THE QUESTION
リンカーン暗殺の共犯者はどう裁かれたのか | 軍事法廷と8人の被告について、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「ブース追跡はどう終わったのか|ギャレット農場包囲と1865年4月26日の最期」で確認した論点を受け、この回ではリンカーン暗殺の共犯者はどう裁かれたのか | 軍事法廷と8人の被告について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1865年4月26日、ジョン・ウィルクス・ブースはヴァージニア州のGarrett Farmで死亡した。
暗殺実行犯本人は法廷に立たなかった。
しかし、事件はそこで終わらない。
連邦政府は、Boothの周囲にいた人物を大量に拘束し、誰が誘拐計画に関与し、誰が4月14日の殺害計画を知り、誰が逃走を助け、誰が単にBoothと接点を持っていただけなのかを調べた。
最終的に、1865年5月10日、Washington Arsenal内の旧刑務所で8人の被告を裁く軍事委員会が開廷する。
David Herold。 Lewis Powell。 George Atzerodt。 Mary Surratt。 Samuel Arnold。 Michael O’Laughlen。 Dr. Samuel A. Mudd。 Edman “Ned” Spangler。
この8人はしばしば一括して「Lincoln assassination conspirators」と呼ばれる。
だが、実際の関与は同じではない。
Herold、Powell、Atzerodtは4月14日の殺害計画を具体的に知らされていた。
Mary Surrattについては、暗殺計画をどこまで知っていたかが現在も議論される。
ArnoldとO’LaughlenはBoothの誘拐計画には参加したが、NPSは暗殺計画への関与を否定的に見ている。
MuddはBoothと暗殺以前から面識があり、逃走中のBoothを治療したが、暗殺計画を事前にどこまで知っていたかは争いが残る。
SpanglerはFord’s Theatreのstagehandで、Boothの馬を保持する仕事に関係したが、NPSはBoothの計画や意図を知っていた可能性は低いとしている。
それでも8人全員が同じ軍事法廷で裁かれ、有罪となった。
本記事では、「共犯者」という一語を分解する。
誰が何をしたのか。 何を知っていたと認定されたのか。 なぜ軍事法廷だったのか。 何が主要証拠になったのか。 誰に死刑が下り、誰が収監されたのか。
そして、後にJohn Surrattが民間裁判で裁かれ、陪審不一致となった事実までを見る。
結論|8人は同じ「暗殺共犯者」ではない。裁判は誘拐・殺害・逃走支援を一つの大きなconspiracyとして扱った
軍事委員会の結果を先に整理すると、刑は三段階に分かれた。
死刑。 David Herold。 Lewis Powell。 George Atzerodt。 Mary Surratt。
終身重労働刑。 Samuel Arnold。 Michael O’Laughlen。 Samuel Mudd。
6年の重労働刑。 Edman Spangler。
NPSの現在のFAQは、Herold、Powell、Atzerodt、Mary Surrattを「conspiracy to assassinate」で死刑となった4人と整理する。
一方、Arnold、O’Laughlen、Muddは「conspiracy to kidnap」で終身刑。
SpanglerはBoothのFord’s Theatreからの逃走を助けたことを理由に6年の重労働刑と説明している。
この分類を見ると、8人が同じ行為で有罪になったわけではないことがわかる。
Boothの計画は、1864年後半からの誘拐計画から1865年4月14日の殺害計画へ変化した。[9]
軍事委員会は、その前段階から暗殺後の逃走までを広いconspiracyとして評価した。
だからこそ、「4月14日の暗殺計画を知らなかった可能性が高い人物」も、Boothの計画全体に関わったとして重い刑を受けた。
なぜ軍事法廷だったのか
8人は通常のWashingtonの刑事裁判所ではなく、軍事委員会で裁かれた。
National Archivesは、Lincoln死後に大統領となったAndrew Johnsonが事件を軍事的犯罪とみなし、8人をmilitary commissionで裁くよう命じたと説明している。
当時は南北戦争終結直後だった。
Washingtonは戦時体制の余韻の中にあり、政府側はLincoln暗殺を単なる個人殺人ではなく、President、Vice President、Secretary of Stateという国家中枢を同時に攻撃する戦時のconspiracyとして捉えた。
4月14日夜、BoothはLincolnを殺害した。
PowellはWilliam Sewardを襲い、重傷を負わせた。
AtzerodtにはAndrew Johnsonを殺害する役割が与えられていた。
政府側から見れば、これは三つの別々の事件ではなく、政権首脳を同時に排除する一つの計画だった。
そのため裁判はArmy Military Commissionで行われた。
この選択は後世、民間人を軍事法廷で裁くことの妥当性を含め議論を生むことになる。
ただし本記事では、後世の憲法論を主題にはしない。
確認すべきなのは、1865年の政府が事件を「戦時下の大規模conspiracy」として処理したという事実である。
1865年5月10日|軍事委員会開廷
Library of Congressに残る裁判記録では、Military Commissionは1865年5月10日に開廷した。[9]
委員会は軍人で構成され、Judge AdvocateとしてJoseph Holtらが訴追を担当した。
NPSによれば、裁判は約7週間続き、366人の証人が証言した。
National ArchivesにもLincoln assassination investigationの報告、通信、証言、Military Commission Record Book、Judge Advocate H. L. Burnettの捜査記録などが残されている。
つまり、事件後に集められた証拠は単なる伝聞だけではない。
Boothと被告たちの過去の接触。 手紙。 宿泊記録。 武器。 馬。 証人の供述。 Ford’s Theatre関係者の証言。 Surratt Tavernに関するJohn Lloydの証言。 Mudd宅を訪れたBoothの行動。 4月14日の各被告の所在と行動。
こうした多数の証拠を組み合わせてconspiracy全体が構成された。
一方で、証人が多いことと、すべての証言の信頼性が同じことは別である。
とくにJefferson DavisらConfederate上層部まで暗殺へ結びつけようとした証言には、後世から疑問視されるものが含まれた。
NPSの現在FAQも、Edwin StantonがDavisの関与を強く信じ、Boothとのつながりを示そうとして疑わしい証言を受け入れた面があったと説明している。
したがって、この裁判は「すべてが完全に解明された最終回答」ではない。
8人を一括しないための見方
8人の関与は同じではない。Herold、Powell、Atzerodtは4月14日の殺害計画を知っていた。Mary SurrattとMuddは知識の範囲に議論が残る。ArnoldとO’Laughlenは誘拐計画への参加が中心で、NPSは暗殺計画を知らなかった可能性が高いとする。Spanglerは逃走支援で有罪となったが、NPSはBoothのplotやintentを知っていた可能性を低く見ている。
以下では、この違いを被告ごとに確認する。
David Herold|暗殺計画を知り、Boothと最後まで逃げた
David Heroldについては、4月14日の計画への関与が比較的明確である。
BoothはHeroldにLewis PowellをSeward邸へ案内し、その後Powellの逃走を助ける役割を与えた。
HeroldはSeward邸で悲鳴を聞くと、その場を離れる。
その後MarylandでBoothと合流し、Garrett Farmまで約11日間行動を共にした。
CASE054-04〜06で見たように、HeroldはBoothとともにSurratt Tavern、Mudd宅、Maryland南部の潜伏地点、Potomac川、Virginiaへ進む。
Garrett FarmでBoothが投降を拒否する中、Heroldはbarnから出て降伏した。
裁判で弁護側は、Heroldを知的に弱く、Boothに操られた若者として描こうとした。
しかしNPSは、HeroldがGeorgetownでpharmacyを学び、druggist’s assistantとして働いた経験があり、尋問への応答も機敏だったとする。
軍事委員会は責任能力を認めた。
Heroldは死刑となる。
Lewis Powell|Seward襲撃を実行した
Lewis Thornton Powellは、別名Lewis Paine / Payneを使った元Confederate soldierだった。
Boothの誘拐計画では、身体能力を生かしてLincolnを拘束する役割が期待されていた。
4月14日、計画が殺害へ変わると、PowellはSecretary of State William Sewardの殺害を割り当てられる。
Sewardは馬車事故で負傷し、自宅で療養していた。
Powellは薬を届けに来た使者を装って屋内へ入り、Sewardの家族や関係者を襲い、Seward本人をknifeで何度も切りつける。
Sewardは重傷を負ったが生存した。
Powellは逃走するが、Washingtonで道に迷い、数日後Mary Surrattのboarding houseへ戻ったところを逮捕される。
これはPowellの関与を考えるうえで非常に強い事実である。
「計画を知っていた」だけではない。
実際に政府高官を殺害しようとして襲撃を実行した。
軍事委員会は死刑を言い渡した。
George Atzerodt|Johnson殺害を割り当てられたが実行しなかった
George AtzerodtはGerman-bornのcarriage painter、boatmanだった。
Boothが誘拐計画へ加えた理由は、Potomac川の水路に詳しかったためである。
Lincolnを誘拐できれば、川を越えて南部へ運ぶ役割が期待された。
4月14日になると、BoothはAtzerodtにVice President Andrew Johnsonの殺害を命じる。
JohnsonはKirkwood House Hotelに滞在していた。
Atzerodtは同ホテルに部屋を取っていたが、実行しなかった。
NPSによれば、彼は怖気づき、hotel barで飲酒した後、Washingtonの街をさまよった。
ここで重要なのは「殺していないから無関係」ではないことである。
Atzerodtは計画を知らされ、標的を割り当てられ、実行場所へ接近していた。
軍事委員会は、殺害未遂そのものを完遂していなくてもconspiracyへの参加を認定した。
Atzerodtも死刑となる。
Mary Surratt|最も議論が残る死刑判決
8人の中で、現在まで最も議論されるのがMary Surrattである。
彼女はWashingtonのboarding houseとMarylandのSurratt Tavernを所有していた。
息子John Surratt Jr.はBoothの誘拐計画の重要人物だった。
Boothらはboarding houseを会合場所として使い、Marylandのtavernには誘拐計画用の武器が隠されていた。
裁判で特に重要だったのがJohn Lloydの証言である。
LloydはSurratt Tavernを借りて営業していた。
NPSによれば、4月14日にMary Surrattはtavernへ行き、Boothから預かったpackageをLloydへ渡した。
さらにLloydは、Maryが隠してある“shooting irons”を準備しておくよう伝えたと証言した。
その夜、BoothとHeroldが実際にtavernへ立ち寄り、武器とfield glassesを回収した。
この証言が、Maryを暗殺後の逃走準備と結びつけた。
加えて、Powellが逮捕されたのは、Maryのboarding houseへ戻ってきたときだった。
一方、これらの事実からMaryが「Lincoln殺害そのものを事前に知っていた」とどこまで言えるかは別問題である。
NPSは現在も、Mary Surrattのguilt or innocence、そして死刑の妥当性が歴史家の議論対象だとしている。
軍事委員会では5人の委員が、年齢と性別を理由にAndrew Johnsonへclemencyを求めた。
しかしJohnsonは認めなかった。
Mary Surrattは死刑となり、連邦政府によって処刑された最初の女性となった。
Samuel Arnold|誘拐計画には参加、暗殺時はWashingtonにいなかった
Samuel ArnoldはBoothの幼なじみだった。
元Confederate soldierで、1864年にBoothからLincoln誘拐計画へ誘われた。
Arnoldは実際に誘拐計画へ参加した。
しかしNPSによれば、1865年3月15日、Boothと口論し、誘拐計画は非現実的だとして距離を置いた。[9]
暗殺時、ArnoldはWashingtonにいなかった。
NPSは、ArnoldがLincoln殺害計画を知っていた可能性は低いとしている。
それでも捜査側はBoothとの関係と誘拐計画への参加を突き止めた。
軍事委員会はArnoldをconspiracy to kidnapで有罪とし、終身重労働刑を科した。
ここは「暗殺共犯」という語の限界が最もよく見える例である。
ArnoldはBoothの犯罪計画に関与していた。
だが、4月14日にLincolnを殺すという計画へ参加したと現在のNPSは見ていない。
Michael O’Laughlen|3月17日の誘拐企図に参加したが、暗殺には関与しなかった可能性が高い
Michael O’LaughlenもBoothの幼なじみで、元Confederate soldierだった。
Boothが誘拐計画を始めた早い段階から参加する。
NPSによれば、O’Laughlenは3月17日の誘拐企図へ参加したことを認めている。
しかし、その後Boothの計画が非現実的だとして離れたと主張した。
NPSはO’Laughlenについても、暗殺計画へ関与した可能性は低いとする。
彼は4月17日に自ら当局へ出頭した。
それでも軍事委員会は、誘拐conspiracyへの参加を理由に終身重労働刑とした。
O’LaughlenはFort Jeffersonへ送られ、1867年にyellow feverで死亡する。
8人のうち、収監中に死亡したのは彼である。
Samuel Mudd|治療行為だけが問題だったわけではない
Dr. Samuel Muddについて、「Boothの脚を医師として治療したため投獄された」とだけ説明すると不正確になる。
問題は治療そのものだけではない。
Muddは暗殺以前にBoothと複数回会っていた。
Boothは1864年末から1865年初頭にMuddの家を訪れている。
Mudd宅が誘拐計画のsafe houseとして想定されていた可能性もNPSは示している。
4月15日未明、BoothとHeroldがMudd宅へ到着すると、MuddはBoothの骨折した脚を治療し、splintを作り、二人を数時間休ませた。
その後の捜査でMuddは、Boothとの過去の面識についてevasive、nervousな説明をした。
NPSは、MuddがBoothを以前から知っていたこと、Booth来訪を直ちに当局へ伝えなかったことなどを確認できる事実として扱う。
一方、Muddが4月14日の暗殺計画を事前に知っていたかは現在も議論が残る。
軍事委員会はMuddを有罪とし、終身重労働刑とした。
ここでも、「医師が怪我人を治療したから有罪」ではなく、Boothとの事前関係、誘拐計画との接点、暗殺後の行動、捜査への説明を一体として評価した裁判だったと見る必要がある。
Edman Spangler|最も軽い刑を受けた被告
Edman “Ned” SpanglerはFord’s Theatreのstagehand、carpenterだった。
Boothとは以前から面識があった。
暗殺当夜、BoothはSpanglerに裏路地で馬を保持するよう頼んだ。
Spanglerはその仕事をJoseph “Peanuts John” Burroughsへ回した。
結果として、Boothの馬はBaptist Alleyで待機し、暗殺後の逃走に使われた。
軍事委員会はSpanglerをBoothの逃走支援について有罪とした。
しかしNPSは現在、SpanglerがBoothのplotやintentを知っていた可能性は低いとする。
つまりSpanglerは、BoothがLincolnを殺すと知りながら馬を用意した人物として現在確定しているわけではない。
それでも裁判では、逃走を助けたと認定され、6年のhard laborとなった。
8人の中で最も短い刑である。
「4人死刑・4人収監」という結果
裁判は6月末に終了した。
NPSの公式brochureでは5月10日に始まり、6月29日に終了したとされる。
判決の結果は明確だった。
死刑
George Atzerodt。 David Herold。 Lewis Powell。 Mary Surratt。
終身重労働刑
Samuel Arnold。 Michael O’Laughlen。 Samuel Mudd。
6年重労働刑
Edman Spangler。
収監された4人はFlorida KeysのFort Jeffersonへ送られた。
O’Laughlenは1867年、yellow feverで死亡する。
Muddは同じ流行時に医療活動を行い、その後も生存した。
1869年、Andrew JohnsonはMudd、Arnold、Spanglerをpardonedした。
結果的に、終身刑のうち実際に終身収監された人物はいない。
1865年7月7日|4人の処刑
Atzerodt、Herold、Powell、Mary Surrattは1865年7月7日、Washington Arsenalの刑務所で絞首刑にされた。
Library of CongressにはAlexander Gardnerが撮影した処刑の写真が残っている。
これはLincoln assassinationの司法的な結末を示す、非常に直接的な一次視覚資料である。
Mary Surrattは連邦政府により処刑された最初の女性となった。
この事実は裁判の象徴性をさらに高めた。
ただし、処刑された4人の関与は同一ではない。
PowellはSewardを実際に襲撃した。
Heroldは殺害計画を知り、Boothと逃亡した。
AtzerodtはJohnson殺害を割り当てられながら実行しなかった。
Mary Surrattは物資・拠点とBoothのネットワークを結びつける証拠によって死刑となったが、その知識範囲には今も議論がある。
同じ刑でも、証拠構造は違う。
John Surrattが8人に入っていない理由
Boothの誘拐計画を考えると、John Surratt Jr.は非常に重要な人物である。
彼はConfederate courierとして活動し、Boothの有能な協力者だった。
David HeroldやGeorge AtzerodtをBoothへ紹介し、Lewis PowellもBoothの周囲へつないだ。
3月17日の誘拐企図にも参加している。
しかし4月14日、John SurrattはWashingtonにいなかった。
NPSは彼がNew York州Elmiraにいたとしている。
暗殺後、SurrattはCanada、Englandへ逃亡し、VaticanのPapal Guardsへ偽名で参加する。
1866年に発見され、さらに逃亡した後、Egyptで逮捕される。
そして1867年、United Statesへ戻される。
重要なのは、Surrattが1865年の8人と同じ軍事委員会ではなく、civilian courtで裁かれたことである。
結果はhung jury。
陪審は有罪・無罪で一致できず、Surrattは釈放され、再審されなかった。
この結果は、「1865年の軍事委員会で全員有罪」という結果と対照的である。
ただし、ここから単純に「軍事法廷だから有罪、民間裁判なら無罪だった」と結論づけることはできない。
被告、証拠、時期、訴追内容が異なる。
それでも、同じBooth networkに属するJohn Surrattが後にcivilian juryで裁かれ、結論が出なかったことは、1865年裁判を考えるうえで重要な比較材料である。
「共謀」と「接触」を混同しない
Lincoln assassinationの人物関係図が複雑になる最大の理由は、Boothと会った人間が多いことにある。
だが「Boothと会った」だけでconspiratorになるわけではない。
裁判後、捜査対象となった多くの人物は証拠不足で釈放された。
NPSは、当局がBoothを助けた可能性のある多数の人物を尋問し、多くは十分な証拠がないため釈放したとする。
この点は重要である。
Boothと接触。 誘拐計画へ参加。 暗殺計画を知る。 標的を割り当てられる。 実際に攻撃する。 暗殺後の逃走を助ける。
これらはすべて違う。
8人の被告を見ると、その違いが一つの法廷に集められている。
だからこそ、後世の記事では「Lincoln assassination conspirators」とまとめた後、必ず各人の役割へ戻る必要がある。
検証ポイント|軍事法廷について誤解しやすい点
「8人全員がLincoln暗殺を事前に知っていた」
誤りである。
NPSはHerold、Powell、Atzerodtについて4月14日の殺害計画を明確に知っていたとする一方、Arnold、O’Laughlenは暗殺計画を知らなかった可能性が高いとしている。
SpanglerもBoothのplotを知っていた可能性は低い。
Mary SurrattとMuddは知識の範囲が現在も議論される。
「8人全員が死刑になった」
誤りである。
死刑はAtzerodt、Herold、Powell、Mary Surrattの4人。
Arnold、O’Laughlen、Muddは終身重労働刑。
Spanglerは6年の重労働刑だった。
「Muddは医師としてBoothを治療しただけで終身刑になった」
単純化しすぎである。
Boothとの事前面識、誘拐計画との接点の可能性、逃走中の宿泊・治療、捜査時の説明などが評価された。
ただし、暗殺を事前にどこまで知っていたかは確定していない。
「Mary Surrattの有罪は現在も完全に確定した歴史的評価である」
裁判上は有罪で死刑となった。
しかしNPSは現在も、彼女のguilt or innocenceおよび死刑の妥当性が歴史家の議論対象であると明記している。
「John Surrattも1865年に8人と一緒に軍事法廷で裁かれた」
誤りである。
John Surrattは逃亡中だった。
1867年にcivilian courtで裁かれ、hung juryとなった。
「Boothの死後、証拠の少ない人物も全員有罪にされた」
これも正確ではない。
捜査当局は非常に多くの人物を拘束・尋問したが、証拠不足で釈放された人物も多い。
最終的に軍事委員会へ送られた8人が全員有罪になった、というのが正しい。
「裁判でConfederate政府上層部の暗殺命令が証明された」
証明されていない。
NPSは、StantonがJefferson Davis関与を強く疑い、それを示そうとして疑わしい証言が受け入れられた面があったとする。現在、DavisがBoothへ暗殺を命じたことを裏付けるhard 証拠は確認されていない。
裁判記録は現在も残っている
Library of Congressには1865年刊行のtrial proceedingsがデジタル公開され、8人の被告名、証言、弁論、判決関係資料を確認できる。Lincoln and the Law Collectionの該当資料はpublic domainである。
National ArchivesにもJudge Advocate Generalの記録として、暗殺捜査の報告、通信、証言、Military Commission Record Bookなどが残る。したがって、この事件は後世の伝説だけでなく、裁判当時の記録へ戻って検証できる。
CASE054-08では、こうした一次記録と後世の語りを比較し、脚の骨折、最期の言葉、死亡確認、生存説など史料差のある論点を分離する。
まとめ|同じ「共犯者」でも、関与の段階は違った
1865年5月10日、Booth周辺の8人を裁く軍事委員会が始まった。
Heroldは殺害計画を知りBoothと逃亡した。PowellはSewardを実際に襲撃した。AtzerodtはJohnson殺害を割り当てられたが実行しなかった。Mary Surrattはboarding house、tavern、John Lloydの証言によってBoothの計画と結びつけられたが、知識範囲は現在も議論される。
ArnoldとO’Laughlenは誘拐計画への参加が中心で、NPSは暗殺計画を知らなかった可能性が高いとする。MuddはBoothとの事前面識、治療・宿泊、捜査への説明を含めて有罪となったが、暗殺計画の事前知識には議論が残る。Spanglerは逃走支援で6年刑となったが、NPSは暗殺意図を知っていた可能性を低く見ている。
結果は死刑4人、終身刑3人、6年刑1人。7月7日、Atzerodt、Herold、Powell、Mary Surrattが処刑された。
一方、逃亡していたJohn Surrattは1867年に民間裁判で裁かれ、hung juryとなった。
この違いからわかるのは、「Boothと関係した」ことと「Lincoln殺害を知って実行した」ことは同じではないという点である。誘拐、殺害、逃走支援、接触を分けて見なければ、1865年の裁判構造は理解できない。
次のCASE054-08では、シリーズ最後のFACT CHECKとして、Boothの脚の骨折、”Sic Semper Tyrannis”の発声時点、Garrett Farmでの死亡確認、Booth生存説など、確定事実と後世の伝説を分離する。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, “The Lincoln Conspirators”
- [2] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, “FAQ: The Assassin”
- [3] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, Park Brochure
- [4] National Archives, “Eyewitness: The Trial of the Lincoln Assassination Conspirators”
- [5] National Archives, Records of the Office of the Judge Advocate General (Army), Records of the Lincoln Assassination Investigation
- [6] Library of Congress, “The assassination of President Lincoln and the trial of the conspirators”
- [7] Library of Congress, “The conspiracy trial for the murder of the president, and the attempt to overthrow the government by the assassination of its principal officers”
- [8] Library of Congress, “Assassination Timeline”
- [9] Library of Congress, Alexander Gardner, “Execution of the conspirators. The arrival on the scaffold. July 7, 1865”
リンカーン暗殺とブース追跡|大統領暗殺後、犯人はどう追い詰められたのか 第7回 全8回 全8回を見る
- 01 リンカーン暗殺事件とは?|1865年4月14日からブース死亡まで12日間を追う
- 02 リンカーン暗殺とブース追跡|ジョン・ウィルクス・ブースはなぜリンカーンを狙ったのか|誘拐計画から暗殺計画へ
- 03 リンカーン暗殺とブース追跡|フォード劇場で何が起きたのか|1865年4月14日、暗殺の夜を時系列で追う
- 04 リンカーン暗殺とブース追跡|ブースはどうワシントンを脱出したのか|サラット酒場からマッド医師宅まで
- 05 リンカーン暗殺とブース追跡|なぜブースは数日間見つからなかったのか|メリーランド潜伏とポトマック川越え
- 06 ブース追跡はどう終わったのか|ギャレット農場包囲と1865年4月26日の最期
- 07 リンカーン暗殺の共犯者はどう裁かれたのか|軍事法廷と8人の被告
- 08 リンカーン暗殺とブース追跡|ブース逃走劇の何が事実で何が伝説なのか|証言・記録・残された史跡を検証する