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イラン・コントラ事件はどう発覚したのか1986年11月、秘密工作が表に出るまで

イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで

政治スキャンダル・秘密工作

1986年10月5日、ニカラグア南部の上空で1機のC-123K輸送機が撃墜された。

機内には、ニカラグアの反政府勢力「コントラ」へ投下するための武器や軍需物資が積まれていた。
乗員のうち、アメリカ人ユージン・ハーゼンファスが生存し、ニカラグア政府軍に拘束された。

レーガン政権は、それまでコントラへの秘密軍事支援に政府が関与していることを否定していた。

ところが、撃墜された航空機を調べると、民間人だけの偶発的な支援では説明しにくい補給ネットワークの存在が見え始める。

その約1か月後。

今度は地球の反対側に近いレバノンで、別の秘密が報じられた。

1986年11月3日、ベイルートの週刊誌『Al-Shiraa(アル・シラー)』が、アメリカ政府関係者によるイランとの秘密交渉と武器取引を報道した。

一方はニカラグアへの秘密補給。
もう一方はイランへの秘密武器供給。

この時点では、二つはまだ別々の問題に見えた。

しかし11月22日、司法省の調査担当者がオリバー・ノースのNSCファイルから一枚の文書を発見する。
そこには、イラン向け武器取引から生じる資金をコントラ支援へ回す計画が記されていた。

3日後の11月25日。

ホワイトハウスは、二つの秘密活動が資金によってつながっていたことを公表する。

この日、「イランへの武器売却問題」は、世界的な政治スキャンダル「イラン・コントラ事件」へ変わった。

秘密は1986年11月に突然崩れたわけではない

イラン・コントラ事件の発覚は、11月3日の新聞報道だけから始まったわけではない。

その前から、コントラ秘密補給網には外部から見える亀裂が生じていた。

ウォルシュ独立検察官の最終報告によれば、1986年8~9月、セコードらのEnterpriseはコントラへの航空補給を加速させていた。
ニカラグア北部・南部へ物資を投下する飛行回数が増え、日中の飛行も行われていた。

9月25日には、コスタリカ政府関係者が同国北部に存在していた秘密滑走路の存在を公表し、その施設とコントラ補給活動、Enterprise系のペーパーカンパニーとの関係が報じられた。

ノースはポインデクスターに対し、アメリカ政府の痕跡を残さないよう対応していることを報告していた。

つまり10月の撃墜以前から、秘密補給網は完全には隠れなくなっていた。

10月5日――C-123Kが撃墜される

決定的な出来事が1986年10月5日に起きた。

コントラへ武器・物資を運んでいたEnterpriseのC-123K輸送機が、ニカラグア政府軍の攻撃によって撃墜された。

航空機はエルサルバドルのイロパンゴを拠点とする秘密補給網の一部だった。

乗員のアメリカ人ユージン・ハーゼンファスが生存し、ニカラグア側に拘束された。

それまで航空機によるコントラ補給は、海上輸送や秘密銀行口座と同じように外部から全体像を把握しにくい活動だった。

しかし航空機そのものが敵対地域で墜落し、アメリカ人乗員が生きたまま拘束されたことで、秘密作戦は物証を伴う事件へ変わった。

ハーゼンファスは「CIA」を口にした

拘束後、ハーゼンファスは記者会見などで、自分が参加した補給活動とCIAとの関係を示唆する発言をした。

この発言は国際的に大きく報道された。

一方、アメリカ政府は航空機やハーゼンファスの活動が米政府機関の指揮下にあることを否定した。

レーガン大統領自身も、ポインデクスターから「この補給作戦は米政府とは関係がない」と説明を受けていた。

しかし後のウォルシュ捜査で明らかになった実態は、それほど単純ではなかった。

撃墜された航空機はセコードらEnterpriseの補給作戦に属し、その活動をホワイトハウスのNSCスタッフであるオリバー・ノースが深く調整していた。
さらにCIA関係者など他の政府職員も、情報や運用の一部に関与していた。

FACT CHECK|ハーゼンファスはCIA職員だったのか

「CIA職員だった」と単純に書くのは適切ではない。

ハーゼンファスは拘束後、補給活動とCIAの関係を示唆する発言を行った。
一方、彼がCIAの正規職員として同機に搭乗していた、という意味ではない。

後の調査で重要になったのは、ハーゼンファス個人の雇用形態よりも、撃墜された航空機がノース、セコードらのコントラ秘密補給ネットワークに属し、そのネットワークへ複数の米政府関係者が関与していたことだった。

ホワイトハウス内部では「ノースの飛行機」と認識されていた

撃墜直後の内部記録を見ると、公の説明とは別の情報がホワイトハウスへ入っていたことが分かる。

秘密補給網に参加していたフェリックス・ロドリゲスは、撃墜翌日の10月6日、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領の国家安全保障担当補佐官サミュエル・ワトソンへ連絡した。

ウォルシュ報告が引用するワトソンのメモには、墜落したC-123についてノースの作戦に属する航空機であることを示す記録が残っている。

ブッシュ副大統領の国家安全保障担当だったドナルド・グレッグも、ロドリゲスから情報を受け、航空機が以前説明を受けていた秘密補給活動の一部だと理解した。

外部では「民間の支援活動」と説明されている一方、政府内部にはノースとの関係を示す情報が存在していた。

この食い違いは、後の調査で重要な論点になる。

それでもハーゼンファス事件だけでは全体像は出なかった

C-123撃墜によって、コントラへの秘密補給網は疑われるようになった。

しかし、この事件だけではイラン・コントラ事件にはならない。

ハーゼンファス事件が示したのは、

「議会による軍事支援制限期にも、アメリカ人を含む民間ネットワークがコントラへ武器を送っていた」

という事実だった。

その資金の一部がイラン武器取引から来ていたことまでは、まだ外部から見えていなかった。

そこへ、まったく別方向から第二の秘密が表面化する。

11月3日――レバノンの『Al-Shiraa』が秘密交渉を報じた

1986年11月3日、レバノンの週刊誌『Al-Shiraa』が、アメリカとイランの秘密接触を報道した。

報道の中心には、元国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレンら米国代表団が、同年5月に秘密裏にテヘランを訪問していた事実があった。

この訪問は第3回で扱ったHAWKスペアパーツ取引と結びついていた。

レバノンでの報道によって、1985年以来続いていた秘密外交が突然公の問題になった。

しかもアメリカはそれまで、テロ支援国に譲歩せず、イランへの武器供給を抑制する立場を公に示していた。

「敵対しているイランへアメリカ製兵器を渡していたのではないか」。

ワシントンでは、この問いへの説明を迫られることになる。

11月6日――否定から始まった

ウォルシュ独立検察官の公開時系列では、11月6日、レーガン大統領はイランへの武器販売を否定したと整理されている。

しかし、その後報道と政府内部の情報が積み重なるにつれ、全面否定を維持することは難しくなる。

問題は「イランと接触していたか」だけではなかった。

イスラエル経由の1985年のTOW・HAWK移転。
1986年の大統領Finding。
CIAが取得した兵器。
マクファーレンのテヘラン訪問。
レバノンの人質解放。

すでに多数の人物と組織が関与していたため、秘密外交そのものを存在しなかったことにはできなかった。

11月13日――レーガンが秘密外交と武器移転を認める

11月13日午後8時すぎ、レーガン大統領は大統領執務室から全米へ向けてテレビ演説を行った。

ここでレーガンは、約18か月にわたりイランとの秘密外交イニシアチブを進めていたことを正式に認めた。

目的として挙げたのは、

  • イランとの関係を再構築すること
  • イラン・イラク戦争の終結を促すこと
  • テロや破壊活動への影響を減らすこと
  • レバノンの人質を安全に帰還させること

などだった。

さらにレーガンは、秘密外交の一環として少量の防御用兵器と部品をイランへ移転したことも認めた。

ただし、武器と人質を交換したという説明は否定した。

この時点でホワイトハウスの公式説明は、

「秘密武器取引は存在しない」

から、

「武器移転は存在したが、より広い戦略的外交の一部であり、人質を買うための取引ではない」

へ変わった。

しかし1985年の武器移転をどう説明するかが残った

問題は1986年のCIA経由取引だけではなかった。

その前年、1985年8~9月にはイスラエルからイランへ504発のTOWが渡り、11月にはHAWKも輸送されていた。

これらにアメリカ政府がどこまで関与し、レーガン大統領がいつ承認したのか。

11月中旬、ホワイトハウスの説明ではこの部分が繰り返し問題になる。

11月12日に議会指導部へ行われた説明では、ポインデクスターは主に1986年1月17日の大統領Finding以降の活動を説明し、1985年のイスラエル経由取引の重要部分を十分に説明しなかった。

11月19日の記者会見でも、レーガンは米政府が1986年1月以前の武器移転へ直接関与していたという説明を否定した。

しかし後の調査では、1985年のイスラエルによる武器移転についても、大統領やNSC高官が事前に認識・承認していたことを示す記録や証言が検討されることになる。

事件が拡大した理由の一つは、秘密活動そのものだけでなく、発覚後に示された説明と内部記録が一致しない部分が次々と現れたことだった。

11月20日――議会説明を作る過程でも問題が起きた

議会への説明を準備する中で、さらに危険な動きが起きていた。

11月20日、CIA長官ウィリアム・ケーシーやポインデクスターが議会証言に備えるため、ホワイトハウスで会合が開かれた。

その中で1985年11月のHAWK輸送について、CIAは当時積荷が武器だと知らず「石油掘削部品」だと考えていた、という説明を含む時系列案が使われた。

後のウォルシュ捜査は、この説明が事実と一致していなかったことを問題視している。

ノース自身も後の刑事裁判で、この段階ではその説明が正しくないと理解していたと証言した。

秘密取引の発覚は、次第に「何が起きたのか」という問題から、「政府は発覚後、議会へ何を説明しようとしていたのか」という問題へ移り始めていた。

11月21日――ミース司法長官の内部調査が始まる

11月21日、レーガン大統領は司法長官エドウィン・ミースに対し、イラン武器取引について短期間で事実関係を調べるよう指示した。

ミースと司法省スタッフは、マクファーレン、シュルツ、ワインバーガー、ノース、ポインデクスター、ケーシーら関係者への聞き取りとNSC文書の確認を始めた。

当初の大きな焦点は、1985年11月のHAWK輸送だった。

CIAが秘密作戦として関与していたのに、その時点で有効な大統領Findingが存在していなかったのではないか。
そして大統領はその輸送を事前に知っていたのか。

ところが調査開始直後、事態はさらに大きくなる。

調査が始まったその日に、文書が破棄されていた

11月21日、ミースがNSC関連文書の提出を求めた後、ポインデクスターは1985年12月に署名された大統領Findingの原本を破棄した。

このFindingは、すでに実施されていたHAWK輸送へのCIA関与を事後的に承認する性格を持ち、内容も武器と人質の交換関係を強く示すものだった。

同じ日の夕方、ノースは自分の執務室で大量の文書やメッセージをシュレッダーにかけ始めた。

秘書フォーン・ホールもその作業を手伝った。
後の証言によれば、通常の日常的な文書廃棄とは比較にならない量だった。

さらに一部の公式文書については内容を書き換え、元の文書と差し替える作業も行われた。

つまり司法省が事実関係を調べ始めた時点で、調査対象となるはずの文書そのものが失われ始めていた。

FACT CHECK|文書破棄は事件発覚後の噂なのか

後の刑事捜査・裁判で確認された事実である。

ウォルシュ独立検察官の捜査では、ノース、フォーン・ホール、ポインデクスターらによる文書の破棄・変更・持ち出しが具体的に調べられた。

ただし「ホワイトハウスの全記録が破棄された」という意味ではない。
NSCの電子通信にはバックアップも存在し、後の捜査では多数の削除済みメッセージが復元された。

11月22日――シュレッダーを逃れた一枚のメモ

翌11月22日、司法省スタッフはノースのオフィスに残っていた文書を確認していた。

そこで、極めて重要な文書が見つかる。

1986年4月ごろにノースが作成したとみられるメモだった。

その文書には、イランへの武器売却から生じる資金のうち1,200万ドルを、ニカラグアのコントラへ回す構想が記されていた。

ここで注意が必要なのは、この1,200万ドルを「実際にコントラへ送金された確定額」と解釈しないことである。

第5回で確認したように、ウォルシュ独立検察官が後に裁判で立証可能と算定した実際の最低流用額は少なくとも360万ドルだった。

11月22日に発見された1,200万ドルという数字は、流用計画を記した文書上の数字だった。

それでも、このメモの意味は決定的だった。

それまで、

「イランへ武器を売った問題」

と、

「コントラへの秘密支援問題」

は政治的には並行して存在していた。

この文書は、二つを同じ資金計画の中で直接結びつけていた。

11月23日――ノースが資金流用を認める

翌11月23日、ミース司法長官はノース本人から事情を聴いた。

当初ノースは、1985年11月のHAWK輸送について不正確な説明を続けた。

しかしミースが前日に発見された資金流用メモを示すと、ノースはイラン武器取引からコントラへの資金流用が実際に行われたことを認めた。

ノースは、その仕組みをイスラエル側が作ったという趣旨の説明をした。

一方、ポインデクスターも資金流用について概括的な認識があったことを認めた。

ここで司法長官の調査は、単なる「イランへ武器を送った際の法的手続」の確認から、巨大な政治問題へ変わった。

11月24日――レーガン大統領へ資金流用が報告される

11月24日、ミースはレーガン大統領とドナルド・リーガン大統領首席補佐官へ、週末調査で判明した資金流用について報告した。

ホワイトハウスでは対応方針が検討された。

この段階で、翌日には事実を公表することが避けられなくなっていた。

同時に、ポインデクスターの辞任とノースの処分も検討される。

問題はもはや「報道がどこまで正しいか」ではない。

司法長官自身の内部調査で、イラン武器売却とコントラ支援が同じ資金ネットワークで接続していたことが確認されたからである。

11月25日――「Iran-Contra」が公になった日

1986年11月25日、レーガン大統領はホワイトハウスで声明を発表した。

大統領は、イラン政策の実施について自分が完全な事実を知らされていなかった活動が存在したと説明した。

そして、

  • ジョン・ポインデクスターが国家安全保障担当大統領補佐官を退任すること
  • オリバー・ノースをNSCスタッフから解任したこと
  • 司法省が事実関係をさらに調査すること
  • NSCの役割と運用を検証する特別調査委員会を設置すること

を発表した。

続いてミース司法長官が記者会見を行い、イランへの武器売却で生じた資金の一部がコントラ側へ流れていたことを公表した。

この時点で初めて、一般社会にも二つの秘密作戦が一つの事件として示された。

10月5日にニカラグアで見つかった秘密補給網。

11月3日にレバノンから表面化したイラン武器取引。

二つをつなぐものが、スイスの秘密口座と資金流用だった。

11月25日の説明も、後から見ると完全ではなかった

ただし、11月25日にすべての事実が正確に公表されたわけではない。

ミースは当時、資金流用を知っていた米政府関係者としてノース、ポインデクスター、マクファーレンの3人を挙げた。

後の捜査では、この説明だけでは関係者の認識を完全には表していなかったことが分かる。

また1985年11月のHAWK輸送について、大統領が事前に知らなかったとする当時の説明も、後に発見された記録や証言との間で重大な問題が生じた。

ウォルシュ独立検察官は、事件発覚直後に形成された「NSCスタッフだけによる暴走」という説明を、そのまま最終的な事実認定とはしていない。

NSCスタッフが最も直接的に関与していたことは確かだが、CIA、国務省、国防総省など他機関の職員も、秘密活動のさまざまな局面を知り、あるいは支援していた。

FACT CHECK|11月25日に「真相」がすべて判明したのか

判明したのは事件の基本構造だけだった。

11月25日の最大の発見は、イラン武器取引とコントラ支援が資金流用によって接続していたことだった。

しかし、誰がいつ何を知ったのか、1985年の武器移転を誰が承認したのか、資金はいくら流れたのか、議会への説明にどのような虚偽があったのか、文書がどこまで破棄されたのかといった問題は、この段階では未解明だった。

その解明には、その後のタワー委員会、議会調査、そして1993年まで続くウォルシュ独立検察官の捜査が必要になる。

翌11月26日、刑事捜査が始まった

11月25日の公表によって、問題は政治的な説明だけでは終わらなくなった。

翌11月26日、ミース司法長官はFBIにイラン・コントラ問題の捜査を命じた。

当初は司法省による捜査だったが、政権高官自身が捜査対象となる可能性が高い。

そのため12月4日、ミースは独立検察官の任命を要請。

12月19日、元連邦判事・元司法副長官のローレンス・ウォルシュが独立検察官に任命された。

ここから事件は、

政治スキャンダル

だけでなく、

刑事事件

としても本格的に調べられることになる。

なぜ秘密は一気に崩れたのか

イラン・コントラ事件の発覚過程を見ると、一つの内部告発者が全資料を持ち出した事件ではないことが分かる。

複数の独立した出来事が同時期に起きた。

日付 出来事 露見したもの
1986年9月25日 コスタリカの秘密滑走路が公になる コントラ補給網の一部
10月5日 C-123K輸送機撃墜、ハーゼンファス拘束 民間航空機による武器補給
11月3日 『Al-Shiraa』報道 対イラン秘密交渉と武器取引
11月13日 レーガン大統領テレビ演説 秘密外交・武器移転を政府が公式に認める
11月21日 司法長官による内部調査開始 政府内部記録の確認開始
11月22日 ノースの資金流用メモ発見 イラン側とコントラ側の接続
11月23日 ノースへの聴取 資金流用が実際に存在したことを確認
11月25日 ホワイトハウスが資金流用を公表 「Iran-Contra」として事件化

秘密活動は、それぞれ単独なら隠し続けられた可能性がある。

しかしコントラ補給網では実物の航空機が撃墜され、イラン側では秘密交渉が報道され、その後政府内部の調査で二つをつなぐ文書が発見された。

異なる場所で起きた三つの出来事が同時期に重なったことで、情報を分断して維持していた秘密システムが急速に崩壊したのである。

発覚を早めたのは「秘密活動の大規模化」だった

もう一つ見逃せないのは、秘密作戦そのものが大きくなりすぎていたことだ。

1984年ごろのコントラ支援は、外国政府からの資金や限定的な武器調達から始まっていた。

1986年には、

  • 複数の航空機
  • 中米の秘密滑走路
  • イロパンゴの補給基地
  • 航空乗員
  • 武器・弾薬
  • スイス銀行口座
  • 多数のダミー企業

を持つ補給システムになっていた。

イラン側も同じである。

最初はイスラエル経由の少数のTOWから始まり、最終的にはCIA、国防総省、民間航空会社、スイス口座、複数の仲介者、テヘランへの米代表団訪問まで関係者が増えていた。

秘密活動に参加する人物、組織、輸送、文書、送金が増えるほど、痕跡も増える。

イラン・コントラ事件は、秘密を守る仕組みが突然機能しなくなったというよりも、作戦が巨大化し、隠し切れる規模を超えていった事件でもあった。

発覚後に行われた文書破棄が、さらに疑惑を深めた

もし11月25日にすべての文書が保全され、関係者が直ちに同じ事実関係を説明していれば、調査はより単純だったかもしれない。

実際には逆だった。

ノースらによる文書破棄や改変、ポインデクスターによるFinding原本の破棄、NSC電子メッセージの削除が発見された。

さらに初期の議会説明や政府発表にも、後から内部記録と一致しない内容が見つかった。

その結果、調査機関は秘密活動そのものだけでなく、

「誰が何を隠そうとしたのか」

まで追う必要が生じた。

ここからイラン・コントラ事件は、政策判断を検証する行政調査、議会の監督調査、刑事捜査という三つの方向へ分かれていく。

まとめ|二つの秘密は、別々の場所から露見した

イラン・コントラ事件は、一つのスクープによって全貌が暴露された事件ではない。

最初に亀裂が入ったのはコントラ側だった。

1986年10月5日、秘密補給に使われていたC-123Kがニカラグアで撃墜され、生存したアメリカ人ユージン・ハーゼンファスが拘束された。

約1か月後の11月3日。
今度はレバノンの『Al-Shiraa』が、アメリカとイランとの秘密武器取引を報じた。

この段階では二つの秘密はまだ別々だった。

レーガン政権は11月13日、イランとの秘密外交と武器移転を認めながらも、人質との単純な武器交換という説明を否定した。

しかし1985年のHAWK輸送などをめぐって政府説明と内部情報の食い違いが拡大し、11月21日に司法長官ミースによる内部調査が始まる。

翌22日、ノースのファイルからイラン武器売却収益をコントラへ回す計画を記した文書が見つかった。

23日、ノース本人が資金流用の存在を認める。

そして11月25日、ホワイトハウスがその事実を公表した。

この日、ニカラグアとイランで別々に進んでいた秘密活動は、「イラン・コントラ事件」という一つの事件になった。

しかし、発覚したのは入口にすぎなかった。

誰が武器取引を承認したのか。
NSCはなぜ実働組織になったのか。
大統領へ何が報告されていたのか。
議会へ虚偽の説明は行われたのか。
資金流用を誰が知っていたのか。

これを調べるため、事件直後から複数の調査機関が動き始める。

次回は1987年へ進む。

大統領が設置したタワー委員会と、テレビ中継された連邦議会のイラン・コントラ公聴会は、同じ事件を調べながら何が違ったのか。
そして大量の証言と文書から、何を突き止めたのかを追う。

前の記事:

第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化

次の記事:

第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで[現在の記事]
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事では、「発覚」を単一の報道による暴露として扱わず、1986年10月のコントラ補給機撃墜、11月のAl-Shiraa報道、ホワイトハウス内部の説明、司法省調査、資金流用文書の発見という複数の経路を分けて構成しています。また、11月22日に発見された文書上の「1,200万ドル」は流用計画額であり、後に独立検察官が立証可能と算定した実際の最低流用額360万ドルとは区別しています。