1845年5月19日、英国海軍の2隻の探検船がテムズ川沿いのグリーンハイスを出航しました。
船の名はHMS Erebus(エレバス)とHMS Terror(テラー)。
指揮を執ったのは、北極探検の経験を持つ海軍士官ジョン・フランクリンでした。
目的は、北米大陸の北側を通って大西洋と太平洋を結ぶ
北西航路(Northwest Passage)の未確認区間を航行し、
そのルートを完成させることでした。
当時としては新しい技術を備えた2隻には大量の食料と物資が積まれ、
英国を出た時点では134人が乗っていました。
グリーンランドで5人が帰国し、そこから先へ進んだのは129人です。
しかし、その129人は一人も帰還しませんでした。
1845年7月下旬、北部バフィン湾で捕鯨船から目撃されたのを最後に、
遠征隊は欧州社会の視界から消えます。
その後に何が起きたのかは、遠征隊自身が残したわずかな文書、
19世紀の捜索隊が見つけた遺骨や遺物、
地域のInuit(イヌイット)が伝えてきた証言、
そして21世紀になって発見された2隻の沈没船から、
170年以上をかけて少しずつ復元されてきました。
この記事で分かること
- フランクリン遠征は何を目的として1845年に出発したのか
- なぜ「129人が消えた遠征」と呼ばれるのか
- HMS ErebusとHMS Terrorはどこまで進んだのか
- 遠征隊が氷に閉じ込められたのはどこだったのか
- ジョン・フランクリンはいつ死亡したのか
- 1848年に105人が船を放棄したことは、なぜ分かっているのか
- イヌイットの証言が遠征隊の最期の解明にどう関わったのか
- 2014年と2016年の船体発見によって何が変わったのか
- 現在もなお分かっていないことは何なのか
CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)
1845年、北西航路を目指して北極圏へ入った129人は帰還しませんでした。
この特集では、遠征の目的と2隻の探検船、氷海での行動、唯一級の記録
「Victory Point Note」、19世紀の捜索、イヌイットの証言、
遺骨の科学分析、そして2014年・2016年の船体発見までを追います。
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第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検【現在の記事】
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第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
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第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート
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第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
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第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
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第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
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第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
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第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
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第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
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第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査
先に結論|フランクリン遠征は「何も分からない失踪事件」ではない
フランクリン遠征は、ときどき
「北極で129人が跡形もなく消えた事件」
として紹介されます。
しかし、現在分かっている事実はそこまで単純ではありません。
確かに、遠征隊の大部分がどこで、いつ、どのように死亡したのかは分かっていません。
遠征隊の日記や航海記録も、現在まで体系的には発見されていません。
一方で、彼らの行動を示す物証は数多く残っています。
1845~1846年にビーチー島(Beechey Island)で越冬したこと。
1846年9月にキングウィリアム島北西の海域で2隻が氷に閉じ込められたこと。
フランクリンが1847年6月11日に死亡したこと。
そして1848年4月22日、残っていた105人がErebusとTerrorを放棄したこと。
これらは後世の推測だけで作られた話ではありません。
1859年にキングウィリアム島のVictory Point付近で発見された、
遠征隊自身の記録によって確認できます。
さらに、19世紀に記録されたイヌイットの証言、
遠征隊の遺物や人骨、
21世紀の水中考古学を組み合わせることで、
遠征隊の最終段階は現在も少しずつ更新されています。
FACT CHECK|「129人が消えた」とは何を意味するのか
確認できること:
グリーンランドから先へ進んだ遠征隊は129人。
そのうち誰一人として英国へ帰還していません。
確認できないこと:
129人全員について、死亡日時・死亡地点・直接の死因が分かっているわけではありません。
したがって本特集では、
「何も痕跡を残さず消えた」とは扱わず、
残された断片的な証拠から、129人の行動と最期をどこまで復元できるか
を中心に追います。
そもそもフランクリン遠征は何をしようとしていたのか
19世紀前半、英国を含む欧州諸国は北極圏の地理調査を進めていました。
その大きな目標のひとつが、
北米大陸の北側を通り、大西洋と太平洋を海路で結ぶ
北西航路の確認でした。
地図の上では、カナダ北極諸島のかなりの範囲がすでに調査されていました。
それでも、実際に船が通れる海峡がどのようにつながり、
どのルートなら西へ抜けられるのか、
最後まで埋まっていない区間が残っていました。
1845年の遠征に課されたのは、
その未確認部分を航海し、
北西航路を完成させることでした。
指揮官に選ばれたジョン・フランクリンは、
それ以前にもカナダ北部で探検を行っていた海軍士官です。
さらにErebusとTerrorは、
それ以前の南極探検にも使用された船であり、
1845年の遠征に向けて北極航海用の改修を受けていました。
Parks Canadaは、この遠征について
「当時の欧州基準では十分に準備され、専門的に装備されていた」
と説明しています。
2隻にはおよそ3年分の物資が積まれ、
慎重に使えばさらに長期間維持できると考えられていました。
つまりフランクリン遠征は、
準備不足の小規模な冒険隊が無謀に北極へ入った事例ではありません。
当時の英国海軍が人員・船・物資を投入した、
本格的な国家的探検でした。
1845年5月、134人が英国を出航した
遠征隊は1845年5月19日、
グリーンハイスを出発しました。
出航時の人数は134人です。
その後、遠征隊は大西洋を北上し、
グリーンランド西岸のディスコ湾周辺で最後の補給を行います。
ここで体調などの理由から5人が帰国し、
ErebusとTerrorに残った人数は129人になりました。
この129人という数字が、
後に「フランクリン遠征の失われた129人」として記憶されることになります。
1845年7月下旬、
2隻は北部バフィン湾で捕鯨船から目撃されました。
欧州側の人間がフランクリン遠征隊を確認した、
最後の記録として知られています。
そこからErebusとTerrorは
ランカスター海峡方面へ進みました。
この先、英国へ直接届く遠征隊の報告は途絶えます。
遠征隊が消えた場所|カナダ北極諸島
フランクリン遠征を理解しにくくしている要因のひとつが、
その地理です。
舞台となったのは現在のカナダ・ヌナブト準州に広がる北極諸島。
島、海峡、湾が複雑に入り組み、
冬季には海面そのものが厚い氷に覆われます。
このシリーズで特に重要になるのが、
ビーチー島と
キングウィリアム島(King William Island)です。
キングウィリアム島周辺。フランクリン遠征の2隻は1846年、
島の北西側の海域で氷に閉じ込められた。
Google Mapは現在の地理を示すものであり、
1840年代の海氷状態や遠征隊の正確な航路を再現したものではない。
1845~1846年の最初の冬、
遠征隊はビーチー島周辺で越冬しました。
後の捜索でここからキャンプ跡や3人の墓が発見され、
遠征隊が最初の冬をどこで過ごしたのかが判明します。
翌1846年、2隻はさらに南へ進みました。
しかし9月、
キングウィリアム島北西の海域で海氷に閉じ込められます。
ここから状況が大きく変わりました。
1846年9月|ErebusとTerrorが氷に閉じ込められる
北極海では、
海が凍ること自体は異常ではありません。
当時の極地探検船にとって、
冬のあいだ氷に閉じ込められた状態で越冬することも想定された運用でした。
問題は、
翌年になっても2隻が自由にならなかったことです。
遠征隊自身の記録によれば、
ErebusとTerrorは1846年9月からキングウィリアム島北西で氷に拘束されていました。
その状態は1847年を越え、
1848年4月まで続きます。
船が動かなければ、
北西航路の探査を続けることも、
安全な海域へ戻ることもできません。
遠征隊は船内の物資を消費しながら、
同じ地域に長期間とどまることになりました。
1847年6月11日|ジョン・フランクリンが死亡する
この間に、遠征隊の指揮官ジョン・フランクリンが死亡します。
現在確認できる死亡日は
1847年6月11日です。
これは後年の伝聞ではなく、
遠征隊の士官フランシス・クロージャーとジェームズ・フィッツジェームズが
残した記録に書かれています。
フランクリンの死亡後は、
Terror艦長だったクロージャーが遠征隊の指揮を引き継ぎました。
ただし、
フランクリンが具体的に何の病気や負傷で死亡したのかは、
現在も確定していません。
1848年4月|残った105人は船を捨てた
フランクリン遠征の運命を知るうえで、
最も重要な資料のひとつが
Victory Point Noteです。
この1枚の紙には、
異なる時期に書かれた2つのメッセージが残されていました。
最初の記録は1847年5月。
遠征隊がビーチー島で越冬し、
その後キングウィリアム島周辺で氷に閉じ込められていることを伝えています。
ところが1848年4月に追記された内容は、
状況が大きく悪化していたことを示していました。
フランクリンを含め、
それまでに9人の士官と15人の乗組員、計24人が死亡。
残った105人は、
1848年4月22日にErebusとTerrorを放棄したと記録されています。
彼らはそこから南へ向かい、
現在のBack River方面を目指そうとしていました。
しかし、
105人のうち誰一人として英国へ戻ることはありませんでした。
では、105人はどこで何が起きたのか
ここから先が、
フランクリン遠征最大の未解明部分です。
船を離れた105人が全員まとまって行動したのか。
途中で複数の集団に分かれたのか。
どこまで南へ進んだのか。
何人がどの地点まで生存していたのか。
これらを連続した遠征隊自身の記録から確認することはできません。
代わりに残されたのは、
海岸沿いに散在する遺骨、
ボートやソリ、
衣類、銀食器などの遺物、
そして地域のイヌイットが記憶し、
後の捜索者へ伝えた証言でした。
重要なのは、イヌイットが遠征隊を見ていたこと
「フランクリン遠征は1845年に突然消えた」
という語り方には、大きな問題があります。
英国との連絡は途絶えましたが、
遠征隊がその瞬間から誰にも目撃されなくなったわけではありません。
キングウィリアム島周辺には、
遠征以前からイヌイットの人々が暮らしていました。
彼らは後に、
南へ移動していた欧州人の集団、
遺体、
遠征隊の物品、
そして船についての情報を捜索者へ伝えています。
1854年にはハドソン湾会社のジョン・レイが、
イヌイットから
「約40人の白人がキングウィリアム島西岸を南へ移動していた」
という証言を聞き取りました。
さらに南方では多数の遺体が見つかったという情報も得ています。
19世紀の英国社会では、
こうした証言の一部、とくに遠征隊の最終段階について語られた内容が
強い反発を受けました。
しかし後世の考古学調査や船体探索によって、
イヌイットの口承記録が
フランクリン遠征を解明するうえで非常に重要な資料だったことが
改めて示されています。
1859年|遠征隊自身の「最後の記録」が見つかる
1850年代には複数の捜索隊が北極へ入り、
遠征隊の痕跡を探しました。
決定的な発見のひとつは1859年です。
フランシス・レオポルド・マクリントックの捜索遠征に参加していた
ウィリアム・ホブソンが、
キングウィリアム島北西部のVictory Pointにある石積みから
遠征隊の記録を発見しました。
この文書によって、
ビーチー島での越冬、
1846年から続く氷海閉塞、
フランクリンの死亡、
24人の死亡、
105人による船の放棄という
遠征終盤の骨格が初めてつながりました。
フランクリン遠征について現在知られている重要な数字の多くは、
この文書を起点にしています。
なぜ129人は帰れなかったのか
最も分かりやすい答えは、
「北極の寒さで全滅した」
というものかもしれません。
しかし実際には、
これほど単純には整理できません。
長期間の氷海閉塞、
食料と栄養状態、
病気、
寒冷、
徒歩による長距離移動、
装備と荷物、
身体的消耗など、
複数の条件が重なった可能性があります。
特に有名なのが鉛中毒説です。
遺体や遺骨から鉛が検出されたことで、
かつては缶詰などを通じた鉛曝露が
遠征失敗の大きな原因だったという説明が広まりました。
しかし、その後の研究では
「フランクリン隊だけが当時として異常に高い鉛曝露を受け、
それが遠征崩壊の決定的原因になった」
という単純な説明には疑問が示されています。
2018年に公表された骨組織の分析でも、
鉛曝露そのものは認められる一方、
鉛が遠征隊喪失の中心的な原因だったとする結論は支持されませんでした。
したがって本特集でも、
「原因は鉛中毒だった」と一本化しません。
第8回で遺骨研究、栄養、病気、鉛曝露などを分けて検証します。
2014年|HMS Erebusが見つかる
遠征隊の人間の痕跡は19世紀から見つかっていました。
一方で、2隻の船そのものがどこへ行ったのかは
長いあいだ分かりませんでした。
状況が大きく変わったのは2014年です。
Parks Canadaを中心とする調査隊は
2008年以降、サイドスキャンソナーなどを使った海底探索を続けていました。
その調査には、
過去に記録されたイヌイットの口承情報と、
現地コミュニティが持つ知識も組み込まれていました。
2014年9月2日、
海底に沈んだ船体がソナーに映し出されます。
発見されたのはHMS Erebusでした。
場所はキングウィリアム島の南側。
遠征隊が1848年に船を放棄したと記録した海域から離れた場所です。
2016年|HMS Terrorも見つかった
残るTerrorも、
その2年後に発見されました。
2016年、
Gjoa HavenのInuk、Sammy Kogvikから得られた情報を手掛かりに
調査船がTerror Bayへ向かい、
海底に沈む船体を確認します。
Parks Canadaの考古学者による調査で、
この船がHMS Terrorであることが確認されました。
こうして、
1845年から行方不明だった2隻は
169年と171年を経て、それぞれ発見されたことになります。
ただし、
船体が見つかったことでフランクリン遠征の謎が
すべて解決したわけではありません。
船を捨てたはずなのに、なぜそこに沈んでいたのか
Victory Point Noteによれば、
遠征隊は1848年4月22日に2隻を放棄しています。
ところが、
2014年と2016年に発見されたErebusとTerrorは、
当時氷に閉じ込められていた地点とは異なる場所にありました。
船がその後どのように移動したのか。
海氷とともに漂流した部分はどこまでなのか。
遠征隊の一部がどちらかの船へ戻った可能性があるのか。
2隻が現在の沈没地点へ至るまでに何が起きたのか。
こうした問題は、
現在も研究対象になっています。
つまりフランクリン遠征は、
「船が見つからない事件」から、
「見つかった船から最終局面を読み解く考古学的な研究対象」
へ変わったのです。
2026年現在も調査は終わっていない
HMS ErebusとHMS Terrorの沈没地点は現在、
Wrecks of HMS Erebus and HMS Terror National Historic Site
として保護されています。
Parks Canadaとイヌイットによる共同の水中考古学調査では、
船体内部の記録、
遺物の回収、
保存処理、
位置関係の分析が続けられています。
Parks Canadaは2026年にも、
Erebusから回収された遺物や考古学調査の成果を更新しています。
1845年に始まった遠征が、
180年以上後の現在も新しい証拠を生み出している。
ここが、
フランクリン遠征を単なる19世紀の遭難史ではなく、
現在進行形の実録アーカイブとして扱う理由です。
フランクリン遠征で現在までに分かっていること
| 時期 | 確認されている出来事 |
|---|---|
| 1845年5月19日 | ErebusとTerrorが英国を134人で出航 |
| 1845年7月 | グリーンランドで5人が離脱。129人で北極圏へ進む |
| 1845年7月下旬 | 北部バフィン湾で捕鯨船から目撃される |
| 1845~1846年 | ビーチー島周辺で最初の越冬 |
| 1846年9月 | キングウィリアム島北西で2隻が氷に閉じ込められる |
| 1847年6月11日 | ジョン・フランクリン死亡 |
| 1848年4月22日 | 残った105人がErebusとTerrorを放棄 |
| 1854年 | ジョン・レイがイヌイットから遠征隊の最期に関する証言を収集 |
| 1859年 | Victory Point Noteが発見される |
| 2014年9月2日 | HMS Erebus発見 |
| 2016年 | HMS Terror発見 |
| 現在 | 船体・遺物・人骨・DNAなどの研究が継続 |
それでも残っている謎
現在でも特に大きいのは、
1848年4月以降の連続した時系列が存在しないことです。
105人はどのような集団で南へ移動したのか。
何人がどこまで到達したのか。
なぜ一部の遺物や遺骨が各地に分散しているのか。
ErebusとTerrorは放棄後にどう移動したのか。
そして、個々の隊員が最終的にどこで死亡したのか。
そのすべてに答えが出たわけではありません。
一方で、
「誰にも目撃されず、129人が完全に消えた」
という理解も正確ではありません。
遠征隊自身のメモがあり、
イヌイットの証言があり、
捜索隊が回収した遺物があり、
遺骨があり、
そして現在は2隻の船体そのものがあります。
フランクリン遠征の本当の面白さは、
謎が多いことだけではありません。
19世紀の1枚のメモ、口承記録、遺骨、海底ソナー、DNA分析という
異なる時代の証拠をつなぐことで、
失われた遠征の輪郭が少しずつ戻ってきたこと
にあります。
まとめ|「消えた遠征」は170年以上かけて姿を取り戻している
1845年、
ジョン・フランクリン率いるErebusとTerrorは
北西航路を完成させるため英国を出発しました。
グリーンランドから先へ進んだ129人は帰還せず、
2隻は1846年9月からキングウィリアム島北西で氷に閉じ込められました。
フランクリンは1847年に死亡し、
1848年4月には生き残っていた105人が船を放棄して南へ向かいます。
その先で何が起きたのかを記した完全な記録は、
現在まで見つかっていません。
それでも1850年代以降、
捜索隊、イヌイットの証言、考古学、科学分析によって、
遠征の最終局面は少しずつ再構成されてきました。
そして2014年にはErebus、
2016年にはTerrorが発見されます。
船そのものが見つかった現在も、
調査は終わっていません。
次回は、
129人を北極へ運んだ
HMS ErebusとHMS Terrorは、そもそもどのような船だったのか
を見ていきます。
当時の極地探検船としてどのような装備を持ち、
なぜ「十分に準備された遠征」が帰還できなかったのかを考えるための
土台になります。
CASE FILE 20|フランクリン遠征特集 全10回
- 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検【現在の記事】
- 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
- 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート
- 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
- 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
- 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
- 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
- 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
- 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
- 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査
今回出てきた言葉
- 北西航路(Northwest Passage)
-
北米大陸北側の北極海を通って、大西洋と太平洋を結ぶ海路。
19世紀には未確認区間が残されており、
フランクリン遠征はその完成を主要目的としていた。 - HMS Erebus
-
フランクリン遠征を構成した英国海軍の2隻のうち1隻。
1845年にはジェームズ・フィッツジェームズが艦長を務めた。
2014年に沈没船が発見された。 - HMS Terror
-
遠征隊のもう1隻の船。
艦長はフランシス・クロージャー。
2016年にTerror Bayで発見された。 - Victory Point Note
-
キングウィリアム島で1859年に発見された遠征隊の記録。
フランクリンの死亡、24人の死亡、
105人による船の放棄などを知るための最重要資料のひとつ。 - Inuit Qaujimajatuqangit
-
イヌイットの知識・経験・口承などを含む知識体系。
フランクリン遠征の行動や船の位置を理解するうえで重要な役割を果たし、
現代の船体探索にも活用された。
出典・参考資料
-
Parks Canada — Franklin’s 1845 expedition
1845年の出航、134人から129人への人数変化、ビーチー島での越冬、
1846年9月の氷海閉塞、1848年4月22日の船体放棄、
Erebus・Terror発見年の確認に使用。
-
Parks Canada — Who’s who in the Franklin expedition
ジョン・フランクリン、フランシス・クロージャー、
ジェームズ・フィッツジェームズ、Victory Point Note、
24人死亡・105人生存時点の記録確認に使用。
-
Parks Canada — Searching for Franklin
19世紀の捜索、Victory Point Note発見、
イヌイット証言と後続捜索の経緯確認に使用。
-
Parks Canada — Searching for Franklin’s lost ships
2008年以降の現代捜索、2014年のHMS Erebus発見、
2016年のHMS Terror発見経緯の確認に使用。
-
Parks Canada — Archaeology: Wrecks of HMS Erebus and HMS Terror National Historic Site
イヌイットとの共同管理、水中考古学、
現在の研究体制の確認に使用。
-
Parks Canada — Artifacts
Erebusから回収された遺物の記録・分析・保存と、
現在も続く考古学調査の確認に使用。
-
Royal Museums Greenwich — Letter to Sir John Franklin
1845年7月下旬、北部バフィン湾で捕鯨船から目撃された
欧州側最後の記録の確認に使用。
-
Swanston et al. (2018) — Franklin expedition lead exposure
遺骨の鉛分析と、
鉛曝露を遠征隊喪失の中心原因とみなす単純な説明が
支持されていないことの確認に使用。
本記事は、Parks Canada、Royal Museums Greenwich、考古学・科学研究等を照合し、
確認できる事実と、遠征隊の最期について残る推定・仮説を分けて構成しています。
とくに1848年4月以降の行動と各隊員の死因については未解明部分が多いため、
後世の説を確定事実として扱っていません。