THE QUESTION
ペニシリンはどう発見されたのか――フレミングと1928年の培養皿について、全体像として何を押さえるべきか。
ペニシリンの発見は、「培養皿にたまたまカビが生えた」という一文だけでは説明できない。
1928年、ロンドンのセント・メアリーズ病院で細菌学者アレクサンダー・フレミングが見たのは、ブドウ球菌を培養していた皿にカビが入り込み、その周囲だけ細菌のコロニーが透明になっているという異常な現象だった。
後世の物語では、しばしばここで話が終わる。
カビが落ちた。細菌が消えた。フレミングがペニシリンを発見した。
しかし、1929年にフレミング本人が発表した原論文を読むと、重要なのは偶然の汚染そのものではないことが分かる。フレミングはそのカビを分離して培養し、培養液がどの細菌に効くか、どの程度薄めても作用するか、時間がたつと活性がどう変わるか、動物や白血球に強い毒性を示さないかを調べた。そして、カビの培養液に生じる抗菌作用を扱いやすくするため、「penicillin」という名前を与えた。
つまり1928年に起きたのは、完成した抗生物質の誕生ではない。
異常な培養皿を見逃さず、再現可能な研究対象へ変えたこと。
そこまでが、フレミングの発見の核心だった。

1928年の正確な日付は固定せず、1938年の研究プログラム形成と1939年のペニシリン研究本格化を分けている。[1]
原論文が最初に記録しているのは「汚染された培養皿」だった
フレミングの1929年論文は、現在のような劇的な発見談から始まっていない。
論文冒頭で彼は、ブドウ球菌の変異を調べている際、いくつかの培養皿を研究室のベンチに置き、ときどき観察していたと記している。観察のたびに皿は空気へさらされるため、さまざまな微生物による汚染が起きた。
その中の一枚で、大きなカビのコロニーの周囲にあるブドウ球菌のコロニーが透明になり、明らかに溶菌しているように見えた。
ここで重要なのは「細菌が最初から生えなかった」という単純な現象だけではない。
フレミングが書いたのは、カビの近くにあったブドウ球菌のコロニーが透明化し、lysis――溶菌――が起きているという観察だった。すでに存在していた細菌の集落が、カビの周囲で崩れているように見えたのである。
後年の1945年ノーベル講演でも、フレミングはこの場面をほぼ同じ構造で振り返っている。ブドウ球菌の培養皿がカビに汚染され、その周囲でコロニーが半透明になり、溶菌が進んでいるように見えた。その異常な見え方が調査を必要とすると考え、カビを純粋培養へ移した、と説明した。
したがって「偶然だったか」という問いには、二段階で答える必要がある。
カビが培養皿へ入り込んだことは、意図した実験操作ではない。
しかし、異常を観察し、カビを分離し、作用を調べるところから先は偶然ではない。
発見を「幸運な汚染」だけで説明すると、この二段目が消えてしまう。
なぜフレミングは、その皿を「異常」として拾えたのか
偶然の発見という話には、もう一つ抜け落ちやすい前提がある。
フレミングは1928年に初めて「細菌を壊す自然由来の作用」を見た研究者ではなかった。彼自身、1920年代初頭からリゾチームと呼ばれる溶菌性物質を研究していた。1945年のノーベル講演でも、リゾチーム研究で使っていた技法の多くが、1928年にペニシリンが現れたときにも利用できたと振り返っている。
つまり、カビの周囲で細菌が変化しているのを見たとき、フレミングにはそれを「ただの汚染」ではなく、微生物が作る抗菌性物質かもしれない現象として調べるための経験と手法がすでにあった。
この背景を無視すると、発見は「誰でも見れば分かる奇跡の皿」に見えてしまう。
しかし研究室では、培養皿の汚染自体は珍しい出来事ではない。1929年論文も、皿を空気へさらす過程でさまざまな微生物に汚染されたと淡々と書いている。重要なのは、汚染が起きたことではなく、汚染の仕方が通常と違うと認識したことだった。
カビが生えている。
その周囲で細菌が透明になっている。
しかも、その変化には距離に応じた広がりがある。
そこから「カビが周囲へ何かを出しているのではないか」と考え、カビを分離し、別の培地で育て、培養液の作用を測る。
偶然が研究成果になるには、この一連の変換が必要だった。
なお、後世の伝記では「インフルエンザを研究していたときの発見」と説明されることも多い。一方、1929年原論文の冒頭は、直接の作業を「staphylococcus variants――ブドウ球菌の変異――を扱っていた」と記している。さらに同論文はB. influenzaeの分離法へ大きな比重を置く。
このため本記事では、「何の研究中だったか」を一つの短い逸話へ固定しない。発見場面の直接資料としては1929年論文の記述を優先し、後年の伝記的説明は別の層として扱う。
フレミングはカビそのものではなく「カビが作る何か」に注目した
観察の次にフレミングが行ったのは、カビを別の培地へ移して増やし、その性質を調べることだった。
1929年論文では、カビを液体培地で育てると、その液体が多くの細菌に対して強い発育阻止作用、殺菌作用、溶菌作用を示すと報告されている。
ここで研究対象は、目の前の一枚の皿から切り離された。
「この一枚だけで起きた変な現象」ではなく、
このカビを培養すると、周囲の液体へ細菌の増殖を抑える物質が出てくるらしい
という一般化された仮説になったのである。
フレミングはさらに、複数のカビを同じように培養して比較した。論文では、調べたカビすべてが同じ抗菌作用を作るわけではなく、問題の培養皿から得られたものと同じ性質を示す特定のPenicillium系統だけが明確な阻害物質を作ったとされる。
これは重要な確認だった。
「カビなら何でも細菌を殺す」のではない。
特定のカビが、特定の条件で、培養液へ拡散する抗菌性の物質を作っている。
フレミングが発見したのは、見た目のカビではなく、カビと細菌の間にある再現可能な抗菌作用だった。
「penicillin」は最初から純粋な薬品名ではなかった
現在、「ペニシリン」と聞けば、化学構造を持つ抗菌薬そのものを思い浮かべる。
しかし1929年論文での使い方は、もっと粗い。
フレミングは論文中で、今後いちいち「カビ培養液のろ液」と書くのは煩雑なので、便宜上これを「penicillin」と呼ぶ、と説明した。
つまり当初のpenicillinは、現在の医薬品のように高純度で単離された有効成分を意味していたわけではない。
問題のPenicilliumを液体培地で育て、その培養液をろ過して得られた、抗菌作用を含むろ液。
それが1929年論文における実体だった。
この違いは、ペニシリン史全体を理解するうえで非常に大きい。
フレミングが1928年から1929年に示したことと、1940年代にオックスフォードの研究者たちが精製・濃縮して治療に使える形へ進めたことを同じ「発見」という一語でまとめてしまうと、10年以上の技術的空白が見えなくなる。[1]
この記事では、そこを分ける。
1928年のフレミングは、抗菌作用を持つ培養ろ液を見いだし、その性質を調べ、penicillinと名付けた。
安定した高純度薬剤を完成させたわけではない。
どの細菌にも効く「万能の殺菌物質」ではなかった
フレミングは、ペニシリンの作用範囲も調べている。
1929年論文の要約では、膿を作る球菌やジフテリア菌群などには強い作用を示す一方、大腸菌・腸チフス菌群、当時「インフルエンザ菌」と呼ばれていた菌群、腸球菌などには感受性が低い、あるいはほとんど作用しないと整理されている。
現在の感覚では「効かない菌がある」のは当然に見える。
だが、この選択性は当時のフレミングにとって実用上の意味を持っていた。
論文タイトルにある B. influenzae は、現在の名称ではHaemophilus influenzaeに当たる。名称にinfluenzaeと付いているが、インフルエンザそのものはウイルス感染症である。20世紀初頭にはこの細菌がインフルエンザと強く結びつけて考えられていた時期があり、フレミングの論文もその歴史的文脈の中にある。
この菌はペニシリンの影響を受けにくい一方、同じ試料に混じりやすい別の細菌は抑えられる。
そのためフレミングは、ペニシリンを治療だけでなく、目的の細菌を培養から分離しやすくする細菌学的な道具として評価した。
ここは、後世の知名度から原論文を読み替えないために重要である。
1929年の論文は「革命的な全身抗菌薬が完成した」という報告ではない。
むしろ、
- 特定のPenicillium培養液には強い抗菌作用がある
- 作用する菌としない菌が分かれる
- その選択性を細菌分離にも利用できる
- 毒性が低いなら治療用途にも可能性がある
という、細菌学的性質を段階的に整理した報告だった。
低毒性は確認したが、「感染症を治せる」ことを証明したわけではない
フレミングがペニシリンに期待した理由の一つは、当時使われていた強い消毒薬とは性格が違って見えたことだった。
第一次世界大戦期から、彼は消毒薬が細菌だけでなく人体側の防御機構まで傷つける問題に関心を持っていた。1929年論文でも、ペニシリン培養ろ液は実験動物に大きな毒性を示さず、白血球の働きを一般的な培養液以上に大きく妨げないと報告している。
これは治療薬候補として重要な性質だった。
細菌を抑えられても、同じ濃度で人体組織や白血球を強く傷つけるなら、感染症治療には使いにくい。
一方で、この結果を「1929年にペニシリンの治療効果が証明された」と読むのは行き過ぎである。
当時の論文が示した中心は、試験管内での抗菌作用と、粗い培養ろ液の毒性・刺激性の低さだった。感染させた動物をペニシリンで救命するような、後のオックスフォード研究につながる体系的な治療実験はまだ行われていない。
フレミング自身も、論文末尾で治療への言及を慎重に置いている。
ペニシリン感受性の細菌による感染部位へ適用・注入する「有効な消毒薬」になり得ると提案しつつ、化膿性感染症の治療に関する実験は進行中だとしていた。
つまり1929年時点の位置づけは、
「効きそうだから臨床薬として完成した」ではなく、「選択性と低毒性があるので治療に使える可能性がある」
という段階だった。
原論文がすでに示していた最大の弱点――活性が長く保たれない
1929年論文には、後に大きな壁となる性質もすでに書かれている。
フレミングは、カビを培養した液体の抗菌力が一定期間で最大になり、その後は低下していくことを観察した。論文の要約では、室温で10日から14日ほどたつと活性の多くを失い、条件によっては数週間でほとんど消えるとされる。
この不安定さは、「培養液に効くものがある」と分かったことと、「薬として扱える物質を手に入れる」ことの間にある距離を示していた。
薬にするには、活性物質を取り出し、濃縮し、保存し、一定の強さで投与できなければならない。
ところがフレミングが扱っていたのは、カビを育てた液体の中に存在する不安定な活性だった。
ここを後知恵で軽視すると、「なぜ1928年に見つかったのに、すぐ患者へ使われなかったのか」が理解できない。
発見と医薬品化の間には、化学と製造の問題が残っていた。
この壁は次の記事で扱う。
「1928年9月28日」の有名な日付はどう扱うべきか
ペニシリン史では、発見日として「1928年9月28日」という日付がしばしば紹介される。[1]
ただし、このCASEではその日付を1928年当時の同時代記録として断定しない。
理由は単純で、フレミングの1929年原論文は、発見の正確な日付や「休暇から戻った何月何日に皿を見た」といった物語的な時系列を書いていないからである。
原論文が直接記録しているのは、複数のブドウ球菌培養皿を研究室で保管・観察する中で、空気中の微生物に汚染され、その一枚でカビ周囲の溶菌を見つけたという研究上の経緯である。
一方、後年の回想、伝記、博物館・歴史研究では、1928年9月の出来事としてより具体的な時系列が再構成されている。研究史には、休暇、同僚との会話、発見時の発言など細部まで描く版もある。
それらをすべて「作り話」と切り捨てる必要はない。
しかし、1929年の同時代論文に書かれていることと、後年に再構成された発見場面は区別する。
この区別を入れると、ペニシリン発見をめぐる歴史はむしろ分かりやすくなる。
確実なのは、1928年にフレミングが異常な培養皿を観察し、その現象を追試し、1929年には研究成果として公表していたことである。
正確な「何月何日の何時に何と言ったか」は、別の証拠レベルの話である。
カビの名前も、後世まで同じではなかった
もう一つ、現在の知識をそのまま1928年へ戻してはいけない点がある。
問題のカビの分類名である。
フレミングの1929年論文では、セント・メアリーズ病院で菌類を扱っていたチャールズ・ラ・トゥーシュの助言を受け、カビは当時の分類体系でPenicillium rubrumとされた。
その後、米国の菌類学者チャールズ・トムがこの株をP. notatumとして扱い、長い間P. notatumあるいはP. chrysogenumという名称が広く使われた。
さらに分子系統解析を用いた2011年の研究では、フレミングの歴史的な株はP. rubensに位置付けられると報告されている。
だから現在の記事で、1928年の皿に生えたカビを一言で「Penicillium notatumだった」とだけ書くと、歴史上の分類変遷を省略することになる。
本CASEでは、発見当時の記述ではPenicillium属のカビと表現し、種名が必要な場合は「当時P. rubrumとされ、後にP. notatumなどへ再分類され、現在はP. rubensとされる」と区別する。
この分類史そのものがペニシリンの本筋ではないが、史料の年代を混ぜないための重要な注意点である。
「フレミング一人がすべてを発見した」わけでもない
ペニシリンの物語は、後世にフレミング個人の英雄譚として語られやすくなった。
しかし1929年論文そのものを見ても、研究は完全な一人仕事ではない。
フレミングは論文末尾で、実験の一部を手伝った同僚のスチュアート・クラドックとフレデリック・リドリー、カビの同定について助言したラ・トゥーシュへ謝意を示している。
もちろん、異常な培養皿の意味を認識し、研究課題へ変え、論文としてまとめた中心人物がフレミングであることは変わらない。
ここで避けるべきなのは、二つの極端である。
一つは「全部ただの偶然だったので、フレミングは何もしていない」という説明。
もう一つは「フレミングが1928年に現在のペニシリン治療を一人で完成させた」という説明である。
実際には、
偶発的な汚染をフレミングが重要な現象として拾い上げ、細菌学的性質を調べた。だが、それを安定した薬剤へ変える仕事はまだ残っていた。
この中間に、史料から見える実像がある。
検証ポイント|有名な発見談を一次資料と分ける
「フレミングはカビが生えた皿を見ただけで、すぐ薬になると分かった」
違う。
1929年論文では、カビを分離し、培養ろ液を作り、複数の微生物に対する作用、活性の時間変化、毒性などを調べている。観察から論文までには、再現と評価の工程がある。
「ペニシリンは1928年の時点で純粋な化学物質として取り出されていた」
違う。
1929年論文でpenicillinと呼ばれているのは、基本的にPenicilliumの培養ろ液に含まれる抗菌活性である。後の高純度薬剤と同じ状態ではない。
「1929年論文で感染症を治療できることが証明された」
そこまでは言えない。
フレミングは低毒性と試験管内の抗菌作用を示し、感染部位への使用可能性を提案したが、後のオックスフォード研究で行われるような感染動物を用いた治療効果の実証や、全身投与薬としての臨床確立には至っていない。
「どんな細菌にも効く物質だった」
違う。
原論文ですでに、感受性の高い細菌と低い細菌があることが示されている。その選択性こそ、B. influenzaeを培養から分離する研究用途にも利用された。
「発見日は1928年9月28日と原論文に書かれている」
書かれていない。
正確な日付を含む発見物語は後年の回想・伝記・歴史研究による再構成を含む。本記事では、同時代資料と後世の再構成を分けて扱う。
「カビは最初からP. notatumと同定されていた」
違う。
1929年には当時の分類に基づきP. rubrumとされた。その後P. notatum、P. chrysogenumなどの名が使われ、現代の研究ではフレミング株をP. rubensとする整理が示されている。
フレミングは1929年の時点で、どこまで理解していたのか
Primary Questionへ戻る。
1928年、フレミングは培養皿で何を観察し、それをどこまで「ペニシリン」として理解していたのか。
答えは五つに分けられる。
1. カビの周囲でブドウ球菌が壊れている現象を認識した
単なる「汚染」として捨てず、カビの近くでブドウ球菌のコロニーが透明化・溶菌していることを異常として拾い上げた。
2. 抗菌作用がカビから周囲へ拡散する物質によるものだと考えた
カビを分離・培養し、その培養液にも抗菌作用があることを示した。現象を一枚の培養皿から再現可能な研究対象へ変えた。
3. 作用には選択性があり、低毒性らしいことを確認した
ブドウ球菌などには強く作用する一方、効きにくい細菌もあった。また、粗い培養ろ液は実験条件下で強い毒性を示さず、白血球を大きく損なわないと評価した。
4. その抗菌性を含む培養ろ液を「penicillin」と名付けた
この時点のpenicillinは、後の工業製品のように純化された薬剤ではない。それでも名称を与えることで、新しい抗菌現象は独立した研究対象として扱えるようになった。
5. 治療への可能性は見ていたが、完成薬を持っていたわけではない
フレミングは感染部位への使用可能性を示唆した。しかし、活性の不安定さ、濃縮・精製、十分な量の確保、全身感染への治療効果という問題は残っていた。
したがって、1928年から1929年の到達点を一文で表すなら、こうなる。
フレミングは「薬として完成したペニシリン」を発見したのではなく、Penicilliumが作る選択的で低毒性の抗菌作用を発見し、その培養ろ液をpenicillinと名付け、治療薬になり得る可能性まで示した。
この区別が、CASE068全体の出発点になる。
発見の次に残った問い
1929年の論文だけを読むと、ペニシリンはかなり有望に見える。
特定の病原菌を強く抑える。人体側の細胞への害は比較的小さい。培養液をろ過して使える。局所感染への利用も考えられる。
それなのに、その後すぐ病院で広く使われることはなかった。
なぜか。
問題は、「フレミング以外の誰も価値に気づかなかった」だけではない。
フレミング自身の論文の中に、次の壁の手掛かりはすでに出ている。
抗菌活性は不安定で、時間とともに失われる。しかも、効いている“何か”を純粋な物質として安定して取り出せていない。
培養皿の異常を見つけることと、患者へ一定量を安全に投与できる薬を作ることは、別の問題だった。
次の記事では、この空白を見る。
1929年に性質まで報告されたペニシリンが、なぜ1930年代を通じて治療薬にならなかったのか。
ペニシリン史の本当の難所は、「発見した瞬間」ではなく、発見を薬へ変えるところから始まる。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Alexander Fleming, “On the Antibacterial Action of Cultures of a Penicillium, with Special Reference to their Use in the Isolation of B. influenzæ” — British Journal of Experimental Pathology, 1929 / PubMed Central
- [2] Sir Alexander Fleming — Nobel Lecture, 11 December 1945 — NobelPrize.org
- [3] Sir Alexander Fleming — Questions and Answers — NobelPrize.org
- [4] Alexander Fleming Laboratory Museum — Imperial College Healthcare NHS Trust
- [5] Robert Gaynes, “The Discovery of Penicillin—New Insights After More Than 75 Years of Clinical Use” — CDC Emerging Infectious Diseases, 2017
- [6] Houbraken et al., “Fleming’s penicillin producing strain is not Penicillium chrysogenum but P. rubens” — IMA Fungus, 2011 / PubMed Central
- [7] Wainwright, “The true history of the discovery of penicillin, with refutation of the misinformation in the literature” — Biomedical Scientist, 2000 / PubMed
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