1996年5月10日の午後遅く。
エベレスト山頂から下りていたスコット・フィッシャーの動きは、
明らかに遅くなっていた。
Mountain Madnessを創設し、
K2やエベレストを登ってきた世界有数の高所登山家だった。
しかし、この日は違った。
フィッシャーは隊の後方に残り、
夕方になると自力で歩き続けることさえ難しくなった。
ロプサン・ジャンブー・シェルパが支えながら下ろそうとした。
さらに下では台湾隊のマカルー・ガウも動けなくなった。
夜になると、
2人は標高約8,300mの雪上に残された。
翌日、ガウは救助された。
フィッシャーは戻らなかった。
そして事故後、
もう一人のMountain Madnessガイド、
アナトリ・ブクレーエフの行動をめぐって
大きな論争が始まる。
なぜブクレーエフは顧客より先にCamp IVへ下りたのか。
なぜ補助酸素を使わなかったのか。
その判断は救助を可能にしたのか。
それとも、ガイドとして顧客を危険にさらしたのか。
この二つの問いには、
同じ答えを当てはめることはできない。
CASE FILE 24
1996年エベレスト大量遭難特集(全10回)
1996年春のエベレストで起きた大量遭難を、商業登山隊の構成、南東稜の地形、
5月10日の登頂行動、下降中の悪天候、サウス・コルでの救助、
Hall隊とFischer隊それぞれの最終局面、北側の遭難、事故後の原因論争まで順番に追います。
CASE FILE 24|全10回
- 第1回 1996年エベレスト大量遭難とは?|5月10〜11日、世界最高峰で何が起きたのか
- 第2回 1996年のエベレストに誰がいたのか|Adventure Consultants、Mountain Madnessと商業登山の時代
- 第3回 エベレスト南東稜はどんなルートだったのか|サウス・コル、デスゾーン、補助酸素と山頂への道
- 第4回 5月10日、登頂隊はなぜ遅れたのか|深夜の出発からヒラリー・ステップ、山頂到達まで
- 第5回 山頂からの下降中、何が起きたのか|吹雪、視界喪失、酸素とサウス・コルへの迷走
- 第6回 吹雪のサウス・コルで誰が救われたのか|アナトリ・ブクレーエフの救助とベック・ウェザーズの生還
- 第7回 ロブ・ホールに何が起きたのか|ダグ・ハンセン、アンディ・ハリスと南峰での最後の交信
- 第8回 スコット・フィッシャーとMountain Madnessに何が起きたのか|ブクレーエフをめぐる評価も検証する [現在の記事]
- 第9回 北側ルートでも3人が死亡していた|ITBP隊と1996年5月10日のエベレスト北東稜
- 第10回 1996年エベレスト大量遭難はなぜ起きたのか|天候・判断・渋滞・酸素・商業登山を分解する
先に結論|Mountain Madnessで死亡したのはフィッシャーだけだった
5月10日に登頂行動へ入ったMountain Madnessでは、
顧客とガイドの多くが山頂へ到達した。
その後、吹雪の中で複数の顧客がSouth Colに取り残され、
一時は生死の境をさまよった。
しかし最終的に、
Mountain Madnessで死亡したのは隊長Scott Fischerだった。
ガイドのNeal Beidlemanは、
下降中の顧客たちをSouth Colまで導いた。
Anatoli Boukreevは先にCamp IVへ到達し、
夜になると吹雪の中へ何度も出て、
Charlotte Fox、Sandy Hill、Tim Madsenを救助した。
Lopsang Jangbu Sherpaは、
高所に残ったFischerを長時間支えた。
つまりMountain Madnessでは、
隊長が最後尾で倒れる一方、
別々の場所にいたガイドとシェルパが
それぞれ別の救助を行うことになった。
組織として一つにまとまって下降したのではなく、
山の上で役割が分断されていたのである。
Scott Fischerは、エベレスト初心者ではなかった
Fischerは1950年代に生まれ、
若いころから登山へ没頭した。
Mountain Madnessを立ち上げ、
世界各地で登山や冒険旅行を行うようになる。
高所登山家としての実績も大きかった。
K2。
Lhotse。
そしてEverest。
American Alpine Clubの記録では、
Fischerは1990年にLhotseへ登頂した最初のアメリカ人となり、
1993年にはK2、
1994年にはEverestへ登頂していた。
つまり1996年5月10日は、
本人にとって初めてのEverest山頂ではない。
Mountain Madness自身も現在、
1996年をFischerにとって2度目のEverest登頂だったと記録している。
その経験豊富な登山家が、
なぜ下降できなくなったのか。
最終登頂行動の前から、Fischerには疲労が蓄積していた
Mountain Madnessの最終登頂行動では、
Fischerは単にCamp IVで休み、
山頂日を待っていたわけではない。
登頂数日前、
顧客Dale Kruseが体調を崩した際、
Fischerは下方へ戻って対応している。
その後、
再び高度を上げて登頂隊へ合流した。
高所では、
低い場所へ数百m下ってから再び登ること自体が
大きな身体的負担になる。
さらに山頂日、
Fischerは隊列の前方ではなく、
遅れているメンバーを確認するように後方を進んだ。
Himalayan Databaseも、
FischerがSouth Colを他のMountain Madnessメンバーより遅く出発し、
上昇速度も遅かったと記録している。
ただし、
「この疲労だけが死亡原因だった」と断定することはできない。
それは事故へ至る前から存在した負荷の一つである。
Mountain Madnessでは、ガイドが一か所に固まっていなかった
1996年のMountain Madnessには、
主要な高所ガイドとして
Scott Fischer、Neal Beidleman、Anatoli Boukreevがいた。
さらにクライミング・サーダーとして
Lopsang Jangbu Sherpaが活動していた。
登頂日、
それぞれの位置は大きく離れていった。
| 人物 | 登頂日後半の主な位置 | その後の役割 |
|---|---|---|
| Scott Fischer | 隊列後方 | 下降中に衰弱し、行動不能になる |
| Neal Beidleman | 顧客の下降グループ | 吹雪の中で複数顧客をSouth Colまで導く |
| Anatoli Boukreev | 先にCamp IVへ下降 | 夜間、South Colへ戻り3人を救助 |
| Lopsang Jangbu Sherpa | Fischer付近 | 下降不能になったFischerを長時間支援 |
ここで、Fischerが行動不能になった上部南東稜と、Boukreevが先に戻ったSouth Col / Camp IVの大まかな位置関係を、現在の山体地形で確認しておく。
現在のエベレスト山頂部とSouth Col周辺の地形確認用。1996年5月10〜11日のScott Fischer、Makalu Gau、Anatoli Boukreev、Neal Beidlemanらの正確な位置・移動線、当時の固定ロープやCamp IV配置を再現するものではない。
この配置は、
後のBoukreev論争を理解するためにも重要である。
「ガイドが顧客を見捨てた」
という一文だけでは、
山の上で誰がどこにいたかを説明できない。
午後遅く|Fischerは山頂へ到達した
FischerはMountain Madnessの後方から山頂へ向かった。
先行していた顧客の多くは、
すでに登頂を終えていた。
Fischerが山頂へ到達したのは
午後3時台とみられている。
正確な時刻には資料差があるため、
分単位で固定することはしない。
重要なのは、
午後の遅い時間帯まで登り続けていたことである。
Fischerは山頂へ到達したあと、
Lopsangとともに下降を始めた。
このころには、
前方のMountain Madness顧客と
かなり大きな時間差が生まれていた。
下降開始後、Fischerの状態は急速に悪化した
夕方になると、
Fischerは通常どおり歩けなくなっていった。
PBS FRONTLINEに残るMakalu Gauの証言では、
午後6時ごろFischerと出会った際、
彼は歩くというより、
座った状態で氷の斜面を滑りながら下降していた。
Lopsangは、
Fischerを何とか下へ動かそうとしていた。
Fischerは非常に衰弱し、
正常な判断や動作ができない状態へ近づいていた。
Himalayan Databaseでは、
Fischerの死亡を高所脳浮腫によるものとして記録し、
手袋を外す、酸素マスクを外す、
ダウンスーツを開くといった
深刻な混乱状態が伝えられている。
ただし、
現場で病院と同等の医学的検査が行われたわけではない。
そのため本記事では、
高所脳浮腫を有力な説明として扱うが、
確定的な臨床診断としては扱わない。
FACT CHECK|Scott Fischerの死因は「疲労」とだけ書けるか
Fischerが極度に疲労していたことは、
複数資料から確認できる。
しかし単なる疲労だけで、
その後の深刻な意識・行動異常を説明することは難しい。
Himalayan Databaseは、
高所脳浮腫による死亡として記録している。
一方、
当時の現場では詳細な医学検査が行われていないため、
高所脳浮腫、高度障害、低酸素、低体温、極度の疲労などが
どの程度ずつ関与したかまで確定することはできない。
したがって本記事では、
「高所脳浮腫を示唆する重度の高度障害・意識障害」
として扱う。
Lopsangは、Fischerを一人で下ろそうとした
Fischerの状態が悪化すると、
Lopsang Jangbu Sherpaはそばに残った。
Fischerを支え、
引きずるようにして高度を下げようとした。
しかし、
成人男性一人を標高8,000m以上で
長距離移動させることには限界がある。
Lopsang自身も同じ日に山頂まで登っている。
高所での長時間行動によって疲労していた。
Fischerはついに、
自力で下降できなくなった。
場所はBalconyよりやや下、
標高約8,300m前後とされる。
18時ごろ|Makalu GauもFischerのところへたどり着いた
台湾隊のリーダーMakalu Gauも、
下降中に著しく衰弱していた。
PBSの再構成では、
18時ごろ、
GauがFischerとLopsangのいる場所へ到達している。
Gau自身も、
そこから一人でCamp IVまで下りられる状態ではなくなった。
最終的に、
FischerとGauは近い場所で夜を過ごすことになる。
世界最高峰へ登頂した2人の隊長が、
山頂から約500mしか下降できない地点で
同時に動けなくなった。
FischerはLopsangへ「下りろ」と伝えた
LopsangはFischerのそばに残ろうとした。
National Geographicに残るLopsangの証言では、
Fischer自身が彼へ下降を促している。
Lopsangは当初、
一緒に残る意思を示した。
しかし長時間その場にいれば、
Lopsang自身も生還できなくなる。
Fischerは、
Camp IVへ下り、
Anatoli Boukreevを上へ送るよう求めた。
最終的にLopsangはFischerのそばを離れた。
FischerとGauは、
高所の雪上に残された。
このころBoukreevは、別の救助に入っていた
Fischerが上部で動けなくなっていたころ、
Camp IVでは別の緊急事態が起きていた。
South Colで、
Mountain MadnessとAdventure Consultantsの登山者が
吹雪の中に取り残されていた。
Boukreevは、
その集団を捜索するためCamp IVから何度も外へ出ていた。
第6回で見たように、
Charlotte Fox、Sandy Hill、Tim Madsenを
順番にCamp IVへ戻している。
つまり、
「なぜBoukreevはすぐScottを助けに行かなかったのか」
という疑問には、
同じ時間帯にSouth Colの別の救助を行っていたという事情がある。
5月11日|SherpaによるFischerとGauの救助が試みられた
翌日、
Sherpaたちが上部へ向かった。
目的は、
FischerとMakalu Gauの救助だった。
American Alpine ClubのScott Fischer追悼記録では、
救助隊は2人が高所でビバークしているところへ到達した。
Gauは、
酸素や温かい飲み物へ反応した。
そして補助を受けながら、
South Colまで下降することができた。
Fischerは違った。
救助者は酸素などを使って反応を得ようとしたが、
回復させることができなかった。
同じ場所で一晩を過ごしながら、
救助可能性は二人で分かれた。
「救助できる人」を優先するしかなかった
これも第6回のSouth Col救助と同じ問題である。
標高約8,300mでは、
反応しない成人男性を担いでCamp IVまで下ろすことはできない。
一方、
Gauには酸素や飲み物への反応があり、
補助されれば動ける可能性があった。
救助者はGauを下降させた。
Fischerはその場に残った。
安全な病院から見れば、
非常に厳しい選択に見える。
しかし高所では、
救助側自身の生存可能性も考えなければならない。
夕方|BoukreevがFischerのもとへ向かった
South Colでの救助を終えたBoukreevは、
Fischerを諦めきれなかった。
Beck Weathersが死亡したと思われた状態から
Camp IVへ自力で戻ってきたこともあり、
Fischerにも生存可能性が残っているのではないかと考えた。
Boukreevは一人で上部へ向かった。
American Alpine Journalの
『The Climb』書評でも、
BoukreevがFischerを救える可能性に賭けて
約8,350mまで再び単独で登ったことが記されている。
そこでFischerを発見した。
しかし、
すでに死亡していた。
Mountain Madnessの顧客は生還し、隊長だけが戻らなかった
5月12日、
Camp IIへ下降したMountain Madnessの生存者たちは、
Fischerが死亡したことを正式に知らされた。
Charlotte FoxはPBSのインタビューで、
下降中にはFischerとLopsangが後ろから動いている姿を見ていたため、
彼が戻ってこないという知らせを受け入れにくかったと振り返っている。
顧客の多くは、
前夜にSouth Colで死にかけていた。
それでも最終的には全員が生還した。
戻らなかったのは隊長だった。
ここから「Boukreevは何をしていたのか」という論争が始まった
事故後、
Jon Krakauerは雑誌記事、
そして後の著書『Into Thin Air』で
Boukreevの行動を強く問題視した。
主な論点は二つあった。
一つは、
商業登山隊のガイドでありながら
補助酸素を使用しなかったこと。
もう一つは、
顧客の多くより先に山頂から下降し、
Camp IVへ戻ったことである。
Krakauerの問題提起を簡単にまとめれば、
「優秀な登山家であることと、
優秀な商業ガイドであることは同じなのか」
という問いだった。
Boukreevが補助酸素を使わなかったことは事実
Boukreevは、
1996年5月10日のエベレスト登頂で
自分自身のための補助酸素を基本的に使用していなかった。
これは事故後に作られた説ではない。
Boukreev自身が、
無酸素高所登山を長年行っていた。
1992年にもEverestへ無酸素で登頂し、
1995年にも再び無酸素登頂を行っている。
1996年のAmerican Alpine Journalには、
Boukreev自身による高所登山記録が掲載されており、
無酸素登山が彼の登山スタイルの一部だったことが分かる。
翌1997年には、
『The Oxygen Illusion』という文章で
高所登山における補助酸素への考え方を自ら論じている。
しかし「登山家として無酸素で登れる」と「ガイドとして使わなくてよい」は別問題だった
ここがKrakauerらの批判の中心だった。
Boukreev自身は、
非常に高い無酸素登攀能力を持っていた。
しかし商業ガイドの仕事は、
自分だけが山頂へ登って戻ることではない。
顧客が遅れたときに待つ。
体調を崩した人を支える。
緊急時には、
自分の行動速度を落としてでも救助する。
補助酸素を使用すれば、
高所での身体的・認知的余裕を増やせる可能性がある。
そのため批判側は、
「無酸素で登れるほど強いから必要ない」
ではなく、
「ガイドだからこそ余力を残すために使うべきだった」
と主張した。
この議論は、
Boukreevの登攀能力そのものへの批判ではない。
職業ガイドとしての役割に対する批判である。
FACT CHECK|Boukreevの無酸素登頂は「酸素不足で仕方なく」ではない
Boukreevは補助酸素を使えなかったから
無酸素で登ったわけではない。
それ以前から8000m峰で無酸素登山を行っており、
高所で酸素装置へ依存することに対して独自の考えを持っていた。
一方、
その登山哲学が商業ガイドとして適切だったかは別の問題である。
したがって
「無酸素登山=無謀」
と単純化することも、
「本人が強かったから問題なし」
と結論づけることも適切ではない。
もう一つの争点|なぜ顧客より早くCamp IVへ戻ったのか
Boukreevは比較的早く山頂を離れ、
Mountain Madnessの顧客より先に下降した。
そして夕方にはCamp IVへ戻っていた。
この行動について、
Boukreevは事故後、
理由を説明している。
登頂が遅れているため、
下降者がCamp IVへ戻る前に酸素を使い切る可能性があると考えた。
そのため自分が先にCamp IVへ戻り、
身体を温め、
温かい飲み物と酸素を準備し、
必要になれば上へ救助に戻れる状態にしておきたかった。
そして、この考えをFischerへ説明し、
了承を得たと主張した。
では「Fischerが先に下りろと命じた」は確定事実なのか
ここは、
現在でも慎重に扱う必要がある。
Boukreev側は、
Fischerへ計画を説明し了承されたと記録している。
一方Krakauerは、
それが事前に定められたMountain Madness全体の
明確な救助計画だったという説明を否定した。
Krakauerは後の公開論争でも、
BoukreevがFischerへ下降すると話したこと自体とは別に、
「Boukreevが先行下降して救助待機することが
あらかじめチーム全体で共有された計画だった」
という主張には異議を唱えている。
つまり、
二つを分ける必要がある。
Fischerがその場でBoukreevの下降を認めたのか。
そして、
それが最初から組織されたMountain Madnessの作戦だったのか。
この二つは同じではない。
FACT CHECK|「Fischerの命令でBoukreevが先行下降した」と断定できるか
Boukreevは、
自分が早くCamp IVへ下降したい理由をFischerへ説明し、
Fischerが了承したと主張している。
この説明を支持する関係者・著者もいる。
一方Jon Krakauerは、
事故以前から定められた明確な作戦だったという説明を否定し、
FischerとBoukreevの会話自体についても解釈を争っている。
Fischer本人は事故で死亡している。
したがって本記事では、
「BoukreevはFischerの了承を得たと説明している」
までを事実として扱い、
それをMountain Madnessの確定した事前計画とはしない。
Krakauerも、Boukreevの夜間救助そのものは否定していない
この論争が複雑なのは、
KrakauerがBoukreevのすべての行動を
否定しているわけではないことにある。
Krakauerは、
事故後のBoukreevとの公開応酬でも、
5月11日未明にBoukreevが
吹雪の中へ単独で出て登山者を救った行為については
明確に高く評価している。
争っているのは、
その救助以前のガイド行動である。
つまり、
「夜間救助は英雄的だった」
という評価と、
「その前に顧客と一緒に下降すべきだった」
という批判は、
論理的には両立する。
どちらか一方を認めれば、
もう一方が自動的に否定されるわけではない。
Boukreev側から見れば、先行下降したから救助できた
Boukreev側の説明は逆である。
もし顧客と一緒に遅い速度で下降し、
吹雪に巻き込まれていたら、
自分自身も疲労して救助できなくなっていた可能性がある。
実際、
Camp IVへ戻った他の登山者の多くは
極度に消耗していた。
South Colに人が取り残されたと分かったとき、
一人で捜索へ出るだけの体力を残していたのが
Boukreevだった。
その結果として、
3人をCamp IVへ戻した。
この「結果」は確認できる。
ただし、
それによって登頂時の判断がすべて正しかったと
証明されるわけではない。
1997年、American Alpine ClubはBoukreevを表彰した
事故の翌年、
American Alpine Clubは
Anatoli BoukreevへDavid A. Sowles Memorial Awardを授与した。
同じ1997年には、
Pete AthansとTodd Burlesonも受賞している。
この賞は、
山で危機に陥った他の登山者を助けるため、
自らの危険を顧みず行動した登山者を表彰するものである。
BoukreevのSouth Colでの救助が、
登山界から公式に高く評価されたことは確かである。
ただし、
この受賞を
「5月10日のBoukreevの判断はすべて正しかったという公式判定」
と解釈することはできない。
賞が評価したのは、
救助活動である。
事故原因を審理する裁定ではない。
American Alpine Clubの記録にも、両方の側面が残っている
American Alpine Journalには、
Boukreev自身の酸素論が掲載されている。
一方で、
後の書評や追悼文では
彼の卓越した高所能力と
1996年の救助行動が強く評価されている。
つまり登山界でも、
単純な「英雄」か「無責任なガイド」かの二択では整理されなかった。
非常に優れた高所登山家だった。
命を危険にさらして3人を救った。
それと同時に、
商業ガイドとして無酸素で登り、
顧客より先に下山した判断には議論が残った。
この三つは、
すべて同時に成立する。
もう一人のガイド、Neal Beidlemanを忘れてはいけない
Boukreev論争が大きくなったことで、
Mountain Madnessの下降を実際にまとめた
Neal Beidlemanの存在は目立ちにくくなった。
Beidlemanは、
Sandy Hill、Charlotte Fox、Tim Madsen、
Lene Gammelgaard、Klev Schoeningらとともに下降していた。
途中でAdventure Consultantsの
Michael Groom、Beck Weathers、難波康子らも合流した。
吹雪の中、
この集団をSouth Colまで下降させた中心人物の一人が
Beidlemanだった。
Himalayan Databaseにも、
事故直後のJon Krakauerの評価として、
Beidlemanが顧客の生還に大きく貢献したという記録が残る。
1996年のMountain Madnessを
FischerとBoukreevだけの物語として見ると、
実際の救助構造を見失う。
Lopsang Jangbu Sherpaも、Fischerのそばに残っていた
同じことはLopsangについても言える。
Lopsangは下降不能になったFischerを
長時間支え続けた。
最終的には、
Fischer本人からCamp IVへ下りるよう促されている。
彼がそのまま残れば、
FischerだけでなくLopsangまで死亡していた可能性がある。
事故後にはLopsang自身も
Krakauerの記事へ反論文を出し、
Mountain Madnessについての描写や
自分の行動に異議を唱えた。
ここでも、
事故の記録が一人の著者だけで完結していないことが分かる。
「Into Thin Air」と「The Climb」は、同じ事故を違う位置から見ている
Jon Krakauerは、
Adventure Consultantsの顧客として
1996年5月10日に山頂へ登っていた。
事故の当事者であると同時に、
Outside誌の取材記者でもあった。
その経験をもとに書かれたのが
『Into Thin Air』である。
一方Boukreevは、
G. Weston DeWaltとともに
『The Climb』を出版した。
こちらは、
Krakauerによる評価への反論という性格を強く持っている。
どちらも重要な資料である。
しかし、
どちらも政府機関による事故調査報告書ではない。
一人の当事者が見た範囲と、
その後集めた証言によって構成された記録である。
PBS FRONTLINEも、
Krakauerの記事がBoukreevの行動をめぐる論争を引き起こし、
Boukreevが公開書簡で反論したことを
資料案内の中で明示している。
争点を整理すると、4つに分かれる
| 争点 | 確認できる事実 | 評価が分かれる部分 |
|---|---|---|
| 補助酸素 | Boukreevは自身の登頂で基本的に使用しなかった | 商業ガイドとして適切だったか |
| 先行下降 | 顧客の多くより先にCamp IVへ戻った | Fischerの了承内容とガイド責任 |
| 夜間救助 | 吹雪へ複数回出て3人を救助した | 先行下降との因果をどう評価するか |
| Fischer救助 | 翌日Boukreevが上部へ向かい死亡を確認した | もっと早く救助へ行けた可能性があったか |
「Boukreevが一緒にいれば事故は防げた」は証明できない
批判側の主張には、
もしBoukreevが顧客と一緒に下降していれば、
吹雪になる前により多くの支援ができたのではないか、
という反実仮想が含まれる。
可能性として考えることはできる。
しかし証明はできない。
もし一緒に下降していた場合、
Boukreev自身もSouth Colで迷ったかもしれない。
逆に、
彼がいれば方向を維持できた可能性もある。
酸素を使用していれば
顧客をより長く支援できた可能性もある。
しかし、
実際にどの結果になったかは確認できない。
事故原因として扱えるのは、
実際に起きた配置と判断である。
「別の判断なら必ず助かった」
という結論ではない。
反対に「3人を救ったから先行下降は正しかった」とも証明できない
こちらも同じである。
BoukreevがCamp IVにいたため、
夜間救助を実行できたことは事実である。
3人が救われたことも事実である。
しかし、
そこから
「だから最初から顧客より先に下ることが最適解だった」
とまでは言えない。
結果として救助能力を残していたことと、
商業ガイドとしての配置判断が適切だったかは、
別の評価問題だからである。
FACT CHECK|Boukreevは「英雄」か「無責任なガイド」か
二択にする必要はない。
確認できる事実として、
Boukreevは顧客より早くCamp IVへ下降した。
自身の登頂では補助酸素を基本的に使わなかった。
そしてその夜、
一人で吹雪へ複数回出て3人を救助した。
American Alpine Clubは後に、
この救助行動を表彰した。
一方、
ガイドとしての先行下降と無酸素登頂については
Krakauerらから批判され、
Boukreev側が反論した。
本記事では、
救助の事実を評価論争によって否定せず、
救助の成功を理由に登頂日の判断すべてを正当化もしない。
Scott Fischerの死亡をBoukreev一人の判断へ結びつけることもできない
Fischerは、
顧客の後方から登り、
午後遅くに山頂へ到達した。
下降時にはすでに強く消耗していた。
Lopsangが支援した。
それでも下降できなくなった。
高所障害を示す深刻な状態になった。
吹雪の中で一晩を過ごした。
翌日、
Sherpaによる救助にも反応できなかった。
ここまでの経過には、
Fischer自身の疲労、
登頂時刻、
高度障害、
天候、
隊内配置など複数の条件がある。
「Boukreevが先に下りたからFischerが死亡した」
という一本の因果関係を証明する資料はない。
それでも、この論争が重要な理由
では、
結論が出ない論争をなぜ扱うのか。
1996年事故が、
単なる過去の山岳遭難ではなく、
現在まで語られる理由の一つがここにある。
商業登山では、
ガイドはどこまで顧客のそばにいるべきなのか。
ガイド自身が最も得意とする登山スタイルを優先してよいのか。
顧客にも高所登山者として
自己責任を求めるべきなのか。
それとも、
料金を受け取った以上、
個人登山とは違う安全余裕を持つべきなのか。
1996年のBoukreev論争は、
一人の登山家への好き嫌いではなく、
「高所商業ガイドとは何をする職業なのか」
という問題を表面化させた。
Mountain Madnessで起きたことを整理する
Scott Fischerは、
世界最高レベルの高所登山経験を持っていた。
それでも登頂日の後半に遅れ、
下降中に重度の高度障害を示して動けなくなった。
Lopsangは彼を下ろそうとしたが、
限界に達した。
Makalu Gauも近くで動けなくなった。
翌日、
Gauは救助された。
Fischerは救えなかった。
一方、
顧客の下降を支えたのはBeidlemanだった。
South Colで残された顧客を救ったのはBoukreevだった。
Mountain Madnessは、
隊長が倒れた後も
残されたメンバーが別々の場所で役割を担うことで
顧客全員を生還させた。
それを
「優れたチームワーク」と見るか、
「隊が分散しすぎていた結果」と見るか。
その評価にも一つの答えはない。
第8回で確定できること/確定できないこと
| 項目 | 扱い |
|---|---|
| Fischerが午後遅くに登頂した | 確認可能 |
| 下降中に深刻な意識・行動障害を示した | 確認可能 |
| 高所脳浮腫が関与した | 有力。ただし現場での厳密な医学診断ではない |
| LopsangがFischerを下降させようとした | 確認可能 |
| Boukreevが顧客より先にCamp IVへ下降した | 確認可能 |
| Boukreevが無酸素で登頂した | 確認可能 |
| Fischerが先行下降計画を正式に指示した | 当事者間で評価・証言に争いあり |
| Boukreevが残っていれば事故を防げた | 確認不能な反実仮想 |
| BoukreevがSouth Colで3人を救助した | 確認可能 |
| 救助成功が登頂日の全判断を正当化する | そこまでは導けない |
事故は、同じ山の反対側でも起きていた
ここまで第1回から第8回まで、
主にネパール側のSouth Colルートを追ってきた。
Rob Hall。
Scott Fischer。
Adventure Consultants。
Mountain Madness。
そのため1996年5月10日の事故は、
この2つの商業隊だけの出来事に見えやすい。
しかし同じ日、
山の反対側でも3人が死亡していた。
チベット側の北東稜を登っていた
インド・チベット国境警察、
ITBPの遠征隊である。
3人は夕方に山頂へ到達したと報告したあと、
下降中に行動不能となった。
そして翌日、
同じルートを登った日本隊との間に
救助をめぐる論争が起きる。
次回は南東稜を離れ、
1996年5月10日に北側で何が起きていたのかを追う。
CASE FILE 24|1996年エベレスト大量遭難特集
- 第1回 1996年エベレスト大量遭難とは?|5月10〜11日、世界最高峰で何が起きたのか
- 第2回 1996年のエベレストに誰がいたのか|Adventure Consultants、Mountain Madnessと商業登山の時代
- 第3回 エベレスト南東稜はどんなルートだったのか|サウス・コル、デスゾーン、補助酸素と山頂への道
- 第4回 5月10日、登頂隊はなぜ遅れたのか|深夜の出発からヒラリー・ステップ、山頂到達まで
- 第5回 山頂からの下降中、何が起きたのか|吹雪、視界喪失、酸素とサウス・コルへの迷走
- 第6回 吹雪のサウス・コルで誰が救われたのか|アナトリ・ブクレーエフの救助とベック・ウェザーズの生還
- 第7回 ロブ・ホールに何が起きたのか|ダグ・ハンセン、アンディ・ハリスと南峰での最後の交信
- 第8回 スコット・フィッシャーとMountain Madnessに何が起きたのか|ブクレーエフをめぐる評価も検証する [現在の記事]
- 第9回 北側ルートでも3人が死亡していた|ITBP隊と1996年5月10日のエベレスト北東稜
- 第10回 1996年エベレスト大量遭難はなぜ起きたのか|天候・判断・渋滞・酸素・商業登山を分解する
出典・参考資料
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PBS FRONTLINE — The Hour-By-Hour Unfolding Disaster
Scott Fischer、Lopsang Jangbu Sherpa、Makalu Gauの下降、
Fischerが行動不能となった経過、
翌日のGau救助とFischerの状況について確認。
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PBS FRONTLINE — Readings & Links
Jon Krakauerの『Into Thin Air』、
Anatoli Boukreevによる公開反論、
その後の両者の論争が存在したことを確認。
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PBS FRONTLINE — Leadership And Responsibility On The Mountain
1996年の商業ガイド登山における
ガイド責任、リーダーシップ、顧客との関係をめぐる
当事者・登山家の評価を参照。
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Himalayan Database — Everest 1996 / Mountain Madness
Mountain Madness遠征の商業隊としての記録、
Scott Fischerの下降状況、高度障害、
Neal Beidlemanらの救助について確認。
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American Alpine Journal 1997 — Scott Fischer, 1956–1996
Fischerの登山歴、
1996年のMountain Madness遠征、
翌日のFischer・Makalu Gau救助、
Boukreevによる死亡確認を確認。
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American Alpine Journal 1997 — The Oxygen Illusion
Anatoli Boukreev本人による
高所での補助酸素に対する考え方を確認。
無酸素登頂を後世の推測だけで説明しないための一次資料として使用。
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American Alpine Journal — The Roads We Choose
Boukreevが1996年以前から
8000m峰で無酸素・高速登山を行っていたこと、
彼自身の登山スタイルを確認。
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American Alpine Club — David A. Sowles Memorial Award
1997年にAnatoli Boukreev、Pete Athans、Todd Burlesonが
同賞を受賞したこと、
同賞が山岳救助における自己犠牲的行動を表彰する賞であることを確認。
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Mountain Madness — Scott Fischer / Our History
Fischerの登山歴、
Mountain Madnessの設立と活動、
1994年と1996年のEverest登頂について確認。
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Mountain Zone — Guides from the 1996 Everest Tragedy Exchange Their Views
Boukreev、Lopsang Jangbu Sherpa、
Jon Krakauerによる事故後の公開反論を比較するために参照。
本記事では、Scott Fischerの死亡経過とAnatoli Boukreevをめぐる評価論争を分離しています。
Fischerが下降中に深刻な高度障害・意識障害を示し、
翌日に救助不能となったこと、
Boukreevが顧客より先にCamp IVへ下降したこと、
自身の登頂で補助酸素を基本的に使用しなかったこと、
その後South Colで3人を救助したことは資料から確認できます。
一方、「FischerがBoukreevへどの範囲まで先行下降を正式に指示・了承していたか」、
「Boukreevが顧客と下降していれば事故を防げたか」は論争・反実仮想を含むため、
確定事実として扱っていません。
American Alpine ClubによるDavid A. Sowles Memorial Award受賞も
救助行動への評価であり、登頂日のすべての判断を正当化する事故調査上の裁定とはしていません。