STORY SO FAR
前回「本当にイェーガーが「最初」だったのか|George Welch説と記録が示すこと」で確認した論点を受け、この回では音速突破の後に何が変わったのか | NACA研究・X-1A・Xプレーンへ続いた遺産の後に何が変わり、何が残ったのか。を扱う。
1947年10月14日、Bell X-1がMach 1.06へ到達した。
その出来事だけを切り取れば、物語はそこで完結しているように見える。
「人類は音速の壁を破った。」
しかし航空技術史では、むしろそこからが本番だった。
Mach 1を一度越えられたからといって、transonicからsupersonicの問題がすべて解決したわけではない。
どのMach数でdragが増えるのか。
翼と尾翼のpressure distributionはどう変わるのか。
elevatorとstabilizerはどこまで効くのか。
turnやpull-upを行うと何が起きるのか。
より高いMach数ではdirectional stabilityがどう崩れるのか。
大気が薄くなり、通常のaerodynamic controlが効かなくなったらどうするのか。
さらにMach 5、Mach 6へ進めば、空力加熱と材料はどうなるのか。
1947年のMach 1.06は、これらの問いへの最終回答ではない。
「未知の高速領域を、専用研究機で飛び、計測し、dataとして次の設計へ渡せる」ことを実証した最初の大きな転換点だった。
CASE055の最終記事では、X-1の記録そのものではなく、その後に残った研究方法を見る。
1947年10月14日でX-1研究は終わっていない
YeagerのMach 1.06飛行は、Air Force側のaccelerated programによる成果だった。
一方、NACAは別のX-1-2を使い、より詳細なresearch programを進めた。
NASAのFirst Generation X-1史によれば、NACA pilot Herbert H. Hooverは1947年10月21日にまずglide flightを行う。
12月16日のpowered flightではMach 0.84。
1948年1月にはHoward C. Lillyもprogramへ加わった。
NACAが最初に調べたのは、「最高速度をどこまで伸ばせるか」だけではない。
turn。
pull-up。
side slip。
elevator effectiveness。
つまり、あるMach数へ到達した後、その速度域で航空機をどう動かせるかを調べた。
ここにAir Force accelerated programとの違いがある。
Air ForceはMach 1へ早く到達する。
NACAは、その速度領域を細かく埋める。
1947年10月14日に境界線を越えたことで、次は境界線の周辺を地図化できるようになった。
1948年3月4日、Herbert HooverがMach 1.029へ
1948年3月4日。
Herbert H. HooverはNACAのX-1-2でMach 1.029へ到達した。
NASAはHooverを、Yeagerに続く2人目のMach 1到達者であり、最初のNACA pilot、そして最初のcivilian supersonic pilotと位置づけている。
この飛行の意味は、Yeagerの記録を塗り替えることではない。
同じX-1 programで、別pilot、別aircraft、別research sequenceによってMach 1を再び越えたことである。
これは工学研究として重要だった。
「一人の卓越したpilotが、一度だけ成功した」のではない。
飛行計画と機体と計測方法を引き継げば、別の研究pilotでもsupersonic flightを成立させられる。
つまりMach 1通過が、個人技からrepeatable research operationへ変わり始めた。
3月31日にはHoward LillyがMach 1.1へ到達する。
その後もRobert Champine、John Griffith、Scott Crossfield、Joe WalkerらがX-1 researchへ参加し、wing pressure distribution、stability and control、stabilizer effectivenessなどを調べた。
X-1の価値は、10月14日の一回だけではない。
同じplatformを使って、異なるpilotとengineerが繰り返しdataを増やせたことにある。
「記録を出す機体」から「データを作る機体」へ
X-planeという言葉は、最高速度や高度のrecordと結びつきやすい。
しかし研究機の価値をrecordだけで評価すると、本質を見失う。
NASAのD-558-II Skyrocket史には、この違いをよく示す言葉が残っている。
Scott CrossfieldはSkyrocketについて、後の数世代の航空機設計にdataを提供した機体だと回想している。
D-558-IIはswept-wing research aircraftだった。
X-1がstraight thin wingでMach 1周辺を切り開いたのに対し、D-558-IIでは後退翼を使い、
pitch-up。
yawとpitchのcoupling。
wing/tail loads。
lift。
drag。
buffeting。
rocket exhaust plumeがdynamic stabilityへ与える影響。
などを研究した。
つまり次の研究機は、X-1の単純な「高速版」ではない。
X-1で一つの領域が開かれたことで、今度はより実用機へ近いswept-wingの問題へ研究対象を移せるようになった。
高速飛行研究は、一台の機体を延々改良するのではなく、
問題ごとに適切なresearch airplaneを作り、前のprogramで得た知識を次へ渡す
方式へ発展した。
1953年11月20日、Scott CrossfieldがMach 2.005へ
Mach 1の次に象徴的な境界となったのがMach 2だった。
1953年11月20日、NACA pilot Scott CrossfieldはDouglas D-558-II SkyrocketでMach 2.005へ到達した。[4]
NASAはこれを、人間が初めてMach 2を越えた飛行としている。
高度は約62,000ft。
ここでもair launchが使われた。
SkyrocketはNavy designationでP2B-1Sと呼ばれたB-29系母機から投下され、rocket powerで上昇・加速した。
X-1で使われた、
母機で高度を稼ぐ。
短時間のrocket propulsionで研究速度へ入る。
dataを取る。
glideして帰る。
というtest architectureが、別の研究機でも使われている。
ただし研究内容はさらに進んでいた。
Mach 2へ近づけば、Mach 1周辺とは異なるstability問題が強くなる。
後退翼のpitch-upやcouplingなど、次世代fighterが実際に直面する問題へ研究が移っていく。
その22日後、YeagerはX-1AでMach 2.44へ
CrossfieldのMach 2.005から1か月も経たない1953年12月12日。
YeagerはBell X-1AでMach 2.44へ到達した。
NASAのSecond Generation X-1史では、高度74,200ft。
当時、有人航空機として最高速度だった。
ここだけ見れば、1947年のX-1がさらに速くなった成功物語に見える。
しかし、このflightはX-1 programの別の重要な遺産を示した。
速度を上げるほど、新しい不安定現象が現れる。
X-1AはMach 2.44へ到達した直後、左rollから右rollへ移り、激しいtumbleへ入った。
Yeagerはcockpit内で投げ回され、一時意識を失う。
NASAによれば、機体は大きくcontrolを失い、約29,000ftまで落下した後、Yeagerは意識を戻してinverted spinから回復し、Edwardsへ着陸した。
後のanalysisでは、Mach 2.3以上でdirectional stabilityが急速に悪化することが予測されていた。
つまり1947年の教訓が、そのまま再び現れた。
Mach 1が「壁」ではなかったように、Mach 2も単なる数字の壁ではない。
速度領域が変われば、機体のstability and control問題も変わる。
研究機は、その問題を実際のflightで発見し、dataとして残すために存在する。
X-1Aのtumbleは「失敗」ではなく、新しい限界の発見だった
もちろん、pilotが一時失神するほどのloss of controlは、安全上重大な事象である。
「研究だから事故寸前でも成功」と美化するべきではない。
ただしflight researchの目的から見ると、この事象は重要なdataを残した。
NASAのX-1A資料には、Mach number、altitude、G-forceなどのflight data graphが残されている。
当時のraw dataはonboard instrumentationでoscillograph filmへ記録され、人間のcomputerがtemperatureやinstrument errorを補正しながらdata sheetへ落とした。
つまり、極端なtumbleの最中でさえ、機体が何を経験したかが記録された。
これがresearch aircraftの強みである。
異常が起きたとき、
「危なかった」
で終わらない。
どのMach numberか。
どのaltitudeか。
どのG-loadか。
どのdirectional stability conditionか。
を後から分析し、次の設計へ反映できる。
1947年10月14日にNACA instrumentationがMach 1.06を確定したのと同じ発想が、Mach 2.44でも続いている。
X-1 seriesは、速度だけでなく「宇宙に近い制御」へ進んだ
X-1のsecond-generation aircraftにはX-1AだけでなくX-1Bもあった。
X-1Bでは、さらに別の問題が研究対象になる。
空気が薄い高高度では、翼や尾翼へ当たる空気が少なくなる。
通常のaerodynamic control surfaceは、空気から力を受けて機体姿勢を変える。
したがってdynamic pressureが極端に低くなると、elevatorやrudderを動かしても十分なcontrol forceを得られない。
では、ほとんど空気のない領域でどう機体を向けるか。
X-1Bでは、この課題に対してreaction control system、RCSの試験が行われた。
NASAによれば、1957年にhydrogen peroxide rocketをwingtip、aft fuselage、tailへ取り付け、低dynamic-pressure環境で機体姿勢を変える試験が準備された。
NACA test pilot Neil ArmstrongもX-1Bでreaction control performanceを経験するためのflightを行った。
この技術は、通常のairplane controlからspacecraft controlへつながる考え方である。
X-1BのRCS testは、後のX-15に向けたexperience acquisitionを目的としていた。
1947年には「Mach 1でelevatorが効くか」が問題だった。
1957年には「空気がほとんどないところで、そもそもaerodynamic controlが使えないならどうするか」が問題になる。
たった10年で、研究の境界はそこまで移動した。
X-2ではMach 3.2まで進み、新しい危険が現れた
高速研究はX-1だけで進んだわけではない。
Bell X-2は、Mach 2から3級のflight regimeを研究するために使われた。
1956年9月27日、Air Force pilot Mel AptはX-2でMach 3.2へ到達した。
NASAは、彼を初めてMach 3を越えた人物としている。
しかしその直後、X-2はdirectional stabilityを失い、diverging rollとtumbleへ入った。
Aptは脱出を試みたが死亡した。
このflightは、recordと研究riskの両面を象徴する。
Mach numberを上げること自体は達成できる。
だが、速度が上がればinertial couplingやdirectional stabilityなど、別の現象がflight envelopeの限界になる。
X-1Aで見えた問題が、X-2ではさらに深刻な形で現れた。
だからX-plane programは、「一つの壁を壊せばあとは一直線」という進歩ではない。
新しい領域へ進むたび、別の壁が見つかる。
そしてその壁を、wind tunnel、simulation、instrumented flight、事故解析を組み合わせて一つずつ理解する。
この反復こそX-plane方式だった。
1958年、NACAはNASAへ移行する
X-1 programを支えたNACAは、1958年10月1日にNASAへ移行した。
新しいNational Aeronautics and Space Administrationはspace programだけをゼロから作ったのではない。
NACAのlaboratory、人員、flight research culture、aeronautics expertiseを中核として引き継いだ。
NASA自身も、NACAの人々がexperience、knowledge、work practices、traditionsを新組織へ持ち込み、後の航空・宇宙活動の基盤になったと説明している。
Murocに作られたNACAの小さなflight-test unitも、その系譜の中でNASAのflight research centerへ続いていく。
名称は何度も変わった。
Muroc Flight Test Unit。
High-Speed Flight Research Station。
High-Speed Flight Station。
Flight Research Center。
Dryden Flight Research Center。
そして現在のArmstrong Flight Research Center。
場所と組織名は変わっても、
research aircraftを飛ばす。
dataを取る。
pilotとengineerが同じteamで解析する。
次のflight envelopeへ進む。
という方法は継承された。
X-15は、X-1の研究方式を「大気圏と宇宙の境界」まで拡張した
X-1の遺産を最もわかりやすく受け継いだ機体の一つがX-15である。
NASAのX-15史では、このprogramはNASA、U.S. Air Force、Navy、North American Aviationの共同事業だった。
ここにもX-1と似た構造がある。
government research organization。
military。
aircraft manufacturer。
test pilot。
engineer。
複数組織が一つのresearch vehicleを使って未知領域へ入る。
X-15も母機からair launchされた。
B-52から高度約45,000ftで切り離され、rocket engineを燃焼し、80〜120秒ほどで高速・高高度へ到達する。
その後は無推力でdry lakeへglide landingする。
flight architectureだけ見ても、X-1の考え方を大きく拡張したものだとわかる。
ただし速度と高度は桁違いだった。
X-15 programの最高速度はMach 6.7、4,520mph。
最高高度は354,200ft。
研究対象は、
hypersonic aerodynamics。
aerodynamic heating。
high-temperature 構造。
stability and control。
pilot physiology。
atmosphereの薄い領域でのreaction control。
へ広がった。
X-1で始まった「高速飛行研究」は、X-15ではaircraftとspacecraftの境界へ到達した。
X-15の価値も、Mach 6.7という記録だけではない
X-15は合計199回飛行した。
NASAは、programから765本を超える研究報告書が生まれたとしている。
これはX-planeの価値を理解するうえで象徴的な数字である。
最高速度flightだけが成果ではない。
あるflightではheatingを測る。
別のflightではstabilityを調べる。
別のflightではreaction controlを使う。
別のflightではpilot physiologyを測る。
一台のresearch aircraftを、多数のinstrumented experimentsへ使う。
NASAはX-15のdataがMercury、Gemini、Apollo、そしてSpace Shuttle programへ貢献したとしている。
特に、
hypersonic flight。
high-temperature materials。
reaction controls。
reentryに近いflight environment。
pilotがrocket-powered aerospace vehicleを扱う方法。
などは、航空機だけではなく有人宇宙飛行へつながる。
ここまで来ると、1947年のBell X-1とApollo spacecraftは形も任務もまったく違う。
それでも研究方法には連続性がある。
理論とwind tunnelだけでは確定できない領域へ、instrumented vehicleを送り込む。
pilotが実際に操作する。
dataを持ち帰る。
次のdesignへ反映する。
この方法がつながっている。
「記録を追う競争」と「研究」を分けて考える
X-plane史にはrecordが多い。
Mach 1.06。
Mach 2.005。
Mach 2.44。
Mach 3.2。
Mach 6.7。
数字を並べるだけでも、航空機が急速に高速化したことはわかる。
しかし、この並べ方には危険もある。
「もっと速く飛べば進歩」という単純な歴史に見えてしまうからだ。
たとえばD-558-IIの重要な成果はMach 2 recordだけではない。
swept-wing pitch-upやloads、buffetingなど、実用高速機に必要なdataを集めたことだった。
X-1AのMach 2.44では、むしろloss of directional stabilityが大きな研究成果になった。
X-1Bは最高速度ではなくreaction controlを試した。
X-15もMach 6.7だけでなく、hundreds of flight experimentsから膨大なengineering knowledgeを作った。
つまりrecordは、
research envelopeがどこまで拡張されたかを示す目印
ではある。
だが最終成果はdataである。
X-1が残した最大の技術は「X-1そのもの」ではなかった
1947年のX-1をそのまま実用fighterへ発展させたわけではない。
弾丸型胴体が、その後すべてのsupersonic aircraftの標準になったわけでもない。
straight thin wingは、実用機ではswept wingやdelta wingなど別の解へ進んだ。
rocket propulsionも通常のsupersonic fighterの主推進にはならなかった。
つまり、X-1というaircraft configuration自体は「完成した未来の飛行機」ではなかった。
それでもX-1が重要なのは、
未知のflight regimeを調べるためだけの専用machineを作り、実飛行dataを集め、そのdataを一般の航空機設計へ戻す
という方法を成功させたことにある。
この研究方式なら、研究機が量産機に似ている必要はない。
必要なのは、問題を切り分けられること。
measureできること。
pilotが帰還できること。
dataが次へ使えること。
これがX-plane philosophyの核になる。
X-1からX-15へ受け継がれた5つの考え方
1. 専用research aircraftを作る
完成品へ直接すべての未知要素を入れない。
まず研究対象に特化したvehicleを作る。
X-1ならtransonic/supersonic。
X-15ならhypersonic/high-altitude。
2. flight envelopeを段階的に拡張する
いきなり限界へ行かない。
X-1はMach 0.85から0.997まで段階的に進んだ。
X-15でも多数のflightを使い、速度、高度、研究条件を分けた。
3. onboard instrumentationを重視する
pilotの感想だけでは研究にならない。
pressure。
temperature。
Mach。
load。
acceleration。
control position。
を記録する。
4. anomalyをdataへ変える
予想外のtumbleやstability lossを「事故寸前だった」で終えない。
原因を分析し、次のdesign limitへ変える。
5. government・military・industryを横断する
NACA/NASAだけではaircraftを作らない。
Air Force、Navy、Bell、Douglas、North Americanなどと役割を分担する。
X-1で確立された共同研究方式は、後のX-planeでも繰り返された。
1947年の成功が「実用超音速機」を直接作ったわけではない
ここは過大評価を避けたい。
F-86、F-100、Century Series、Concorde、SR-71のような後世の高速機を、「すべてX-1から直接生まれた」と言うのは正確ではない。
supersonic aircraft developmentには、
swept-wing theory。
German wartime research。
NACA wind-tunnel work。
D-558 program。
jet-engine development。
area rule。
materials。
control systems。
など多数の技術系統がある。
X-1だけが唯一の起点ではない。
X-1の役割はもっと限定的で、同時に重要である。
Mach 1前後を有人機で安全に通過し、そこでの実測dataを取得できることを実証した。
この実証によって、Mach 1は「理論上越えられるかもしれない領域」から「飛行試験で調べられる領域」へ変わった。
その意味でX-1は、後続研究の入口を開いた。
「音速の壁」は消えたのではなく、設計問題へ変わった
CASE055-02で見たように、shock waveもcompressibilityもdrag riseも、1947年以後なくなったわけではない。
現代の航空機でもtransonic flowは重要なdesign issueである。
違うのは、現象が未知ではなくなったことだ。
wind tunnel。
CFD。
flight test。
instrumentation。
を使って予測し、管理する。
後退翼やsupercritical wingを使い、shock位置とdragを制御する。
control systemでstabilityを補う。
構造とmaterialsでheatingやloadへ対応する。
つまり「sound barrier」が破壊されたというより、
人間側が、そこにある物理現象をengineering problemへ変換できるようになった
と考えた方が正確である。
CASE055全体を振り返る
CASE055-01では、1947年10月14日のMach 1.06を航空史の転換点として全体像から見た。[3]
CASE055-02では、「音速の壁」の正体が一つの物理的壁ではなく、compressibility、local supersonic flow、shock wave、boundary-layer separation、drag、trim、controlの複合問題だったことを整理した。
CASE055-03では、その問題へBell X-1がどう答えたかを見た。
bullet-shaped fuselage。
thin straight wing。
adjustable stabilizer。
XLR-11。
B-29 air launch。
CASE055-04では、Yeager個人ではなく、NACA、Air Force、Bell、Reaction Motors、Ridley、Hooverらのteam 構造を追った。
CASE055-05では、Mach 0.85から0.997まで、repeat、calibration、control checkを重ねたflight-test progressionを見た。
CASE055-06では、1947年10月14日当日を追い、Mach 1通過が激しい「壁への衝突」ではなく、準備されたprocedureの延長として成立したことを確認した。[3]
CASE055-07では、George Welch先行説を検証し、「可能性として語られること」と「instrumented dataによって確認されたこと」を分離した。
そしてCASE055-08で見えてくるのは、
X-1の最大の遺産は、Mach 1.06という数字そのものではなかった
ということだ。
検証ポイント|X-1の「遺産」を大きく言いすぎないために
Yeagerの次にMach 1を越えたのは誰?
NASAのX-1史ではHerbert H. Hoover。
1948年3月4日、X-1-2でMach 1.029へ到達した。
最初のNACA pilot、最初のcivilian supersonic pilotでもある。
Yeagerが最初にMach 2も越えた?
違う。
最初のMach 2到達はNACAのScott Crossfield。
1953年11月20日、D-558-II SkyrocketでMach 2.005へ到達した。
Yeagerはその後、12月12日にX-1AでMach 2.44へ到達した。
X-1AのMach 2.44飛行は完全な成功だった?
速度記録は達成したが、その直後にsevere tumbleへ入り、Yeagerは一時意識を失った。
安全上は重大なloss-of-control eventであり、Mach 2級でのdirectional stability問題を示す重要な研究事象になった。
X-1Bは速度記録を狙った機体?
主目的をそこへ限定するのは誤り。
後期にはreaction control systemのtestbedとして使われ、高高度・低dynamic pressureでの姿勢制御研究を行った。
X-15はX-1をそのまま大型化した機体?
違う。
X-15はhypersonic、高高度、heating、materials、reaction controlなど、はるかに広い研究課題を持つ別世代のresearch aircraftである。
ただしair launch、rocket propulsion、glide landing、instrumented flight、段階的envelope expansionなど、研究方法には明確な連続性がある。
X-1がApolloを直接生んだ?
その表現は強すぎる。
Apolloにはrocket、guidance、reentry、life supportなど多数の技術系統がある。
一方、X-planeで蓄積された高速・高高度flight researchの文化と、特にX-15のdataはNASA自身がMercury、Gemini、Apollo、Space Shuttleへ貢献したとしている。
X-1以後、「音速の壁」の問題はなくなった?
なくなっていない。
shock wave、compressibility、wave drag、transonic controlは現在も航空機設計の問題である。
変わったのは、未知の恐怖から、測定・予測・設計できるengineering problemへ移ったことである。
最後に残ったもの
1947年10月14日、X-1がMach 1.06へ到達したとき、航空機が突然別の世界へ入ったわけではない。
空気の物理法則は変わらない。
shock waveは存在する。
dragは増える。
control characteristicsは変わる。
速度をさらに上げれば、新しいstability問題も出る。
変わったのは、人間がその領域を扱う方法だった。
わからないから避けるのではなく、
専用機を作る。
計測する。
小さく条件を変える。
異常を記録する。
dataを解析する。
次のflightへ反映する。
そして、得られた知識を次の航空機へ渡す。
この方法は、X-1からD-558-II、X-1A、X-1B、X-2、X-15へ続いた。
さらにNACAからNASAへ組織が変わっても残った。
だからBell X-1の本当の遺産は、「人間が初めて音より速く飛んだ」という一文だけではない。
未知だった空を、試験とデータによって既知へ変える方法を示したこと。
それこそが、1947年のMach 1.06から後世へ残った最も大きなものだった。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] NASA, “First Generation X-1”
- [2] NASA, “Second Generation X-1”
- [3] NASA, “Yeager’s Mach 2.44 Flight in the X-1A”
- [4] NASA, “D-558-II Skyrocket”
- [5] NASA, “A. Scott Crossfield”
- [6] NASA Technical Reports Server, “Flight Behavior of the X-2 Research Airplane to a Mach Number of 3.20 and a Geometric Altitude of 126,200 Feet”
- [7] NASA, “Bell Aircraft Corporation X-1B Rocket-Powered Aircraft”
- [8] NASA, “X-15 Hypersonic Research Program”
- [9] NASA, “X-15 Hypersonic Research Aircraft”
- [10] NASA, “October 1, 1958”
- [11] NASA History, “NACA Overview”
- [12] NASA, “NASA Moves to Begin Historic New Era of X-Plane Research”
チャック・イェーガー|人類はどう音速の壁を越えたのか 第8回 全8回 全8回を見る
- 01 チャック・イェーガーはどう音速の壁を破ったのか|1947年Bell X-1初の有人超音速飛行
- 02 チャック・イェーガー|「音速の壁」とは何だったのか|遷音速で起きる圧縮性・衝撃波・操縦性の問題
- 03 チャック・イェーガー|Bell X-1はなぜ弾丸の形だったのか|薄翼・調整式水平安定板・XLR11ロケット
- 04 なぜイェーガーが選ばれたのか|テストパイロットとNACA・空軍・Bellのチーム
- 05 チャック・イェーガー|Mach 1直前まで何が起きていたのか|1947年8月から10月10日までのX-1試験飛行
- 06 チャック・イェーガー|1947年10月14日、Mach 1.06へ|Bell X-1音速突破飛行の全経過
- 07 本当にイェーガーが「最初」だったのか|George Welch説と記録が示すこと
- 08 チャック・イェーガー|音速突破の後に何が変わったのか|NACA研究・X-1A・Xプレーンへ続いた遺産