1847年5月、キングウィリアム島に残された1枚の紙には、
短い言葉が書かれていました。
「All well」――異状なし。
それから約11か月後。
同じ紙の余白には、
まったく違う内容が書き加えられました。
ジョン・フランクリンは死亡。
遠征隊では計24人が死亡。
HMS ErebusとHMS Terrorは放棄され、
残った105人は船を離れていました。
そして翌日、
彼らは南にあるBack’s Fish Riverへ向かう予定だと記されています。
この文書が、
一般にVictory Point Noteと呼ばれる記録です。
フランクリン遠征には、
1845年の出航から最期までを連続して記録した航海日誌が残っていません。
だからこそ、この小さな1枚の紙が重要になります。
第5回ではVictory Point Noteを、
1847年の最初の記録と1848年の追記に分けて読みます。
そこには何が書かれ、
何が書かれていなかったのでしょうか。
この記事で分かること
- Victory Point Noteとは何なのか
- 誰が、いつ、どこへ残した文書なのか
- 1847年5月の「All well」は何を意味するのか
- その約11か月後に何が書き加えられたのか
- ジョン・フランクリンの死亡日はなぜ分かっているのか
- 24人死亡・105人生存という数字はどこから出たのか
- ErebusとTerrorが放棄された正確な日はいつなのか
- 残った105人は次にどこを目指したのか
- この記録だけでは何が分からないのか
- Victory Point Note自体にも誤記や資料上の注意点があること
CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)
-
第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
-
第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
-
第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート
-
第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
-
第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄【現在の記事】
-
第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
-
第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
-
第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
-
第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
-
第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査
先に結論|1枚の紙に「正常」と「崩壊」が同居している
Victory Point Noteが特別なのは、
重要な数字が書かれているからだけではありません。
同じ紙に、
遠征隊の状態が大きく変化する前と後の記録が残されている
からです。
| 記録 | 1847年5月 | 1848年4月 |
|---|---|---|
| 指揮官 | John Franklin | Francis Crozier |
| 船 | Erebus / Terrorは氷中 | 2隻を放棄 |
| 状態 | 「All well」 | 24人死亡 |
| 行動 | 陸上調査隊を派遣 | 105人が陸上へ移動 |
| 次の目的 | 探検継続中 | Back’s Fish Riverへ向かう |
この約11か月の間に、
遠征隊は
船で北西航路を探す集団から、船を捨てて陸上から脱出を試みる集団へ変わりました。
しかし、その変化がどのように起きたのかを説明する文章は、
Victory Point Noteにはありません。
Victory Point Noteとは何なのか
Victory Point Noteは、
フランクリン遠征隊が使用していた
英国海軍本部の標準印刷用紙に書かれた文書です。
用紙には、
この紙を発見した者へ、
発見日時と場所を記録して英国海軍本部へ届けるよう求める文章が
複数の言語で印刷されていました。
遠征隊はこうした記録用紙を持ち、
陸上調査などの際に石積みのケアンへ残しました。
現在Victory Point Noteと呼ばれている紙には、
1847年5月の記録と、1848年4月に追加された記録
の2つが残されています。
後者は用紙中央ではなく、
残された空白や余白へ書き込まれました。
1859年|William Hobsonが記録を発見した
この文書が英国側へ戻ったのは、
遠征隊が船を離れてから11年後でした。
フランクリンの妻Jane Franklinが支援した捜索船Foxを率いていた
Francis Leopold McClintockの遠征隊が、
1859年にKing William Islandを調査します。
その一員である
William Hobsonが島北西部を探索し、
石積みのケアンから金属製の容器と記録を発見しました。
これによって英国側は初めて、
フランクリン遠征の1846~1848年の行動を
遠征隊自身の文章から確認できるようになります。
1847年5月|最初のメッセージ
最初の記録の日付は
1847年5月28日です。
そこにはErebusとTerrorが
北緯70度05分、西経98度23分付近で
氷の中にいることが記されています。
続いて、
遠征隊はBeechey Islandで越冬し、
Wellington Channelを北緯77度まで進み、
Cornwallis Island西側を通って戻ったと説明しています。
そして、
遠征全体の指揮官として
Sir John Franklinの名が記されました。
その直後にあるのが、
有名な短い一文です。
「All well」
「All well」は“誰も死んでいない”という意味ではない
この言葉は、
フランクリン遠征を語るとき強く印象に残ります。
しかし、
「全員健康だった」
「事故も死者もなかった」
という意味にまで広げてはいけません。
遠征隊は1845~1846年のBeechey Island越冬中に、
すでにJohn Torrington、John Hartnell、William Braineの
3人を失っています。
したがって1847年5月の「All well」は、
遠征隊全体として重大な異常を報告する状況ではなかった
程度に読むのが適切です。
少なくとも、
船を放棄して脱出しなければならない状態とは
認識されていなかったことは分かります。
この時点で2隻はすでに8か月以上動けなかった
「All well」と書かれていた一方で、
Victory Point Noteからは別の重要な事実も分かります。
1848年の追記によれば、
ErebusとTerrorが氷に捕らえられたのは
1846年9月12日でした。
つまり1847年5月末には、
2隻はすでに8か月以上、
King William Island周辺から自由に航行できない状態にありました。
それでも遠征隊は、
陸上調査を続けていました。
Graham Goreら8人が船を離れた
1847年の記録には、
5月24日に
士官2人と乗組員6人、計8人が船を離れたことも書かれています。
署名したのは
Lieutenant Graham Goreと
Mate Charles F. Des Voeuxです。
彼らはKing William Island上で
地理調査と記録設置を行っていたと考えられています。
後世には、この陸上調査隊が島南部まで進み、
北西航路の残されていた地理的空白を
事実上つないだ可能性も指摘されています。
ただし、
彼らの詳細な行動記録は残っていません。
一次資料にもある明確な誤記
第4回でも触れましたが、
Victory Point Noteは
内容を無条件に信用できる完璧な記録ではありません。
最初の文章には、
遠征隊がBeechey Islandで
「1846~1847年に越冬した」
と書かれています。
実際には、
Beechey Islandで越冬したのは
1845~1846年です。
1846年9月以降には、
2隻はKing William Island北西で
すでに海氷に捕らえられていました。
同じ文書内の時系列とも一致しないため、
Beechey Islandの年は明確な誤記と考えられています。
ACT CHECK|一次資料=完全に正しい、ではない
Victory Point Noteは、
遠征隊自身が残した一次資料です。
その資料価値は非常に高い一方で、
越冬年のような明らかな誤記もあります。
そのため本特集では、
「一次資料に書かれている事実」と
「複数資料を照合した結果として確定できる事実」
を区別して扱います。
そして約11か月後、同じ紙に追記された
1848年4月。
遠征隊は再びこの記録を手にしました。
同じ用紙の余白には、
Francis CrozierとJames Fitzjamesによって
新しい文章が追加されています。
追記の日付は
1848年4月25日。
そこに書かれた内容は、
前年の「All well」とは大きく異なっていました。
1848年4月22日|ErebusとTerrorを放棄
追記の最初に記録されているのが、
2隻の放棄です。
ErebusとTerrorは
1848年4月22日に放棄されました。
文書によれば、
船は記録地点から
「5 leagues N.N.W.」に位置していました。
また2隻は、
1846年9月12日から
海氷に捕らえられ続けていたと記されています。
つまり船体放棄までの閉塞期間は
約19か月に及びます。
最初の冬では、
Beechey Islandから翌夏に再び船を動かすことができました。
しかし2度目は違いました。
1847年夏を過ぎても船は解放されず、
1848年春、
ついに船を使った遠征を断念したことになります。
「22日」と「25日」と「26日」を混同しない
Victory Point Noteには、
1848年4月の重要な日付が3つ登場します。
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 4月22日 | ErebusとTerrorを放棄 |
| 4月25日 | Victory Point Noteの追記を記入 |
| 4月26日 | Back’s Fish Riverへ向けて出発する予定 |
資料によっては、
Victory Point Noteを
「1848年4月26日に追記された文書」と説明している場合があります。
Royal Museums Greenwichの一部カタログも、
CrozierとFitzjamesによる追加を
4月26日として整理しています。
しかし、
文書本文に記された追記の日付は
4月25日です。
そして文章の最後には、
「明日26日にBack’s Fish Riverへ向けて出発する」
という内容があります。
本記事では、
文書本文の日付を優先し、
22日=船体放棄、
25日=記録、
26日=出発予定
として区別します。
ジョン・フランクリンは1847年6月11日に死亡していた
1847年5月の最初のメッセージでは、
フランクリンはまだ遠征隊を指揮していました。
しかし、
そのわずか2週間ほど後。
1847年6月11日、
ジョン・フランクリンは死亡しました。
現在フランクリンの死亡日を具体的に
「1847年6月11日」と言えるのは、
この1848年の追記が残っているからです。
ただしVictory Point Noteには、
死因が書かれていません。
病気だったのか。
感染症だったのか。
栄養状態や寒冷が関係したのか。
この文書だけから判断することはできません。
したがって
「フランクリンは○○で死亡した」
と断定する説明には別の根拠が必要です。
24人が死亡していた
1848年4月25日の時点で、
遠征隊の死亡者は
9人の士官と15人の乗組員と記録されています。
合計は
24人です。
フランクリン自身も、
この9人の士官に含まれます。
グリーンランドから先へ進んだ遠征隊は129人でした。
そこから24人を引けば、
残る人数は105人です。
そして実際、
文書には
「officers and crews, consisting of 105 souls」
と記されています。
人数の整合
北極圏へ進んだ人数:129人
1848年4月までの死亡者:24人
129 − 24 = 105人
少なくとも記録上、
この時点までの人数は整合しています。
誰が遠征隊を指揮していたのか
フランクリン死亡後、
遠征隊の最高位の士官となったのが
Francis Crozierです。
1848年の追記には、
105人が
Captain F.R.M. Crozierの指揮下にある
と明記されています。
追記にはJames FitzjamesとCrozierが署名し、
Crozierには
Captain & Senior Officer
と記されています。
つまり、
1847年5月と1848年4月の記録を比較すると、
遠征隊の指揮系統が変わったことも確認できます。
105人は船を離れ、陸上へ上がった
船を放棄した105人は、
King William Islandへ上陸しました。
Victory Point Noteは、
その地点を
北緯69度37分42秒、西経98度41分
と記録しています。
彼らが船を離れた理由について、
文書には詳しい説明がありません。
分かっているのは、
1846年9月から長期間氷に閉じ込められ、
1848年4月には
2隻を放棄する決断が下されていたことです。
「食料が完全になくなったから」
「船が沈みかけていたから」
「船内で特定の病気が流行したから」
などと、
Victory Point Noteだけから原因を限定することはできません。
次に向かったのはBack’s Fish River
記録の最後には、
105人が
翌4月26日にBack’s Fish Riverへ向けて出発する
と書かれています。
Back’s Fish Riverは、
現在のBack Riverです。
King William Islandから南へ向かい、
カナダ本土側へ到達するための目標となりました。
ここで遠征隊の戦略は根本的に変わります。
1845年の出発時、
129人の目的は
2隻の船で北西航路を航行することでした。
1848年4月には、
105人が船を捨て、
ソリや小艇などを使って陸上から南へ向かおうとしていました。
海上探検から徒歩による脱出へ。
Victory Point Noteは、
その転換点を記録しています。
しかし、その先の記録がない
ここが最も重要です。
Victory Point Noteには、
「明日、Back’s Fish Riverへ向かう」
ところまでしか書かれていません。
105人が実際に4月26日に全員出発したのか。
どのルートを通ったのか。
集団は途中で分かれたのか。
誰がどこまで到達したのか。
途中で船へ戻った者がいたのか。
これらを連続して記録した遠征隊自身の文書は、
現在まで確認されていません。
そのため、
1848年4月26日以降がフランクリン遠征最大の記録空白
になります。
Victory Point Noteに「書いていないこと」
この文書は非常に重要ですが、
書かれている情報量そのものは多くありません。
特に次のことは、
この紙だけでは分かりません。
- ジョン・フランクリンの死因
- 他の23人の具体的な死因
- なぜ船を放棄する決断をしたのか
- 船内の食料・燃料がどれほど残っていたのか
- 壊血病やその他の病気がどの程度広がっていたのか
- ErebusとTerrorの船体状態
- 105人の体力・健康状態
- 船を離れた後の正確な移動経路
- 誰が最後まで生きていたのか
- 一部の隊員が後に船へ戻ったかどうか
これらは、
後世のイヌイット証言、
遺骨、
遺物、
沈没船の位置、
科学分析などから検討する必要があります。
「24人死亡」から死因は分からない
フランクリン遠征については、
壊血病、飢餓、結核、鉛曝露、
低体温症など多くの説明が提示されてきました。
しかしVictory Point Noteが直接示すのは、
1848年4月25日までに
24人が死亡していたという事実までです。
死亡者数だけから、
全員が同じ原因で死亡したと推定することはできません。
個々の死因については、
第8回で遺骨や科学研究を使って検証します。
「船を放棄した」ことと「その場で沈んだ」ことも別
もうひとつ、
Victory Point Noteを読むうえで注意したい点があります。
文書には、
ErebusとTerrorが
deserted――放棄された
とあります。
しかし、
「1848年4月22日に沈没した」とは書かれていません。
実際、
21世紀に発見された2隻は、
1848年に記録された閉塞地点とは異なる場所にありました。
そのため船体放棄後、
ErebusとTerrorがどのように移動し、
現在の沈没地点へ至ったのかは
フランクリン遠征の重要な研究課題になっています。
少なくとも、
「乗組員が船を捨てた日」と「船が沈んだ日」を同一視することはできません。
「All well」から24人死亡まで、何が起きたのか
1847年5月28日。
遠征隊は
「All well」と記録しました。
1848年4月25日。
フランクリンは死亡し、
遠征全体で24人が死亡し、
残った105人は2隻を放棄していました。
約11か月。
しかしこの期間に起きた出来事を連続して説明する文書はありません。
分かっているのは、
その間にも船が氷から抜け出せなかったこと。
1847年6月11日にフランクリンが死亡したこと。
そして1848年4月には、
船で待ち続ける方針を捨てたことです。
この「間」を埋めようとして、
その後170年以上にわたる調査が続くことになります。
なぜ、もっと詳しい記録が残っていないのか
英国海軍の遠征であれば、
本来は航海日誌、観測記録、
士官の日記など大量の文書が作られていたはずです。
実際、
出発直後までは隊員から家族へ送られた手紙も残っています。
しかし北極圏へ入った後の
公式航海記録や長い日誌は、
現在までまとまった形では回収されていません。
船体内部には、
まだ文書や記録媒体が残されている可能性も研究されています。
そのためVictory Point Noteは、
文章量としてはわずかでも、
遠征隊自身の声を直接残す記録として極めて大きな価値を持ちます。
資料差|追記日は25日か26日か
Victory Point Noteについて資料を比較すると、
日付の表現に小さな違いがあります。
現存文書の転写では、
追記は
「April 25, 1848」
から始まります。
文章末尾には、
翌26日にBack’s Fish Riverへ向かうことが書かれています。
一方、
Royal Museums Greenwichの一部カタログでは、
CrozierとFitzjamesによって
「26 April 1848」に追加されたと説明されています。
これは大きな歴史認識の違いではありませんが、
本記事では
原文に明記された25日を追記日
として採用します。
こうした小さな差も、
歴史資料を読む際には分けて記録しておく必要があります。
Victory Point Noteから確定できること
| 項目 | 記録から確認できる内容 |
|---|---|
| 最初の記録 | 1847年5月28日 |
| 指揮官 | 1847年5月時点ではJohn Franklin |
| 1847年の状態 | 「All well」と記録 |
| 氷海閉塞開始 | 1846年9月12日 |
| Franklin死亡 | 1847年6月11日 |
| 船体放棄 | 1848年4月22日 |
| 追記 | 1848年4月25日 |
| 死亡者 | 士官9人+乗組員15人=24人 |
| 残存人員 | 105人 |
| 指揮官 | Francis R.M. Crozier |
| 次の目的地 | Back’s Fish River |
| 出発予定 | 1848年4月26日 |
まとめ|ここまでは記録がある。そして、この先で記録が途切れる
Victory Point Noteには、
フランクリン遠征の2つの時間が残されています。
1847年5月。
ErebusとTerrorは氷に閉じ込められていましたが、
John Franklinが指揮し、
遠征隊は「All well」と記録しました。
約11か月後の1848年4月。
フランクリンは死亡。
死者は24人。
残った105人は
ErebusとTerrorを放棄していました。
Crozierが指揮を引き継ぎ、
彼らはBack’s Fish Riverへ向けて
南へ進もうとしていました。
そして、
遠征隊自身による連続した記録はここで途切れます。
ここから先を知るためには、
彼らが残した文章ではなく、
後から彼らを探した人々の記録を見る必要があります。
次回は、
英国海軍、Jane Franklin、
John Rae、Francis McClintockらが、
消えた129人をどのように探したのかを追います。
Beechey Islandの墓。
イヌイットから得た情報。
銀食器。
人骨。
船を載せたソリ。
そしてVictory Point Note。
失われた遠征の最期は、捜索隊が拾い集めた断片から少しずつ形になっていきました。
今回出てきた言葉
- Victory Point Note
-
フランクリン遠征隊がKing William Islandに残した記録。
1847年5月の最初のメッセージと、
1848年4月にCrozierとFitzjamesが加えた追記が同じ紙に残されている。 - All well
-
1847年5月の記録に書かれた言葉。
すでにBeechey Islandで3人が死亡しているため、
「全員が健康で死者ゼロ」という意味ではなく、
遠征全体として重大な異常を報告していない状態を示す表現として扱う必要がある。 - Francis Crozier
-
HMS Terror艦長でフランクリン遠征の副指揮官。
John Franklin死亡後に遠征全体の指揮を引き継ぎ、
1848年のVictory Point NoteへJames Fitzjamesとともに署名した。 - James Fitzjames
-
HMS Erebus艦長。
1848年のVictory Point NoteでCrozierとともに、
24人の死亡、105人の生存、船体放棄などを記録した。 - Back’s Fish River
-
現在のBack River。
1848年4月、船を放棄した105人が次に目指すと記録した目的地。
CASE FILE 20|フランクリン遠征特集 全10回
- 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
- 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
- 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート
- 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
- 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄【現在の記事】
- 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
- 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
- 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
- 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
- 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査
出典・参考資料
-
Franklin Expedition Record — Victory Point Note
1847年5月28日の最初の記録、
「All well」、
1848年4月25日の追記、
4月22日の船体放棄、
1846年9月12日からの氷海閉塞、
Franklin死亡日、
9士官+15乗組員の死亡、
105人、
Back’s Fish Riverへの移動予定の確認に使用。
-
Parks Canada — Searching for Franklin
William HobsonによるVictory Point Note発見、
2つのメッセージの内容、
24人死亡・105人生存、
Back Riverへ向かったという公的整理の確認に使用。
-
Parks Canada — Who’s who in the Franklin expedition
John Franklinの死亡日、
Francis Crozierによる指揮継承、
James Fitzjamesとの共同署名の確認に使用。
-
Royal Museums Greenwich — Sir John Franklin’s last message
現存資料HSR/C/9/1の所蔵情報、
標準海軍文書としてのVictory Point Note、
Graham Gore、Crozier、Fitzjames、Hobsonとの関係確認に使用。
-
Royal Museums Greenwich — What happened to Erebus and Terror?
1848年4月22日の船体放棄、
1846年9月12日からの氷海閉塞、
105人がBack River方面へ向かったという整理の確認に使用。
本記事ではVictory Point Noteの現存転写を最優先し、
1847年の本文と1848年の追記を分離して扱った。
同文書に含まれるBeechey Island越冬年の誤記、
および所蔵機関のカタログ間で見られる追記日の表現差についても明示した。
また、文書に記載されていないFranklinの死因、船体放棄の具体的理由、
1848年4月26日以降の105人の行動については確定事実として補完していない。