1972年10月13日、ウルグアイ空軍571便は「どこかのアンデス」に墜落したわけではない。
現在確認されている事故地点は、アルゼンチン西部・メンドーサ州の山中、チリとの国境に近い場所にある。座標はおよそ南緯34度45分54秒、西経70度17分11秒。現在は「Valle de las Lágrimas(涙の谷)」や「Glaciar de las Lágrimas」の名で知られる一帯である。
この地点を地図で見ると、571便の事故について重要なことが一つ分かる。
機体は、乗員が管制へ報告していた「クリコ付近」には到達していなかった。
それどころか、サンティアゴへ向けて降下を始めた時点でも、571便はまだアルゼンチン側のアンデス山中にいた。
そしてこの位置の食い違いは、墜落原因だけでなく、その後の捜索にも影響した。
第3回では、571便の事故地点を現在の地図上へ置き、プランチョン峠、クリコ、サンティアゴとの位置関係から、「どこで墜落したのか」「なぜ捜索機から発見されなかったのか」を整理する。
この記事で分かること
- 571便の墜落地点は現在のどこにあるのか
- アルゼンチンとチリのどちら側だったのか
- プランチョン峠、クリコ、墜落地点はどのような位置関係なのか
- 乗員が認識していた位置と実際の位置はどのように違ったのか
- なぜ墜落地点の特定が難しかったのか
- なぜ上空を捜索機が飛んでも機体を発見できなかったのか
- 現場の地形が72日間の生存と自力脱出へどう影響したのか
CASE FILE 30
ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回
- ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
- なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
- 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角 【現在の記事】
- 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
- 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
- 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
- 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
- パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
- 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
- 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い
まず地図で571便の墜落地点を見る
事故地点は、現在の地図ではアルゼンチン・メンドーサ州西部、アンデス山脈の奥深くに位置する。
ウルグアイ空軍571便の墜落地点周辺。現在一般に「Valle de las Lágrimas」と呼ばれるアンデス山中で、アルゼンチン・メンドーサ州のチリ国境近くに位置する。Google Mapは現在の地形・地名を表示しており、1972年当時の積雪や捜索状況そのものを再現するものではない。
地図を少し縮小すると、近くに都市や幹線道路がある場所ではないことが分かる。
さらに広域へ縮小すると、東にはアルゼンチン、すぐ西にはチリがあり、その間をアンデス山脈が南北に走っている。
571便の遭難を理解するには、この「国境のすぐ近くなのに、人がいる場所からは遠い」という地理が重要である。
「チリまであと少し」でも、人間には越えられない距離だった
事故地点はチリ国境の近くにある。
このため地図だけを見れば、「少し西へ歩けばチリへ出られたのではないか」と感じるかもしれない。
しかし、国境線は道路や谷に沿って引かれているわけではない。
この地域では国境そのものが高いアンデスの稜線付近を通っている。
つまり「チリが近い」ということは、「人の住む町が近い」という意味ではなかった。
事故地点から西へ向かえば、まず高い山を登らなければならない。その向こうにもさらに複数の山と谷が続いている。
食料、防寒具、登山靴、地図、コンパス、寝袋を十分に持たない遭難者にとって、地図上の数kmと実際に歩ける距離はまったく別のものだった。
571便が本来通るはずだったルート
前回の記事で見たように、571便はメンドーサからサンティアゴへ直線的に飛ぶ計画ではなかった。
本来の大まかなルートは次の通りだった。
| 順番 | 地点 | 意味 |
|---|---|---|
| 1 | メンドーサ | 10月13日の出発地 |
| 2 | マラルグエ | 南へ迂回する航路上の基準地点 |
| 3 | プランチョン峠 | アンデス横断の主要地点 |
| 4 | クリコ | 山脈を越えた後のチリ側の航法地点 |
| 5 | サンティアゴ | 目的地 |
文章だけでは位置関係が分かりにくいので、事故地点を加えると次のようになる。
メンドーサ
↓ 南下
マラルグエ
↓ 西へ
プランチョン峠
↓ 本来はさらに西へ進む
クリコ
↓ 北へ
サンティアゴ
しかし実際の571便は、プランチョン峠を通過した後、まだ十分に西へ進んでいない段階で「クリコ付近まで来た」と認識し、北へ旋回した。
その結果、機体はチリ側の平地ではなく、依然としてアンデスの山々が続く地域へ入った。
4地点を現在の座標で比較する
地理を把握するため、現在確認できる代表座標を並べる。
| 地点 | おおよその座標 | 位置関係 |
|---|---|---|
| 571便墜落地点 | 34.7650°S / 70.2864°W | アルゼンチン側アンデス山中 |
| プランチョン峠 | 35.2058°S / 70.5206°W | 墜落地点より南西 |
| クリコ | 34.9828°S / 71.2394°W | 墜落地点より大きく西 |
| サンティアゴ | 約33.45°S / 70.67°W | 墜落地点より北西 |
現在の座標同士を単純な直線距離で概算すると、墜落地点からプランチョン峠までは約54km、クリコまでは約90km、サンティアゴまでは約150kmになる。
これは道路距離や実際の飛行距離ではない。
しかし「乗員がクリコ付近にいると認識していた一方、実際の機体はまだそこから約90km東側の山岳地帯にいた」という位置関係を理解する目安にはなる。
プランチョン峠と事故地点は同じ場所ではない
571便について調べると、「プランチョン峠を越えて墜落した」という説明を見かけることがある。
ここで誤解しやすいのは、事故地点そのものがプランチョン峠だったわけではないという点である。
現在の地理情報では、プランチョン峠はおよそ南緯35度12分、西経70度31分付近にある。一方、571便の事故地点は南緯34度45分、西経70度17分付近である。
つまり事故地点は、プランチョン峠から見て北東側に位置する。
571便は峠を通過した後、本来ならさらに西へクリコ方向へ飛び続ける必要があった。
ところが北への旋回が早すぎたため、本来なら避けるはずだった山岳地帯へ再び入ってしまった。
クリコは「町」以上に重要な航法上の基準だった
現在のクリコは、チリ中部にある人口のある都市で、標高は200m前後しかない。
一方、571便の事故地点はその東側の高い山中にある。
この高低差を見ると、「クリコへ到達した」という判断がなぜ重大だったのかが分かる。
本当にクリコまで進んでいれば、機体はすでにアンデスの主要な高山域を越え、西側の低地へ出ているはずだった。
そこから北へ向きを変えてサンティアゴへ降下することには地理的な意味がある。
しかし実際には、まだ山の中だった。
同じ「北へ旋回して降下する」という操作でも、現在位置が違えば結果はまったく変わる。
なぜ墜落地点がすぐに分からなかったのか
航空機が墜落すれば、最後の通信地点から周辺を探せばよいように思える。
571便の場合、その前提自体が崩れていた。
最後の位置報告では、機体はクリコを通過してサンティアゴへ向かっていることになっていた。
ところが実際の墜落地点は、その位置から東へ離れたアルゼンチン側の山岳地帯だった。
当時、この区域では現在のように航空機の位置をGPSで記録し、それを後から即座に追跡できる環境ではない。
管制側は、乗員から送られてきた位置報告を重要な情報として扱っていた。
したがって、乗員側の位置認識が誤っていれば、事故後の捜索開始地点にも誤差が入る。
571便では、墜落原因となった位置誤認が、そのまま捜索を難しくする要因にもなった。
上空から見ても「白いものしかない」
捜索が難しかった理由は、場所の誤認だけではない。
事故当時のアンデス山中は広範囲が雪に覆われていた。
機体の胴体も明るい色で、雪原の中に小さく横たわっていた。
上空を飛ぶ航空機から見れば、捜索対象は巨大な旅客機そのものではない。
衝突によって翼と尾部を失った、比較的小さな胴体部分である。
さらに周囲には、雪面、岩、谷、影が連続している。
National Geographicが現在の現場を紹介した記事でも、事故地点はメンドーサ州のチリ国境付近にある人里離れたアンデス山中として説明されている。
生存者たちは捜索機を見ることができた。
しかし、捜索機側が彼らを見つけることはできなかった。
「上空を飛んだのに見つからなかった」は不思議ではない
ここは後世の説明で誤解されやすい。
「捜索機が近くまで来たのなら、なぜ見つけられなかったのか」という疑問から、捜索が不十分だった、あるいは別の理由で意図的に救助されなかったという話へ発展することがある。
しかし現場の条件を見ると、発見が難しかった理由はかなり具体的に説明できる。
- 正確な墜落位置が分かっていなかった
- 広大な山岳地帯を上空から捜索する必要があった
- 胴体は翼や尾部を失い、本来の航空機より小さくなっていた
- 周囲が雪に覆われていた
- 山の斜面や影で視認条件が変化する
- 地上側から捜索機へ確実に位置を知らせる通信手段がなかった
つまり「すぐ近くを飛んだ」ということと、「地上の数十人を発見できる」ということは同じではない。
現在の地図と1972年当時の現場は同じではない
Google Mapで事故地点を表示すると、現在は「Flight 571 Memorial」などの名称や訪問者の写真が確認できる場合がある。
しかし、これを1972年当時の環境と混同してはいけない。
現在は事故の場所が知られており、座標をGPSへ入力して現地ツアーで向かうこともできる。
1972年の生存者には、その座標そのものが分からなかった。
現在位置を示すGPSも、スマートフォンの地図も、衛星画像もない。
彼らが見られる情報は周囲の山と谷だけだった。
地図上では「チリはすぐ西」と分かっていても、当時の彼らには、どの山を越えれば何があるのか確信できなかった。
現場が「谷」だったことの意味
事故後に生存者たちが生活した場所は、周囲を高い山に囲まれた雪の谷だった。
谷には長所もあった。
胴体が雪面を滑ったことで、岩へ正面から激突するより衝撃が抑えられ、多数の人が最初の墜落を生き延びたと考えられている。
雪もまた、墜落時には衝撃を和らげる側面があった。
一方で、その同じ環境が墜落後には大きな危険となる。
寒さ、積雪、高度、周囲の急斜面、食料となる植物や動物がほぼ存在しないこと。そして後には雪崩が機体を襲う。
571便では「雪があったから助かった」と「雪があったから死者が増えた」が同時に成立する。
事故地点から西を見ると、さらに山しか見えなかった
後にナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンが自力脱出へ向かったとき、彼らはまず西を目指した。
チリが西側にあることは理解していたからである。
しかし高い山へ登ったパラードが見たのは、期待していたチリの低地ではなかった。
その先にも、アンデスの山々が地平線まで続いていた。
National Geographicは、パラードとカネッサが最終的にアンデスを約10日間歩き、チリ人のセルヒオ・カタランと接触した経過を紹介している。
地図で見る「国境までの短い距離」と、実際に人里へ到達する距離との違いが、ここで明確になる。
地図から分かる571便遭難の本質
571便の事故地点を地図へ置くことで、事故後の72日間についてもいくつかのことが理解しやすくなる。
| 地理的条件 | 事故・遭難への影響 |
|---|---|
| アルゼンチン側の山中 | 乗員が報告したクリコ付近とは異なる場所で墜落 |
| チリ国境の近く | 国境は近いが、その先にも高山が続く |
| 道路・集落から隔絶 | 歩いてすぐ助けを求めることができない |
| 雪で覆われた谷 | 墜落時の衝撃を一部吸収する一方、捜索時には機体を見つけにくくした |
| 高所 | 寒さ、低酸素、移動困難、食料不足を悪化 |
| 周囲を山に囲まれる | 救助待ちから徒歩脱出へ切り替える際の最大の障害となった |
この事件では、墜落地点は単なる「舞台」ではない。
その場所だったこと自体が、事故原因、捜索、生存、雪崩、徒歩脱出のすべてに関係している。
現在も現場には機体の一部が残る
事故地点には現在、追悼のための十字架や記念場所があり、機体の一部も残されている。
Wikimedia Commonsには、現在の事故地点、周囲の山岳風景、現場に残る571便の部品を撮影した写真が公開されている。
こうした写真を見ると、Google Mapの平面的な地図だけでは分からない現場の特徴が見える。
特に重要なのは、周囲を見渡しても都市や道路が見えず、山の稜線だけが連続していることである。
1972年の生存者たちは、この地形の中で72日間を過ごした。
まとめ|「どこに落ちたか」が、その後のすべてを決めた
ウルグアイ空軍571便の墜落地点は、現在の座標でおよそ南緯34度45分54秒、西経70度17分11秒。
アルゼンチン・メンドーサ州のアンデス山中、チリ国境に近い場所である。
しかし、乗員が管制へ報告していたクリコは事故地点から約90km西側にある。
この位置の食い違いによって、571便はまだアンデスにいる状態で北へ旋回し、降下した。
そして事故後も、最後の位置報告と実際の墜落地点が一致していなかったことが捜索を難しくした。
さらに現場は雪に覆われた高地で、道路も集落もない。捜索機から胴体を発見することは難しく、生存者側から外部へ助けを求める手段もほとんどなかった。
地図だけなら、チリはすぐ近くに見える。
しかし実際には、その間に高い山と谷が何重にも続いていた。
571便の72日間は、単に「救助が遅れた事故」ではない。
人が簡単には入れず、外にも出られない場所へ墜落したことによって成立した山岳遭難でもあった。
次回は、その閉ざされた場所で、生存者たちが最初の数日をどう乗り切ったのかを見る。
飲料水はどこから得たのか。夜の寒さをどう防いだのか。重傷者をどう扱い、壊れた機体をどのように「生活できる場所」へ変えたのか。
墜落事故は終わっても、生き残るための問題はそこから始まっていた。
前の記事:
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特集全記事
- ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
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- 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
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- 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
- 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い
今回出てきた言葉
- Valle de las Lágrimas
- 571便の事故地点周辺を指して現在広く使われる名称。「涙の谷」と訳される。アルゼンチン・メンドーサ州のアンデス山中にある。
- プランチョン峠
- 571便の計画航路上にあったアンデスの峠。機体はここを越えた後、さらに西へクリコまで飛ぶ必要があった。
- クリコ
- チリ中部の都市。571便では「ここまで到達した」という誤った位置認識が北への旋回と降下につながった。
- MapPrecision:HISTORICAL
- 現在の地図と事件当時の地形・施設・状況を同一視できない地点を扱う際の考え方。本記事では現在のGoogle Mapを位置把握に使い、1972年当時の積雪や捜索状態とは分けて説明している。
出典・参考資料
-
Wikimedia Commons — Uruguayan Air Force Flight 571 crash site
事故地点の座標、現在の事故地点写真、残骸・記念場所の確認に使用。 -
Wikimedia Commons — Uruguayan Air Force Flight 571
事故地点と事件に関連する地理情報・資料画像の確認に使用。 -
National Geographic — “Society of the Snow” is based on a true story. Here’s what really happened.
事故地点がメンドーサ州のチリ国境付近にある遠隔山岳地帯だったこと、生存者の自力脱出と救助までの経過確認に使用。 -
National Geographic — ‘Society of the Snow’ would’ve gone differently in today’s climate
Valle de las Lágrimasの地理、事故当時の積雪環境と現在との違いを確認するために使用。 -
Smithsonian Air & Space Magazine — The Ghost of FAU 571
571便の飛行経路、機体損壊、事故地点と救助後の現場について確認する補助資料として使用。 -
Wikimedia Commons — Map of the FAU 571 accident site and escape route
事故地点周辺と、パラード/カネッサらが徒歩で脱出した方向・位置関係を確認する補助地図として使用。
本記事では現在確認できる座標を用いて事故地点・プランチョン峠・クリコの位置関係を整理しています。本文中の地点間距離は現在の代表座標間を直線距離として概算したもので、1972年当時の実際の飛行距離・徒歩距離・捜索区域を示すものではありません。またGoogle Mapは現在の地形・地名・施設を表示するため、1972年当時の積雪や道路状況とは区別して読んでください。