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リンカーン暗殺とブース追跡ブースはどうワシントンを脱出したのかサラット酒場からマッド医師宅まで

リンカーン暗殺共犯者デイヴィッド・ヘロルドの肖像写真
Library of Congress, Prints and Photographs Division 出典 No known restrictions on publication

THE QUESTION

ブースはどうワシントンを脱出したのか | サラット酒場からマッド医師宅までについて、この回が担う固有の論点は何か。

STORY SO FAR

前回「フォード劇場で何が起きたのか|1865年4月14日、暗殺の夜を時系列で追う」で確認した論点を受け、この回ではブースはどうワシントンを脱出したのか | サラット酒場からマッド医師宅までについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

1865年4月14日午後10時15分ごろ、ジョン・ウィルクス・ブースはフォード劇場でリンカーン大統領を撃った。[1]

その数分後、彼はBaptist Alleyから馬でワシントン市街へ出る。

現代の感覚では、大統領暗殺直後に首都から逃げ切ることなどほぼ不可能に思える。道路封鎖、無線連絡、監視カメラ、車両照会、顔写真共有が数分から数十分で始まる時代なら、犯人が市外へ出る前に包囲されても不思議ではない。

しかし1865年は違った。

ブースが劇場を出た瞬間、ワシントン全体が同時に「大統領暗殺」を知ったわけではない。情報は人、電信、伝令、警察、軍の連絡を通じて広がる。フォード劇場で起きたことがNavy Yard Bridgeの歩哨へ届くより早く、ブース自身が橋へ到達した。

この時間差が、逃走初動の最大の鍵だった。

さらにブースには、暗殺前の誘拐計画で準備した人間関係と物資があった。メリーランド側にはDavid Heroldが合流し、Surratt Tavernには以前隠しておいた銃器とfield glassesが残され、南部メリーランドにはSamuel Muddを含む既知の人物がいた。

つまり、暗殺後の逃走は完全な即興ではない。

目的は「リンカーン誘拐」から「暗殺後の逃亡」へ変わったが、誘拐のために準備した道路、人、物資、拠点の一部がそのまま転用された。

本記事では、フォード劇場裏のBaptist Alleyを出たブースが、Navy Yard Bridgeを通過し、David Heroldと合流し、Surratt Tavernで物資を回収し、4月15日未明にDr. Samuel A. Muddの家へ到達するまでを追う。

Mudd宅を出た後、Zekiah Swampで道に迷い、Samuel Cox、Oswald Swan、Thomas Jonesへつながっていく局面はCASE054-05で扱う。

結論|ワシントン脱出を可能にしたのは「完璧な逃走計画」ではなく、情報伝達の遅れと既存ネットワークだった

ブースの初動を整理すると、四つの条件が重なっている。

第一に、フォード劇場からNavy Yard Bridgeまでの移動が、暗殺情報の伝達より速かった。

第二に、ブースは首都の道路と劇場周辺を知っていた。

第三に、David Heroldと合流できた。

第四に、Surratt TavernやSamuel Muddとの接点が、暗殺以前の誘拐計画からすでに存在していた。

一方で、「逃走ルートがすべて事前に秒単位で設計されていた」と考えるのも誤りである。

Boothは負傷していた。 途中で転倒あるいは落馬した可能性がある。 Heroldとは劇場から一緒に出たわけではない。 Mudd宅を出た後には道に迷う。 数日後にはPotomac川の渡河にも失敗する。

つまり、逃走は準備と即興の混合だった。

初日の成功は、ブースの計画能力だけでなく、1865年の通信速度、夜間の移動、南部メリーランドの人的ネットワークによって成立した。

Baptist Alley|劇場を出た瞬間から逃走事件になる

CASE054-03で見たように、ブースは大統領席から舞台へ降り、舞台裏を抜け、劇場後方の出口からBaptist Alleyへ出た。

そこでは、若い劇場職員Joseph “Peanuts John” Burroughsがブースの馬を保持していた。

NPSは、ブースが馬に乗ると路地を出てF Street方面へ向かったと説明している。

ここで重要なのは、劇場の中ではすでに「大統領が撃たれた」という非常事態が始まっていたのに、路地の外ではまだ首都全体の非常事態にはなっていなかったことである。

銃声を聞いた観客の多くさえ直ちに暗殺だと理解していなかった。

事件の意味が劇場内で確定し、大統領が重傷だと認識され、犯人の名前や逃走方向が整理され、それが警察や軍へ伝えられるまでには時間がかかる。

ブースはその最初の数十分を利用した。

この時間差は、現代の追跡事件と最も感覚が違う部分である。

どの方向へ逃げたのか

NPSの現在の逃走解説では、ブースはBaptist Alleyを出た後、Pennsylvania Avenueと11th Street方面を通ってNavy Yard Bridgeへ向かったとされる。

橋は現在のAnacostia Riverを渡る地点にあり、ワシントン中心部とAnacostia方面、さらに南部メリーランドへ向かう経路をつないでいた。

この橋を越える意味は大きい。

首都中心部に残っていれば、警察と軍の捜索密度は時間とともに急速に高まる。

一方、Anacostia側へ出れば、その先にはより人口密度の低い道路が続き、メリーランド南部へ向かえる。

ブースが目指したのは、単に「南へ逃げる」ことではない。

南部メリーランドには、誘拐計画の時点から知っていた人物と場所があった。

橋を越えることは、都市の即時捜索圏から、既存の人的ネットワークへ移る境界だった。

Navy Yard Bridge|午後9時以降は原則閉鎖されていた

Navy Yard Bridgeは無人の橋ではなかった。

南北戦争中のワシントンは軍事的に防御された首都であり、橋には兵士が配置されていた。

NPS Anacostia Parkの解説によれば、その夜の歩哨は3rd Massachusetts Heavy ArtilleryのSergeant Silas Cobbだった。

橋は午後9時以降、原則として不要不急の通行が制限されていた。

本来、夜間に渡るには軍務など正当な理由やpass、countersignが必要だった。

それでもブースは渡った。

ここだけを見ると、「警備された橋を突破した」と表現したくなる。

しかし、実態は強行突破ではない。

NPSは、ブースが午後10時45分ごろ橋へ着き、遅くなったが家へ帰るところだと落ち着いて説明したとしている。暗殺のニュースはまだCobbへ届いていなかった。

歩哨から見れば、目の前の男が数十分前に大統領を撃った人物だと知る材料がない。

ブースは有名俳優だったが、「有名人だから暗殺犯だと気づかれた」という状況でもない。

情報が届いていない以上、Cobbは通常の夜間通行者として判断するしかなかった。

NPS Anacostia Parkの解説では、Boothはpassを持っていなかったが必要なpasswordを知っていたとされる。

結果としてCobbは通行を認めた。

ブースは橋を走破して突破したのではなく、制度の運用と情報の時間差の中で通過したのである。

なぜ暗殺情報は橋まで間に合わなかったのか

フォード劇場からNavy Yard Bridgeまでは、馬なら短時間で移動できる。

一方、暗殺情報を正確に伝えるにはいくつかの段階がある。

まず劇場内で銃撃が起きる。

次に大統領が撃たれたと認識される。

犯人が誰かを特定する。

逃走方向を把握する。

軍や警察の指揮系統へ連絡する。

各検問所や橋へ伝令を送る。

電信が存在していても、すべての歩哨へ瞬時に同一情報が配信されるわけではない。

この差の間に、Boothは首都の外縁へ達した。

NPSの現在の逃走ページも、歩哨がまだ暗殺を知らなかったため橋を渡ることができたと明確に説明している。

したがって、ここを「橋の警備が無能だった」と単純化するのは適切ではない。

問題は、個々の歩哨の能力より、当時の情報伝達速度である。

BoothとHeroldは劇場から一緒に逃げたわけではない

暗殺後の逃走は、BoothとDavid Heroldの二人旅として知られている。

しかし二人はフォード劇場から並んで出発したわけではない。

Heroldは暗殺計画でLewis PowellをSecretary of State William Seward邸へ案内する役割を与えられていた。

PowellはSewardを襲撃するが殺害には失敗する。

Heroldはその後、Powellとは別れてBoothと合流する。

NPSの現在の逃走解説は、BoothがMaryland側でHeroldと合流したと整理している。

つまりBoothの首都脱出初動には、一人で行動している時間がある。

この点は、暗殺計画と逃走計画の関係を考えるうえで重要である。

暗殺当夜の役割分担は、「全員が同じ馬車で逃げる」ような統一行動ではなかった。

それぞれが別の標的へ向かい、その後HeroldだけがBoothの逃走に合流した。

Powell、Atzerodt、Mary Surrattなどのその後は、Boothの逃走経路とは別に進んでいく。

Surratt Tavernへ向かう理由

BoothとHeroldが合流した後、二人はSurrattsvilleへ向かった。

現在の地名ではClinton, Marylandである。

そこにあったのがSurratt Tavernだった。

この酒場はMary Surrattが所有し、1865年にはJohn M. Lloydが借りて営業していた。

Surratt家はワシントンにもboarding houseを持ち、Boothと誘拐計画の関係者たちはそこで会合を重ねていた。

Mary Surrattの息子John Surratt Jr.はBoothの誘拐計画の主要メンバーであり、南部側の連絡活動にも関与していた。

したがって、Surratt Tavernは暗殺後に偶然見つけた宿ではない。

誘拐計画の時点から、Boothらにとって既知の拠点だった。

NPSは、Boothと共謀者がSurratt家のWashington boarding houseとMaryland tavernをmeeting placeやsafe houseとして利用したと説明している。

特に重要なのが、酒場に事前に隠されていた物資である。

隠されていた銃器とfield glasses

Surratt Tavernには、誘拐計画のための武器類が隠されていた。

NPSによれば、BoothとHeroldは4月15日午前0時すぎに酒場へ到着し、銃器とfield glassesなどを回収した。

これは逃走が完全な即興ではないことを示す最も具体的な証拠の一つである。

暗殺後に武器を買いに行ったのではない。

以前の計画で保管していた装備を取り出した。

一方で、物資が「暗殺後の逃走専用」に準備されていたと書くのも正確ではない。

もともとはリンカーン誘拐計画のために置かれていたものだった。

その計画が失敗しても装備が残り、4月14日夜に別の目的へ転用された。

ここに、誘拐計画と暗殺後逃走の連続性がある。

Mary Surrattはその日、何をしていたのか

Mary Surrattは暗殺当日の4月14日、Marylandの酒場を訪れている。

後の軍事法廷で非常に重要になったのがJohn Lloydの証言だった。

NPSの人物解説によれば、Maryはその日、Boothから預かった包みをLloydへ渡した。

さらにLloydは、Maryから隠してある「shooting irons」を準備しておくよう言われたと証言した。

その夜、実際にBoothとHeroldが酒場へ現れ、武器を回収した。

この組み合わせが、Mary Surrattが暗殺計画をどこまで知っていたのかという裁判上の重要論点になる。

ただし、「Mary SurrattがLincoln暗殺のすべてを知っていた」とここで確定することはできない。

NPS自身も、Maryが暗殺計画を知っていたかどうかについて歴史家の議論が続いているとする。

確認できる事実と、そこから推定される意図は分ける必要がある。

CASE054-07で、Lloydの証言と軍事法廷の判断を改めて検討する。

午前0時すぎ|BoothはLloydに暗殺を告げた

NPSの逃走解説によれば、BoothとHeroldは4月15日午前0時すぎにSurratt Tavernへ到着した。[1]

そこでJohn Lloydから隠されていた物資を受け取る。

NPSは、BoothがLloydに対し、その夜大統領を暗殺したと語ったとしている。

これは事件直後のBooth自身の言動として重要である。

劇場の外では、まだ暗殺のニュースを知らない人が多い。

その一方でBoothは、逃走ルート上の協力者に自分がLincolnを撃ったことを告げている。

この時点で、彼は匿名の逃亡者として身分を隠し続けているわけではない。

少なくともLloydに対しては、事件の中心人物であることを明らかにしている。

Google Maps|Surratt Tavernの現在地

Surratt Tavernの建物は現存しており、現在はSurratt House Museumとして公開されている。

Google MapsでSurratt House Museumの位置を確認

現代の道路網は1865年と同一ではないため、現在の地図上でFord’s Theatreから単純に最短ルートを引き、それをBoothの正確な逃走経路とみなすことはできない。

本CASEでは、Google Mapsは現存史跡の位置確認に使い、歴史的な移動経路は専用図D02で分けて表現する。

Boothの左脚|Surratt Tavernまでの間に何が起きたのか

この区間で避けられない論点がBoothの左脚である。

古くからの有名な説明では、BoothはFord’s Theatreの大統領席から舞台へ飛び降りた際に左腓骨を骨折したとされる。

NPSの公式パンフレットもこの説明を採っている。

一方、NPSの現在の詳細な逃走ページは、Boothが劇場内で骨折していなかった場合、逃走中に馬から落ちた際に左腓骨を折った可能性があるとしている。

したがって、Surratt Tavernへ到着した時点でBoothが脚を痛めていたことは確かでも、「Ford’s Theatreからずっと完全骨折した脚で走り続けた」と無条件には書けない。

本記事では、01・03と同じルールを維持する。

Boothの左脚が重大な負傷状態にあり、医師による治療が必要だった。

その負傷が劇場の跳躍で確定したのか、逃走中の落馬で悪化・発生したのかは断定しない。

なぜDr. Samuel Muddの家へ向かったのか

Surratt Tavernで物資を回収した後、BoothとHeroldはSamuel Alexander Mudd医師の家へ向かった。

NPSによれば、二人は4月15日午前4時ごろMudd宅へ到着した。

ここも「負傷したので最寄りの知らない医師を偶然訪ねた」という状況ではない。

BoothはMuddを以前から知っていた。

NPSのSamuel Mudd人物解説では、MuddがBoothとWashingtonおよび自宅で複数回会っていたこと、Boothが暗殺前にMuddの農場を訪れていたことが確定事項として挙げられている。

NPSのLincoln Conspirators解説も、Muddは1864年後半から1865年初めにBoothと複数回会い、Mudd宅が誘拐計画のsafe houseとして想定されていた可能性を示している。[4]

この事前接触があるからこそ、Boothが暗殺直後にMudd宅へ向かった事実は捜査上大きな意味を持った。

ただし、事前に知り合っていたことと、4月14日の暗殺計画を事前に知っていたことは同義ではない。

ここは分けなければならない。

午前4時ごろ|MuddがBoothの脚を治療する

BoothとHeroldは夜明け前にMudd宅へ着いた。

NPSによれば、MuddはBoothの骨折した脚を治療し、splintを作った。

二人は家の二階で数時間休むことを許された。

Boothにとって、これは逃走開始後初めて長時間停止できる場所だった。

劇場から橋、Maryland、Surratt Tavernと夜通し移動してきたうえ、脚を負傷している。

医療処置、休息、食事、次の移動準備が必要だった。

Mudd宅はそれらを同時に満たした。

この時点でWashingtonではLincolnがまだ生存している。

LincolnがPetersen Houseで死亡するのは午前7時22分である。

つまりBoothがMudd宅へ到着したころ、大統領はまだ生きていた。

逃走側とWashington側では、同じ数時間にまったく異なる出来事が進んでいた。

MuddはBoothだと知っていたのか

Samuel Muddをめぐる最大の争点である。

Muddは後に、来訪者がJohn Wilkes Boothだとは認識しておらず、Lincoln暗殺も知らなかったと主張した。

しかしNPSは、いくつかの事実を「議論ではなく確認できること」として区別している。

MuddはBoothと暗殺前に複数回会っていた。

Boothは以前Muddの農場を訪れていた。

Muddは後の捜査で、Boothを以前から知っていたことについて虚偽あるいは不正確な説明をした。

さらにMuddは、Boothが自宅にいたことを当局へ直ちには通報しなかった。

NPSの人物解説は、歴史家の間でもMuddが誘拐・暗殺計画についてどこまで知っていたかは議論がある一方、これらの事実は争いにくいとしている。

したがって二つの極端な書き方を避ける必要がある。

「Muddは何も知らず、ただ医師として患者を治療しただけ」と断定すること。

逆に、「MuddはLincoln暗殺を事前に知る完全な共犯者だった」と断定すること。

現存資料は、そのどちらか一つに単純化できない。

Muddはいつ暗殺を知ったのか

NPSの現在の逃走ページでは、MuddはBoothとHeroldを自宅に残して近隣の町へ出た後、Lincoln暗殺の情報を知り、帰宅して二人に立ち去るよう求めたと説明される。

この叙述では、MuddはBooth来訪時点では少なくとも暗殺のニュースを知らず、後から知ったことになる。

一方、Muddの認識時点やBooth本人をいつ特定したかについては、裁判証言や後世の研究で議論がある。

ここで重要なのは、記事側が裁判官になって一つの結論を先取りしないことである。

本記事で確定させるのは、MuddがBoothの脚を治療したこと、数時間休ませたこと、暗殺前からBoothと面識があったこと、後に当局への説明で問題視された点があったことまでとする。

Muddの刑事責任と軍事法廷での評価はCASE054-07で扱う。

午後|BoothとHeroldはMudd宅を出る

BoothとHeroldは4月15日の午後、Mudd宅を離れた。

NPSの解説では、その後二人はSamuel CoxのRich Hillを目指す。

ここから逃走の性質が変化する。

Ford’s TheatreからMudd宅までは、比較的「既知の拠点」をつなぐ移動だった。

劇場。 Navy Yard Bridge。 Surratt Tavern。 Mudd宅。

これに対しMudd宅を出た後、二人はZekiah Swamp周辺で道に迷う。

つまり、それまでの既存ネットワークを利用した比較的明確なルートから、土地の複雑さと夜間移動に振り回される段階へ入る。

NPSによれば、最終的に二人は自由黒人Oswald Swanの家へ行き、金を払ってSamuel Cox宅まで道案内を依頼する。

この先は、単純な「南部支持者が次々助けた」物語ではない。

知らない人物への依頼、金銭、拒絶、脅し、地形的困難が混じる。

そのためCASE054-05では、逃走ネットワークだけでなく「なぜ捜索側が数日間捕まえられなかったのか」を地理と行動パターンから見る。

D02|逃走初動図で何を示すか

フォード劇場からネイビーヤード橋、サラット酒場、マッド医師宅までの逃走初動図
フォード劇場からネイビーヤード橋、サラット酒場、マッド医師宅までの逃走初動図

CASE054-04の専用図D02では、現代の道路ナビを再現するのではなく、歴史上の移動順序を示す。

対象は次の四段階である。

Ford’s Theatre / Baptist Alley

Navy Yard Bridge

Surratt Tavern

Dr. Samuel A. Mudd House

必要なのは道路一本一本の「正確な走行ログ」ではない。

1865年当時、BoothがWashington中心部からAnacostia側へ抜け、Maryland南部へ入り、誘拐計画から残った拠点を順番に利用した構造を見せることである。

NPSの公式逃走マップも、この区間をFord’s Theatre、Surratt Tavern、Mudd Houseという主要点で表している。

現代道路での所要時間をそのまま1865年の移動時間として表示しない。

また、現在の橋や道路を「当時と完全に同じ場所・形」として扱わない。

検証ポイント|ワシントン脱出で誤解しやすい点

「Boothは軍の検問を突破した」

不正確である。

Navy Yard Bridgeは夜間通行が制限され、兵士が警備していた。しかしBoothは武力で突破したのではない。暗殺情報がまだ歩哨Silas Cobbに届いていない段階で、通行理由を説明して許可を得た。

「暗殺後すぐWashington全体が封鎖された」

少なくともBoothが橋へ着くまでには間に合っていない。

劇場で事件が起きてから、犯人情報と逃走方向が軍や警察の末端まで伝わるには時間が必要だった。Boothはその時間差の中で橋を渡った。

「BoothとHeroldはFord’s Theatreから一緒に逃げた」

誤りである。

HeroldはSeward襲撃を担当したLewis Powellを案内する役割を持ち、その後BoothとMaryland側で合流した。

「Surratt Tavernは暗殺後に偶然立ち寄った宿」

誤りである。

Surratt家は誘拐計画の時点からBoothのネットワークに入っていた。酒場には以前から武器などが隠されており、BoothとHeroldはそれを回収した。

「Mary Surrattが暗殺計画の全容を知っていたことは確定している」

確定していない。

John Lloydの証言は彼女の裁判で非常に重要だったが、彼女が暗殺計画をどこまで知っていたか、死刑判決が妥当だったかは現在も議論がある。

「Dr. MuddはBoothと初対面だった」

誤りである。

NPSは、MuddがBoothと暗殺以前に複数回会っていたことを確認できる事実として扱っている。

「MuddがBoothを治療した=暗殺を事前に知っていた証拠」

それだけでは成立しない。

治療、事前面識、虚偽説明、通報遅延などは別々に評価する必要がある。Muddが暗殺計画をどこまで事前に知っていたかは議論が残る。

「Boothは劇場で確実に脚を折り、そのままMudd宅まで走った」

骨折地点は確定していない。

劇場で負傷した説明は強く流布しているが、NPSの現在の詳細解説は逃走中の落馬による骨折可能性も残している。

初動の本質|Boothは「匿名で逃げた」のではなく、知っている人と場所へ向かった

この区間を通して見えるのは、Boothの逃走が孤立した逃亡ではないことである。

Ford’s Theatreを出た直後、彼は一人だった。

しかしMarylandへ入るとHeroldと合流する。

Surratt TavernではLloydから物資を受け取る。

Mudd宅では脚の治療と休息を得る。

つまり、逃走距離そのものより、人との接続が重要だった。

一方で、そのネットワークの各人物が同じ程度に暗殺を知っていたわけではない。

Heroldは暗殺計画を知る明確な共謀者である。

Lloydは酒場の物資を管理し、Booth本人から暗殺を告げられる。

Mary Surrattについては知識の範囲が争点となる。

Muddについても事前共謀の程度は議論が残る。

「助けた」「会った」「知っていた」「計画した」は、それぞれ違う。

この区別を維持することが、Lincoln assassinationを陰謀論へ流さず、同時に単独犯神話にも単純化しないために必要である。

まとめ|最初の約6時間で、逃走は都市事件から南部メリーランドの追跡へ変わった

4月14日午後10時15分ごろ、BoothはFord’s TheatreでLincolnを撃った。

劇場裏のBaptist Alleyへ出て馬に乗る。

Washington中心部を抜け、Navy Yard Bridgeへ向かう。

午後10時45分ごろ、歩哨Silas Cobbはまだ暗殺の情報を受け取っていなかった。

Boothは橋を通過する。

Maryland側でDavid Heroldと合流する。

4月15日午前0時すぎ、二人はSurratt Tavernへ到着し、以前の誘拐計画で隠していた銃器とfield glassesを回収する。

BoothはJohn LloydにLincolnを撃ったことを告げる。

さらに南へ進み、午前4時ごろDr. Samuel A. Muddの家へ到着する。

MuddはBoothの負傷した左脚を治療し、splintを作り、二人を数時間休ませる。

ここまでの数時間で、事件の空間は大きく変わった。

Ford’s Theatreという都市の犯罪現場から、Maryland南部の農村と人的ネットワークへ移った。

追跡側から見れば、犯人は名前のわかっている著名俳優なのに、位置はわからない。

逃走側から見れば、首都は抜けたが、負傷、土地勘、移動手段、支援者の確保という問題が残っている。

そしてMudd宅を出た直後から、その不安定さが表面化する。

次のCASE054-05では、二人がZekiah Swampで道に迷い、Oswald Swan、Samuel Cox、Thomas Jonesらへつながり、森林に数日間潜伏する過程を追う。

なぜ大規模捜索の中でBoothは見つからなかったのか。

答えは「南部の秘密組織が完璧に匿ったから」ではない。

地形、静止、情報不足、人間関係、そして捜索範囲の広さが重なった結果である。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, “The Assassin’s Escape: Following John Wilkes Booth”
  2. [2] National Park Service, Anacostia Park, “Booth Escapes DC”
  3. [3] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, “FAQ: The Assassin”
  4. [4] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, “The Lincoln Conspirators”
  5. [5] National Park Service, “Samuel Mudd”
  6. [6] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, Park Brochure
  7. [7] National Park Service, Ford’s Theatre National Historic Site, Historical Handbook
  8. [8] Library of Congress, Lincoln assassination and Navy Yard Bridge visual collections
  1. 01 リンカーン暗殺事件とは?|1865年4月14日からブース死亡まで12日間を追う
  2. 02 リンカーン暗殺とブース追跡|ジョン・ウィルクス・ブースはなぜリンカーンを狙ったのか|誘拐計画から暗殺計画へ
  3. 03 リンカーン暗殺とブース追跡|フォード劇場で何が起きたのか|1865年4月14日、暗殺の夜を時系列で追う
  4. 04 リンカーン暗殺とブース追跡|ブースはどうワシントンを脱出したのか|サラット酒場からマッド医師宅まで
  5. 05 リンカーン暗殺とブース追跡|なぜブースは数日間見つからなかったのか|メリーランド潜伏とポトマック川越え
  6. 06 ブース追跡はどう終わったのか|ギャレット農場包囲と1865年4月26日の最期
  7. 07 リンカーン暗殺の共犯者はどう裁かれたのか|軍事法廷と8人の被告
  8. 08 リンカーン暗殺とブース追跡|ブース逃走劇の何が事実で何が伝説なのか|証言・記録・残された史跡を検証する

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