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スペインかぜとは何だったのか――1918年、世界を覆ったパンデミック

1918年、インフルエンザ対策のマスクを着用して働く女性職員たち

1918年、第一次世界大戦が終盤へ向かう一方で、戦場とは別の場所から巨大な死者数を生む災厄が世界を覆った。日本で「スペインかぜ」と呼ばれたインフルエンザ・パンデミックである。

名前だけを見ると、スペインで発生した病気のように感じる。しかし現在の研究では、発生地をスペインとする根拠はない。それどころか、1918年のパンデミックウイルスがいつ、どこで、どのように持続的なヒト-ヒト感染を始めたのかは、100年以上を経た現在も確定していない。スペインという地名が残ったのは、第一次世界大戦中の情報環境と報道の差が大きく関係している。

では、このパンデミックは何だったのか。

現在わかっている範囲を一言でまとめるなら、1918年に出現したH1N1亜型のインフルエンザAウイルスが、戦時下の大規模な人口移動と密集した社会環境の中で世界へ拡散し、通常の季節性インフルエンザとは異なる年齢別死亡パターンと極端な死亡負荷を生んだ世界的流行だった。

推計では世界人口の約3分の1、約5億人が感染したとされる。死亡者数は資料や推計方法によって大きく異なる。CDCや米国立公文書館は少なくとも約5000万人という数字を広く紹介している一方、学術研究には5000万~1億人規模とするものも、より低い約1740万人という再推計もある。[1]したがって「世界で何人死んだか」を一つの数字で確定値のように扱うのは適切ではない。

それでも、このパンデミックが20世紀最大級の感染症災害であったことは揺らがない。

「1918年のインフルエンザ」を理解するための三つの数字

この出来事の大きさをつかむには、まず三つの数字を分けて考える必要がある。

第一は、感染規模である。

CDCは約5億人、当時の世界人口のおよそ3分の1が感染したと推定している。現在のようにPCR検査も抗原検査もなく、国際的に統一された症例定義も存在しない時代であるから、これは現代的な意味で「検査陽性者を数えた数字」ではない。各国の罹患報告、軍隊・病院・地域統計、後年の疫学的推計を組み合わせた歴史的な推定値である。

第二は、死亡規模である。

よく引用される値は世界で約5000万人である。研究によっては5000万~1億人という上限の大きな推定も提示されてきた。一方で、世界各地の人口統計を再検討した研究では約1740万人という低い推計も出ている。

数字がこれほど違うのは、単に研究者の意見が食い違っているからではない。1918年前後の世界では、国によって出生・死亡登録の制度が大きく異なり、戦争によって行政機能が損なわれ、農村や植民地地域では死因そのものが記録されていない場合も多かった。さらに「インフルエンザそのものによる死」と「インフルエンザに続いて起きた肺炎などによる死」をどこまで含めるかでも数字は変わる。

第三は、年齢構造である。

通常の季節性インフルエンザでは、死亡リスクは乳幼児と高齢者で高く、若年成人では比較的低い。ところが1918年には、20~40歳前後の若い成人でも死亡率が大きく上昇した。年齢別死亡曲線に若年成人の山が加わるため、後世の研究ではしばしば「W字型」と表現される。

この三つを一緒にしてはいけない。

「世界人口の3分の1が感染した」という話と、「感染した人のうち何%が死亡したのか」という話と、「どの年齢層で死亡が増えたのか」という話は、それぞれ別の統計である。1918年パンデミックを理解するには、この区別が重要になる。

1918年以前にもインフルエンザはあった

1918年に突然、世界で初めてインフルエンザが出現したわけではない。

インフルエンザ様の流行は歴史上繰り返し記録されており、19世紀末にも大規模なパンデミックが起きている。つまり1918年の異常さは「インフルエンザという病気が初めて現れた」ことではない。

異常だったのは、流行の規模、速度、死亡負荷、そして死亡する人々の年齢構成だった。

現在では1918年の原因はインフルエンザA型H1N1ウイルスと理解されている。しかしこれは1918年当時の医師が知っていた事実ではない。

当時はインフルエンザウイルスそのものがまだ分離・同定されていなかった。病原体をめぐっては細菌説なども強く、医療現場は病気の原因を正確に特定できないまま患者に対応していた。

現代から見ると「H1N1」というラベルで簡単に整理できる。しかし当時の人々は、何が広がっているのかを十分に理解できないまま、その流行の中にいた。

この時間差は重要である。

1918年のパンデミックについて語るとき、後世に判明したウイルス学的事実を、当時の人々も知っていたかのように書くと歴史を歪める。病原体の正体、遺伝子配列、ウイルスの系統関係は、数十年後の研究によって段階的に明らかになったものだ。

一つの「波」ではなかった

「1918年のスペインかぜ」という名称から、1918年のある時点に一度だけ巨大流行が起きたような印象を受けるかもしれない。

実際には、パンデミックは複数の流行波として現れた。

北半球を中心にみると、1918年春には比較的軽症の第一波が確認され、その後、同年秋に非常に致死性の高い第二波が広がった。さらに1919年にも流行が続き、地域によっては1920年まで顕著な波が確認されている。

とくに1918年秋の第二波は、パンデミック全体の印象を決定づけた。

米国CDCの歴史的タイムラインでは、1918年9月から11月にかけて米国内の第二波がピークを迎え、多くの死亡がこの時期に集中したと整理されている。米国だけでも1918年10月には推定約19万5000人が死亡したとされる。[1]

しかし、これは「春は安全な病気だったウイルスが、秋に突然まったく別物になった」と単純化すべき話ではない。

複数の波がなぜ異なる重症度を示したのか、ウイルス側の変化がどこまで寄与したのか、人口集団の免疫状態や細菌性肺炎、季節、人口移動、医療条件がどう組み合わさったのかは、研究上の論点を含んでいる。

このCASEでは、流行波そのものを一つの出来事としてまとめるのではなく、後の記事で拡大経路、死亡構造、都市対応、日本の三つの流行、そしてパンデミックの終わり方に分けて追っていく。

なぜ「若い成人が死ぬ」ことが衝撃だったのか

1918年パンデミックの特徴として最も頻繁に語られるのが、若い成人の死亡である。

インフルエンザによる死亡率は、通常なら年齢の両端で高くなる。乳幼児は免疫系が未成熟で、高齢者は基礎疾患や免疫機能低下の影響を受けやすい。そのため年齢別死亡曲線は大まかに「U字型」になる。

ところが1918年では、その中央部、すなわち若い成人にも大きな死亡の山ができた。

CDCは、5歳未満、20~40歳、65歳以上で死亡率が高く、特に健康な20~40歳で高い死亡がみられたことを、このパンデミックの独特な特徴としている。

後世の論文では、これを「W字型死亡曲線」として示す。

ただし、「若者だけが死んだ」という意味ではない。幼児も高齢者も大きな被害を受けている。また、地域や流行波によって年齢構造は異なる。

重要なのは、通常なら相対的に死亡しにくいと考えられる若い成人が、死亡統計の中で異常に大きな割合を占めたことだ。

この現象を説明するために、免疫応答、過去のインフルエンザへの曝露歴、ウイルスの病原性、二次性細菌性肺炎など複数の仮説が研究されてきた。しかし「若い人の免疫が強すぎたから」という一文だけで説明できるほど単純ではない。

CASE065-04では、このW字型死亡曲線を中心に、何がわかっていて、何がまだ仮説なのかを切り分ける。

多くの死は「ウイルスだけ」で説明できない

1918年パンデミックの死因を考える際に重要なのが肺炎である。

インフルエンザウイルス感染後、呼吸器の防御機構が損なわれると、細菌による二次感染が起きることがある。1918年の死亡例では、二次性細菌性肺炎が大きな役割を果たしたことが、後世の病理学的再検討から強く支持されている。

ここで現代との違いが大きくなる。

1918年には、インフルエンザに対する有効なワクチンは存在しなかった。抗インフルエンザウイルス薬もない。さらに、細菌性肺炎を治療するための抗菌薬もまだ実用化されていなかった。

現在なら治療可能な二次感染が、当時は致命的になり得た。

しかも世界は第一次世界大戦の最中だった。兵士が密集する兵舎、訓練施設、輸送船、塹壕、臨時病院が存在し、軍人だけでなく民間の医師や看護師も戦争動員の影響を受けていた。米国では医療従事者が軍へ大量に動員されたため、パンデミック時の民間医療体制にも不足が生じた。

つまり1918年の死亡負荷は、「特別に危険なウイルスが存在した」という一点だけでは説明できない。

ウイルスの性質、細菌性肺炎、人口の免疫履歴、戦争による移動、密集、医療資源不足、行政対応の差が重なっていた。

この複合性こそ、このCASEを単なる感染症史ではなく「SYSTEM」の物語として扱う理由である。

第一次世界大戦はウイルスを生んだのか

ここも慎重に分けなければならない。

第一次世界大戦が1918年ウイルスを「生み出した」と断定することはできない。

一方で、戦争がパンデミックの拡大条件を形成したことには強い根拠がある。

米国では1917年の参戦後に徴兵と大規模訓練が進み、数万人規模の兵士を収容する訓練キャンプが各地につくられた。1918年には毎月数十万人の兵士が大西洋を渡って欧州へ送られるようになった。

人々は鉄道で基地へ集められ、基地から港へ移動し、輸送船で大西洋を越え、欧州の軍施設や前線へ送られた。帰還時には逆方向の移動も起きる。

このネットワークは、現代の航空ネットワークほど速くはない。しかし当時としては前例のない規模で、人間集団を大陸間に結んでいた。

CDCは、第一次世界大戦の過密環境と世界規模の兵員移動が1918年インフルエンザの拡散を助けたと明記している。

ただし、「戦争がなければパンデミックは起きなかった」とまでは言えない。

インフルエンザは軍人だけに感染したわけではなく、都市、農村、島嶼部、植民地地域にも広がった。戦争は拡散を加速する巨大な交通・密集システムとして作用したが、それだけがパンデミックの原因ではない。

この因果関係はCASE065-03で詳しく追う。

「スペインかぜ」という名前は発生地を示さない

スペインかぜという名称は、このパンデミックについて最も根強い誤解の一つを生んでいる。

スペインは第一次世界大戦で中立国だった。そのため交戦国ほど厳しい戦時報道統制を受けず、国内の流行状況を比較的自由に報道できた。1918年春にはスペイン国王アルフォンソ13世の罹患も報じられ、国外から見るとスペインで特に目立った流行が起きているように映った。

一方、交戦国では士気や軍事上の理由から、流行情報が抑制されたり十分に報道されなかったりした。

その結果、病気とスペインの名前が結びついた。

しかし、これは発生地の証拠ではない。

現在までに提案されてきた起源候補には、米国カンザス州、フランスの軍事地域、中国などがある。どの説にも根拠と問題点があり、近年のレビューでも特定地点を決定的に支持するデータは不足しているとされる。

このため本シリーズでは、歴史上一般化した名称として「スペインかぜ」を用いる一方、病原体や出来事そのものを指すときは「1918年インフルエンザ・パンデミック」を優先する。

名称と起源を切り離すことが、このCASEの最初のルールになる。

当時、人々に使える手段は何だったのか

病原体を正確に同定できない。ワクチンがない。抗ウイルス薬もない。二次性細菌性肺炎に有効な抗菌薬もない。

その条件で行政が使えたのは、主として人と人との接触機会を減らす方法だった。

隔離、検疫、学校閉鎖、集会の制限、劇場など公共施設の閉鎖、個人衛生の推奨、マスクの使用などである。

これらは現在「非薬物的介入(NPI)」とまとめて呼ばれることがある。

ただし1918年当時、各都市が同じタイミングで同じ対策を取ったわけではない。早期に複数の対策を組み合わせた都市もあれば、導入が遅れた都市もあった。経済活動や戦争動員との衝突もあった。

後年、米国の複数都市を比較した研究では、早期かつ多層的にNPIを導入した都市ほど、流行ピークや累積死亡の指標が低い傾向が報告されている。

しかしこれは観察研究である。都市間には人口密度、交通、医療資源、流行侵入時期など多くの違いがあるため、単純に「この一策をやれば死亡が何%減る」と読み替えることはできない。

CASE065-05では、この都市間比較を「何が行われたか」「いつ行われたか」「どこまで効果を読み取れるか」に分ける。

世界的パンデミックでも、被害は均一ではなかった

「世界人口の3分の1」という巨大な数字は、地球全体を一様に覆った一つの現象のように見せる。

実際には被害の強さは地域によって大きく違った。

人口構成、栄養状態、既往感染、住環境、医療へのアクセス、植民地支配、交通網、戦争動員、行政能力、記録制度などが異なったからである。

さらに、死亡統計の質にも地域差がある。

欧米の都市では週次・日次の死亡統計が比較的残っている一方、当時の植民地地域や農村部では正確な人口分母すら不確かな場合がある。

このため、世界死者数を精密に一つの数字へ収束させることには構造的な限界がある。

むしろ重要なのは、どの数字が「観測された値」で、どの数字が「後から補正した推計」で、どこに記録欠損があるかを区別することだ。

日本についても同じである。

日本の内務省衛生局は流行性感冒に関する詳細な行政記録を残しているが、その患者数・死亡者数をそのまま現在の疫学的「真値」とみなすことはできない。後世には人口動態統計を使った超過死亡の再推計も行われている。

CASE065-06では、この「行政が数えた数字」と「後世が推定した数字」の違いを明示する。

パンデミックは1918年12月31日に終わっていない

もう一つの誤解が、「1918年のパンデミックだから1918年に終わった」というものだ。

実際には1919年にも流行は続き、地域によっては1920年にも顕著な波が確認される。

ニューヨーク市の死亡統計を解析した研究では、1918年2月から1920年4月までに四つのパンデミック波が確認された。[1]

では、いつをもってパンデミックが「終わった」と言うのか。

これは簡単ではない。

感染者がゼロになったわけではない。1918年H1N1の系統はその後も人類集団の中で変化を続け、季節性インフルエンザとして循環した。さらに後年のインフルエンザAパンデミックにも、1918年ウイルスに由来する遺伝子系統が関与している。

つまり「パンデミックの終わり」は、病原体が消えた瞬間ではない。

世界規模の異常な流行状態から、より通常の季節性流行へ移行していく過程として考える必要がある。

この問題はCASE065-07で扱う。

1918年のウイルスは、後世に墓から読み解かれた

1918年当時、原因ウイルスを直接保存する技術はなかった。

それでも後世の研究者は、1918年に死亡した患者の保存病理組織などからウイルス遺伝子の断片を回収し、長い年月をかけてゲノム配列を復元していった。

その研究によって、1918年パンデミックウイルスがH1N1インフルエンザAウイルスであったことや、その遺伝学的特徴が詳しく調べられるようになった。

この研究史で広く知られる場所の一つが、アラスカのBrevig Missionである。永久凍土に埋葬された1918年犠牲者の組織が、ウイルス遺伝子解析に重要な資料となった。

後には、保存された配列情報をもとに1918年ウイルスを再構築して性質を検討する研究も行われている。

ここはセンセーショナルに扱いやすい部分だが、本シリーズでは「危険なウイルスをどう作るか」という実験手順には踏み込まない。扱うのは、どのような歴史資料と科学的技術によって失われた病原体の情報が読み解かれ、その結果として何がわかったのかという科学史である。

これをCASE065-08の終着点とする。

1918年をCOVID-19の単純な答え合わせにしない

1918年パンデミックは、現代の感染症危機を考えるうえで頻繁に参照される。

隔離、集会制限、マスク、医療逼迫、情報公開、社会活動との衝突、流行波、地域差。確かに共通する言葉は多い。

しかし1918年とCOVID-19は同じパンデミックではない。

病原体が異なる。医療技術が異なる。人口構成が異なる。交通速度が異なる。抗菌薬の有無、集中治療、酸素療法、検査技術、ワクチン開発、行政統計、通信環境も全く違う。

1918年の都市施策を、そのまま21世紀の特定政策の正しさを証明する材料として使うことはできない。

逆に、現代の知識だけで1918年当時の行政や医療を単純に「遅れていた」と評価するのも不正確である。

歴史から得られるのは、同じ答えではなく、どの条件が被害を増幅し、どこでシステムが詰まり、どの情報が意思決定を難しくしたかという構造である。

このCASEで追うもの

CASE065では、1918年パンデミックを八つの問いに分ける。

最初に、このパンデミックが何だったのかを規模・時期・死亡構造から定義した。

次に、起源がなぜ現在も確定できないのかを見る。

その後、第一次世界大戦と軍隊・港・鉄道・船舶が作った拡散ネットワークを追う。

続いて、なぜ若い成人の死亡が異常に増えたのか、肺炎と年齢別死亡曲線から考える。

さらに、薬もワクチンもない都市がどのような公衆衛生策を取り、その違いがどう観測されたのかを比較する。

第六回では日本へ視点を移し、大正7年から続いた流行を当時の行政記録と後世の推計から再構成する。

第七回では「いつ終わったのか」という、実は答えにくい問いを扱う。

最後に、保存組織と遺伝子解析によって1918年のウイルスが後世にどのように読み解かれたのかを見る。

1918年のパンデミックは、一つのウイルスだけの物語ではない。

戦争、交通、人口密集、医療資源、細菌感染、行政判断、統計制度、報道、科学技術。それらが同時に作用した結果として、世界規模の被害が形づくられた。

だからこそ、このCASEの中心にあるのは「致死的な病原体」だけではなく、その病原体が通過した社会システムそのものである。


事実確認

「スペインで発生した」は正しいか

確認できない。 スペインは第一次世界大戦の中立国で報道規制が比較的弱く、流行が大きく報じられたことが名称定着の主要因と考えられている。起源候補にはカンザス、フランス、中国などがあるが、現在も確定していない。

原因はH1N1だったのか

現在ではH1N1亜型のインフルエンザAウイルスと理解されている。 ただし1918年当時にウイルスが同定されていたわけではなく、これは後世の保存組織・遺伝子研究によって確立した知見である。

世界で5000万人が死亡したのか

広く使われる推計だが、確定値ではない。 CDCやNational Archivesは少なくとも約5000万人という推定を提示する。学術研究には5000万~1億人とする推計も、約1740万人という再推計もあり、当時の人口統計・死因記録の不足から大きな不確実性が残る。

世界人口の3分の1が感染したのか

代表的な歴史推計として約5億人、当時の世界人口の約3分の1が使われている。 ただし現代の検査で確認した症例数ではなく、歴史資料に基づく推計である。

若い成人だけが死亡したのか

違う。 乳幼児・若年成人・高齢者の死亡が高く、通常のU字型に若年成人の山が加わったW字型死亡曲線が特徴とされる。

1918年だけで終わったのか

違う。 1919年にも大規模流行があり、地域によって1920年まで明瞭な波が確認される。パンデミック後、H1N1系統は季節性インフルエンザとして残った。


FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Centers for Disease Control and Prevention, “History of 1918 Flu Pandemic”
  2. [2] Centers for Disease Control and Prevention, “1918 Pandemic Influenza Historic Timeline”
  3. [3] U.S. National Archives, “The Flu Pandemic of 1918”
  4. [4] U.S. National Archives, “The Influenza Epidemic of 1918”
  5. [5] World Health Organization, “The burden of Influenza”
  6. [6] Taubenberger JK, Morens DM. “1918 Influenza: the Mother of All Pandemics.” Emerging Infectious Diseases
  7. [7] Morens DM, Taubenberger JK. “The 1918 Influenza Pandemic and Its Legacy.”
  8. [8] Spreeuwenberg P, Kroneman M, Paget J. “Reassessing the Global Mortality Burden of the 1918 Influenza Pandemic.”
  9. [9] Byerly CR. “The U.S. Military and the Influenza Pandemic of 1918–1919.”
  10. [10] Morens DM, Taubenberger JK. “The 1918 influenza pandemic: 100 years of questions answered and unanswered.”
  1. 01 スペインかぜとは何だったのか――1918年、世界を覆ったパンデミック
  2. 02 スペインかぜ|パンデミックはどこから始まったのか――起源が今も断定できない理由
  3. 03 スペインかぜ|なぜ世界中へ広がったのか――第一次世界大戦と人の移動
  4. 04 スペインかぜ|なぜ若い成人まで多く死んだのか――第二波と異常な死亡曲線
  5. 05 スペインかぜ|都市は何をしたのか――休校・集会禁止・隔離と対応の差
  6. 06 スペインかぜ|日本では何が起きたのか――大正7年から始まった三つの流行
  7. 07 スペインかぜ|パンデミックはいつ終わったのか――1919〜1921年、後続する波の実像
  8. 08 スペインかぜ|100年後、1918年のウイルスはどう解かれたのか――保存組織・ゲノム・再構築

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