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Peoriaの研究所はペニシリン生産をどう変えたのか

Peoriaの研究室でフラスコを確認するAndrew J. Moyer。
USDA Agricultural Research Service, K9422-1 (Public Domain) 出典 Public Domain — U.S. federal government work

THE QUESTION

Peoriaの研究所はペニシリン生産をどう変えたのかの後に何が変わり、何が残ったのか。

STORY SO FAR

前回「なぜフローリーとヒートリーは1941年にアメリカへ渡ったのか」で確認した論点を受け、この回ではPeoriaの研究所はペニシリン生産をどう変えたのかの後に何が変わり、何が残ったのか。を扱う。

1941年7月、Howard FloreyとNorman HeatleyがIllinois州PeoriaのNorthern Regional Research Laboratory――NRRL――へ持ち込んだのは、完成した大量生産法ではなかった。

Oxfordでは、ペニシリンが感染したマウスを救い、人の重症感染症でも劇的な改善を起こすことまで示されていた。少量なら培養し、抽出し、濃縮する工程も作られていた。しかし、その方法は多数の浅い容器へ培地を広げ、表面にカビを育て、液を一つずつ回収する研究室的な生産だった。

薬として効くことは分かった。しかし、同じ時間と設備から、どうすれば桁違いの量を取り出せるのかは分かっていなかった。

Peoriaが変えたのは、この問題の解き方だった。

研究対象を「ペニシリンという物質」だけに置くのではなく、何を餌にしてカビを育てるか、どの菌株を使うか、液面だけでなく培養液の内部で育てられるか、どの条件なら高い活性を再現できるかという発酵工程全体へ広げたのである。

この転換によって、Oxfordの表面培養は、そのまま大型化されるのではなく、工業生産へ向く別のシステムへ組み替えられていった。

Peoriaは「薬の研究所」ではなく、発酵を扱う農務省研究所だった

NRRLは、もともと抗生物質を作るために建てられた研究所ではない。

1930年代の米国では、農産物の余剰や副産物を新しい工業原料へ変えることが大きな課題になっていた。1938年の農業政策を背景に地域研究所が設けられ、PeoriaのNorthern Regional Research Laboratoryは1940年に活動を始めた。ここではトウモロコシなどの農産物や、その加工で生まれる副産物を利用し、微生物発酵によって有用物質へ変える研究が行われていた。

つまり、OxfordとPeoriaでは出発点が違う。

Oxfordが持っていた強みは、感染症治療へ使えることを示した薬理・臨床研究と、小規模でもペニシリンを取り出せる実験工程だった。

Peoriaが持っていたのは、微生物へ何を与え、どの条件で育てれば、目的物をより多く作らせられるかを調べる発酵研究の文化だった。

この違いが重要だった。

ペニシリンを増やすには、単に培養容器の数を増やすだけでは限界がある。カビ一株が生み出す量そのものを増やし、培地を安価にし、より大きな容積へ移せる培養方式を作らなければならない。

1941年7月14日にFloreyとHeatleyがPeoriaへ到着すると、USDAの歴史資料では翌日から共同研究が始まったとされている。[1]

ここから問題は、「Oxfordの方法をコピーする」から「Oxfordより生産性の高い発酵系を作る」へ変わった。

最初の突破は、カビに与える「餌」を変えることだった

Peoriaで中心的な役割を担った一人がAndrew J. Moyerである。

American Chemical Societyの歴史整理では、MoyerはまずOxfordで使われていた培地の糖を見直し、sucroseの代わりにlactoseを使うことで収率を改善した。その直後、さらに大きな効果を持つ材料が加わった。

corn-steep liquor――トウモロコシ浸漬液である。

これはトウモロコシを湿式製粉する際に生じる液状の副産物で、酒ではない。Peoriaの研究所にとっては、まさに「農産加工の副産物を有効利用する」という本来業務に近い材料だった。

ACSによれば、Moyerがcorn-steep liquorを培地へ加えると、ペニシリン収量は約10倍に増えた。USDAの別の歴史資料も、1941年11月までにMoyerがHeatleyの協力を受け、corn-steep liquorとmilk sugar、すなわちlactoseを利用した培地によってOxford時代の収量を大幅に引き上げたと記録している。[1]

ここで大切なのは、「トウモロコシの汁を入れたら偶然うまくいった」というだけではないことである。

発酵では、微生物が増えることと、目的物を大量に作ることは必ずしも同じではない。糖を早く消費しすぎれば、菌体は増えてもペニシリン生成に適した代謝状態が続かないことがある。逆に、栄養源の組み合わせを変えることで、成長と産生のバランスを変えられる。

Peoriaでは、この問題を培地設計として扱った。

lactoseは利用のされ方が異なる炭素源であり、corn-steep liquorには窒素源や各種栄養成分が含まれる。後のMoyerとRobert Coghillの研究は、培地組成を変えながら多数の実験を繰り返し、表面培養でも当初よりはるかに高い活性を得られる条件へ進んだことを示している。

つまり、Oxfordでは「どうやって壊さず取り出すか」が大きな壁だったのに対し、Peoriaではその前段階へ戻り、

そもそも培養液1ミリリットルの中へ、もっと多くのペニシリンを作らせる

という問題を本格的に解き始めた。

この変更は工業化に直結する。

同じ1,000リットルを処理しても、培養液中のペニシリン濃度が10倍なら、後工程で扱える薬量も大きく変わる。抽出装置を巨大化する前に、発酵槽から出てくる液そのものを「濃く」することが必要だった。

表面培養は、容器を増やすほど設備が横へ広がった

Oxfordの方式では、カビを培養液の表面に育てた。

カビが空気に接する液面を利用するため、量を増やそうとすると、深い一つの容器へ培地を足すより、浅い液面を大量に作る方が都合がよい。

だからOxfordでは、Heatleyが設計した陶製容器を数百個並べる方向へ進んだ。

これは研究室規模としては巧妙だったが、生産量を何十倍、何百倍へ増やすと別の問題になる。

必要なのは培地の「体積」だけではなく、カビが使える「表面積」だからである。容器を増やせば、床面積、洗浄、滅菌、接種、回収、人手もほぼ一緒に増えていく。

工場で必要なのは、同じ建物の中で、より大きな容積の培養液を扱える方法だった。

そこで注目されたのがsubmerged culture――深部培養、液内培養である。

液の表面だけにカビを置くのではなく、培養液の内部で菌体を育て、外から空気を送り、撹拌しながら発酵させる。理論上は、大きなタンク全体を生産空間として利用できる。

しかし、「深いタンクへ入れれば終わり」ではなかった。

Oxfordの菌株は、深部培養へ移すだけではうまく働かなかった

ここがPeoria研究のもう一つの核心である。

ACSの歴史資料は、Floreyらが持ち込んだPenicilliumのcultureをsubmerged cultureで育てても、ペニシリンはごくわずかしか作られなかったと記している。

National Academy of SciencesのKenneth Raperの伝記では、よりはっきり、当時使われていたFleming系の菌株は表面培養ではペニシリンを作るが、液内培養では十分に作らなかったと整理されている。

これは重大な問題だった。

表面培養の欠点が分かっていても、同じ菌をそのまま深いタンクへ入れれば生産性が落ちるなら、方式を変更できない。

つまり工業化には、

培地を変えるだけでも不十分で、培養方式に合う菌株そのものを探す必要があった。

Peoriaにはそのための条件があった。

USDAの菌類研究者Kenneth Raperらは多くのPenicillium株を扱う文化コレクションを持っていた。研究所では各地から送られる菌株を比較し、どの株がより多くペニシリンを作るかを調べることができた。

Raperの研究史によれば、PeoriaのcollectionにあったNRRL 832という株が、液内培養でもある程度のペニシリンを作ることが分かった。

完成形ではない。

だが、これは非常に重要な証拠だった。

「液内で育てるとペニシリンを作れない」のではなく、「液内培養に向く菌株を選べば作れる」可能性が見えたからである。

ここから菌株探索が、培地改良と同じくらい重要な研究テーマになった。

「もっと作る菌」を世界中から探した

ペニシリンの生産性は、培養装置だけでは決まらない。

同じ培地、同じ温度、同じ時間で育てても、菌株が違えば生産量は変わる。

そこでPeoriaでは、Penicilliumのさまざまな株を比較するsurveyが進められた。各地から土壌やカビの試料が集められ、菌株を分離し、実際にペニシリンをどれだけ作るかが評価された。

1944年にKenneth Raper、Dorothy Fennell Alexander、Robert Coghillが発表した研究は、Penicillium notatumと近縁群の自然変異とペニシリン生産性を系統的に比較したものだった。

この発想は、Oxford時代とはかなり違う。

Oxfordでは、Fleming由来の菌株を使い、その菌が作るペニシリンをどう回収するかが中心だった。

Peoriaでは、

「最初からもっと作る菌を選ぶ」

という入口が加わった。

工業生産ではこの差が大きい。

低生産株を巨大なタンクで無理に増やすより、高生産株を同じタンクで育てた方が、設備当たりの収量は上がる。これは後の抗生物質生産で当たり前になるstrain improvementの考え方へつながっていく。

そして、この菌株探索から最も有名な逸話が生まれた。

「カビたメロン」は本当だが、「Moldy Mary」の物語はそのまま事実ではない

Peoriaのペニシリン史で最も有名なのが、地元市場のカンタロープ、いわゆるマスクメロンに生えていたカビの話である。

この核心部分には確かな史料がある。

National Academy of SciencesのRaper伝記は、1943年7月、Peoriaの地元で入手されたカビたcantaloupeからNRRL 1951というPenicillium strainが得られたと記している。[7]この株は、それまでの優良な表面培養株に匹敵し、液内培養ではNRRL 832より優れていた。

USDAも現在、NRRL 1951をPeoriaの市場のカンタロープから分離された歴史的菌株として保存している。

したがって、

「高生産性で、液内培養にも適した重要な菌株がPeoriaのカビたメロンから見つかった」

という部分は、単なる都市伝説ではない。

一方で、そのメロンを「誰が見つけたか」は慎重に扱う必要がある。

後世には、研究所で働いていたMary K. Huntが市場でメロンを見つけ、そこから「Moldy Mary」と呼ばれたという物語が広く流布した。

しかしUSDAが現在公開している検証記事も、発見者の人物同定には不確実さが残ると明記している。Hunt本人による後年の証言は存在し、彼女が市場などからカビ試料を集める作業に関わっていたことも確認できるが、菌株番号など記憶の食い違いもある。

さらにRaperの伝記は、後世の“Moldy Mary”談の多くをapocryphal、つまり伝説化した話として注意している。

したがって本シリーズでは、

  • カンタロープ由来のNRRL 1951が存在したこと
  • Peoriaの市場由来だったこと
  • 1943年に重要な高生産株として評価されたこと

までは事実として扱う。

しかし、「Mary Huntがたった一人で奇跡のメロンを発見し、それが大量生産を完成させた」という物語にはしない。

この区別は重要である。

そもそもPeoriaの改良は1941年から始まっている。corn-steep liquorやlactoseによる培地改良、液内培養に使える菌株の探索は、NRRL 1951が見つかるより前から進んでいた。

メロン株は、その研究体系へ後から加わった強力な材料だった。

メロン株も、そのまま最終生産株になったわけではない

NRRL 1951の発見で話を終えると、もう一つ重要な段階が消える。

自然界から高生産株を見つけるだけでなく、その株をさらに改良する研究が続いた。

ACSの整理では、cantaloupe strainをもとにCarnegie InstitutionでX線を利用した変異株が作られ、さらにUniversity of Wisconsinで紫外線による選抜・改良が進められ、生産性が引き上げられた。

Raperの伝記でも、NRRL 1951のより高生産なsubculture、さらに放射線や大学側の研究によって収量が上がっていった経緯が記録されている。

これは、ペニシリン量産が一個の「最良菌株」を見つけた瞬間に完成したのではないことを示す。

実際には、

自然変異を探す → 良い株を選ぶ → 人為的変異を起こす → さらに良い株を選ぶ

という反復的な改善だった。

ここでも、発見の単位は一人のひらめきではなく、screeningとselectionのシステムになっている。

Peoriaが変えたのは、三つの変数を同時に最適化する考え方だった

ここまでの変化を整理すると、Peoriaの役割は三つに分けられる。

1. 培地を変えた

Oxford由来の培地を固定せず、lactoseやcorn-steep liquorを組み合わせ、カビがより多くペニシリンを作る条件を探した。

これは単なる材料置換ではない。

安価で大量に入手できる農産副産物を利用しながら、生産性も上げるという、工業化に向く方向だった。

2. 菌株を変えた

Fleming由来の一株を絶対視せず、文化コレクションと世界的な試料探索を使い、表面培養・液内培養それぞれで高収量を出す株を選別した。

NRRL 832、NRRL 1951、その派生株という流れは、装置に菌を合わせるだけでなく、目的の装置で働く菌を選ぶという発想を示している。

3. 培養方式を変えた

液面にカビを育てるsurface cultureから、空気を送りながら培養液内部で育てるsubmerged cultureへ向かう研究を進めた。

この転換によって、「床いっぱいに浅い容器を並べる」方法から、「大きな容積を一つの発酵系として管理する」方法へ進める可能性が生まれた。

この三つは別々ではない。

良い培地でも、その培地を使いこなせない菌株なら意味がない。高生産株でも、深部培養で失速すれば工場化しにくい。深いタンクを作っても、酸素、泡、温度、撹拌を制御できなければ安定生産できない。

Peoriaが示したのは、培地・菌株・培養方式を一つの発酵システムとして調整する必要があるということだった。

ただしPeoriaだけで「深槽発酵工場」を完成させたわけではない

ここには明確な境界を置く必要がある。

USDAの一般向け史料には、Peoriaがdeep-vat fermentationの基礎を作り、量産問題を解いたという簡潔な表現がある。それはPeoriaの歴史的重要性を示す説明として妥当だが、実際の工業化を一研究所だけの成果と理解すると不正確になる。

submerged cultureを何千ガロンもの発酵槽へ拡大すると、新しい工学問題が出る。

ペニシリン産生菌は酸素を必要とする。空気を大量に送り込めば泡が発生する。タンク内部の温度を一定にしなければならない。巨大な液体を均一に混ぜながら、他の微生物を入れないよう滅菌状態も保つ必要がある。そして発酵後には、熱に弱く不安定なペニシリンを大量の液から素早く回収しなければならない。

ACSは、これらのmanufacturing-scale engineeringではMerck、Squibb、Pfizerなど製薬・化学企業が重要な役割を果たしたと明確に区別している。

たとえば泡の制御、冷却、撹拌、巨大タンクの設計、抽出・精製設備は、Peoriaの培地や菌株研究だけでは解決しない。

したがって、

Peoriaが工場を完成させた

と書くより、

Peoriaが「工場で増やせる可能性の高い発酵条件」を作り、企業がそれをmanufacturing scaleへ引き上げられる状態にした

と整理する方が正確である。

この違いは次の記事へつながる。

「大量生産」は、研究所から企業へ渡せる技術になった

1941年夏にOxfordの技術がPeoriaへ入った時点では、ペニシリンはまだ特殊な研究材料だった。

Oxfordのスタッフは、菌を育て、培養液を回収し、抽出し、患者へ使うところまで自分たちで抱えていた。

Peoriaで起きたことは、その工程のうち「生物に作らせる部分」を、再設計可能な技術へ変えたことだった。

何を培地に入れるか。

どの菌株を選ぶか。

表面で育てるか、液内で育てるか。

どの条件なら高い力価を維持できるか。

この変数を測定し、比較し、より良い組み合わせを別の研究所や企業へ渡せるようにする。

それによって、ペニシリン生産は「Oxfordでしか再現できない職人的な小規模工程」から離れ始めた。

USDAの歴史資料は、Peoriaで得られた方法と新しい菌株が他の研究機関や民間企業へ移されたと記している。

重要なのは、この移転可能性である。

工業化には、一つの研究室が大量に作るだけでは足りない。別の施設でも同じ考え方を再現でき、さらに装置規模に合わせて改良できなければならない。

Peoriaの成果は、そのための共通プラットフォームになった。

Peoriaの技術突破は何を変えたのか

Primary Questionへ戻る。

米国農務省Peoria研究所の培地・菌株・発酵研究は、Oxfordの表面培養から工業生産へ進むうえで何を変えたのか。

答えは、単純に「収量を増やした」だけではない。

第一に、単位体積あたりの生産量を引き上げた

lactoseとcorn-steep liquorを含む培地改良によって、同じ量の培養液から得られるペニシリンを大幅に増やした。

これで大量生産に必要な原料・容器・抽出作業の負担を相対的に減らせるようになった。

第二に、菌株そのものを生産設備の一部として扱った

Fleming由来株だけに依存せず、NRRLのculture collectionと広範なscreeningを通じて高生産株を探索した。

特にsubmerged cultureでも働く菌株を選ぶことで、培養方式を変える余地が生まれた。

第三に、表面積依存の生産から容積利用型の生産へ道を開いた

浅い容器を増やす方式ではなく、通気・撹拌する液内培養へ移行することで、大型発酵槽へスケールアップできる技術的方向が見えた。

第四に、改良を一回で終わらせない研究体系を作った

培地を試し、菌株を比較し、より良い自然株を探し、さらに変異株を作って選抜する。

この反復によって、ペニシリン生産は「偶然見つかったカビを育てる」仕事から、収率を設計し続ける工業微生物学へ変わった。

したがってPeoriaの本当の突破は、メロン一個でも、corn-steep liquor一種類でも、deep tankという装置一つでもない。

培地 × 菌株 × 培養方式を同時に最適化し、製薬企業が工場規模へ拡張できる発酵系へ変えたことにある。

検証ポイント|Peoriaをめぐる有名な説明を分ける

「カビたメロンがペニシリン大量生産を可能にした」

一部は正しいが、それだけではない。

NRRL 1951は重要な高生産株だった。しかしPeoriaではその2年前から培地改良と液内培養研究が進んでいた。大量生産は培地、菌株、発酵方式、企業の装置工学が組み合わさって成立した。

「Moldy Maryが奇跡の菌を発見した」

人物まで含めると確定できない。

Mary K. Huntが菌株探索に関わったこと、後年に本人がメロン採取を語ったことは確認できる。一方、USDAは現在も発見者の同定に不確実性があるとしており、Raper伝記も後世の“Moldy Mary”物語の多くを伝説化したものとしている。

「Flemingの菌を大きなタンクへ入れれば量産できた」

違う。

Fleming系のcultureはsubmerged conditionで十分な収量を出さなかった。液内培養へ移るには、それに向いた菌株のscreeningが必要だった。

「Peoriaが完成した工場生産法を作った」

これも単純化である。

Peoriaは培地、菌株、発酵条件の重要な基礎を作った。しかし巨大タンクの通気、撹拌、泡、冷却、滅菌、抽出などmanufacturing-scaleの問題は製薬企業側でも解かれた。

「deep-tank fermentationは一人の発明だった」

ペニシリンに関しては、そのようには整理できない。

Peoriaはsubmerged cultureを成立させる培地・菌株研究を進め、企業は既存の発酵経験を利用して巨大タンクへ拡大した。技術は複数組織を通して段階的に成立した。

次に残ったのは「工場を動かす」問題だった

Peoriaで、ペニシリン大量生産の科学的な入口は大きく変わった。

高収率の培地が見つかった。

液内培養に向く菌株を探せるようになった。

より高生産な菌株を選抜し続ける仕組みも生まれた。

これで、Oxfordの浅い培養容器をただ大量に並べる以外の道が開いた。

しかし、まだ戦場へ届く薬にはなっていない。

次に必要なのは、この発酵条件を何千ガロン級の設備で安定して再現し、抽出・精製・乾燥まで連続した工業工程へ組み込み、限られた資材の中で複数企業が生産量を急増させることだった。

それは微生物学だけでは解けない。

化学工学、製薬工場、政府による設備・原料の優先配分、企業間の情報共有が必要になる。

次の記事では、Peoriaで得られた「増やせるペニシリン」が、Merck、Squibb、Pfizerなどの工場へ移り、なぜ1944年6月のD-Dayまでに実戦投入可能な供給量へ達したのかを追う。

Peoriaは大量生産の終点ではない。

研究室の薬を、工場で増やせる発酵プロセスへ変える中継点だった。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] USDA ARS — Penicillin: Opening the Era of Antibiotics
  2. [2] American Chemical Society — Discovery and Development of Penicillin
  3. [3] National Academies — Biographical Memoir: Kenneth Bryan Raper
  4. [4] USDA ARS — The Enduring Mystery of “Moldy Mary”
  5. [5] Moyer & Coghill, “Penicillin VIII. Production of Penicillin in Surface Cultures,” Journal of Bacteriology, 1946
  6. [6] Moyer & Coghill, “Penicillin IX. The Laboratory Scale Production of Penicillin in Submerged Cultures,” Journal of Bacteriology, 1946
  7. [7] Raper, Alexander & Coghill, “Penicillin II. Natural Variation and Penicillin Production in Penicillium notatum and Allied Species,” Journal of Bacteriology, 1944
  1. 01 ペニシリンはどう発見されたのか――フレミングと1928年の培養皿
  2. 02 なぜペニシリンは発見から10年以上、薬にならなかったのか
  3. 03 なぜフローリーとチェーンは1939年にペニシリン研究を再開したのか
  4. 04 1940年のマウス実験はペニシリンについて何を証明したのか
  5. 05 ペニシリン|最初の本格治療患者アルバート・アレクサンダーに何が起きたのか
  6. 06 ペニシリン|ノーマン・ヒートリーは少量生産の壁をどう越えたのか
  7. 07 ペニシリン|なぜフローリーとヒートリーは1941年にアメリカへ渡ったのか
  8. 08 Peoriaの研究所はペニシリン生産をどう変えたのか
  9. 09 ペニシリンはどう戦時大量生産され、D-Dayの供給に間に合ったのか
  10. 10 誰がペニシリンを「作った」のか――発見・薬剤化・量産の分業

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