THE QUESTION
なぜフローリーとチェーンは1939年にペニシリン研究を再開したのかについて、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「なぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのか」で確認した論点を受け、この回ではなぜフローリーとチェーンは1939年にペニシリン研究を再開したのかについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1939年、オックスフォード大学のSir William Dunn School of Pathologyで、ペニシリンは再び研究対象になった。
しかし、この出来事を「フレミングの論文を偶然見つけた研究者が、忘れられていた薬を復活させた」とだけ説明すると、重要な部分が抜け落ちる。
1930年代末のオックスフォードでは、Howard FloreyとErnst Chainがすでに、自然界に存在する抗菌物質を化学と生物学の両方から系統的に調べるという研究方向へ進んでいた。ペニシリンは、その計画の中で選ばれた最初期の有力候補だった。
そして、1929年当時との最大の違いは、物質そのものではない。
研究を進める側に、病理学、生化学、微生物学、活性測定、抽出、動物実験を組み合わせられるチームができつつあったことである。
ペニシリンが1939年に「再発見」されたというより、1939年前後になって初めて、ペニシリンを薬へ変えるための研究体制が成立した。[1]
この記事では、その研究再開がなぜ起きたのか、そしてFlorey、Chain、Norman Heatleyらがどの役割を担ったのかを追う。
出発点は「ペニシリン」ではなく、抗菌物質そのものだった
Floreyは1935年にOxfordのSir William Dunn School of Pathologyの責任者となった。
彼の研究関心は、最初からペニシリン一つに集中していたわけではない。炎症、組織反応、分泌物、酵素など幅広い問題を扱っており、その中にはAlexander Flemingが以前に発見していたlysozymeの研究も含まれていた。
そこへ加わったのがErnst Chainだった。
Chainはベルリン生まれの生化学者で、ナチ政権成立後にドイツを離れ、英国へ移っていた。Floreyは1930年代半ばにChainをOxfordへ迎え、二人はlysozymeなど、細菌に作用する天然物質の研究を通じて共同作業を始めた。
Nobel PrizeのFlorey略歴は、二人の体系的な共同研究が1938年に始まり、自然に存在する抗菌物質の性質を調べる研究から、やがて抗生物質へ関心が移ったと整理している。
一方、Oxfordの複数の公式史は、ペニシリンそのものの分離・開発作業が本格化した年を1939年としている。
この二つは矛盾するとは限らない。
1938年に研究計画と共同研究の方向が固まり、1939年にペニシリンを具体的対象として実験が本格化したと考えると、資料間の年代差を無理なく整理できる。[1]
Sir William Dunn Schoolに掲げられた記念プレートも、Oxfordでの分離・精製の時期を「1938–1941」と表現している。
したがって、本記事タイトルの「1939年」は、突然その年だけに着想が生まれたという意味ではない。
ペニシリン研究がOxfordの組織的な実験計画として動き出した時期を示している。
1940年の原報には「なぜ研究したか」が書かれている
この研究再開を考えるうえで、最も重要な資料の一つが、Oxfordチームが1940年8月にThe Lancetへ発表した「Penicillin as a Chemotherapeutic Agent」である。
論文の冒頭で研究者たちは、当時の化学療法への関心が主にsulphonamideとその誘導体へ集中していたと書いている。
しかし、その直後に別の可能性を示した。
細菌やカビが病原微生物の増殖を抑える現象は以前から知られているのに、そこで作られる抗菌物質について、純化や性質の決定はほとんど進んでいない、という問題意識である。
そして論文は、Oxfordで行っていたlysozyme研究に続いて、E. C.、つまりErnst Chainと、H. W. F.、Howard Floreyの二人が、細菌やカビが作る抗菌物質の化学的・生物学的性質を系統的に研究することには価値があると考えた、と明記している。
さらに、その系統研究を「Flemingが1929年に記述した、有望な抗菌作用をもつカビ由来物質」から始めたと説明している。
これは重要である。
Oxfordのペニシリン研究は、最初から「何としてもFlemingの発見を薬にしよう」という英雄救済型の計画だったわけではない。
より広い問い、すなわち、
自然界の微生物が作る抗菌物質を、化学的に取り出し、生物学的に評価すれば、化学療法に使えるものが見つかるのではないか。
という研究計画の中に、ペニシリンが置かれたのである。
ChainはFlemingの論文へ戻った
では、なぜ候補の一つとしてペニシリンが選ばれたのか。
Oxford大学の研究史では、Chainが抗菌物質に関する文献を調べる中でFlemingの1929年論文へ行き当たり、その内容に注目したと説明されている。
この点は後世の回想や大学史で繰り返し語られているが、「ある日、一冊の論文を偶然発見し、その瞬間にプロジェクトが始まった」という劇的な一場面に固定するのは避けた方がよい。
実際、研究の背景にはすでにlysozymeの共同研究があり、FloreyとChainは自然由来の抗菌作用そのものを調査対象としていた。
ChainにとってFlemingの論文は、完全に未知の話ではなく、その研究計画に適合する既存候補を文献から拾い上げたものと見る方が実態に近い。
1929年論文には、ペニシリンがブドウ球菌や連鎖球菌など複数の細菌を強く抑えること、作用に選択性があること、動物や白血球への毒性が低そうであることが記載されていた。
ARTICLE 02で見たように、そこから安定な薬を作る技術はまだなかった。
しかし1930年代末の研究者から見れば、これは逆に魅力でもあった。
抗菌作用そのものはすでに観察されている。
未解決なのは、活性物質を取り出し、測定し、安定化し、体内で効くかを調べる部分だった。
つまり、問いが残りすぎていたからこそ、系統研究の対象として価値があったのである。
ここで、過去の失敗がそのまま「見込みなし」を意味しなかったことも重要になる。1932年のRaistrickらは活性物質を安定に単離できず、Fleming自身も濃縮に成功していなかった。だが、それは抗菌作用が否定された結果ではない。むしろ、作用は繰り返し観察できるのに、化学的な実体を壊さず扱えないという未解決問題が残っていた。FloreyとChainの研究計画にとって、この種の対象は失敗済みのテーマではなく、新しい生化学的手法で再検討する価値があるテーマだった。
1930年代末には「細菌感染を薬で治す」ことの現実味が変わっていた
1929年と1939年では、医学側の期待も同じではなかった。
1930年代半ばからsulfonamide系薬剤が細菌感染症の治療に成果を示し、細菌感染を全身投与する化学物質で治療するという発想は、以前よりはるかに現実的になっていた。
1940年のOxford論文が冒頭で「近年の化学療法への関心はほとんどsulphonamideへ向いていた」と書いていること自体、この研究環境を示している。
Flemingも1945年のNobel Lectureで、約10年後にChainとFloreyが研究を取り上げた背景として、sulphonamideの導入が細菌感染に対する化学療法への医学界の考え方を大きく変えたことを挙げている。
ただし、ここでも単純な因果関係にはしない方がよい。
「sulfonamideが成功したので、その直後にpenicillinを選んだ」と一つの原因へ還元するのではなく、細菌感染を薬で制御できるという前例ができ、天然抗菌物質を調べる研究の意味が以前より大きく見える環境になったと理解するのが安全である。
Dubosの研究は「天然物質を取り出して治療へ使う」可能性をさらに示した
同じ時期、米国ではRené Dubosらが土壌細菌から抗菌物質を分離する研究を進めていた。
1939年から1940年に公表された仕事では、Bacillus brevis由来の抗菌物質が分離され、動物感染モデルで作用を示した。[1]ただし、後にtyrothricinとして知られるこの物質群には毒性の問題があり、全身治療薬として広く使えるものにはならなかった。
Oxfordの1940年論文も、このDubosらの仕事を冒頭で取り上げている。
ここから、「Dubosの発表を見て初めてFloreyとChainがペニシリン研究を思いついた」と結論するのは正確ではない。
Florey自身は1945年のNobel Lectureで、Dubosの最初の成果が発表されたころにはOxfordですでにペニシリンの予備実験が行われていたと回顧している。
つまり両者は、前後関係が一方向の単純な模倣ではない。
むしろ1930年代末には、
- sulfonamideによる化学療法の成功
- lysozymeなど天然抗菌物質への基礎研究
- 微生物同士の拮抗現象への関心
- Dubosらによる抗菌物質分離の進展
が重なり、「微生物が作る抗菌物質を分離して治療へ使えるのではないか」という研究領域そのものが成立し始めていた。
ペニシリン研究再開は、この流れの中に置く必要がある。
Floreyの役割――一つの物質を調べるのではなく、研究系を組む
Howard Floreyは、ペニシリンを最初に見つけた人物でも、抽出法を一人で発明した人物でもない。
Oxfordでの彼の中心的な役割は、異なる専門を持つ研究者をまとめ、抗菌物質を「化学的に取り出す」「作用を測る」「生体で評価する」という一連の問題へ組み直すことだった。
Dunn Schoolの部門長として、研究テーマを選び、人員を割り当て、資金を求め、病理学と生化学を接続する研究環境を作った。
1940年のLancet論文は、ChainとFloreyだけの署名ではない。
E. Chain、H. W. Florey、A. D. Gardner、N. G. Heatley、M. A. Jennings、J. Orr-Ewing、A. G. Sandersの名前が並び、論文自身が研究を「cooperative investigation」と呼んでいる。
これは、ペニシリンのOxford段階が最初から共同研究だったことを示す一次資料である。
Floreyの仕事を一言で表すなら、「研究対象を発見した」より、研究対象を薬になり得るか検証するシステムを作ったに近い。
Chainの役割――文献と生化学をつなぐ
Chainの強みは生化学だった。
Oxfordの大学史では、彼がFlemingの論文を再び研究対象へ引き上げ、Penicilliumが作る活性物質を化学的に扱う方向を強く押した人物として描かれている。
Chainは、単に「このカビは菌を殺すらしい」と確認するのではなく、その活性を担うものが何であり、どの条件で存在し、どう取り出せるのかという問題へ進んだ。
これはFlemingの研究と連続している一方、研究の焦点が異なる。
Flemingの1929年論文の中心は、培養ろ液がどの細菌を抑えるか、どの程度毒性が低そうか、細菌の選択培養などへ使えるかという生物学的観察だった。
Oxfordでは、それを化学的対象として捕まえ、再現可能な物質へ近づけることが研究の中核になった。
この違いが、「発見」と「薬剤化」の境界を作る。
Heatleyが加わることで、研究は実験工程としてつながった
Norman Heatleyは、後のペニシリン史でしばしば「忘れられた中心人物」と呼ばれる。
OxfordのDunn Schoolは、Heatleyが活性測定法を工夫し、ペニシリンが安定する条件を調べ、培養液から活性物質を取り出して濃縮する多段階の方法を開発したと説明している。
ただし、その具体的な抽出装置、培養容器、大量の培養液を処理する工程はCASE068-06で詳しく扱う。
ここで重要なのは、1939年前後の時点でFloreyがHeatleyをこの研究へ組み込み、Chainが追う生化学上の問題を、実際に繰り返せる実験操作へ落とし込む役割が加わったことである。
ARTICLE 02で見た1932年の研究では、抽出へ進んでも活性を失う壁があった。
Oxfordでは、その壁に対して「化学者だけ」「細菌学者だけ」ではなく、測定と装置設計を含む実験系を組むことができた。
ここが大きな差だった。
GardnerやJenningsも、薬になるかを別方向から確かめた
チームの分業はFlorey、Chain、Heatleyだけでは終わらない。
Oxfordの史料整理では、A. D. Gardnerはさまざまな微生物がペニシリンへどの程度感受性を示すかというin vitroの評価に関与したとされる。
Margaret JenningsはFloreyの研究助手として、ペニシリンの毒性や、生体内でどう扱われるかを調べる仕事に関わった。
1940年Lancet論文にはOrr-EwingとSandersも共著者として名を連ねる。
後にはEdward Abraham、臨床側のCharles FletcherやEthel Florey、製造を支えた技術者たちも加わっていく。
しかしARTICLE 03の段階で重要なのは、全員の後年の業績を列挙することではない。
「効くかもしれないカビの液」を薬へ近づけるには、一種類の専門では足りなかったという点である。
化学的に取り出せても、生物活性が測れなければ意味がない。
試験管内で強く効いても、生体に毒なら薬にならない。
少量で作用しても、毎回同じ強さを作れなければ比較できない。
こうした別々の問いを、同じ研究対象へ同時に向けるチームが形成されたこと自体が、1939年の転換だった。
資金がなければ「面白い候補」のまま終わる
研究対象を選んでも、継続して実験するには資金が必要だった。
Oxford Health Historiesは、Dunn Schoolが1939年にペニシリンの分離を始め、Rockefeller Foundationへ研究費を申請して成功したと整理している。
別のOxfordの歴史ケーススタディでは、Floreyが英国Medical Research Councilへ支援を求めたものの十分な資金を得られず、その後Rockefeller Foundationから1940年初頭により本格的な支援を得た経緯が記されている。
ここには資料上の表現差があるため、「1939年のある日に一括して資金が決まった」と固定しない。
より重要なのは、1939年から1940年にかけて、ペニシリンを単発の実験ではなく継続的な共同研究として扱うための外部資金が成立したことである。
研究史では、優れた仮説だけが結果を生むわけではない。
人員、培地、器具、動物、測定、時間を確保できなければ、候補物質は候補のまま止まる。
ペニシリンはまさに、1920〜30年代にその壁を経験していた。
第二次世界大戦が始まったから研究を始めた、ではない
1939年という年は第二次世界大戦の開始と重なるため、ペニシリン研究も「戦争で負傷兵を救うために始まった」と説明されることがある。
しかし、研究の起点をそこだけに置くと時系列が崩れる。
FloreyとChainの天然抗菌物質への共同関心は戦争前から形成されており、Nobel PrizeのFlorey略歴は体系的研究の開始を1938年としている。
1940年のLancet論文も、研究の発想をlysozyme研究から続く抗菌物質の系統調査として説明している。
したがって、戦争はペニシリンを研究対象に選んだ最初の理由ではない。
一方で、戦争がその後の開発速度、資材不足、感染症治療への需要、英国から米国へ量産協力を求める判断へ強く影響したことも確かである。
研究の「開始理由」と、研究を「加速させた環境」は分ける必要がある。
この区別は、後の大量生産史を理解するときにも重要になる。
1939年の転換点は、論文ではなく「分業」だった
ここまでを整理すると、Oxfordがペニシリンを再び研究対象へ選んだ理由は一つではない。
1. FloreyとChainが天然抗菌物質を系統的に調べる研究計画を持っていた
1940年の原報は、lysozyme研究に続いて、細菌やカビが作る抗菌物質の化学的・生物学的性質を体系的に調べる計画を立てたと明記している。
ペニシリンは、その計画の最初の有力対象だった。
2. Flemingの1929年論文には、すでに強い抗菌作用と低毒性の手掛かりがあった
問題は「作用があるか」より、「活性物質をどう扱うか」に移っていた。
Chainが文献からこの候補へ戻ったことは、既知の現象を新しい技術と問いで再評価したことを意味する。
3. 1930年代の化学療法が、感染症を薬で治療できるという期待を高めた
sulfonamideの成功によって、全身感染を化学物質で制御する考えは現実性を増していた。
自然由来の抗菌物質を調べる研究も、1929年当時とは違う意味を持つようになった。
4. 一人の研究者ではなく、異なる専門を持つチームが組めた
Floreyは研究を統括し、Chainは生化学的問題を追い、Heatleyは測定・抽出・実験装置をつなぎ、GardnerやJenningsらが微生物学・薬理学的評価を支えた。
1940年の原報が「cooperative investigation」と表現した通り、Oxfordの前進は共同研究の産物だった。
5. 継続研究を可能にする組織と資金があった
Dunn Schoolという研究拠点と、1939〜40年に成立した外部支援によって、候補物質を何度も培養し、抽出し、測定し、評価する研究が続けられた。
この五つがそろったことで、ペニシリンは1929年の観察から、実験的な医薬品候補へ移り始めた。
「誰がペニシリンを作ったのか」という問いを急がない
この段階で、Fleming、Florey、Chain、Heatleyの誰か一人を「本当の発明者」と決める必要はない。
役割が違うからである。
Flemingは抗菌作用を観察し、培養ろ液をpenicillinと名付け、その性質を1929年に公表した。
FloreyとChainは、その既知の現象を天然抗菌物質の系統研究へ組み込み直した。
Heatleyらを含むOxfordチームは、活性物質を扱える実験系へ変えていった。
その後には、動物実験、患者への投与、製造法の改善、米国での発酵技術、企業による工業生産が続く。
つまり、ペニシリンの歴史は一回の「発明」ではなく、観察、選択、分離、評価、治療、量産が別々の人と組織によって接続された開発史である。
この分業全体の評価はCASE068-10で改めて扱う。
次に必要だったのは、「体の中でも効く」と証明することだった
1939年前後のOxfordで、研究すべき対象とチームはそろった。
ペニシリンを含む培養液を作り、活性を測り、以前より安定した形で取り扱う道筋も見え始めた。
しかし、ここではまだ決定的な問いが残っている。
試験管の中で細菌を抑える物質が、感染した生きた動物の体内でも病原菌を抑え、動物を救えるのか。
これを確かめなければ、ペニシリンは「興味深い抗菌物質」のままである。
1940年5月、Oxfordチームは感染させたマウスを使って、この境界を越える実験を行った。
その実験は何を比較し、どこまで証明し、逆に何をまだ証明していなかったのか。
次の記事では、1940年のLancet原報へ戻り、ペニシリンが初めてin vitroの抗菌作用からin vivoの治療候補へ移った瞬間を検証する。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Chain, Florey et al., “Penicillin as a Chemotherapeutic Agent”, The Lancet, 1940
- [2] Howard W. Florey — Nobel Lecture, 1945
- [3] Howard W. Florey — Biographical, NobelPrize.org
- [4] Penicillin — Oxford Health Histories
- [5] Penicillin: the Oxford story — University of Oxford
- [6] Our History — Sir William Dunn School of Pathology, University of Oxford
- [7] The Norman Heatley Lecture — Sir William Dunn School of Pathology
- [8] Team Penicillin — History of Science Museum, Oxford
- [9] Different roads to discovery; Prontosil and penicillin — Journal of Industrial Microbiology and Biotechnology
ペニシリン|偶然の発見はどう戦時大量生産へつながったのか 第3回 全10回 全10回を見る
- 01 ペニシリンはどう発見されたのか――フレミングと1928年の培養皿
- 02 なぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのか
- 03 なぜフローリーとチェーンは1939年にペニシリン研究を再開したのか
- 04 1940年のマウス実験はペニシリンについて何を証明したのか
- 05 ペニシリン|最初の本格治療患者アルバート・アレクサンダーに何が起きたのか
- 06 ペニシリン|ノーマン・ヒートリーは少量生産の壁をどう越えたのか
- 07 ペニシリン|なぜフローリーとヒートリーは1941年にアメリカへ渡ったのか
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- 10 誰がペニシリンを「作った」のか――発見・薬剤化・量産の分業