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スペインかぜ日本では何が起きたのか――大正7年から始まった三つの流行

1918年、インフルエンザ対策のマスクを着けて客に対応する理髪師

STORY SO FAR

前回「都市は何をしたのか――休校・集会禁止・隔離と対応の差」で確認した論点を受け、この回では日本では何が起きたのか――大正7年から始まった三つの流行について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

1918年インフルエンザ・パンデミックは、日本でも大規模な被害を出した。

当時の中央行政が編纂した『流行性感冒』には、全国の患者数・死亡者数、各地の流行時期、学校・軍隊・交通機関などへの影響が詳細にまとめられている。

日本では一般に、1918年秋から始まる流行を「第一回流行」、1919年末から1920年にかけての再流行を「第二回流行」、その後の1920~1921年の流行を「第三回流行」として整理する資料がある。[3]

内務省衛生局の報告をもとにした集計では、第一回から第三回までの患者数は合計約2380万人、死亡者は約38万9000人に達したとされる。

しかし、この数字をそのまま「日本で実際に感染した人数」「実際にパンデミックで死亡した人数」の完全な真値として扱うことはできない。

理由は、当時の届出制度、診断基準、死亡原因の分類、統計精度に限界があるからである。

さらに後世には、人口動態統計を使った超過死亡推計や人口変化からの再推計が行われ、約48万人、あるいは200万人近い人口損失を推定する研究まで存在する。一方、その大幅な再推計を過大と批判する研究もある。

日本の1918年パンデミックを理解するには、公式報告値と後世の推計値を混同せず、どの方法で得た数字なのかを分けて読むことが不可欠である。

日本での流行は1918年秋に本格化した

内務省衛生局『流行性感冒』では、日本国内の最初期の流行として1918年8月下旬ごろからの発生が記録されている。

その後、秋に全国的な流行へ拡大した。

学校、軍隊、工場、官庁、交通機関など、集団生活・集団労働の場で患者が急増した。

日本でも世界各地と同じように、短期間に多数の人が発症するため、日常生活と社会機能へ大きな影響が出た。

1918年当時の日本は、鉄道網の発達、都市人口の増加、工場労働、軍隊、学校制度などを通じて、人が大量に集まり移動する社会になっていた。

したがって日本の流行も、単に「海外から病気が入った」という一回の輸入事象ではなく、国内の人流ネットワークを通じて各地へ広がったと考える必要がある。

第一回流行――患者数が非常に多かった1918年秋

第一回流行は、1918年秋から1919年初頭にかけて全国へ広がった。

内務省の統計では、この時期に非常に多くの患者が報告されている。

第一回流行の特徴は、罹患者数が極めて多い一方、後の第二回流行と比較すると症例致死率が相対的に低いと整理されることが多い。

これは世界の「春の軽い第一波/秋の重い第二波」という単純な区分とは一致しない。

日本への到達時期と地域ごとの波が、欧米とはずれているからである。

つまり、日本の「第一回」「第二回」「第三回」は、世界共通の「第一波」「第二波」「第三波」と機械的に対応させてはいけない。

ここは用語上の重要な注意点である。

日本の流行は都道府県で同時ではなかった

後世の月別死亡統計研究では、1918~1919年シーズンのピーク月が都道府県ごとに違っていたことが示されている。

47都道府県のうち、多くは1918年11月に肺炎・インフルエンザ超過死亡のピークを迎えたが、12月や1919年2月にピークを持つ県もあった。

北日本ほど遅いピークを示す傾向も報告されている。

これは、全国流行を一つの同時発生として描くと実態を見誤ることを意味する。

感染は鉄道、船舶、地域交通、都市間移動などを通じて時間差を持って広がった。

また、地域ごとの人口密度や医療体制、既往感染、社会条件も異なる。

日本国内だけでも、パンデミックは一つの均質な経験ではなかった。

第二回流行――患者数は減っても死亡負荷が重くなった

1919年末から1920年にかけて、日本では再び大きな流行が起きた。

内務省資料ではこれを第二回流行として整理する。

第一回より患者数は少なくても、死亡の比重が大きい地域があり、流行の「重さ」は単純な患者数だけでは比較できない。

後世の超過死亡研究でも、日本では1919~1920年シーズンの死亡負荷が無視できず、一部の県では第二シーズンの方が大きな被害を受けた。

Chowellらの研究では、1918年10月~1919年5月と、1919年12月~1920年5月の二つの主要シーズンを比較し、全国の累積超過死亡のかなりの部分が後者に集中したと推定している。[3]

これは「スペインかぜは1918年だけの出来事」という認識が、日本でも誤りであることを示す。

第三回流行――終息までにはさらに時間がかかった

内務省資料では、その後の流行も第三回として記録され、日本国内の流行は1921年まで続いたと整理される。

ただし第三回は、第一回・第二回と同じ規模ではない。

感染症のパンデミックは、ある日突然ゼロになるわけではない。

大きな流行波が小さくなり、地域差を伴いながら再燃を繰り返し、やがて季節性流行へ移行していく。

日本の三回流行は、その移行過程を行政記録として可視化したものと見ることができる。

「約2380万人感染、約38万9000人死亡」の意味

日本のスペインかぜについて最もよく引用される数字が、患者約2380万人、死亡約38万9000人である。

この数字は、内務省衛生局がまとめた『流行性感冒』に基づく行政報告値として重要である。

当時の日本人口が約5600万人前後であることを考えると、報告患者だけでも極めて大きな割合を占める。

しかし、この数字には二つの限界がある。

第一に、すべての感染者が行政へ報告されたわけではない。

軽症者、医療機関を受診しなかった人、診断されなかった人は統計から漏れる可能性がある。

第二に、死亡原因の分類が現代ほど精密ではない。

インフルエンザそのもの、肺炎、気管支炎など、実際にはパンデミックと関連していても別死因として記録される場合がある。

したがって38万9000人は「行政が把握した死亡数」であり、パンデミックに起因する超過死亡全体とは別概念である。

超過死亡という別の測り方

後世の疫学研究では、平常年なら予想される死亡数と、パンデミック期に実際に観測された死亡数との差から「超過死亡」を推定する。

この方法の利点は、死亡診断書にinfluenzaと明記されていなくても、パンデミックによる間接的・関連死亡をある程度拾えることにある。

Chowellらは、日本の1915~1923年の月別死亡統計を用い、季節性の基準線を推定した。

その結果、1918~1920年の二つの主要パンデミックシーズンで、肺炎・インフルエンザ超過死亡を約41万5000人、全死因超過死亡を約48万1500人と推定した。[3]

この値は内務省公式死亡数より大きいが、桁は同じである。

同研究は、日本での死亡負荷が1918~1919年だけでなく1919~1920年にも大きく続いた点を強調している。

200万人近い人口損失推計は何を意味するのか

一方、別の研究では、都道府県別人口データを用いて、パンデミック前後の人口増加傾向から期待人口を推定し、実際の人口との差を「人口損失」として計算した。

その結果、約197万~202万人という非常に大きな損失が推定された。

これは従来の公式死亡数や超過死亡推計を大きく上回る。

研究者は、当時の死亡登録の不完全性によって従来値が過小評価されている可能性を指摘した。

しかし、この推計には批判もある。

別の研究者は、日本の死亡登録制度は当時の他のアジア地域より整備されており、約200万人もの死亡が全国的に記録されずに消えるのは不自然だと反論した。また、1920年国勢調査開始など人口統計制度の変化が推計へ影響する可能性も指摘された。

したがって「本当は200万人死んだ」と確定することはできない。

この論争が示すのは、歴史人口統計からパンデミック死者数を推定する方法自体に不確実性があるということだ。

どの数字を記事で使うべきか

本シリーズでは、目的ごとに数字を使い分ける。

行政が当時把握した規模

患者約2380万人、死亡約38万9000人。

→ 内務省衛生局の行政報告値として扱う。

後世の月別死亡統計からみた超過死亡

約48万人規模の全死因超過死亡推計。

→ 平常年との差を使った疫学的推計として扱う。

人口成長モデルからみた大幅な人口損失

約200万人規模。

→ 一つの再推計として紹介し、批判研究も併記する。

この三つを混ぜない。

「日本の死者数は○○万人だった」と一つの数字だけで断定すると、統計手法の違いが消えてしまう。

日本でも若年成人の死亡が目立った

日本の年齢別死亡パターンも、米国や英国と同様に若年成人で大きく上昇した。

日本・米国・英国を比較した研究では、25~44歳でパンデミック死亡リスクが高く、通常年と比較して大幅な増加がみられた。

これは1918年の若年成人死亡が、米軍や欧米都市特有の現象ではなかったことを示す。

日本でも、ウイルス側の性質や出生コホートの免疫履歴など、国をまたぐ要因が作用した可能性がある。

一方、地域ごとの死亡率には最大で数倍の差があり、人口密度や基本的な人口統計だけでは十分説明できなかった。

同じ国の中でも、流行のタイミングと死亡負荷は大きく異なった。

日本の都市化と交通網

1918年の日本は、明治期以降の鉄道整備と都市化が進んでいた。

東京、大阪、横浜、神戸などの都市と地方都市、農村が鉄道・船舶で結ばれていた。

工場、鉱山、軍隊、学校など大人数が集まる施設も増えていた。

この社会構造は経済成長と行政統合を支えた一方、呼吸器感染症にとっては接触ネットワークを広げる条件になった。

第一回流行が地域差を持ちながら全国へ広がった過程は、CASE065-03で見た世界規模の軍事輸送ネットワークと同じ原理を国内スケールで示している。

学校と軍隊は流行を観測しやすい場所だった

集団施設は感染が広がりやすいだけでなく、欠席者や患者数を把握しやすい。

学校では欠席が急増する。

軍隊では医務記録が残る。

工場では出勤率が下がる。

こうした集団単位の異常は、一般家庭に散在する軽症患者より行政が認識しやすい。

そのため歴史資料上、学校や軍隊の流行が目立つ。

ただし「学校や軍隊だけで流行した」という意味ではない。

記録が残りやすい場所が史料上強く見える、という観測バイアスを考える必要がある。

当時の行政は何をしたのか

日本でも予防啓発、患者への注意、学校や集会への対応、マスク利用などが行われた。

ただし全国一律に同じ時期・同じ強度で実施されたわけではない。

行政資料や地域史を見ると、地方ごとの判断や学校・事業所単位の対応も大きかった。

1918年の日本では、インフルエンザウイルスそのものを検査することはできない。

したがって対策は、患者発生状況と経験的な感染症対策を頼りに行われた。

欧米都市と同様、日本でも公衆衛生は「病原体を治療する」より「接触を減らす」「患者を休ませる」「衛生を呼びかける」という方向に偏らざるを得なかった。

マスクは日本でも象徴になった

日本の1918年パンデミックでは、マスクの使用が広く知られている。

当時の新聞広告や啓発資料にも、予防具としてマスクが登場する。

ただし現代の不織布マスクと同じ性能を想定してはいけない。

素材、形状、装着方法、交換頻度は異なる。

また、マスク利用率や地域差を正確に測るデータも限られる。

したがって「日本ではマスク文化があったから死亡が少なかった」といった単純な因果は避ける。

日本の死亡負荷自体が、統計の取り方によって大きく変わるからである。

なぜ日本の死亡推計はこれほど議論になるのか

理由の一つは、1918年日本が「近代的統計制度を整備しつつある過渡期」だったことにある。

戸籍制度や人口統計は存在した。

一方、1920年には初の国勢調査が行われ、人口把握の方法が大きく変わる。

パンデミック前後で統計制度そのものが変化すると、人口増加モデルはその影響を受ける可能性がある。

また、第一次世界大戦期の人口移動、出生率、海外移住なども人口変化へ影響する。

そのため、人口が予想より減った分をすべてパンデミック死亡とみなす方法には慎重さが必要になる。

一方、死亡診断書だけに依存すれば、肺炎など関連死を取りこぼす可能性がある。

つまり、どの推計方法にも長所と弱点がある。

三回流行を図にすると何が見えるか

CASE065-06の図では、1918年から1921年までを横軸にし、内務省の第一回・第二回・第三回流行を区分する。

その上に、後世の月別超過死亡研究で確認される1918~1919年シーズンと1919~1920年シーズンを重ねる。

ここで目的は、二つの分類が完全一致するように見せることではない。

行政報告の「流行区分」と、後世の統計モデルによる「死亡波」を別レイヤーで表示することに意味がある。

また、1918~1919年では多くの県が11月にピークを持つ一方、北部などで遅れる傾向を注記する。

これにより、日本全体を単一ピークとして描く誤解を避けられる。

日本における1918年からの三つの流行波を示す概念図
日本で記録された複数の流行波を、行政統計の読み方に注意して示す概念図。

「第一回・第二回・第三回」と「第一波・第二波・第三波」を混同しない

日本語資料を読むときに最も起きやすい誤解が、内務省の「第一回流行」「第二回流行」「第三回流行」を、そのまま世界史で語られる「first wave」「second wave」「third wave」へ対応させることである。

世界的な説明では、1918年春の比較的軽い流行を第一波、1918年秋の高死亡流行を第二波、1919年初頭の再流行を第三波と呼ぶことが多い。

一方、日本で行政上「第一回流行」としてまとめられた大流行は1918年秋から始まる。つまり欧米の時系列で言う秋の大流行期と重なる部分が大きい。

このため「日本の第一回流行=世界の第一波」と書くと、一見整って見えて実際の時間軸がずれる。

本シリーズでは、世界規模では「wave」、日本の内務省資料では「第一回流行~第三回流行」と用語を分ける。図でもラベルを別にし、同じ番号だから同じ現象だと誤認しないようにする。

公式患者数には「分母」の問題もある

患者約2380万人という数字は巨大だが、これを人口で割って単純な感染率とするときにも注意が必要である。

当時の人口統計は現代の国勢調査後の連続推計と同じ精度ではない。1920年には日本初の国勢調査が行われるため、1918年前後では人口の把握方法そのものが変化する。

また、患者数の集計方法や報告率が流行回ごと、地域ごとに同じだった保証もない。医療機関へ行く割合、学校や軍隊の集団報告、地域行政の集計能力が異なれば、観測される患者数は変わる。

したがって「患者2380万人÷人口=真の感染率」とはしない。この値は行政が把握した罹患規模を示す指標として使う。

地域差は単純な人口密度だけでは説明できない

後世の47都道府県比較では、人口規模や人口密度、年齢構成、平常時死亡率だけでは、都道府県間の死亡率差の大部分を説明できなかった。

これは重要である。都市ほど必ず死亡率が高い、農村ほど必ず安全という単純な関係ではない。

流行侵入時期、過去の波への曝露、世帯構成、交通接続、医療アクセス、地域の公衆衛生対応など、統計に十分残っていない要因が影響した可能性がある。

日本は一つの島国としてまとめて見るより、47の異なる流行曲線を持つ地域システムとして見る方が実態に近い。

二つの死亡推計が違うのは「どちらかが計算ミス」だからではない

約48万人という超過死亡推計と約200万人という人口損失推計は、同じデータを同じ式で計算して違う答えになったわけではない。

前者は月別死亡時系列から平常時の季節パターンを推定し、観測死亡との差を計算する。後者は都道府県別人口の長期成長傾向から、パンデミックがなければ到達したはずの人口と実人口との差を見る。

推定対象も前提も異なるため、結果の差は方法論の差を反映する。

人口損失には死亡だけでなく出生変動、移動、統計制度変更などが混入する可能性がある。一方、死亡統計には死因分類や登録漏れの問題がある。

このため本記事では、一方を「正解」、他方を「誤り」と簡単には決めず、推計方法と批判を併記する。

日本は「被害が少なかった国」だったのか

公式死亡数だけを世界人口比と比較すると、日本の死亡率は一部の国より低く見える。

そのため「日本は比較的被害が少なかった」と説明されることがある。

しかし、後世の超過死亡研究では約48万人規模の死亡負荷が推定され、地域差も大きい。

さらに大幅な人口損失を提案する研究も存在する。

したがって、「日本は例外的にうまく防いだ」と結論づける根拠は弱い。

一方、「実は200万人が死亡していた」と反対方向へ断定することもできない。

最も妥当なのは、日本でも巨大な死亡負荷があり、その正確な規模には統計上の不確実性が残るという整理である。

日本の経験が示すもの

日本の1918年パンデミックには、世界史の中で重要な特徴がある。

第一に、流行が1918年だけで終わらず、1919~1920年にも大きな死亡負荷を持った。

第二に、都道府県ごとに流行ピークと死亡率が大きく異なった。

第三に、若年成人死亡という1918年特有の年齢パターンが日本でも見られた。

第四に、行政報告値と後世の疫学推計の差が大きく、歴史統計の読み方そのものが研究課題になっている。

そして第五に、内務省が大量の統計と対策記録を残したことで、日本はアジアにおける1918年パンデミックを数量的に検討できる重要な事例となっている。

「終息」は1921年の一日ではない

内務省資料では大正10年、1921年まで流行経過が追われている。

しかし、そこに「この日をもってパンデミック終了」と一本の線を引くことは難しい。

世界的にも、1919年、1920年に新しい波があり、その後1918 H1N1系統は季節性インフルエンザとして残った。

日本の三回流行は、パンデミックが大流行から小規模流行へ段階的に移行した一例である。

次の記事では、この「パンデミックはいつ終わったのか」という問題を、日本だけでなくNew Yorkなど複数地域の波と、ウイルス系統の継続という二つの観点から考える。


FACT CHECK

日本の患者数は約2380万人だったのか

内務省の行政報告値としてはその規模である。
ただし全感染者を検査で確認した数字ではなく、未報告・軽症例を含む実感染数とは一致しない。

日本の死者は約38万9000人で確定か

確定値ではない。
内務省報告に基づく重要な公式値だが、後世の超過死亡研究では約48万人規模が推定されている。

約200万人死亡したという研究があるのか

あるが、強い論争がある。
人口成長モデルから約197万~202万人の人口損失を推定した研究がある一方、過大推計と批判する研究もある。

日本の流行は1918年だけだったのか

違う。
1919~1920年にも大きな死亡負荷があり、内務省資料は第三回流行まで追っている。

日本全国で同じ時期にピークを迎えたのか

違う。
多くの県は1918年11月にピークを迎えたが、12月や1919年2月など遅い県もあり、地理的な時間差があった。

日本だけ若年成人死亡が少なかったのか

違う。
日本でも25~44歳など若年成人で通常年より大きな死亡リスク上昇が確認されている。


FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] 内務省衛生局『流行性感冒』に関する国立国会図書館レファレンス協同データベース
  2. [2] 福井県文書館・レファレンス協同データベース「1918年のインフルエンザ・パンデミック」
  3. [3] Chowell G et al. “A comparative study of the 1918–1920 influenza pandemic in Japan, USA and UK.”
  4. [4] Richard SA et al. “Deaths Associated with Influenza Pandemic of 1918–19, Japan.”
  5. [5] Ohkusa Y. “Verification of the Overestimation of the ‘Deaths Associated with Influenza Pandemic of 1918-1919, Japan’ Claimed in a Demographic Study.”
  1. 01 スペインかぜとは何だったのか――1918年、世界を覆ったパンデミック
  2. 02 スペインかぜ|パンデミックはどこから始まったのか――起源が今も断定できない理由
  3. 03 スペインかぜ|なぜ世界中へ広がったのか――第一次世界大戦と人の移動
  4. 04 スペインかぜ|なぜ若い成人まで多く死んだのか――第二波と異常な死亡曲線
  5. 05 スペインかぜ|都市は何をしたのか――休校・集会禁止・隔離と対応の差
  6. 06 スペインかぜ|日本では何が起きたのか――大正7年から始まった三つの流行
  7. 07 スペインかぜ|パンデミックはいつ終わったのか――1919〜1921年、後続する波の実像
  8. 08 スペインかぜ|100年後、1918年のウイルスはどう解かれたのか――保存組織・ゲノム・再構築

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