現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

救助を待つのをやめた尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備

救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備

航空事故

ウルグアイ空軍571便の生存者たちは、墜落した機体の中で救助を待ち続けていたわけではない。

事故直後から周辺への探索は行われていた。

そして10日目にはラジオで捜索打切りを知り、16日後には雪崩によって8人が死亡した。

「ここにいれば、いつか誰かが見つけてくれる」

その前提は少しずつ崩れていった。

それでも、すぐにアンデスを徒歩で越えられたわけではない。

問題は方向だけではなかった。

標高約3,700mの雪山を何日も歩くには、夜を越す方法、食料、衣類、体力が必要になる。どちらへ進めば人里へ出られるのかも確実には分からない。

そこで生存者たちは、まず周囲を探索した。

その過程で発見されたのが、墜落時に胴体から切り離され、別の場所へ落ちていた571便の尾部だった。

尾部には荷物、衣類、わずかな食料、そして航空機のバッテリーが残されていた。

もし機体の無線機を動かすことができれば、自分たちが山を越える必要はない。

生存者たちは再び救助を呼ぶ可能性へ賭けた。

しかし、その試みも失敗する。

そして最後に残ったのが、人間自身がアンデスを歩いて越える方法だった。

第7回では、尾部探索、無線復旧の失敗、寝袋の製作、最終遠征者の選定までを追う。

この記事で分かること

  • なぜ生存者たちは機体から遠くへ探索を始めたのか
  • 切り離された尾部には何が残っていたのか
  • なぜ航空機の無線を使って救助を呼ぼうとしたのか
  • なぜバッテリーを胴体まで運ばなかったのか
  • ロイ・ハーレイは無線復旧でどんな役割を担ったのか
  • なぜ無線復旧は失敗したのか
  • 徒歩脱出最大の問題が「夜」だった理由
  • 即席の大型寝袋をどう作ったのか
  • なぜ最終的にパラード、カネッサ、ビシンティンの3人が出発したのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備 【現在の記事】
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

救助を待つだけでは生き残れない

571便の生存者たちが自力脱出を考える理由は、一つではなかった。

出来事 意味
墜落 道路も集落もないアンデス山中へ孤立
捜索機が発見できない 上空から見つけてもらうことが難しいと判明
10日目に捜索打切りを知る 救助を待つ前提が崩れる
食料枯渇 長期間その場へ留まるほど身体が衰弱
10月29日の雪崩 胴体そのものも絶対安全ではないと判明

Museo Andes 1972は、雪崩後について、生存者たちが「そこから生きて出られるかどうかは自分たち次第だ」と理解し、グループとして複数の遠征を組織したと記録している。

つまり「パラードとカネッサが突然山を歩き始めた」のではない。

最終的な脱出は、それまで何度も行われた探索と失敗の延長線上にある。

最初から「西へ行けばチリ」と確信していたわけではない

地理的には、チリは事故地点の西側にある。

しかし、生存者たちは自分たちの正確な位置を知らなかった。

さらに571便の乗員は墜落前、「クリコを通過した」という誤った位置認識を持っていた。

その情報を聞いていた生存者の一部は、自分たちがすでにアンデスの西端に近いと考えていた。

もしその認識が正しければ、西側の山を一つ越えればチリの低地へ出られる可能性がある。

しかし確証はない。

そこで東側や周辺への探索も行われた。

「どちらへ歩くべきか」という問題自体が、まだ解決していなかったのである。

11月中旬、切り離された尾部を発見した

11月中旬、ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・「ティンティン」・ビシンティンらが事故地点から離れて探索を行った。

パラードの回想では、11月17日の探索中、彼らは雪の向こうに571便の尾部を発見した。

墜落時、機体後部は胴体前部とは別の位置へ飛ばされていた。

そこには、彼らにとって大量の「資源」が残っていた。

スーツケース。

衣類。

タバコ。

少量の食料。

薬品類。

雑誌や漫画。

そして、航空機のバッテリー。

ABC Newsが50周年に合わせて公開した資料写真にも、尾部付近で無線復旧を試みるロイ・ハーレイ、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンの姿が残されている。

これは後世に作られた場面ではなく、遭難中に撮影された実際の記録である。

尾部は「物資補給所」になった

尾部発見の価値は、単に荷物が見つかったことではない。

それまで生存者たちは、胴体周辺に残った物だけで生活していた。

尾部には、墜落時に離れた別の物資群が残っていた。

尾部周辺で得られたもの 意味
衣服 防寒状態を改善
少量の食品・飲料 一時的な栄養補給
荷物 素材・道具として利用可能
機体断熱材 後の大型寝袋の材料
バッテリー 無線機復旧への期待

特に大きかったのがバッテリーだった。

それまで機首側に残った航空機の無線機は、送信できる状態ではなかった。

しかし電源が確保できれば、サンティアゴなどへ遭難を知らせられるかもしれない。

それが成功すれば、人間が山を越える必要はなくなる。

「無線が使えれば、すべて終わる」

徒歩脱出は非常に危険だった。

生存者たちはすでに、短い探索でも夜の寒さが致命的になることを経験していた。

屋外で一晩過ごせば、それだけで凍死する可能性がある。

だからこそ無線復旧は試す価値があった。

アンデスを歩いて越えるより、機体に残された通信設備を利用する方がはるかに合理的である。

問題は、バッテリーが重かったことだった。

バッテリーを胴体まで運べなかった

後年の資料では、尾部にあったバッテリーは1個あたり約24kgだったとされる。

単純な平地なら、複数人で運ぶことも考えられる重量である。

しかし現場は違う。

尾部から胴体へ戻るには、深い雪の斜面を上らなければならない。

生存者自身がすでに極端に痩せ、数週間にわたる食料不足と高地生活で消耗している。

パラードの回想では、バッテリーを簡易的なそりに載せて動かそうとしたものの、雪へ沈み、運搬は現実的ではないと判断した。

そこで発想を逆転させた。

バッテリーを無線まで運べないなら、無線をバッテリーまで持っていけばよい。

ロイ・ハーレイを連れて、再び尾部へ向かった

無線装置を扱うため、生存者の中で電気・電子機器に比較的詳しかったロイ・ハーレイが参加した。

ABC Newsが公開している遭難中の写真にも、ハーレイが尾部でカネッサ、ビシンティンとともに作業する姿が記録されている。

胴体側から無線関連機器を取り外し、尾部に残された電源へ接続する。

この試みには数日が費やされた。

もし送信できれば、

「571便の生存者がいる」

と外部へ知らせることができる。

72日間の遭難を終わらせる可能性があった。

しかし無線は動かなかった

結果として、遭難者たちは無線機を送信可能な状態へ戻すことができなかった。

後年の事故解説では、航空機の無線設備が要求する電源と尾部のバッテリー出力がそのままでは適合しなかったことなどが理由として説明されている。

ただし、この電気系統の細部については後年の二次資料による説明が多く、Museo Andes 1972の概要ページでは技術原因まで記載されていない。

重要なのは、彼ら自身が数日間試行しても送信手段を復旧できなかったという結果である。

これによって、もう一つの可能性が消えた。

救助方法 結果
上空の捜索機に発見される 失敗
公式捜索を待つ 打切りを知る
機体の無線からSOSを送る 復旧できず
その場で長期間待機する 食料不足・雪崩により危険
徒歩で人里へ到達する 残された現実的手段

「無線失敗」が徒歩脱出を現実の計画に変えた

それ以前にも、生存者たちは徒歩で助けを求める可能性を考えていた。

しかし無線が使える可能性が残っているなら、命を賭けて山へ入る理由は弱くなる。

無線復旧に失敗したことで、

「山を歩くかもしれない」

という選択肢が、

「山を歩かなければならない」

へ近づいていった。

それでも、すぐ出発することはできなかった。

最大の問題が残っていた。

徒歩遠征で最も危険だったのは「夜」だった

昼間は身体を動かしている。

太陽もある。

そのため、条件がよければ山を歩くこと自体はできる。

しかし日が沈めば状況は変わる。

気温が急激に下がり、強い風が吹く。

胴体周辺なら機体の中へ戻れる。

長距離遠征では戻れない。

テントはない。

山小屋もない。

登山用寝袋もない。

雪上で身体を停止させたまま数時間眠れば、低体温症で死亡する危険がある。

実際、尾部を発見した探索でも、屋外で夜を過ごした際に極端な寒さを経験していた。

つまり最終遠征を成立させるために必要だったのは、「歩く道具」より先に夜を生き延びる道具だった。

尾部で見つけた断熱材が答えになった

尾部探索では、航空機に使われていた断熱材も回収されていた。

本来は航空機の設備を断熱するための材料だった。

生存者たちは、それを人間の保温へ使えないかと考えた。

ナンド・パラードの回想では、この断熱材を縫い合わせ、大人3人が一緒に入れるほど大きな袋状の寝具を作る案が生まれた。

通常の登山用寝袋を再現しようとしたのではない。

狙いは単純だった。

3人の体温を同じ断熱空間へ閉じ込める。

専用品がない571便では、またしても「必要な機能を別の物から作る」という方法が使われた。

大型寝袋は一人で作ったものではなかった

寝袋の製作には複数の生存者が関わった。

ABC Newsが公開した当時の写真では、胴体上でロベルト・カネッサとパンチョ・デルガドが寝袋を縫っており、その周囲にグスタボ・セルビーノ、フィト・ストラウチ、エドゥアルド・ストラウチ、ナンド・パラード、カルリトス・パエス、ハビエル・メトルらが写っている。

つまり、最終的に山へ出るのは3人でも、その装備は残る集団によって作られた。

ここでも571便の脱出は「英雄2人だけの行動」ではない。

水づくりや負傷者対応と同じように、脱出準備も集団作業だった。

徒歩脱出者には、より多くの資源を与える必要があった

山へ向かう者には体力が必要だった。

そのため、生存者たちは遠征候補者を通常より優先して扱う必要があった。

より多くの食料。

より良い衣服。

休息。

歩くための体力。

一見すると、限られた食料を一部の人だけに多く配るのは不公平にも見える。

しかし目的は個人を優遇することではない。

遠征者が人里へ到達できれば、機体に残る全員が救われる。

集団の限られた資源を、最も救助へつながる可能性がある場所へ集中させる判断だった。

誰が山へ行くのか

最終遠征に必要なのは、単純な筋力だけではなかった。

数日間、雪山を歩く体力。

食料不足へ耐えられる身体。

判断力。

途中で簡単に諦めない意志。

そして、ほかのメンバーと行動できること。

その候補の中心になったのがナンド・パラードとロベルト・カネッサだった。

パラードは早い段階から西の山を越えることを強く主張していた。

一方のカネッサは、無線復旧を含め、より安全な方法を可能な限り試そうとしていた。

二人は常に同じ考えだったわけではない。

むしろ、その違いが何度も議論を生んだ。

しかし最終的には二人とも、山から出なければ全員が死亡する可能性が高いという点で一致する。

アントニオ・ビシンティンも最終遠征へ選ばれた

最終的な出発メンバーは2人ではなかった。

最初に山へ向かったのは、

  • ナンド・パラード
  • ロベルト・カネッサ
  • アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン

の3人である。

National Geographicも、3人が1972年12月12日に最終遠征を開始したことを確認している。

ビシンティンは後に途中から機体へ戻ることになる。

この判断は失敗ではない。

3人分の食料を2人へ集中させれば、パラードとカネッサがさらに先へ進める。

ビシンティン自身は戻って、機体に残る仲間へ状況を伝えられる。

それは第8回で詳しく扱う。

12月11日、最後の死亡者が出た

出発前日には、ヌマ・トゥルカッティが死亡した。

事故から約2か月。

事故直後を生き延びても、負傷、感染、衰弱によって少しずつ仲間が失われていた。

トゥルカッティの死によって、最終的に山から救助される16人が残った。

これ以上待てば、その16人も同じように一人ずつ死亡していく可能性がある。

時間には明確な限界があった。

1972年12月12日、3人が機体を離れた

墜落から約2か月後の12月12日。

ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンが西へ向けて出発した。

本格的な登山装備はない。

地形図もない。

GPSもない。

山岳経験もない。

持っているのは、重ね着した衣服、即席の道具、限られた食料、そして仲間たちが縫った大型寝袋だった。

The Guardianのパラード本人へのインタビューでは、彼はこの出発について、機体を離れて最初の一歩を踏み出した時点で「もう戻らない」と考えていたと振り返っている。

つまり今回は、それまでの探索とは性質が違う。

途中で状況を確認して帰るための探索ではない。

人間に会うまで進むための遠征だった。

彼らは「山を一つ越えれば終わる」と考えていた

出発時点で、3人はアンデスの本当の広さを理解していなかった。

571便の乗員が「クリコを通過した」と話していたことから、自分たちはチリ側に近いと考えていた。

目の前の西側の山を登れば、その向こうには緑の谷があるのではないか。

その想定があったからこそ、最初の装備と食料も有限だった。

しかし3日間かけて山を登り、パラードが高所から西側を見たとき、その想定が間違っていたことが分かる。

目の前には平地ではなく、さらに山が続いていた。

事故時の「クリコ通過」という位置誤認は、墜落を引き起こしただけではない。

約2か月後、自力脱出する生存者の距離感にも影響を残していた。

無線復旧の失敗は「無駄」だったのか

結果だけを知っていれば、無線機に数日費やさず、早く山を越えるべきだったようにも見える。

しかしこれは後知恵である。

徒歩でアンデスへ入れば、途中で凍死する可能性がある。

方向を間違えれば戻れない。

食料にも限界がある。

それに対して、無線が作動すれば現在地を外部へ伝えるだけで済む。

生存者の立場から見れば、危険な徒歩脱出の前に通信復旧を試みることには十分な合理性があった。

重要なのは、

一つの方法が失敗するたびに、次の方法へ切り替えていったこと

である。

571便では「正解」を最初から知っていた人はいない

後から時系列を見ると、

「西へ歩けばセルヒオ・カタランに会える」

という正解が存在していたように見える。

1972年の彼らには見えていない。

西へ行けば何があるか分からない。

東へ降りれば助かる可能性も考えた。

無線が直るかもしれない。

捜索が再開されるかもしれない。

どの方法も、実行してみるまで結果は分からなかった。

だから571便の自力脱出は、一つの大胆な決断だけで成立したのではない。

探索→失敗→情報更新→別の方法を試す、という過程を何度も繰り返した末に残った方法だった。

まとめ|「歩いて助けを呼ぶ」は最後に残った方法だった

雪崩後、生存者たちは複数の探索を続けた。

11月中旬には、墜落時に切り離された尾部を発見した。

そこには衣類、少量の食料、機体の材料、そしてバッテリーが残っていた。

バッテリーを使えば、航空機の無線から救難信号を送れるかもしれない。

しかし重いバッテリーを雪の斜面から胴体へ運ぶことは難しく、逆に無線装置を尾部へ運び、ロイ・ハーレイらが復旧を試みた。

結果として通信は復旧できなかった。

救助を待つ。

捜索機に見つけてもらう。

無線で助けを呼ぶ。

一つずつ可能性が消えていった。

最後に残ったのが、徒歩だった。

ただし、アンデスの夜をそのまま越えることはできない。

そこで尾部から回収した断熱材などを利用し、3人が一緒に入れる大型の寝袋を製作した。

食料や衣服も遠征者へ優先的に与えた。

そして1972年12月12日。

ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンの3人が機体を離れた。

墜落から61日目だった。

彼らが目指したのは西。

目の前の山を越えればチリへ出られると考えていた。

しかし、その山頂で見えた景色は予想とはまったく違っていた。

山の向こうにあったのは平地ではない。

さらにアンデスが続いていた。

次回は、3人がどのように山を登り、なぜビシンティンを戻し、パラードとカネッサの2人だけで進み続けたのか。そしてセルヒオ・カタランへ到達するまでの約10日間を追う。


前の記事:

第6回|墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難

次の記事:

第8回|パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備 【現在の記事】
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

尾部
墜落時に胴体前部から分離した571便の後部。11月中旬の探索で発見され、衣類、荷物、機体材料、バッテリーなど重要な資源が残されていた。
ロイ・ハーレイ
571便の生存者。電気・電子機器について比較的知識があり、尾部で行われた無線装置復旧の試みに参加した。
即席寝袋
尾部から回収された航空機の断熱材料などを利用し、生存者たちが縫い合わせて作った大型寝具。最終遠征で夜間の低温から3人を守るための重要装備となった。
アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン
571便の生存者。パラード、カネッサとともに1972年12月12日の最終遠征へ出発した。山を越えた後、食料を2人へ残して機体へ戻った。
最終遠征
1972年12月12日に始まった自力脱出。過去の探索と異なり、外部の人間へ到達して救助を呼ぶことを目的とした遠征だった。

出典・参考資料

Museo Andes 1972の公式概要は、雪崩後に複数の遠征が行われたことまでは確認できますが、尾部発見日、無線復旧作業、寝袋の具体的製作過程までは詳述していません。そのため本記事では、これらの細部についてナンド・パラード本人の回想録、生存者インタビュー、遭難中に撮影された写真を掲載するABC Newsなどを組み合わせています。無線が作動しなかった電気的な詳細については後年資料で115V交流/24V直流の不一致という説明が広く見られますが、公式概要で技術原因を直接確認できないため、本文では「電源仕様が適合しなかったと後年資料で説明される」と範囲を限定しています。