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チャック・イェーガー音速突破の後に何が変わったのかNACA研究・X-1A・Xプレーンへ続いた遺産

飛行中のBell X-1A
U.S. Government / Wikimedia Commons 出典 PUBLIC_DOMAIN

STORY SO FAR

前回「本当にイェーガーが「最初」だったのか|George Welch説と記録が示すこと」で確認した論点を受け、この回では音速突破の後に何が変わったのか | NACA研究・X-1A・Xプレーンへ続いた遺産の後に何が変わり、何が残ったのか。を扱う。

1947年10月14日、Bell X-1がMach 1.06へ到達した。

その出来事だけを切り取れば、物語はそこで完結しているように見える。

「人類は音速の壁を破った。」

しかし航空技術史では、むしろそこからが本番だった。

Mach 1を一度越えられたからといって、transonicからsupersonicの問題がすべて解決したわけではない。

どのMach数でdragが増えるのか。
翼と尾翼のpressure distributionはどう変わるのか。
elevatorとstabilizerはどこまで効くのか。
turnやpull-upを行うと何が起きるのか。
より高いMach数ではdirectional stabilityがどう崩れるのか。
大気が薄くなり、通常のaerodynamic controlが効かなくなったらどうするのか。
さらにMach 5、Mach 6へ進めば、空力加熱と材料はどうなるのか。

1947年のMach 1.06は、これらの問いへの最終回答ではない。

「未知の高速領域を、専用研究機で飛び、計測し、dataとして次の設計へ渡せる」ことを実証した最初の大きな転換点だった。

CASE055の最終記事では、X-1の記録そのものではなく、その後に残った研究方法を見る。

1947年10月14日でX-1研究は終わっていない

YeagerのMach 1.06飛行は、Air Force側のaccelerated programによる成果だった。

一方、NACAは別のX-1-2を使い、より詳細なresearch programを進めた。

NASAのFirst Generation X-1史によれば、NACA pilot Herbert H. Hooverは1947年10月21日にまずglide flightを行う。

12月16日のpowered flightではMach 0.84。

1948年1月にはHoward C. Lillyもprogramへ加わった。

NACAが最初に調べたのは、「最高速度をどこまで伸ばせるか」だけではない。

turn。
pull-up。
side slip。
elevator effectiveness。

つまり、あるMach数へ到達した後、その速度域で航空機をどう動かせるかを調べた。

ここにAir Force accelerated programとの違いがある。

Air ForceはMach 1へ早く到達する。

NACAは、その速度領域を細かく埋める。

1947年10月14日に境界線を越えたことで、次は境界線の周辺を地図化できるようになった。

1948年3月4日、Herbert HooverがMach 1.029へ

1948年3月4日。

Herbert H. HooverはNACAのX-1-2でMach 1.029へ到達した。

NASAはHooverを、Yeagerに続く2人目のMach 1到達者であり、最初のNACA pilot、そして最初のcivilian supersonic pilotと位置づけている。

この飛行の意味は、Yeagerの記録を塗り替えることではない。

同じX-1 programで、別pilot、別aircraft、別research sequenceによってMach 1を再び越えたことである。

これは工学研究として重要だった。

「一人の卓越したpilotが、一度だけ成功した」のではない。

飛行計画と機体と計測方法を引き継げば、別の研究pilotでもsupersonic flightを成立させられる。

つまりMach 1通過が、個人技からrepeatable research operationへ変わり始めた。

3月31日にはHoward LillyがMach 1.1へ到達する。

その後もRobert Champine、John Griffith、Scott Crossfield、Joe WalkerらがX-1 researchへ参加し、wing pressure distribution、stability and control、stabilizer effectivenessなどを調べた。

X-1の価値は、10月14日の一回だけではない。

同じplatformを使って、異なるpilotとengineerが繰り返しdataを増やせたことにある。

「記録を出す機体」から「データを作る機体」へ

X-planeという言葉は、最高速度や高度のrecordと結びつきやすい。

しかし研究機の価値をrecordだけで評価すると、本質を見失う。

NASAのD-558-II Skyrocket史には、この違いをよく示す言葉が残っている。

Scott CrossfieldはSkyrocketについて、後の数世代の航空機設計にdataを提供した機体だと回想している。

D-558-IIはswept-wing research aircraftだった。

X-1がstraight thin wingでMach 1周辺を切り開いたのに対し、D-558-IIでは後退翼を使い、

pitch-up。
yawとpitchのcoupling。
wing/tail loads。
lift。
drag。
buffeting。
rocket exhaust plumeがdynamic stabilityへ与える影響。

などを研究した。

つまり次の研究機は、X-1の単純な「高速版」ではない。

X-1で一つの領域が開かれたことで、今度はより実用機へ近いswept-wingの問題へ研究対象を移せるようになった。

高速飛行研究は、一台の機体を延々改良するのではなく、

問題ごとに適切なresearch airplaneを作り、前のprogramで得た知識を次へ渡す

方式へ発展した。

1953年11月20日、Scott CrossfieldがMach 2.005へ

Mach 1の次に象徴的な境界となったのがMach 2だった。

1953年11月20日、NACA pilot Scott CrossfieldはDouglas D-558-II SkyrocketでMach 2.005へ到達した。[4]

NASAはこれを、人間が初めてMach 2を越えた飛行としている。

高度は約62,000ft。

ここでもair launchが使われた。

SkyrocketはNavy designationでP2B-1Sと呼ばれたB-29系母機から投下され、rocket powerで上昇・加速した。

X-1で使われた、

母機で高度を稼ぐ。
短時間のrocket propulsionで研究速度へ入る。
dataを取る。
glideして帰る。

というtest architectureが、別の研究機でも使われている。

ただし研究内容はさらに進んでいた。

Mach 2へ近づけば、Mach 1周辺とは異なるstability問題が強くなる。

後退翼のpitch-upやcouplingなど、次世代fighterが実際に直面する問題へ研究が移っていく。

その22日後、YeagerはX-1AでMach 2.44へ

CrossfieldのMach 2.005から1か月も経たない1953年12月12日。

YeagerはBell X-1AでMach 2.44へ到達した。

NASAのSecond Generation X-1史では、高度74,200ft。

当時、有人航空機として最高速度だった。

ここだけ見れば、1947年のX-1がさらに速くなった成功物語に見える。

しかし、このflightはX-1 programの別の重要な遺産を示した。

速度を上げるほど、新しい不安定現象が現れる。

X-1AはMach 2.44へ到達した直後、左rollから右rollへ移り、激しいtumbleへ入った。

Yeagerはcockpit内で投げ回され、一時意識を失う。

NASAによれば、機体は大きくcontrolを失い、約29,000ftまで落下した後、Yeagerは意識を戻してinverted spinから回復し、Edwardsへ着陸した。

後のanalysisでは、Mach 2.3以上でdirectional stabilityが急速に悪化することが予測されていた。

つまり1947年の教訓が、そのまま再び現れた。

Mach 1が「壁」ではなかったように、Mach 2も単なる数字の壁ではない。

速度領域が変われば、機体のstability and control問題も変わる。

研究機は、その問題を実際のflightで発見し、dataとして残すために存在する。

X-1Aのtumbleは「失敗」ではなく、新しい限界の発見だった

もちろん、pilotが一時失神するほどのloss of controlは、安全上重大な事象である。

「研究だから事故寸前でも成功」と美化するべきではない。

ただしflight researchの目的から見ると、この事象は重要なdataを残した。

NASAのX-1A資料には、Mach number、altitude、G-forceなどのflight data graphが残されている。

当時のraw dataはonboard instrumentationでoscillograph filmへ記録され、人間のcomputerがtemperatureやinstrument errorを補正しながらdata sheetへ落とした。

つまり、極端なtumbleの最中でさえ、機体が何を経験したかが記録された。

これがresearch aircraftの強みである。

異常が起きたとき、

「危なかった」

で終わらない。

どのMach numberか。
どのaltitudeか。
どのG-loadか。
どのdirectional stability conditionか。

を後から分析し、次の設計へ反映できる。

1947年10月14日にNACA instrumentationがMach 1.06を確定したのと同じ発想が、Mach 2.44でも続いている。

X-1 seriesは、速度だけでなく「宇宙に近い制御」へ進んだ

X-1のsecond-generation aircraftにはX-1AだけでなくX-1Bもあった。

X-1Bでは、さらに別の問題が研究対象になる。

空気が薄い高高度では、翼や尾翼へ当たる空気が少なくなる。

通常のaerodynamic control surfaceは、空気から力を受けて機体姿勢を変える。

したがってdynamic pressureが極端に低くなると、elevatorやrudderを動かしても十分なcontrol forceを得られない。

では、ほとんど空気のない領域でどう機体を向けるか。

X-1Bでは、この課題に対してreaction control system、RCSの試験が行われた。

NASAによれば、1957年にhydrogen peroxide rocketをwingtip、aft fuselage、tailへ取り付け、低dynamic-pressure環境で機体姿勢を変える試験が準備された。

NACA test pilot Neil ArmstrongもX-1Bでreaction control performanceを経験するためのflightを行った。

この技術は、通常のairplane controlからspacecraft controlへつながる考え方である。

X-1BのRCS testは、後のX-15に向けたexperience acquisitionを目的としていた。

1947年には「Mach 1でelevatorが効くか」が問題だった。

1957年には「空気がほとんどないところで、そもそもaerodynamic controlが使えないならどうするか」が問題になる。

たった10年で、研究の境界はそこまで移動した。

X-2ではMach 3.2まで進み、新しい危険が現れた

高速研究はX-1だけで進んだわけではない。

Bell X-2は、Mach 2から3級のflight regimeを研究するために使われた。

1956年9月27日、Air Force pilot Mel AptはX-2でMach 3.2へ到達した。

NASAは、彼を初めてMach 3を越えた人物としている。

しかしその直後、X-2はdirectional stabilityを失い、diverging rollとtumbleへ入った。

Aptは脱出を試みたが死亡した。

このflightは、recordと研究riskの両面を象徴する。

Mach numberを上げること自体は達成できる。

だが、速度が上がればinertial couplingやdirectional stabilityなど、別の現象がflight envelopeの限界になる。

X-1Aで見えた問題が、X-2ではさらに深刻な形で現れた。

だからX-plane programは、「一つの壁を壊せばあとは一直線」という進歩ではない。

新しい領域へ進むたび、別の壁が見つかる。

そしてその壁を、wind tunnel、simulation、instrumented flight、事故解析を組み合わせて一つずつ理解する。

この反復こそX-plane方式だった。

1958年、NACAはNASAへ移行する

X-1 programを支えたNACAは、1958年10月1日にNASAへ移行した。

新しいNational Aeronautics and Space Administrationはspace programだけをゼロから作ったのではない。

NACAのlaboratory、人員、flight research culture、aeronautics expertiseを中核として引き継いだ。

NASA自身も、NACAの人々がexperience、knowledge、work practices、traditionsを新組織へ持ち込み、後の航空・宇宙活動の基盤になったと説明している。

Murocに作られたNACAの小さなflight-test unitも、その系譜の中でNASAのflight research centerへ続いていく。

名称は何度も変わった。

Muroc Flight Test Unit。
High-Speed Flight Research Station。
High-Speed Flight Station。
Flight Research Center。
Dryden Flight Research Center。
そして現在のArmstrong Flight Research Center。

場所と組織名は変わっても、

research aircraftを飛ばす。
dataを取る。
pilotとengineerが同じteamで解析する。
次のflight envelopeへ進む。

という方法は継承された。

X-15は、X-1の研究方式を「大気圏と宇宙の境界」まで拡張した

X-1の遺産を最もわかりやすく受け継いだ機体の一つがX-15である。

NASAのX-15史では、このprogramはNASA、U.S. Air Force、Navy、North American Aviationの共同事業だった。

ここにもX-1と似た構造がある。

government research organization。
military。
aircraft manufacturer。
test pilot。
engineer。

複数組織が一つのresearch vehicleを使って未知領域へ入る。

X-15も母機からair launchされた。

B-52から高度約45,000ftで切り離され、rocket engineを燃焼し、80〜120秒ほどで高速・高高度へ到達する。

その後は無推力でdry lakeへglide landingする。

flight architectureだけ見ても、X-1の考え方を大きく拡張したものだとわかる。

ただし速度と高度は桁違いだった。

X-15 programの最高速度はMach 6.7、4,520mph。

最高高度は354,200ft。

研究対象は、

hypersonic aerodynamics。
aerodynamic heating。
high-temperature 構造。
stability and control。
pilot physiology。
atmosphereの薄い領域でのreaction control。

へ広がった。

X-1で始まった「高速飛行研究」は、X-15ではaircraftとspacecraftの境界へ到達した。

X-15の価値も、Mach 6.7という記録だけではない

X-15は合計199回飛行した。

NASAは、programから765本を超える研究報告書が生まれたとしている。

これはX-planeの価値を理解するうえで象徴的な数字である。

最高速度flightだけが成果ではない。

あるflightではheatingを測る。
別のflightではstabilityを調べる。
別のflightではreaction controlを使う。
別のflightではpilot physiologyを測る。

一台のresearch aircraftを、多数のinstrumented experimentsへ使う。

NASAはX-15のdataがMercury、Gemini、Apollo、そしてSpace Shuttle programへ貢献したとしている。

特に、

hypersonic flight。
high-temperature materials。
reaction controls。
reentryに近いflight environment。
pilotがrocket-powered aerospace vehicleを扱う方法。

などは、航空機だけではなく有人宇宙飛行へつながる。

ここまで来ると、1947年のBell X-1とApollo spacecraftは形も任務もまったく違う。

それでも研究方法には連続性がある。

理論とwind tunnelだけでは確定できない領域へ、instrumented vehicleを送り込む。

pilotが実際に操作する。

dataを持ち帰る。

次のdesignへ反映する。

この方法がつながっている。

「記録を追う競争」と「研究」を分けて考える

X-plane史にはrecordが多い。

Mach 1.06。
Mach 2.005。
Mach 2.44。
Mach 3.2。
Mach 6.7。

数字を並べるだけでも、航空機が急速に高速化したことはわかる。

しかし、この並べ方には危険もある。

「もっと速く飛べば進歩」という単純な歴史に見えてしまうからだ。

たとえばD-558-IIの重要な成果はMach 2 recordだけではない。

swept-wing pitch-upやloads、buffetingなど、実用高速機に必要なdataを集めたことだった。

X-1AのMach 2.44では、むしろloss of directional stabilityが大きな研究成果になった。

X-1Bは最高速度ではなくreaction controlを試した。

X-15もMach 6.7だけでなく、hundreds of flight experimentsから膨大なengineering knowledgeを作った。

つまりrecordは、

research envelopeがどこまで拡張されたかを示す目印

ではある。

だが最終成果はdataである。

X-1が残した最大の技術は「X-1そのもの」ではなかった

1947年のX-1をそのまま実用fighterへ発展させたわけではない。

弾丸型胴体が、その後すべてのsupersonic aircraftの標準になったわけでもない。

straight thin wingは、実用機ではswept wingやdelta wingなど別の解へ進んだ。

rocket propulsionも通常のsupersonic fighterの主推進にはならなかった。

つまり、X-1というaircraft configuration自体は「完成した未来の飛行機」ではなかった。

それでもX-1が重要なのは、

未知のflight regimeを調べるためだけの専用machineを作り、実飛行dataを集め、そのdataを一般の航空機設計へ戻す

という方法を成功させたことにある。

この研究方式なら、研究機が量産機に似ている必要はない。

必要なのは、問題を切り分けられること。

measureできること。

pilotが帰還できること。

dataが次へ使えること。

これがX-plane philosophyの核になる。

X-1からX-15へ受け継がれた5つの考え方

1. 専用research aircraftを作る

完成品へ直接すべての未知要素を入れない。

まず研究対象に特化したvehicleを作る。

X-1ならtransonic/supersonic。
X-15ならhypersonic/high-altitude。

2. flight envelopeを段階的に拡張する

いきなり限界へ行かない。

X-1はMach 0.85から0.997まで段階的に進んだ。

X-15でも多数のflightを使い、速度、高度、研究条件を分けた。

3. onboard instrumentationを重視する

pilotの感想だけでは研究にならない。

pressure。
temperature。
Mach。
load。
acceleration。
control position。

を記録する。

4. anomalyをdataへ変える

予想外のtumbleやstability lossを「事故寸前だった」で終えない。

原因を分析し、次のdesign limitへ変える。

5. government・military・industryを横断する

NACA/NASAだけではaircraftを作らない。

Air Force、Navy、Bell、Douglas、North Americanなどと役割を分担する。

X-1で確立された共同研究方式は、後のX-planeでも繰り返された。

1947年の成功が「実用超音速機」を直接作ったわけではない

ここは過大評価を避けたい。

F-86、F-100、Century Series、Concorde、SR-71のような後世の高速機を、「すべてX-1から直接生まれた」と言うのは正確ではない。

supersonic aircraft developmentには、

swept-wing theory。
German wartime research。
NACA wind-tunnel work。
D-558 program。
jet-engine development。
area rule。
materials。
control systems。

など多数の技術系統がある。

X-1だけが唯一の起点ではない。

X-1の役割はもっと限定的で、同時に重要である。

Mach 1前後を有人機で安全に通過し、そこでの実測dataを取得できることを実証した。

この実証によって、Mach 1は「理論上越えられるかもしれない領域」から「飛行試験で調べられる領域」へ変わった。

その意味でX-1は、後続研究の入口を開いた。

「音速の壁」は消えたのではなく、設計問題へ変わった

CASE055-02で見たように、shock waveもcompressibilityもdrag riseも、1947年以後なくなったわけではない。

現代の航空機でもtransonic flowは重要なdesign issueである。

違うのは、現象が未知ではなくなったことだ。

wind tunnel。
CFD。
flight test。
instrumentation。

を使って予測し、管理する。

後退翼やsupercritical wingを使い、shock位置とdragを制御する。

control systemでstabilityを補う。

構造とmaterialsでheatingやloadへ対応する。

つまり「sound barrier」が破壊されたというより、

人間側が、そこにある物理現象をengineering problemへ変換できるようになった

と考えた方が正確である。

CASE055全体を振り返る

CASE055-01では、1947年10月14日のMach 1.06を航空史の転換点として全体像から見た。[3]

CASE055-02では、「音速の壁」の正体が一つの物理的壁ではなく、compressibility、local supersonic flow、shock wave、boundary-layer separation、drag、trim、controlの複合問題だったことを整理した。

CASE055-03では、その問題へBell X-1がどう答えたかを見た。

bullet-shaped fuselage。
thin straight wing。
adjustable stabilizer。
XLR-11。
B-29 air launch。

CASE055-04では、Yeager個人ではなく、NACA、Air Force、Bell、Reaction Motors、Ridley、Hooverらのteam 構造を追った。

CASE055-05では、Mach 0.85から0.997まで、repeat、calibration、control checkを重ねたflight-test progressionを見た。

CASE055-06では、1947年10月14日当日を追い、Mach 1通過が激しい「壁への衝突」ではなく、準備されたprocedureの延長として成立したことを確認した。[3]

CASE055-07では、George Welch先行説を検証し、「可能性として語られること」と「instrumented dataによって確認されたこと」を分離した。

そしてCASE055-08で見えてくるのは、

X-1の最大の遺産は、Mach 1.06という数字そのものではなかった

ということだ。

検証ポイント|X-1の「遺産」を大きく言いすぎないために

Yeagerの次にMach 1を越えたのは誰?

NASAのX-1史ではHerbert H. Hoover。

1948年3月4日、X-1-2でMach 1.029へ到達した。

最初のNACA pilot、最初のcivilian supersonic pilotでもある。

Yeagerが最初にMach 2も越えた?

違う。

最初のMach 2到達はNACAのScott Crossfield。

1953年11月20日、D-558-II SkyrocketでMach 2.005へ到達した。

Yeagerはその後、12月12日にX-1AでMach 2.44へ到達した。

X-1AのMach 2.44飛行は完全な成功だった?

速度記録は達成したが、その直後にsevere tumbleへ入り、Yeagerは一時意識を失った。

安全上は重大なloss-of-control eventであり、Mach 2級でのdirectional stability問題を示す重要な研究事象になった。

X-1Bは速度記録を狙った機体?

主目的をそこへ限定するのは誤り。

後期にはreaction control systemのtestbedとして使われ、高高度・低dynamic pressureでの姿勢制御研究を行った。

X-15はX-1をそのまま大型化した機体?

違う。

X-15はhypersonic、高高度、heating、materials、reaction controlなど、はるかに広い研究課題を持つ別世代のresearch aircraftである。

ただしair launch、rocket propulsion、glide landing、instrumented flight、段階的envelope expansionなど、研究方法には明確な連続性がある。

X-1がApolloを直接生んだ?

その表現は強すぎる。

Apolloにはrocket、guidance、reentry、life supportなど多数の技術系統がある。

一方、X-planeで蓄積された高速・高高度flight researchの文化と、特にX-15のdataはNASA自身がMercury、Gemini、Apollo、Space Shuttleへ貢献したとしている。

X-1以後、「音速の壁」の問題はなくなった?

なくなっていない。

shock wave、compressibility、wave drag、transonic controlは現在も航空機設計の問題である。

変わったのは、未知の恐怖から、測定・予測・設計できるengineering problemへ移ったことである。

最後に残ったもの

1947年10月14日、X-1がMach 1.06へ到達したとき、航空機が突然別の世界へ入ったわけではない。

空気の物理法則は変わらない。

shock waveは存在する。
dragは増える。
control characteristicsは変わる。
速度をさらに上げれば、新しいstability問題も出る。

変わったのは、人間がその領域を扱う方法だった。

わからないから避けるのではなく、

専用機を作る。
計測する。
小さく条件を変える。
異常を記録する。
dataを解析する。
次のflightへ反映する。

そして、得られた知識を次の航空機へ渡す。

この方法は、X-1からD-558-II、X-1A、X-1B、X-2、X-15へ続いた。

さらにNACAからNASAへ組織が変わっても残った。

だからBell X-1の本当の遺産は、「人間が初めて音より速く飛んだ」という一文だけではない。

未知だった空を、試験とデータによって既知へ変える方法を示したこと。

それこそが、1947年のMach 1.06から後世へ残った最も大きなものだった。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] NASA, “First Generation X-1”
  2. [2] NASA, “Second Generation X-1”
  3. [3] NASA, “Yeager’s Mach 2.44 Flight in the X-1A”
  4. [4] NASA, “D-558-II Skyrocket”
  5. [5] NASA, “A. Scott Crossfield”
  6. [6] NASA Technical Reports Server, “Flight Behavior of the X-2 Research Airplane to a Mach Number of 3.20 and a Geometric Altitude of 126,200 Feet”
  7. [7] NASA, “Bell Aircraft Corporation X-1B Rocket-Powered Aircraft”
  8. [8] NASA, “X-15 Hypersonic Research Program”
  9. [9] NASA, “X-15 Hypersonic Research Aircraft”
  10. [10] NASA, “October 1, 1958”
  11. [11] NASA History, “NACA Overview”
  12. [12] NASA, “NASA Moves to Begin Historic New Era of X-Plane Research”
  1. 01 チャック・イェーガーはどう音速の壁を破ったのか|1947年Bell X-1初の有人超音速飛行
  2. 02 チャック・イェーガー|「音速の壁」とは何だったのか|遷音速で起きる圧縮性・衝撃波・操縦性の問題
  3. 03 チャック・イェーガー|Bell X-1はなぜ弾丸の形だったのか|薄翼・調整式水平安定板・XLR11ロケット
  4. 04 なぜイェーガーが選ばれたのか|テストパイロットとNACA・空軍・Bellのチーム
  5. 05 チャック・イェーガー|Mach 1直前まで何が起きていたのか|1947年8月から10月10日までのX-1試験飛行
  6. 06 チャック・イェーガー|1947年10月14日、Mach 1.06へ|Bell X-1音速突破飛行の全経過
  7. 07 本当にイェーガーが「最初」だったのか|George Welch説と記録が示すこと
  8. 08 チャック・イェーガー|音速突破の後に何が変わったのか|NACA研究・X-1A・Xプレーンへ続いた遺産

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