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MKULTRA計画知らない被験者にLSDはどう投与されたのか?秘密投与とフランク・オルソン事件

知らない被験者にLSDはどう投与されたのか?|秘密投与とフランク・オルソン事件
U.S. Senate Select Committee on Intelligence, Project MKULTRA Joint Hearing (1977) 出典 U.S. Government work / official Senate record

THE QUESTION

知らない被験者にLSDはどう投与されたのか? | 秘密投与とフランク・オルソン事件

STORY SO FAR

前回「MKULTRAは何を試していたのか?|LSDだけではない行動変容研究の範囲」で確認した論点を受け、この回では知らない被験者にLSDはどう投与されたのか? | 秘密投与とフランク・オルソン事件を扱う。

MKULTRAで最も重大な問題の一つは、LSDを研究したことそのものではなく、本人が実験対象であることを知らないまま薬物を投与する unwitting testing が実際に行われたことである。

1977年の米上院公式調査は、CIAが米国内で非志願者へLSDを秘密投与した計画を確認した。事前同意や医療スクリーニングはなく、実施者は必ずしも科学的観察者ではなく、医療従事者が現場にいない場合があり、長期追跡も困難だった。

しかもこの運用は、1953年11月にCIAと米陸軍の会合でFrank Olsonへ本人の知らないままLSDが投与され、その約1週間後にOlsonがニューヨークのホテルから転落死した後も続いた。

この記事では、CIA内部文書、Church Committeeの公式再構成、1977年上院公聴会、Ford政権の公式記録を基準に、①CIAはなぜ本人に知らせない試験を必要と考え、どう実施したのか、②Olson死亡についてどこまでを事実として固定できるのか、を整理する。

先に結論――秘密投与は「事故」ではなく、意図的な試験方式として続けられた

公式資料から確認できる要点は次の通りである。

  • CIAは本人が試験対象と知らない人間へのLSD投与を実際に行った。
  • 1953年11月19日、Maryland州Deep Creek Lakeでの会合でFrank Olsonを含む参加者へLSD入りCointreauが提供され、Olsonの投与量は上院再構成で約70マイクログラムとされる。
  • 参加者は飲酒前には知らされず、約20分後にLSD投与を告知された。
  • Olsonはその後深刻な不調を示し、1953年11月28日未明、New YorkのStatler Hotel 10階から転落して死亡した。
  • CIA内部では実験方法と安全措置が批判されたが、非志願者への秘密投与は別の形で継続した。
  • safehouse型試験では、対象者をbarなどから誘導し、飲食物に薬物を入れ、one-way mirrorや録音装置で観察する運用が確認されている。
  • 事前同意、医療スクリーニング、適切な医療監督、長期follow-upはいずれも欠けていた。
  • CIA側は、実際の作戦対象も薬物投与を知らないため、試験対象もunwittingでなければ現実的ではないと考えていた。
  • 米国内のunwitting LSD testingは1963年のInspector General監察を契機に停止した。
  • 1975年、Gerald Ford大統領はOlson家族へ米政府を代表して謝罪し、1976年には75万ドルの私法上の補償へ署名した。
  • ただし、公式資料だけから「CIAがOlsonを殺害した」「LSDが死亡の唯一の直接原因だった」と断定することはできない。

Olson事件は一度きりの例外ではない。公文書が示すのは、秘密投与が「現実の秘密工作に近い条件で効果を確認する」という論理によって制度化されていたことである。

なぜ「本人に知らせない」必要があると考えたのか

CIAがunwitting testingを正当化した論理は、1963年の内部監察と、その後の幹部間の文書に比較的はっきり残っている。

MKULTRAでは、まず材料を探索し、次に研究施設などで志願者へ試し、その後に「normal life settings」で試すという段階が考えられていた。

志願者による実験では、被験者は「何かを投与される」と知っている。研究者も環境を管理できる。しかしCIAが想定していた秘密工作では、対象者は薬物を投与されること自体を知らない。しかも、日常の環境で対象者がどう反応するか、周囲が異変をどう解釈するかまで問題になる。

1963年12月、Deputy Director for PlansのRichard Helmsは、秘密投与の継続をめぐる議論の中で、Clandestine Servicesには人間の行動へ影響を与える能力を維持する任務があり、そのためのtesting arrangementは「operationally realistic」である必要があると主張した。

その論理では、実際の作戦対象は当然unwittingなのだから、試験対象もunwittingでなければならない。本人が実験だと知っている志願者だけで試せば、得られるものは「pro forma」にすぎず、現実に使えるという誤った安心感を生むというのである。

つまり、本人に知らせないことは試験上の不備ではなく、CIA側から見れば「実戦条件を再現するための条件」だった。

ここに、この計画の根本的な問題がある。

作戦上のリアリティを高めようとすればするほど、被験者の同意、事前診察、医療監督、詳細な説明、長期追跡といった通常の研究倫理・安全管理は邪魔になる。CIAはその矛盾を認識しながら、少なくとも一定期間、作戦上の必要性を優先した。

safehouseで何が行われたのか

1977年の上院公式再構成は、unwitting testingの典型的な運用をかなり具体的に記している。

試験を行う人物は、barなどで無作為に近い形で対象候補へ接触することがあった。対象者をsafehouseへ誘い、そこで飲み物や食べ物に試験薬を入れる。CIA関係者は、実施者から事後に説明を受けるか、隣室からone-way mirrorや録音装置を用いて観察することがあった。

1963年のInspector General報告では、CIAのTechnical Services Divisionが1955年にFederal Bureau of Narcoticsの一部職員と非公式な取り決めを結び、West Coastで試験を行える体制を整えたとされる。1961年にはEast Coastにも並行する体制が作られた。CIAは各地域の活動に年間約1万ドルを提供し、その中には対象者の開拓とsafehouse維持費が含まれていた。

この仕組みの利点としてCIA内部資料が挙げたのは、麻薬取締りの環境を利用して対象者を探し、日常に近い条件で試せることだった。

しかし、科学実験として見ると問題は大きかった。

対象者は自分が実験に参加していると知らない。したがって事前同意はない。健康状態を確認するmedical prescreeningも行われない。投与を行う人物は、必ずしも薬理学や医学の専門家ではない。現場に医師がいない。対象者を長期間観察することも難しい。

これは、単に倫理的に問題があるだけではない。

得られたデータの質にも直結する。

「現実的」だったが、科学的観察には向かなかった

1963年のInspector Generalは、unwitting testingについて非常に重要な矛盾を指摘している。

本人に知らせず、通常の生活条件に近づければ作戦上は現実的になる。一方で、そうすれば科学的に精密な観察は難しくなる。

公式報告によれば、試験担当者はqualified scientific observersではなく、対象者へアクセスできるのは試験後の最初の数時間程度に限られることが多かった。したがって確認できるのは、投与方法、作用開始の表面的特徴、対象者の初期反応、本人が症状を何のせいだと思ったか、目立つ副作用といった範囲に偏った。

長期的な身体・精神影響を追跡する設計ではなかった。

さらに、被験者が数時間から数日にわたり体調を崩した例があり、少なくとも一例では入院に至ったとInspector General報告は記している。試験担当者が後から確認できるとしても、通常生活へ戻った対象者へ「guarded inquiry」を行う程度で、正式な医学的follow-upとは言い難かった。

1977年の上院公式再構成は、この仕組みを強く批判した。

事前同意なし。医療スクリーニングなし。現場の医療監督なし。十分な追跡なし。

しかも、対象者が病気になれば本人だけでなく仕事や生活上の損失も生じ得る。

unwitting testingは、「秘密だから倫理的に問題だった」というだけではない。秘密性を優先したことで、安全管理と科学的評価能力の双方が弱くなっていた。

Frank Olsonへの投与――1953年11月19日

Frank Olsonは、米陸軍Camp DetrickのSpecial Operations Divisionに所属する民間科学者だった。上院公式再構成では、aerobiologyの専門家として紹介されている。

1953年11月18日、CIAとCamp Detrickの科学者10人がMaryland州Deep Creek Lakeのcabinに集まり、半期ごとのreview and analysis conferenceを始めた。CIA Technical Services Staffから3人、Detrick側はSpecial Operations Divisionの関係者だった。

翌19日木曜日の夕食後、Robert LashbrookがCointreauのボトルにLSDを入れた。

上院公式再構成は、Olsonが受けた量を約70マイクログラムとしている。

参加者のうち二人を除きLSD入りのCointreauを飲んだ。一人は酒を飲まず、もう一人は心臓疾患があったため投与されなかった。

重要なのは、飲む前には対象者へLSD投与が告知されていなかったことである。

約20分後、Sidney Gottliebが参加者へLSDを摂取したことを知らせた。

したがって、Olson事件で確認できる「unwitting」とは、実験が終わるまで永久に知らされなかったという意味ではない。投与時点で事前のknowledgeとconsentがなく、薬物を摂取した後に告知されたという意味である。

この区別は正確にしておく必要がある。

投与後のOlson――公式記録が示す変化

LSD投与後、会合参加者には明らかな作用が出た。

Gottliebの後年の説明では、グループは騒がしく笑いが多くなり、通常の会議やまともな会話を続けられない状態になった。会合は深夜まで続き、Olsonを含む複数の参加者がその夜に眠れないことを訴えた。

翌朝のOlsonについて、証言は完全には一致していない。

Gottliebは疲労以外に特段の異常を見なかったと述べた。一方、Olsonの上司Vincent Ruwetは朝食時にOlsonがagitatedに見えたと記憶していたが、その時点では状況から見て異常とは考えなかった。

その後、Olsonの状態は悪化した。

11月23日月曜日の朝、OlsonはRuwetが出勤するのを待っていた。上院再構成では、その後数日間、友人や家族がOlsonを深刻な抑うつ状態から回復させようとしていたと記している。

翌24日火曜日、Olsonは再びRuwetと長く話し合い、専門的な医療援助が必要だと判断された。

RuwetはLashbrookへ連絡し、OlsonをWashingtonへ連れて行った。その後、3人は同日午後にNew Yorkへ向かい、Harold Abramsonの診察を受けた。

Abramsonは当時allergist and immunologistで、精神科医の学位を持っていなかった。ただしLSD研究に関わり、CIAが間接的に支援する研究とも関係していた。CIA側から見れば、Washingtonに比較的近く、LSDを知り、CIAの事情を理解している医師だったことが選定理由になった。

New Yorkでの診察から死亡まで

Olson、Ruwet、LashbrookはNew Yorkで二日間Abramsonの診察を受けた。

11月26日木曜日、3人はいったんWashington方面へ戻り、OlsonがThanksgivingを家族と過ごす予定だった。

しかし空港からの移動中、Olsonは家族に会うことへの不安を口にした。話し合いの結果、OlsonとLashbrookは同じ日に再びNew Yorkへ戻り、RuwetがOlson夫人へ事情を説明することになった。

その夜、OlsonとLashbrookはLong Islandのホテルに泊まり、翌27日金曜日に再びAbramsonと会った。

そこで、Olsonを自宅に近い施設でregular psychiatric careへ移す方針が決まった。

ところが金曜夜の帰路の航空便を確保できず、OlsonとLashbrookはNew York CityのStatler Hotelへ宿泊した。

上院再構成によれば、二人はテレビを見て、cocktail loungeでそれぞれmartiniを2杯飲み、夕食を取った。Lashbrookは、Olsonがその夜は明るく見え、以前より落ち着いていたと後に述べている。

午後11時ごろ、Olsonは就寝を提案し、翌朝のwake-up callも依頼した。

そして午前2時30分ごろ、Lashbrookはガラスが割れる大きな音で目を覚ました。

Lashbrookの報告では、Olsonは閉じられたblindと窓を破り、10階の部屋から転落して死亡した。

死亡日は11月27日か、28日か

Frank Olsonの死亡日には、公式資料の内部にも小さな不整合がある。

1977年上院公聴会に収録されたChurch Committee再構成の冒頭要約には、「November 27, 1953に死亡した」とする記述がある。

しかし同じ報告の詳細時系列は、金曜日の夜にStatler Hotelへ宿泊し、「Saturday, November 28」の午前2時30分ごろ転落したと記している。

さらに、1976年10月12日にGerald Ford大統領がOlson遺族への私法案へ署名した際のWhite House公式声明も、死亡日をNovember 28, 1953としている。[6]

このため本稿では、詳細な時系列と後のWhite House公式記録が一致する1953年11月28日を採用する。

これは小さな点だが、公文書を扱う際に重要である。

「公式資料に書かれている」というだけで一つの記述を絶対視せず、同じ資料内部の時系列や別の公式記録と照合する必要がある。

CIA内部では何が問題視されたのか

Olsonの死亡後、CIA内部でも実験方法と事後対応は問題になった。

CIA General CounselはInspector General宛ての文書で、TSS関係者がこの実験を「科学実験にはリスクが伴う」という程度に扱っていることへ不満を示した。

人間の健康や生命が関係する場合には、危険を最小化するため合理的・慎重な措置を取る必要があり、それを怠ったことは「culpable negligence」だと評価している。

さらにAllen Dulles長官は1954年2月12日、実験を承認したTechnical Services側の担当者へ、本人に知らせない状態で、近接した医療上の安全措置なしにLSDを投与した「poor judgment」を批判する書簡を送った。

Sidney Gottliebにも、薬物をunwittingに使用する提案がmedical collaborationを十分重視せず、投与される個人のrightsを適切に考慮していなかったと指摘した。

ここだけを見ると、Olson事件を境に秘密投与が終了したように思える。

実際にはそうならなかった。

しかも、この批判文書そのものにも限界があった。

上院調査によれば、書簡は本人へ手渡され、読んだ後に返却する扱いだった。Deputy Director of Central Intelligenceからは、「reprimandsではない」「personnel fileへの記録もしない」と伝えるよう指示されていた。

つまりCIA内部では問題は認識されたが、人事上の正式な懲戒として扱われなかった。

Olson死亡後もSubproject 3は続いた

Olson事件後の継続は、この問題を個人の判断ミスだけでは説明できないことを示している。

1954年2月、Inspector GeneralがMKULTRA Subproject 3の報告を確認した。そこには、目的の一つとして「薬物を与えられた後に質問されるunwitting personsの行動を観察する」ことが記されていた。

CIAの1954年文書は、Olson事件でLSDの危険とinformed consent、medical safeguardsの必要性が明らかになった直後にも、本人に知らせない人間を対象とする研究が継続する構造を示している。

開始時期については資料間に差がある。

1963年Inspector General報告は、この秘密投与projectの開始を1955年としている。一方、別のCIA文書からは1954年2月時点ですでにSubproject 3の目的が確認できる。1977年にCIAは議会へ、project自体は1953年に始まり、OlsonへLSDを投与した実験もその一部だったと説明した。

したがって「1955年に突然始まった」と固定するより、1953〜54年に先行する活動・文書があり、1955年にはFederal Bureau of Narcoticsとのsafehouse arrangementsを含む形で制度化されたと見る方が、残存資料との整合性が高い。

そして証拠上、projectは1963年まで続いた。

1963年、ようやく停止へ向かう

1963年、CIA Inspector GeneralがTechnical Services Divisionを監察したことで、米国内のunwitting LSD testingは上層部で改めて問題化した。

5月24日、Deputy Director for PlansはDirectorへMKULTRAとunwitting human subjectsへの秘密投与を説明したとInspector Generalへ報告し、その時点ではDirectorに異議はなく「testing will continue」と理解された。

しかしInspector Generalは秘密投与projectの終了を勧告し、その後projectはsuspendされた。

12月17日、Richard HelmsはDDCI宛てmemoで、実際の作戦対象はunwittingなのだから試験もunwittingでなければ「operationally realistic」ではないと主張した。一方、Inspector GeneralやExecutive Director-Comptroller側はcovert testingに反対した。

1964年には再開の議論が残ったが、別途の明示承認が必要とされ、公式再構成で再開は確認されていない。Helmsも停止理由としてAgencyへのembarrassmentだけでなく「moral problem」を認め、より良いcovert situationも moral issueへの答えもないと記した。

停止は、科学的有効性だけで決まったのではない。安全性、監督、組織へのリスク、倫理、作戦上の必要性が衝突した結果だった。

Olson事件を「CIAによる殺害」と断定できるのか

公式記録から確実に確認できるのは、Olsonが事前同意なくLSDを投与され、その後深刻な不調を示し、CIA関係者らの判断でNew Yorkへ移動して診察を受け、1953年11月28日未明にLashbrookと同室だったStatler Hotelの10階客室から転落死したこと、そしてCIAが当時LSD投与とCIAの関与を遺族へ説明しなかったことである。[4]

後年、家族側から「自殺ではなく他殺だったのではないか」という主張が提起され、遺体の再検討や訴訟上の主張も行われた。しかし、それらは1970年代の政府・議会公式資料が確認したFACTと同じEvidence levelではない。今回の一次・公式資料だけでは、CIA職員がOlsonを故意に殺害したことは立証できない。本稿の結論は「未立証」である。

因果関係についても同じ注意が必要だ。1976年、Ford大統領はLSD投与が死亡の「proximate causeであったように見える」と公式声明で述べた。これは政府側が重大な因果関係を認めた表現だが、「LSDの薬理作用だけが唯一の直接死因だった」という医学的確定ではない。

Olsonは転落によって死亡した。そこへ至る精神状態にはLSD投与後の変化、数日間の不調、診療過程などが関係したと公式調査は再構成しているが、残存資料から寄与度を精密に分解することはできない。

22年後の謝罪

Olson家族がLSD投与を含む事情を知るのは、死亡から20年以上後だった。

1975年7月21日、Gerald Ford大統領はWhite HouseでOlsonの妻Aliceと3人の子どもに面会し、米国民のsympathyを伝えるとともに、Olson死亡をめぐる状況について米政府を代表して謝罪した。家族は死亡に関するすべての事実を知ることを求め、Fordは情報提供と法的請求の協議を進めるよう指示した。

1976年、CongressはOlsonの妻と3人の子どもへ合計75万ドルを支払うS.3035を成立させ、Fordは10月12日に署名した。[6]政権は当初125万ドルを支持していたが、Congressが認めた額は75万ドルだった。

この謝罪と補償は、後世のすべての殺害説を政府が認めたことを意味しない。公式に認められた中心は、本人に知らせないLSD投与、その後の死亡をめぐる重大な事情、そして長年家族へ真相を知らせなかったことに対する政府責任である。

FACT CHECK――unwitting testingとOlson事件で固定できること

1.CIAは本人の同意なしにLSDを投与したのか。 確認できる。上院公式調査とCIA Inspector General資料が、米国内のunwitting human subjectsへの秘密投与を記録している。

2.safehouseで飲食物に薬物を入れる試験はあったのか。 確認できる。barなどで対象者へ接触し、safehouseへ誘導し、drinkまたはfoodを通じてtest drugを投与する運用が公式再構成にある。

3.医療監督とfollow-upは十分だったのか。 不十分だった。事前同意・medical prescreeningがなく、現場にmedical personnelがいない場合があり、対象者の長期追跡も困難だった。

4.Frank OlsonはLSD投与を事前に知っていたのか。 知らされていなかった。1953年11月19日、LSD入りCointreauを飲んだ後、約20分して告知された。上院再構成は投与量を約70マイクログラムとする。

5.Olsonはいつ死亡したのか。 本稿では1953年11月28日午前2時30分ごろを採用する。上院資料の詳細時系列と1976年White House声明が一致する一方、上院資料の冒頭要約には11月27日とする不整合がある。

6.CIA内部ではOlson事件が問題視されたのか。 された。General CounselやAllen Dullesが安全措置、unwitting administration、個人のrightsの扱いを批判した。ただし批判書簡は正式なreprimandとして処理されなかった。

7.その後、秘密投与はすぐ終了したのか。 終了していない。Subproject 3を含むsurreptitious LSD testingは継続し、1963年のInspector General監察を契機に停止した。

8.CIAがOlsonを殺害したと公式資料で確認できるのか。 確認できない。後年の殺害説は存在するが、今回の一次・公式資料だけから故意の殺害をFACTとして確定することはできない。

9.米政府は遺族へ謝罪・補償したのか。 確認できる。Ford大統領は1975年7月21日に家族へ謝罪し、1976年にはCongressが認めた75万ドルの私法上の補償へ署名した。

この事件の核心は「LSDの怖さ」だけではない

Frank Olson事件はLSDの予測困難な作用を示す事例として語られやすい。しかし、公文書から見た核心は制度側にある。

本人の事前同意なしに薬物を投与したこと。その危険が重大な結果として表面化した後も秘密投与を継続したこと。作戦上のリアリティを理由に、安全管理・研究倫理・科学的観察条件を下げたこと。内部で問題点が指摘されても、正式な懲戒や即時停止へ直結しなかったこと。そして、家族がLSD投与という決定的事情を知るまで20年以上かかったことである。

unwitting testingは「MKULTRAの一部で起きた奇妙な実験」ではない。秘密工作の現実性を追求する組織が、被験者の権利、安全管理、科学的検証、説明責任をどこまで後景へ押しやれるかを示した制度上の失敗だった。

次の記事では舞台をMontrealへ移す。Ewen CameronとAllan Memorial InstituteをめぐるSubproject 68について、CIA資金が外部の医療・研究環境へどう入り、Cameronの研究・治療とどこまで接続したのかを、個別資料から検証する。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] U.S. Senate Select Committee on Intelligence / Subcommittee on Health and Scientific Research, Project MKULTRA, the CIA’s Program of Research in Behavioral Modification , Joint Hearing, August 3, 1977
  2. [2] U.S. Senate Select Committee to Study Governmental Operations with Respect to Intelligence Activities, Testing and Use of Chemical and Biological Agents by the Intelligence Community , 1976; reproduced in the 1977 MKULTRA hearing record
  3. [3] CIA Inspector General, Report of Inspection of MKULTRA , July 26, 1963
  4. [4] CIA internal records cited in the Senate official reconstruction, including memoranda concerning Frank Olson, Subproject 3, and surreptitious administration of LSD
  5. [5] The White House, Statement by the Press Secretary on the President’s Meeting with the Family of Dr. Frank Olson , July 21, 1975
  6. [6] The White House, Statement by the President on Signing S. 3035 for the Relief of the Survivors of Dr. Frank R. Olson , October 12, 1976
  1. 01 MKULTRA計画とは何だったのか?|公文書で確認できる事実と記録の限界
  2. 02 MKULTRA計画|なぜCIAはMKULTRAを始めたのか?|BLUEBIRD・ARTICHOKEから1953年承認まで
  3. 03 MKULTRA計画|MKULTRAはどう運営されたのか?|149サブプロジェクトと資金・研究機関のネットワーク
  4. 04 MKULTRA計画|MKULTRAは何を試していたのか?|LSDだけではない行動変容研究の範囲
  5. 05 MKULTRA計画|知らない被験者にLSDはどう投与されたのか?|秘密投与とフランク・オルソン事件
  6. 06 MKULTRA Subproject 68|Ewen Cameronとモントリオール実験
  7. 07 MKULTRA計画|なぜMKULTRAの全貌は復元できないのか?|1973年の記録廃棄と1977年公聴会
  8. 08 MKULTRA計画|MKULTRAについて何が事実で、何が未確認なのか?|公文書・証言・陰謀論の境界

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