現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー

遭難・救助

2018年7月2日。

タムルアン洞窟の奥で、2人の英国人洞窟ダイバーが水面から顔を出した。

ライトの向こうに、人影があった。

6月23日から行方が分からなくなっていた少年サッカーチームの12人とコーチ1人。13人全員が生きていた。

世界中で繰り返し放送されたこの発見場面だけを見ると、ダイバーが洞窟の奥まで潜っていき、偶然13人を見つけたようにも見える。

しかし、そこへ到達するまでには9日間かかっている。

その理由は、単に洞窟が長かったからではない。

豪雨による増水で捜索そのものが何度も止まり、視界の悪い水没通路へガイドラインを敷き、呼吸用ボンベを奥へ送り、少しずつ「次に進める地点」を作らなければならなかった。

13人の発見は、一度の長距離潜水で達成されたものではない。

水位が下がる短い機会を使いながら、数日かけて捜索ルートを洞窟深部へ延ばした結果だった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー【現在の記事】
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

先に結論|9日かかった理由は「居場所」より「そこへ進めなかった」ことにある

13人が洞窟のどこにいる可能性が高いかについて、救助側にはある程度の見当があった。

洪水から逃れているなら、洞窟内部の高い場所へ後退している可能性がある。

捜索では「Pattaya Beach」と呼ばれる地下地点が一つの目標になっていた。

しかし、目標地点を想定できることと、そこへ到達できることは別だった。

途中の通路は増水によって水没していた。

British Cave Rescue Council(BCRC)の記録では、英国人洞窟ダイバーが6月29日と30日にChamber 3より先へ進もうとした際、強い水流と約1m程度の視界によって探索を断念している。

7月1日になって水位と流れが改善し、ようやく奥へガイドラインを延ばせるようになった。

そして7月2日、さらに奥へ進んだリック・スタントンとジョン・ヴォランセンが13人を発見した。

つまり9日間の中心的な問題は、

「13人がどこにいるのか分からない」だけでなく、「可能性の高い場所まで捜索隊自身が進めない」ことだった。

FACT CHECK|発見したのは誰か

13人を最初に発見したのは、英国人洞窟ダイバーのリック・スタントン(Rick Stanton)ジョン・ヴォランセン(John Volanthen)だった。

ただし、2人だけで9日間の捜索を行ったわけではない。

作戦全体はタイ当局が指揮し、タイ海軍特殊部隊、軍、警察、地元救助関係者に加え、英国、米国、オーストラリアなどから専門家が参加した。

BCRCも6月28日の時点で、タイ当局が救助作戦全体を統括し、英国チームはタイ側の能力を補完する立場であると明記している。

したがって、「英国人2人だけが少年たちを探し出した」という理解も正確ではない。

6月23日|13人が帰ってこない

少年サッカーチーム「Wild Boars」の12人とコーチは、6月23日にタムルアン洞窟へ入った。

その夜になっても帰宅しなかった。

翌24日には、洞窟入口付近で自転車や靴などが発見された。

これによって、一行が洞窟へ入ったことは強く裏付けられた。

ここで、現在のTham Luang Nang Non Cave入口がチェンライ県Mae Sai地区のどこにあるかを確認しておく。

Tham Luang Nang Non Cave入口の現在位置。現在のGoogle Mapは洞窟入口と周辺地理を確認するためのもので、2018年当時の水位、水没区間、Chamber 3、Monks Junction、Pattaya Beach、13人の発見地点など地下の位置関係を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る


BCRC掲載の洞窟測量図で内部地点を確認する

問題は、その先だった。

洞窟内部では雨によって水位が上昇していた。

13人を探すには、その水の向こう側へ進まなければならない。

6月25日|タイ海軍特殊部隊が洞窟へ入る

オーストラリア政府が後にまとめた救助作戦の時系列では、6月25日にタイ海軍特殊部隊が少年たちの捜索のため洞窟内へ入ったとされている。

同じ日、現場では激しい雨が続き、排水ポンプも投入された。

しかし、ポンプを設置したからといって、洞窟内の水がすぐに消えるわけではない。

山地へ降り続く雨は、新しい水を洞窟へ送り続ける。

救助側は「奥へ進む作業」と「流れ込んでくる水を減らす作業」を同時に進めなければならなかった。

6月26日|洪水で捜索隊自身が押し戻される

6月26日には、Pattaya Beach方面への到達を試みたダイバーが、流れ込む洪水によって洞窟から撤退を余儀なくされた。

これは、9日間の捜索が長期化した理由をよく示している。

少年たちが洞窟奥にいる可能性が高くても、そこへ向かう水没区間の流速が強すぎれば、捜索隊は進めない。

洞窟潜水では、単に強いフィンキックで流れに逆らえばよいわけではない。

狭い通路、岩、濁水、装備、呼吸ガスの残量を考えながら、安全に戻れる範囲で前進しなければならない。

前へ進む能力だけでなく、引き返すためのガスと時間を残すことも必要になる。

国外から専門ダイバーが集められた理由

タムルアンで必要とされたのは、一般的な潜水技術だけではなかった。

BCRCは6月28日のブリーフィングで、英国チームの強みとして、

  • 低視界での洞窟潜水
  • 狭い通路での潜水
  • 地下の河川洞窟での捜索
  • 洞窟内部の地形・測量に関する経験

を挙げている。

通常の海でのスクーバダイビングと、タムルアンのような洪水洞窟での潜水は条件が大きく異なる。

海なら緊急時に水面へ浮上できる場合が多い。

洞窟では頭上に岩盤がある。

入口方向へ戻らない限り外へ出られない。

しかも水が濁れば、出口の方向を目で確認することもできない。

だからこそ、英国の洞窟救助・洞窟潜水の専門家がタイ側から要請された。

6月28日|Chamber 3までの偵察

後に英国政府がスタントンとヴォランセンの功績を記録した資料によれば、6月28日、2人は完全に水没した3つの区間を潜って、後にChamber 3と呼ばれる場所まで偵察している。

そこで2人は、増水によって取り残されていたタイ人救助要員4人の退避も支援した。

この出来事は重要である。

救助側まで洪水によって孤立する危険があったことを示しているからだ。

Chamber 3はその後、洞窟内部で人員・装備・医療・物資を集約する重要な拠点になっていく。

ただし、この時点では13人まではまだ遠かった。

6月29日・30日|前進できない

英国政府の記録では、6月29日と30日にもChamber 3より奥の探索が試みられた。

しかし、強い水流と約1mの視界によって断念された。

13人の捜索で最も重要だったのは、距離だけではなかったことがここでも分かる。

前日と同じ場所へ行こうとしても、水位や流速が変われば通過条件も変わる。

捜索ルートは固定された道路ではない。

天候によって通行可能性が毎日変化する地下の水路だった。

ガイドラインとは何か|視界ゼロでも帰るための道

洞窟ダイバーが先へ進む際、重要な装備の一つがガイドラインである。

細いラインを入口側から連続して延ばしていき、潜水中はそれを経路の基準として使う。

濁った水の中では、ライトを点けてもほとんど前が見えないことがある。

その状態で方向感覚だけを頼りに戻ろうとすれば、出口を失う危険がある。

ガイドラインがあれば、視界が失われても手でラインを確認しながら出口方向へ戻ることができる。

タムルアンでは、単にダイバーが奥へ泳ぐのではなく、

次のダイバーも同じ場所まで安全に進めるルートを作りながら前進する

必要があった。

さらに、呼吸用ボンベを途中へ配置する作業も進められた。

一度の潜水で入口から最奥部まで完結させるのではなく、深部へ活動範囲を伸ばすためのインフラを洞窟内部へ作っていったのである。

6月30日から7月1日|雨が弱まり、状況が変わる

6月末になって、捜索側に重要な変化が起きた。

雨が一時的に弱まり、水位と流速が低下した。

BCRCは7月2日午前のブリーフィングで、

  • 水位がある程度低下した
  • 流速が弱まった
  • 水中視界が改善した

ため、潜水捜索を再開できたと説明している。

英国人洞窟ダイバー2人が先行してルートを探し、その後方ではタイ海軍特殊部隊、オーストラリア、米国などのダイバーが呼吸用ボンベを搬送し、エア供給地点を作った。

捜索の先端と、その先端を維持する補給作業が同時に動いていた。

7月1日|奥へラインを延ばす

英国政府の叙勲資料では、7月1日にスタントンとヴォランセンがChamber 3からさらに約800m奥へ進み、ガイドラインを敷設したとされている。

それ以前にタイ海軍特殊部隊が到達していた範囲は、同資料ではChamber 3から約250m先までとされている。

進路には高低差があり、岩による障害や狭窄部も多かった。

この前進によって、13人がいる可能性の高いPattaya Beach方面へ捜索範囲が一気に伸びた。

同日のBCRC資料では、捜索隊がMonks Junctionまで到達したことも報告されている。

翌7月2日の目標は、そのさらに奥にあるPattaya Beachだった。

7月2日|Pattaya Beachまで行っても13人はいなかった

Pattaya Beachは、捜索前から13人が避難している可能性の高い地点として考えられていた。

しかし、そこまで到達しても13人はいなかった。

これは捜索側にとって重要な瞬間だった。

想定地点で見つからないからといって、そこで探索を終えることはできない。

スタントンとヴォランセンはさらに奥へ進んだ。

そして水面へ浮上した先の乾いた空間で、人影を確認した。

12人の少年とコーチ。

13人全員が生きていた。

発見地点は「Pattaya Beach」ではない

この点は資料を読む際に注意が必要である。

現在でも「少年たちはPattaya Beachで発見された」と説明されることがある。

しかし、BCRCが発見直後に公表したブリーフィングでは、13人がいたのはPattaya Beachの南側にある乾いた空間だった。

BCRCはその距離を約200mとしている。

一方、オーストラリア政府の後年の時系列資料では、Pattaya Beachから約400m先と記されている。

このため、本特集では「Pattaya Beachから正確に○m」と固定しない。

確実に言えるのは、

13人はPattaya Beachそのものではなく、そこからさらに奥へ進んだ乾いた高所で発見された

という点である。

FACT CHECK|「入口から何kmで発見された」の数字は資料によって異なる

発見地点の距離についても、公的・準公的資料で数値が一致していない。

資料 発見地点の表現
オーストラリア政府 Symposium Report・Executive Summary 洞窟系内部約4.7km
同報告書本文 洞口から約2.5kmの高い粘土質の場所
BCRC発見直後ブリーフィング Pattaya Beachから約200m南側
オーストラリア政府時系列 Pattaya Beachから約400m先

これは洞窟内の測定経路、基準点、実移動距離、洞窟測量上の表現が異なることが一因と考えられる。

したがって、「入口から正確に4.7kmだった」など、一つの数字だけを絶対値として扱うのは避けた方がよい。

本シリーズでは位置関係を、

入口 → 水没区間 → Chamber 3 → Monks Junction → Pattaya Beach周辺 → さらに奥の発見地点

として理解する。

6月23日から7月2日まで|捜索の流れ

日付 捜索・現場の動き
6月23日 少年12人とコーチが洞窟へ入り、帰宅しない
6月24日 洞窟入口付近で自転車や所持品が確認される
6月25日 タイ海軍特殊部隊が洞窟内で捜索。激しい雨と増水が続く
6月26日 Pattaya Beach方面への前進を試みるが、洪水のため撤退
6月27日 国外から軍・洞窟潜水の専門家が現場へ加わる
6月28日 豪雨で捜索活動が制限。英国人ダイバーがChamber 3方面を偵察
6月29~30日 強い流れと低視界によりChamber 3より奥への進行が困難
7月1日 水位・流速が改善。ガイドラインを洞窟奥へ延長
7月2日 スタントンとヴォランセンがPattaya Beachより奥へ進み、13人全員を発見

なぜスタントンとヴォランセンだったのか

2人が選ばれた理由を「勇敢だったから」だけで説明すると、救助作戦の本質を見失う。

必要だったのは、極めて専門性の高い洞窟潜水能力だった。

タムルアンでは、

  • 流れのある水中を進む
  • 濁水でほとんど視界がない
  • 狭窄部を通る
  • ガイドラインを設置する
  • 呼吸ガス消費を管理する
  • 複雑な洞窟内から確実に帰還する

必要があった。

しかも、未知の水没洞窟へ先頭で入る「パスファインディング」の能力が必要になる。

スタントンとヴォランセンは、この種の英国の洞窟潜水・洞窟救助で長い経験を持っていた。

だから2人が捜索の最前線を担った。

一方、その前進を可能にしたのは後方の補給チームだった。

ボンベが送られなければ前へ進めない。

排水が進まなければ潜水を再開できない。

地上の指揮・通信がなければ捜索範囲を管理できない。

発見は、最前線の2人と、その後ろにあった大規模作戦を切り離して理解することはできない。

発見時、13人は比較的安定していた

9日間、食料もなく洞窟内にいた13人は、発見時には衰弱していた。

それでも映像では全員が意識を保ち、ダイバーとのやりとりに反応している。

オーストラリア政府の後年の時系列資料も、7月2日に13人が「alive and relatively well」、つまり生存し比較的良好な状態で発見されたと記録している。

ただし、「元気だった」という意味ではない。

長期間の絶食、暗闇、湿潤環境、感染症、低体温などのリスクを考える必要があり、発見後には医療評価と食料・薬剤の供給が開始された。

そして、ここから救助作戦の性質が変わる。

「捜索」は終わったが、「救助」は始まったばかりだった

7月2日の時点で、一つの重大な疑問には答えが出た。

13人は生きている。

場所も分かった。

だが、救助隊がその場所まで潜って到達できたということは、少年たちも同じルートを通って帰れるという意味ではない。

スタントンとヴォランセンは、世界でも経験豊富な洞窟ダイバーだった。

少年たちには潜水経験がない。

しかも、洞窟の水位は天候によって再び上昇する可能性があった。

13人を見つけるMISSIONは成功した。

しかし次に必要になったのは、

その13人を洞窟内で生かし続けながら、救出可能な環境を作ること

だった。

まとめ|9日間で作られたのは「13人まで届く道」だった

6月23日に13人が行方不明になった後、タイ当局は洞窟内の捜索を開始した。

しかし豪雨によって水位は上がり、捜索隊自身が撤退を余儀なくされる状態が続いた。

国外から洞窟潜水の専門家が加わっても、すぐに13人の場所まで進めたわけではない。

6月29日と30日には強い流れと低視界で前進できず、水位が低下した7月1日になってようやくガイドラインをさらに奥へ延ばすことができた。

7月2日、リック・スタントンとジョン・ヴォランセンはPattaya Beachよりさらに奥へ進み、乾いた高所で少年12人とコーチを発見した。

9日間の捜索で救助側が作り上げたのは、単なる「探索記録」ではない。

地上から13人まで、人員と物資が到達できる経路そのものだった。

そして、その経路は発見後も使い続けなければならない。

食料、薬、呼吸用ボンベ、医師、潜水装備を奥へ運ぶ一方、洞窟には雨水が流れ続ける。

次回は、発見後のもう一つの巨大な作戦を追う。

洞窟の水をどう減らし、奥にいる13人へ酸素と物資をどう届けたのか。


← 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか


第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか【現在の記事】
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか

今回出てきた言葉

【リック・スタントン】
英国の洞窟ダイバー。タムルアン捜索ではジョン・ヴォランセンとともに水没通路の最前線を進み、2018年7月2日に13人を発見した。その後の搬出計画にも中心的に参加した。

【ジョン・ヴォランセン】
英国の洞窟ダイバー。スタントンとともにガイドラインを洞窟奥へ延ばし、少年12人とコーチが避難していた場所へ到達した。

【Chamber 3】
救助作戦で重要な前進拠点となった洞窟内部の区画。物資・ボンベ・人員を奥へ送り込むための中継地点となり、後の搬出作戦でも重要な役割を持った。

【Monks Junction】
洞窟内部の地点名。7月2日朝のBCRCブリーフィングでは、英国人ダイバーらがこの付近まで捜索ルートを延ばしていたと報告された。

【Pattaya Beach】
13人がいる可能性が高いと考えられていた洞窟内部の地点。実際の発見場所はPattaya Beachそのものではなく、そのさらに奥だった。

【パスファインディング】
未確立の洞窟潜水ルートを先頭で探索し、安全に通過可能な経路を見つけていく作業。タムルアンではガイドラインを設置しながら進む必要があった。

【ガイドライン】
洞窟潜水で経路を確認するために設置するライン。濁水で視界を失っても、ラインをたどることで出口方向や進路を確認できる。

出典・参考資料

  • British Cave Rescue Council,
    “Luang Nang Non – Cave Rescue Incident,”
    28 June 2018.

    British Cave Rescue Council
  • British Cave Rescue Council,
    “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – BCRC Update2,”
    2 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • British Cave Rescue Council,
    “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – Supplement,”
    2–3 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • UK Cabinet Office,
    “Civilian Gallantry List: 2019,”
    28 December 2018.

    GOV.UK
  • Australian Government, Emergency Management Australia,
    “Thai Cave Rescue Symposium 2018 – Symposium Report.”

    Australian Government

本記事では、発見までの捜索経路についてBritish Cave Rescue Councilが2018年6月28日・7月2日に公表した同時期資料と、後に英国政府がスタントン、ヴォランセンの活動を記録したCivilian Gallantry Listを優先した。発見地点については資料間に距離表記の差があり、BCRCはPattaya Beachから約200m南側、オーストラリア政府の時系列は約400m先、同政府報告書内でも入口から約2.5km/洞窟系内部約4.7kmという異なる表現が確認できる。そのため、一つの距離を確定値として採用せず、「Pattaya Beachよりさらに奥の乾いた高所」という一致部分を本文の基準とした。また、英国人ダイバー2人の役割を強調する一方で、救助作戦全体はタイ当局の指揮下にあり、タイ海軍特殊部隊や国際支援チームによる排水・ボンベ輸送・後方支援が捜索前進の前提だったことを明記した。

洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3

遭難・救助

2018年7月2日、洞窟の奥で13人全員の生存が確認された。

だが、彼らを見つけたからといって、そのまま救助できる状態になったわけではない。

入口と13人との間には、長い水没区間が残っていた。

そこを通れるのは熟練した洞窟ダイバーだけだった。

少年たちは食事を必要としている。医療評価も必要になる。救出方法を検討する間にも、洞窟には雨水が流れ込む。

そして、ダイバーが奥へ行くためには呼吸用ボンベも必要になる。

つまり発見後の問題は、

「13人をどう救うか」だけではなく、「救うまでの間、この洞窟をどう維持するか」

だった。

タムルアンでは、ポンプで水を排出し、山の上では洞窟へ流れ込む水をそらし、洞窟内部には大量の呼吸用ボンベと物資を配置した。

そしてChamber 3と呼ばれる地点を、洞窟深部へ人員と物資を送り込むための前進基地へ変えていった。

救出成功の前には、巨大な地下ロジスティクスの構築があった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3【現在の記事】
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

先に結論|救助隊は「水を抜く」だけではなく、洞窟を救助可能な状態へ変えていった

タムルアン救助で行われた排水を、「ポンプで洞窟の水を全部抜こうとした」と考えると実態からずれる。

洞窟は巨大で、しかも地上から新しい水が流れ込んでくる。

すべてを完全に乾燥させることは現実的ではなかった。

救助側が必要としていたのは、

  • 洞窟内部の水位を少しでも下げる
  • 流速を弱める
  • 歩いて通れる区間を増やす
  • ダイバーが安全に活動できる条件を作る
  • 再び大量の水が入る速度を遅らせる

ことだった。

並行して、洞窟奥へ呼吸用ボンベ、食料、薬、照明、医療要員を送り続ける必要がある。

そのため、タムルアンの救助活動は大きく、

「水を制御する系統」と「人・物資を送る系統」

の2つに分けて考えると理解しやすい。

FACT CHECK|排水だけで13人を歩かせて出す計画だったのか?

排水は極めて重要だったが、最終的に洞窟全体を乾燥させて13人を歩いて脱出させることはできなかった。

7月8日の時点ではChamber 1~3付近の水位が下がり、一部区間は歩行可能になっていた。

しかし、その奥には依然として水没区間が残っていた。

つまり排水の成果は無意味だったのではない。

救出時に潜水しなければならない距離や、水中作業の難度を減らすことに大きな意味があった。

6月25日|捜索開始とほぼ同時にポンプが持ち込まれた

排水作業は、13人が発見されてから始まったものではない。

オーストラリア政府の「Thai Cave Rescue Symposium 2018」の時系列では、6月25日の段階で激しい雨が続く中、洞窟から水を排出するためのポンプが現場へ持ち込まれたと記録されている。

翌26日、Pattaya Beach方面を目指したダイバーは、流れ込む洪水によって撤退を余儀なくされた。

28日には、本格的なポンプ排水が続けられている。

つまり排水の最初の目的は「少年を救出すること」以前に、

捜索隊が奥へ進める状態を作ること

だった。

実際、6月末に雨が弱まり、水位と流速が低下したことで、英国人洞窟ダイバーらは再び奥へ進むことができるようになった。

地下から水を出すだけでは足りなかった

洞窟の中から大量の水をポンプで排出しても、地上から同じかそれ以上の水が流れ込めば水位は下がらない。

そこで地表側でも作業が行われた。

British Cave Rescue Councilは7月5日、洞窟上部で確認された水の流入口、割れ目、地表水路などから水をそらし、地下へ入る流量そのものを減らす取り組みが進められていると報告している。

考え方は単純である。

地下へ入ってしまった水をポンプで出すだけではなく、

そもそも洞窟へ入る水を減らす。

この2つを同時に行う。

対策 目的
洞窟内部のポンプ排水 すでに洞窟へ入った水を外へ出す
地表水の迂回 新たに地下へ流れ込む水量を減らす
気象監視 再増水の可能性を予測する
水位監視 潜水・歩行可能区間の変化を把握する

タムルアンで行われたのは、「巨大なポンプ1台で洞窟を空にする」ような作業ではない。

多数の設備と人員を使い、流入と排出のバランスを少しずつ救助側へ有利に変えていく作業だった。

数十センチの水位低下にも意味があった

洞窟で水位が下がる意味は、単純な水深の変化だけではない。

通路には高低差がある。

そのため水面が少し下がるだけでも、それまで天井まで完全に水で満たされていた区間に空気の空間が生まれる場合がある。

水中でしか通過できなかった場所が、顔を水面に出して進めるようになることもある。

さらに水圧差や流速が弱まれば、ダイバーの移動も容易になる。

つまり排水量そのものより、

「どの区間の通過条件が変わったか」

の方が救助作戦では重要だった。

7月8日にタイ当局が公表したブリーフィングでは、Chamber 1、2、3の水位が下がり、この区間を歩いて通行できる状態になっていたことが報告されている。

これは最終搬出において大きな意味を持った。

少年を洞窟入口まで全区間潜水させる必要がなくなったからである。

Chamber 3|ただの洞窟空間が「前進基地」になった

第3回でも登場したChamber 3は、救助作戦が進むにつれて重要性を増していった。

13人が発見された場所は、Chamber 3からさらに約1,500m奥だった。

その間には完全水没区間があり、誰でも自由に往来できるわけではない。

一方、入口側からChamber 3までの環境は、排水によって次第に改善されていった。

その結果、Chamber 3は、

  • 洞窟潜水チームの出発・帰還地点
  • 呼吸用ボンベの集積
  • 器材の中継
  • 人員配置
  • 救出された少年の引き渡し
  • 医療搬送への接続

を担う前進基地として機能するようになった。

地上の救助本部から、最奥部まで一つのチームが往復するのではない。

地上からChamber 3までの区間と、Chamber 3から13人までの危険な潜水区間を分割することで、役割を分担できるようになった。

ここで洞窟内部の位置関係を確認しておく。
この記事で重要なのは地上の現在位置ではなく、入口、Chamber 3、さらに奥の水没区間と13人の待機地点が一本の補給線としてどうつながっていたかである。

2018年の洞窟内部ロジスティクスは、地上のGoogle Mapでは表現できない。Royal Thai Navy Medical JournalのFigure 5は、Main entrance、Rescue base(Chamber 3)、Monk’s Junction、Pattaya Beach、Boysの位置関係と水没区間を模式的に示している。図は救助経路を理解するための模式図であり、精密な測量断面図としては扱わない。


Royal Thai Navy Medical Journal「Figure 5|Evacuation route in the cave rescue」を確認する


Australian Government「Thai Cave Rescue Symposium 2018」の時系列を確認する


タイ政府資料でChamber 3の現在の位置づけを確認する

この図で見ると、Chamber 3が単なる途中地点ではなく、地上側の大量輸送と、専門ダイバーだけが担える深部輸送を切り替える境界だったことが分かる。

7月1日|「数百本のエアタンク」が洞窟へ運ばれる

オーストラリア政府の救助検証資料には、7月1日の出来事として、

ダイバーがChamber 3へ到達し、数百本のエアタンクとその他の物資が内部へ引き込まれた

と記録されている。

これはタムルアン救助の規模を理解するうえで重要な記録である。

洞窟ダイバーは、自分が背負っているボンベだけで何度も最奥部まで往復したわけではない。

洞窟内部の各地点へ呼吸用ガスをあらかじめ配置し、必要な場所で使用できるようにする。

捜索範囲が奥へ延びれば、その分だけ補給線も奥へ延ばさなければならない。

つまりガイドラインと同じように、

呼吸用ガスの補給拠点も洞窟の中へ一段ずつ構築されていった。

「酸素ボンベ」と「潜水ボンベ」は同じ意味ではない

タムルアン救助を扱う報道では、「酸素タンク」「酸素ボンベ」「エアタンク」などの表現が混在している。

ここは注意したい。

一般的な潜水用シリンダーに入っているのは、必ずしも純酸素ではない。

通常の潜水では圧縮空気などの呼吸用ガスが使用される。

一方、洞窟内部の空気環境を改善する目的や医療用途では、「酸素」という語が別の意味で登場する。

さらに2018年当時の報道や政府資料でも、「air tank」と「oxygen tank」が厳密に区別されず使用されている例がある。

そのため本シリーズでは、

  • ダイバーが潜水で使うもの:呼吸用ボンベ/潜水用ボンベ
  • 洞窟内空気の問題:酸素濃度
  • 資料が明示的にoxygenと記す場合:資料の表現を注記

として区別する。

「数百本の純酸素ボンベが洞窟へ運ばれた」と断定するのは適切ではない。

FACT CHECK|ボンベには何が入っていたのか?

公開資料の用語は統一されていない。

オーストラリア政府の救助時系列は7月1日の搬入物を「air tanks」としている。一方、米国防総省など一部資料では、サマン・クナンが「oxygen tanks」の搬送に関与したという表現が使われている。

これらの記録だけから、洞窟内へ搬入されたすべてのシリンダーのガス組成を一括して確定することはできない。

そのため、潜水活動用について本記事では原則として「呼吸用ボンベ」と表記する。

13人が見つかると、補給線の役割が変わった

7月2日まで、洞窟内部の補給線は主として「捜索隊を奥へ進ませる」ために使われていた。

13人が発見された後は、そこへ新しい物流が加わる。

少年たち自身を生存させるための物資である。

オーストラリア政府の時系列では、7月3日に、

  • 食料
  • 高カロリーのジェル
  • パラセタモールなどの医療物資

が少年たちとコーチへ届けられたとされている。

英国政府の記録でも、発見後にスタントンやヴォランセンらが複数回潜水し、13人へ物資を運んだことが確認できる。

一度届ければ終わりではない。

救出方法が決まるまで何日かかるか分からないため、補給を継続できること自体が重要だった。

「13人分」だけを運べばよかったわけではない

洞窟内で呼吸用ガスや物資を消費するのは、少年12人とコーチだけではない。

むしろ救助活動中は、数多くの救助要員が洞窟へ出入りしている。

ダイバー、タイ海軍特殊部隊、医療要員、搬送要員、器材輸送要員。

人が増えれば、必要な装備と補給も増える。

さらに洞窟内で長時間活動する人員が増えることは、空間そのものの換気・酸素環境にも関係する。

7月上旬には、13人が待機する洞窟深部の酸素濃度低下が現場の懸念事項として公表されるようになった。

BCRCも7月8日の救出方式を説明した文書で、モンスーン期間を洞窟内で待つ案について、酸素低下と増水リスクを理由の一部として、もはや現実的ではないと説明している。

酸素濃度の低下は「今すぐ窒息する」という意味ではなかった

当時の報道では、洞窟内の酸素濃度が低下していることが大きく取り上げられた。

ここも表現には注意が必要である。

酸素濃度が通常の大気より低くなったからといって、その瞬間に13人が窒息する状態だったという意味ではない。

しかし問題は、いつまで洞窟内に留まる必要があるか分からなかったことである。

数時間なら許容できる環境でも、数週間、数か月同じ場所に多数の人間が滞在する計画なら条件は異なる。

しかも救助要員も出入りする。

再増水によって空気のある空間自体が小さくなる可能性もある。

したがって酸素の問題は、

「今日生きられるか」ではなく、「雨季が終わるまでここで生活できるか」

という長期待機案の成立性を下げる要素だった。

Chamber 3から奥は「物流のボトルネック」だった

救助作戦を物流として見ると、最も難しい部分が見えてくる。

地上からChamber 3まで物を運ぶことと、Chamber 3からさらに奥へ運ぶことでは難度が違う。

奥側には完全水没区間がある。

そこから先へ送れる人員は、洞窟潜水能力を持つ者に限定される。

大きな荷物も自由には運べない。

つまりChamber 3から先では輸送能力が急激に小さくなる。

物流でいう「ボトルネック」である。

区間 主な条件
地上 車両、人員、大型設備を比較的自由に配置可能
入口~Chamber 3 排水後は歩行・搬送可能区間が増加
Chamber 3~洞窟深部 水没区間あり。洞窟ダイバーと特殊な搬送が必要
13人の待機地点 食料・医療・呼吸環境を維持しながら救出を待つ

だからChamber 3に大量の物資を集める意味があった。

そこまでは大人数で運び、

そこから先だけを専門ダイバーが受け持つ。

作業を分割することで、限られた洞窟ダイバーを最も危険な区間へ集中させることができた。

米軍部隊が「最初の3区画」を整備した理由

米国防総省の記録では、タイ政府の要請を受けて米軍要員42人などが救助活動へ参加している。

その役割の一つとして、

洞窟の最初の3つの区画へ器材を配置し、安全に通過できるよう準備すること

が挙げられている。

さらに救出時には、洞窟出口側の区間で少年たちの搬送を支援し、医療要員や技術支援も提供した。

これは、最奥部を潜るダイバー以外にも大きな役割があったことを示す。

最深部で一人の少年を救出しても、洞窟入口まで安全に運べなければ作戦は完了しない。

地下の全ルートを、一つの搬送ラインとして機能させる必要があった。

7月8日|排水の成果が救出ルートを変える

本格救出が始まった7月8日、タイ当局のブリーフィングでは、Chamber 1、2、3の水位が下がり、歩行可能になっていると説明された。

これは重要な変化だった。

もし入口から最奥部までのほぼ全区間が潜水だったなら、少年一人を外へ出す難度はさらに高くなっていた。

実際の搬出では、特に危険な深部の水没区間を洞窟ダイバーが担当し、Chamber 3まで運んだ後、別の人員へ引き継ぐ方式を取ることができた。

排水は「13人が歩いて脱出できるほど水を抜く」という最終目標には間に合わなかった。

しかし、

救助ルートを分割し、潜水が必要な部分を減らすことには成功していた。

それだけでも救出作戦のリスクは大きく変わる。

毎回、物資を元の状態へ戻す必要があった

7月8日から始まった救出は、一日ですべての少年を運び出す作戦ではなかった。

初日に4人が救出された後、作戦はいったん停止された。

オーストラリア政府の事後検証資料では、その停止時間を約10時間とし、酸素・その他の物資を補充するためだったと記録している。

翌日、同じような工程で次の4人を運ぶ。

そのためには、前日に消費したボンベや器材を補充し、再び同じ救助能力を作り直さなければならない。

これは救出MISSIONを理解するうえで重要である。

一人を外へ出せたから、残りも自動的に出せるわけではない。

一回の救出ごとに消費した資源を補給し、システムを再構成する必要があった。

最後まで水との競争は終わらなかった

排水によって救助条件は改善した。

だが、洞窟の水を完全に制御できたわけではない。

英国政府の記録では、救出作戦の終盤に水位が再び上昇し、救助要員は急いで撤退しなければならなかったとされている。

オーストラリア政府の時系列でも、7月10日、最後の少年とコーチが救出された後、洞窟内にいた約145人の救助要員が退避するころにポンプが停止し、水位が急速に上昇したと記録されている。

最終日まで、洞窟は安定した場所になってはいなかった。

救助隊が作っていたのは永久的な安全環境ではない。

天候と機械設備によって成立している、一時的な救出可能時間

だった。

FACT CHECK|ポンプが止まったから救出を急いだのか?

時間関係には注意が必要である。

最後の5人の救出を決定した主因を「ポンプ故障」とするのは適切ではない。

救出作戦はすでに7月8日から実施されており、最終搬出は7月10日に進行していた。

オーストラリア政府資料は、最終救出と救助要員の撤収が行われるころにポンプが停止し、水位が急速に上昇したと記録している。

したがってポンプ停止は、救出開始の原因というより、最後まで作戦に時間的余裕がなかったことを示す出来事として理解するのが適切である。

水・空気・物流は一つの問題だった

排水、酸素、ボンベ、Chamber 3。

一見すると別々の話に見える。

しかし救助作戦では相互につながっている。

水位が高ければ、潜水区間が長くなる。

潜水区間が長ければ、必要な呼吸用ガスが増える。

ボンベが増えれば、奥へ運ぶ人員が必要になる。

人員が増えれば、洞窟内部で必要な空間、時間、補給も増える。

さらに長期間待機するほど、13人がいる空間の酸素や健康状態、モンスーンの再増水を考えなければならなくなる。

つまり一つの条件だけを改善すればよいわけではない。

タムルアン救助で必要だったのは、

水位・潜水距離・人員・呼吸用ガス・食料・医療・時間を一つのシステムとして成立させること

だった。

6月25日から7月10日まで|地下インフラはこう作られた

日付 水・補給・ロジスティクス
6月25日 激しい雨の中、排水用ポンプが現場へ持ち込まれる
6月26日 洪水によりダイバーがPattaya Beach方面から撤退
6月28日 ポンプによる排水を継続。豪雨で捜索自体は制限される
7月1日 Chamber 3までルートが延び、数百本のエアタンクなどを搬入
7月2日 13人を発見。捜索用補給線が生存支援・救助準備用へ変化
7月3日 高カロリー食、薬などが13人へ届く
7月5日 地表の水流を洞窟流入口から迂回させる作業などを継続
7月6~7日 救出用ボンベ・装備・医療体制をさらに構築
7月8日 Chamber 1~3の水位低下。一部歩行可能。最初の4人を救出
7月8~9日 約10時間かけ呼吸用ガス・物資を再補給して次の救出に備える
7月10日 最後の5人を救出。救助要員撤収時にポンプ停止・水位急上昇

まとめ|救出前に「地下の補給路」を作る必要があった

13人は7月2日に発見された。

しかし、発見地点は地上から簡単に物資を届けられる場所ではなかった。

救助隊はその前からポンプを投入して洞窟内部の水位を下げ、地表では新たな流入水を減らす作業を続けていた。

一方、洞窟内部には大量の呼吸用ボンベと器材を運び込み、Chamber 3を前進基地として利用した。

13人が見つかると、その補給線を使って食料と医療物資を届けた。

排水が進んだことで、救出開始時には入口側の一部区間が歩行可能になり、最も危険な潜水区間を深部側へ限定することもできた。

つまりタムルアン救出では、ダイバーが13人を運び始める前に、

「地上から13人まで物資を届け、13人から地上まで人間を運べる地下物流網」

を作る必要があった。

だが、その補給線の維持自体が危険な仕事だった。

7月6日、その危険が最も明確な形で表れる。

洞窟内部へ呼吸用ボンベを運ぶ活動に参加していた元タイ海軍特殊部隊員、サマン・クナンが死亡した。

次回は、プロの潜水経験を持つ救助要員がなぜ死亡するほど、この補給ルートが危険だったのかを追う。


← 第3回|13人はどう発見されたのか


第5回|サマン・クナンの死亡事故 →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか【現在の記事】
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか

今回出てきた言葉

【Chamber 3】
タムルアン洞窟内部の区画。捜索・救出作戦では前進基地として重要な役割を持ち、深部へ向かうダイバー、呼吸用ボンベ、器材などの中継地点となった。救出時には深部から運ばれた少年を別の搬送・医療チームへ引き渡す地点にもなった。

【呼吸用ボンベ】
潜水時にダイバーが呼吸するガスを入れた高圧シリンダー。本記事では資料間で「air tank」「oxygen tank」など表記が一定しないため、ガス組成を確定できない場合は総称として「呼吸用ボンベ」とした。

【排水ポンプ】
洞窟内へ流入した水を外へ排出する設備。タムルアンでは複数のポンプを運用し、水位と流速を下げることで捜索・救出条件の改善を図った。

【地表水迂回】
山上の沢や水路などから洞窟へ流れ込む水を別方向へ導く方法。地下から排水するだけでなく、新たな流入量自体を減らす目的で実施された。

【ボトルネック】
システム全体の能力を制限する最も処理能力の小さい部分。タムルアンではChamber 3より奥の水没区間が、人員・物資輸送の大きな制約となった。

【前進基地】
作戦の最前線近くに設ける人員・物資の中継拠点。Chamber 3は地上と洞窟深部をつなぐ前進基地として機能した。

出典・参考資料

  • Australian Government, Emergency Management Australia,
    “Thai Cave Rescue Symposium 2018 – Symposium Report.”
  • British Cave Rescue Council,
    “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – BCRC Update2,”
    2 July 2018.
  • British Cave Rescue Council,
    “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – Update,”
    5 July 2018.
  • British Cave Rescue Council,
    “More, as key phase begins of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave,”
    8 July 2018.
  • British Cave Rescue Council,
    “Key phase of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave begins,”
    8 July 2018.
  • UK Cabinet Office,
    “Civilian Gallantry List: 2019,”
    28 December 2018.
  • U.S. Department of Defense,
    “DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,”
    9 July 2018.

本記事では「酸素」と「潜水用呼吸ガス」を意図的に区別した。公開資料には潜水用シリンダーをair tankとするものとoxygen tankとするものが混在しており、個々のシリンダーのガス組成を公開資料だけから一律に確定することはできない。そのため、潜水・補給用途については原則「呼吸用ボンベ」と表記した。また、洞窟内の酸素濃度については当時のタイ当局から低下が報告され、BCRCも長期待機案を困難にする要因として「reduced oxygen」を挙げているが、測定地点・測定条件を完全に検証できない数値は本文の確定値として採用していない。排水についても「洞窟を完全に乾燥させた」とはせず、水位・流速を低下させ、歩行可能区間を増やしたという公的記録で確認できる範囲に限定した。

サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか

遭難・救助

2018年7月6日未明。

タムルアン洞窟の救助作戦で、初めて死者が出た。

死亡したのは、元タイ海軍特殊部隊員で、救助活動へ志願して参加していたサマン・クナンだった。

13人の少年とコーチが発見されてから4日後。本格的な搬出作戦が始まる2日前のことである。

クナンは洞窟深部へ向かうルート上に呼吸用ボンベを配置する任務に参加していた。

任務を終えて戻る途中、水中で意識を失った。同行していたダイバーが救命処置を行ったが、蘇生できなかった。

この事故は、タムルアン救出の難しさを一つの事実として突きつけた。

少年たちを外へ出すために使おうとしていたルートで、潜水経験を持つ救助要員自身が死亡した。

そして2日後、そのルートへ潜水経験のない少年たちを通す作戦が始まる。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか【現在の記事】
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

先に結論|「酸素不足で死んだ」だけでは事故を正確に説明できない

サマン・クナンの死亡については、「酸素ボンベの酸素がなくなり死亡した」と短く説明されることが多い。

当時のタイ当局は、クナンが帰路で空気を失い、意識を失ったと説明している。海外主要メディアも、タイ海軍特殊部隊司令官の発表をもとに「lack of oxygen」「ran out of air」などと報じた。

一方で、British Cave Rescue Council(BCRC)が事故当日に公表した声明は、死亡原因の細かなメカニズムについて断定していない。

確認できる中心的な事実は、

  • クナンは元タイ海軍の潜水要員だった
  • 救助作戦へ志願して参加していた
  • 7月5日夜から6日未明にかけて洞窟内部で活動した
  • 呼吸用ボンベを救出ルートへ配置する任務に参加していた
  • 帰路の水中で意識を失った
  • 同行者が救命処置を行ったが蘇生しなかった

というところである。

したがって本記事では、

「ボンベ内の酸素が完全にゼロになったことが医学的に確認された」

といった、公開資料以上に踏み込んだ断定は行わない。

FACT CHECK|サマン・クナンの死亡原因はどこまで分かっているのか

当時のタイ海軍特殊部隊司令官の説明を引用した報道では、クナンは帰路で呼吸用ガスを失い、水中で意識を失ったとされる。

しかし、一般に公開されている救助関係の公的資料からは、

  • シリンダーの正確な残圧
  • 使用していたガスの組成
  • 呼吸用ガスを失った直接原因
  • 機材故障の有無
  • 事故時の生理学的状態

までを確定できない。

したがって、

「帰路で呼吸用ガスを確保できなくなり意識を失い、蘇生できなかった」

という確認可能な範囲を本文の基準とする。

サマン・クナンとは誰だったのか

サマン・クナンは、タイ海軍の特殊部隊で潜水任務を経験した元隊員だった。

2018年のタムルアン救助時には現役隊員ではなく、救助活動へ志願して加わった。

英語資料では名前のローマ字表記が統一されておらず、

  • Saman Kunan
  • Saman Gunan
  • Saman Gunan / Kunan

など複数の表記が確認できる。

本シリーズでは日本語で広く使われる「サマン・クナン」に統一する。

米国防総省も後の救助報告で、クナンを「former Thai Navy SEAL」とし、洞窟内へ呼吸用タンクを届けた後に死亡した人物として追悼している。

彼が参加していたのは、救出作戦の華やかな最終段階ではない。

まだ13人をどう外へ出すかさえ完全には決まっていなかった時期の、補給路を構築する作業だった。

7月2日に13人を発見しても、洞窟内の物流は続いていた

第3回で見たように、13人は7月2日に発見された。

しかし、発見地点とChamber 3の間には長い水没区間が残っていた。

そのため発見後もダイバーは毎日のように洞窟奥へ向かっている。

運ぶものも増えた。

  • 食料
  • 医薬品
  • 照明
  • 潜水器材
  • 救出準備用の器材
  • 呼吸用ボンベ

特に呼吸用ボンベは、洞窟深部で活動するダイバーにとって欠かせない。

一人のダイバーが入口から最奥部までの往復に必要なすべてのガスを背負うのではなく、経路途中へ交換・予備用のシリンダーを配置しておけば、活動範囲と安全余裕を確保しやすくなる。

しかし、そのボンベを配置するためにも誰かが潜って運ばなければならない。

クナンは、その仕事に参加していた。

ここで、Chamber 3と洞窟深部の位置関係を確認しておく。


タムルアン洞窟の入口、Chamber 3、Pattaya Beach、少年たちの発見地点を示す2018年救助ルート概略図
タムルアン洞窟の2018年救助ルート概略図。入口、Chamber 1〜3、T junction、Pattaya Beach、少年たちが発見された区域の位置関係を示す。
出典:Wikimedia Commons「2018 Tham-Luang-cave-map-cropped.png」、Per Meistrup、CC0 1.0。
図はOpenStreetMapと作成者による洞窟経路の概略化に基づき、正確な縮尺図ではない。サマン・クナンが意識を失った正確な地点や、個々のボンベ配置位置を示すものでもない。

事故前日|救出ルートへボンベを配置する

当時のタイ当局の説明を伝えた報道によれば、クナンは7月5日夜、別のタイ人ダイバーとともにChamber 3側から洞窟深部へ向かった。

目的は、今後の救助や潜水活動に備え、呼吸用ボンベをルート上へ配置することだった。

複数の当時報道では、クナンが3本のボンベを運ぶ任務に出たと報告されている。

任務そのものは完了したとされる。

事故が起きたのは帰路だった。

この点は重要である。

洞窟潜水では、目的地点へ到達することだけが成功ではない。

戻ってこられるだけの呼吸用ガス、体力、時間を残して初めて一つの潜水が完了する。

なぜ帰路も危険なのか

地上の登山なら、頂上へ向かう往路より下山の方が身体的に楽な場合もある。

洞窟潜水では、単純に「帰りだから短い」とは言えない。

進んだ距離と同じ距離を戻る必要がある。

途中にある狭窄部も、濁水も、流れも消えない。

さらに往路ですでに、

  • 呼吸用ガス
  • 体力
  • 集中力
  • 時間

を消費している。

必要なガス量を見積もる際も、「目的地点まで届けばよい」では成立しない。

帰路だけでなく、予期しない停止、流れの変化、同行者のトラブルなどに備える予備も必要になる。

その意味で、洞窟潜水ではガス管理そのものが安全設計になる。

洞窟潜水では水面へ逃げられない

タムルアンの水没区間が危険だった最大の理由の一つが、オーバーヘッド環境だったことである。

海や湖の通常のスクーバ潜水なら、状況によっては水面へ緊急浮上できる。

洞窟では頭上に岩がある。

呼吸器に問題が起きても、

真上へ浮上して空気を吸うことはできない。

空気のある区間か出口へ、実際の通路を戻る必要がある。

さらにタムルアンでは濁りが強く、ガイドラインを頼りに進む区間があった。

トラブルが起きた場所から安全な空間まで数十秒で戻れるとは限らない。

クナンの死亡は、こうした環境の中で起きた。

同行者は蘇生を試みた

タイ海軍特殊部隊司令官の説明を伝えた当時報道によれば、クナンは帰還中に意識を失った。

同行していたダイバーが救命処置を行ったが、意識は戻らなかった。

その後Chamber 3へ搬送されたが、死亡が確認された。

報道された時系列では、7月5日夜に任務へ出発し、7月6日未明に死亡したとされている。

つまり、13人の発見からまだ4日しか経っていない。

本格救出が始まる7月8日までは、さらに2日残っていた。

British Cave Rescue Councilが事故当日に強調したこと

事故が報じられた7月6日、British Cave Rescue Councilは声明を発表した。

そこでは細かな死亡原因よりも、この事故が何を意味するかが強調されている。

BCRCは、長い深水区間や完全水没区間を含む洞窟環境そのものが危険であり、クナンの死が13人の救出作戦の難しさを明確に示したとした。

これは重要な視点である。

死亡事故を、

「一人のダイバーがボンベ管理を失敗した事故」

だけに縮小してしまうと、救出ルート全体の危険性が見えなくなる。

当時の救助側が直面していたのは、一人の技量だけでは解決できない環境だった。

「元SEALなら洞窟潜水にも熟練していた」とは限らない

ここには、もう一つ注意すべき点がある。

サマン・クナンが元タイ海軍特殊部隊員だったという事実から、

「世界最高レベルの洞窟ダイバーが死亡した」

と表現するのも正確ではない。

軍事潜水と洞窟潜水は、重なる技術を持つ一方で同じものではない。

洞窟潜水では、

  • オーバーヘッド環境
  • 狭窄部
  • 低視界
  • 長距離のライン追従
  • 複雑なガス管理
  • 出口まで直接浮上できない環境

に特化した経験が重要になる。

BCRCが英国から専門の洞窟ダイバーを派遣した理由もここにあった。

したがってクナンの死を、

「特殊部隊員でも無理だったのだから誰にも不可能だった」

と単純化する必要はない。

一方で、

潜水訓練と体力を持つ救助要員でさえ死亡し得る環境だった

という事実は変わらない。

FACT CHECK|サマン・クナンは現役のタイ海軍SEALだったのか?

事故時には現役隊員ではなかった。

British Cave Rescue Councilはクナンを「volunteer, former Thai Navy diver」と記している。

米国防総省も「former Thai Navy SEAL」としている。

したがって、

「救助任務中に現役タイ海軍SEAL隊員が死亡した」

という表現より、

「元タイ海軍特殊部隊員のサマン・クナンが、志願救助要員として参加中に死亡した」

とする方が正確である。

この事故は救出計画を中止させなかった

クナンの死亡によって、救助隊が潜水救出案を放棄したわけではない。

むしろ救助側が直面していたのは、他の選択肢にも重大なリスクがあるという状況だった。

雨季が終わるまで洞窟内で待つ案には、再増水、酸素濃度低下、長期補給という問題がある。

排水だけで歩いて脱出できる状態になる保証もなかった。

山上から穴を掘る案も、短期間で13人の場所へ到達できる見通しは立っていなかった。

そして強い雨が再び予想されていた。

クナンの死亡事故は、

「潜水救助は危険だからやめればよい」

という単純な結論にはつながらなかった。

救助側は、危険な潜水案と、時間を使うことでさらに条件が悪化する可能性のある他案を比較しなければならなかった。

それが、次の判断へつながる。

事故後も、ルート構築は続いた

7月6日の事故後も、洞窟内部では救出準備が続いた。

British Cave Rescue Councilは翌7日、さらに洞窟救助ダイバーをタイへ追加派遣すると発表している。

7月8日には、

  • 13人の国際ダイバー
  • 5人のタイ海軍特殊部隊ダイバー

からなる救出チームが本格的な搬出作戦を開始した。

つまりクナンが配置作業に参加していた呼吸用ボンベと補給ルートは、その後の救助MISSIONそのものに組み込まれていった。

彼の死は救出作戦とは別に起きた周辺事故ではない。

13人を外へ出すためのシステムを作っている最中に起きた死亡事故

だった。

なぜ、この事故が救出方法の重さを変えたのか

7月6日の時点で救助側が考えなければならなかった対象は、潜水経験のある成人ではない。

少年12人とコーチである。

少年たちの多くには本格的な潜水経験がなかった。

その少年を、

  • 濁った水中
  • 狭い洞窟
  • 完全水没区間
  • 長い移動距離

へ入れなければならない。

しかも、そこで救助要員自身がすでに死亡している。

だからこそ、「少年に短期間でダイビングを教えて自力で泳がせる」という発想だけでは十分ではなかった。

パニックを起こさせないこと。

マスクを外させないこと。

少年自身に複雑な判断をさせないこと。

ダイバーが可能な限り少年の状態を制御すること。

後に採用される救出方法は、こうした制約を一つずつ減らす方向へ設計されていく。

「死亡者1人、13人全員生還」という結果だけでは見えないもの

タムルアン洞窟救助は最終的に、少年12人とコーチ1人の全員生還で終わった。

その成功の強さから、「奇跡の救出」として記憶されやすい。

しかし救助作戦全体で見れば、人的犠牲なしに終わった出来事ではない。

サマン・クナンは、本格救出が始まる前の準備段階で死亡した。

彼が参加していたのは、

他のダイバーが洞窟奥へ入り、その後13人を外へ運ぶために必要な補給線を作る仕事

だった。

この事実を含めて初めて、タムルアン救出の危険度を正確に見ることができる。

7月5日夜から6日未明|確認できる時系列

時点 出来事
7月5日夜 サマン・クナンが別のタイ人ダイバーと洞窟内部へ入る
往路 救助・潜水活動に必要な呼吸用ボンベをルート上へ配置
帰路 クナンが水中で意識を失う
その後 同行者が救命処置を試みる
7月6日未明 蘇生できず、死亡が確認される
7月6日 タイ当局およびBCRCなどが死亡を公表
7月7日 救出準備継続。国外から追加の洞窟救助ダイバーが到着
7月8日 13人を外へ運び出す本格救出作戦が始まる

一部報道では具体的な出発時刻、帰還時刻、ボンベ本数なども報じられている。

ただし、それらはBCRCなどの公的性格の強い資料では詳細確認できない項目もあるため、本記事では事故の理解に不可欠な範囲のみを確定情報として扱っている。

まとめ|サマン・クナンの死が示したのは「救出ルートそのものの危険」だった

サマン・クナンは、元タイ海軍特殊部隊員として潜水経験を持ち、タムルアン救助へ志願して参加した。

7月5日夜から6日未明にかけて、救助ルートへ呼吸用ボンベを配置する作業に参加した。

任務後の帰路、水中で意識を失い、救命処置を受けたものの死亡した。

当時のタイ当局は呼吸用ガスを失ったことを死亡につながった要因として説明している。

しかし公開資料から、事故の細かな機材状態や生理学的メカニズムまで断定することはできない。

確実なのは、その事故が長い水没区間を持つタムルアン洞窟の危険を現実に示したことである。

その2日後。

救助隊は、同じ洞窟から13人を外へ運び始める。

では、なぜこれほど危険な潜水救出を実行することになったのか。

待つことはできなかったのか。

ポンプで水を抜き続ける方法はなかったのか。

山の上から穴を掘る方法は使えなかったのか。

次回は、潜水・待機・排水・掘削という複数の救出案を比較し、なぜ最終的に潜水搬出が選ばれたのかを追う。


← 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか


第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故【現在の記事】
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか

今回出てきた言葉

【サマン・クナン】
元タイ海軍特殊部隊員。2018年のタムルアン洞窟救助へ志願して参加し、救助ルートへの呼吸用ボンベ配置作業後、帰路の水中で意識を失って死亡した。英語ではSaman Kunan、Saman Gunanなど複数の表記がある。

【タイ海軍特殊部隊】
タイ王国海軍の特殊作戦部隊。英語報道ではThai Navy SEALsと呼ばれることが多い。タムルアンでは捜索、物資搬送、洞窟内での少年たちの支援、搬出作戦などに参加した。

【オーバーヘッド環境】
洞窟や沈船など、水面へ直接浮上できない潜水環境。トラブル時にも頭上へ浮上して脱出できず、出口または空気のある区間まで通路を戻らなければならない。

【ガス管理】
潜水中に使用する呼吸用ガスの残量を管理し、往路・帰路・緊急時に必要な量を確保する考え方。洞窟潜水では直接浮上できないため、特に重要になる。

【ステージシリンダー】
長距離潜水などで途中に携行・配置して使用する追加の呼吸用シリンダー。タムルアンでは洞窟深部で活動するダイバーのため、多数の呼吸用ボンベがルート上へ運ばれた。

【洞窟潜水】
水没した洞窟内部を潜水する活動。通常のスクーバ潜水と異なり、水面へ直接浮上できない、視界が極端に悪い、狭窄部があるなどの条件に対応する専門技術が必要になる。

出典・参考資料

  • British Cave Rescue Council,
    “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – Update 5,”
    6 July 2018.
  • U.S. Department of Defense,
    “DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,”
    9 July 2018.
  • British Cave Rescue Council,
    “Further deployment of British cave rescue divers to Thailand,”
    7 July 2018.
  • British Cave Rescue Council,
    “Key phase of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave begins,”
    8 July 2018.
  • Australian Broadcasting Corporation,
    “Thai cave rescue: Former Navy SEAL working to rescue boys dies from lack of oxygen,”
    6 July 2018.
  • Australian Broadcasting Corporation,
    “Thai cave rescue: Boys are told of the death of former Navy SEAL diver Saman Gunan,”
    16 July 2018.

サマン・クナンの死亡について、当時のタイ当局を引用した報道では「lack of oxygen」「ran out of air」などと説明されている。一方、British Cave Rescue Councilの2018年7月6日声明は死亡原因の細かな機序を示さず、長い深水区間・完全水没区間を含む洞窟環境の危険性を強調している。公開された事故調査報告書や機材検証記録を本記事では確認できていないため、「ボンベが完全に空になった」「機材故障があった」などの詳細は確定事実として扱わなかった。またクナンを「現役タイ海軍SEAL」とせず、BCRCおよび米国防総省の表現に合わせて「元タイ海軍特殊部隊員・志願救助要員」とした。軍事潜水経験がどの程度洞窟潜水専門訓練を含んでいたかも公開資料から確定できないため、「熟練洞窟ダイバー」とは表記していない。

13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する

遭難・救助

2018年7月2日、少年12人とコーチ1人は全員生存した状態で発見された。

だが、そこから救助隊は別の難問に直面した。

13人を、どうやって洞窟の外へ出すのか。

入口から発見地点までの途中には、長い水没区間がある。

少年たちには洞窟潜水の経験がない。

だからといって、雨季が終わるまで待てば安全というわけでもなかった。

排水を続ける。

山の上から穴を掘る。

別の入口を探す。

雨季が終わるまで数か月待つ。

少年たちに潜水を教える。

熟練ダイバーが一人ずつ搬出する。

現場では複数の方法が検討された。

問題は、「どれが安全か」ではなかった。

どの案にも重大な危険があり、その中から最も生存可能性の高い方法を選ばなければならなかった。

最終的に選ばれたのは、少年たちを水没区間から潜水で搬出する方法だった。

それは「安全だから」選ばれたのではない。

他の選択肢に使える時間がなくなり、相対的に最もリスクが小さい案になったからだった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する【現在の記事】
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

先に結論|潜水は「安全な案」ではなく「残った中で最も危険が小さい案」だった

7月8日、British Cave Rescue Council(BCRC)は、タイ当局と現地の国際救助関係者から伝えられた救出方針を公表した。

その説明は明確だった。

どの救出方法にもリスクがある。

排水を続け、少年たちが歩いて出られるまで待つ方法は、迫る豪雨によって時間切れになりつつあった。

山上から掘削する方法には、掘削機を現場へ運ぶこと、正確な掘削地点を特定すること、岩盤を不安定化させないことなど複数の問題があった。

雨季が終わるまで洞窟内で待機する案にも、再増水と酸素濃度低下という危険がある。

その結果、

水没区間を潜水して13人を搬出する方法が、残された選択肢の中で「最もリスクが小さい」と判断された。

ここで重要なのは、

「潜水が安全になった」

のではない。

時間の経過によって他の案のリスクが大きくなり、相対的な順位が変わった

ということである。

FACT CHECK|タイ当局は最初から潜水救出を望んでいたのか?

そうではない。

英国政府が後にリック・スタントン、ジョン・ヴォランセンの活動を記録したCivilian Gallantry Listでは、タイ当局は非潜水による方法を望んでいたと明記されている。

しかし、モンスーンの雨が迫り、

  • 救助そのものが不可能になる可能性
  • 少年たちのいる場所まで洪水が達する可能性

が高まった。

そのため最終的に潜水搬出計画が承認された。

つまり、

「最初から潜水救出ありき」ではなく、他案を検討した末の選択だった。

選択肢①|雨季が終わるまで洞窟内で待つ

13人が生きて見つかった直後、最も直感的に安全に思えるのが「洞窟内で待つ」方法だった。

潜水経験のない少年を危険な水中へ入れずに済む。

食料、医薬品、照明などを届け、雨季が終わって水位が下がるまで生活させる。

水が十分引けば、少年たちは歩いて外へ出られる可能性がある。

オーストラリア政府の事後検証報告書でも、

モンスーン期の終わりに洪水が引くまで数か月待つ案

が検討されたことが確認できる。

一見すると、もっとも保守的な方法に見える。

だが、この案は「現在の洞窟環境が数か月維持される」ことを前提としている。

その保証はなかった。

待機案の問題①|さらに大きな雨が来れば、高所まで安全とは限らない

13人がいたのは、水面より高い乾いた空間だった。

しかし、そこが雨季を通して絶対に水没しない場所だと確認されていたわけではない。

モンスーンの本格化によって水位がさらに上昇すれば、利用できる空間が狭くなる可能性がある。

最悪の場合、少年たちのいる場所まで洪水が達する。

英国政府資料も、迫るモンスーンによって少年たちが溺れる可能性まで考慮されていたと記録している。

待つことは「何もしない安全策」ではない。

洪水条件が悪化しないことへ賭ける選択

でもあった。

待機案の問題②|酸素環境を数か月維持できる保証がない

第4回で触れたように、洞窟内部では酸素濃度の低下も問題になっていた。

7月上旬の時点で直ちに全員が窒息する状態だったという意味ではない。

問題は、数か月の長期滞在を計画できる環境だったかどうかである。

13人だけではなく、タイ海軍特殊部隊員や医療要員も洞窟内部へ出入りする。

水位上昇によって空気のある空間が縮小する可能性もある。

BCRCは7月8日のブリーフィングで、雨季を洞窟内部でやり過ごす案について、

狭く崩れやすい岩棚、酸素低下、深刻な洪水リスク

を理由に「もはや実行可能な案とは考えられていない」と説明している。

待機案の問題③|数か月間、潜水補給を続けなければならない

仮に13人のいる空間が洪水から守られたとしても、もう一つの問題がある。

補給である。

食料。

飲料水。

薬。

照明。

通信。

医療。

これらを、雨季終了まで継続して届けなければならない。

しかも発見地点へ行くには水没区間を潜る必要がある。

つまり待機案を選んでも、

危険な洞窟潜水をやめられるわけではない。

少年を運ばない代わりに、救助要員が数か月間、補給のため潜り続ける必要がある。

7月6日には、その補給活動に参加していたサマン・クナンが死亡している。

この事実も、長期間の潜水補給を前提とする案の重さを示していた。

選択肢②|排水を続け、歩いて出られるまで待つ

次に現実性が高かったのが、排水である。

実際、排水は6月下旬から大規模に行われ、成果も出ていた。

水位が下がったことで、捜索隊は7月1日から再び奥へ進めるようになった。

7月8日の救出開始時には、入口側のChamber 1~3付近で歩行可能な区間も増えている。

それなら、さらに数日排水を続ければ、少年たちも歩いて外へ出られるのではないか。

これも合理的に見える。

実際、タイ当局が非潜水方式を希望していた背景には、排水による改善への期待もあった。

排水案の問題|ポンプの能力より雨が強ければ、改善は逆転する

排水の最大の問題は、洞窟が閉じたタンクではないことである。

ポンプで水を出している間にも、山から新しい水が流れ込む。

晴天が続けば水位は下がる。

豪雨になれば、今まで下げた水位が再び上昇する。

BCRCは7月8日のブリーフィングで、

少年たちが歩いて出られるほど水を抜くには、迫る豪雨のため時間がなくなった

と説明している。

直前までの数日間に達成した排水の進展が、大雨によって逆転すると予測されていた。

排水案が技術的に完全失敗したわけではない。

むしろかなり成功していた。

しかし、

「全員が歩いて脱出できるレベルまで水位を下げる」という最終目標へ到達する前に、天候の猶予がなくなった。

FACT CHECK|排水案は失敗だったのか?

失敗ではない。

最終的に少年たちは潜水区間を通る必要があったが、排水によって入口側の水位が下がり、救出ルートの一部を歩行・担架搬送できるようになった。

つまり排水は、

「潜水をゼロにする」ことには間に合わなかったが、「潜水しなければならない区間を減らす」ことには成功した。

潜水救出と排水は競合する二者択一の案ではなく、最終作戦でも併用された。

選択肢③|山の上から穴を掘る

水没区間そのものを通らず、13人がいる場所の上から穴を掘ればよい。

この方法も検討された。

オーストラリア政府の事後検証報告書は、

新しい入口を発見するか掘削するまで待つ案

が検討されたと記録している。

理屈だけなら魅力的である。

穴が13人のいる空間へ直接到達すれば、危険な水没区間を完全に回避できる。

しかし現場は、地上から簡単に大型掘削機を置ける平坦な場所ではない。

掘削案の問題①|正確な真上が分からない

穴を掘るには、まず目的地点を決めなければならない。

地上から見て、

「この地点の真下○mに少年たちがいる」

と十分な精度で位置を確定する必要がある。

しかしタムルアンは複雑なカルスト洞窟である。

BCRCは7月8日、

掘削を向けるための正確な測量済みターゲットが分かっていない

ことを問題として挙げている。

数十m、数百m掘った後に位置がずれていたのでは、時間を失うだけになる。

掘削案の問題②|掘削機を山中へ運べない

掘削地点が特定できたとしても、その場所へ機材を運ぶ必要がある。

BCRCは、山上の密生した植生によって掘削機材を運び込めないことも問題として挙げた。

大型機械を使うには、

  • アクセスルート
  • 安定した設置場所
  • 電力や燃料
  • 掘削土砂の処理

も必要になる。

遭難地点の真上へ道路が通っていたわけではない。

掘削案の問題③|穴を掘ること自体が新しい危険を作る

さらに、岩盤を掘れば必ず安全になるとも限らない。

BCRCは、

  • 少年たちの上部の岩を不安定にする可能性
  • 通路を塞ぐ可能性
  • 洪水を悪化させる可能性

を挙げている。

地下の詳細な地質・空洞配置を十分把握できていない状態で大規模掘削を行えば、

救助用の新しい出口を作るはずが、洞窟そのものを危険にする可能性

もあった。

そして何より、掘削が成功するまでに何日かかるか分からなかった。

時間的余裕が少なくなっていた現場では、この不確実性が大きかった。

選択肢④|別の自然入口を探す

掘削に近い考え方として、山中に別の入口や縦穴がないか探索する方法もあった。

カルスト地形では、洞窟が地表の別の穴とつながっていることがある。

もし13人のいる場所へ通じる入口が見つかれば、水没区間を回避できる可能性がある。

実際、山上では多数の穴や亀裂が調査された。

しかし、

「穴がある」ことと「13人の場所へ通じている」ことは別だった。

狭すぎて人が通れない。

途中で行き止まりになる。

別の洞窟系につながっている。

その可能性もある。

オーストラリア政府資料が「新しい入口が見つかるまで待つ」という表現を使っていること自体、短期間で確実に発見できる方法ではなかったことを示している。

選択肢⑤|「脱出用パイプ」を水没区間へ通す

当時、洞窟内部にパイプやチューブを通し、その中を少年たちが移動できないかという案も提案された。

水そのものを潜らず、外部から作った通路を通ればよいという発想である。

しかしBCRCは7月8日、

この「escape pipes」についても実用上の問題を説明している。

必要なのは、

  • 狭い洞窟を通るほど細い
  • 曲がりくねった通路に追従するほど柔軟
  • 少年と救助要員が中を通れる
  • 鋭い岩との摩擦に耐える
  • 強い水流に耐える

構造だった。

これらを同時に満たすものを短時間で設置することはできなかった。

洞窟は直線的な配管ルートではない。

現場の形状そのものが、この方法を非現実的にした。

選択肢⑥|少年たちに潜水を教えて、自力で泳がせる

オーストラリア政府の事後検証報告書では、

少年たちへ基本的な潜水技術を教え、自力で脱出させる案

も検討されたことが記録されている。

一見すると、最終的に行われた潜水救出と似ている。

しかし決定的な違いがある。

少年自身が潜水を「行う」のか。

それとも熟練ダイバーが少年を「搬送する」のか。

である。

タムルアンの水没区間は、初心者が短期間の練習で通れるような環境ではなかった。

視界が悪い。

狭い。

流れがある。

直接水面へ浮上できない。

長時間マスクを維持する必要がある。

恐怖によってパニックを起こす可能性もある。

「泳げる」ことと「洞窟潜水できる」ことは別だった

少年たちが泳げるかどうかだけでは、この問題は判断できない。

通常の水泳なら、呼吸が苦しくなれば水面に顔を出せる。

洞窟の完全水没区間では、それができない。

マスクを外せば呼吸できなくなる。

パニックでダイバーの動きを妨げれば、少年だけでなく同行する救助者も危険になる。

しかも7月6日には、潜水経験を持つサマン・クナンがこの洞窟で死亡していた。

少年に数日間の訓練を与えただけで、自力潜水を任せるには環境が厳しすぎた。

最終案|少年を「潜水者」ではなく「搬送される人」にする

そこで救助計画の考え方が変わる。

少年自身へ複雑な潜水操作をさせない。

熟練した洞窟ダイバーが一人ずつ担当する。

呼吸には顔全体を覆うフルフェイスマスクを使う。

そして、少年が水中でパニックを起こさないよう麻酔を使用する。

オーストラリア政府の事後検証報告書は、最終的にタイ当局が、

少年たちを鎮静・麻酔下に置き、潜水器材を装着させ、経験豊富なダイバーが浸水洞窟を通して搬送する方法

に同意したと記録している。

これは普通の「潜水訓練による脱出」ではない。

少年を能動的な初心者ダイバーとして扱うのではなく、

水中を搬送される患者に近い状態へ変える

という発想だった。

FACT CHECK|「少年たちを眠らせて引っ張った」だけだったのか?

この表現も単純化しすぎる。

最終方式では麻酔・鎮静が重要な役割を持ったが、それだけでは救出できない。

同時に、

  • フルフェイスマスク
  • 洞窟ダイバーによる個別搬送
  • ガイドライン
  • ルート上の呼吸用ボンベ
  • 狭窄部への対応
  • Chamber 3での引き継ぎ
  • 地上側の医療搬送

が一つのシステムとして必要だった。

麻酔だけを「秘密の切り札」として扱うと、救出作戦全体を誤って理解する。

なぜ7月8日だったのか

救助方法だけでなく、開始日も判断だった。

7月8日、現場責任者のナロンサック・オーソッタナコーンは、

「今日が救出を実行する最良の日」

という判断を示した。

理由は一つではない。

それまでの排水で水位が低下していた。

天候条件も作戦実施を許していた。

国際洞窟ダイバーチームが揃っていた。

救出用器材も準備されていた。

一方で、今後は雨が強まると予測されていた。

つまり7月8日は、

これまでで条件が最も改善している一方、これ以上待てば悪化する可能性が高いタイミング

だった。

意思決定を比較すると見えること

救出案 期待できる利点 主な問題 7月8日時点の評価
雨季終了まで待機 少年を水中へ入れずに済む 再増水、酸素低下、数か月の補給維持 実行困難
排水して歩行脱出 潜水リスクを回避できる 大雨で水位が再上昇する。必要水位まで下がる時間がない 排水は継続するが、単独案として時間切れ
山上から掘削 水没区間を回避可能 位置特定、機材搬入、岩盤不安定化、所要時間 短期救助として不確実
別入口探索 別ルートが見つかれば潜水不要 13人の場所へつながる保証がない 時間内の成功を見込めない
脱出用パイプ 水中へ直接露出せず移動できる可能性 狭さ、曲率、岩、流れ、強度を同時に満たせない 実用困難
少年が自力潜水 既存の水没ルートを使用できる 未経験、低視界、狭窄部、パニック リスクが高すぎる
熟練ダイバーによる搬送 既存ルートを使い、短期間で実行可能 非常に危険。麻酔・特殊装備・高度な洞窟潜水が必要 残った案の中で最もリスクが小さいと判断

「最適解」ではなく「制約下の最善策」だった

タムルアンの救出方法を結果だけから評価すると、

「潜水救出という優れた方法を選んだから成功した」

という単純な物語になりやすい。

実際の意思決定はもっと厳しい。

救助側が欲しかったのは、本来なら少年たちを水中へ入れない方法だった。

だが、時間が進むにつれて、

  • 天候
  • 水位
  • 酸素
  • 補給
  • 掘削の不確実性
  • 少年たちの健康状態

という制約が強くなった。

その結果、

理想的には避けたい潜水方式が、現実的には最も生存可能性を残す方式へ変わった。

これは安全な選択肢を探す問題ではない。

危険な選択肢しか残っていない状況で、その危険をできるだけ制御する問題だった。

リスクは「方法」だけでなく「時間」とともに変わった

この救出で特徴的なのは、同じ案でも日によって評価が変わったことである。

例えば排水。

7月4日なら、さらに排水して水位が下がる可能性を待つ価値がある。

しかし7月8日に大雨が迫っているなら、同じ4日間をもう一度待つことはできない。

待機案も同じだ。

13人が発見された直後には検討可能だった。

しかし酸素問題とモンスーンの予測が加わると、長期待機の危険度が上がる。

掘削も、数週間の猶予があるなら別の評価になったかもしれない。

数日以内に洪水が悪化する可能性がある状況では、不確実な掘削へ時間を使うこと自体がリスクになる。

つまり救出方法の判断には、

「その方法自体の危険度」+「その方法を待つことで失われる時間」

の両方が含まれていた。

潜水案も、最初の状態のまま実行したわけではない

潜水搬出が選ばれたからといって、7月2日に考えた方法をそのまま7月8日に実施したわけでもない。

その間に救助側は、

  • 排水を継続する
  • ルートへ呼吸用ボンベを配置する
  • ガイドラインを整える
  • 追加の洞窟ダイバーを招集する
  • フルフェイスマスクを準備する
  • 少年の搬送方法を検討する
  • 麻酔方法を設計する
  • Chamber 3での引き継ぎ体制を作る

作業を進めた。

つまり最終決定は、

「危険な潜水をそのまま行う」のではなく、「潜水の危険を一つずつ削ったシステムを作ったうえで実行する」

というものだった。

7月8日|決断

BCRCが伝えた現地ブリーフィングによれば、7月8日朝、救出に直接関係しない人員は洞窟入口周辺から退去するよう指示された。

救出作戦開始のためだった。

現場には、

  • 13人の国際ダイバー
  • 5人のタイ海軍特殊部隊ダイバー

からなるチームが準備されていた。

10時30分ごろ、国際洞窟救助ダイバーチームが洞窟へ入った。

この時点でも、成功は保証されていなかった。

BCRCは同日の声明で、作戦を「極めて困難で非常に危険」なものとし、世界有数の洞窟ダイバーが参加していても成功の保証はないと説明している。

それでも実行された。

「絶対に成功する方法」が見つかったからではない。

待つことの方が危険になる時点へ達したから

だった。

FACT CHECK|潜水救出は「最後の手段」だったのか?

意味としては近いが、「他の案をすべて完全に中止してから潜水だけを実施した」と理解すると正確ではない。

救出開始後も排水は続けられた。

地表水の流入を減らす作業も続いた。

つまり最終作戦は、

潜水だけを単独で選んだのではなく、排水・水流制御・補給・医療を継続したうえで、搬出部分に潜水方式を採用した複合策

だった。

この判断を後知恵で評価しない

現在の私たちは、13人全員が生還した結果を知っている。

そのため7月8日の判断を見ると、

「潜水救出を選んだのが正解だった」

と簡単に言うことができる。

しかし、決断した時点では結果は分かっていない。

サマン・クナンはすでに死亡していた。

少年たちには潜水経験がない。

麻酔された子どもを水没洞窟の中で数時間搬送するという方法にも前例がほとんどない。

途中でマスクに問題が起きる可能性もある。

ダイバーがラインを失う可能性もある。

雨が予想より早く強まる可能性もある。

それでも、

何もしないことにも重大なリスクがある。

この条件で決断しなければならなかったことが、タムルアン救助の本質の一つである。

まとめ|「一番安全な方法」は最後まで存在しなかった

13人が発見された後、救助側は複数の方法を検討した。

雨季が終わるまで待つ。

排水を続ける。

別入口を探す。

山上から穴を掘る。

脱出用パイプを設置する。

少年に潜水を教える。

そして、熟練ダイバーが一人ずつ潜水搬出する。

どれにも欠点があった。

待機すれば再増水と酸素低下がある。

排水は大雨が来れば逆転する。

掘削は位置と時間を確定できない。

自力潜水は未経験の少年には危険すぎる。

最終的に残った潜水搬出案も、決して安全ではなかった。

それでも、

「今なら実行できるが、数日後には実行できなくなるかもしれない」

という条件の中で、潜水搬出が最も現実的な選択となった。

7月8日、作戦は始まる。

だが、「潜水で出す」と決めただけでは少年を救えない。

誰が少年を担当するのか。

水中でどう固定するのか。

どこにボンベを配置するのか。

狭い区間をどう通すのか。

Chamber 3まで到達した後、誰へ引き渡すのか。

次回は、13人を一人ずつ外へ運ぶ救出ルートが、実際にどのような工程として設計されたのかを追う。


← 第5回|サマン・クナンの死亡事故


第7回|救出ルートはどう設計されたのか →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか【現在の記事】
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか

今回出てきた言葉

【救出ウィンドウ】
気象、水位、人員、装備など複数の条件がそろい、救出を実行できる限られた時間帯・期間。本件では排水後の低水位と天候の猶予が重なる一方、再びモンスーンの雨が迫っていた。

【非潜水案】
少年たちを水没区間へ潜らせない救出方法。本件では排水による歩行脱出、長期待機、別入口探索、掘削などが検討された。

【掘削】
地上から地下の洞窟へ人工的な穴を掘り、新しい救出経路を作る案。タムルアンでは正確な地下位置、機材搬入、岩盤への影響、必要時間などが問題になった。

【escape pipe】
水没洞窟へパイプ状の脱出経路を設ける案。BCRCによれば、狭さ・柔軟性・強度・岩との摩擦・水流への耐性を同時に満たす構造を実現できなかった。

【フルフェイスマスク】
目・鼻・口を含めて顔全体を覆う潜水用マスク。通常のレギュレーターを口でくわえ続ける方式と異なり、タムルアンでは少年の呼吸装置を安定して維持するため重要な役割を持った。

【リスク比較】
一つの方法だけの危険を見るのではなく、複数案の成功可能性、失敗時の影響、時間制約などを比較して選択すること。タムルアンでは「危険か安全か」ではなく「どの危険を受け入れるか」が問題になった。

出典・参考資料

  • British Cave Rescue Council,
    “More, as key phase begins of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave,”
    8 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • British Cave Rescue Council,
    “Key phase of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave begins,”
    8 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • Australian Government, Emergency Management Australia,
    “Thai Cave Rescue Symposium 2018 – Symposium Report.”

    Australian Government
  • UK Cabinet Office,
    “Civilian Gallantry List: 2019,”
    28 December 2018.

    GOV.UK

本記事の救出案比較は、2018年7月8日にBritish Cave Rescue Councilが公開した現地ブリーフィングを中心資料とした。このブリーフィングでは、排水、掘削、脱出用パイプ、モンスーン期間中の長期待機、潜水について、それぞれの問題点が具体的に説明されている。BCRC自身の単独見解ではなく、同記事はタイ当局と現地国際パートナーから送られた正式ブリーフィングを伝えるものとして掲載されている。またオーストラリア政府の事後検証報告書でも、自力潜水、新入口の発見・掘削、雨季終了までの待機が検討され、排水と一時的な好天によって生じた短い機会に潜水搬出を実施したことが確認できる。なお「潜水が最も安全だった」とはせず、BCRCの表現に沿い、複数の不確実な案の中で「least risky=最もリスクが小さい」と判断されたものとして記述した。

救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送

遭難・救助

2018年7月8日。

タムルアン洞窟から13人を運び出す作戦が始まった。

しかし、「潜水で救出する」と決めただけでは何も解決しない。

少年たちがいた洞窟深部からChamber 3までには、完全に水没した区間、狭い通路、岩の障害、濁った水がある。

少年たちは本格的な洞窟潜水を経験したことがない。

途中でマスクが外れれば、自分で冷静に直せるとは限らない。

恐怖でパニックになれば、少年だけでなく同行するダイバーも危険になる。

そこで救助隊が作ったのは、「少年に洞窟潜水をさせる方法」ではなかった。

少年を一人ずつ、熟練ダイバー、呼吸装置、ガイドライン、途中の支援要員、Chamber 3以降の搬送チームへ順番に受け渡していく救出システムだった。

世界中が注目した最後の3日間は、13人が泳いで洞窟から脱出した出来事ではない。

一人の人間を数kmの洞窟内で途切れなく搬送するため、洞窟そのものを一本の救助ラインへ変えた作戦だった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送【現在の記事】
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

先に結論|「13人を泳がせる」のではなく、洞窟全体を搬送ラインにした

タムルアン救出の構造を簡略化すると、次のようになる。

区間 主な役割
13人の待機地点 医療評価、潜水装備の装着、搬出準備
洞窟深部~Chamber 3 専門洞窟ダイバーが少年を水没区間から搬送
ルート途中 支援ダイバー、呼吸用ボンベ、ガイドラインによって搬送を維持
Chamber 3 深部潜水チームから医療・地上側搬送チームへ引き渡す
Chamber 3~入口 歩行・担架などを組み合わせて地上へ搬送
洞窟入口以降 医療処置、救急搬送、病院へ移送

ここで、少年たちの待機地点からChamber 3、洞窟入口までの位置関係を確認しておく。


2018年タムルアン洞窟救出の概略ルート図。少年発見地点、Pattaya Beach、Chamber 3、Chamber 2、Chamber 1、洞窟入口を示す

救出ルート図|少年発見地点 → Chamber 3 → 洞窟入口
少年たちがいた洞窟深部、Chamber 3、入口の相対位置を確認するための概略図。
この図は2018年7月11日に作成された概略図で、正確な測量図・断面図ではない。
水没区間の長さ、ガイドライン、呼吸用ボンベ、支援ダイバーの配置をこの図から推定しない。
Chamber 3が深部潜水工程と入口側搬送工程の境界として機能したことは、
英国政府の救助功績記録およびBritish Cave Rescue Council系資料と照合している。
画像:Per Meistrup / Wikimedia Commons / CC0 1.0

英国政府の救助関係者功績記録によれば、少年たちは一人ずつ鎮静・固定された状態で洞窟深部からChamber 3まで運ばれ、そこで米軍医療チームへ引き渡された。

一人の搬出には、洞窟全体を通して約7時間を要したと記録されている。

重要なのは、この7時間を一人のダイバーだけで完結させる仕組みではなかったことである。

最深部を担当する熟練ダイバー、その途中を支援するダイバー、Chamber 3の医療・搬送要員、入口側の人員が役割を分担していた。

救助ライン全体をつないだことで、世界でも限られた人数しかいない洞窟ダイバーを、最も専門性が必要な水没区間へ集中させることができた。

FACT CHECK|少年1人をダイバー1人で運んだのか、2人で運んだのか?

資料の表現は一見異なる。

2018年7月8日にタイ当局と国際パートナーが出した公式ブリーフィングでは、少年1人に2人のダイバーが同行すると説明された。

一方、救出後のBritish Cave Rescue Councilの記録では、少年はそれぞれ英国人ダイバー1人によって潜水搬送され、途中に配置された支援ダイバーを通過したと説明されている。

英国政府の功績記録でも、各少年を主担当のダイバーが障害物の多いルートへ導いたという表現になっている。

したがって本記事では、

「少年1人に対して複数ダイバーで安全を確保し、そのうち1人の主担当ダイバーが少年を直接扱う」

という構造として整理する。

「少年1人を最初から最後まで2人が左右から抱えて泳いだ」とまでは断定しない。

第1段階|まず少年を「潜水者」ではなく「搬送対象」にする

通常のダイビングでは、潜水者本人が呼吸器、姿勢、浮力、進路を管理する。

タムルアンでは、それを少年たちへ要求すること自体が大きなリスクだった。

そこで救出計画では、少年側が行う操作を可能な限り減らした。

少年にはウェットスーツと潜水装備を装着し、顔全体を覆うフルフェイスマスクを使用した。

医学論文では、使用されたマスクは陽圧を維持する機能を持つタイプで、呼吸用ガスを少年へ供給したことが記録されている。

通常のスクーバ用レギュレーターのように、マウスピースを自分の口でくわえ続ける必要がない。

少年が意識的に呼吸器を保持するという作業を減らせることは、大きな利点だった。

そして、最大の問題だったパニックを抑えるため、少年たちは麻酔下で搬送された。

この医療面については次回詳しく扱う。

フルフェイスマスクは「便利な装備」ではなく生命維持装置だった

洞窟の完全水没区間では、マスクが外れることは重大事故につながる。

少年自身が冷静に予備呼吸器へ交換できることを前提にはできない。

そのため、顔全体を覆うマスクを安定して装着することが救助計画の重要部分になった。

2020年に救助参加医師らが発表した医学論文では、使用されたフルフェイスマスクがInterspiro Divatorだったことが記録されている。

このマスクには呼吸サイクルを通して内部をある程度陽圧に保つ機能があり、救助成功に寄与した可能性が検討されている。

ただし、タムルアンで成功したからといって、

「意識のない人間にフルフェイスマスクを付ければ安全に潜水搬送できる」

という一般論にはできない。

医学論文自身も、極めて特殊な条件下での成功を他の潜水状況へ単純に一般化することへ注意を促している。

約2.6kmのうち、約1.1kmが完全水没区間だった

救助参加医師らによる後年の医学論文では、13人は約2.6kmの洞窟ルートを通って搬出され、そのうち約1.1kmが完全に水没した区間だったと整理されている。

この数字から重要なのは、「2.6km全部を泳いだ」ということではない。

洞窟内部には、

  • 完全水没区間
  • 水面のある区間
  • 乾いた場所
  • 岩場
  • 高低差

が混在していた。

したがって救出方法も一種類ではない。

水中ではダイバーが少年を扱い、乾いた区間では別の搬送方法へ移す。

そして再び水没区間へ入れば、潜水装備が必要になる。

「潜水救出」と呼ばれていても、実際には水中搬送と陸上搬送を連続して切り替える複合ルートだった。

第2段階|ガイドラインを「一本の道路」として使う

ダイバーが少年を運ぶ際、最も基本的な経路情報になるのがガイドラインだった。

捜索段階から英国人洞窟ダイバーらは、Chamber 3から13人の場所へラインを延ばしていた。

発見後も、そのラインは物資輸送と救出ルートとして使用された。

濁った水中では、前方がほとんど見えないことがある。

壁や天井だけを頼りに進めば、分岐や方向を見失う可能性がある。

そこでダイバーはガイドラインを基準にする。

ラインがあることで、

  • 出口方向
  • 進行方向
  • 既知の安全ルート

を触覚で確認できる。

タムルアンでは、少年を運んでいる最中にダイバー自身が経路探索をする余裕はない。

捜索段階で作られたラインが、救出段階では地下の固定された搬送経路へ変わった。

第3段階|呼吸用ボンベを途中へ配置する

約1.1kmの完全水没区間を含むルートを往復するには、呼吸用ガスの管理が不可欠だった。

そこで第4回で見たように、多数の呼吸用ボンベが洞窟内部へ運ばれ、ルート上へ配置された。

ダイバーが最初から最後まで必要なすべてのガスを背負うのではなく、途中で使用できるシリンダーをあらかじめ配置する。

これによって、

  • 長距離移動への対応
  • 予備ガスの確保
  • 救出を繰り返すための再補給

が可能になる。

しかし、ボンベを置けば終わりではない。

少年を4人救出すれば、消費した資源を次の日までに再配置しなければならない。

7月8日、9日、10日の救出が分割された背景には、こうした補給システムの再構成もあった。

第4段階|ルート途中に支援ダイバーを配置する

British Cave Rescue Councilの救出後の記録では、少年を担当した英国人ダイバーは、洞窟ルートの途中に戦略的に配置された支援ダイバーの前を通過しながらChamber 3へ向かったとされている。

これは非常に重要な構造だった。

何か問題が起きたとき、主担当ダイバーが完全に一人で対処しなければならない状態を避けることができる。

また、呼吸用ボンベの交換やルート上の支援を分担できる。

最深部へ行く能力を持つ人数が限られていても、洞窟内部の適切な地点へ別のダイバーを配置することで、救出ルート全体の冗長性を高めることができる。

産業設備で例えるなら、一本の長い工程を一人の作業者へ任せるのではなく、工程ごとに支援・監視・引き継ぎ点を配置する考え方に近い。

タムルアンでは、その工程が水没した洞窟内部に作られていた。

13人全員に同じルートを繰り返す必要があった

救出計画でさらに難しかったのは、一人を成功させれば終わりではないことである。

少年12人とコーチ1人。

同じ作戦を13回成立させなければならない。

一人目で呼吸用ボンベを大量に消費し、器材が不足すれば二人目を出せない。

ルート上のラインが損傷すれば次の搬送に影響する。

支援ダイバーが疲労すれば、同じ体制を維持できない。

救出MISSIONとして必要なのは、

一人の奇跡的な成功ではなく、再現できる工程を13回繰り返すこと

だった。

だからこそ救助隊は、実際の救出前に装備と搬送方法を確認し、作戦手順を練習している。

FACT CHECK|救出方法は本番で初めて試したのか?

違う。

7月8日のタイ当局公式ブリーフィングでは、救出作業は本番前に練習済みと説明されている。

救助関係者の後年の記録では、少年に使用するフルフェイスマスクや搬送方法についても事前確認が行われたことが分かっている。

ただし実際の洞窟内部には、

  • 完全水没
  • 狭窄部
  • 濁水
  • 長時間の搬送

があり、地上での練習によって実環境のすべてを再現できたわけではない。

したがって「訓練済み=安全が確認済み」ではなかった

誰が最深部から少年を運んだのか

英国政府の功績記録では、ジェイソン・マリンソンを含む4人がcore recovery divers、つまり少年を最深部から回収する中核ダイバーとして活動したことが記録されている。

マリンソン自身は、3日間の救出で3人の少年とコーチの搬出を担当したと英国政府資料に記されている。

また、リック・スタントン、ジョン・ヴォランセンらも計画と実行で中心的役割を担った。

British Cave Rescue Councilによれば、毎日の先頭グループには4人の英国人ダイバーと2人のオーストラリア人が入り、そのうち一人は麻酔科医リチャード・ハリスだった。

重要なのは、彼らが「洞窟へ入って少年を見つけた人」と「外へ運ぶ人」に完全に分かれていたわけではないことである。

捜索、物資搬入、ルート確認、救出計画、実際の搬出まで、一部の専門ダイバーは複数段階に関与していた。

Chamber 3が救出システムの境界だった

救出ルート全体で、Chamber 3は決定的に重要な場所だった。

ここより奥は、専門的な洞窟潜水能力が必要な領域だった。

一方、排水によってChamber 1~3付近の水位は下がり、7月8日の公式ブリーフィングでは歩行可能な状態になっていると説明されている。

そのため、深部担当ダイバーが少年を入口まで直接運ぶ必要はなかった。

英国政府記録では、

少年は一人ずつChamber 3まで運ばれ、そこで米軍医療チームへ引き渡された。

この引き渡しによって、世界的にも数が限られる洞窟ダイバーを深部ルートへ戻すことができる。

Chamber 3は単なる休憩地点ではない。

専門洞窟潜水工程と、地上側の救急搬送工程を分けるインターフェース

だった。

米軍要員は何を担当したのか

米国防総省によれば、タイ政府の要請を受け、米軍から42人の要員と軍事顧問が救助活動へ参加していた。

米軍要員は、

  • 洞窟の最初の3つの区画へ装備を配置する
  • 安全な通過のための準備を行う
  • 救出された少年を洞窟出口側へ搬送する
  • 医療要員を提供する
  • 技術支援を行う

役割を担ったとされている。

これは、「英国人ダイバーが少年を洞窟入口まで泳いで連れ出した」というイメージとは異なる。

深部からChamber 3までと、その先では役割が変わっていた。

救出は国際チームによるリレーだった。

水中を抜ければ終わりではない

少年がChamber 3へ到達した時点でも、洞窟の外に出たわけではない。

そこから入口方向へさらに運ばなければならない。

排水によって水中区間は大幅に減っていたものの、洞窟内には岩場、泥、高低差が残っていた。

米国防総省が「final chambersでのtransport」を支援したと記録しているように、入口側でも複数人による搬送作業が必要だった。

そして洞窟外へ出ると、少年は医療チームへ渡され、低体温や呼吸、循環などの評価を受けた。

その後、救急車やヘリコプターなどを使ってチェンライ・プラチャヌクロ病院へ移送された。

つまり救出の終点は、洞窟入口ではない。

洞窟深部から病院までが一続きの搬送系統

だった。

水中では少年の状態をどう確認したのか

この点は一般的な救急搬送とは大きく異なる。

麻酔下にある少年は、

「苦しい」

「マスクがずれた」

と自分で訴えることができない。

しかも水中では通常の医療モニターを使える環境ではない。

救出ダイバーは、少年が呼吸していることを確認しながら進まなければならなかった。

英国政府記録では、ダイバーたちは搬送途中に必要となる再鎮静について医療指導を受けたとされている。

つまり救出ダイバーには、

  • 洞窟潜水
  • 経路管理
  • 少年の保持
  • 呼吸状態の確認
  • 必要に応じた薬剤追加

という通常の洞窟潜水にはない仕事まで要求された。

この医療面が、第8回の中心になる。

約7時間の搬送で最大の問題は「途中で止められない」ことだった

英国政府の功績記録では、一人の少年を洞窟から搬送する行程に約7時間を要したとされている。

地上の救急搬送なら、患者の状態が悪化すれば車を止め、医療処置を行うことができる。

水没洞窟では同じことができない。

場所によっては天井まで水が満たされている。

少年の状態に問題が起きても、十分な作業空間がある場所まで移動しなければ対応できない可能性がある。

そのためタムルアンの救出計画では、

「問題が起きたら対処する」より、「問題が起きにくい状態を最初から作る」

ことが重要だった。

フルフェイスマスク。

麻酔。

ガイドライン。

主担当ダイバー。

支援ダイバー。

途中の呼吸用ボンベ。

Chamber 3での引き継ぎ。

これらはすべて、長い搬送中の不確実性を減らすための層だった。

救出システムを「防護層」として見る

タムルアンの救出は、複数の安全策が重なる構造になっていた。

リスク 主な対策
少年がパニックになる 麻酔・鎮静
呼吸器を保持できない フルフェイスマスク
濁水で経路を失う ガイドライン
長距離で呼吸用ガスが不足する ルート上へボンベを配置
主担当ダイバーだけでは対応できない 同行・支援ダイバーを配置
専門ダイバーが入口側搬送まで拘束される Chamber 3で別チームへ引き継ぐ
水没区間が長い 排水を継続して歩行可能区間を増やす
搬送後の低体温・呼吸循環問題 洞窟外の医療チームと病院搬送

一つの対策ですべての事故を防いだわけではない。

複数の防護層を重ね、

一つの異常が直ちに死亡事故へつながる可能性をできるだけ下げる

よう設計された。

この意味で、タムルアンの救出は「優秀なダイバーが頑張った」というだけでは説明できない。

人員、装備、医療、物流、排水を組み合わせたシステム設計だった。

FACT CHECK|13人全員が自分で泳いで洞窟を出たのか?

違う。

後に救助参加医師らが発表した医学論文では、13人は麻酔された状態でフルフェイスマスクを装着し、約2.6kmの洞窟ルートのうち約1.1kmの完全水没区間を通って搬出されたと記録されている。

英国政府資料でも、少年たちは鎮静・固定された状態で、一人ずつダイバーによってChamber 3まで運ばれたとされている。

したがって、

「短期間でダイビングを覚え、自力で脱出した」

という説明は事実と異なる。

最深部から地上まで|救出ラインを整理する

工程 何をしたか
① 医療評価 少年の健康状態を確認し、搬出可能か判断
② 装備 ウェットスーツ、フルフェイスマスクなどを装着
③ 麻酔 水中パニックを防ぐため麻酔下に置く
④ 深部潜水 主担当の専門洞窟ダイバーが少年を搬送
⑤ ルート支援 ガイドライン、支援ダイバー、呼吸用ボンベで搬送を維持
⑥ Chamber 3 深部チームから医療・地上側搬送チームへ引き渡す
⑦ 入口側搬送 歩行可能区間などを使い洞窟外へ運ぶ
⑧ 現場医療 呼吸・循環・低体温を評価し処置
⑨ 病院搬送 救急車・航空搬送等で病院へ移送

この一連の工程を、一人ずつ繰り返す。

7月8日に4人。

7月9日に4人。

7月10日に少年4人とコーチ。

3日間で合計13回。

救出ルートそのものは基本的に同じだったが、毎回ボンベ、薬剤、器材、人員を整えて再実行する必要があった。

なぜ一気に13人を運ばなかったのか

一度に全員を出せれば、モンスーンに対する時間的リスクは小さくなる。

しかし実際には3日間に分けられた。

理由の一つが、救出ラインで使用する資源の再準備である。

呼吸用ボンベは消費される。

ダイバーは長時間の潜水で疲労する。

薬剤や医療物資も補給する必要がある。

また、初日の4人を実際に搬出したことで、医療チームは低体温など新たな問題を把握し、翌日の対応を改善した。

つまり3日間は同じ作戦を機械的に繰り返したのではない。

1日目の実績を次の救出へ反映しながら、システムを再構成して繰り返した

のである。

この作戦で「英雄」を一人に決めることが難しい理由

タムルアン救出では、リック・スタントン、ジョン・ヴォランセン、リチャード・ハリスなどの名前がよく知られている。

彼らの役割が極めて重要だったことは間違いない。

しかし、救出ラインの構造を見ると、一人の技術だけでは成立しなかったことも分かる。

英国人洞窟ダイバー。

オーストラリアの医師・洞窟ダイバー。

タイ海軍特殊部隊。

米軍の救助・医療要員。

排水担当者。

山上で水をそらした作業者。

洞窟内へボンベを運んだ人々。

入口側で担架を運んだ多数の要員。

これらが一つのルート上で接続されて、初めて少年一人を地上へ出せた。

救出の中心にいたのは専門ダイバーだが、

成功したのは個人技ではなく、個人技を組織的な搬送システムへ組み込めたから

だった。

まとめ|救助隊が作ったのは「洞窟から病院までの一本の工程」だった

タムルアンの13人は、単純にダイバーの後ろを泳いで洞窟から出たわけではない。

少年たちは潜水装備を装着し、麻酔下で一人ずつ搬送された。

完全水没区間では、専門の洞窟ダイバーが主担当となった。

濁った水中では、すでに設置されたガイドラインが進路となった。

長距離潜水を支えるため、呼吸用ボンベがルート上へ配置された。

途中には支援ダイバーが置かれた。

そしてChamber 3へ到着すると、深部潜水チームから医療・地上側搬送チームへ少年を引き渡した。

そこから洞窟入口、現場医療、病院へと搬送が続く。

つまり救助隊が設計したのは、

「少年を潜らせる方法」ではなく、「洞窟深部にいる一人の患者を、途中で生命維持を途切れさせず地上の病院まで運ぶ工程」

だった。

だが、この設計には一つ異例の要素が残っている。

なぜ少年たちは意識のある状態で運ばれなかったのか。

なぜ麻酔を使う必要があったのか。

そして、水中にいる麻酔患者の呼吸をどう守ったのか。

次回は、タムルアン救出でも最も特殊な判断の一つ、

ケタミンによる麻酔とフルフェイスマスクを使った救出医療

を詳しく追う。


← 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか


第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか【現在の記事】
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか

今回出てきた言葉

【フルフェイスマスク】
目・鼻・口を含む顔全体を覆う潜水用マスク。タムルアンでは麻酔下の少年に呼吸用ガスを供給する重要な生命維持装備となった。

【Interspiro Divator】
救出参加医師らの医学論文で、タムルアン救出に使用されたとされるフルフェイスマスク。マスク内部を一定程度陽圧に保つ「safety pressure」機能を持つ。

【ガイドライン】
洞窟潜水で経路を示すライン。濁水で視界を失っても、ラインを触って出口方向や既知のルートを確認できる。

【支援ダイバー】
ルート途中などに配置され、主担当ダイバーの移動、ボンベ、緊急時対応などを支える潜水要員。タムルアンでは最深部担当だけでなく、多数の支援ダイバーが救出ラインを構成した。

【core recovery diver】
洞窟深部から少年を直接搬出する中核ダイバー。英国政府の功績記録では、ジェイソン・マリンソンら4人についてこの表現が使われている。

【Chamber 3】
洞窟深部の潜水工程と入口側の搬送工程をつなぐ重要な中継地点。少年はここで深部側ダイバーから医療・搬送チームへ引き渡された。

【オーバーヘッド環境】
頭上が岩盤などで閉ざされ、水面へ直接浮上できない潜水環境。洞窟潜水では異常時にも出口まで通路を戻る必要がある。

出典・参考資料

  • UK Cabinet Office,
    “Civilian Gallantry List: 2019,”
    28 December 2018.
  • British Cave Rescue Council,
    “Key phase of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave begins,”
    8 July 2018.
  • British Cave Rescue Council,
    “A tense but joyful outcome for the cave rescue at Tham Luang Nang Non Cave,”
    10–11 July 2018.
  • U.S. Department of Defense,
    “DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,”
    9 July 2018.
  • Lawthaweesawat C, Harris R, Isara W, Pongpirul K.,
    “Prehospital Care of the 13 Hypothermic, Anesthetized Patients in the Thailand Cave Rescue,”
    New England Journal of Medicine,
    2019;380:1372–1373.
  • van Waart H, Harris RJ, Gant N, et al.,
    “Deep anaesthesia: The Thailand cave rescue and its implications for management of the unconscious diver underwater,”
    Diving and Hyperbaric Medicine,
    2020;50(2):121–129.

本記事では、救出ルートの役割分担について資料間の表現差を隠さず整理した。2018年7月8日のタイ当局・国際パートナー合同ブリーフィングは「少年1人に2人のダイバーが同行」としている一方、救出後のBritish Cave Rescue Council記録は「各少年を英国人ダイバーが潜水搬送し、途中に戦略的に配置された支援ダイバーを通過した」と説明している。英国政府の功績記録も、少年を直接扱う主担当ダイバーとChamber 3での引き継ぎを確認できる。このため、本記事では「2人が常に左右から抱えて全行程を泳いだ」と断定せず、主担当ダイバーを中心に複数の同行・支援要員が救出ラインを構成したものとして記述した。また医学論文にある約2.6km/完全水没約1.1kmという数値は、救出医師らによる後年の記録として扱い、洞窟内のすべての距離表記をこの数値へ統一してはいない。麻酔薬の種類・投与方法・薬理作用については第8回で詳述するため、本記事では救出システム上の役割に限定した。

なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療

遭難・救助

潜水経験のない少年を、濁った水で満たされた洞窟へ入れる。

前はほとんど見えない。

頭上は岩で閉ざされ、苦しくなっても水面へ浮上することはできない。

途中には狭い通路があり、出口まで数時間かかる。

ここで少年が恐怖から暴れたらどうなるのか。

フルフェイスマスクを外す。

身体を岩へぶつける。

ガイドラインやダイバーへ絡む。

そうなれば、少年だけでなく救助するダイバーまで危険になる。

タムルアン洞窟救助で選ばれた解決方法は、通常の救急医療ではほとんど考えられないものだった。

少年たちを全身麻酔下に置き、呼吸だけを維持したまま水没洞窟の中を運ぶ。

主に使用された麻酔薬はケタミン。

顔には陽圧式のフルフェイスマスク。

そして、少年を担当する洞窟ダイバー自身が途中で追加のケタミンを注射した。

「眠らせて運んだ」という一文では、この救出がどれほど異例だったのかは分からない。

タムルアンでは、麻酔科医なら通常避けようとする条件を重ねたまま、13人を水中へ送り出さなければならなかった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療【現在の記事】
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

先に結論|必要だったのは「軽い鎮静」ではなく全身麻酔だった

タムルアン救出について、「少年たちは鎮静剤を投与されて救出された」と説明されることがある。

しかし救出に参加した麻酔科医リチャード・ハリスらが後に発表した医学論文は、この表現を明確に区別している。

少年たちは、

  • 眠っている
  • 呼びかけに反応しない
  • 目的を持った身体運動を示さない

状態に置かれていた。

医学的には単なる軽い「鎮静」ではなく、全身麻酔に相当する深い麻酔状態だった。

なぜ、そこまで意識を落とす必要があったのか。

中途半端に意識が残っている方が、タムルアンでは危険だったからである。

もし少年が途中で覚醒し、自分が暗い水中にいることを理解したら、パニックを起こす可能性がある。

手足を動かす。

マスクへ手を伸ばす。

救助ダイバーへしがみつく。

狭い水没通路でこれが起これば、状況を立て直す場所そのものがない。

そこで救助計画は、

少年に何も操作させず、何も判断させず、呼吸だけを自発的に続けさせた状態で運ぶ

という方向へ進んだ。

FACT CHECK|「鎮静」と「全身麻酔」は同じなのか?

同じではない。

鎮静には、呼びかければ反応できる軽い状態から、強い刺激にしか反応しない深い状態まで幅がある。

一方、タムルアン救出に関する医学論文は、少年たちが眠り、呼びかけへ反応せず、目的のある動きを示さなかったことから、意図的にanaesthetised=麻酔されたという表現を使っている。

後年の医学倫理論文も、「sedated」という一般的表現は正確ではなく、救出時には少年たちを完全に意識のない状態へ置く必要があったと指摘している。

したがって本シリーズでは、

「鎮静された少年」ではなく「全身麻酔下で搬送された少年」

を基本表現とする。

なぜ意識を残してはいけなかったのか

通常なら、患者の意識がある方が安全と思える。

異常を本人が伝えられる。

呼吸器に問題があれば、自分で対応できる可能性もある。

しかし、それは十分な訓練を受け、状況を理解している潜水者の場合である。

タムルアンの少年たちは違った。

突然、

  • 光のない水中
  • 岩に囲まれた狭い空間
  • 濁って何も見えない環境
  • 自力では浮上できない場所

へ入れられる。

しかも水没区間は短時間では終わらない。

一度パニックを起こすと、「少し休んで落ち着かせる」ことさえ難しい。

完全水没した通路では、立って呼吸できる場所がないからである。

救出計画にとって最も避けなければならなかったのは、

少年が水中で制御不能になること

だった。

なぜケタミンだったのか

最終的に中心となった麻酔薬がケタミンだった。

ケタミンは一般の人には「強い鎮静薬」という印象があるかもしれないが、医療では麻酔にも使用される薬剤である。

タムルアンの特殊条件に対して、いくつか重要な利点があった。

ケタミンの特徴 タムルアンでの意味
筋肉注射で投与可能 静脈ラインを維持しながら洞窟を搬送する必要がない
比較的広い治療域 通常の手術室ほど精密な監視ができない環境で使いやすい
自発呼吸を比較的維持しやすい 人工呼吸器を使用できない水中搬送で重要
循環抑制が比較的小さい 連続した血圧監視が困難な環境に適する
筋肉注射後の作用時間 洞窟内で一定時間麻酔を維持しやすい

とりわけ重要なのが、自発呼吸を維持しやすいという特徴だった。

通常の全身麻酔なら、患者の呼吸が弱くなれば人工呼吸を行う。

気管にチューブを入れて気道を確保する場合もある。

タムルアンの水中では、そのような管理を続けられない。

少年自身に呼吸を続けてもらうしかなかった。

ケタミンは、その条件に比較的適した麻酔薬だった。

FACT CHECK|ケタミンなら呼吸が絶対に止まらないのか?

そうではない。

ケタミンは他の一部の全身麻酔薬と比較して自発呼吸や気道反射を維持しやすいが、呼吸への影響がゼロになる薬ではない。

実際、救出参加医師らの記録では、フルフェイスマスクを装着し水へ顔を入れた際などに、少年が一時的に息を止めた、あるいは無呼吸のように見えた例があった。

その際にはマスクのレギュレーターにあるパージ機能を短時間作動させ、陽圧の呼吸を与える対応が行われた。

つまりケタミンは、

「呼吸停止の心配がない薬」ではなく、この特殊条件で他の選択肢より扱いやすいと判断された麻酔薬

だった。

麻酔前にはアルプラゾラムも使われた

救出参加医師らの2020年の報告では、搬出対象となった少年は、まず経口でアルプラゾラム0.5mgを投与された。

アルプラゾラムはベンゾジアゼピン系薬剤で、不安を抑える作用を持つ。

目的は、

  • 麻酔導入前の不安を減らす
  • 麻酔中に意識が戻った場合の記憶や不快感を抑える

ことだった。

より大量の投与や作用時間の長い薬剤は、呼吸抑制を強める可能性を考えて避けられた。

つまり救出医療は「ケタミンを打つ」だけではない。

麻酔へ入る前の心理状態まで含めて設計されていた。

アトロピンは何のために使われたのか

次に使用されたのがアトロピンだった。

ケタミンには唾液などの分泌を増やすことがある。

通常の手術室なら吸引装置などで対応できる。

しかし水中では、口や気道の分泌物を自由に吸引することはできない。

そこで麻酔科医リチャード・ハリスは、ケタミン投与前にアトロピンを筋肉注射した。

医学論文では、アトロピンの投与量は20µg/kgと記録されている。

目的は、唾液分泌を抑えることだった。

この点からも、タムルアンの麻酔は単に「眠らせればよい」という発想ではなかったことが分かる。

水中で問題になりそうな生理反応を、事前に一つずつ減らしていた。

ケタミンは5mg/kgを筋肉注射した

救出参加医師らの詳細報告では、最初のケタミン投与量は5mg/kgだった。

少年の最近の体重記録をもとに、洞窟内での絶食による体重減少も考慮して投与量を判断した。

注射は静脈ではなく筋肉内へ行われた。

しかも少年はウェットスーツを着用した状態だったため、針をウェットスーツ越しに大腿部へ刺して投与したと記録されている。

麻酔が十分深くなり、

  • 呼びかけへ反応しない
  • 目的のある身体運動をしない
  • 自発呼吸は維持されている

ことを確認してから、フルフェイスマスクを装着した。

ここでようやく水中搬送の準備へ進む。

なぜ静脈麻酔ではなかったのか

病院で全身麻酔を受けるとき、腕の静脈へ点滴を入れることが多い。

タムルアンでは、筋肉注射が大きな意味を持った。

静脈ラインを使うなら、

  • ラインが抜けないよう固定する
  • チューブを岩や装備へ引っ掛けない
  • 水中でも接続を維持する
  • 薬液を運ぶ

必要がある。

狭い洞窟で搬送するには、大きな弱点になる。

筋肉注射なら、注射した後にチューブを残さずに済む。

さらにケタミンは筋肉注射でも十分な麻酔効果を得られる。

この「配線を残さない」という単純さも、洞窟救助では大きな意味を持った。

フルフェイスマスクはどう装着されたのか

十分な麻酔状態になったことを確認した後、救助ダイバーとハリスは少年へフルフェイスマスクを装着した。

使用されたのはInterspiro Divatorと呼ばれるタイプだった。

後年の研究では、このマスクはオープンサーキット式スクーバで使用した場合、呼吸中もマスク内部を外部より陽圧に維持できることが確認されている。

これは水中で重要な性質である。

マスク内部の圧力が外部より高ければ、わずかな隙間が生じたときにも水が内側へ流入しにくくなる方向へ作用する。

もちろん、完全に外れれば助からない。

だからマスクのストラップは、通常の潜水で快適と感じるより強く締め付けられた。

呼吸用ガスは「純酸素」ではなかった

医学論文によれば、フルフェイスマスクへつながれたシリンダーには、

酸素80%、窒素20%

の混合ガスが充填されていた。

高濃度の酸素を使った理由の一つは、仮に一時的な無呼吸が起きた場合でも、血液中に保持できる酸素の余裕を増やすことだった。

一方、100%酸素ではなく少量の窒素を残すことで、肺胞がつぶれる吸収性無気肺を理論上減らす狙いもあったと論文は説明している。

また、救出ルートで想定された最大深度でも、酸素分圧が予定された曝露時間の範囲で許容可能になるよう考慮されていた。

FACT CHECK|少年は「酸素ボンベ」で呼吸していたのか?

「酸素ボンベ」という表現だけでは不正確である。

救出参加医師らによる詳細報告では、少年のフルフェイスマスクへ供給したシリンダーは80%酸素+20%窒素の混合ガスだった。

したがって、第4回で扱った潜水ルート上の各種呼吸用シリンダーと、少年自身のマスクへ接続されたガスを同一視しない方がよい。

マスクを付けた後、すぐ洞窟へ出したわけではない

マスク装着後には、水中で正常に呼吸できるかを確認する試験が行われた。

少年をうつ伏せにし、顔を水へ入れる。

呼気がマスクから出る泡を観察し、呼吸が続いているか確認する。

約30秒後に再び起こして、マスク内部へ水が入っていないか確かめる。

この確認を複数回繰り返した。

ハリスと救助ダイバーの両方がマスクの密閉状態に納得してから、実際の搬送へ進んだ。

言い換えれば、

洞窟水中へ入る前に、呼吸系統を実際の水中状態で試験していた。

それでも一時的に呼吸が止まる場面があった

詳細な医学報告には、さらに緊張する記録が残っている。

少年の顔を水へ入れた際などに、呼吸を止めた、あるいは無呼吸のように見える状態になることがあった。

その場合、救助側はフルフェイスマスクのレギュレーターにあるパージバルブを短時間押した。

マスク内へ陽圧でガスを送り込み、一回の呼吸を補助するような操作である。

すると呼吸が再開した例があった。

これはタムルアン救助の危険性をよく表している。

ケタミンを選び、フルフェイスマスクを用意しても、

少年を水中へ入れた時点で呼吸が確実に保証されたわけではなかった。

なぜ手を後ろで固定したのか

救出時、少年の手足はある程度固定されていた。

この描写だけを見ると、非常に強い処置に見える。

医学論文では理由が2つ説明されている。

一つは、手足が洞窟内の岩などへ引っ掛かるのを防ぐこと。

もう一つは、

もし麻酔が予想より早く浅くなった場合、少年が反射的にフルフェイスマスクへ手を伸ばすことを防ぐこと

だった。

両手は背中側でまとめられ、足首も緩く固定された。

これは拘束そのものが目的ではない。

水没洞窟内で最も危険な「予期しない身体運動」を抑える安全策だった。

麻酔科医は少年と一緒に出口まで行かなかった

ここがタムルアン麻酔でも特に異例な部分である。

通常の全身麻酔では、麻酔科医が患者のそばにいる。

心電図。

血圧。

酸素飽和度。

呼吸。

気道。

それらを監視し、異常が起きれば即座に処置する。

タムルアンでは不可能だった。

ハリスが最奥部で麻酔を導入した後、少年は救助ダイバーへ預けられる。

そしてハリスはその少年に付き添って出口まで移動するのではなく、次の少年を麻酔するため洞窟深部に残った。

つまり水没区間で少年を医学的に見守ったのは、

麻酔科医ではなく洞窟ダイバー

だった。

ダイバー自身がケタミンを追加投与した

筋肉注射のケタミンも、出口へ着くまで永遠に効き続けるわけではない。

救出途中で少年が覚醒し始めれば、再びパニックの危険が生まれる。

そこで搬送担当の洞窟ダイバーには、ケタミンを追加投与する方法が教えられた。

2020年の詳細報告では、少年一人につき搬送中に3~4回の追加投与が行われたとされている。

投与したのは主として医師ではない救助ダイバーだった。

少年が覚醒し始めたと判断した場合、洞窟の水没区間と水没区間の間にある空間などで筋肉注射を行った。

しかも条件は病院とは程遠い。

流れる水の中で少年を保持しながら薬を取り出し、注射する場面もあった。

タムルアン救出が通常の麻酔医療から大きく逸脱していた理由の一つである。

FACT CHECK|ダイバーは麻酔科医だったのか?

全員が医師だったわけではない。

麻酔計画を中心となって設計し、最初の麻酔導入を担当したリチャード・ハリスは麻酔科医であり、経験豊富な洞窟ダイバーでもあった。

一方、少年を実際に外へ運ぶ主担当ダイバーの多くは医学専門家ではない。

彼らは搬送中に少年が覚醒し始めた場合のケタミン再投与について訓練を受けた。

これは通常の医療体制では極めて異例であり、通常時の麻酔診療へそのまま一般化できるものではない。

リチャード・ハリスが必要とされた理由

オーストラリア政府の救助検証資料では、英国人洞窟ダイバーたちは13人を発見した後、救出を成立させるにはさらに専門家が必要だと判断したとされている。

その中でも特に必要だったのが、

洞窟潜水と麻酔の両方を理解する人間

だった。

リチャード・ハリスはオーストラリアの麻酔科医であると同時に、経験豊富な洞窟ダイバーだった。

病院の麻酔だけを知る医師では、タムルアンのルートを十分理解できない。

逆に、洞窟潜水だけを知るダイバーでは、無意識の患者を安全に麻酔管理する方法を設計できない。

二つの専門性が一人の人物に重なっていたことが、この救助では重要だった。

オーストラリア政府はハリスと獣医師で洞窟ダイバーでもあるクレイグ・チャレンを派遣し、2人は救出計画で中心的な役割を担った。

なぜ獣医師のクレイグ・チャレンも重要だったのか

クレイグ・チャレンは獣医師であり、経験豊富な洞窟ダイバーでもあった。

獣医療では、人間へ投与するのと同じではないものの、ケタミンを扱う経験がある。

救出参加者らの論文では、チャレンが洞窟途中の乾いた区間で少年の初期医学評価を行い、他のダイバーが初めてケタミンを追加投与する際の支援も行ったことが記録されている。

つまり医療系統も、

最奥部のハリス一人だけに依存するのではなく、洞窟ルート上へ分散していた。

通常の麻酔なら、やってはいけない条件が重なっていた

この救出が医学的にどれほど異例だったのかは、通常の全身麻酔と比べると分かりやすい。

通常の全身麻酔 タムルアン救出
麻酔科医が患者のそばにいる 麻酔導入後は洞窟ダイバーが搬送
血圧・酸素飽和度・心電図などを連続監視 水中では通常の連続モニターを使用できない
気道トラブルなら直ちに処置可能 水没洞窟では処置できる場所が限定される
呼吸が止まれば人工呼吸可能 水中で通常の人工呼吸管理はできない
静脈ラインから薬剤を調整可能 筋肉注射で投与し、ダイバーが途中で追加
患者は手術台など安定した場所にいる 水中・岩場・狭窄部を数時間搬送
保温装置を使用可能 約23℃の水・空気に長時間さらされる

麻酔科医から見れば、リスク要因がほぼすべて悪い方向にそろっている。

それでも麻酔を選んだ。

なぜなら、

意識のある未経験者をこの洞窟へ潜らせる危険の方が大きいと判断されたから

である。

もう一つの敵は低体温だった

最初の4人が7月8日に洞窟から出てくると、医療チームは新しい問題を確認した。

低体温である。

New England Journal of Medicineに掲載された救出医療報告では、洞窟内の水中を搬送された少年たちに低体温がみられた。

初日に救出された少年の一人では、ヘリコプター搬送時に体温がさらに低下した例も記録されている。

少年たちはウェットスーツを着ていたが、長時間冷たい水と洞窟内環境にさらされている。

しかも全身麻酔下では、本人が

「寒い」

と訴えることもできない。

ケタミン自体も震えによる熱産生を抑える可能性がある。

そのため初日の救出後、医療チームは翌日以降の処置を変更した。

初日の4人から医療プロトコルを修正した

NEJMの報告では、初日の振り返りで、

  • 低体温
  • 医療チーム内の連携

が重要な改善点として特定された。

そこで翌日以降、ABC+Hと呼べる考え方で役割を整理した。

ABCは救急医療で基本となる、

  • Airway=気道
  • Breathing=呼吸
  • Circulation=循環

である。

そこへ、

H=Hypothermia(低体温)

を加えた。

体温測定方法も改善し、毛布、加温用ブランケット、全身を覆うフォイル、温風式加温装置などが使用された。

点滴液も温めて投与するようになった。

つまり救出作戦は初日の成功をそのまま繰り返したのではない。

最初の4人から得られた医療データを使い、2日目、3日目の手順を改善した。

13人に重大な水の誤嚥は確認されなかった

水中で麻酔患者を搬送するとき、最も恐ろしい事態の一つがマスクへ水が入り、肺へ吸い込んでしまうことである。

救出後の医学報告では、13人の初期所見に大量の水を誤嚥したことを示す明確な証拠はなかったとされている。

これはフルフェイスマスク、陽圧機構、ダイバーによる管理、そして麻酔計画が結果として機能したことを示す重要な所見である。

ただし、ここから

「無意識の人間をフルフェイスマスクで潜らせても安全」

という結論を出すことはできない。

論文の著者たち自身が、その一般化に強く注意している。

成功したからといって、医学の常識が変わったわけではない

通常、潜水中に人が意識を失った場合、最優先されるのはできるだけ早く水面へ戻すことである。

フルフェイスマスクを着けていたとしても、長時間水中で無意識の人間の気道を安全に維持することには高い危険がある。

タムルアンの成功を受けて、救出参加医師らはフルフェイスマスクの陽圧機能を実験的に調べた。

その結果、使用されたInterspiro Divatorはオープンサーキット式の条件ではマスク内部を陽圧に維持できることが確認された。

しかし論文の結論は、

この成功を他の潜水事故へ単純に一般化してはならない

というものだった。

タムルアンで成立したのは、

  • 薬剤で計画的に作った麻酔状態
  • 自発呼吸が維持されていた
  • 専用フルフェイスマスク
  • 十分に準備された洞窟ルート
  • 世界有数の洞窟ダイバー
  • 麻酔科医による計画
  • 多数の支援要員

が重なった極めて特殊な条件だった。

麻酔は「危険をなくした」のではなく「危険の種類を変えた」

タムルアンの麻酔救助を評価するとき、重要なのはここである。

少年を麻酔すればパニックは抑えられる。

しかし代わりに、

  • 本人が異常を訴えられない
  • 自分でマスクを直せない
  • 呼吸が弱くなっても伝えられない
  • 気道管理をダイバー側へ依存する
  • 麻酔が切れれば追加注射が必要
  • 低体温に気づきにくい

という新しい危険が生まれる。

つまり麻酔は「安全装置」ではない。

パニックという制御不能なリスクを、救助側がある程度管理できる医学的リスクへ置き換えた

と考える方が正確である。

そして、その新しいリスクをフルフェイスマスク、薬剤選択、呼吸確認、途中の追加投与、医療チーム、低体温対策で一つずつ補った。

救出麻酔の流れを整理する

工程 内容
① 絶食 救出対象者は当日の朝から食事を止める
② 不安軽減 アルプラゾラム0.5mgを経口投与
③ 装備準備 ウェットスーツ、浮力装備などを装着
④ 分泌抑制 アトロピン20µg/kgを筋肉注射
⑤ 麻酔導入 ケタミン5mg/kgを筋肉注射
⑥ 麻酔確認 無反応かつ自発呼吸が維持されていることを確認
⑦ 呼吸装置 陽圧式フルフェイスマスクを強く固定
⑧ ガス供給 80%酸素+20%窒素の混合ガスを接続
⑨ 水中試験 顔を水へ入れ、呼吸とマスクの水密性を複数回確認
⑩ 身体固定 手足を固定し、岩への引っ掛かりやマスクを外す動作を防止
⑪ 水中搬送 洞窟ダイバーが少年をうつ伏せ方向で搬送
⑫ 麻酔維持 覚醒兆候があれば途中でケタミンを追加投与
⑬ 医療引き継ぎ 潜水終了地点以降で医学評価し、地上病院へ搬送
⑭ 低体温処置 ABCにHypothermiaを加え、積極的な保温を実施

FACT CHECK|13人全員にまったく同じ薬剤量を使ったのか?

違う。

アルプラゾラムは0.5mgと報告されているが、アトロピンと初回ケタミンは体重を基準に計算された。

ケタミンも搬送中の覚醒状態に応じて追加投与されたため、全員が完全に同じ総投与量になったわけではない。

また、2019年のNEJM報告では最初の4人について救助ダイバーが投与したケタミン量を現場病院側が把握していなかったと記録されている。

したがって、13人全員について完全な投与量一覧が一つの公開資料に整理されているとは扱わない。

最も異例だったのは「麻酔された人間を水中へ入れたこと」

ケタミンを筋肉注射すること自体は、医療として特異な行為ではない。

フルフェイスマスクも潜水装備として存在していた。

洞窟ダイバーも、それぞれの技術を以前から持っていた。

異例だったのは、それらを組み合わせたことである。

全身麻酔された子どもを、気管挿管せず、自発呼吸のまま、約1kmを超える完全水没区間へ通す。

救出参加医師らは後年、この状況を医学的に検討し直している。

麻酔倫理を扱った論文も、これは通常の麻酔診療の基本原則から大きく外れる選択であり、前例のない実践的・倫理的問題だったと評価している。

それでも、当時の救助側が比較していた相手は「普通の安全な麻酔」ではない。

意識のある子どもを、同じ水没洞窟へ潜らせるという別の危険だった。

選択肢のどちらにも大きなリスクがあり、

より制御できる方のリスクを選んだ。

13人全員が生還したことの意味

7月8日から10日まで、同じ基本方式を使って少年12人とコーチが搬出された。

全員が洞窟を出た。

救出後には低体温などへの処置が必要だったものの、全員が生存した。

麻酔された13人を長距離の水没洞窟から搬出するという計画は、結果として成立した。

しかし、この結果だけを見て、

「大胆な麻酔方法が正しかった」

で終わらせるべきではない。

実際には、

  • ケタミンの薬理特性
  • アトロピンによる分泌抑制
  • アルプラゾラムによる不安軽減
  • 陽圧式フルフェイスマスク
  • 80%酸素を含む呼吸ガス
  • 水中でのマスク試験
  • 少年の身体固定
  • 救助ダイバーへの追加投与訓練
  • 途中の支援ダイバー
  • 救出後の低体温管理

が重ねられていた。

それぞれが別のリスクを抑える防護層になっていた。

まとめ|麻酔は「眠らせるため」だけではなかった

タムルアン洞窟救助で少年たちへ麻酔が使われた最大の理由は、水中でのパニックを防ぐためだった。

しかし、実際の救出医療は「ケタミンで眠らせる」という一工程ではない。

不安を抑える。

唾液分泌を抑える。

自発呼吸を維持しながら全身麻酔へ入れる。

フルフェイスマスクを密着させる。

水中で呼吸できることを確認する。

途中で麻酔が浅くなれば追加投与する。

洞窟外では低体温を治療する。

これらすべてが一つの工程だった。

麻酔によって危険が消えたわけではない。

むしろ、

「恐怖で何をするか予測できない少年」を、「呼吸・麻酔深度・体温を救助側が管理しなければならない患者」へ変えた。

そして救助隊は、その新しい危険を管理するシステムを作った。

7月8日。

この方法を使って最初の4人が洞窟の外へ運ばれる。

翌9日にさらに4人。

10日には残る少年4人とコーチ。

次回は、この救出システムが実際の3日間でどのように動き、13人がどの順序で洞窟から出されたのかを一本の時系列として追う。


← 第7回|救出ルートはどう設計されたのか


第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか【現在の記事】
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか

今回出てきた言葉

【全身麻酔】
意識を消失させ、外部からの呼びかけなどへ反応しない状態を作る麻酔。タムルアンでは少年たちを単なる軽い鎮静ではなく、無意識の状態にして搬送した。

【ケタミン】
麻酔などに用いられる薬剤。筋肉注射が可能で、自発呼吸や循環を比較的維持しやすい特徴があり、通常の麻酔設備を使用できないタムルアンの条件で中心薬剤として選択された。

【アルプラゾラム】
ベンゾジアゼピン系薬剤。救出前に0.5mgが経口投与され、不安軽減などに用いられた。

【アトロピン】
タムルアンではケタミンによる唾液分泌増加を抑える目的で使用された。救出参加医師らの報告では20µg/kgを筋肉注射した。

【Interspiro Divator】
タムルアン救出で少年たちに使用されたフルフェイスマスク。オープンサーキット式ではマスク内部を外部より陽圧に維持する機能があり、水の侵入を抑える方向に働く。

【陽圧】
内部の圧力が周囲より高い状態。フルフェイスマスク内部を陽圧に保つことで、小さな隙間から水が内側へ入り込みにくくする効果が期待される。

【自発呼吸】
人工呼吸器などによらず、本人自身の呼吸運動によって行う呼吸。タムルアンでは麻酔された少年が自発呼吸を維持することが救出成立の重要な条件だった。

【ABC+H】
Airway(気道)、Breathing(呼吸)、Circulation(循環)にHypothermia(低体温)を加えた救出後の医療管理。初日の経験を踏まえて低体温対策が強化された。

【低体温症】
深部体温が低下した状態。タムルアンでは長時間の水中搬送による体温低下が確認され、救出後の重要な治療対象となった。

出典・参考資料

  • Lawthaweesawat C, Harris R, Isara W, Pongpirul K.,
    “Prehospital Care of the 13 Hypothermic, Anesthetized Patients in the Thailand Cave Rescue,”
    New England Journal of Medicine,
    2019;380:1372–1373.

    New England Journal of Medicine
  • van Waart H, Harris RJ, Gant N, Vrijdag XCE, et al.,
    “Deep anaesthesia: The Thailand cave rescue and its implications for management of the unconscious diver underwater,”
    Diving and Hyperbaric Medicine,
    2020;50(2):121–129.

    PubMed Central
  • Australian Government, Emergency Management Australia,
    “Thai Cave Rescue Symposium 2018 – Symposium Report.”

    Australian Government
  • Devereaux J, Gauntlett-Gilbert J.,
    “The Thailand Cave Rescue: General Anaesthesia in Unique Circumstances Presents Ethical Challenges for the Rescue Team,”
    Journal of Bioethical Inquiry,
    2022.

    PubMed Central

本記事では、一般報道で多用された「鎮静」という表現をそのまま採用せず、救出参加者を著者に含む医学論文の記述を優先した。2020年のDiving and Hyperbaric Medicine論文は、少年たちが眠り、声へ反応せず、目的のある動きを示さなかったため「anaesthetised」という表現を意図的に使用したと説明している。同論文を基準に、アルプラゾラム0.5mg、アトロピン20µg/kg、初回ケタミン5mg/kg、酸素80%・窒素20%の呼吸ガス、搬送中3~4回のケタミン追加投与などを記載した。ただし、これらは2018年タムルアン救出という特殊な災害医療環境で採用されたプロトコルであり、一般的な麻酔・潜水救助の標準手順を示すものではない。また13人全員の個別総投与量が公開資料で完全に一覧化されているとは確認できないため、「全員へ同じ量を使用した」とはしていない。2019年NEJM報告で最初の4人のケタミン投与量が現場病院側には不明だったことも、この資料上の限界として扱った。

フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート

遭難・救助

1845年5月、HMS ErebusとHMS Terrorは英国を出航しました。

目的地は「北極」そのものではありません。

フランクリン遠征に与えられた最大の任務は、 北米大陸の北側を通って大西洋と太平洋を結ぶ 北西航路(Northwest Passage)の、 まだ確認されていない区間をつなぐことでした。

ここで重要なのは、 1845年の英国海軍が 「北極圏のどこに海があるのかすら分からない」 状態だったわけではないことです。

それ以前の数十年間に、 ジョン・ロス、ウィリアム・エドワード・パリー、 ジョン・フランクリンらの探検によって、 カナダ北極諸島の輪郭はかなり明らかになっていました。

英国海軍本部がフランクリンへ出した命令には、 北西航路について 「完成すべき部分はわずかに残るだけ」 という認識まで記されています。

つまり1845年の遠征は、 未知の海へ無方向に突入した探検ではありません。

すでに地図に描かれていた東側と西側を、 最後の海路でつなぐことを狙った遠征 でした。

ところが、その「最後の区間」にこそ、 ErebusとTerrorを2年間動けなくする海氷が待っていました。

この記事で分かること

  • 北西航路とはどこを通る航路なのか
  • なぜ英国は何世紀にもわたって北西航路を探したのか
  • 1845年時点でどこまで地図が完成していたのか
  • 海軍本部はフランクリンにどのようなルートを指示したのか
  • なぜCape Walker付近から南西へ進もうとしたのか
  • 遠征隊がWellington Channelへ入ったことは、なぜ分かっているのか
  • 1845年の越冬地Beechey Islandはどこにあるのか
  • 1846年にPeel Soundを南下した2隻がどこまで進んだのか
  • フランクリン遠征は北西航路を「発見した」と言えるのか

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート【現在の記事】
  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

先に結論|フランクリンが探していたのは「最後の海路」だった

北西航路とは、 大西洋側から北米大陸の北を通り、 太平洋側へ抜ける海上ルートの総称です。

現在の地名で大きく見るなら、 大西洋側から Davis Strait → Baffin Bay → Lancaster Sound へ入り、 カナダ北極諸島の多数の海峡を抜け、 最終的にBeaufort Sea方面からBering Straitへ向かうルートです。

ただし、 「北西航路」という一本の決まった海峡が存在するわけではありません。

カナダ北極諸島には、 数多くの島、海峡、湾が複雑に入り組んでいます。

その中から、 船が連続して通過できる経路を見つけなければなりませんでした。

1845年までには、 その入口とかなりの区間がすでに調査されていました。

フランクリンに求められたのは、 地図上に残された最後の空白を航海し、 大西洋側から太平洋側まで海がつながっていることを確認すること でした。

なぜ英国は北西航路を探し続けたのか

北西航路探索の歴史は、 フランクリン遠征よりはるかに古くまでさかのぼります。

16世紀以降、 欧州では大西洋から北米大陸の北を回り、 アジアへ到達できる航路が存在するのではないかと考えられていました。

期待されたのは、 欧州とアジアを結ぶ新しい海上ルートです。

実際に商業航路としてどれほど有利だったかは別として、 海図上で大西洋と太平洋をつなぐ経路を確定することは、 地理学、航海術、英国海軍の威信という意味でも大きな価値を持っていました。

英国では特に1818年以降、 北極探検が再び活発になります。

その中心人物の一人が ウィリアム・エドワード・パリーでした。

1819年、パリーはLancaster Soundの奥まで進んでいた

北西航路探索における大きな進展のひとつが、 1819~1820年のパリー遠征です。

それ以前、 Baffin Bay西岸に開くLancaster Soundが 本当に西へ続いているのかは明確ではありませんでした。

パリーはLancaster Soundへ入り、 さらに西のBarrow Straitを航行。 その先のカナダ北極諸島深部まで進みました。

1845年の海軍本部命令では、 Lancaster SoundとBarrow Straitについて、 パリーがすでに複数回航行しており、 捕鯨船もその後利用していたことが明記されています。

つまりフランクリン遠征にとって、 Lancaster Soundは 未知の入口ではありませんでした。

ここまでは、ある程度実績のあるルートだったのです。

1845年時点の考え方|まず西へ、Cape Walkerから南西へ

1845年5月5日、 英国海軍本部はフランクリンに対して 詳細な航海指示を出しました。

そこには、 遠征隊がどこを目指すべきかがかなり具体的に書かれています。

まずDavis StraitからBaffin Bayへ入り、 Lancaster Soundへ向かう。

そこからBarrow Straitを およそ北緯74度15分付近で西へ進む。

そして Cape Walker付近、およそ西経98度 まで到達したら、 可能な限り南および西へ進み、 Bering Strait方面を目指す。

これが基本方針でした。

1845年の基本計画

英国

Davis Strait

Baffin Bay

Lancaster Sound

Barrow Strait

Cape Walker付近

南~南西方向へ未知区間を突破

既知の西側海域

Bering Strait

太平洋

なぜCape Walkerから南へ曲がる計画だったのか

当時すでに、 Barrow Straitからさらに西へ進むルートについては 大きな問題が知られていました。

1820年のパリー遠征では、 Melville Island南西側のCape Dundas付近で 大規模で安定した海氷に阻まれています。

そこで1845年の海軍本部は、 単純にそのルートをもう一度西へ押し続けることを 第一案とはしませんでした。

Cape Walker付近まで行ったところで、 そこから南西方向へ抜ける海路を探す。

これが、 北西航路を完成させる可能性が高いと判断されていました。

現在の地図を知っている私たちから見れば、 この判断が何を意味していたかが分かります。

Cape Walkerより南には、 Prince of Wales Island、 Somerset Island、 Peel Sound、 Franklin Strait、 Victoria Strait、 King William Islandなどが広がっています。

フランクリンたちは、 この複雑な海域のどこかに 西側へつながる通路があると考えていました。

ただし「予定ルート」と「実際の航路」は同じではない

ここで、 フランクリン遠征を理解するために重要な区別があります。

英国海軍本部が1845年に指示したルートと、 ErebusとTerrorが実際に航海したルートは、 完全には一致しません。

海軍本部は、 基本的にはBarrow Straitを西へ進み、 Cape Walker付近から南西へ向かうよう指示していました。

ところが、 現在確認されている遠征隊の記録によれば、 2隻は1845年に Wellington Channelを北へ進んでいます。

これは、 1859年に発見されたVictory Point Noteから確認できます。

1845年|Wellington Channelを北緯77度まで進んだ

Victory Point Noteには、 ErebusとTerrorが Wellington Channelを北緯77度まで上った ことが記されています。

その後、 2隻はCornwallis Islandの西側を回って南へ戻りました。

つまり1845年の航海では、 Barrow Straitからすぐ南へ向かったのではなく、 一度かなり北へ進んでいます。

この航路によって、 結果的にCornwallis Islandを周回する形になりました。

なぜフランクリンがWellington Channelを北上したのか。

ここは注意が必要です。

遠征隊の詳細な航海日誌が現在まで発見されていないため、 フランクリン本人がその判断理由を説明した記録は残っていません。

海氷の状態を見て代替ルートを調べたのか、 北側に有望な通路があると判断したのか、 科学・地理調査を兼ねていたのか。

複数の可能性は考えられますが、 確定はできません。

FACT CHECK|Wellington Channel北上は命令違反だったのか

海軍本部の基本指示は、 Barrow Straitを西へ進みCape Walker付近から南西へ向かうものでした。

ただし同じ命令書には、 氷の状態によって西進できない場合、 Devon IslandとCornwallis Islandの間の海峡を 代替ルートとして検討する余地も示されています。

したがって、 Wellington Channelへ入った事実だけを根拠に 「フランクリンが命令を無視した」と断定することはできません。 また、実際に北上を決めた理由を説明する遠征隊の日誌も現存していません。

1845~1846年|Beechey Islandで最初の冬を越す

Wellington Channelから南へ戻った遠征隊は、 Beechey Island付近で冬を迎えました。

Beechey Islandは、 Devon Island南西側に位置する小さな島です。

Lancaster SoundとBarrow Straitの接続部に近く、 北西航路探索の要所にあります。

Beechey Island周辺。フランクリン遠征隊は1845~1846年の冬をこの地域で過ごした。 Google Mapは現在の地理を示すものであり、1845年当時の海岸線・海氷状況・遠征隊の正確な航跡を再現するものではない。

Googleマップで大きく見る

ここでは後に、 John Torrington、 William Braine、 John Hartnellの3人の墓が発見されました。

つまり1845年の遠征隊は、 「最後に捕鯨船から見られた後、すぐに消息不明になった」 わけではありません。

彼らはLancaster Soundを通過し、 Wellington Channelを北上し、 Cornwallis Island周辺を航海し、 Beechey Islandで越冬するところまで進んでいました。

1846年|今度はPeel Soundを南へ進む

冬が終わり、 海氷が航行可能な状態になると、 ErebusとTerrorは再び動き始めました。

1846年の遠征隊は、 今度はPeel Soundを南へ進みます。

Peel Soundは、 西側のPrince of Wales Islandと、 東側のSomerset Islandの間にある海峡です。

このルートを南下すれば、 北極諸島中心部から King William Island方面へ進むことができます。

地図上で見ると、 フランクリンが最初から求めていた 「Cape Walker付近から南西へ抜ける」 という目的に近い方向へ進んだことになります。

地図で見ると、目的達成まであと少しに見える

現代の地図でフランクリン遠征の1846年ルートを見ると、 奇妙な印象を受けます。

ErebusとTerrorはPeel Soundを抜け、 King William Island北西付近まで到達しました。

さらに南には、 Franklin Strait、 James Ross Strait、 Rae Strait、 Queen Maud Gulfなど、 最終的に西側海域へつながる水路があります。

つまり地図だけを見れば、 北西航路をつなぐ地点はかなり近い。

しかし、 北極航海では 「海が地図上でつながっている」ことと 「船がそこを通れる」ことは同じではありません。

北西航路最大の問題|水路があっても氷で通れない

カナダ北極諸島の海峡は、 年間を通して一定の状態ではありません。

夏になれば海氷が完全に消えるとは限らず、 年によって氷の位置、厚さ、密度、 開水面ができる場所が変わります。

狭い海峡では、 風や海流によって押し寄せた氷が集まり、 大きな氷塊が動けなくなることもあります。

19世紀の木造探検船にとって、 航路選択とは単に 「地図上で海がある方向へ進む」 ことではありませんでした。

その年、その場所で、 船が通れるだけの水面が開いているか が決定的でした。

1846年9月|キングウィリアム島北西で停止する

Peel Soundを南下した2隻は、 1846年9月、 King William Island北西の海域へ到達しました。

そしてここで ErebusとTerrorは海氷に拘束されます。

King William Island周辺。1846年9月、ErebusとTerrorは島の北西側の海域で海氷に拘束された。 資料によって周辺海域をVictoria Strait、McClintock Channel側などと表現する場合があるため、本記事では「キングウィリアム島北西の海域」として統一する。

Googleマップで大きく見る

Victory Point Noteによれば、 船が氷に捕らえられたのは 1846年9月12日でした。

問題は、 その冬だけではありません。

翌1847年の夏になっても、 2隻は解放されませんでした。

そして1848年4月まで、 船はこの地域から自力で脱出できませんでした。

航路を完成させる目前まで進みながら、 船を進めるための「海」が開かなかったのです。

1847年の陸上調査は「最後のリンク」をつないだ可能性がある

船が氷に閉じ込められている間も、 遠征隊は完全に何もしていなかったわけではありません。

1847年5月、 Graham Goreらの一隊が 船からKing William Islandへ向かっています。

Royal Museums Greenwichは、 この隊が島の南岸Cape Herschel付近まで到達し、 それまで未確認だった北西航路の区間を 地理的につないだ可能性を説明しています。

つまり皮肉なことに、 フランクリン遠征は地理調査の目的そのものには、かなり近いところまで到達していた可能性があります。

しかし、 その成果を持ち帰る人間はいませんでした。

フランクリンは「北西航路を発見した」のか

ここは表現に注意が必要です。

後世には、 フランクリン隊が 北西航路の最後の未確認区間をつないだとして、 「彼らは命と引き換えに最後のリンクを完成させた」 という評価が生まれました。

しかし、 実際にErebusとTerrorが 大西洋から太平洋まで航行したわけではありません。

2隻はKing William Island付近で停止し、 最終的に放棄されています。

したがって、 フランクリン遠征が北西航路を船で通過した と表現するのは正確ではありません。

一方で、 遠征隊による航海と陸上調査が、 当時残っていた地理的空白の一部を埋めた可能性は高い。

この2つは分けて考える必要があります。

最初に「北西航路を通過した」とされるのは別の遠征だった

フランクリン隊を探すために始まった大規模な捜索そのものが、 北西航路の解明をさらに進めました。

1850年、 太平洋側から捜索に入った Robert McClureは、 複数年をかけて北極圏を横断します。

McClureは後に、 北西航路を最初に通過した人物として認定されました。

ただし、 その旅程の一部は船ではなく 海氷上を徒歩で移動したものでした。

船だけで北西航路を完全に航海した最初の成功例として知られるのは、 Roald Amundsenです。

Amundsenは小型船Gjøaを使い、 1903年から1906年にかけて より南側のRae Straitなどを通るルートで 大西洋側から太平洋側への航海を完成させました。

フランクリン遠征から 約60年後のことです。

フランクリンの大型船とアムンセンの小型船

この違いは、 北西航路を理解するうえで興味深い点です。

ErebusとTerrorは、 長期間の遠征に必要な大量の物資、 129人の人員、 科学機材などを積んだ英国海軍の探検船でした。

一方、 Amundsenが使用したGjøaは はるかに小型の船でした。

狭く浅い海峡を利用できる小型船と、 大型の海軍探検船では、 選択できる航路が異なります。

したがって 「地図上に北西航路が存在するなら、なぜフランクリンはそこを通らなかったのか」 という疑問には、 単純な答えはありません。

航路の水深、 海峡の幅、 海氷、 季節、 船の喫水、 その年の気象条件。

北西航路は「存在するかどうか」だけでなく、 「その船が、その年に通過できるか」が問題になる航路 だったのです。

1845~1846年の航路を整理すると

時期 地点・海域 行動
1845年5月19日 Greenhithe 英国を出航
1845年7月 Disko Bay周辺 最終補給。5人が離脱し129人となる
1845年7月下旬 Baffin Bay 捕鯨船から最後に目撃される
1845年 Lancaster Sound カナダ北極諸島へ進入
1845年 Wellington Channel 北緯77度付近まで北上
1845年 Cornwallis Island 島の西側を通って南へ戻る
1845~1846年冬 Beechey Island 最初の越冬
1846年夏 Peel Sound 南へ航行
1846年9月12日 King William Island北西 海氷に拘束される

最大のポイント|航路選択そのものが失敗だったとはまだ言えない

結果だけを見ると、 Peel SoundからKing William Island方面へ向かったことが 遠征隊を破滅させたように見えます。

しかし、 これを単純な「航路選択ミス」と断定するのも危険です。

1845年の海軍本部命令そのものが、 Cape Walker付近から南西へ進むことを 主要ルートとして想定していました。

そして北極海の海氷状況は年によって変化します。

後世の地図を見ながら 「別の海峡を選べばよかった」と言うことは簡単ですが、 1846年のフランクリンたちには 現在と同じ海図も、 衛星画像も、 海氷予報もありませんでした。

彼らがその時点で何を観測し、 どの海峡を候補として比較し、 なぜPeel Soundを選んだのか。

その判断過程を記した航海日誌は、 現在まで見つかっていません。

分かっているのは、 選択したルートの先で2隻が1846年9月に動けなくなった という結果です。

北西航路を知ると、フランクリン遠征の見え方が変わる

フランクリン遠征を 「129人が北極へ行って消えた事件」 として見るだけでは、 なぜ2隻がKing William Islandまで進んだのかが分かりません。

そこには明確な目的がありました。

すでに知られていたLancaster Soundを通り、 Barrow Straitから西へ進み、 地図上に残る空白を南西へ抜ける。

大西洋側の海図と、 太平洋側から蓄積されていた知識をつなぐ。

1845年当時、 英国海軍は 北西航路完成まであとわずかだと考えていました。

そして実際、 フランクリン遠征は かなり深いところまで進みました。

問題は、 その最後の数百キロメートルが 地図上の距離以上に厳しい場所だったことです。

海峡は存在した。

しかし、 船が通れるとは限らなかった。

1846年9月、 その違いがErebusとTerrorを止めることになります。

まとめ|地図の空白は小さくなっていた。しかし、海氷という壁は残っていた

1845年のフランクリン遠征が探していたのは、 漠然とした「未知の北極」ではありませんでした。

目的は、 大西洋と太平洋を北米大陸北側で結ぶ 北西航路の最後の未確認区間をつなぐことでした。

海軍本部は、 Lancaster SoundからBarrow Straitを西進し、 Cape Walker付近から南西へ向かうルートを基本方針としていました。

実際の遠征隊は1845年、 Wellington Channelを北緯77度まで北上し、 Cornwallis Island西側を回ってBeechey Islandで越冬。

1846年にはPeel Soundを南下し、 King William Island北西まで進みました。

そこは、 地理的には北西航路をつなぐ地点へかなり近い場所でした。

しかし1846年9月12日、 ErebusとTerrorは海氷に捕らえられます。

そして次の夏になっても、 船は動きませんでした。

次回は、 この遠征を 1845年5月の出航から1846年9月の氷海閉塞まで 時系列で追います。

2隻はどこで補給し、 どこで越冬し、 どのようにKing William Islandまで到達したのか。

そして、 いつ「普通の極地航海」が 帰還できない状況へ変わったのでしょうか。

前の記事 ← 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか 次の記事 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか →

今回出てきた言葉

北西航路(Northwest Passage)
北米大陸北側の北極海を通り、大西洋と太平洋を結ぶ海上ルートの総称。 単一の海峡ではなく、カナダ北極諸島に存在する複数の海峡を組み合わせて通過する。
Lancaster Sound
Baffin Bayからカナダ北極諸島内部へ西進する主要な入口。 フランクリン遠征以前にパリーらによって航行されていた。
Barrow Strait
Lancaster Soundから西へ続く水路。 1845年の海軍本部命令では、この海域を西へ進みCape Walker付近を目指すことが基本方針とされた。
Wellington Channel
Devon IslandとCornwallis Islandの間から北へ伸びる海峡。 フランクリン隊は1845年に北緯77度付近まで進んだことがVictory Point Noteから確認されている。
Peel Sound
Prince of Wales IslandとSomerset Islandの間の海峡。 遠征隊は1846年にこの海峡を南下し、King William Island方面へ進んだ。
Cape Walker
1845年の海軍本部命令で重要な目標地点とされた場所。 この付近から南西へ進み、Bering Strait方面へ抜ける海路を探すことが期待されていた。

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集 全10回

  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート【現在の記事】
  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

出典・参考資料

本記事では、1845年に英国海軍本部が想定していた「計画上のルート」と、 Victory Point Noteなどから後世に再構成された「実際に航海したルート」を分けて記述している。 特にWellington Channelを北上した理由や、1846年にPeel Soundを選択した詳細な判断過程については、 遠征隊の航海日誌が現存しないため断定していない。

2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う

遭難・救助

2018年7月8日、午前。

タムルアン洞窟の入口周辺から、救助に直接関係しない人員が退去させられた。

現場責任者のナロンサック・オーソッタナコーンは、この日を

「救出を実行する最良の日」

と判断した。

水位はそれまでの排水で低下していた。

救出チームも揃っていた。

少年たちの健康状態も、移動に耐えられると評価された。

そして、モンスーンの雨が再び強まる前に動く必要があった。

10時ごろ、作戦開始。

洞窟の奥に残る少年12人とコーチ1人を、一人ずつ外へ運び始めた。

その日のうちに4人。

翌9日に4人。

そして10日に、残る少年4人とコーチ1人。

3日間で13人。

だが、これは単純に4人、4人、5人と順番に運んだだけの作戦ではない。

一人を救出するたびに呼吸用ボンベと薬剤を消費し、ダイバーは数時間の洞窟潜水を行う。

1日が終われば、次の日までに装備を戻し、ボンベを補充し、ダイバーを休ませなければならない。

つまりタムルアンの最終救出は、

同じ危険な工程を、3日間にわたって壊さず繰り返すMISSION

だった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う【現在の記事】
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

先に結論|4人、4人、5人を「同じシステム」で3日間運び出した

最終救出の流れを日ごとに整理すると、非常に単純に見える。

日付 救出 洞窟内に残った人数
7月8日 少年4人 少年8人+コーチ1人=9人
7月9日 少年4人 少年4人+コーチ1人=5人
7月10日 少年4人+コーチ1人 0人

しかし、重要なのは人数より方法だった。

British Cave Rescue Council(BCRC)の救出後記録では、3日間とも基本方式はほぼ同じだった。

最奥部では医師が少年の状態を確認する。

ウェットスーツと潜水装備を装着する。

麻酔を行う。

フルフェイスマスクを装着する。

英国人洞窟ダイバーが少年を一人ずつ水没区間から運ぶ。

ルート途中には支援ダイバーが配置される。

Chamber 3へ到達すると、深部担当から医療・搬送側へ引き継ぐ。

その後、洞窟入口、救急搬送、病院へつなぐ。

ここで、最深部側からChamber 3、洞窟入口までの位置関係を確認しておく。


タムルアン洞窟の入口、Chamber 1から3、T junction、Pattaya Beach、少年たちの発見区域を示す2018年救助ルート概略図
タムルアン洞窟の2018年救助ルート概略図。入口、Chamber 1〜3、T junction、Pattaya Beach、少年たちが発見された区域の相対位置を示す。
出典:Wikimedia Commons「2018 Tham-Luang-cave-map-cropped.png」、Per Meistrup、CC0 1.0。
図はOpenStreetMapと作成者による洞窟経路の概略化に基づき、正確な縮尺図ではない。2018年7月8〜10日の水位、各少年の実際の搬送位置、ダイバー配置、ボンベ位置を精密に示すものでもない。

この基本工程を13回成立させた。

FACT CHECK|救出は7月10日か、7月11日か?

13人全員の洞窟からの救出が完了したのは、タイ現地時間2018年7月10日である。

BCRCの最終ブリーフィングでは、7月10日21時30分(タイ時間)にタイ当局が、

  • 最後の少年4人
  • コーチ1人
  • 洞窟内のダイバー

が安全に洞窟を出たと発表したことが記録されている。

BCRCウェブサイト上の記事公開日は11日になっているが、ブリーフィング本文は10日夜の救出完了を記録したもの。

本シリーズでは7月10日を救出完了日とする。

7月8日 朝|「今日が最良の日」と判断される

7月8日朝、救出現場の状況が大きく変わった。

洞窟入口周辺では、救出に直接関係しない人々へ退去が指示された。

作戦開始に備えて現場を整理するためだった。

同日のタイ当局と国際救助関係者による正式ブリーフィングでは、現場責任者ナロンサック・オーソッタナコーンが、

「今日が救出を実行する最良の日」

と判断したことが発表された。

救出チームには、

  • 13人の国際ダイバー
  • 5人のタイ海軍特殊部隊ダイバー

が準備されていた。

さらに前日、オーストラリア人医師によって13人の健康状態が評価され、身体的・精神的に移動可能と判断された。

水位も低下していた。

Chamber 1、2、3では歩行できる区間が増えていた。

救出訓練も行われていた。

条件はそれまでで最も整っていた。

一方で、これ以上待てば雨が再び強くなる可能性があった。

7月8日 10時ごろ|救出MISSIONが始まる

正式ブリーフィングでは、作戦はタイ時間10時に開始されたとされている。

BCRCが同日別にまとめた記録では、国際洞窟救助ダイバーのチームが10時30分ごろ洞窟へ入ったとされている。

30分の差は、

作戦全体の開始時刻と、最深部へ向かう国際ダイバーチームの入洞時刻

の違いとして理解できる。

重要なのは、午前中から最終救出が正式に動き始めたことである。

この時点で、13人全員を一度に外へ出すとは発表されていなかった。

タイ当局は「continuous mission=継続する作戦」であると説明していた。

最奥部では、一人ずつ準備された

洞窟深部では、少年全員を一度に麻酔したわけではない。

その日に救出する対象者を一人ずつ準備した。

前回までに見たように、

  • 不安を抑える薬剤
  • アトロピン
  • ケタミンによる全身麻酔
  • フルフェイスマスク
  • ウェットスーツなどの装備

を使い、実際に水へ顔を入れて呼吸とマスクの密閉状態を確認した。

準備ができた少年から、洞窟ダイバーへ引き渡される。

そこから数時間の搬送が始まった。

一人が出発しても、すぐ次の少年を出せるわけではない

最終救出を「4人を一列に並べて連れ出した」と考えると、実際の工程が見えない。

一人ずつ担当ダイバーと組ませる必要がある。

ルート途中の支援要員も使う。

呼吸用ボンベも消費する。

前の搬送者と十分な間隔を取る必要もある。

狭い水没区間で複数の搬送グループが密集すれば、互いが危険になる可能性がある。

そのため救出は流れ作業ではあっても、

一人ごとに独立性を持たせた搬送

として行われた。

7月8日 夕方〜夜|最初の4人が洞窟を出る

7月8日の夕方、最初の少年たちが洞窟から出始めた。

BCRCは当初、19時ごろから最初の4人が外へ出たという報道が流れていることを伝えた一方、

家族への連絡と医療処置を優先し、正式確認はタイ当局が行うべきだ

として慎重な姿勢を取っていた。

その後、初日に4人が救出されたことが正式に確認された。

13人のうち4人。

残りは9人。

一日目は成功した。

だが、この時点で全員救出が保証されたわけではない。

同じシステムを、さらに二日動かさなければならなかった。

FACT CHECK|最初の4人は何時に出たのか?

7月8日当日のBCRC更新では、「19時ごろから4人が出た」という情報はearly, unconfirmed reports=初期の未確認報道として扱われている。

後年の記事では少年ごとの細かな時刻が示されることもあるが、本シリーズでは同時期の公式性が高い資料を優先し、

「7月8日の夕方から夜にかけて4人を救出」

を基準とする。

一日目終了後|なぜ続けて残り9人を出さなかったのか

初日の4人が成功したのなら、そのまま夜通し残り9人を運べばよいようにも思える。

しかし、救出ラインは使えば消耗する。

呼吸用ボンベは交換・補充が必要になる。

麻酔薬や医療物資も準備し直す必要がある。

そして何より、ダイバー自身が長時間の洞窟潜水を終えている。

疲労した状態で次の搬出を続ければ、事故リスクは上がる。

そこで作戦はいったん止められた。

翌日同じ能力で救出を再開するため、

装備・人員・物資を元の状態へ戻す時間

が必要だった。

最初の4人から「低体温」という問題が見つかる

一日目は救出システムが実際の少年に対して初めて使われた日でもある。

洞窟を出た少年たちは医療チームへ引き渡され、病院へ移送された。

そこで問題の一つとして確認されたのが低体温だった。

長時間、冷たい水と洞窟環境にさらされたことによるものだった。

New England Journal of Medicineの救出医療報告では、初日の経験を踏まえ、

  • 体温評価
  • 保温
  • 温めた輸液
  • 医療チームの役割分担

などが翌日以降改善されたことが記録されている。

つまり、

1日目は単なる成功ではなく、2日目を改善する実地データにもなった。

7月9日|同じ方式で再び洞窟へ入る

翌7月9日。

救助ダイバーたちは再び作戦へ戻った。

洞窟条件は前日から大きく変化していなかった。

そのためBCRCによれば、

基本的に前日と同じ方式

が使われた。

一日目に使った作戦を大きく作り直さず、同じ工程を再現する。

これは重要だった。

前日に4人を無事に運べたという実績がある。

ルート。

マスク。

麻酔。

ダイバー配置。

Chamber 3での引き渡し。

それらを基本的に維持した。

7月9日|さらに4人を救出

二日目も4人の少年が救出された。

これで洞窟から出た少年は8人。

残るのは、

  • 少年4人
  • コーチ1人

の5人となった。

そしてBCRCは、この日の搬出が一日目より約2時間速かったと記録している。

安全性を下げたからではない。

同じ方式を経験したことで、救出ライン全体の動きが改善した結果とされている。

これはMISSIONとして非常に重要な変化だった。

一日目は「この方法で本当に少年を運べるか」を実行する日。

二日目は、

すでに成立した工程を、より効率的に再現する日

になっていた。

FACT CHECK|2日目は危険な手順を省略したから速くなったのか?

BCRCはそのようには説明していない。

7月9日の記録では、

前日と同じ基本方式を維持し、安全性を損なうことなく約2時間短縮した

とされている。

したがって「急いだため安全確認を省略した」という説明は採用しない。

7月9日夜|5人を残して、もう一度止める

あと5人。

一気に続ければ全員を救えるところまで来ていた。

それでも、作戦は再び翌日まで止められた。

BCRCの7月9日ブリーフィングは理由を明確に記録している。

装備を再準備し、ダイバーを十分に休ませるため。

一日目と同じである。

救出ラインは、一回使えば次の一回に自動的に使えるシステムではない。

毎日終了後に、翌朝もう一度13人救助レベルの安全性を作り直す必要があった。

さらに、モンスーンの雨が迫っていた。

成功しているからこそ、最後まで同じ手順を崩さない必要があった。

7月10日 朝|残る5人を一度に救出する

最終日。

洞窟内には少年4人とコーチ1人が残っていた。

それまでの2日間は4人ずつだった。

三日目は5人。

BCRC最終報告によれば、最終救出作戦はタイ時間10時に始まった。

基本方式は前日・前々日とほぼ同じだった。

毎日の先頭グループは、

  • 英国人ダイバー4人
  • オーストラリア人2人

で構成され、そのオーストラリア人の一人が医師だった。

少年たちの健康状態を確認する。

装備を着ける。

麻酔する。

一人ずつ担当ダイバーが運ぶ。

途中に配置された支援ダイバーを通過しながらChamber 3へ向かう。

「最後の一人」はコーチではなかったと断定できるのか

救出順については後年さまざまな報道、証言、映像作品で具体的な名前が示されている。

しかし、本記事の主眼は個人名ごとの救出順ではない。

同時期の公的・救助団体資料が確実に示しているのは、

7月10日に残る少年4人とコーチ1人の5人が救出された

という点である。

また英国政府の功績記録からは、ジェイソン・マリンソンが救出3日間で複数の少年とコーチの搬出を担当したことなどが確認できる。

一方、記事ごとに報じられた個人名と正確な出口通過順序には資料差がある。

そのため本シリーズでは、信頼できる一次性の高い資料で一致する人数・日付を中心に時系列を組む。

最後の5人が出ても、作戦はまだ終わっていなかった

13人全員が少年とコーチだけなら、最後の5人がChamber 3を通過した段階で任務終了に見える。

だが、洞窟内部には救助要員が残っている。

特に少年たちの発見後、最奥部で彼らを支えていたタイ海軍特殊部隊員も外へ戻らなければならない。

BCRC最終報告では、

最後の少年たちが待機場所を離れた後、そこに残っていた4人のタイ海軍特殊部隊ダイバーも撤収を開始した

と記録されている。

救助される側が全員動いた後に、救助する側も同じ水没ルートから帰る必要があった。

7月10日 21時30分|タイ当局が「全員出た」と発表

そしてタイ時間21時30分。

タイ当局は、

  • 最後の少年4人
  • コーチ
  • 洞窟内のダイバー

が安全に洞窟を出たと発表した。

6月23日から洞窟内に閉じ込められていた13人は、全員地上へ戻った。

BCRCは最終ブリーフィングで、

「最も信じ難い洞窟救助の一つが終わった」

という趣旨で作戦完了を報告した。

ただし、そこで現場全体が完全に安全になったわけではない。

最終日の撤収時、水位は再び上がった

第4回でも触れたように、排水設備によって洞窟は一時的に救出可能な状態へ保たれていた。

それは永久的な状態ではない。

オーストラリア政府の事後検証では、最終救出後の撤収時にポンプの一部が停止し、洞窟内部の水位が急速に上昇したことが記録されている。

この出来事は、

救出作戦が数日遅れても同じ条件で実施できた保証はなかった

ことを示している。

7月8日に動いた判断は、結果だけでなく、その後の環境変化から見ても時間的余裕の小さいものだった。

3日間で何が変わったのか

同じ作戦を3回行ったが、完全に同じ3日間ではない。

主な意味
7月8日 計画した救出方式を初めて実際の少年へ適用。4人成功。低体温などの課題を確認
7月9日 基本方式を維持して4人を救出。前日より約2時間短縮
7月10日 残る5人を同じシステムで搬出。救助要員も撤退しMISSION完了

つまり、

一日目=実証

二日目=再現と改善

三日目=完遂

という構造になっている。

救出された4人の後ろでは、次の日の準備が始まっていた

ニュースでは、少年が病院へ運ばれる場面が最も目立つ。

しかし一日の救出が終わった瞬間、洞窟側では次の日の準備が始まっていた。

使ったシリンダーを回収・交換する。

呼吸用ガスを補充する。

薬剤を準備する。

潜水器材を確認する。

ルート状態を確認する。

ダイバーが休む。

医療チームは搬出された少年の状態から手順を見直す。

つまり、

地上で一日の救出成功が報じられている間、洞窟では翌日の同じ成功を再現する準備が続いていた。

なぜ「最初に誰を出すか」は単純ではなかったのか

救出順については、当時からさまざまな情報が流れた。

体力の弱い少年から。

強い少年から。

出口に近い順。

遠くに住む少年から。

複数の説明が報道された。

しかし同時期の公式資料では、全員について「この基準で救出順を決定した」という詳細な一覧は確認しにくい。

また家族への配慮から、救出直後には少年の名前を公表しない運用も取られていた。

そのため本記事では、

救出順の理由を一つの説へ固定しない。

確認できるのは、7月8日に4人、9日に4人、10日に残る5人が搬出されたことである。

FACT CHECK|「最も弱った少年から救出した」は確定情報か?

救出順の基準については当時報道に複数の説明が存在する。

タイ当局の発言も報道を通す過程で表現が異なっている。

BCRCの主要ブリーフィングは、救出対象者全員について医学的順位を一覧化していない。

したがって本記事では、

「最も弱い4人から救出した」などの単純な順序決定を確定事実として採用しない。

救助側は毎日、成功しても慎重だった

初日に4人が救出された。

それでもBCRCは楽観的な終了宣言をしていない。

9日にはさらに4人が出た。

それでも声明は、

モンスーンの雨が迫っており、洞窟内の全員とすべての救助者が安全に出るまで慎重であるべき

という姿勢を維持した。

8人を救えても、残り5人が出られなければ作戦成功とは言えない。

最後の少年が出ても、救助ダイバーが戻らなければ作戦完了ではない。

この考え方が、3日間を通じて一貫していた。

「全員救出」は、13回の独立した成功の積み重ねだった

13人全員生還という数字は一つの結果に見える。

実際の作戦では、一人ひとりに同じ重大な危険があった。

麻酔が適切に効くか。

自発呼吸を続けられるか。

マスクは密閉できるか。

水中でずれないか。

ダイバーがラインを維持できるか。

途中で覚醒しないか。

低体温は重くならないか。

一人目が成功しても、二人目には同じ保証はない。

だから、

13人全員救出とは、一つの大成功ではなく、13回の危険な搬送がすべて成功した結果

だった。

7月8〜10日|最終救出3日間の時系列

日付・時点 出来事
7月8日 朝 洞窟入口周辺から非救助要員を退去。ナロンサック現場責任者が「今日が最良の日」と判断
7月8日 10:00ごろ 正式に救出作戦開始
7月8日 10:30ごろ 国際洞窟救助ダイバーらが深部へ向け入洞
7月8日 夕方~夜 最初の少年4人を救出
7月8日 夜 作戦を一時停止。ボンベ・装備・医療物資の再準備、ダイバー休養
7月9日 前日と基本的に同じ方式で救出を再開
7月9日 夜まで さらに少年4人を救出。搬出は前日より約2時間短縮
7月9日 夜 洞窟内に残るのは少年4人とコーチ1人。装備再準備とダイバー休養
7月10日 10:00 最終救出作戦開始
7月10日 残る少年4人とコーチを一人ずつ搬出
7月10日 夜 少年たちを支えていたタイ海軍特殊部隊員らも撤退
7月10日 21:30 タイ当局が13人全員と洞窟内ダイバーの安全な脱出を発表

まとめ|3日間の成功は「同じ作戦を崩さず繰り返した」ことにあった

7月8日、救助側は潜水による搬出を開始した。

最初の4人が生還した。

しかし、その夜に残り9人を続けて運ぶことはしなかった。

装備を戻す。

ボンベを再配置する。

ダイバーを休ませる。

医療面を改善する。

そして翌9日、基本的に同じ方式で次の4人を救出した。

二日目は前日より約2時間速くなった。

それでも残る5人を続けて出さず、再び準備を行った。

10日、最終作戦。

少年4人とコーチ1人が洞窟を出た。

その後、洞窟内部に残っていた救助ダイバーも撤収した。

21時30分、タイ当局は全員が安全に外へ出たことを発表した。

この3日間で重要だったのは、

一度成功した危険な作戦を、成功したからといって雑に加速させなかったこと

だった。

一日ごとに止める。

資源を戻す。

人を休ませる。

一日目の問題を修正する。

そして、もう一度同じ工程を実行する。

それを最後の一人まで繰り返した。

6月23日に洞窟へ入った13人は、7月10日までに全員地上へ戻った。

CASE FILE 18の救出MISSIONは、ここで完了する。

だが、タムルアン救出にはもう一つ大きな入口がある。

2022年、ロン・ハワード監督によって映画『13人の命(Thirteen Lives)』が制作された。

映画では、洞窟ダイバー、タイ当局、麻酔救助、サマン・クナンの死などが再現されている。

では、映画で描かれた救出はどこまで史実なのか。

次回は、映画『13人の命』と公的資料・救出当事者の記録を比較し、実話と映像上の再構成を分けて確認する。


← 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか


第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか【現在の記事】
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか

今回出てきた言葉

【ナロンサック・オーソッタナコーン】
タムルアン救出時の現場責任者として救助作戦を統括したタイ側指揮者。7月8日に、その日が救出を実行する最良のタイミングであると発表した。

【continuous mission】
7月8日の正式ブリーフィングで使われた救出作戦の説明。一度に13人全員が同時に外へ出るのではなく、継続的に一人ずつ搬出していく作戦だった。

【spearhead group】
救出作戦の最深部側を担った先頭グループ。BCRC最終報告では毎日、英国人4人とオーストラリア人2人が先頭グループを構成し、オーストラリア人の一人は医師だった。

【再補給】
一日の救出後、使用した呼吸用ボンベ、装備、薬剤などを翌日の救出へ向けて準備し直す作業。3日間の救出を継続するために不可欠だった。

【Chamber 3】
洞窟深部の専門潜水区間と、入口側の医療・搬送区間をつなぐ中継地点。救出された少年はここで深部担当ダイバーから別チームへ引き継がれた。

【低体温】
長時間の水中・洞窟内搬送で重要になった医学的問題。初日の救出結果を受け、翌日以降は保温・体温管理が強化された。

【Wild Boars】
遭難した少年12人が所属していたサッカーチーム。最終日の7月10日、残る少年4人とコーチが救出され、13人全員の搬出が完了した。

出典・参考資料

  • British Cave Rescue Council,
    “Key phase of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave begins,”
    8 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • British Cave Rescue Council,
    “More, as key phase begins of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave,”
    8 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • British Cave Rescue Council,
    “Update on the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave,”
    8 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • British Cave Rescue Council,
    “Further progress on the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave,”
    9 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • British Cave Rescue Council,
    “A tense but joyful outcome for the cave rescue at Tham Luang Nang Non Cave,”
    10 July 2018.

    British Cave Rescue Council
  • UK Cabinet Office,
    “Civilian Gallantry List: 2019,”
    28 December 2018.

    GOV.UK
  • U.S. Department of Defense,
    “DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,”
    9 July 2018.

    U.S. Department of Defense
  • Lawthaweesawat C, Harris R, Isara W, Pongpirul K.,
    “Prehospital Care of the 13 Hypothermic, Anesthetized Patients in the Thailand Cave Rescue,”
    New England Journal of Medicine,
    2019;380:1372–1373.

    New England Journal of Medicine

本記事は、2018年7月8日・9日・10日にBritish Cave Rescue Councilが逐次公表した現地ブリーフィングを時系列の主資料とした。7月8日の作戦開始時刻について、タイ当局の正式ブリーフィングは10:00、BCRCの別更新は国際洞窟救助ダイバーの入洞を10:30頃としているため、作戦全体の開始と深部ダイバーチームの入洞を区別して記述した。また7月8日の最初の4人の具体的な出口通過時刻は、BCRC自身が当初「未確認報道」として扱っているため、後年報道の分単位の時刻を確定値として採用していない。7月9日はBCRC記録に基づき4人を追加救出し、前日より約2時間短縮したことを記載した。最終日はBCRCの10日付ブリーフィングに従い、10:00に作戦開始、最後の少年4人とコーチを救出し、21:30にタイ当局が洞窟内のダイバーを含め全員の安全な脱出を発表した時点を救出完了とした。救出順の個人名・順位理由には資料差があるため、一次性の高い資料で一致する日付と人数を優先している。

遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで

遭難・救助

1845年5月19日、
HMS ErebusとHMS Terrorは英国を出航しました。

約3年分の物資。
極地航海用に補強された船体。
補助蒸気機関。
129人の遠征隊。

目指したのは、
カナダ北極諸島を抜けて大西洋と太平洋を結ぶ
北西航路でした。

出発から最初の冬までは、
少なくとも遠征そのものが破綻していた形跡はありません。

遠征隊はグリーンランドで最後の補給を行い、
Lancaster Soundへ入り、
Wellington Channelを北へ調査し、
1845~1846年の冬をBeechey Islandで越しました。

1846年の夏には再び船を動かし、
Peel Sound方面からさらに南へ進みます。

そして1846年9月12日

King William Island北西の海域で、
ErebusとTerrorは海氷に捕らえられました。

この時点で船が壊れたわけではありません。
沈没したわけでもありません。

問題は、
海そのものが船を動かせない状態になったことでした。

第4回では1845年5月の出航から、
1846年9月に2隻が動けなくなるまでを時系列で追います。

この記事で分かること

  • フランクリン遠征は1845年5月にどこから出航したのか
  • 出航時134人だった人数が、なぜ129人になったのか
  • 遠征隊が欧州側から最後に目撃されたのはいつだったのか
  • 1845年にWellington Channelをどこまで北上したのか
  • 最初の冬を過ごしたBeechey Islandはどこなのか
  • 1846年に2隻はどの方向へ進んだのか
  • 「1846年9月12日」という日付は何を根拠にしているのか
  • 海氷に「閉じ込められる」とはどのような状態なのか
  • この時点ですでに遠征失敗が確定していたのか

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)


  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検

  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊

  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート

  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで【現在の記事】

  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄

  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック

  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言

  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する

  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見

  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

先に結論|危機の始まりは「船が壊れた瞬間」ではなかった

フランクリン遠征には、
事故機が墜落するような
明確な一瞬の破局がありません。

少なくとも1846年9月の段階で、
ErebusとTerrorが重大な損傷を受けたという記録は残っていません。

遠征隊自身が残したVictory Point Noteに書かれているのは、
2隻が
1846年9月12日から「beset(海氷に取り囲まれ、動けない状態)」になった
という事実です。

北極探検では、
船が冬のあいだ氷に閉じ込められること自体は
必ずしも異常ではありません。

海氷の中で越冬し、
翌夏に氷が緩んだところで航海を再開する。

それ自体は、
19世紀の極地探検で想定されていた行動でした。

フランクリン遠征を破滅へ向かわせたのは、
1846年に氷に捕まったことそのものではなく、その氷から翌年になっても解放されなかったこと
です。

したがって1846年9月12日は、
「遠征隊が全滅すると決まった日」ではありません。

後から振り返ったとき、
通常の探検航海と長期閉塞を分けた
最初の大きな転換点です。

1845年5月19日|ErebusとTerrorが英国を出航

フランクリン遠征は
1845年5月19日
ロンドン東方のGreenhitheから出発しました。

Royal Museums Greenwichによれば、
ErebusとTerrorは午前10時30分ごろ、
曳航されながらテムズ川を下り始めています。

出航時の人数は
134人でした。

遠征全体を指揮するジョン・フランクリンはErebusに乗船。
Erebusの艦長はジェームズ・フィッツジェームズ、
Terrorはフランシス・クロージャーが指揮しました。

船内には数年分の食料と物資、
科学観測機器、
石炭、
小艇、
陸上移動用の装備などが積み込まれていました。

この段階では、
「帰還できない遠征」になる兆候が明確に表れていたわけではありません。

1845年7月|グリーンランドで最後の補給

遠征隊は北大西洋を進み、
1845年7月にグリーンランド西岸のDisko Bay周辺へ到達します。

ここで補給船
Barreto Juniorから物資を受け取りました。

同時に、
遠征を継続しない5人が英国へ戻ります。

Parks Canadaは、
この5人を病気などによって遠征から外された
「invalidated crew members」と説明しています。

こうして、
この先へ進む人数は
129人となりました。

FACT CHECK|「129人で英国を出発した」のか

出航時:134人

グリーンランドで離脱:5人

北極諸島へ進んだ人数:129人

そのため「フランクリン遠征の129人」という表現は一般的ですが、
正確には英国出航時は134人、最終補給後に129人です。

1845年7月下旬|欧州側から最後に目撃される

Disko Bayを離れたErebusとTerrorは、
Baffin Bayを北上しました。

1845年7月下旬、
2隻は北部Baffin Bayで捕鯨船から目撃されています。

Royal Museums Greenwichの資料では、
Terrorは7月28日に捕鯨船Enterpriseから
氷山のそばにいるところを確認されたとされています。

別の同館資料では、
2隻がLancaster Sound方面へ向かっているところを
2隻の捕鯨船が7月末に目撃したと整理されています。

これが、
フランクリン遠征隊を欧州側の船員が確認した
最後の目撃記録となりました。

この先、遠征隊から英国へ手紙が届くことはありません。

ただし、
ここで遠征隊が消滅したわけではありません。

後に発見された遺物と記録から、
このあと少なくとも約3年間にわたる行動の一部を
復元することができます。

1845年夏|Lancaster Soundへ入る

2隻はBaffin Bayから
Lancaster Soundへ入りました。

ここは北西航路探索の東側入口です。

第3回で見たように、
Lancaster Soundそのものは
フランクリン以前にも英国海軍の探検船が航行していました。

つまりこの段階では、
完全な未知海域へ突入したわけではありません。

問題はその先でした。

1845年|Wellington Channelを北緯77度まで北上する

遠征隊はBarrow Straitから、
Wellington Channelへ入りました。

そして後に発見されたVictory Point Noteによれば、
北緯77度まで北上しています。

その後、
Cornwallis Islandの西側を通って南へ戻りました。

ここで注意したいのが、
この情報の出所です。

フランクリン遠征の詳細な航海日誌が
現在までまとまった形で発見されているわけではありません。

1845年の航路について現在分かっている重要情報の多くは、
1847年に遠征隊が残した短い記録から逆算されています。

そのため、
「なぜ北緯77度まで進んだのか」
「各地点で何日間滞在したのか」
「どの時点で進路を変更したのか」
といった細かな判断過程までは分かっていません。

1845~1846年冬|Beechey Islandで越冬

Wellington Channelから戻ったErebusとTerrorは、
1845年から1846年にかけて
Beechey Island周辺で最初の冬を過ごしました。

Beechey IslandはDevon Island南西側に位置する。
フランクリン遠征隊は1845~1846年の最初の冬をこの周辺で過ごした。
Google Mapは現在の地理を示すものであり、当時の海氷状態や船の正確な停泊位置を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る

後の捜索では、
ここから遠征隊のキャンプ跡や
3人の隊員の墓が発見されました。

死亡したのは
John Torrington、
John Hartnell、
William Braineです。

つまり最初の冬の段階で、
すでに隊員の死亡は発生していました。

ただし、
3人の死だけを見て
「この時点ですでに遠征隊が崩壊していた」
と判断するのも早すぎます。

翌1846年、
遠征隊は再び2隻を動かして
さらに南へ進むことができています。

Victory Point Noteには越冬年の誤記がある

フランクリン遠征の一次資料を扱ううえで、
興味深い点があります。

1859年に発見されたVictory Point Noteには、
Beechey Islandで
「1846~1847年に越冬した」
という記述があります。

しかしこれは誤りです。

実際の越冬は
1845~1846年でした。

1859年に記録を公表したフランシス・マクリントック自身も、
この日付が誤記であることを指摘しています。

文書が1847年5月28日付であり、
その同じ記録の中に
すでに1846年9月から船が氷に閉じ込められていることが書かれているため、
1846~1847年にBeechey Islandで越冬したという記述とは両立しません。

一次資料でも間違うことがある

Victory Point Noteは、
フランクリン遠征を理解するための最重要一次資料です。

しかし、
一次資料だから内容のすべてが自動的に正しいわけではありません。

Beechey Islandの越冬年については明確な誤記が含まれているため、
他の時系列・考古学的証拠と照合する必要があります。

1846年夏|2隻は再び動き始めた

1846年、
海氷が航行できる状態になると、
ErebusとTerrorはBeechey Island周辺を離れます。

ここから2隻は
カナダ北極諸島をさらに南へ進みました。

後世の航路復元では、
遠征隊はPeel Soundを通って
King William Island方向へ進んだと考えられています。

ただし、
ここでも証拠の性格を区別する必要があります。

Victory Point Noteは
「Wellington Channelを北緯77度まで進んだ」
「Cornwallis Island西側を戻った」
「King William Island北西で氷に捕らえられた」
という両端の情報を残しています。

一方、
その間の航海日誌は現存していません。

そのためPeel Sound経由という航路は、
遠征隊の到達地点と地理条件から再構成されたものとして扱うのが安全です。

King William Islandへ近づく

現在の地図を見ると、
King William Islandは
カナダ北極諸島の南寄りにあります。

フランクリンたちは、
北西航路の東側からかなり深いところまで
船を進めていました。

King William Island周辺。ErebusとTerrorは1846年9月、
島の北西側の海域で海氷に捕らえられた。
正確な閉塞地点についてVictory Point Noteは北緯70度05分・西経98度23分を記録している。


記録された閉塞地点付近をGoogleマップで見る

遠征隊自身の記録によれば、
1847年5月時点で2隻は
北緯70度05分、西経98度23分
付近にいました。

ここが、
1846年秋以降の遠征を理解する中心地点になります。

1846年9月12日|船が海氷に捕らえられる

そして
1846年9月12日

ErebusとTerrorは
King William Island北西側の海域で
海氷に捕らえられました。

この日付は、
後世の推定ではありません。

1848年4月にクロージャーとフィッツジェームズが
Victory Point Noteへ追記した文章に、
2隻は
「1846年9月12日からbesetされていた」
と記されています。

この短い記述は、
フランクリン遠征の時系列を考えるうえで極めて重要です。

1845年5月の出航から、
約16か月。

遠征隊はここまで船を失わず、
King William Island近くまで到達していました。

そしてこの日から、
航海の性格が変わります。

「beset」とは何が起きた状態なのか

Victory Point Noteで使われた
besetという言葉は、
単に「周囲に氷があった」という意味ではありません。

船の周囲を海氷が取り囲み、
船自身の帆や補助動力では
自由に航行できない状態を指します。

木造船がその場で直ちに破壊される必要はありません。

船体が無傷でも、
周囲の海が連続した氷に変われば進めなくなります。

さらに海氷は完全に静止しているわけではありません。

風や海流によって氷全体が移動すると、
その中に閉じ込められた船も
氷と一緒に動くことがあります。

Royal Museums Greenwichは、
ErebusとTerrorが閉じ込められた後、
氷とともに南方向へ漂流したと説明しています。

船体強度では解決できない問題だった

第2回で見たように、
ErebusとTerrorは海氷を想定して
船体を補強されていました。

しかし、
氷に耐える能力と、氷の中を進む能力は別です。

2隻は現代の砕氷船のように、
船首で厚い海氷へ乗り上げ、
船体重量で氷を破壊しながら航行する船ではありません。

補助蒸気機関もありますが、
搭載できる石炭には限界があります。

さらに周囲を密な海氷に囲まれてしまえば、
プロペラを回す余地そのものが失われます。

頑丈な船体は
「すぐ潰されない」ためには役立ちます。

しかし、
海を開くことはできません。

1846年9月の時点では、まだ「異常事態」とは言い切れない

後の結末を知っていると、
1846年9月12日を
「破滅が決まった日」のように見てしまいます。

しかし当時の隊員たちが
同じ認識だったとは限りません。

極地航海では、
冬になる前に船を安全な氷の中へ置き、
そのまま越冬することがあります。

フランクリン遠征自身も、
前年はBeechey Islandで冬を越していました。

1846年秋に氷へ捕らえられた時点では、
翌1847年の夏に再び氷が開き、航海を続けられる
という期待を持つことは不自然ではありません。

船内にはまだ物資があり、
2隻も存在していました。

そして1847年5月に残された最初のVictory Point Noteには、
遠征隊の状態について
「All well」
と書かれています。

少なくとも記録上は、
1846年秋の閉塞直後に
遠征全体が完全な危機状態へ陥ったとは確認できません。

問題は「次の夏」に起きた

本当の意味で状況が深刻になるのは、
その後です。

通常期待するなら、
1847年夏に氷が緩み、
2隻は再び動き始めるはずでした。

しかし、
ErebusとTerrorは解放されませんでした。

1846年9月から始まった海氷閉塞は、
1847年を越えて続きます。

その間の
1847年6月11日
遠征隊指揮官ジョン・フランクリンが死亡しました。

そして最終的には、
1848年4月22日まで
2隻は放棄されませんでした。

つまり遠征隊は、
約1年7か月にわたって
同じ氷海から脱出できなかったことになります。

ここで、
一度の越冬は
長期閉塞へ変わりました。

1845年5月から1846年9月までを時系列で整理する

時期 場所 確認できる出来事 証拠の性格
1845年5月19日 Greenhithe 134人で英国を出航 当時資料・公的資料
1845年7月 Disko Bay周辺 補給。5人が遠征から離れ、129人となる 公的資料
1845年7月下旬 Baffin Bay 捕鯨船から最後に目撃される 当時の目撃記録
1845年 Wellington Channel 北緯77度まで北上 Victory Point Note
1845年 Cornwallis Island西側 西岸側を通って南へ戻る Victory Point Note
1845~1846年冬 Beechey Island 最初の越冬 記録+考古学的痕跡
1846年夏 Peel Sound方面 南下してKing William Island方面へ進む 航路の再構成
1846年9月12日 King William Island北西 ErebusとTerrorが海氷に閉じ込められる Victory Point Note

この時系列で「確定していない部分」はどこか

フランクリン遠征は、
航路がすべて1日単位で分かっている探検ではありません。

現在の時系列には、
証拠の濃淡があります。

たとえば
「1846年9月12日に氷に閉じ込められた」
という日付は、
遠征隊自身が残した記録から直接確認できます。

一方、
1846年夏にBeechey Islandから
King William Islandまで
どの日時に、どの速度で、
どの地点を通過したかは分かりません。

詳細な航海日誌が失われているからです。

同じように、
Wellington Channelを北上した判断理由も確認できません。

したがって、
現在描かれるフランクリン遠征の航路図は、
すべての航跡を直接記録したGPSログのようなものではない
ことを理解しておく必要があります。

1846年9月12日は「失踪の日」ではない

フランクリン遠征を紹介する際、
一つ注意したい表現があります。

129人が1845年に北極へ入り、
そのまま消えた。

この言い方は入口としては分かりやすい一方、
実際の時系列をかなり圧縮しています。

遠征隊は1845年夏に突然消滅したわけではありません。

1845~1846年にはBeechey Islandで越冬し、
1846年夏にはさらに南へ進み、
1847年5月にも生存者が記録を残しています。

そして1848年4月まで、
少なくとも105人が生存していたことが記録されています。

したがってフランクリン遠征とは、
一瞬で129人が消えた事件ではなく、数年間かけて外部との情報が途絶えたまま状況が悪化していった遠征
です。

本当の転換点は「1回目の冬」ではなく「2回目の夏」だった

Beechey Islandでの1845~1846年の越冬後、
2隻は再び航行できました。

この事実は重要です。

一度氷の中で冬を過ごしたからといって、
遠征が失敗したわけではありません。

しかし1846年9月に始まった2回目の閉塞では、
翌夏になっても氷が開きませんでした。

ここに、
最初の越冬との決定的な違いがあります。

1回目と2回目の越冬の違い

1845~1846年 1846~1847年
主な場所 Beechey Island King William Island北西
翌夏 再航行できた 再航行できなかった
結果 遠征継続 閉塞継続

フランクリン遠征の危機を理解するには、
「冬になったから動けなかった」のではなく、
翌夏になっても動けなかったことを見る必要がある。

まとめ|1846年9月、航海は「待つ遠征」へ変わった

1845年5月19日、
ErebusとTerrorは134人を乗せて英国を出航しました。

グリーンランドで5人が離脱し、
129人で北極圏へ進みます。

1845年7月下旬には
Baffin Bayで捕鯨船から最後に目撃されました。

そこからLancaster Soundへ入り、
Wellington Channelを北緯77度まで北上。
Cornwallis Islandの西側を戻り、
1845~1846年の冬をBeechey Island周辺で過ごしました。

1846年夏、
2隻は再び航海を開始します。

そしてKing William Island方向へ南下した末、
1846年9月12日
島の北西側で海氷に捕らえられました。

この時点では、
船はまだありました。

人員も大部分が残っていました。

物資も残っていました。

翌夏に氷が開けば、
遠征を再開できる可能性もありました。

しかし、
その夏は来ませんでした。

正確には、
夏は来ても
船が出られる海には戻らなかったのです。

次回は、
フランクリン遠征で最も重要な1枚の文書を読みます。

Victory Point Note。

1847年には「All well」と書かれていた紙に、
1848年には別の文章が追記されていました。

そこには、
フランクリンの死亡、
24人の死、
105人の生存者、
そしてErebusとTerrorを放棄したことが記されていました。


前の記事
← 第3回|フランクリンは何を探していたのか


次の記事
第5回|フランクリン遠征「最後の記録」 →

今回出てきた言葉

Greenhithe
イングランド・ケント州のテムズ川沿いにある場所。
フランクリン遠征のErebusとTerrorは1845年5月19日にここから出航した。
Disko Bay
グリーンランド西岸の湾。
1845年7月、遠征隊はこの地域で最終的な補給を行い、
5人が遠征から外れたため、129人で北極圏へ進んだ。
Beechey Island
現在のカナダ・ヌナブト準州にある島。
フランクリン遠征隊は1845~1846年の最初の冬をこの地域で過ごした。
後の捜索でキャンプ跡や3人の墓が発見された。
King William Island
フランクリン遠征終盤の中心となった島。
ErebusとTerrorは1846年9月、島の北西側の海域で氷に閉じ込められた。
beset
船が密集した海氷に取り囲まれ、
自力で自由に航行できなくなった状態。
船が直ちに沈没・破壊されたことを意味する言葉ではない。
Victory Point Note
1859年にKing William Islandで発見された遠征隊自身の記録。
1846年9月12日からの氷海閉塞を含め、
フランクリン遠征終盤の時系列を知る最重要一次資料。

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集 全10回


  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検

  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊

  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート

  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで【現在の記事】

  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄

  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック

  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言

  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する

  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見

  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

出典・参考資料

本記事は、1845年5月の英国出航から1846年9月12日の氷海閉塞までを扱った。
遠征隊自身の航海日誌が現存していないため、
Victory Point Noteから直接確認できる地点・日付と、
後世に再構成された航路を区別して記述している。
また、Victory Point Note自体にもBeechey Islandの越冬年について誤記があるため、
一次資料であっても他資料・考古学的証拠との照合を前提としている。

映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

遭難・救助

2022年に公開された映画『13人の命(Thirteen Lives)』。

監督は『アポロ13』でも実話の生還劇を映画化したロン・ハワード。

ヴィゴ・モーテンセンがリック・スタントン、コリン・ファレルがジョン・ヴォランセン、ジョエル・エドガートンが麻酔科医リチャード・ハリスを演じている。

題材は、2018年のタムルアン洞窟遭難・救出。

少年サッカーチーム12人とコーチ1人が増水した洞窟に閉じ込められ、9日後に全員生存で発見され、さらに6日後から3日間かけて全員を搬出した実話である。

映画を見ると、

「本当にこんな方法で少年を救出したのか」

と思う場面がいくつもある。

少年を麻酔する。

ケタミンを追加注射する。

フルフェイスマスクを着ける。

意識のない少年を水中へ沈める。

熟練ダイバーが一人ずつ運ぶ。

そして3日間で13人全員を救う。

結論から言えば、

映画でもっとも「映画的」に見える救出方法ほど、実は史実に近い。

一方で、映画作品として成立させるため、水中視界、出来事の時系列、登場人物、会話、救助活動の規模などには再構成が入っている。

『13人の命』はドキュメンタリーではない。

しかし、タムルアン救出の核心部分を大きく作り変えた作品でもない。

「救出の物理構造はかなり忠実。人物と時間は映画として整理されている」

と見るのが最も近い。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較【現在の記事】

先に結論|映画の「信じ難い救出方法」はほぼ実話

『13人の命』で最も驚くのは、少年たちを救出する方法だろう。

通常なら、映画用に誇張された場面と思ってしまう。

しかし、この部分は実際の救出記録とかなり一致している。

映画の描写 史実 判定
英国人洞窟ダイバーが少年たちを発見 リック・スタントンとジョン・ヴォランセンが7月2日に発見 ほぼ史実
少年を麻酔して救出 実際に全身麻酔下で搬送 史実
ケタミンを使用 主要麻酔薬として実際に使用 史実
ダイバーが途中で追加注射 非医師の救出ダイバーも訓練を受け、追加投与を実施 史実
フルフェイスマスクで呼吸 陽圧式フルフェイスマスクを使用 史実
少年を一人ずつ搬送 深部から一人ずつ搬出 史実
サマン・クナンが死亡 7月6日に救助準備中に死亡 史実
排水と山上での水流変更 実際に大規模な排水・地表水迂回を実施 史実
7月8~10日に3日間で全員救出 4人、4人、最後の5人を搬出 史実
水中でもある程度周囲が見える 実際は極端な低視界 映画上の変更
一部の人物・家族 複数人物を統合したキャラクターあり 映画上の再構成

つまり、この映画では、

「信じられないから脚色だろう」と思う部分の多くが実話で、むしろ地味に見える人物配置や時間の方に脚色がある。

映画『13人の命』とは

項目 内容
原題 Thirteen Lives
日本語題 13人の命
公開年 2022年
監督 ロン・ハワード
脚本 ウィリアム・ニコルソン
リック・スタントン ヴィゴ・モーテンセン
ジョン・ヴォランセン コリン・ファレル
リチャード・ハリス ジョエル・エドガートン
題材 2018年タムルアン洞窟遭難・救出

ロン・ハワードにとって、実話の救出MISSIONを映画化するのは初めてではない。

1995年には『アポロ13』を監督している。

本人もタムルアン救出について、『アポロ13』と共通する部分として、

「最善のアイデアが採用される」

という危機対応の構造に惹かれたと説明している。

タムルアンでも同じだった。

誰が提案したかより、

「13人を生きて出すために何が使えるか」

が優先された。

映画は救出当事者を技術顧問にしていた

『13人の命』の再現度が高い大きな理由の一つが、実際の救出ダイバーが制作へ参加していたことである。

13人を発見し、最終救出にも参加したリック・スタントンは、映画の技術顧問を務めた。

同じく救出の中核を担ったジェイソン・マリンソンも制作に参加している。

スタントンは撮影現場に入り、

  • 洞窟ダイバーの身体の使い方
  • 装備の扱い方
  • 狭い場所での移動方法
  • ガイドラインの使い方

などを俳優へ教えた。

ヴィゴ・モーテンセンら主要俳優も潜水訓練を受け、多くの水中場面を本人たちが演じた。

だから潜水装備や身体動作には、通常の「映画のスクーバダイビング」とは違う具体性がある。

最大の違い|実際の水中は、映画ほど見えなかった

リック・スタントン本人が映画と実際の救出との最大の違いとして挙げているのが、

水中視界

である。

映画では、ダイバーの前方、岩、少年、別のダイバーなどを観客が確認できる。

当然ながら、映像作品として何が起きているか見せる必要があるからだ。

実際は違った。

スタントンによれば、良いときでも数フィート程度。

場所によってはほとんど何も見えなかった。

そのため、実際のダイバーは映画のように前方の仲間を目視してコミュニケーションしながら進んでいたわけではない。

視界の悪い水中では、互いの邪魔にならないよう間隔を取り、

ガイドラインを頼りにほぼ単独で進む。

ここは映画化すると再現できない部分だった。

実際と同じ視界にすれば、スクリーンはほとんど濁った水と暗闇になってしまう。

FACT CHECK|映画の洞窟潜水は実際より簡単に見える?

物理的な狭さや装備の動きはかなり忠実に再現されている一方、視覚的には実際より明らかに見やすくされている

これは技術顧問だったリック・スタントン自身が、映画との最大の差として説明している。

したがって映画を見て、

「ライトを照らせば数m先のルートや仲間が見える」

と理解するのは正確ではない。

映画の洞窟は本物のタムルアンで撮影されたのか

ここも違う。

主要な洞窟場面は、実際のタムルアン洞窟では撮影されていない。

制作時期がCOVID-19パンデミックと重なったことなどから、撮影はオーストラリア・クイーンズランド州を中心に行われた。

ロン・ハワードによれば、制作側は5つの洞窟セットを建設した。

当然ながら、実際の水没洞窟で俳優を数km潜らせて撮影することはできない。

ただし、

  • 救出当事者からの情報
  • 洞窟潜水技術
  • 実際の装備
  • 写真・映像・記録

をもとに環境を再現している。

そのため、

「撮影場所は偽物だが、救出作業の動作を再現するためのセット」

と理解すればよい。

スタントンとヴォランセンが13人を見つける場面は史実か

史実である。

2018年7月2日。

英国人洞窟ダイバーのリック・スタントンとジョン・ヴォランセンは、洞窟深部まで捜索ラインを延ばし、少年12人とコーチを発見した。

ただし、本シリーズ第3回で確認した通り、

2人だけで9日間の捜索を完結させたわけではない。

タイ当局。

タイ海軍特殊部隊。

排水チーム。

ボンベを運ぶダイバー。

地上の支援要員。

それらが捜索ルートを成立させていた。

映画は物語の軸としてスタントンとヴォランセンを強く置くが、実際の作戦全体ははるかに大きい。

映画で少年を麻酔するのは本当か

本当である。

しかも、映画用に少し眠らせた程度ではない。

第8回で確認したように、救出参加医師らの医学論文では、少年たちは

  • 呼びかけに反応しない
  • 目的のある動きをしない
  • 自発呼吸は維持する

全身麻酔状態に置かれた。

主要麻酔薬として使用されたのがケタミン。

実際の麻酔計画を中心となって担当したのが、オーストラリア人麻酔科医で洞窟ダイバーでもあったリチャード・ハリスだった。

この重要人物を映画で演じているのがジョエル・エドガートンである。

ダイバーが少年へ注射する場面も実話

映画を初見で見ると、特に作り話に見えるのがここだろう。

医師ではない洞窟ダイバーが、水没洞窟の途中で少年へ麻酔薬を追加注射する。

これも実際に行われた。

ケタミンの作用が出口までずっと同じ強さで続くわけではない。

少年が途中で覚醒すれば、水中でパニックを起こす危険がある。

そこで搬送担当ダイバーは事前に筋肉注射の方法を教えられ、覚醒兆候があれば追加のケタミンを投与した。

救出参加医師らの詳細報告では、一人につき搬送途中に3~4回程度の追加投与が必要になったとされている。

つまり、

映画の中でもっとも危険な脚色に見える場面が、救出史実の中心だった。

FACT CHECK|映画の「ケタミン救出」はハリウッドの脚色?

脚色ではない。

ケタミン、アトロピン、フルフェイスマスク、自発呼吸を組み合わせる救出方法は医学論文として救出参加者自身が記録している。

ただし映画は医療手順のすべてを詳細に説明する作品ではないため、実際の薬剤量や低体温対策などは第8回で扱った医学資料の方が詳しい。

リチャード・ハリスが最初は難色を示したのも大筋では実話

映画では、少年たちを麻酔して潜水搬送する案に対し、リチャード・ハリスが強い不安を示す。

これも単なる劇的演出だけではない。

実際のリック・スタントンは、少年に意識がある状態では安全な搬送が難しいと考え、洞窟ダイバーで麻酔科医でもあるハリスへ協力を求めた。

ハリス自身も、前例のない麻酔救助について成功を確信していたわけではない。

当時想定された結果には、少年が途中で死亡する可能性も含まれていた。

だからこそ、

「麻酔すれば簡単に運べる」

という方法ではなかった。

他の方法より生還の可能性が高いと判断された、非常に危険な方法

だった。

サマン・クナンの死亡は実話だが、映画は時系列を少し動かしている

元タイ海軍特殊部隊員サマン・クナンが救助活動中に死亡したことは史実である。

実際の死亡日は2018年7月6日

最終救出開始は7月8日。

つまり実際には約2日前だった。

映画では、クナンの死と最終救出開始の距離がより近くなるよう時系列が整理されている。

リック・スタントン本人が映画の差異を説明した際にも、クナンの死亡時点が映画では実際より約1日後ろへ動かされていることが紹介されている。

出来事そのものを作ったわけではない。

観客へ「救出ルートが人を死亡させるほど危険だった」と示した直後に最終作戦へ入るよう、時間を圧縮した

と見ることができる。

祈りの場面にも時系列の変更がある

映画では、洞窟入口周辺で人々が祈る場面が印象的に使われている。

祈りそのものが創作というわけではない。

ただしスタントンが映画との違いを説明した記録では、映画で9日目に置かれている祈りの場面が、実際にはより早い2日目から始まっていたとされる。

映画では、多数の出来事を約2時間半の中で理解できるよう並べ替えている。

このような変更は、

「起きなかった出来事を作る」脚色というより、「実際に起きた出来事を別の位置へ置く」時間編集

である。

家族の人物には「複合キャラクター」がいる

映画を見る際に、史実上の人物と一対一で対応しない登場人物もいる。

脚本家ウィリアム・ニコルソンは、少年たちの家族について多くの資料を得た一方、全員を映画へ登場させることはできなかったと説明している。

そこで、

複数の親の経験をまとめた母親の複合キャラクター

を作った。

脚本家自身が、この人物は架空だが実際の家族についての調査をもとに作ったと明言している。

これは実話映画では一般的な方法である。

何十人もの人物をすべて個別に登場させれば、観客は誰が誰なのか分からなくなる。

その代わり、一人の登場人物へ複数人の経験をまとめる。

したがって、

映画に登場するすべての人物を「実在した本人」として史料に使うことはできない。

映画の会話は一次資料ではない

これは特に重要である。

『13人の命』には、

スタントンとヴォランセン。

ハリス。

タイ当局。

タイ海軍特殊部隊。

家族。

さまざまな人物の会話が登場する。

しかし、2018年当時のすべての会話が録音されていたわけではない。

脚本家ウィリアム・ニコルソン自身、実話の枠組みの中で会話などを創作する必要があったと説明している。

したがって、

「映画でスタントンがこう言っていた」

ことを、

「実際に2018年7月にその言葉を発言した」

という証拠にはできない。

映画は史実を理解する入口として使える。

だが、

台詞は史料ではない。

それでも「本当に言った」台詞もある

一方、映画の台詞すべてが創作という意味でもない。

リック・スタントン本人は、映画中で自分の人物像を表す一部の言葉について、

実際に自分が言った、あるいは自分らしい内容だったことを認めている。

つまり映画は、

実在人物への取材。

実際の記録。

脚本上の再構成。

を混ぜて人物を作っている。

だからこそ個々の台詞について、

映画を根拠にFACT判定しない

ことが重要になる。

タイ側の救助活動は映画でもかなり描かれている

海外の実話映画では、

「外国から来た主人公だけが問題を解決した」

という構図になりやすい。

タムルアン救出をその形へしてしまうと史実から離れる。

実際の救出はタイ当局が指揮した。

タイ海軍特殊部隊が早期から洞窟へ入り、発見後には少年たちのもとへ要員を残して支援した。

地上では排水、山中の水流変更、通信、医療、搬送、警備など大量の人員が動いた。

『13人の命』は、この問題を比較的意識して作られている。

映画には、

  • タイ側の現場指揮
  • タイ海軍特殊部隊
  • 水を洞窟からそらす作業
  • 農地へ水を流すことを受け入れる農家
  • 家族や地域住民

も描かれる。

制作側も、「英国人ダイバーだけがタイへ来て救った」という作品にしないことを重視したと説明している。

それでも、実際の救助規模は映画よりはるかに大きい

映画には上映時間がある。

登場人物を数千人出すことはできない。

脚本家ウィリアム・ニコルソンも、膨大な資料から誰を描き、誰を物語の軸にするか選ぶ必要があったと説明している。

最終的に中心に選ばれたのが、

  • リック・スタントン
  • ジョン・ヴォランセン
  • リチャード・ハリス

ら専門ダイバーだった。

そのため映画を見た後には、

「数人の洞窟ダイバーが救出した」

という印象が残りやすい。

しかし実際には、

彼らが最難関部分を担当できるよう、巨大な支援システムが背後で動いていた。

第4回と第7回で見たように、

  • 排水
  • 地表水の迂回
  • 多数のボンベ搬送
  • Chamber 3の前進基地化
  • タイ海軍特殊部隊
  • 米軍医療・搬送支援
  • 地上の大量の搬送要員

が救出を成立させている。

映画はその一部を描いているが、実際の組織規模をそのまま再現しているわけではない。

水をそらしたタイ側の作業は本当にあった

映画では、山上で地表水の流れを変え、洞窟へ入る水を減らそうとする作業も描かれる。

これは映画用のサブストーリーではない。

実際に救助側は、

地下からポンプで水を出すだけでなく、

地表の水路を変え、洞窟へ入る水そのものを減らす作業

を行っていた。

排出された水や迂回された水によって農地が冠水するため、地元農家にも影響が出た。

映画が洞窟ダイバー以外にこの作業を入れたのは、救出が地下だけで行われていたわけではないことを示す意味でも重要である。

一方で、映画から完全に省かれた出来事もある

実際のタムルアン救助は、世界中から注目された。

そのため、多数の人物や組織が救助案を提案している。

有名な例が、イーロン・マスクが提案した小型潜水艇である。

この出来事は当時大きく報道されたが、『13人の命』では主要なストーリーとして扱われていない。

ロン・ハワード作品は、

救出を実際に成立させた工程へ物語を集中させる

方向を選んでいる。

映画に出てこないから、その出来事が存在しなかったわけではない。

逆に、実在したすべての出来事を映画に入れる必要もない。

映画と史実の差を整理する

項目 映画 実際 評価
13人の遭難 増水で洞窟内に孤立 同じ 忠実
発見者 スタントンとヴォランセン 同じ 忠実
潜水救出案 英国人ダイバーらが提案 大筋で同じ 忠実
ハリスの役割 麻酔科医・洞窟ダイバーとして参加 同じ 忠実
ケタミン 少年を麻酔 実際に使用 忠実
追加注射 ダイバーが実施 実際に実施 忠実
フルフェイスマスク 少年へ装着 実際に使用 忠実
サマン・クナン死亡 救助直前に描写 7月6日、救出開始は7月8日 時系列を圧縮
水中視界 人物・岩・ルートを確認可能 極端な低視界 映像化のため変更
洞窟 リアルな洞窟として描写 映画は豪州のセットで撮影 再現セット
親の一部 特定人物として描写 複数の親を統合した人物あり 複合キャラクター
会話 具体的な台詞あり すべてに記録があるわけではない 一部創作
国際支援 主要人物を中心に整理 映画以上に大規模 人物・役割を圧縮

映画は「史実に忠実」なのか

ここまでを見る限り、答えは、

「かなり忠実。ただしドキュメンタリーではない」

になる。

特に、

  • 洞窟潜水の難しさ
  • 13人発見
  • 潜水救出という判断
  • 麻酔
  • ケタミン
  • フルフェイスマスク
  • サマン・クナンの死亡
  • 排水
  • 3日間の搬出

という事件の骨格は史実と一致している。

しかも、救出当事者が制作へ直接参加した。

その一方、

  • 水中を観客に見せる
  • 上映時間内へ収める
  • 登場人物を理解しやすくする
  • 感情の流れを作る

ための変更は当然ある。

だから、

映画を「何が起きたか」を理解する入口には使えるが、「誰がいつ何を言ったか」を確定する史料には使えない。

『THE RESCUE』との違い

タムルアン救助には、もう一つ重要な映像作品がある。

National Geographic Documentary Filmsの

『THE RESCUE』

である。

2021年公開。

監督はエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィとジミー・チン。

こちらは劇映画ではなくドキュメンタリーである。

救助関係者のインタビューや資料を使い、

  • 専門洞窟ダイバー
  • タイ海軍特殊部隊
  • 米空軍特殊戦術要員
  • 国際救助チーム

の救出MISSIONを再構成している。

二作品の役割は少し違う。

『13人の命』 『THE RESCUE』
形式 劇映画 ドキュメンタリー
中心 救助ダイバーを中心としたドラマ 救助当事者の証言と記録
洞窟場面 俳優・セットによる再現 資料・証言・再現を組み合わせる
向いている用途 事件の流れと緊張感を理解する 救出当事者が何を考えていたか確認する

史実を詳しく追うなら、

『13人の命』を見てから『THE RESCUE』を見る

という順序も分かりやすい。

前者でルートと人物を把握し、後者で実際の救助者の証言へ進めるからである。

FACT CHECK|『THE RESCUE』なら映像すべてが2018年当時の実写なのか?

ドキュメンタリーだからといって、画面に出るすべての洞窟内部映像が救出当日の記録映像という意味ではない。

実際の救出は水中視界が極端に悪く、最深部で映画撮影のような記録を行える状況ではなかった。

『THE RESCUE』も、実際の資料、当事者インタビュー、映像上の再構成などを組み合わせて事件を説明している。

ドキュメンタリーも「映像=その瞬間の一次映像」と自動的に扱わない方がよい。

『13人の命』で最も史実に近い部分は何か

一つ挙げるなら、

救出を「英雄一人のひらめき」で終わらせていないこと

である。

専門洞窟ダイバーがいなければ13人まで到達できない。

麻酔科医がいなければ少年を安全に眠らせる方法を設計できない。

タイ側が排水しなければ潜水ルートはさらに危険になる。

地上で水をそらさなければ水位低下を維持できない。

ボンベを運ぶ人がいなければダイバーは奥へ行けない。

Chamber 3以降の搬送要員がいなければ、専門ダイバーは一人を出口まで運ぶだけで拘束される。

つまり救助成功は、

異なる専門能力を一つのMISSIONへ接続した結果

だった。

この構造は映画にもかなり残されている。

逆に、映画だけでは分かりにくいこと

映画を見た後に、本シリーズで補足すべきなのは主に5点ある。

1|発見までの9日間も一つの大規模MISSIONだった

映画では時間が圧縮されるため、捜索ルートを少しずつ延ばした過程は実際より短く感じる。

現実には水位と流速によって何度も前進を止められている。

2|Chamber 3までの補給網が重要だった

大量の呼吸用ボンベや器材を奥へ送り込む地下物流が、最終救出の前提だった。

3|排水は失敗ではない

歩いて全員を出せるまで水を抜くことはできなかったが、入口側の潜水区間を減らし、最終救出を容易にした。

4|麻酔救助は映画以上に医学的だった

アルプラゾラム、アトロピン、ケタミン、80%酸素を含む混合ガス、低体温対策など、実際には詳細な医療プロトコルが組まれていた。

5|「13人全員救出」は13回の搬送成功だった

一つの成功した作戦ではなく、危険な搬送を3日間で13回成立させた結果だった。

映画から入っても問題ない

実話映画を入口として使うこと自体に問題はない。

むしろ『13人の命』は、タムルアン洞窟救出を初めて知る入口としてかなり優れている。

洞窟の狭さ。

水中搬送。

フルフェイスマスク。

Chamber 3。

麻酔救出。

排水。

3日間の最終作戦。

文章だけでは想像しにくい構造を、映像で理解できる。

ただし、

映画を見た後に「本当にそうだったのか」を一度資料へ戻って確認する。

それが実録作品を見るときの最も安全な使い方になる。

CASE FILE 18を映画と対応させると

映画で気になった場面 詳しく確認する記事
なぜ洞窟から戻れなくなった? 第2回|地形・雨季・浸水
どうやって13人を見つけた? 第3回|9日間の捜索
なぜ大量のポンプやボンベが必要? 第4回|排水・酸素・Chamber 3
サマン・クナンはなぜ死亡した? 第5回|死亡事故
なぜ他の救出方法を使わなかった? 第6回|救出案比較
少年をどう運んだ? 第7回|救出ルート
本当に麻酔した? 第8回|ケタミンと救出医療
実際の3日間は? 第9回|救出時系列

まとめ|映画は「大筋が実話」、ただし史料ではない

『13人の命』は、2018年タムルアン洞窟救出をかなり忠実に映画化している。

スタントンとヴォランセンが13人を発見したこと。

サマン・クナンが救助準備中に死亡したこと。

待機や排水だけでは時間が足りなくなったこと。

少年たちを全身麻酔下に置いたこと。

ケタミンを使用したこと。

ダイバーが途中で追加注射したこと。

フルフェイスマスクを使ったこと。

そして7月8日から10日に13人全員を搬出したこと。

事件の骨格は映画の創作ではない。

一方、

水中視界は実際より明るくされている。

出来事の一部は時間を移動している。

複数の家族をまとめた架空の複合キャラクターもいる。

会話のすべてが記録された史実でもない。

数千人規模の救助活動も、限られた登場人物へ整理されている。

したがって、

『13人の命』は、タムルアン救出の「仕組み」を理解する映像資料として非常に有用だが、映画そのものを一次資料にはしない。

映画を入口にする。

公的記録へ戻る。

救助当事者の記録を確認する。

医学論文で救出方法を照合する。

そうすると、映画よりさらに異例だった実際の救出が見えてくる。

6月23日。

少年12人とコーチは洞窟へ入った。

雨によって帰路を失った。

9日後に発見された。

そこから排水と補給線が作られた。

救助要員が一人死亡した。

複数の救出案が比較された。

そして最後に、麻酔された13人を一人ずつ水没洞窟から運び出す方法が選ばれた。

7月10日。

13人全員が地上へ戻った。

映画では約2時間半。

現実では、6月23日から7月10日まで続いた。

その間に作られたのは、一つの奇跡ではない。

絶えず変化する水、時間、人体、装備、技術を一つずつ管理し、救出可能な条件を作り続けたMISSIONだった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出――完。


← 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか


CASE FILE 18|第1回から読む →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

  1. 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?
  2. 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか
  3. 第3回|13人はどう発見されたのか
  4. 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか
  5. 第5回|サマン・クナンの死亡事故
  6. 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか
  7. 第7回|救出ルートはどう設計されたのか
  8. 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか
  9. 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか
  10. 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか【現在の記事】

今回出てきた言葉

【13人の命/Thirteen Lives】
2018年のタムルアン洞窟救出を題材にした2022年の劇映画。監督はロン・ハワード。リック・スタントン、ジョン・ヴォランセン、リチャード・ハリスら専門ダイバーを中心に救出MISSIONを描く。

【ロン・ハワード】
アメリカの映画監督。『アポロ13』など、実際の危機対応・生還を題材にした作品でも知られる。『13人の命』ではタムルアン救出を国際的な共同作戦として映画化した。

【技術顧問】
映画制作で専門技術の正確性を確認する役割。『13人の命』では実際の救出ダイバーであるリック・スタントンやジェイソン・マリンソンらが潜水場面の再現に協力した。

【複合キャラクター】
複数の実在人物の経験や役割を一人の登場人物へまとめた映画上の人物。『13人の命』では家族側の一部人物について、この方法が用いられている。

【THE RESCUE】
National Geographic Documentary Filmsによる2021年のドキュメンタリー。救助当事者へのインタビューなどを使い、タムルアン洞窟救出を再構成する。

【史実検証】
映画・ドラマ・書籍などで描かれた内容を、公的記録、一次資料、当事者証言、学術資料などと照合し、確認可能な事実と作品上の再構成を分離すること。

出典・参考資料

  • Prime Video,
    “Thirteen Lives / 13人の命,”
    2022.
  • British Cave Rescue Council,
    Tham Luang Nang Non Cave Rescue,
    2018年6月~7月各ブリーフィング.
  • UK Cabinet Office,
    “Civilian Gallantry List: 2019,”
    28 December 2018.
  • U.S. Department of Defense,
    “DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,”
    9 July 2018.
  • Lawthaweesawat C, Harris R, Isara W, Pongpirul K.,
    “Prehospital Care of the 13 Hypothermic, Anesthetized Patients in the Thailand Cave Rescue,”
    New England Journal of Medicine,
    2019.
  • van Waart H, Harris RJ, Gant N, et al.,
    “Deep anaesthesia: The Thailand cave rescue and its implications for management of the unconscious diver underwater,”
    Diving and Hyperbaric Medicine,
    2020.
  • National Geographic Documentary Films,
    “The Rescue,”
    2021.
  • Entertainment Weekly,
    Interview with Rick Stanton on Thirteen Lives,
    2022.
  • The Guardian,
    “Going underground: inside Ron Howard’s explosive movie about the Thai cave rescue,”
    22 July 2022.
  • William Nicholson interviews regarding the screenplay and composite characters for Thirteen Lives,
    2022.

本記事では映画『13人の命』を史実の最終根拠にはせず、British Cave Rescue Council、英国政府、米国防総省、救出参加医師らによる医学論文と照合した。映画の制作過程については、監督ロン・ハワード、脚本家ウィリアム・ニコルソン、実際の救出ダイバーで映画の技術顧問を務めたリック・スタントンらのインタビューを使用した。スタントン本人は実際の洞窟潜水と映画の最大の差として水中視界を挙げており、実際には映画より著しく視界が悪かった。また、脚本家ニコルソンは複数の親を統合した架空の複合キャラクターを作ったこと、実話の枠内でも台詞などを創作する必要があったことを明らかにしている。このため、本記事では「救出手順・主要人物・結果は史実に近い」「水中表現・時間配置・人物・会話には映画上の再構成がある」と整理した。映画は有用な入口ではあるが、公的記録や医学資料の代替とは扱っていない。