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なぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのか

1944年、Oxford大学の研究室で顕微鏡のそばに座る化学者Robert Robinson。
Ministry of Information Photo Division / Imperial War Museums, D 17813; via Wikimedia Commons 出典 Public Domain — PD-UKGov / PD-scan

THE QUESTION

なぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのかについて、この回が担う固有の論点は何か。

STORY SO FAR

前回「ペニシリンはどう発見されたのか――フレミングと1928年の培養皿」で確認した論点を受け、この回ではなぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのかについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

ペニシリンが1929年に公表されてから、治療薬として本格的に姿を現すまでには10年以上かかった。

この時間差は、しばしば「フレミングの論文が忘れられていたから」と説明される。

それは一部しか合っていない。

1929年の時点で、ペニシリンには特定の細菌を強く抑える作用があり、動物や白血球に対する毒性も低そうだという手掛かりがあった。一方で、研究者が手にしていたのは安定した薬品ではなく、カビを育てた培養液の中に生じる不安定な抗菌活性だった。活性物質を十分な濃度で取り出し、保存し、一定量を投与し、体内感染を治せることを再現可能な形で示す技術がなかった。

しかも1930年代には、ペニシリンを完全に放置していたわけではない。粗い培養ろ液を人の局所感染へ使った例もあり、1932年には化学者たちが抽出へ踏み込んでいる。

それでも「効く培養液」は「使える医薬品」にならなかった。

発見の次に必要だったのは、抗菌作用そのものを知ることではなく、その作用を壊さずに取り出し、濃縮し、量をそろえる化学と製造だった。

1929年から1930年代末までの停滞は、その技術的な断絶として見ると分かりやすい。[1]

1929年に分かっていたことと、分かっていなかったこと

フレミングの1929年論文は、ペニシリンが単なる観察上の珍現象ではないことを示していた。

Penicillium属のカビを液体培地で育てると、その培養ろ液にはブドウ球菌など一部の細菌を強く抑える作用が生じる。作用する菌としない菌があり、選択性がある。動物への毒性は低く見え、白血球の働きも強く妨げない。感染部位への局所的な利用にも可能性がある。

しかし、ここでいう「penicillin」は、現在の注射薬のような精製された物質ではない。

カビを育てた液体から菌体などを除いた、抗菌活性を含む培養ろ液だった。

ここには、医薬品化に必要な情報がいくつも欠けていた。

どの化学物質が作用の本体なのか。

どの程度の純度まで上げられるのか。

濃縮しても活性は残るのか。

保存中にどれくらい分解するのか。

体内へ投与したとき、感染部位まで有効な濃度が届くのか。

一回だけではなく、同じ強さの製剤を繰り返し作れるのか。

必要な投与量をまかなうだけの量をどう作るのか。

1929年の研究は、これらを解決していなかった。

つまり、「抗菌作用がある」という発見と、「患者へ投与できる薬を作る」という開発は別の問題だった。

最初の壁は、ペニシリンが非常に不安定だったこと

フレミング自身の1929年論文には、すでに後の開発を難しくする性質が記録されている。

培養ろ液の抗菌力は時間とともに低下した。室温で保存すると、10日から14日ほどで活性の大部分を失う例があり、条件によってはさらに短期間で弱くなった。

これは「保存が少し面倒」という程度の問題ではない。

薬として使うには、研究室で作った瞬間だけ効けばよいのではなく、抽出、精製、濃縮、保存、輸送、投与という工程を通っても有効性を維持しなければならない。

しかも精製とは、培養液から余分な成分を取り除くだけの単純な操作ではない。

目的物質を別の溶媒へ移し、pHを変え、濃縮し、溶媒を除き、乾燥させる。その途中で目的物質が分解すれば、理論上は「取り出せた」はずでも、最後に残るのは抗菌力を失った物質になる。

1930年代初頭の研究者が直面したのは、まさにこの問題だった。

1932年、ライストリックたちは「取り出す」ところまで進んだ

1932年、ロンドン衛生熱帯医学大学院のパーシバル・クラッターバック、レジナルド・ラヴェル、ハロルド・ライストリックは、ペニシリンを作るカビの代謝産物を生化学的に調べた。

彼らの論文タイトルには、はっきりと「Flemingの抗菌物質penicillin」と書かれている。

この研究は、ペニシリンが1930年代に完全に忘れられていたわけではないことを示す重要な資料である。

ライストリックらは、カビを化学組成の明確な培地で育て、ペニシリン活性が生じる条件を検討した。さらに後年の化学史の整理によれば、活性物質が酸として振る舞い、条件を変えるとエーテル側へ移ることを示した。

ここまでは大きな前進だった。

培養液の中に何となく存在している抗菌力を、溶媒間の移動を利用して分離できる可能性が見えたからである。

ところが、その先で活性が消えた。

エーテルに移した成分から溶媒を蒸発させ、目的物を回収しようとすると、抗菌活性が大きく失われた。

当時の天然物化学で、溶媒抽出後に溶媒を飛ばして物質を回収するのは自然な操作だった。ところがペニシリンは、その一般的な処理に耐えなかった。

後から見れば、低温、pH制御、迅速な操作、より穏やかな濃縮法が重要だったと分かる。

しかし1932年の時点では、「抽出できるらしいのに、純物質へ近づけようとすると効かなくなる」という厄介な対象だった。

この失敗は、フレミング個人の努力不足だけでは説明できない。

専門の天然物化学者が取り組んでも、当時一般的だった方法では活性を守り切れなかったのである。

「精製できない」は、薬の正体を確定できないということでもあった

精製の難しさは、単に製品をきれいにできないという意味ではない。

粗い培養液のままでは、どの成分が抗菌作用を担っているのかを化学的に確定しにくい。

培養液には、カビが作るさまざまな代謝産物、培地の成分、色素、たんぱく質、塩類などが混じっている。

抗菌作用を測ることはできても、その活性が一つの物質によるのか、複数成分の組み合わせなのか、どの条件で壊れるのか、化学量としてどれだけ存在するのかを決めるには、より高い純度が必要になる。

さらに、治療へ進むには「この量を投与した」と言える必要がある。

活性を含む液体を何ミリリットル使ったかだけでは、別の培養で同じ強さになる保証がない。カビの生育状態や培地条件が変われば、単位体積あたりの活性も変わる。

つまり必要だったのは、

物質を取り出す技術と、

効力を測って標準化する技術と、

同じ品質で作り続ける技術

の三つだった。

1929年の発見は、そのどれも完成させていなかった。

量の問題――効く液体があっても、患者一人分を作れるとは限らない

ペニシリンのもう一つの壁は、量だった。

研究室の培養皿や少量の培地で抗菌作用を確認することと、全身感染症の患者へ繰り返し投与できるだけの活性物質を確保することは、必要量の桁が違う。

初期のカビ培養では、液体中のペニシリン濃度は高くなかった。

しかも活性を壊さずに濃縮できない。

この二つが組み合わさると、薬として必要な量を作るのが極端に難しくなる。

粗い培養ろ液を皮膚や眼の表面へ直接使うなら、局所に比較的大量の液を接触させることができる。

しかし血流に乗せ、体内の深い感染部位へ有効濃度を届けるには、別の条件が必要になる。

投与後に体内でどれほど早く失われるのかも考えなければならない。必要なら短い間隔で繰り返し投与することになる。

そのためには、単に「カビが作る液が効く」だけでは足りない。

高い活性を持つ物質を、何度も投与できる量で取り出せること。

この製造上の条件が満たされなければ、治療効果を科学的に試すことさえ難しい。

後にオックスフォードで最大の課題の一つになるのも、この「効くが、十分な量を作れない」という問題だった。

ただし、その具体的な生産装置や抽出工程は後続記事で扱う。

実は1930年、粗いペニシリンで人を治療した記録がある

「ペニシリンは1941年まで一度も患者に使われなかった」という説明も正確ではない。

1930年、シェフィールド王立病院で働いていたセシル・ジョージ・ペインは、フレミングから入手したPenicillium株を培養し、粗いペニシリン含有ろ液を眼の感染症へ局所使用した。

シェフィールド大学が保存資料をもとに整理した歴史では、乳児の眼感染症などで改善が確認されている。後に見つかった病院記録は、1930年11月にペニシリン治療が開始され、その後に眼がきれいになった症例を示している。[1]

これは非常に重要である。

1929年の抗菌作用が、人体でまったく意味を持たなかったわけではない。

粗い製剤でも、感染部位へ直接届く局所治療なら効果を示し得た。

それでも、この成功は直ちにペニシリンを医薬品へ変えなかった。

理由は三つある。

第一に、ペインの治療は粗い培養ろ液を局所へ使うもので、安定した精製薬の全身投与ではなかった。

第二に、研究は当時広く発表されず、詳細な再現手順として医学界へ流通しなかった。

第三に、局所治療で成功しても、肺炎、敗血症、深部の化膿性感染のような全身性疾患を治せるとは限らない。

ここから分かるのは、「患者で効いた例が一つあれば薬になる」という単純な開発ではなかったことだ。

局所的な成功と、再現可能な全身治療薬の成立の間にも大きな距離があった。

だから「誰も価値に気づかなかった」は単純化しすぎている

ペニシリン史では、ときどき「フレミングの発見は10年間誰にも相手にされなかった」と語られる。

しかし実際には、1930年代にもいくつかの動きがあった。

フレミング自身は菌株を求める研究者へ分けていた。

ペインは粗いろ液を局所治療に使った。

ライストリックらは1932年に生化学的な研究を行い、抽出へ踏み込んだ。

米国でもペニシリン産生菌の研究が続いた。

つまり、研究対象そのものが完全に消えたわけではない。

問題は、これらの研究が一本の開発線へつながらなかったことだった。

細菌学者は抗菌作用を知っていた。

化学者は抽出を試みた。

局所治療の成功例もあった。

しかし、

安定な抽出・精製

定量と標準化

感染動物での治療実証

患者へ全身投与できる量の製造

が一つの研究計画として統合されていなかった。

「価値を知らなかった」というより、価値を医薬品へ変換するために必要な技術群と研究体制がまだそろっていなかったと考える方が正確である。

フレミングの専門だけでは、次の段階を突破しにくかった

フレミングは細菌学者だった。

彼の強みは、細菌の培養、感染症、抗菌作用の観察、細菌の選択的分離といった領域にあった。

一方、培養液から不安定な天然物を取り出し、その化学的性質を調べ、活性を失わせず濃縮するには、別の専門性が必要になる。

この点を「フレミングは精製を諦めた」とだけ書くと、個人の判断の問題に見える。

だが1932年のライストリックらの研究を見ると、専門の生化学者・天然物化学者が参加しても簡単ではなかった。

必要だったのは、単に「化学者を一人呼ぶ」ことではない。

抗菌活性を追跡する微生物学的試験と、溶媒抽出・pH調整・濃縮の化学操作を往復しながら、どの工程で活性が失われるかを調べる必要がある。

さらに、少量の活性を扱うためには効力を比較する測定法も必要だった。

後にペニシリン開発がチーム研究として進む理由はここにある。

発見者の観察力だけでは突破できない段階へ、課題の種類そのものが変わっていた。

1930年代半ば、化学療法の景色も変わった

もう一つ、ペニシリンだけを見ていると見落とす背景がある。

1930年代半ば、スルホンアミド系薬剤が登場した。

ドイツで開発されたプロントジルと、その有効部分であるスルファニルアミドの成功によって、「化学物質で細菌感染を体内から治療できる」という考えが現実味を持つようになった。

これは二つの意味を持った。

一つは、ペニシリンがなくても感染症化学療法の研究が前進していたということ。

もう一つは、細菌感染を薬で治療できるという概念への懐疑が弱まり、天然由来の抗菌物質を再検討する知的環境が整っていったということだ。

だから1930年代を「医学界がペニシリンを無視して何もしていなかった時代」と見るのは適切ではない。

むしろ感染症治療の主戦場では、別系統の薬が先に実用化されつつあった。

ペニシリンは、優れた作用を示す可能性はあるが、化学的に扱いにくく、十分な量も取れない研究対象として残っていた。

「不安定だから使えない」は、当時としては合理的な判断でもあった

現在の目で見ると、1932年にライストリックらが研究を続けなかったことは惜しく見える。

しかし、当時の条件を考える必要がある。

培養ろ液に活性がある。

溶媒へ移すこともできる。

しかし回収しようとすると活性が消える。

安定した純品は得られない。

大量に作る方法もない。

全身感染を治療した動物実験もない。

この状態で、限られた研究資源を投入し続けるべきかどうかは自明ではなかった。

しかも1930年代半ばには、より扱いやすい合成化学療法剤が成果を出し始める。

後世の私たちは、ペニシリンが抗菌薬の中心になる未来を知っている。

当時の研究者は知らない。

この非対称を忘れると、1930年代の停滞を「見る目がなかった」という一言で裁いてしまう。

実際には、ペニシリンは将来性は示すが、開発可能性がまだ証明されていない天然物だった。

薬になるために不足していたものを分ける

1929年から1930年代末までに欠けていたものを整理すると、四つに分けられる。

ボトルネック 1929〜1930年代の状態 医薬品化に必要だったこと
安定性 培養ろ液の活性が時間や処理で失われる 活性を壊さないpH・温度・保存条件
精製・濃縮 抽出できても回収過程で活性を失う 活性を追跡しながら不純物を除く工程
量 培養液中の濃度が低く、供給量が限られる 多量培養と高効率な回収
治療実証 局所使用の成功例はあるが、全身治療の体系的証明がない 動物実験、投与量、反復投与、臨床試験

この四つは独立していない。

精製できなければ濃縮できない。

濃縮できなければ少量の培養液から十分な投与量を作れない。

量がなければ動物実験や臨床試験を反復できない。

治療実験ができなければ、さらに大きな生産設備へ投資する根拠も弱い。

つまりペニシリン開発は、一つの欠点を直せば完成する問題ではなく、複数のボトルネックが互いを塞いでいる状態だった。

これが「10年以上」の実体である。

「効き目を測る」こと自体も製造工程の一部だった

不安定な天然物を薬へ変えるとき、精製装置だけでは足りない。

どの試料が強く、どの操作で弱くなったのかを毎回判断する測定法が必要になる。

ペニシリンの場合、初期には細菌の発育阻止を利用して活性を比較した。これは化学天秤で純物質の重さを量るのとは違う。培養液の中に有効成分が何ミリグラムあるか分からなくても、「この希釈率まで細菌を抑える」という生物学的な反応から強さを追跡できる。

この考え方は、精製と深く結びつく。

例えば、培養液を二つの溶媒へ分けたあと、どちらに抗菌活性が移ったかを調べる。次の処理をしたあと、活性が何割残ったかを見る。濃縮操作で力が消えたなら、その工程が有効成分を壊した可能性を疑う。

つまり「化学的に何が入っているか」と「生物学的にどれだけ効くか」を往復しなければ、見えない物質を追いかけられない。

1929年のフレミングは希釈による活性比較を行っていたが、医薬品としての標準化にはさらに精密で再現性の高い測定体系が必要だった。

この問題は、後に大量生産へ進んだときにも消えない。

工場で100リットル、1000リットルと培養量を増やしても、出来上がった液の量だけでは品質を判断できない。患者へ与える「何ミリリットル」ではなく、実際の抗菌活性を基準に投与量を決める必要がある。

したがって、ペニシリン開発の初期に必要だったのは、目に見えない活性物質を作る・取り出す・測るという三つの工程を同時に成立させることだった。

局所治療で効くことと、全身感染を治すことは別のハードルだった

セシル・ペインの例が示すように、粗いペニシリン培養ろ液でも、眼の表面のように感染部位へ直接触れさせられる条件では効果を示し得た。

しかし、この成功をそのまま肺炎や敗血症へ広げることはできない。

局所使用では、有効成分を感染部位へ直接置ける。多少濃度が不正確でも、液を繰り返し当てることができる。

全身投与では事情が変わる。

血液へ入ったあとにどの程度の速さで排泄されるのか、組織へどれほど届くのか、どの間隔で追加投与すべきかを知らなければならない。必要な総量も急増する。

さらに、注射する製剤なら不純物や無菌性の問題も無視できない。

粗いカビ培養液を「効いたからそのまま静脈へ入れる」というわけにはいかない。

この差があるため、1930年の局所治療成功を認めても、「その時点でペニシリンは実用薬になっていた」とは言えない。

むしろペインの例は、ペニシリンの生物学的な可能性が早い段階で人間にも現れていた一方、製剤技術がその可能性を全身治療へ運べなかったことを示している。

「忘れられた10年」という表現が便利すぎる理由

歴史を物語としてまとめると、1928年に発見、1939年に再発見、その間は空白――という構図は分かりやすい。[1]

しかし、この描き方では、なぜ次の研究者たちが難航したのかが消える。

1932年の生化学研究がある以上、論文が完全に忘れられていたわけではない。

粗いろ液による治療例がある以上、臨床的な意味が一度も想像されなかったわけでもない。

それでも医薬品にならなかった。

この事実は、問題の中心が「情報伝達」だけではなかったことを示す。

もちろん、フレミングの1929年論文が当時の医学界を一変させるほど注目されたわけではない。大規模な研究計画や製薬企業の投資を直ちに呼び込むこともなかった。

だが、仮に全研究者が論文を読んでいたとしても、不安定性、抽出、濃縮、測定、製造量という問題は残る。

だから本CASEでは、この時期を「忘却の10年」ではなく、抗菌現象は知られていたが、医薬品化の技術連鎖が成立しなかった10年として扱う。

なぜ1930年代末まで薬にならなかったのか

Primary Questionへの答えを短くまとめると、こうなる。

1. 抗菌作用は分かったが、有効成分を安定に取り出せなかった

1929年に作用は確認されていた。しかし活性物質は不安定で、抽出・濃縮の途中で失活しやすかった。

2. 粗い培養ろ液と、再現可能な医薬品は別物だった

局所感染へ使った成功例はあったが、純度、濃度、保存性、投与量を一定にした製剤ではなかった。

3. 必要量を作れなかった

低濃度の培養液から、全身投与を反復できる量の活性物質を確保する技術がなかった。

4. 技術が分業され、統合されていなかった

細菌学、天然物化学、効力測定、動物実験、生産技術が一つの開発計画として組み合わされていなかった。

5. 1930年代には別の化学療法剤も先に成功した

ペニシリンだけが感染症治療の唯一の候補だったわけではない。スルホンアミドの成功が先に臨床へ入り、研究環境そのものも変化していた。

したがって、ペニシリンが薬にならなかった理由を「発見者が重要性に気づかなかった」「医学界が論文を無視した」の一つに絞ることはできない。

価値は見えていた。だが、その価値を安定した物質、測れる用量、十分な生産量へ変換する方法がなかった。

1939年に必要だったのは「もう一度発見すること」ではなかった

1930年代末の時点で、ペニシリンという抗菌現象そのものは新しくなかった。

論文もあった。

菌株も残っていた。

局所治療の成功例もあった。

化学的な抽出研究もあった。

欠けていたのは、これらをつなぎ、「治療薬として成立するか」を最初から最後まで一つの計画として試すことだった。

次の記事では、ここからオックスフォードへ移る。

なぜ1939年にハワード・フローリーとエルンスト・チェーンの研究グループは、10年前のフレミングの論文へ戻ったのか。

そして、なぜ今度は「抗菌作用を観察する」だけで終わらず、精製、動物実験、製造へ進むことができたのか。

ペニシリン史の次の転換点は、偶然の培養皿ではない。

別々だった専門を、一つの研究計画へ集めたことだった。

検証ポイント|「10年間、何も起きなかった」のか

「1929年から1939年まで誰もペニシリンを研究しなかった」

違う。1932年にはクラッターバック、ラヴェル、ライストリックが生化学的研究を発表し、培養条件や抽出を検討している。

「患者には1941年まで一度も使われなかった」

これも違う。1930年のシェフィールドでは、セシル・ペインが粗いペニシリン含有ろ液を眼感染症へ局所使用した記録がある。ただし、後のオックスフォードで行われた精製製剤の体系的な全身治療とは性格が異なる。

「フレミングが精製法を考えなかっただけだった」

単純化である。専門の生化学者ライストリックらも抽出を試みたが、回収過程で活性を失う問題にぶつかった。技術的難度そのものが高かった。

「ペニシリンの価値は1939年まで誰にも理解されていなかった」

価値の兆候は理解されていた。ただし、「面白い抗菌作用」と「実用的な全身治療薬」の間に必要な化学、測定、生産、治療実証がそろっていなかった。

「1930年代は感染症を薬で治す発想自体がなかった」

違う。サルバルサンなど先行例があり、1930年代半ばにはスルホンアミド系薬剤が大きな成功を収めた。むしろ、その成功が細菌感染への化学療法を現実的な研究課題として再び強く意識させた。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Alexander Fleming, “On the Antibacterial Action of Cultures of a Penicillium”, 1929 — PubMed Central
  2. [2] Clutterbuck, Lovell & Raistrick, “Studies in the biochemistry of micro-organisms… penicillin”, 1932 — PubMed Central
  3. [3] The Discovery of Penicillin—New Insights After More Than 75 Years of Clinical Use — Emerging Infectious Diseases / CDC
  4. [4] Different roads to discovery; Prontosil and penicillin — Journal of Industrial Microbiology and Biotechnology
  5. [5] Honour for Sheffield pioneer Cecil George Paine — University of Sheffield
  6. [6] Swan Papers — University of Sheffield Archives
  1. 01 ペニシリンはどう発見されたのか――フレミングと1928年の培養皿
  2. 02 なぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのか
  3. 03 なぜフローリーとチェーンは1939年にペニシリン研究を再開したのか
  4. 04 1940年のマウス実験はペニシリンについて何を証明したのか
  5. 05 ペニシリン|最初の本格治療患者アルバート・アレクサンダーに何が起きたのか
  6. 06 ペニシリン|ノーマン・ヒートリーは少量生産の壁をどう越えたのか
  7. 07 ペニシリン|なぜフローリーとヒートリーは1941年にアメリカへ渡ったのか
  8. 08 Peoriaの研究所はペニシリン生産をどう変えたのか
  9. 09 ペニシリンはどう戦時大量生産され、D-Dayの供給に間に合ったのか
  10. 10 誰がペニシリンを「作った」のか――発見・薬剤化・量産の分業

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