THE QUESTION
なぜブースは数日間見つからなかったのか | メリーランド潜伏とポトマック川越えについて、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「ブースはどうワシントンを脱出したのか|サラット酒場からマッド医師宅まで」で確認した論点を受け、この回ではなぜブースは数日間見つからなかったのか | メリーランド潜伏とポトマック川越えについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1865年4月15日午後、ジョン・ウィルクス・ブースとデイヴィッド・ヘロルドは、サミュエル・マッド医師の家を出た。
ここまでの逃走は比較的わかりやすい。
フォード劇場を出る。 Navy Yard Bridgeを渡る。 サラット酒場で物資を回収する。 マッド医師宅で負傷した脚の治療を受ける。
しかし、その先で逃走の性質が変わる。
二人は次の協力者を目指して南へ向かったが、Zekiah Swamp周辺で道に迷った。そこで自由黒人Oswald Swanの小屋へたどり着き、金を払ってSamuel CoxのRich Hillまで案内してもらう。Coxは二人を自宅に長く置かず、近くの松林へ移し、南部側の連絡活動に関わっていたThomas Jonesへ引き継いだ。
そしてBoothとHeroldは、4月16日から20日までの数日間、ほとんど動かず松林に潜伏する。
これは逃走事件として重要な転換である。
追跡者から逃げる方法というと、できるだけ遠くへ移動し続けることを想像しやすい。しかしBoothが最も長く発見を免れた局面では、その逆が起きていた。
動かなかったのである。
Jonesが食料、水、新聞、周辺の情報を運び、二人は街道、宿、駅、渡し場のような「人が探しに来る場所」から外れた森林に留まった。
その間、連邦政府はBoothらの捜索を拡大し、4月20日には$100,000の報奨金を掲げる指名手配ポスターまで発行している。[5]
にもかかわらず、BoothはまだMarylandにいた。
なぜ見つからなかったのか。
答えは、秘密組織が完璧に隠したからでも、追跡側が何もしていなかったからでもない。
地形。 低い人口密度。 限定された移動。 協力者による物資供給。 捜索側の情報不足。 そして「逃走犯は移動しているはずだ」という捜索上の難しさ。
これらが重なったためである。
本記事では、Mudd宅を出た4月15日から、BoothとHeroldがPotomac川を二度目の試みで渡り、4月23日朝にVirginiaへ到達するまでを追う。
Virginia到達後、Port Conwayで元南軍兵と出会い、Richard Garrettの農場へ至る最終局面はCASE054-06で扱う。
結論|Boothが見つからなかった最大の理由は「逃げ続けたから」ではなく、森に潜伏し、信頼できる仲介者だけが外部と接触したからである
BoothとHeroldは4月16日から20日まで、Maryland南部の松林で潜伏した。
National Park Serviceの現在の逃走記録では、二人はBel Alton付近のpine thicketに隠れ、Confederate agent Thomas Jonesが食料と新聞を運んだ。
JonesはPotomac川を渡れる安全な機会を待った。
つまり、二人は自分たちで村へ買い出しに行かない。 宿へ泊まらない。 主要道路を移動しない。 渡し場で順番を待たない。
外部との接点をJonesへ集中させた。
これは追跡をかわすうえで非常に有効だった。
一方、連邦側がBoothの大まかな進行方向を理解しても、「Maryland南部のどの森のどこにいるか」まで特定するには別の情報が必要になる。
大統領暗殺犯という有名人であっても、人目につかない場所で停止すれば、捜索の難易度は急激に上がる。
この数日間が、Booth逃走の中で最も「移動しないこと」が有効だった局面である。
4月15日午後|Mudd宅を出た直後に道に迷う
CASE054-04で見たように、BoothとHeroldは4月15日未明にSamuel Mudd医師の家へ到着し、Boothの負傷した左脚の治療を受けた。
二人は数時間休み、その日の午後にMudd宅を離れる。
次の目的地はSamuel CoxのRich Hillだった。
Coxは南部支持者で、Booth側の人脈につながる人物だった。
しかし、二人はRich Hillへ一直線に到達できない。
NPSによれば、BoothとHeroldはZekiah Swampで道に迷った。
この事実は、逃走を「周到に用意された地下ルート」として過度に整然と描くことができないことを示す。
誘拐計画から残った人脈はあった。
しかし道路一本一本を熟知していたわけではない。
夜間。 負傷。 湿地。 農道。 森林。
こうした条件の中で、二人は自力では目的地へ到達できなかった。
Zekiah Swamp|地形そのものが逃走と捜索の両方を難しくした
Zekiah Swamp周辺は、Maryland南部の平坦な農村地帯の中に湿地と森林が入り組む地域である。
現代の舗装道路とGPSを前提にすれば、地図上の二地点を直線的につなぎたくなる。
しかし1865年の夜間移動では、使える道、渡れる場所、住民が知る近道、農地と林の境界が重要だった。
BoothとHeroldが迷ったこと自体、地形の難しさを示している。
同時に、その地形は追跡側にとっても不利だった。
逃走犯が都市から農村へ入り、さらに湿地と森林へ入ると、検問や目撃情報だけで追跡することは難しくなる。
NPSの逃走記録では、この段階からBoothとHeroldの移動は地元住民や南部側協力者の案内に依存する割合が高くなる。
つまり、逃走の優位は「Booth自身が地理を完全に知っていたこと」ではなく、「必要なときに地理を知る人物へ接続できたこと」にあった。
Oswald Swan|自由黒人の案内人
道に迷ったBoothとHeroldは、自由黒人Oswald Swanの小屋へたどり着いた。
NPSの現在の解説では、二人はSwanに金を支払い、Samuel Coxの家まで案内してもらうことで合意した。
翌4月16日、Swanの案内でRich Hillへ到達する。
二人はSwanに12ドルを支払った。
この場面は、Booth逃走の人的関係を理解するうえで重要である。
「南部支持者がBoothを次々と匿った」という単純な物語には当てはまらない。
Swanは自由黒人であり、Boothの政治思想に共感して逃走を助けた人物として描く根拠はない。
彼は金銭と引き換えに道案内をした。
協力者。 商取引的な案内人。 脅された住民。 事件を知らずに接触した者。 明確な共謀者。
逃走途中にBoothと関わった人々は、同じカテゴリーではない。
この区別は後のVirginia側でもさらに重要になる。
4月16日未明|Samuel CoxのRich Hillへ到着する
Easter Sundayの4月16日、BoothとHeroldはSwanに案内され、Samuel CoxのRich Hillへ到着した。
Coxは南部支持者だった。
NPSによれば、二人はRich Hillの家の中で短時間を過ごした後、Coxによって家の外へ出される。
Coxは二人を自宅にそのまま匿い続けなかった。
夜明け前、農場監督Franklin Robeyを使って、約2マイル離れた松林へ二人を移動させる。
ここが重要である。
追跡対象を自宅へ泊め続ければ、軍や探偵が訪れたときに発見される危険が高い。
一方、森へ隠せば、家宅捜索と逃走犯の所在を切り離せる。
Cox自身は外部との連絡役になる。
そして次の人物としてThomas Jonesへ接続する。
Thomas Jones|「匿う人」ではなく「外部インターフェース」
Thomas Jonesは、この数日間の逃走を理解するうえで最も重要な人物の一人である。
NPSはJonesをConfederate agentと表現している。
南北戦争中、南部側の秘密連絡やPotomac川越えを支援した経験を持ち、Maryland南部からVirginiaへ人や情報を移動させるルートを知っていた。
Coxは自分のfoster brotherでもあるJonesへ連絡し、BoothとHeroldの逃走支援を依頼した。
Jonesは松林にいる二人と接触する。
そして「すぐ川へ行こう」とはしなかった。
安全にPotomac川を渡れるまで待たせることを選んだ。
この判断が、二人を数日間発見されにくくした。
Jonesの役割は食料を持ってくるだけではない。
周囲の捜索状況を確認する。 新聞を運ぶ。 渡河のタイミングを判断する。 舟を用意する。 川まで案内する。
つまり、BoothとHerold自身が外へ情報を取りに行く必要をなくした。
情報と補給をJones一本に集約したのである。
4月16日から20日|四晩を森で過ごす
NPSによれば、Boothは4月16日から20日にかけて、pine thicketで四晩を過ごした。
4月17日、18日、19日も二人はほぼ同じ場所にいた。
追跡事件で「4日間ほとんど位置が変わらない」というのは、一見すると危険に見える。
しかし場所が発覚していない限り、移動しないことには利点がある。
移動すれば誰かに見られる。
馬を替えれば記録や証言が残る。
食料を買えば接触者が増える。
宿へ泊まれば宿主に顔を見られる。
渡し場へ行けば監視される。
Boothは著名俳優だったため、顔を知られるリスクもあった。
それに対し、森に隠れてJonesだけと接触すれば、新しい目撃者をほとんど増やさずに済む。
Boothの逃走成功を「驚異的なスピード」と理解すると、この局面を説明できない。
むしろ重要なのは「移動を止める判断」である。
新聞を読む逃走犯
JonesはBoothとHeroldへ食料だけでなく新聞も運んだ。
Boothは自分の暗殺が世間でどう受け止められているかを強く気にしていた。
NPSのBooth journal解説では、彼は自分の行動が南部のための英雄的行為として評価されることを期待していた。
しかし実際に新聞で目にしたのは、自分が大統領暗殺犯として非難されている状況だった。
Boothは日記で、自分が「犬のように追われ」「普通の人殺しのように見られている」という不満を記す。
この日記が正確にどの日時に書かれたかには研究上の論点があるため、本CASEでは「pine thicket潜伏中に書かれた可能性がある」とする。
重要なのは、Boothが逃走中も外部情報から完全に切り離されていなかったことである。
Jonesが新聞を運ぶことで、Boothは追跡の社会的規模を知る。
しかし同時に、自分の正確な位置を外部へ示さずに情報だけ受け取ることができた。
捜索側は何をしていたのか
Boothが見つからなかったことを、「政府がまともに捜索していなかった」と解釈するのは誤りである。
Lincoln暗殺後、軍、警察、探偵が捜査と追跡を進め、関係者は次々に拘束された。
4月20日にはWar Departmentが$100,000の報奨金を掲げた大規模な指名手配を行っている。
Library of Congressに残るポスターでは、Booth本人に$50,000、John SurrattとDavid Heroldにそれぞれ$25,000の報奨金が提示された。
このポスターは、当時として非常に早い段階で写真を利用した指名手配資料でもある。
Boothは有名俳優だったため、顔そのものも知られていた。
それでも見つからない。
なぜか。
「誰を探すか」がわかることと、「どこにいるか」がわかることは違うからである。
Washingtonのホテルや駅を探しても、Boothはそこにいない。
主要道路を監視しても、Boothはそこを動いていない。
Maryland南部まで範囲を絞っても、森林のどこにいるかを特定するには協力者の情報が必要になる。
顔写真付き指名手配は、目撃者が本人を見る場所に出てきて初めて機能する。
pine thicket潜伏は、その前提を崩した。
4月20日|Jonesが「今夜渡る」と判断する
数日間の潜伏後、状況が変わる。
NPSによれば、4月20日、Thomas Jonesは兵士と探偵の捜索が南のSt. Mary’s Countyへ集中し始めていることを知った。
長く待てば安全という状態ではなくなった。
JonesはBoothとHeroldに、その夜Potomac川を渡る準備をするよう伝える。
二人は松林を出る。
Jonesの自宅Huckleberryに短時間立ち寄り、その後川岸へ向かう。
ここで初めて、数日間止まっていた逃走が再び大きく動き始める。
Potomac川|地図上では短くても、夜の小舟では別物だった
Potomac川の向こうはVirginiaである。
Boothにとって、Virginiaへ渡ることには心理的にも実務的にも大きな意味があった。
Marylandは奴隷州ではあったがUnionに残った州であり、Washingtonに近い。
Virginiaへ入れば旧Confederacyの領域へ進み、より強い南部支持を期待できるとBoothは考えていた。
しかし川を渡るだけでも容易ではない。
Jonesが用意したのは12フィートほどの小さなfishing boatだった。
NPSによれば、JonesはHeroldへオールを一本、Boothへコンパス、ろうそく、操舵用のオールを渡した。
夜。 霧。 弱い風。 小舟。 負傷したBooth。 限られた航海技術。
現代の橋を渡る感覚とはまったく違う。
Jonesは岸から二人を押し出す。
Boothは舟の代金を支払った。
そして二人はVirginiaを目指して漕ぎ始めた。
最初の渡河は失敗した
ここで逃走計画は再び崩れる。
BoothとHeroldは夜間のPotomacで方向を失い、進路を誤った。
翌朝、二人が到達したのはVirginiaではなかった。
まだMaryland側だった。
しかもNPSによれば、出発地点から約9マイル上流へ流されていた。
これは重要である。
地図だけを見ると、川を横切ればVirginiaへ着くように見える。
しかし夜間の川では、自分が対岸へ向かっているつもりでも、流れと方向感覚の喪失によって上流・下流方向へ大きくずれる。
Boothの逃走は、ここでも「計画どおりの一本道」ではない。
むしろPotomac越えは一度失敗している。
Marylandへ戻ったのに、なぜそこで捕まらなかったのか
一度目の渡河失敗は、Boothにとって致命的になってもおかしくなかった。
数日間かけてようやく川へ出たのに、再びMaryland側へ戻ってしまったからである。
しかしHeroldはこの地域を知っていた。
NPSによれば、Heroldは狩猟旅行などで周辺を訪れた経験があり、John J. Hughesが借りていたIndiantown farmへ向かう道を知っていた。
Hughesは二人へ食事を与え、使われていない小さな家で休ませた。
二人はそこで日中を過ごす。
この局面でも「動かず、人目を避ける」というパターンが繰り返される。
そして夜になると、再びPotomac川へ出る。
Boothは最初の失敗で諦めず、二度目の渡河を試みる。
指名手配ポスターと潜伏の皮肉
4月20日は、War Departmentが$100,000 reward posterを発行した日でもある。[5]
つまりBoothがPotomac川を渡ろうとしていた頃、国家側では追跡を社会全体へ広げる手段が強化されていた。
ポスターにはBooth、John Surratt、David Heroldの写真が使われた。
Library of Congressは、これを逃亡者の写真を使った初期のWanted posterの一例としている。
写真を見れば本人を識別しやすい。
報奨金も巨額である。
しかし、その制度が機能するためには誰かが本人を見る必要がある。
Boothが森にいる。 夜だけ動く。 知人や紹介された人物の家へ行く。 日中は隠れる。
この行動は、顔写真と報奨金の利点を減らす。
追跡網が弱かったわけではない。
逃走側が「追跡網が強い場所へ出ない」ことで対抗したのである。
二度目のPotomac渡河|今度は成功する
4月22日の夜、BoothとHeroldは再びPotomac川を渡ろうとする。
NPSの現在の逃走記録では、この二度目の試みは成功した。
翌4月23日朝、二人はVirginia側のGambo Creek河口付近へ到達する。
暗殺から約8日半が経過していた。
ここでMaryland潜伏フェーズは終わる。
ただし、Boothが期待していたように、Virginiaへ入ればすべて安全になるわけではない。
NPSによれば、二人はThomas Jonesから紹介されたSouthern sympathizer Elizabeth Quesenberryの家を訪ねるが、食事以上の支援は得られなかった。
その後、Confederate agents Thomas HarbinとWilliam Bryantへつながり、さらにDr. Richard StuartのCleydaelへ向かう。
Stuartも食事は与えたが、それ以上の支援を拒んだ。
その後Boothは自由黒人William Lucasの家で、脅しを使って宿泊場所を得る。
つまりVirginiaへ入った後も、「南部へ行けば英雄として歓迎される」というBoothの期待は現実には一致しなかった。
ただし、このVirginia側の詳細は次のCASE054-06へ送る。
本記事の役割は、Marylandでなぜ見つからなかったかと、Potomac川をどう越えたかまでである。
Google Maps|Dr. Samuel A. Mudd House Museum
CASE054-05の地理的な入口として、現在のDr. Samuel A. Mudd House Museumの位置を確認できる。
Google MapsでDr. Samuel A. Mudd House Museumの位置を確認
ここから先のBoothとHeroldは、現代の幹線道路をそのまま辿ったわけではない。
Zekiah Swamp周辺。 Rich Hill。 pine thicket。 JonesのHuckleberry。 Potomacの渡河地点。 一度目に誤って到達したIndiantown farm。 二度目の渡河。 Virginia側のGambo Creek。
この歴史的経路は、現代Google Mapsの最短経路では再現しない。
D03では、現代道路ではなく「移動順序」「停止期間」「渡河失敗」「再渡河」を中心に図示する。
D03|この区間は「距離」より「停止と失敗」を見せる

CASE054-05の専用図D03では、次の要素を明示する。
Mudd House ↓ Zekiah Swamp ↓ Oswald Swan ↓ Rich Hill / Samuel Cox ↓ Pine Thicket 【4月16日〜20日:長時間停止】 ↓ Huckleberry / Thomas Jones ↓ Potomac Crossing Attempt 1 【失敗:Maryland側・約9 miles上流】 ↓ Indiantown Farm / John J. Hughes ↓ Potomac Crossing Attempt 2 ↓ Gambo Creek / Virginia 【4月23日朝】[1]
通常のルート図のように一本の矢印だけでつなぐと、Boothの逃走が順調だったように見える。
しかし実態は違う。
数日間停止する。 一度川を渡り損ねる。 Maryland側へ戻る。 日中休む。 もう一度夜に渡る。
この「停止」と「失敗」を見せることが、D03の役割である。
なぜ見つからなかったのか|五つの要因に分ける
1. 主要交通網から外れた
BoothとHeroldは、駅や宿を利用して長距離を移動していたわけではない。
Maryland南部の農道、森林、湿地、個人宅をつないだ。
通常の交通拠点を監視しても発見しにくい。
2. 松林で数日間停止した
4月16日から20日までの潜伏期間は決定的だった。
移動しなければ新しい目撃情報も生まれない。
追跡側が「次の目的地」を予測しても、本人が進んでこなければ接触できない。
3. Thomas Jonesが外部接触を代行した
BoothとHerold自身が食料、新聞、渡河情報を集める必要がなかった。
Jonesが外へ出る。
二人は森に残る。
追跡対象と補給活動が分離された。
4. 地元人脈が断続的に機能した
Cox、Jones、Hughesらの支援によって、二人は宿泊施設や公的交通を避けられた。
ただし、すべての住民が積極的に支援したわけではない。
Swanのように金銭で案内した人物もいる。
Virginiaへ入ればQuesenberryやStuartのように追加支援を拒む者も現れる。
5. 追跡側は「顔」より「位置」を必要としていた
Boothの身元は早くから判明していた。
$100,000 reward posterも出た。
問題は人物識別ではなく位置情報である。
森林内部に潜伏し、限られた人間だけが接触する状態では、顔写真があっても所在は自動的にはわからない。
この点は現代でも共通する。
「誰を探しているか」と「どこにいるか」は別の問題である。
検証ポイント|Maryland潜伏とPotomac越えで誤解しやすい点
「Boothは12日間ずっと馬で南へ逃げ続けた」
誤りである。
4月16日から20日まで、BoothとHeroldはMaryland南部のpine thicketに潜伏し、数日間ほとんど移動していない。
「南部支持者が組織的に全行程を護送した」
単純化しすぎである。
CoxやJonesのように明確に支援した人物はいる。一方、Oswald Swanは金銭と引き換えに案内し、Virginia側では支援を拒む南部支持者もいた。関与の動機と程度は人物ごとに違う。
「Thomas Jonesは二人をすぐVirginiaへ渡した」
誤りである。
Jonesは数日間待たせた。周辺の捜索状況を確認し、安全性を判断して4月20日夜に渡河を実行した。
「Potomac川は一度で渡れた」
誤りである。
最初の試みでは方向を誤り、翌朝もMaryland側にいた。NPSによれば出発地点から約9マイル上流だった。その後、二度目の夜間渡河でVirginiaへ到達した。
「指名手配ポスターが出たので、その後すぐ一般市民がBoothを発見した」
そうはならなかった。
4月20日に写真付きの高額報奨ポスターが出ても、Boothは森林に潜伏し、夜間中心に移動していた。識別資料の存在だけで所在が判明するわけではない。
「BoothはMarylandの地理を熟知していた」
少なくとも完全にはそうではない。
Mudd宅を出た後にZekiah Swampで道に迷い、Swanの案内が必要になった。Potomac渡河でも一度進路を誤っている。
「BoothはVirginiaに入れば南部の英雄として歓迎された」
実際にはそうならなかった。
NPSの逃走記録では、Virginia側でも食事以上の支援を拒む者が現れ、Boothの期待と現実には大きな差があった。
「Dent’s Meadowの現地標識が示す4月21日が渡河開始日」
NPSの現在ページは、Dent’s Meadowの歴史標識が日付を誤って4月21日としていると明記し、渡河開始を4月20日夜としている。
本CASEではNPSの現行日別chronologyに合わせ、第一回渡河開始を4月20日とする。
逃走側から見た転換|「人脈で隠れる」から「川を越えて逃げる」へ
Maryland潜伏の前半では、人脈がBoothを止めて隠した。
Coxが森へ移す。 Jonesが外部との接触を代行する。 BoothとHeroldは動かない。
しかし4月20日になると、その方式を続ける危険が増した。
捜索が南へ集中してきたからである。
そこで戦略が変わる。
隠れることから、再び大きく移動することへ。
目的はPotomac川を越えてVirginiaへ入ることだった。
だが最初の渡河は失敗した。
この失敗を見ると、Booth逃走の成功を「綿密な計画」の一言で説明できないことがさらに明確になる。
彼らは迷う。 方向を誤る。 支援を断られる。 負傷している。 夜を待たなければならない。
それでも、局所的な人脈と偶然、Heroldの土地勘、Jonesの支援をつないで逃走を継続した。
まとめ|Boothを隠したのは「秘密組織」より、停止・地形・限定接触だった
BoothとHeroldが数日間見つからなかった理由を、神秘的な地下組織へ求める必要はない。
Mudd宅を出た二人はZekiah Swampで道に迷った。
Oswald Swanに金を払い、Samuel CoxのRich Hillまで案内してもらった。
Coxは二人を家に置かず、松林へ移した。
Thomas Jonesが接触し、食料、新聞、周辺情報を供給した。
4月16日から20日まで、二人は森でほとんど動かなかった。
その間にWar Departmentは大規模な報奨金を掲げた。
しかし、写真付きの指名手配があっても、本人が人前に出なければ位置はわからない。
4月20日、Jonesは捜索が南へ近づいたと判断し、Potomac渡河を実行する。
小舟での最初の試みは失敗した。
二人はVirginiaへ着かず、約9マイル上流のMaryland側へ流された。
Heroldの土地勘でJohn J. HughesのIndiantown farmへ移動し、日中を隠れて過ごす。
そして二度目の夜間渡河に成功する。
4月23日朝、BoothとHeroldはVirginia側へ到達した。
ここでMarylandフェーズは終わる。
だが、追跡そのものは終わらない。
次のCASE054-06では、Virginiaへ入った二人がなぜ再び人目に触れるようになり、どのようにWillie Jettへつながり、最終的にRichard Garrett Farmへ居場所を突き止められたのかを見る。
Marylandで有効だった「森に隠れて接触を限定する」方法は、Virginiaでは崩れていく。
それが12日間の逃走を終わらせる直接の転換になる。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, “The Assassin’s Escape: Following John Wilkes Booth”
- [2] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, “Thoughts from an Assassin: The Journal of John Wilkes Booth”
- [3] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, Park Brochure / Escape Route Map
- [4] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, “The Lincoln Conspirators”
- [5] Library of Congress, “$100,000 reward! The murderer of our late beloved President, Abraham Lincoln, is still at large”
- [6] Library of Congress, American Treasures exhibition, “$100,000 Reward!”
リンカーン暗殺とブース追跡|大統領暗殺後、犯人はどう追い詰められたのか 第5回 全8回 全8回を見る
- 01 リンカーン暗殺事件とは?|1865年4月14日からブース死亡まで12日間を追う
- 02 リンカーン暗殺とブース追跡|ジョン・ウィルクス・ブースはなぜリンカーンを狙ったのか|誘拐計画から暗殺計画へ
- 03 リンカーン暗殺とブース追跡|フォード劇場で何が起きたのか|1865年4月14日、暗殺の夜を時系列で追う
- 04 リンカーン暗殺とブース追跡|ブースはどうワシントンを脱出したのか|サラット酒場からマッド医師宅まで
- 05 リンカーン暗殺とブース追跡|なぜブースは数日間見つからなかったのか|メリーランド潜伏とポトマック川越え
- 06 ブース追跡はどう終わったのか|ギャレット農場包囲と1865年4月26日の最期
- 07 リンカーン暗殺の共犯者はどう裁かれたのか|軍事法廷と8人の被告
- 08 リンカーン暗殺とブース追跡|ブース逃走劇の何が事実で何が伝説なのか|証言・記録・残された史跡を検証する