THE QUESTION
なぜ若い成人まで多く死んだのか――第二波と異常な死亡曲線について、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「なぜ世界中へ広がったのか――第一次世界大戦と人の移動」で確認した論点を受け、この回ではなぜ若い成人まで多く死んだのか――第二波と異常な死亡曲線について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1918年インフルエンザ・パンデミックが「普通のインフルエンザではなかった」と感じさせる最大の特徴の一つが、若い成人の死亡が異常に多かったことである。
通常の季節性インフルエンザでは、死亡率は乳幼児と高齢者で高く、その中間の健康な成人では低くなる。年齢別死亡率をグラフにすると、おおむねU字型になる。
ところが1918年には、その中央にもう一つ大きな山が現れた。
20~40歳前後の若い成人で死亡率が大きく上昇し、全体として「W字型」の曲線になった。
これは1918年パンデミックを象徴する現象である。
しかし、この現象を「若者は免疫が強すぎてサイトカインストームで死んだ」と一文で説明するのは危険だ。
現在の研究では、1918年の若年成人死亡は、ウイルスの病原性、宿主の免疫履歴、年齢ごとの既往感染、二次性細菌性肺炎、集団内の曝露条件、流行波の違いが重なった結果と考える方が妥当である。
このArticleでは、「W字型死亡曲線」が何を意味し、どこまで原因がわかっているのかを分けて見る。
まず、W字型とは何か
1918年以前の米国におけるインフルエンザ・肺炎死亡率は、年齢別に見ると典型的なU字型だった。
乳幼児では高い。
成長すると急速に低下する。
若年・中年成人では低い。
高齢になると再び上昇する。
ところが1918年には、若い成人に第三のピークが出現した。
TaubenbergerとMorensらのレビューでは、20~40歳前後に明瞭な死亡ピークがあり、特に20代後半付近で高くなる傾向が示されている。
米国の15~34歳では、1918~1919年のインフルエンザ・肺炎死亡率が、それ以前の年より20倍以上高かったという古典的な推計もある。[1]
また、1918~1919年のインフルエンザ関連超過死亡の大部分が65歳未満に集中した点も、後の1957年や1968年パンデミックと大きく異なる。[1]
重要なのは、「若者も死んだ」というだけではない。
通常なら相対的に低リスクであるはずの年齢層が、死亡曲線の中心に独立した山を形成したことである。
「若者だけが死んだ」は誤り
W字型という言葉が強調されると、1918年には若者だけが死亡したように見える。
実際には違う。
乳幼児にも高い死亡率があり、高齢者にも死亡はあった。
ただし高齢者の死亡は、当時の年齢構成や通常年と比較すると、若年成人ほど異常な増え方ではなかった。
一部の研究では、1918年当時の高齢者が、19世紀に流行したH1あるいはN1に近いインフルエンザウイルスへの曝露によって部分的な免疫を持っていた可能性が議論されている。
つまり年齢は、単なる「体力の強さ」を示しているのではなく、その世代が人生のどの時点で、どのようなインフルエンザウイルスに初めて曝露したかという免疫履歴の指標でもあり得る。
年齢そのものではなく「出生コホート」を見る
1918年に28歳だった人は1890年前後に生まれている。
この時期は、1889~1890年のいわゆる「ロシアかぜ」パンデミックと重なる。
このため研究者は、若年成人の高死亡を、出生年ごとの最初のインフルエンザ曝露と結びつけて説明できないか検討してきた。
仮説の一つが「抗原刷り込み(antigenic imprinting)」である。
免疫系は、幼少期に最初に遭遇したインフルエンザウイルスに対して強い記憶を作る。その後、似ているが異なるウイルスに遭遇したとき、過去の記憶が有利に働く場合もあれば、十分に適合しない応答へ偏る可能性もある。
1918年に高死亡となった若年成人が、幼少期に遭遇したウイルスと1918年H1N1との抗原関係によって不利な免疫応答を示したのではないか、という考えである。
この仮説は、単純な「若者は免疫が強かったから危険だった」という説明よりも、年齢パターンを具体的に扱える。
ただし、これも確定した唯一の答えではない。
1889年パンデミックの原因ウイルス自体についても議論があり、当時の血清サンプルやウイルス配列は存在しない。
したがって、出生コホートと免疫履歴の仮説は有力な説明の一つだが、1918年若年成人死亡を完全に解決したわけではない。
「サイトカインストーム」だけでは説明できない
1918年パンデミックについて一般向けに語られる説明の中で有名なのが、若い成人は免疫反応が強いため、過剰な炎症反応、いわゆるサイトカインストームを起こして死亡したという説である。
免疫応答が病態悪化に関与した可能性は研究されており、1918年ウイルスの動物モデルでも強い炎症反応が観察されている。
しかし、人間の1918年死亡統計を「免疫が強いほど死ぬ」という単純な図式へ還元するのは適切ではない。
理由は複数ある。
第一に、多くの死亡例では二次性細菌性肺炎が重要だった。
第二に、若年成人の死亡率は感染率だけでは説明できず、出生コホートごとの免疫履歴が関与した可能性がある。
第三に、戦場にいた若い男性だけでなく、民間の若い女性などでも高死亡が観察されている。
第四に、重症化にはウイルス、宿主、細菌感染、医療環境が相互作用する。
したがって、「サイトカインストーム」は可能な機序の一部として扱うべきで、1918年の若年成人死亡の単独原因として固定すべきではない。
多くの死者に共通したのは肺炎だった
1918年死亡例の病理を見直した研究は、パンデミックの理解を大きく変えた。
Morens、Taubenberger、Fauciらは、1918~1919年の58例の保存肺組織と、109の公表剖検シリーズ、計8398例に及ぶ記録を検討した。[1]
その結果、多くの死亡例で、インフルエンザ感染後に起きた二次性細菌性肺炎が重要な役割を果たしていたことが示された。
代表的な細菌には、肺炎球菌、溶血性連鎖球菌、黄色ブドウ球菌などが含まれる。
インフルエンザウイルスは呼吸器上皮を傷害し、防御機構を弱める。
そこへ上気道などに存在する細菌が侵入すると、気管支肺炎が進行する。
現代なら抗菌薬で治療できる可能性のある細菌感染が、1918年には治療できなかった。
ペニシリンの臨床利用はまだ先の時代である。
この点は、1918年の死亡負荷を現代のインフルエンザと直接比較するときに重要になる。
ウイルスそのものの性質だけでなく、抗菌薬が存在しない医療技術条件が死亡数を押し上げていた。
では、ウイルスそのものは危険ではなかったのか
「多くの死亡は細菌性肺炎だった」と聞くと、1918年ウイルス自体は普通だったように感じるかもしれない。
それも正しくない。
1918年ウイルスは、肺に強い障害を起こし、細菌感染が成立しやすい条件を作ったと考えられる。
死亡例の病理では、びまん性肺胞障害、肺水腫、出血など、重いウイルス性肺炎に一致する所見も確認されている。
急速に悪化し、発症後短期間で死亡する劇症型の症例も存在した。
ただし、剖検記録全体を見ると、その劇症型だけで何千万規模の死亡を説明することはできない。
多数の患者では、ウイルス感染に続いて細菌性肺炎が加わる「ウイルス-細菌の連続感染」が致命的だった。
1918年の病原性を理解するには、ウイルス単独か細菌単独かという二者択一ではなく、ウイルスが宿主の肺を変化させ、その後に細菌感染が加わる複合病態として見る必要がある。
第二波では何が変わったのか
1918年春の第一波は、多くの地域で感染者数が多かったが、秋の第二波ほど死亡率が高くなかった。
この差から、「春から秋の間にウイルスが突然変異し、致死的になった」という物語が広く語られてきた。
しかし、現在の証拠はそれほど単純ではない。
1918年初期と秋のウイルスを比較できる保存資料は極めて少ない。
近年の遺伝学的研究では、1918年春の初期症例に由来するウイルス配列が秋のパンデミック株と非常に近かった可能性が示されている。
もしそうなら、第二波の高死亡は一つの突然変異だけでは説明できない。
季節条件、宿主免疫、感染規模、細菌性肺炎、医療逼迫、人口移動などの複合要因が必要になる。
第二波の「凶悪化」は現象として明瞭だが、その原因を単一変異に固定することはできない。
病気になる率と死ぬ率は違う
若年成人の死亡が多かった理由を考えるとき、もう一つ区別が必要である。
ある年齢層で患者が多かったのか。
それとも、感染した後に死亡しやすかったのか。
1918年には若い成人で罹患率自体が高かった地域もある。
しかし、年齢別の症例致死率を考慮しても若年成人に死亡ピークが残る研究がある。
つまり「若者は軍隊や職場でよく感染したから、人数が多く死んだ」だけではない。
感染後の重症化リスクにも年齢特有の違いがあった可能性が高い。
この点が、免疫履歴や細菌性肺炎への感受性といった機序を考える理由になる。
戦争のストレスだけでも説明できない
若年成人の多くが兵士だったため、塹壕生活、栄養不良、疲労、毒ガス曝露などが死亡増加の原因だったという説明も考えられる。
これらが個々の兵士の健康状態へ悪影響を与えた可能性は否定できない。
しかし若い成人の高死亡は軍人だけに限られない。
民間人、女性、戦場から離れた地域でも同様の年齢パターンが観察されている。
したがって、戦争条件は一部の集団でリスクを増幅したとしても、W字型死亡曲線そのものを説明する十分条件ではない。
高齢者が相対的に守られていた可能性
1918年のW字型で不思議なのは、若者が高死亡だったことだけではない。
高齢者の死亡が「予想ほど高くなかった」点も重要である。
19世紀にH1またはN1に似た抗原を持つウイルスへ曝露していた高齢者が、1918年H1N1に対して部分的な交差免疫を持っていた可能性が議論されている。
もし高齢者に何らかの免疫学的優位があり、若年成人には不利な初回曝露履歴があったなら、両方が組み合わさってW字型が強調される。
この考え方の利点は、年齢を「体力」ではなく免疫史として扱えることだ。
ただし、19世紀の流行ウイルスについて直接的なゲノム資料は乏しく、ここにも不確実性がある。
若年成人死亡のピークは場所によって同じだったのか
大まかなW字型は広く観察されたが、正確なピーク年齢や死亡率は地域によって異なる。
カナダ・米国の詳細データでは28歳付近に明瞭なピークを報告した研究がある。
一方、日本、英国、米国を比較した研究でも25~44歳の死亡リスク上昇が確認されているが、流行時期や地域の背景死亡、人口構成には差がある。
つまり「世界中で28歳が同じ確率で死んだ」という話ではない。
W字型は共通する大きなパターンであり、その細部には地域差がある。
W字型を読むときの三つの注意
W字型死亡曲線は1918年を象徴するが、図を見ただけで病態の原因まで読み取ることはできない。
第一に、死亡率と罹患率は別である。ある年齢層の患者数が多いから死亡者数が増えたのか、感染した後に重症化しやすかったのかを分ける必要がある。1918年の研究では、若年成人は罹患率も高かったが、症例致死の側にも年齢特有のピークが残るとされる。
第二に、インフルエンザ死亡と肺炎死亡の分類は当時一貫していない。死亡診断書にはinfluenza、pneumonia、bronchopneumoniaなど複数の表現が使われる。後世の研究が「influenza and pneumonia」を組み合わせたり、超過死亡を使ったりするのは、この分類上の揺れを減らすためでもある。
第三に、集団ごとの曝露条件が違う。兵士、工場労働者、家庭内で育児をする人、都市住民、農村住民では接触頻度も基礎疾患も異なる。年齢曲線は生物学だけでなく社会的な曝露を含む結果である。
したがって、W字型は「若年成人に異常な死亡負荷があった」という現象を示す強い証拠ではあるが、それ自体が原因を一つに決める証拠ではない。
二次性肺炎が若年成人ピークとどう結びつくのか
ここもまだ完全には解けていない。
1918年の若年成人は、他の年齢層よりインフルエンザ後の細菌性肺炎へ進みやすかった可能性が指摘されている。TaubenbergerとMorensらは、1918年の若年成人に二次性細菌性肺炎が不均衡に多かったことが、W字型死亡の一部を説明する可能性を論じている。
しかし「若者は細菌を持っていたから」という単純な話ではない。上気道の肺炎球菌や連鎖球菌、黄色ブドウ球菌は特別な1918年専用細菌ではない。問題は、インフルエンザ感染後の肺がそれらの細菌に対して極端に脆弱になったことにある。
ウイルスが気道上皮を損傷し、粘液線毛クリアランスや局所免疫を乱し、そこへ細菌が侵入する。宿主側の炎症反応が強いほど組織傷害が増えれば、さらに細菌感染へ移行しやすくなる可能性もある。
このため、1918年の重症化は「ウイルス→死亡」という一本の矢印ではなく、ウイルス感染→肺防御低下→細菌性肺炎→呼吸不全という連鎖として見る方が、剖検記録と整合しやすい。
妊婦など、若年成人の中でも均一ではなかった
20~40歳という大きな年齢区分の内部にも差がある。1918年の記録では、妊婦は重症化・死亡リスクが高い集団として報告されている。
これは、若年成人というカテゴリーを一枚岩として扱えないことを示す。妊娠、生理学的状態、基礎疾患、栄養、居住環境、医療アクセスなどによってリスクは変わる。
したがって「健康な若者が突然死亡した」という当時の強烈な印象は事実として重要だが、疫学的には個々の宿主要因を無視してはいけない。
図で見るべきなのは「患者数」ではなく「死亡率」
このArticleの図では、1918年の年齢別死亡曲線を、通常年のU字型と並べる。
重要なのは、単なる死亡者数ではなく、年齢人口を分母にした死亡率あるいは超過死亡率で比較することである。
人口の多い年齢層は、同じリスクでも死亡者数が多く見える。
W字型が意味するのは、人口構成を考慮しても若年成人の死亡リスクが異常に上昇したことだ。
図には「乳幼児」「20~40歳前後」「高齢者」の三つの山を示し、通常年との違いを視覚化する。
ただし、一本の理論を原因として図中へ書き込まない。
免疫刷り込み、ウイルス病原性、細菌性肺炎などは説明候補として別枠に置く。

抗菌薬があったら被害は小さかったのか
これは反実仮想なので、正確な数を出すことはできない。
ただし、1918年死亡例の大部分で二次性細菌性肺炎が重要だったという病理学的証拠を考えると、抗菌薬が利用可能であれば多くの死亡を防げた可能性は高い。
現代の集中治療、酸素療法、人工呼吸管理も当時は存在しない。
したがって、1918年の死亡率を現代へそのまま移植して「同じウイルスなら同じ人数が死ぬ」と考えることはできない。
逆に、1918年の死亡をすべて「医療が未発達だったから」と片づけるのも誤りである。
当時としても異常な死亡年齢パターンがあり、ウイルスと宿主の組み合わせには独特の性質があった。
何が確定し、何が未解決か
ここまでを三段階に分ける。
比較的確実なこと
- 1918年の年齢別死亡は通常年と異なるW字型だった。
- 若年成人、とくに20~40歳前後で死亡リスクが異常に高かった。
- 多数の死亡例で二次性細菌性肺炎が重要だった。
- ウイルス性肺障害も存在し、細菌感染と相互作用した。
有力だが完全には確定していないこと
- 出生コホートごとの過去のインフルエンザ曝露が死亡リスクに影響した。
- 高齢者の一部に過去のH1/N1様ウイルスへの曝露による部分免疫があった。
- 若年成人では免疫応答の特徴が重症化へ関与した。
単純化しすぎる説明
- 「若者は免疫が強すぎたから死んだ」だけで説明する。
- 「秋に一つの突然変異が起きて急に殺人ウイルスになった」と断定する。
- 「兵士のストレスが原因だった」と軍人だけで説明する。
この区別を保つことが重要である。
1918年の死を一つの原因へ還元しない
パンデミックは、病原体だけで死者数が決まる現象ではない。
同じウイルスでも、宿主の年齢・免疫履歴、細菌叢、治療手段、医療資源、流行時期、感染量、社会環境で結果は変わる。
1918年の若年成人死亡は、その複合性を最も鮮明に示している。
若く健康であることが、通常のインフルエンザでは有利でも、1918年には一部の世代で十分な保護にならなかった。
そしてインフルエンザ感染そのものを乗り越えられても、その後の細菌性肺炎に対抗する抗菌薬がなかった。
この二段構造が、1918年の死亡を理解するうえで重要である。
第二波は都市行政に別の問題を突きつけた
若年成人を含む大量の患者が短期間に発生すると、医療だけで対処することはできない。
しかも1918年には、原因ウイルスを正確に検査する方法も、有効なワクチンも、抗ウイルス薬もなかった。
では都市は何ができたのか。
残された選択肢は、人と人が接触する機会を減らし、流行の速度を落とすことだった。
学校閉鎖、集会禁止、隔離、検疫、劇場・教会などの閉鎖。
次の記事では、米国の都市ごとに対応開始の時期と組み合わせが異なったこと、そして後世の研究がその差から何を読み取ったのかを見る。
FACT CHECK
1918年は若者だけが死亡したのか
違う。
乳幼児・若年成人・高齢者に死亡の山があり、通常のU字型に若年成人の第三ピークが加わったW字型だった。
若い成人の高死亡はサイトカインストームで説明できるか
単独原因としては不十分。
強い免疫反応が病態へ関与した可能性はあるが、免疫履歴、二次性細菌性肺炎、ウイルス性肺障害など複数要因を考える必要がある。
多くの死亡は細菌性肺炎だったのか
病理学的証拠は強く支持する。
1918~1919年の多数の剖検記録では、肺炎球菌、連鎖球菌、黄色ブドウ球菌などによる二次性細菌性肺炎が多くの死亡例で確認された。
ウイルス自体は危険ではなかったのか
そうではない。
1918年ウイルスは重い肺障害を起こし、二次感染を起こしやすくしたと考えられる。劇症型の原発性ウイルス性肺炎も存在した。
若者の死亡は戦争ストレスが原因か
それだけでは説明できない。
同様の若年成人死亡パターンは民間人や女性にも見られた。
高齢者は完全に守られていたのか
違う。
高齢者にも死亡はあった。ただし通常年から予想されるほど高くなかった可能性があり、過去のインフルエンザ曝露による部分免疫が仮説として議論されている。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Taubenberger JK, Morens DM. “The 1918 influenza pandemic: 100 years of questions answered and unanswered.”
- [2] Taubenberger JK, Morens DM. “1918 Influenza: the Mother of All Pandemics.”
- [3] Morens DM, Taubenberger JK, Fauci AS. “Predominant Role of Bacterial Pneumonia as a Cause of Death in Pandemic Influenza.”
- [4] Morens DM et al. “Deaths from Bacterial Pneumonia during 1918–19 Influenza Pandemic.”
- [5] Gagnon A et al. “Age-Specific Mortality During the 1918 Influenza Pandemic.”
- [6] Ahmed R et al. “Protective immunity and susceptibility to infectious diseases: lessons from the 1918 influenza pandemic.”
- [7] McAuley JL et al. “Host Immunological Factors Enhancing Mortality of Young Adults during the 1918 Influenza Pandemic.”
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