メアリー・セレスト号から消えたのは「乗員10人」という数字ではない。
37歳の船長がいた。
その妻と、2歳になったばかりの娘がいた。
第一航海士、第二航海士、船内の食事を担う給仕兼料理人、そして4人の船員がいた。
1872年11月7日、彼ら10人はニューヨークからイタリアのジェノヴァへ向けて出航した。
そして、その後一人も戻ってこなかった。
メアリー・セレスト号について「なぜ船を捨てたのか」を考える前に、確認しておかなければならないことがある。
その判断をした可能性が高い船長は、どのような人物だったのか。
もし経験の浅い船長と問題を抱えた乗組員が乗っていたのなら、判断ミスや反乱という説明は比較的成立しやすい。
逆に、経験ある船長と通常の船員構成だったのなら、それだけで別の問いが生まれる。
なぜ彼らは、少なくとも後から見れば航行可能だった本船を離れたのか。
- 最後の航海に乗っていた10人の構成
- ベンジャミン・ブリッグス船長の経歴と評価
- 妻サラと娘ソフィアが乗船していた理由をどこまで確認できるか
- 7人の乗組員はどのような構成だったのか
- 「船員の反乱説」を人物背景だけで支持できるのか
- 乗船者の構成が退船判断の検証になぜ重要なのか
← 第1回|メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
第2回|最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員【現在の記事】
最後の航海に乗っていた10人
1872年11月にメアリー・セレスト号でニューヨークを出たのは、船長一家3人と7人の乗組員だった。
| 人物 | 立場 |
|---|---|
| Benjamin Spooner Briggs | 船長 |
| Sarah Briggs | 船長の妻 |
| Sophia Matilda Briggs | 船長の娘・2歳 |
| Albert G. Richardson | 第一航海士 |
| Andrew Gilling | 第二航海士 |
| Edward William Head | 給仕・料理人 |
| Volkert Lorenzen | 船員 |
| Boz Lorenzen | 船員 |
| Arian Martens | 船員 |
| Gottlieb Goudschaal | 船員 |
19世紀の記録では外国人船員の姓名表記に揺れがあり、Lorenzen / Lorensen、Martensの名、Goudschaalの綴りなどは資料によって異なる。
本記事では、Royal Museums Greenwichなど現在の主要資料で用いられている表記を基本とする。
重要なのは、10人全員について詳細な人物伝が残っているわけではないという点である。
特に一般船員について分かることは限られている。
資料が少ない部分を「性格」や「人間関係」で補うことはしない。
船長ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス
メアリー・セレスト号最後の船長、ベンジャミン・スプーナー・ブリッグスは1835年生まれ。
最後の航海時は37歳だった。
ブリッグス家は海との関係が深い一家で、ベンジャミン自身も若いころから船員として経験を積んでいた。
1872年の時点では、初めて大西洋へ出る新人船員ではなく、すでに商船を指揮してきた経験を持つ船長だった。
Smithsonianが後年の資料調査と子孫への取材を基にまとめた記事でも、ブリッグスは海運関係者から経験と能力を認められていた人物として扱われている。
ここは、メアリー・セレスト号を考えるうえで非常に重要である。
「海が怖くなって慌てて船を捨てた」というだけでは、十分な説明にならない。
もちろん、経験豊富な船長も判断を誤る。
経験があることは、ブリッグスが常に正しい判断をした証拠ではない。
だが少なくとも、
「航海経験のない人物が外洋でパニックになった」
という単純な説明は、確認できる人物像とは合わない。
家族を乗せていた船長
ブリッグスは一人で乗船していたわけではなかった。
妻サラ・ブリッグスと、2歳の娘ソフィア・マチルダも同じ船に乗っていた。
ブリッグス夫妻にはもう一人、アーサーという息子がいた。
当時7歳だったアーサーは学校へ通うためマサチューセッツに残り、最後の航海には同行しなかった。
結果だけを知る現在から見れば、この判断によってアーサーだけが一家の中で失踪を免れたことになる。
ただし、ここから「ブリッグスは危険な航海だと思って息子だけ残した」と推測する根拠はない。
確認できる資料では、学校へ通う年齢だったことが理由として説明されている。
FACT:妻サラと2歳の娘ソフィアはメアリー・セレスト号に乗船した。
FACT:7歳の息子アーサーはマサチューセッツに残った。
確認できない推測:ブリッグスが航海の危険を予感してアーサーを残した。
家族の存在が退船判断をさらに難しくする
妻と幼児が乗っていたという事実は、後の退船原因を考える際に大きな意味を持つ。
大型の帆船から小さな艇へ移る行為は、それ自体が危険である。
特に外洋では、風や波の影響を受けやすく、水や食料にも制約がある。
その艇へ妻と2歳の娘まで移したのだとすれば、ブリッグスは何らかの理由から、
「メアリー・セレスト号に残る危険」
を、
「小艇へ移る危険」
より大きいと評価した可能性がある。
ここで重要なのは「娘を乗せているのだから絶対に無謀な判断をしない」と決めつけることではない。
人間は状況を誤認することもある。
見るべきなのは、ブリッグスがその瞬間に何を知り、何を知ることができず、船の状態をどのように認識した可能性があるかである。
その検証は第6回で、ポンプ、浸水量、天候、船位認識と合わせて行う。
第一航海士アルバート・G・リチャードソン
船長の次に重要な人物が、第一航海士アルバート・G・リチャードソンだった。
Royal Museums Greenwichは、リチャードソンについてブリッグスがよく知っていた人物と記録している。
他の事件研究でも、以前にブリッグスの下で航海した経験があった人物として扱われている。
つまり、少なくとも第一航海士については、出航直前に初めて会った未知の船員ではなかった。
これは後世の反乱説を検討するときの一つの材料になる。
船長と第一航海士の間に実際に深刻な対立があったことを示す記録は、現在確認されていない。
ただし、
「知り合いだったから反乱は絶対に起きない」
とまでは言えない。
ここでも人物背景と事件原因を分ける必要がある。
リチャードソンの経歴は「反乱を証明する材料ではない」というところまでしか言えない。
第二航海士アンドリュー・ギリング
第二航海士はアンドリュー・ギリング。
当時の記録を基にした研究では、およそ25歳だったとされている。
第一航海士と第二航海士は、船長を補佐しながら航海当直や船の運用を担う立場にある。
少人数の19世紀商船では、一人一人の役割は大きかった。
メアリー・セレスト号のような帆船を大西洋横断航海させるには、船長だけが船を動かしているわけではない。
航海士と一般船員が交代しながら、操帆、操舵、見張り、船体管理を続ける必要がある。
この点も、「10人が突然一斉に不可解な行動を取った」というイメージを一度取り除く理由になる。
彼らは、それぞれ役割を持つ船舶運航組織だった。
給仕・料理人エドワード・ウィリアム・ヘッド
船内の給仕・料理を担当していたのがエドワード・ウィリアム・ヘッドだった。
資料によってはWilliam Headと簡略に記載される。
一般船員とは職務が異なるものの、少人数の商船では船内生活を維持する重要な役割を担った。
後世のメアリー・セレスト号伝説では、食卓や調理中の食事について劇的な描写が追加されることがある。
しかし、ヘッドが料理中だった瞬間に異常が起きたことを示す確実な記録はない。
「食事が途中だった」という物語から失踪時刻を逆算するようなことはできない。
4人の船員
残る4人は、
- Volkert Lorenzen
- Boz Lorenzen
- Arian Martens
- Gottlieb Goudschaal
である。
VolkertとBozは兄弟だった。
4人はドイツ系の船員で、資料ではフリースラント諸島方面の出身者としてまとめられることが多い。
ここで注意したいのが、彼らの姓名表記である。
19世紀の船員記録、領事関係文書、後世の転記では同じ人物の綴りが一定していない。
例えばLorenzenがLorensenと記録されたり、Goudschaalの姓にも複数の綴りが残っている。
これは別人が複数存在したことを意味するものではない。
当時の外国人姓名の記録・転記過程による表記差として扱う必要がある。
メアリー・セレスト号の一般船員については、米国の船員登録関係記録や後の領事文書でも姓名の綴りに差がある。
そのため本特集では、綴りの差だけを根拠に「乗員名簿が怪しい」「身元不明者がいた」といった解釈は行わない。
「問題のある乗組員だった」という証拠はあるのか
メアリー・セレスト号について古くから語られてきた説の一つに、乗組員による反乱がある。
船には大量のアルコールが積まれていた。
そこで、
船員が積荷を飲む
↓
酔って暴れる
↓
船長一家を殺害する
↓
船を離れる
という筋書きが語られることがあった。
しかし、この説明には最初から問題がある。
まず、積荷が飲酒用の酒だったわけではない。
積載されていたのは商業用のアルコールである。
そして、出航前の乗組員について、集団反乱を予告するような重大なトラブルがあったことを示す確実な資料も確認されていない。
第一航海士リチャードソンはブリッグスの知る人物だった。
また、後世の研究で参照される出航前の家族書簡にも、船長夫妻が乗組員に強い不安を抱いていたことを示す内容はない。
だからといって反乱が「不可能」だったとは言えない。
航海中に状況が変化した可能性までは排除できないからである。
正確な評価は、
反乱を積極的に裏付ける証拠が現在確認されていない
となる。
ブリッグスとモアハウスは「親友」だったのか
もう一つ、メアリー・セレスト号の話で頻繁に登場する人物関係がある。
発見船デイ・グラティアの船長デヴィッド・モアハウスと、ブリッグスが親しい友人だったという話である。
この設定は後に、二人が共謀して保険金やサルベージ報酬を得ようとしたという説にも結び付けられた。
両者が同じ海運社会に属し、互いを知っていた可能性は十分にある。
しかし、「非常に親しい友人で、出航前夜にも一緒に食事をしていた」という細部については慎重に扱う必要がある。
この話を裏付ける根拠としてよく挙げられるのは、事件から約50年後に語られたモアハウス夫人の回想であり、1872年時点の同時代記録による強い裏付けがある情報ではない。
したがって本特集では、
「ブリッグスとモアハウスは親友だった」ことを確定事実として、共謀説の前提にはしない。
このような細かな人物関係の誇張も、メアリー・セレスト号の伝説化を考えるうえで重要になる。
船長の性格から事故原因を決めてはいけない
ブリッグスは経験ある船長だった。
乗組員にも、出航前から大きな問題があったことを示す記録はない。
ここから、
「優秀な船長なのだから判断ミスはあり得ない」
と結論づけることも間違いである。
事故調査で人物の評判は補助情報にはなるが、それだけで行動を確定することはできない。
例えば実際の浸水量より多く浸水していると認識したなら、経験豊富な船長ほど早期退船を選ぶ可能性もある。
反対に、状況を過小評価して船に残る可能性もある。
判断の合理性を評価するには、
- その時点の天候
- 船位
- 船体の状態
- 浸水量
- ポンプが正常に使えたか
- 積荷の状態
- 近くに陸地が見えていたか
- 救命艇と本船をどのように運用しようとしたのか
まで確認する必要がある。
これらを無視して「ブリッグスは優秀だから○○するはずがない」と考えるのも、逆に「船を捨てたのだから無能だった」と考えるのも、どちらも結果から人物像を作ってしまうことになる。
10人全員が同時に「消えた」とは限らない
メアリー・セレスト号は「乗組員が忽然と消えた船」と呼ばれる。
だが、記録から確認できるのは、
11月25日の最後の航海記録以降のどこかで10人が船からいなくなり、12月4日にデイ・グラティアが無人の船を発見した、
というところまでである。
全員が一瞬で消えた証拠はない。
船長が退船を命じ、全員が順番に救命艇へ移った可能性もある。
一部の人間が先に艇へ乗り、その後残りが移った可能性も否定できない。
つまり「10人が消えた」という表現は、発見結果を示しているのであって、失踪の瞬間を観察した記録ではない。
この区別をしないと、事件そのものが必要以上に超常的に見えてしまう。
人物構成から分かること、分からないこと
| 区分 | 評価 |
|---|---|
| FACT | ブリッグスは経験を持つ商船船長だった |
| FACT | 妻サラと2歳の娘ソフィアが同行した |
| FACT | 7歳の息子アーサーは航海に同行しなかった |
| FACT | 第一航海士リチャードソンはブリッグスの知る船員だった |
| FACT | 船長一家3人+乗組員7人の計10人が出航した |
| LIKELY | 船長は乗組員に一定の信頼を置いて航海を開始していた |
| 未確認 | 航海中に重大な船内対立が発生した |
| 未確認 | 乗組員が反乱して船長一家を殺害した |
| 未確認 | ブリッグスが非合理的なパニックによって退船を命じた |
なぜこの10人は船を離れたのか
人物を確認しても、失踪原因そのものは分からない。
むしろ逆に、問題は少し難しくなる。
船を指揮していたのは経験ある船長だった。
第一航海士には、ブリッグスとの以前からの関係があった。
妻と幼い娘まで同乗していた。
乗組員が出航前から反乱状態にあったことを示す資料も確認されていない。
それでも、後に救命艇だけがなくなり、本船には誰も残っていなかった。
だから検討すべきなのは「船長が臆病だったか」「船員が悪人だったか」という人物評価ではない。
経験ある船員たちが、船を離れた方が安全だと判断し得る状況が本当に発生していたのか。
そこまで戻る必要がある。
そのためには、まず最後に彼ら自身が残した記録を確認しなければならない。
まとめ
メアリー・セレスト号最後の航海には、ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス船長、妻サラ、2歳の娘ソフィアと7人の乗組員が乗っていた。
ブリッグスは経験の浅い船員ではなく、37歳の時点ですでに商船船長として経験と評価を得ていた。
第一航海士アルバート・リチャードソンも、ブリッグスが以前から知る人物だった。
一方、7人の乗組員について詳細な人物記録が残っているわけではなく、航海中の人間関係を完全に復元することはできない。
したがって、出航前の人物背景だけから反乱説を完全に否定することもできない。
しかし同時に、反乱や船内暴力を積極的に裏付ける材料も確認されていない。
そして何より、船長は妻と2歳の娘を伴っていた。
もしブリッグスが退船を命じたのであれば、家族を含む10人を小さな艇へ移す危険よりも、本船に残る危険の方が大きいと判断したことになる。
では、その判断につながる異常はいつ現れたのか。
次回は1872年11月7日のニューヨーク出航から、記録が途絶える11月25日までを時間順に追う。
メアリー・セレスト号自身が最後に残した航海記録から、失踪直前の船がどこにいて、どのような状況に置かれていたのかを確認する。
CASE FILE 39|全記事
- メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
- 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
- 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
- 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
- ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
- なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
- 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
- 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
- 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
- 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理
出典・参考資料
- Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 最終航海の乗船者10人、各乗組員の氏名・役職、第一航海士リチャードソンとブリッグスの関係、1872年航海の基本事項を確認。
- Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― ブリッグスが経験と評価を持つ船長だったこと、妻サラ、娘ソフィア、息子アーサーに関する家族背景、現代の資料再検証を参照。
- Smithsonian Magazine「An Abandoned Merchant Ship Was Discovered Floating in the Atlantic in 1872」― ブリッグス一家と7人の乗組員、最終航海の基本事項を確認。
- United States Shipping Commissioner / U.S. National Archives由来の乗員記録― 乗組員の姓名・役職および原記録内での綴りの揺れを確認する際の基礎資料。
本記事では、人物の評判や性格だけから事件原因を推定していません。特に一般船員について残る個人情報は限定されているため、確認できない人物像や船内対立を補完せず、乗員名簿・博物館資料・後世の史料研究から確認可能な範囲のみを記載しています。また、19世紀の記録では外国人船員の姓名表記に複数の綴りが存在するため、表記差自体を事件上の異常とは扱っていません。