STORY SO FAR
前回「1940年のマウス実験はペニシリンについて何を証明したのか」で確認した論点を受け、この回では最初の本格治療患者アルバート・アレクサンダーに何が起きたのかについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1941年2月12日、OxfordのRadcliffe Infirmaryで、43歳の警察官Albert Alexanderへのペニシリン治療が始まった。[1]
患者の状態はすでに重かった。
顔、頭皮、両眼窩、右腕には化膿が広がり、肺にも感染が及んでいた。左眼は感染のため摘出され、従来のsulphapyridine治療でも改善しなかった。
そこへOxfordチームが精製したペニシリンが投与された。
反応は早かった。
24時間以内に感染部位の排膿は減り、右眼の炎症も軽くなった。数日後には発熱がなくなり、食欲が戻り、顔や頭皮の感染も目に見えて改善した。
それでもAlexanderは助からなかった。
5日目、Oxfordが持っていたペニシリンが尽きたからである。
チームは患者の尿に排泄されたペニシリンまで回収して再利用した。それでも供給量は足りなかった。治療を止めた後、状態はしばらく横ばいを保ったが、やがて肺を中心に感染が再び悪化し、3月15日に死亡した。
この症例は、しばしば「ペニシリンの最初の患者」と短く紹介される。
しかし歴史的に重要なのは、その称号そのものではない。
重症の全身感染症に対してペニシリンが人間でも明確な治療反応を示した一方、薬そのものを十分な量・十分な期間供給できなければ救命には届かないことが、同じ一症例の中で露出したことにある。
ARTICLE04まででOxfordチームは、感染マウスでペニシリンがin vivoの治療効果を持つことを示した。
ARTICLE05では、その薬を人間へ移した最初期の臨床段階を追う。
「最初の患者」は何を意味するのか
Albert Alexanderを扱う前に、「最初」という言葉を整理しておく必要がある。
ペニシリンはAlexander以前にも人へ使われていた。
1930年代初頭、SheffieldのCecil George PaineはFleming由来の培養物を眼感染症へ局所的に用いた記録を残している。また1940年にはNew YorkのColumbia UniversityでMartin Dawsonらが自家製ペニシリンを患者へ投与した例もある。
さらにOxford自身でも、Albert Alexanderの前に、ペニシリン製剤の安全性を確かめるため、人へ試験的な静脈注射を行っている。
Charles Fletcherは1984年の回想で、まず重い癌で余命の限られた患者へ試験注射し、急性毒性やpyrogenによる反応を確認したと説明している。OxfordのNDORMSによる研究史でも、1941年1月に乳癌患者へtest injectionが行われたことが記録されている。
したがって、Albert Alexanderを無条件に「世界で初めてペニシリンを投与された人」と書くのは正確ではない。
本記事での位置づけは、より限定する。
Oxfordチームが重症感染症に対して、全身的・系統的な治療としてペニシリンを使った最初の症例。
Oxford Health HistoriesもAlexanderを「first person ever to receive systematic penicillin treatment」と表現している。
ここで重要なのは、単に注射したことではない。
投与量を決め、反復投与し、感染部位の反応、体温、血液、尿中排泄、副作用を追いながら、治療薬として評価した点にある。
1941年8月のLancet論文「Further Observations on Penicillin」ではAlexanderの氏名は出ず、単に「CASE 1 — Policeman, aged 43」と記載されている。
このCase 1が、後にAlbert Alexanderとして知られる患者である。
治療開始時には、感染は全身へ広がっていた
Lancet原報によれば、この警察官がRadcliffe Infirmaryへ入院したのは1940年10月12日だった。[1]
感染は、その約1か月前に口角付近に生じた小さな傷から始まったと記録されている。
ここにも有名な逸話がある。
後世には「庭のバラの棘で顔を傷つけた」とする話が広く知られるようになった。
しかしOxford Health Historiesは、Alexanderが空襲で負った裂傷からStaphylococcusとStreptococcusの感染を起こしたと説明している。University of Oxford系の近年の資料も、rose bushの話には証拠がなく、戦時中の負傷だった可能性を示している。
一方で、1941年Lancet原報は傷の原因を記していない。
書かれているのは、口角のsoreから化膿が始まったという臨床経過だけである。
したがって本記事では、rose thornを確定事実として扱わない。
感染の原因となった細菌については、原報がかなり具体的である。
primary infectionはStaphylococcus aureus、secondary infectionはStreptococcus pyogenesと記録された。
1940年12月にはsulphapyridineが投与されたが改善せず、薬疹も出た。
1941年1月19日には顔と頭皮の複数の膿瘍を切開。
右上腕骨頭にはosteomyelitisが生じ、腕の膿瘍からStaph. aureusが検出された。
左眼にも感染が広がり、1月21日には角膜穿孔、2月3日には眼球内容除去術が行われた。
2月11日には右眼も突出し、結膜浮腫を伴い、眼窩切開で得られた膿からStaph. aureusとStrep. pyogenesが検出された。
そして治療開始日の2月12日。
原報は、頭皮、顔、両眼窩、右腕のすべての切開部がまだ化膿していたと記す。
肺も侵され、膿性痰から同じ化膿菌が確認された。
ヘモグロビンは36%、赤血球数は180万。患者は著しく痩せ、全身状態は悪かった。
つまりAlexanderは、「少し化膿した傷に新薬を試した患者」ではない。
複数部位へ感染が播種し、従来治療で改善せず、眼まで失い、肺にも感染が及んだ重症の全身感染症患者だった。
この重症度が、後の結果を読むときに重要になる。
2月12日、200mgから治療が始まった
Lancet原報では、2月12日に最初の200 mgが静脈内投与された。
その後は原則として100 mgを3時間ごとに静脈内投与し、2回だけ筋肉内投与が使われた。
最初の投与後に軽い悪寒が出たが、それ以外に大きな反応はなかった。
ここでOxfordチームが確認したかったことは二つあった。
一つは、人間へ反復投与しても重大な毒性が出ないか。
もう一つは、重症感染症そのものが臨床的に改善するかだった。
最初の24時間で合計800 mgが投与されると、原報が「striking improvement」と表現する変化が現れた。
頭皮の排膿は止まり、右眼の化膿と結膜炎は軽くなり、右腕の排膿も減ったように見えた。
この反応は、単なる印象ではない。
治療前には複数部位で化膿が進行していた患者で、抗菌薬投与後の短時間に局所所見が一斉に改善方向へ動いた。
ただし、ここで「一日で治った」と書いてはいけない。
感染巣は多数残っていた。
ペニシリンは病変を一瞬で消したのではなく、病原菌の増殖を抑えることで患者側の防御機構と治療処置が働く時間を作り始めたと見る方が正確である。
数時間おきに投与しなければならなかった
Alexanderの症例には、ペニシリンのもう一つの性質が表れている。
投与しても、血液中に長く残らない。
1941年Lancet論文は、人ではペニシリンが腎から速やかに排泄され、頻回投与が必要だと説明している。
CASE 1でも、次の注射直前に血中抗菌活性を測ると、わずかな痕跡しかないか、検出できないことがあった。
だから投与間隔は3時間、4時間、2時間と細かく調整された。
2月14日には100 mgを2時間ごとに投与し、24時間で合計1 gを使っている。[1]
現在の抗菌薬治療から見ると、薬の半減期、血中濃度、MIC、投与間隔といった考え方は当たり前に見える。
しかし当時のOxfordチームは、その基本条件自体を人間で確認している段階だった。
「ペニシリンは効くか」だけでなく、「効く濃度をどう維持するか」が臨床問題として浮かび上がった。
そして、この問題がそのまま供給問題へつながる。
数時間おきに投与するなら、一人の患者だけでも大量の薬が必要になるからである。
使った薬を尿から回収した
Oxfordで作れるペニシリンは、まだ極端に少なかった。
そのためチームは普通なら考えにくい方法まで使った。
患者の尿から、体内を通過して排泄されたペニシリンを回収し、再び精製して投与したのである。
1941年Lancet論文は、尿から回収された物質が高い抗菌活性を保ち、再び患者へ注射しても有害反応が見られなかったことを記している。
Alexanderの治療記録でも、2月15日に投与されたペニシリンの多くが「previous urine」から回収されたものだったと明記されている。
Charles Fletcherは後年、この工程をさらに生々しく回想した。
彼は患者の尿を集め、自転車でDunn Schoolの研究室まで運び、FloreyやChainへ渡したという。研究室ではその尿からペニシリンを回収し、再び治療へ戻した。
これは奇抜な逸話ではない。
薬が効くことは見え始めていたのに、薬そのものが足りなかったことを最も直接的に示す事実である。
現代の薬剤開発なら、一人の患者に必要な量を安定供給できない時点で、大規模な治療へ進むことはできない。
1941年2月のOxfordでは、その供給体制そのものを研究室の手作業で補っていた。
2月16日には「much improvement」まで進んだ
治療4日目から5日目にかけて、Alexanderの状態はさらに改善した。
原報では2月16日、ヘモグロビンが74%まで上昇し、右眼はほぼ正常になったと記されている。
左眼窩と右腕にはまだ排膿が残っていたが、全体としては「much improvement」と評価された。
ところが同日、供給不足が治療そのものへ影響し始めた。
正午から午後6時まで、ペニシリン不足のため投与が中断された。
その後は200 mgを静脈内へ投与し、再び100 mgを3時間ごとに続けた。
そして2月17日。
penicillin supply exhausted.
原報はそう記す。
5日間の総投与量は4.4 gだった。
この時点でAlexanderは発熱がなくなり、食欲も大きく改善していた。
顔、頭皮、右眼窩の感染は消退方向にあった。
しかし肺の症状は残り、左眼窩と右上腕骨の感染部位では化膿が続いていた。
つまり、治療終了時点は「治癒」ではない。
一部の感染巣が明確に反応し、全身状態も改善したが、深部・播種感染はまだ残っている段階だった。
ここで薬が切れた。
救命できなかった理由は「効かなかったから」ではない
Primary Questionへの答えは、この点にある。
Albert Alexanderへのペニシリン治療が劇的な改善を示しながら救命へ届かなかった第一の理由は、有効性を示すだけの薬はあっても、感染を制御し続けるだけの量と期間を確保できなかったことだった。
1941年Lancet論文の著者自身も、後から振り返ってこの症例の投与量は少なすぎ、投与期間も短すぎたと記している。
さらに、治療効果の評価には血液輸血が同時に行われていたという交絡もあった。
それでも、表在性のsepsisが明瞭に反応したことは認めている。
この記述は重要である。
OxfordチームはAlexanderの死を「ペニシリンが無効だった」と解釈していない。
むしろ、
- 5日間の反復投与に重大な毒性が見られなかった
- 複数の感染部位が改善した
- 全身状態、発熱、食欲が改善した
- しかし十分な血中濃度を長期間維持できなかった
- 深部感染が残ったまま薬が尽きた
という結果として捉えた。
現代的な表現に置き換えれば、薬理学的には作用したが、治癒に必要な曝露量を供給できなかったのである。
投与を止めた直後に死んだわけではない
Alexanderの経過は、しばしば「薬が切れ、そのまますぐ死亡した」と要約される。
しかし原報の時系列はもう少し複雑である。
2月17日に治療を終了した後、状態は約10日間stationary、つまり大きく悪化せず横ばいを保った。
その後、特に肺の状態が悪化した。
そして3月15日に死亡した。
剖検では、多発膿瘍を伴う典型的なstaphylococcal pyaemiaが確認された。
この経過から分かるのは、ペニシリンによる5日間の治療がまったく無意味だったわけではないということだ。
一定期間、感染の勢いは明らかに抑えられた。
しかし残存していた感染巣を完全に制御できる前に治療が終了し、その後再び全身感染が優位になった。
したがって、この症例を
「ペニシリンを使ったが患者は死亡した」
だけで評価すると、最も重要な情報が消えてしまう。
正確には、
「ペニシリン投与中には臨床的改善が起きた。しかし薬を継続できる供給量がなく、治療未完了のまま中止せざるを得ず、残存感染が再び進行した」
という症例だった。
死亡日は3月15日を基準とする
Albert Alexanderの死亡日には、二次資料で3月14日と3月15日の表記差がある。
OxfordのNuffield Department of Primary Care Health Sciencesの紹介記事は3月14日としている。
一方、1941年Lancet原報は明確に「March 15: died」と記録している。また近年の医学史論文や地域史資料も3月15日を採用するものが多い。
本シリーズでは、同時代の臨床原報を優先し、1941年3月15日を基準日とする。
この差はAlbert Alexanderの症例の意味を変えるものではないが、歴史記事では小さな日付差も「多数決」で処理せず、資料階層を示した方がよい。
「rose bush」の物語も確定事実ではない
もう一つ、よく知られた話がある。
Alexanderは庭でバラの手入れをしているときに棘で顔を傷つけ、その傷が感染した――というものだ。
このエピソードは長く繰り返されてきた。
しかし、1941年Lancet原報にバラは登場しない。
原報は、入院の約1か月前に「口角のsore」から化膿が始まったとするだけである。
Oxford Health Historiesは、空襲で受けた裂傷から感染したと説明している。後年の研究では、Alexanderが戦時中に警察の応援任務でSouthamptonへ派遣され、空襲時に負傷した可能性が指摘されている。
ここでは原因を一つに断定しない。
重要なのは傷のドラマではなく、その後である。
1940年秋から数か月にわたり感染が進行し、通常治療に抵抗し、多発膿瘍、骨髄炎、眼感染、肺病変を伴うまでになった患者が、ペニシリン開始後に急速な改善を示した。
それが確実な核である。
Alexanderの死は、ペニシリン開発を止めなかった
普通なら、新しい薬を初期患者へ使い、その患者が死亡すれば、研究には強い逆風がかかる。
しかしAlexanderの症例では逆だった。
Oxfordチームが見たのは、治療失敗そのものではなく、「もっと十分な量があれば結果を変えられる可能性」だった。
Lancet論文でも、Case 1の後にCase 2、Case 3、Case 4、Case 5と治療経験が続く。
後続症例では、投与量、投与間隔、精製度、投与法が調整され、十分な血中抗菌活性を維持できる条件が探られた。
Case 3ではStaphylococcus aureusによる大きなcarbuncleが急速に改善し、患者は退院した。
Case 5ではstaphylococcal septicaemiaと骨感染を持つ少年により長期間の大量投与が行われ、血中のbacteriostatic concentrationを維持しながら大きな改善が得られた。
これらの症例は、Alexanderの死が「人体では効かない」という結論にならなかった理由を示している。
むしろCase 1で露出した問題――
足りない。短い。血中濃度を維持できない。
――を、後続患者で一つずつ修正していった。
この症例が証明した三つのこと
Albert Alexanderの治療が歴史上重要なのは、一人目だったからだけではない。
この一症例から、少なくとも三つの重要な情報が得られた。
1. 重症の人間感染症でもペニシリンに反応する
マウスで示された治療効果が、人間でも臨床症状の改善として現れた。
顔、頭皮、眼窩の化膿は軽減し、発熱は消え、食欲と全身状態も改善した。
これによって「動物で効く」から「人間の重症感染症でも治療効果を持ち得る」へ一段階進んだ。
2. 数日間の反復投与に耐えられる
最初の悪寒など不純物由来と考えられる反応はあったが、原報は5日間投与で重大な毒性を認めなかったと評価した。
当時の段階では、有効性だけでなくこの安全性情報も極めて重要だった。
3. 最大のボトルネックは供給量である
そして最も重要なのがこれである。
Oxfordの研究室で人力に近い方法で作るペニシリンでは、一人の重症患者へ必要な量すら安定して確保できなかった。
尿から回収して再利用するほど節約しても、5日で4.4 gを使い切った。
治療技術が成立し始めた瞬間に、研究室生産の限界が露出した。
「効くかどうか」という科学問題が、「どう大量に作るか」という生産技術の問題へ変わったのである。
4.4gという数字が示すもの
Alexanderに投与された総量は、Lancet原報で4.4 gと記録されている。
この数字だけを見ると、少ない量に見えるかもしれない。
しかしOxfordチームにとっては、培養液から何段階も抽出・濃縮し、活性を失わせず、pyrogenを除き、注射できる製剤へ仕上げて集めた貴重な全在庫だった。
しかもペニシリンは尿へ速やかに排泄される。
重症患者に数時間おきの反復投与を続ければ、消費量は急速に増える。
一人分の治療を完遂できないなら、何百人、何万人へ使うことなど到底できない。
Alexander症例の真の衝撃は、臨床価値と生産能力の落差にあった。
目の前の患者は改善する。
だが、その改善を持続させる薬がない。
ここまで来ると、研究室での「もう少し工夫する」という改善では足りない。
培養面積を増やし、抽出量を上げ、作業を標準化し、より高収率の培養条件を探し、最終的には工業規模へ移行する必要がある。
この問題がCASE068後半の主題になる。
失敗した臨床試験ではなく、供給不足を可視化した症例
Albert Alexanderの治療を「最初の患者が死亡した失敗例」と呼ぶことはできる。
結果だけ見れば、救命できなかったからである。
しかし開発史としては、それだけでは不十分である。
治療中、患者は明確に改善した。
供給が途切れた時点でも、顔、頭皮、右眼窩では感染の消退が進んでいた。
原報も、表在性sepsisの反応は良好だったと評価している。
一方で、肺、左眼窩、右上腕骨には感染が残った。
つまりこの一症例は、ペニシリンの限界というより、当時のペニシリン供給システムの限界を示した。
後世から見ると、「効く薬なら作ればいい」と思える。
しかし1941年初頭、その「作ればいい」が最も難しい問題だった。
培養液の深さ、酸素、温度、pH、汚染、抽出速度、低温処理、溶媒、吸着、pyrogen除去、力価測定――どこか一つが崩れれば、得られる活性量は減る。
そして最終的な収量は、人間一人の治療にすら不足した。
Primary Questionへの答え
1941年のAlbert Alexanderへの治療は、なぜ劇的な改善を示しながら救命に至らなかったのか。
答えは単純な「薬が効かなかった」ではない。
ペニシリンは効いた。しかし感染が完全に制御される前に、薬が尽きた。
AlexanderはすでにStaph. aureusとStrep. pyogenesによる重い播種感染を起こし、複数の膿瘍、骨髄炎、両眼窩の感染、肺病変を抱えていた。
2月12日からのペニシリン投与によって、発熱、排膿、眼症状、食欲、全身状態は急速に改善した。
しかしペニシリンは体から速く排泄されるため頻回投与が必要で、Oxfordの在庫は5日、総量4.4 gで尽きた。
尿から薬を回収して再使用しても足りなかった。
治療終了時点で一部の深部感染は残っており、約10日の停滞後に特に肺病変が悪化し、3月15日に多発膿瘍を伴うstaphylococcal pyaemiaで死亡した。
したがってAlexander症例が示したのは、
「人間でもペニシリンは治療効果を持つ。しかし研究室レベルの生産量では、その効果を治癒まで維持できない」
という事実だった。
そしてこの瞬間、ペニシリン開発の中心課題は変わる。
発見でも、マウス実験でも、人体で効くかどうかでもない。
どうすれば、一人の患者に必要な量を途切れず作れるのか。
次の記事では、この壁に正面から向き合ったNorman HeatleyとOxfordの少量生産システムを見る。
研究室は、どのようにして培養、回収、抽出、測定を組み合わせ、わずかなペニシリンを臨床へ送り続けたのか。
Albert Alexanderを救えなかった理由は、その次の工程を必要とした。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Further Observations on Penicillin — Abraham et al., The Lancet, 16 August 1941
- [2] Penicillin — Oxford Health Histories, University of Oxford
- [3] On this site: Penicillin – a historic first — Nuffield Department of Primary Care Health Sciences, University of Oxford
- [4] Penicillin – the ‘wonder drug’ and its early use in orthopaedics — NDORMS, University of Oxford
- [5] First clinical use of penicillin — Charles Fletcher, BMJ, 1984
- [6] Charles Fletcher — Royal College of Physicians Museum oral history
- [7] The lasting legacy of Norman Heatley — University of Oxford
- [8] Consumption: penicillin recovered from urine — History of Science Museum, Oxford
ペニシリン|偶然の発見はどう戦時大量生産へつながったのか 第5回 全10回 全10回を見る
- 01 ペニシリンはどう発見されたのか――フレミングと1928年の培養皿
- 02 なぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのか
- 03 なぜフローリーとチェーンは1939年にペニシリン研究を再開したのか
- 04 1940年のマウス実験はペニシリンについて何を証明したのか
- 05 ペニシリン|最初の本格治療患者アルバート・アレクサンダーに何が起きたのか
- 06 ペニシリン|ノーマン・ヒートリーは少量生産の壁をどう越えたのか
- 07 ペニシリン|なぜフローリーとヒートリーは1941年にアメリカへ渡ったのか
- 08 Peoriaの研究所はペニシリン生産をどう変えたのか
- 09 ペニシリンはどう戦時大量生産され、D-Dayの供給に間に合ったのか
- 10 誰がペニシリンを「作った」のか――発見・薬剤化・量産の分業