1972年12月12日。
ウルグアイ空軍571便がアンデス山中へ墜落してから61日が経っていた。
ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・「ティンティン」・ビシンティンの3人が、壊れた胴体を離れた。
目的は探索ではない。
人間のいる場所まで歩き、機体に残る仲間のために救助を呼ぶことだった。
公式捜索はすでに打ち切られている。
無線機の復旧にも失敗した。
食料はなく、雪崩によって機体の安全性さえ否定された。
残された方法は、自分たちの足でアンデスから出ることだった。
しかし3人は、これから越える山脈の本当の広さを知らなかった。
彼らは「西側の山を越えればチリの低地へ出られる」と考えていた。
その想定は、出発から数日後に崩れる。
山頂へ立ったパラードの前に広がっていたのは、緑の谷ではなかった。
その先にも、山、山、山が続いていた。
戻るのか。
それとも、先に何があるか分からないまま進むのか。
第8回では、571便の72日間を終わらせることになる徒歩脱出を、12月12日の出発からセルヒオ・カタランとの接触まで追う。
この記事で分かること
- なぜ最終遠征は3人で始まったのか
- 3人はどのような装備でアンデスへ入ったのか
- 最初の山を越えるのに何日かかったのか
- 山頂でパラードが見たもの
- なぜアントニオ・ビシンティンを機体へ戻したのか
- パラードとカネッサが戻らず進んだ理由
- 雪山から植物のある谷へどう環境が変わったのか
- セルヒオ・カタランとどのように意思疎通したのか
- 有名な「石に結びつけた手紙」は何だったのか
- なぜ徒歩脱出の日数に9日・10日・11日という表記差があるのか
CASE FILE 30
ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回
- ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
- なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
- 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
- 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
- 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
- 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
- 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
- パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出 【現在の記事】
- 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
- 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い
12月12日|3人は「帰るための探索」ではなく「戻らない遠征」へ出た
それ以前にも、生存者たちは機体周辺から何度も遠征していた。
尾部を発見し、荷物や衣類、バッテリーを回収した。
無線の復旧も試した。
しかし12月12日の遠征は、それまでとは違う。
途中まで行って様子を確認し、機体へ戻ることを前提とした探索ではなかった。
外部の人間へ到達するまで進むことを目的としていた。
出発したのは、
- ナンド・パラード
- ロベルト・カネッサ
- アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン
の3人だった。
彼らは専門の登山家ではない。
登山靴、ピッケル、アイゼン、テント、GPS、詳細な地形図といった現代の高所登山装備も持っていなかった。
衣服を何枚も重ね、機体から作った即席の装備を使い、仲間たちが縫った大型寝袋を持って出発した。
彼らが持っていた最大の装備は「3人用の寝袋」だった
徒歩脱出で最も危険だったのは、昼間の歩行だけではない。
夜である。
日が沈むとアンデスの気温は急激に低下する。
胴体から何kmも離れてしまえば、夜になっても機体へ戻れない。
そこで生存者たちは、尾部から回収した航空機の断熱素材などを利用して、3人が一緒に入れる大型の寝袋を作った。
一人ずつ別々に寝るのではなく、3人の身体から出る熱を一つの空間へ閉じ込める。
専用装備の代用品として作られたものだった。
この寝袋がなければ、何日にもわたる徒歩遠征は成立しなかった可能性が高い。
最初に目指したのは「西」だった
生存者たちは、チリが西側にあることは知っていた。
さらに墜落前、571便の乗員は「クリコを通過した」と話していた。
そのため生存者側には、自分たちはすでにアンデスの西端に近く、
目の前にある高い山を一つ越えれば、その先にはチリの低地がある
という認識があった。
第2回で見た、事故を引き起こした「クリコ通過」の位置誤認が、約2か月後にも影響していたことになる。
実際には、571便は考えていたよりはるかにアンデスの内側に墜落していた。
3人は最初の山だけで3日を使った
パラード本人の後年の証言によれば、彼らは最初の登りを14時間程度で終えられると考えていた。
実際には約3日かかった。
出発地点は標高約3,570m。
目標となった高所は約4,600m級だったとされる。
標高差だけでも約1,000mある。
しかも通常の登山道ではない。
深い雪へ足を取られ、身体は墜落から2か月間の飢餓で衰弱している。
高所では酸素も薄い。
The Guardianのパラードへの取材では、心拍が上がり、過呼吸に近い状態や脱水にも苦しんだと説明されている。
彼らは「救助を求めて山を歩いている」というより、
まず最初の山を登るだけで、生存限界に近い負荷を受けていた。
夜、3人は一つの寝袋へ入った
日没後は移動を続けられない。
3人は雪の上で即席寝袋へ身体を入れ、夜を越した。
パラードの証言では、最初の夜には水を入れていた容器が低温によって壊れるほど寒かった。
本格的なテントもなく、風を完全に遮る壁もない。
胴体内部にいたころ以上に、環境へ直接さらされている。
それでも戻らなかった。
出発前に何週間もかけて作った寝袋が、ようやく実際の意味を持った。
山頂へ立ったパラードは、そこで墜落原因を理解した
約3日後、パラードが先に高所へ到達した。
彼が期待していたのは、西側の低地だった。
山を一つ越えれば、緑の谷やチリの平地が見える。
そう考えていた。
しかし見えたのは、さらに続くアンデスだった。
西の地平線まで山々が連続している。
その瞬間、パラードは自分たちが考えていた場所とはまったく違う場所にいることを理解した。
後年のインタビューで、パラードは「自分たちは安全圏まで5kmほどだと思っていたが、実際には80kmほど離れていた」と振り返っている。
数字は測定方法によって変わるため概算として読む必要がある。
しかし重要なのは桁の違いである。
「山を一つ越える短い脱出」ではなかった。
本格的にアンデスの複数の谷と稜線を横断しなければならなかった。
徒歩脱出ルートを地図で見る

緑の破線が徒歩ルート、黄色印付近がFAU 571の墜落地点。
出典:Wikimedia Commons「Volcan-tinguiririca.svg」、
Createaccount、CC BY-SA 3.0。
地図は後世に作成された概略図であり、徒歩距離や1972年当時の積雪状態を厳密に再現するものではない。
地図を見ると、事故地点から西へ単純な直線を進んだのではないことが分かる。
高い稜線を越え、その後は谷を利用しながら標高を下げ、人間が生活できる地域へ近づいていった。
現在なら地図上でルートを見ることができる。
1972年の彼らには、この完成図がなかった。
「戻るか、進むか」が最大の判断になった
山頂からさらに山が続いていると分かった時点で、合理的には撤退も考えられる。
想定していたより距離が長い。
持っている食料には限界がある。
身体も疲労している。
戻れば少なくとも胴体へたどり着ける可能性がある。
しかし戻った先に、救助の見込みはなかった。
無線は動かない。
捜索は終わっている。
食料も尽きている。
仲間は一人ずつ衰弱している。
パラードは西へ進むことを選んだ。
カネッサにも、一緒に進むよう求めた。
この場面は後世、「不屈の精神」の象徴として描かれることが多い。
しかし現実的に考えると、
戻ることにも安全な未来がなかった
という事情が大きい。
なぜビシンティンを戻したのか
3人の遠征には、もう一つ問題があった。
食料である。
当初想定していた距離よりも、はるかに遠くへ進まなければならないことが分かった。
3人で食料を分け続ければ、それだけ早く尽きる。
そこでアントニオ・ビシンティンが機体へ戻り、パラードとカネッサの2人が先へ進むことになった。
National Geographicは、出発から3日後にビシンティンが帰還したと整理している。
彼の食料を残る2人へ回せば、行動可能日数を延ばせる。
さらにビシンティンが機体へ戻れば、
「パラードとカネッサは先へ進んだ」
という情報を残る仲間へ伝えることができる。
ビシンティンの帰還は、遠征から脱落したという意味ではない。
限られた食料を2人へ集中させ、最終遠征を継続するための判断だった。
ここから、パラードとカネッサだけの遠征になった
2人になったパラードとカネッサは、西側へ進んだ。
ただし、二人の身体状態は同じではない。
パラードは比較的強い歩行能力を維持していた。
一方、カネッサは何度も疲労し、進むこと自体への不安を口にしたとされる。
それでも役割は一方向ではない。
カネッサは地形や進路について判断し、パラードと議論しながら進んだ。
パラード本人も後年、カネッサについて最良の同行者だったと評価している。
571便の徒歩脱出は、
「強いパラードが弱ったカネッサを引っ張った」
という単純な構図ではない。
二人が互いに判断を補いながら進んだ遠征だった。
雪しかなかった世界が少しずつ変わっていった
高所から下り始めると、周囲の景色に変化が現れた。
長い間、生存者たちが見てきたのは雪と岩だけだった。
しかし標高を下げていくと、流れる水が現れる。
さらに植物が現れる。
カネッサは後年、この変化を強く記憶している。
雪が消え、水と草が見えたことは、彼らにとって単なる風景の変化ではなかった。
植物が生えているということは、
人間や家畜が生活できる標高へ近づいている可能性がある
ということだった。
12月18日ごろ|流れる水へ到達した
HISTORYの再構成では、12月18日ごろに2人は流れる水へ到達し、その川沿いを進み始めた。
これは重要な変化だった。
山岳地帯で方向を決める場合、川を下流へたどることは、人間の生活圏へ近づく一つの手掛かりになる。
もちろん、すべての川をたどれば必ず集落へ着くわけではない。
しかし地図を持たない2人にとって、谷と水系は実際にたどれる地形上の線だった。
それまでの「山頂を目標に歩く」移動から、「谷を下る」移動へ変わっていく。
12月19日|人間が存在する痕跡が現れ始めた
環境がさらに変化すると、人間や家畜の痕跡が現れた。
後年の資料では、
- 捨てられた缶
- 馬具に関係する物
- 家畜の糞
- 牛
などを発見したとされる。
この中で最も重要なのは牛だった。
野生動物ではなく家畜がいるということは、その近くに人間がいる。
墜落から2か月以上。
パラードとカネッサは初めて、「人間の生活圏が近い」と判断できる証拠を目にし始めた。
12月20日|川の向こうに人がいた
12月20日。
2人はついに人間を目撃した。
相手はチリ人の牧畜民、セルヒオ・カタラン・マルティネスだった。
ただし「人を見つけた=救助完了」ではない。
両者の間には川が流れていた。
水量と流れがあり、簡単に渡れる状態ではなかった。
大声を出しても、水音によって会話が成立しない。
72日間の遭難を終わらせる直前に、今度は川を挟んで意思疎通できないという問題が発生した。
最初の日には、十分な会話ができなかった
パラードたちは、自分たちが遭難者であることを身振りなどで伝えようとした。
しかし川の音が大きく、言葉は相手まで届かない。
カタラン側も、対岸にいる痩せた2人が何者なのか分からない。
その日は十分な情報交換ができず、翌日に改めて接触することになった。
ここでも、映画のように「人を見つけた瞬間にすべて解決した」わけではない。
石に紙を結びつけて川を越えさせた
翌日、川の両岸から意思を伝えるための方法が使われた。
カタラン側から、紙と筆記具を石に結びつけるなどして対岸へ渡した。
パラードは、その紙へ自分たちの状況を書いた。
その手紙には、
- 山へ墜落した飛行機から来たこと
- 自分たちがウルグアイ人であること
- 長期間歩いてきたこと
- 機体には14人が残っていること
- 彼らも負傷していること
- 食料がないこと
- 自分たちもこれ以上歩けないこと
などが記されていた。
この紙切れによって、571便の遭難は初めて外部社会へ具体的に伝わった。
「14人がまだ飛行機にいる」
この手紙で最も重要なのは、パラードとカネッサ自身の救助だけを求めていないことである。
機体には14人が残っている。
彼らは自力では山から出られない。
食料もない。
つまり2人の任務は、
「自分たちが山から脱出すること」
では終わらない。
機体の位置を救助側へ伝え、14人を救うこと
までが目的だった。
セルヒオ・カタランは8時間馬を走らせた
Museo Andes 1972によれば、事情を理解したセルヒオ・カタランは、最寄りの警察・カラビネーロスの拠点へ知らせるため、およそ8時間にわたり馬を走らせた。
現在の感覚なら、電話を一本かければ済むように思える。
しかし彼らが接触した場所もまた、すぐ近くに都市がある場所ではない。
パラードとカネッサが人間へ到達した後も、情報そのものを救助機関まで運ぶ必要があった。
セルヒオ・カタランは、その最後の区間をつないだ人物だった。
徒歩脱出は何日間だったのか
571便の資料を見ると、最終遠征について、
- 9日
- 10日
- 10日と10夜
- 11日
など異なる数字を見ることがある。
これは必ずしも、どれか一つが完全な誤りという意味ではない。
基準にする地点が違うからである。
| 基準 | 主な日付 |
|---|---|
| 3人が機体を出発 | 12月12日 |
| ビシンティン帰還 | 出発から約3日後 |
| カタランを最初に目撃 | 12月20日 |
| 手紙で状況が伝わる | 12月21日ごろ |
| 救助活動開始 | 12月22日 |
National Geographicは12月12日出発、12月20日にカタランを発見したと整理する。
Museo Andes 1972は「10日間と10夜」と説明する。
パラード本人へのThe Guardianの取材でも、約10日間、37マイル以上を歩いたとされている。
したがって本シリーズでは、一般的な呼称として「10日間の徒歩脱出」を使用する。
徒歩距離は「約60km」と考えてよいのか
The Guardianは、パラードとカネッサが10日間で37マイル以上、約60kmを歩いたと伝えている。
ただし徒歩距離も、資料によって数字が異なる。
地図上の直線距離と、実際に斜面を上り下りした歩行距離は同じではない。
また、後世に作られた脱出ルート地図についても、距離の算出方法について議論がある。
そのため本記事では、
「約60km前後とする資料があるが、厳密な総歩行距離は資料によって異なる」
と扱う。
彼らが「助かった場所」は山頂ではなかった
571便の徒歩脱出を山岳冒険として見ると、最初の4,600m級の高所へ到達した場面がクライマックスに見える。
しかし救助という意味では、山頂に着いても何も解決していない。
そこから先にある山々を見ただけだった。
本当に重要だったのは、
山を越えること。
谷へ下ること。
水を見つけること。
植物を見ること。
家畜を見ること。
そして最後に人間へ会うこと。
環境の変化を一つずつたどり、人間の生活圏へ近づいていったことである。
「アンデスを越えた」の意味
Museo Andes 1972は、パラードとカネッサが「徒歩でアンデス山脈を横断した」と説明している。
これは南米大陸のアンデス全体を東から西まで完全横断したという意味ではない。
事故地点から西側の高山域を越え、チリ側の人間が生活する地域へ徒歩で脱出したという意味である。
実際の地形は一本の稜線ではなく、複数の山、谷、川から構成されていた。
そのため「一つの山を越えた」という表現でも足りない。
なぜ2人は成功できたのか
結果だけを見れば、パラードとカネッサには驚異的な体力があったように見える。
しかし成功理由を「精神力」だけにすると、このシリーズで見てきた準備が消えてしまう。
| 要素 | 徒歩脱出に与えた意味 |
|---|---|
| 約2か月の探索経験 | 雪上移動の問題を事前に経験できた |
| 尾部発見 | 衣類・材料を回収できた |
| 大型寝袋 | 高所で夜を越えられた |
| 遠征者への食料集中 | 長期間行動する体力を確保 |
| 3人→2人への変更 | 限られた食料を延命 |
| 谷・川を利用 | 人間の生活圏へ向かう地形上の手掛かりとなった |
| セルヒオ・カタラン | 外部社会と救助機関をつないだ |
最終遠征は、12月12日に突然始まったものではない。
10月から続けてきた失敗と工夫が、最後の10日間へ集約されたものだった。
パラード自身は「知らなかったから行けた」と振り返っている
後年、パラードは登山の専門家から興味深いことを言われたと話している。
もし出発前から、これほどの山岳地帯を歩かなければならないと正確に理解していたら、そもそも出発できなかったかもしれない。
彼らは無謀さを理解していなかったからこそ、最初の一歩を踏み出せたのではないか。
これは571便で繰り返される逆説でもある。
彼らが「山一つでチリへ出られる」と誤解していたことは、危険な認識だった。
しかし、その誤解があったからこそ徒歩脱出を現実的なものとして考えられた側面もある。
山頂で真実を知ったときには、すでに戻るより進むという判断が可能な場所まで来ていた。
セルヒオ・カタランは「偶然そこにいた人」だけではない
571便の話では、セルヒオ・カタランは「最後に偶然出会った牧畜民」と短く紹介されることがある。
しかし彼の役割は、ただ2人を発見したことではない。
川を挟んだ状態で意思疎通を試みた。
紙と筆記具を渡した。
事情を理解した。
食料を与えた。
そして救助機関へ知らせるため長時間馬を走らせた。
パラードとカネッサが約2か月かけて人間社会までつないだ最後の数kmを、カタランが引き継いだ。
彼が行動しなければ、機体に残る14人の救助はさらに遅れた可能性がある。
12月21日|571便の「生存」が外の世界へ届いた
カタランを通じてチリ当局へ連絡が届く。
そこで初めて、約2か月前に墜落し、死亡したと考えられていた571便について、
まだ16人が生きている
という事実が外部へ伝わった。
パラードとカネッサは自分たちの役割を終えたわけではない。
事故地点を地図上で正確に示す必要があった。
そして救助ヘリを14人のもとへ案内しなければならない。
72日間の遭難は、ここから最後の段階へ入る。
まとめ|山を越えたからではなく、人間まで情報を届けたから救助が始まった
1972年12月12日、ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンの3人が571便の胴体を離れた。
彼らは、目の前の山を越えればチリの低地へ出られると考えていた。
しかし最初の高所へ到達するだけで約3日を要した。
そして山頂から見えたのは、さらに続くアンデスだった。
想定していたより遥かに遠い。
そこで3人分の食料を2人へ集中させるため、ビシンティンが機体へ戻った。
パラードとカネッサは西へ進み続けた。
高所の雪山を下り、やがて流れる水、草、家畜と、人間の生活を示す痕跡が増えていった。
12月20日、2人はチリ人のセルヒオ・カタランと接触した。
川の音によって会話できず、翌日、石に結びつけた紙を使って自分たちの状況を伝えた。
その紙には、最も重要な情報が書かれていた。
「飛行機には、まだ14人が残っている。」
セルヒオ・カタランは救助機関へ知らせるため馬を走らせた。
墜落から69日近く経って、571便の生存者の存在がついに外の世界へ届いた。
徒歩脱出を成功させたのは、パラードとカネッサだった。
しかし、その10日間を成立させたのは2人だけではない。
尾部を探した者。
無線を直そうとした者。
寝袋を縫った者。
遠征者へ食料を回した者。
途中で戻って2人へ物資を残したビシンティン。
そして最後に、外部社会へ情報を運んだセルヒオ・カタラン。
571便の脱出は、
「2人の英雄が山を越えた物語」であると同時に、残された集団が最後の2人を人間社会まで送り出した結果
でもあった。
次回は、手紙を受け取った後に何が起きたのかを見る。
チリ当局は571便の生存報告をどう受け止めたのか。
なぜ救助は12月22日と23日の2日間に分けられたのか。
そして14人は、72日間暮らした胴体をどのように離れたのか。
前の記事:
第7回|救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
次の記事:
第9回|72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
特集全記事
- ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
- なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
- 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
- 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
- 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
- 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
- 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
- パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出 【現在の記事】
- 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
- 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い
今回出てきた言葉
- 最終遠征
- 1972年12月12日にパラード、カネッサ、ビシンティンの3人が開始した自力脱出。途中からパラードとカネッサの2人で継続した。
- アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン
- 最終遠征へ出発した3人の一人。想定以上に長距離の遠征が必要と判明したため、食料をパラードとカネッサへ残し機体へ戻った。
- セルヒオ・カタラン・マルティネス
- パラードとカネッサがチリ側で接触した牧畜民。川越しに2人の状況を知り、救助機関へ知らせるため長時間馬を走らせた。
- セレル山/Mount Seler
- 最終遠征でパラードが到達した高所について後に使われる名称。パラードは父セレルにちなみ、その山を「Seler」と呼んだと回想している。
- 徒歩脱出の手紙
- 川を挟んでカタラン側と意思疎通するため、パラードが書いた短いメッセージ。機体に14人が残っていることなどを外部へ伝え、救助開始へ直接つながった。
出典・参考資料
-
Museo Andes 1972 — Tragedy / Miracle
複数の遠征、2人による徒歩でのアンデス脱出、10日間と10夜、セルヒオ・カタランとの接触、カタランが約8時間かけて警察拠点へ知らせたこと、72日間の時系列確認に使用。 -
National Geographic — “Society of the Snow” is based on a true story. Here’s what really happened.
1972年12月12日にパラード、カネッサ、ビシンティンが出発し、3日後にビシンティンが帰還、12月20日にセルヒオ・カタランと接触した時系列の確認に使用。 -
National Geographic — He survived the 1972 Andes plane crash. Now, he lives to help others.
ロベルト・カネッサ本人による最終遠征の証言、ビシンティンを戻した理由、高所から低地へ下り水や草を発見した際の心理について確認。 -
The Guardian — Nando Parrado interview
パラード本人による約3日間の最初の登攀、標高、山頂からさらにアンデスが続いていたこと、約10日・37マイル以上の徒歩、ビシンティン帰還、カタランとの接触について確認。 -
HISTORY — Miracle of the Andes: How Survivors of the Flight Disaster Struggled to Stay Alive
12月18日以降の川への到達、人間活動の痕跡、12月20日の牧畜民との遭遇、石と手紙による通信の経過確認に使用。 -
Wikimedia Commons — Volcan-tinguiririca.svg
571便墜落地点とパラード/カネッサの徒歩脱出経路を示す概略地図。Createaccount作成、CC BY-SA 3.0。本記事では地理理解の補助図として使用。
最終遠征の日数と距離は資料によって表記差があります。National Geographicは12月12日出発・12月20日にセルヒオ・カタランを発見とし、Museo Andes 1972は「10日間と10夜」、The Guardianはパラード本人への取材をもとに10日間・37マイル以上としています。本記事ではこれらを踏まえ、シリーズタイトルでは一般的な「10日間の徒歩脱出」を採用しました。また掲載したWikimedia Commonsのルート地図は後世に作られた概略図であり、線の長さから徒歩総距離を直接算出する用途には使用していません。