985年半ばになると、支援網は単発の寄付や武器購入の寄せ集めから、より組織化された物流システムへ変わっていった。
ウォルシュ独立検察官は、その転換点の一つを1985年6月28日にマイアミで開かれた会合としている。
ノース、セコードらは、コントラへの継続的な軍事補給を行うための体制を整えていった。
必要だったのは、単に武器を買うことだけではない。
- 資金を集める
- 武器・弾薬を購入する
- 航空機を確保する
- パイロットや整備要員を用意する
- 中米に基地を確保する
- コントラ側の要求を把握する
- 補給地点を決める
- 秘密銀行口座で支払いを処理する
という一連の機能だった。
このネットワークが、後に「Enterprise」と呼ばれる仕組みへ発展する。
エルサルバドルのイロパンゴ空軍基地
秘密補給網の重要拠点となったのが、エルサルバドルのイロパンゴ空軍基地だった。
1985年9月、ノースは元CIA関係者フェリックス・ロドリゲスに、コントラ補給活動のため同基地を利用できるよう協力を求めた。
後にセコード側の航空機・要員がイロパンゴを拠点として、ニカラグア周辺のコントラ部隊への補給飛行を行うようになる。
1986年10月5日、その補給活動に使用されていたC-123輸送機がニカラグア政府軍に撃墜される。
生存したアメリカ人ユージン・ハーゼンファスが拘束されたことで、秘密補給網の存在が外部から見える最初の大きな証拠の一つとなる。
この事件については第7回で詳しく扱う。
では議会は「人道支援」まで禁止していたのか
ここも誤解しやすい。
議会はコントラへのあらゆる支援を永久に拒否していたわけではない。
1985年、議会は2,700万ドルの人道支援を認めた。
ただし軍事支援ではなく、食料、衣服、医薬品など非軍事用途を想定した援助だった。
そして、その支援をCIAや国防総省に扱わせなかった。
国務省内にニカラグア人道支援局(Nicaraguan Humanitarian Assistance Office:NHAO)が設置され、ここが援助を管理することになった。
つまり1985年の状態は、
「コントラへの支援がすべて禁止」
ではなく、
「軍事支援には強い制限がある一方、議会が認めた非軍事・人道支援は正式な政府制度の中で実施可能」
というものだった。
合法な人道支援と秘密の軍事補給が並行した
ここから状況はさらに複雑になる。
表側では、国務省のNHAOが議会の承認した人道支援を実施していた。
一方、その外側ではノースとセコードらの民間ネットワークが、武器や弾薬を含む秘密補給を続けていた。
しかも両者は完全に無関係ではなかった。
ウォルシュ報告によれば、ノースは自らの秘密補給網で活動していた人物をNHAO側へ紹介し、合法な人道支援の物流と秘密補給網の要員・設備が接近する場面もあった。
この状態は、後の調査で「政府活動」と「民間活動」の境界をさらに不明瞭にすることになる。
最大の法的争点――NSCもボランド修正の対象だったのか
イラン・コントラ事件を扱ううえで、最も慎重に書かなければならない論点の一つがこれである。
1984年10月以降のボランド条項は、CIA、国防総省に加え、
「情報活動に関与するその他の米政府機関または組織」
にも適用されると規定していた。
では、ホワイトハウスのNSCスタッフはこれに含まれるのか。
後の議会調査では、NSCも対象になるという見解が示された。
議会審議の記録にも、NSCを含めるという理解を示す発言が存在する。
一方、レーガン政権側や事件関係者には、NSCスタッフは法文が想定する「情報機関」ではないため適用対象ではない、という解釈も存在した。
ウォルシュ独立検察官は最終報告で、この問題には法的議論の余地があったことを認めている。
そして独立検察官が検討した共謀事件では、NSCだけが関係していたわけではなく、明確にボランド条項の対象となるCIA職員も秘密支援活動へ関与していたため、「NSC単独で条項の対象だったか」という問題だけで事件全体を決める必要はないと整理した。
FACT CHECK|「ノースはボランド修正違反で有罪になった」のか
この説明は正確ではない。
ボランド修正は歳出法上の制限であり、それ自体に単純な刑事罰を設けた法律ではなかった。
またNSCスタッフが各時期の条項に直接含まれるかについても法的議論があった。
イラン・コントラ事件の刑事事件では、議会への虚偽説明、文書処理、妨害、詐欺・税務関連など、別の刑事法上の問題が中心となった。
したがって「ボランド修正に違反したからノースがその罪名で有罪になった」と理解するのは避ける必要がある。
議会は1985年夏にはノースの活動を疑っていた
秘密活動は1986年11月まで完全に誰にも気づかれなかったわけではない。
1985年夏には、ノースがコントラの資金調達や軍事活動へ深く関与しているという報道が出始めていた。
8月16日には下院外交委員会のマイケル・バーンズ議員がマクファーレンへ質問状を送り、NSCスタッフがコントラの軍事作戦へ影響を与えていないか、資金提供者を仲介していないか、反政府勢力を組織・調整していないかを問いただした。
下院情報特別委員長リー・ハミルトンも同様の照会を行った。
つまり議会は、NSCスタッフが本来の政策調整の範囲を超えているのではないかと疑い始めていた。
ここから問題は「秘密支援を行っていたか」だけではなくなる。
議会から具体的な質問を受けたとき、政府側が何と答えたのかが重要になる。
マクファーレン名義の回答は、実態と一致しなかった
議会から問い合わせを受けると、マクファーレンはNSC内部で関連文書の調査を命じた。
その過程で、ノースが資金調達、軍事的助言、コントラへの支援に関与していたことをうかがわせる文書が見つかった。
それでも1985年9~10月、マクファーレン名義で議会へ送られた回答では、NSCスタッフがボランド条項の趣旨に反する軍事支援活動へ関与しているとの疑いが否定された。
後のウォルシュ捜査は、これらの回答を実態と一致しないものとして重大視した。
ここがイラン・コントラ事件を単なる「法律の解釈争い」だけでは説明できない理由である。
仮にある行為について法適用に議論の余地があったとしても、議会がまさにその活動について質問していたとき、実際の関与を正確に説明したかどうかは別の問題だからである。
1985年12月――ボランド制限は続いた
1985年12月には、1986会計年度に対応する新しい制限が成立した。
CIA、国防総省、情報活動に関与する政府組織がコントラの軍事・準軍事作戦へ支援を提供することについて、引き続き強い制約が設けられた。
ただし限定された通信機器や通信訓練など、議会が特に認めた支援は存在した。
つまり制度は「禁止か自由か」の二択ではなかった。
議会は支援内容を細かく区分し、認めるものと認めないものを予算権を通じて管理しようとしていた。
その一方でノースらの秘密補給網では、武器・弾薬を含む軍事物資の調達と輸送が続いた。
1986年、議会は再び軍事支援を承認する
ここまで読むと、議会が最後までコントラ軍事支援を拒絶したように見えるかもしれない。
しかし政策状況は再び変化する。
レーガン政権は1986年を通じて議会にコントラ支援再開を強く働きかけた。
6月25日、下院はコントラ支援を含む案を可決。
その後上院も承認し、最終的に1億ドル規模の支援が成立した。
レーガン大統領が1986年10月18日に署名した法律によって、コントラへの公的支援は新しい段階へ入る。
そのうち大部分は軍事支援として使用可能だった。
つまり、ウォルシュ独立検察官が特に問題とした「軍事支援禁止期間」は、1984年10月から1986年10月までだった。
秘密補給網は、議会が軍事支援を再承認するまでコントラを維持するための「橋渡し」として機能した面がある。
では、何が本当の問題だったのか
政治的立場によって、コントラ支援そのものへの評価は大きく異なる。
レーガン政権から見れば、サンディニスタ政権へ圧力を加え、中米でソ連・キューバの影響拡大を防ぐための政策だった。
反対側から見れば、議会が制限した外国の内戦への介入を、行政府が別の経路で継続したものだった。
しかしイラン・コントラ事件を事件構造として見るなら、より重要なのは別の部分にある。
アメリカ憲法上、議会は政府予算を承認する強い権限を持つ。
行政府が望む外交政策であっても、必要な資金を議会が認めなければ、通常はその規模で実行することが難しくなる。
そこで1984~1986年に形成された仕組みでは、
- 外国政府の資金
- 民間寄付
- 政府外の銀行口座
- 民間の武器商人
- 民間航空機
- 退役軍人や元CIA関係者
- NSCスタッフによる調整
が組み合わされた。
このため、形式上は通常の米政府予算を使わずに、政府が望んでいた外交・軍事政策を支える仕組みが成立した。
「議会が資金を認めないなら、政府の外から資金を集めて政策を続けられるのか」。
これがイラン・コントラ事件の制度的な核心の一つである。
そしてイラン武器取引の「余剰金」が見つかった
1985年まで、コントラ秘密支援の資金源は主として外国政府や民間寄付だった。
しかし1986年になると、まったく別の場所から大きな資金源が現れる。
イランへの秘密武器取引である。
第3回で見たように、1986年のイラン向け取引では、イラン側が支払う金額と、CIAが国防総省へ支払う兵器価格との間に差があった。
その金はアメリカ政府の通常会計へそのまま入らず、セコードらが管理する秘密ネットワーク側に残った。
ノースは、この余剰をコントラ支援へ利用する。
ここで、
「議会によって軍事支援を制限されたニカラグア政策」
と、
「人質問題を背景に進められていたイランへの秘密武器取引」
が初めて資金面で直接つながる。
次回は、この金の流れを追う。
イランはいくら支払い、アメリカ政府はいくら受け取り、その差額はどの銀行口座へ入り、誰がコントラ支援へ回すことを決めたのか。
イラン・コントラ事件の名前を成立させた「diversion――資金流用」の仕組みを分解する。
まとめ|支援は禁止されたから消えたのではなく、政府の外側へ移った
ボランド修正は、一つの単純な「コントラ禁止法」ではなかった。
1982年から複数の条項が成立し、対象、期間、認められる支援の範囲は変化している。
特に1984年10月から1986年10月まで、議会はCIAなどによるコントラの軍事・準軍事活動への資金支援を強く制限した。
その一方でレーガン政権は、コントラを軍事組織として存続させる政策を維持した。
その結果、支援は通常のCIA予算から、外国政府の拠出、民間募金、秘密口座、セコードらによる武器調達、民間航空輸送へ移っていった。
その中心で複数の人物と組織をつないだのが、NSCスタッフのオリバー・ノースだった。
ここで重要なのは、「ボランド修正違反だった」の一言で終わらせないことだ。
NSCが各条項の適用対象だったかには法的議論があり、ボランド条項自体も単純な刑事罰規定ではなかった。
一方で、議会がまさにNSCの関与について質問していた時期に、秘密の資金調達や軍事補給が続き、その実態と一致しない説明が議会へ行われていたことも、後の捜査で明らかになる。
そして1986年、秘密支援網は新しい資金源を得た。
イランへの武器売却代金である。
CASE FILE 43|全記事
- 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
- 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
- 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
- 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制[現在の記事]
- 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
- 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
- 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
- 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
- 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
- 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの
出典・参考資料
-
Lawrence E. Walsh, Final Report of the Independent Counsel for Iran/Contra Matters, Part I: Iran/Contra — The Underlying Facts.
ボランド修正、1983年の2,400万ドル上限、サウジアラビアからの資金、ノースのコントラ支援活動、NHAO、議会照会などの主要事実確認に使用。
-
Lawrence E. Walsh, Final Report of the Independent Counsel for Iran/Contra Matters, Part III: The Operational Conspiracy — A Legal Analysis.
1984~1986年のボランド条項、NSCへの適用をめぐる法的論点、秘密補給網と議会への説明について確認。
-
Lawrence E. Walsh, Final Report, Chapter 1: United States v. Robert C. McFarlane.
レーガン政権の「コントラを存続させる」政策、マクファーレンとノースの役割、議会への回答について確認。
-
U.S. Department of State, Office of the Historian, Central America, 1981–1993.
サンディニスタ政権、CIAによるコントラ支援、最初のボランド修正、1985年の2,700万ドル人道支援、1986年の1億ドル支援再開について確認。
-
U.S. Congress, Report of the Congressional Committees Investigating the Iran-Contra Affair, 1987.
議会の予算統制、NSCスタッフの活動、ボランド修正の適用と秘密コントラ支援に関する議会側の調査・評価を参照。
本記事では「ボランド修正」を単一の法律として扱わず、1982~1986年に成立した複数の歳出・情報関連条項を区別しています。また、NSCスタッフへの適用範囲には当時から法的論争があったため、「ノースがボランド修正そのものの罪で有罪になった」といった単純化はしていません。議会による資金制限、政府外資金による支援、NSC・CIA関係者の実際の活動、議会への説明をそれぞれ分けて記述しています。