現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

ペニシリンノーマン・ヒートリーは少量生産の壁をどう越えたのか

Norman Heatley collectionに残るペニシリン製造用装置。
Wellcome Collection / Norman Heatley collection, L0032175, CC BY 4.0 出典 CC BY 4.0

THE QUESTION

ノーマン・ヒートリーは少量生産の壁をどう越えたのかについて、この回が担う固有の論点は何か。

STORY SO FAR

前回「最初の本格治療患者アルバート・アレクサンダーに何が起きたのか」で確認した論点を受け、この回ではノーマン・ヒートリーは少量生産の壁をどう越えたのかについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

Albert Alexanderの治療で露出した問題は、ペニシリンが「効くかどうか」ではなくなっていた。

1941年2月、Oxfordのチームは重症感染症の患者にペニシリンを投与し、明確な改善を確認した。しかし治療を続けるだけの薬を作れず、5日目に在庫が尽きた。

ここで研究の中心は変わる。

どうすれば、カビが作るごく薄い抗菌物質を、測定し、回収し、壊さず濃縮し、注射に使える形で何度も作れるのか。

この問題に対してOxfordで重要な役割を担ったのがNorman Heatleyだった。

Heatleyは「大量生産工場」を作った人物ではない。Oxfordの研究室が1940〜1941年に行っていたのは、後の米国型工業生産とはまったく違う、表面培養による小規模な生産だった。

それでも、臨床試験へ進むためには、研究用の数滴では足りない。

カビを何百もの容器で育て、活性を測り、培養液を繰り返し回収し、酸性条件で溶媒へ移し、再び水へ戻し、不要物質や発熱物質を減らし、ようやく治療用製剤へする必要があった。

Heatleyの功績は、その一連の作業を繰り返せる工程へ変えたことにある。

「量を増やす」前に、まず測れなければならなかった

ペニシリンの生産で最初に必要なのは、培養液の中にどれだけ活性があるかを知ることである。

これは当然に見えるが、当時はペニシリンそのものが純粋な化学物質として得られていなかった。

色を見ても、重さを量っても、その中に有効なペニシリンがどれだけ含まれているかは分からない。

しかも、精製工程を一段進めるたびに活性が失われる可能性がある。

培地を変えた。

pHを変えた。

溶媒へ移した。

冷却した。

吸着剤を使った。

そのたびに「前より良くなったのか」「どこで失ったのか」を判断できなければ、工程改善そのものができない。

1941年のLancet論文「Further Observations on Penicillin」は、Oxfordチームが採用した測定法を詳しく記している。

Staphylococcus aureusを一面に育てる寒天培地の上へ小さな円筒を置き、その中へ測定したいペニシリン溶液を入れる。

ペニシリンが寒天へ拡散すると、円筒の周囲では細菌が育たず、透明な阻止円ができる。

その直径を測ることで、試料の抗菌活性を比較した。

この方法は、Flemingが使った液体培地でのserial dilutionよりはるかに速く、非無菌の試料でも扱いやすかった。1941年論文は、高精度とは言えないと断りながらも、条件をそろえて三重測定すれば誤差はおそらく25%以内で、1回に必要な液量も0.25 ml未満と説明している。[1]

OxfordのHistory of Science MuseumやDunn Schoolは、このcylinder-plate assayの実用化にHeatleyが大きく貢献したと整理している。

重要なのは、これが単なる検査法ではないことである。

測定法ができたことで、生産工程を数字で比較できるようになった。

どの培養条件が良いか。

何日目に回収するか。

抽出でどれだけ残るか。

精製後にどれだけ活性があるか。

この判断を同じ尺度で行えるようになった。

Oxfordチームはさらに標準試料を用意し、任意の「unit」を定めて日ごとの比較に使った。後の国際単位そのものではないが、研究室の中で活性を共通言語にするための標準化だった。

少量生産を工程化するには、まず「作れた気がする」から「何unit得られたか」へ移る必要があったのである。

ペニシリンを作るカビには「広い表面」が必要だった

次の問題は培養だった。

1941年Lancet原報では、Oxfordチームが使ったPenicilliumの培養液について、液層を深くしすぎないことが重要だったと記されている。

2 cmを超えると拡散が不十分になり、上層と下層で明確な差が見える。実用上は1.5〜2 cm以下が望ましいとされた。

つまり、単純に大きなタンクへ大量の液を入れればよいわけではない。

当時のOxford法では、カビを液面近くで育てる表面培養が必要だった。

同じ100リットルを育てるとしても、深い容器1個より、浅い液面を持つ多数の容器へ分ける方が都合がよい。

そこでHeatleyたちは、手に入るものを片端から培養容器として試した。

Oxford History of Science Museumには、sheep-dip can、pie dish、bedpan、biscuit tinなどが保存されている。

National Museums Scotlandの資料では、Heatleyは特にRadcliffe Infirmaryから得た蓋付きのenamel bedpanを好んだとされる。

滑稽な代用品を使ったという逸話だけを見ると、戦時中の「工夫物語」に見える。

しかし本質は形にある。

必要だったのは、

  • 広い表面積を取れる
  • 浅い液層を保てる
  • 滅菌できる
  • 液を出し入れしやすい
  • 多数並べられる

という条件だった。

bedpanや浅い皿が使われたのは、見た目が奇抜だからではなく、表面培養という制約に合っていたからである。

Heatleyは専用の陶製培養容器を設計した

しかし臨床試験へ進むには、あり合わせの容器だけでは足りない。

同じ形の容器を大量にそろえ、同じ深さで培養し、同じように滅菌・接種・回収できる必要があった。

そこでHeatleyは、長方形で注ぎ口を備えた専用の陶製培養容器を設計した。

1941年Lancet論文は、この容器についてかなり具体的に説明している。

内側だけを釉薬で覆い、外側は無釉のままにした。

これは費用を下げるだけでなく、重ねたときに滑りにくくするためでもあった。

1個に1リットルの培地を入れると、液の深さは約1.7 cmになる。

つまり、原報が示した「深すぎると生産に不利」という条件に合わせた形である。

容器は縦方向に効率よく積み重ねてautoclaveで滅菌でき、培養時にも限られた研究室空間を有効に使えた。

製作したのはStaffordshireのJames Macintyre and Co.だった。

容器数について後年資料には表記差がある。Oxford History of Science MuseumとNational Museums Scotlandは合計700個とし、Oxford Universityの別記事ではHeatleyが1000個を発注したと説明する。

この違いは、「発注数」「実際に製造された数」「使用された数」が混在している可能性があるため、本記事では数百個規模の専用容器が導入されたという確実な範囲を中心にする。

National Museums Scotlandによれば、最初の製造バッチは174個で、その一部が1940年12月25日にカビ胞子を接種された。[5]

Christmas Dayまで研究室が生産工程を動かしていたという事実は象徴的だが、重要なのは休日返上の美談ではない。

同一形状の培養容器が並んだことで、Oxfordの研究室が「実験ごとに器を探す場所」から、小さな反復生産ラインへ変わったことである。

一度育てたカビを、一回で捨てなかった

Heatleyらは、培養容器の数を増やすだけではなく、同じカビから繰り返しペニシリンを得る方法も使った。

1941年原報では、培地中のペニシリンが十分に増えたら、カビの膜を残したまま下の液を抜き、新しい培地へ交換できると説明している。

交換後は、最初の培養より短い時間で再びペニシリンが形成された。

一つのbatchで14回培地を交換した例まで記録されている。

これは非常に重要な工夫である。

培養を毎回ゼロからやり直すのではない。

一度形成したmould matを、生産面として何度も使う。

ただし、そのためには液を抜いて新しい培地を入れるたびに、外部の細菌を持ち込まないようにしなければならない。

原報は、ある種の細菌がpenicillinを破壊するため、培養・回収・培地交換を厳密な無菌条件で行う必要があると警告している。

生産量を上げようとして操作を簡略化すると、今度は汚染が増える。

つまり、ここでも「容器を増やせば解決」ではない。

生産量と無菌操作の複雑さが同時に増えるのである。

「changing trolley」は手作業を工程へ変えた

1941年Lancet論文には、培養液を回収し、新しい培地を入れるための「changing trolley」まで図入りで掲載されている。

小さな金属製テーブルの上に、容器を載せて傾けられる木製の台を取り付ける。

容器を傾けると液が注ぎ口側へ集まる。

そこへ専用のpistol-shaped holderを使い、滅菌した管で培養液を吸い出す。

抜いた分はsterile airで置き換える。

回収液はsilk bagでろ過してcollecting bottleへ送る。

一見すると極めて手工業的である。

しかし、この装置の意味は大きい。

多数の容器に対して、

傾ける → 吸引する → ろ過する → 培地を戻す

という操作を一定の順番で繰り返せるようにしたからである。

Heatleyの仕事を「器用な装置作り」とだけ表現すると、この点を見失う。

彼がしていたのは、研究者の手技に依存していた作業を、再現可能なprocessへ変えることだった。

これは工場の大量生産ではない。

しかし工業化へ進む前段階として不可欠な発想である。

回収した液の大部分は、まだ「薬」ではない

培養液を500リットル集めても、それが500リットルの薬になるわけではない。

原報によれば、回収直後のcrude mediumには通常1〜2 unit/ml程度の活性しかなかった。

ほとんどは水、培地成分、カビ由来物質、色素などである。

しかもpenicillinは不安定だった。

そこで次に必要になるのが抽出と濃縮である。

1941年論文は基本原理をこう説明する。

水溶液をpH 2付近まで酸性にすると、penicillinはetherやamyl acetateなどの有機溶媒へ移る。

その有機溶媒から、pH 6〜7に保った水またはphosphate bufferへ戻すことができる。

この性質を使えば、大量の培養液からpenicillinを別の相へ移し、体積を縮められる。

ところが重大な問題がある。

penicillinはpH 2の水溶液中では室温で急速に壊れる。

つまり酸性にした瞬間から時間との勝負になる。

「抽出できる条件」と「壊れる条件」がほぼ隣り合っていたのである。

ここでHeatleyの実験工学が効いてくる。

酸性になっている時間を数秒に縮めた

Oxfordチームは、手で大量の培養液を分液漏斗へ入れて振り続ける方法では週数百リットルを処理できないと判断した。

1941年原報では、週約500リットルのcrude mediumを処理する計画に対し、continuous countercurrent extraction apparatusを考案したと記している。

ろ過した培養液を装置へ送り、流入直前に酸を加えてpHを下げる。

液は特殊なjetで細かな滴となり、amyl acetateのcolumnを通過する。

その短い間にpenicillinが有機溶媒側へ移る。

培養液はcooling coilも通るため、温度上昇による分解も抑える。

重要なのは、酸性状態の水相にpenicillinを長時間置かなかったことである。

原報は、酸性化してから溶媒へ抽出されるまでが数秒になるよう設計されていたと説明している。

これは化学反応の原理を変えたのではない。

壊れる前に工程を終えるよう、時間を装置で管理したのである。

抽出後のpenicillin-rich solventは、元のcrude solutionの約1/10〜1/5の体積になった。

この段階で、ようやく「大量の薄い培養液」から「少量の濃い溶媒相」へ進む。

濃縮しても、そのまま注射はできなかった

しかし濃縮しただけでは、人間へ注射できない。

1940年のマウス実験で使った製剤は強い抗菌活性を持っていたが、1941年論文によれば、後のtherapeutic penicillinと比べると活性は10分の1以下だった可能性がある。[1]

さらに初期製剤には発熱を起こすpyrogenが混入していた。

実際、人へ100 mgを静脈注射すると悪寒と発熱が起き、rabbit testでも発熱作用が確認された。

つまり、

細菌を抑える成分を濃くすることと、

人へ静脈注射できる製剤にすること

は別の課題だった。

1941年の工程では、amyl acetateから水相へ再抽出し、animal charcoalで一部を脱色し、再びetherへ移し、Brockmann aluminaの吸着columnへ通してfractionを分けた。

このcolumnでは、penicillinを多く含みpyrogenを含まないfractionと、pyrogenを含むfractionを分離できた。

最終的にpenicillinを再び水へ戻し、注射用のtherapeutic fractionを得た。

ここはHeatley一人の発明として書くべきではない。

化学的精製にはErnst ChainやEdward Abrahamらの仕事があり、研究全体はHoward Floreyが率いていた。

Heatleyの役割は、その化学的性質と生物学的assayをつなぎ、大量の薄い培養液を実際に処理できる装置と操作へ落とし込むことだった。

Oxfordでペニシリンが薬になったのは、化学者、病理学者、細菌学者、臨床医、そして工程を組むHeatleyの仕事が接続されたからである。

100リットルから得られたのは約1グラムだった

1941年原報の収量は、Oxford生産の厳しさを数字で示している。

回収直後の培養液100リットルに、例として約150,000 unitのpenicillinが含まれていたとする。

そこから得られる乾燥therapeutic materialは約1 g、約45,000 unitだった。

つまり、培養液中に存在した活性のうち、最終的に静脈注射へ使える形で回収できたのはおよそ3分の1だった。

どこか一工程だけで大半を失うわけではない。

抽出、再抽出、吸着、移し替え、保存など、各段階で少しずつ損失が積み上がる。

この数字を見ると、Alexanderの治療で供給が尽きた理由が分かりやすい。

患者へ必要なのはmg単位の「物質」ではなく、十分な抗菌活性を持ち、発熱物質が除かれ、繰り返し静脈投与できる製剤である。

それを1 g得るために100リットル級の培養液を処理する。

一人の重症患者を数日から数週間治療するだけでも、研究室全体を生産設備のように動かさなければならなかった。

National Museums Scotlandは、Dunn Schoolの最大出力を週約500リットルのmould brothとし、一人分の治療用crude penicillin powderを得るのに約2000リットルが必要だったと説明している。

これは後年資料による概算だが、1941年原報の低いtitreと回収率とも方向は一致する。

Oxfordは薬効の証明には成功していたが、患者数を増やせる生産性には達していなかった。

少ない薬を失わないことも工程だった

Oxfordでは、作るだけでなく損失を抑える必要があった。培地はカビを残して何度も交換し、抽出工程では一部の水相やamyl acetateを次のbatchへ再利用した。ARTICLE05で見た患者尿からの回収も同じ問題の延長にある。

作る → 回収する → 測る → 濃縮する → 再利用できるものは戻す。

希少な活性を工程全体で失わないことが、臨床試験を支えた。

保存条件も生産の一部だった

ペニシリンは作った後も不安定だった。1941年論文は、etherで飽和した水溶液を冷蔵したり、凍結乾燥した粉末を乾燥状態で保存したりする方法を記している。水中のsodium saltをice-chestで3か月保存しても活性低下を認めなかった例もあった。

Oxfordは不安定性を消したのではなく、pH・温度・保存状態・処理時間を工程条件として管理するようになった。効く物質を見つけるだけでなく、患者へ届くまで効力を保つ必要があった。

CASE068-D02|Oxfordの少量生産はこうつながっていた

Oxfordにおけるペニシリン少量生産の培養・測定・抽出・精製・臨床までの工程図
Oxfordの少量生産を、浅い表面培養から力価測定、回収、抽出、精製、保存、臨床へつなぐ工程として示す。

人物一人の発明図ではなく、複数のボトルネックを直列に解いた工程図である。Peoriaやdeep-tank工程は含まない。

Oxfordの工程を単純化すると、次のようになる。

浅い表面培養
→ assayで活性確認
→ 培養液を回収し、新しい培地へ交換
→ ろ過
→ 冷却しながらpH 2へ酸性化
→ amyl acetateなど有機溶媒へ素早く抽出
→ pH 6〜7の水相へ戻す
→ charcoal・ether・aluminaなどで精製
→ pyrogenを避けたtherapeutic fractionを得る
→ 冷蔵または乾燥保存
→ 力価を再測定して臨床へ送る

この流れの各所にボトルネックがあった。

培養では表面積と汚染。

測定では精度と速度。

抽出ではpHと時間。

精製では活性損失とpyrogen。

保存では不安定性。

そして全工程を通して最大の問題は、最終収量があまりに少ないことだった。

D02で示すべきなのは「Heatleyが一つの万能装置を発明した」という図ではない。

複数の小さな工夫が直列につながり、初めて臨床用penicillinが得られたという工程図である。

Heatley一人がペニシリンを「作った」わけではない

Norman Heatleyを再評価するとき、別の単独英雄譚へ置き換えてはいけない。

Flemingは抗菌作用を発見し、penicillinという名を与えた。

FloreyはOxfordで研究programmeを組織し、動物実験と臨床への方向を率いた。

ChainとAbrahamは化学的性質、抽出、精製の問題を深く追った。

GardnerやJenningsらも感受性、毒性、生体内挙動などを調べた。

臨床側ではFletcherらが患者へ投与し、反応を記録した。

その中でHeatleyは、測定・装置・培養・抽出・作業工程をつなぐtechnical bridgeだった。

Oxford大学のHeatley紹介は、彼を「key technical man」とする歴史家の評価を紹介し、assay、安定条件、多段階の分離・濃縮、陶製培養容器を主要な寄与として挙げている。

これらはどれも、派手な一回の発見ではない。

しかし、薬剤開発ではその種の仕事がなければ、実験結果を患者へ移せない。

再現できること。測れること。繰り返せること。大量の液を処理できること。

Heatleyの仕事は、ペニシリン研究にこの「工程」の概念を持ち込んだ。

Oxfordは「工場」になったが、工業生産ではなかった

History of Science Museumは、1940〜1941年のDunn Schoolをpenicillin production centreへ変わった研究室として展示している。

数百の培養容器が並び、changing trolley、抽出装置、分液器具が動き、研究者と助手が培養液を処理した。

この姿は確かに小さなfactoryに見える。

しかし、生産技術としては依然として限界が明確だった。

表面培養なので広い面積が必要になる。

容器ごとに接種・回収・洗浄・滅菌が必要になる。

汚染リスクが高い。

培養液のpenicillin濃度そのものが低い。

抽出・精製にも多くの手順と人手が必要で、最終回収率も高くない。

一人の患者へ使う量を作るだけで研究室の能力を圧迫する。

したがってHeatleyの小規模生産システムは、量産問題を「解決した」のではない。

より正確には、薬効を検証できる最低限の量を確保し、次の量産問題を具体的な工学課題として見える形にしたのである。

それでも、この段階がなければ人での治療効果を示すデータ自体が得られなかった。

米国側へ「この薬は本当に効く。だから大量生産する価値がある」と示す材料も作れなかった。

小規模生産は、工業生産の代用品ではない。

工業生産へ進むための証拠を作る装置だった。

Primary Questionへの答え

Norman Heatleyの培養・抽出・測定の工夫は、Oxfordで臨床試験に必要なペニシリンをどう確保したのか。

答えは、一つの発明ではない。

まずHeatleyは、生物学的assayによって、純粋な物質として量れないpenicillinを抗菌活性として比較できるようにした。

次に、表面培養に適した浅い培地と多数の容器を使い、最終的には専用の長方形陶製容器を設計して、限られた室内で培養面積を増やした。

一度形成したカビから培養液を何度も回収し、新しい培地を補給することで、同じ培養面を繰り返し使った。

changing trolleyや吸引器具によって、その回収と交換を一定の操作へ変えた。

さらに、penicillinが酸性で壊れやすいという性質に合わせ、冷却しながら短時間だけpHを下げ、continuous countercurrent apparatusで有機溶媒へ素早く移した。

その後、水相へのback extraction、charcoal、ether、aluminaなどを組み合わせ、pyrogenの少ないtherapeutic fractionへ近づけた。

そして各段階をassayで確認し、保存条件まで管理した。

その結果、Oxfordは研究室の偶発的な試料ではなく、臨床患者へ繰り返し投与できる小規模なpenicillin supplyを成立させた。

ただし収量は低かった。

100リットルの培養液から得られる注射用materialは約1 gという規模で、最終的に回収できる活性も培養液中の約3分の1だった。

これは大量治療には遠い。

だからHeatleyの成果は「大量生産の完成」ではない。

発見と工業生産の間にあった、臨床試験を可能にする小規模工程を成立させたことにある。

Oxfordで「効くが作れない」という問題は、Heatleyの工夫によって「少量なら作れる。しかしこの方式では広く供給できない」という、より具体的な問題へ変わった。

そして次に必要になったのは、研究室の改善ではなく、生産能力そのものを桁違いに引き上げることだった。

1941年、FloreyとHeatleyはその答えを英国の外へ探しに行く。

次の記事では、なぜOxfordチームが米国へ渡り、政府研究所と製薬企業の力を必要としたのかを追う。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Further Observations on Penicillin — Abraham, Chain, Fletcher, Gardner, Heatley, Jennings & Florey, The Lancet, 16 August 1941
  2. [2] Production — Back From The Dead, History of Science Museum, Oxford
  3. [3] The lasting legacy of Norman Heatley — University of Oxford
  4. [4] The Norman Heatley Lecture — Sir William Dunn School of Pathology, University of Oxford
  5. [5] How a ceramic object fueled a medical breakthrough — National Museums Scotland
  6. [6] Penicillin Culture Vessel — National Museum of American History, Smithsonian Institution
  7. [7] Dr Norman Heatley — Journal of Antimicrobial Chemotherapy
  1. 01 ペニシリンはどう発見されたのか――フレミングと1928年の培養皿
  2. 02 なぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのか
  3. 03 なぜフローリーとチェーンは1939年にペニシリン研究を再開したのか
  4. 04 1940年のマウス実験はペニシリンについて何を証明したのか
  5. 05 ペニシリン|最初の本格治療患者アルバート・アレクサンダーに何が起きたのか
  6. 06 ペニシリン|ノーマン・ヒートリーは少量生産の壁をどう越えたのか
  7. 07 ペニシリン|なぜフローリーとヒートリーは1941年にアメリカへ渡ったのか
  8. 08 Peoriaの研究所はペニシリン生産をどう変えたのか
  9. 09 ペニシリンはどう戦時大量生産され、D-Dayの供給に間に合ったのか
  10. 10 誰がペニシリンを「作った」のか――発見・薬剤化・量産の分業

RSS FEED

RSSで更新を受け取る

RSSリーダーへ次のURLを登録すると、新着記事を確認できます。

フィードを直接開く