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フランクリン遠征|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで

遭難・救助

STORY SO FAR

前回「フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート」で確認した論点を受け、この回では遠征隊はどこで動けなくなったのか | 1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まででは、出来事はどの順序で進んだのか。を扱う。

1845年5月19日、
HMS ErebusとHMS Terrorは英国を出航しました。

約3年分の物資。
極地航海用に補強された船体。
補助蒸気機関。
129人の遠征隊。

目指したのは、
カナダ北極諸島を抜けて大西洋と太平洋を結ぶ
北西航路でした。

出発から最初の冬までは、
少なくとも遠征そのものが破綻していた形跡はありません。

遠征隊はグリーンランドで最後の補給を行い、
Lancaster Soundへ入り、
Wellington Channelを北へ調査し、
1845~1846年の冬をBeechey Islandで越しました。

1846年の夏には再び船を動かし、
Peel Sound方面からさらに南へ進みます。

そして1846年9月12日。

King William Island北西の海域で、
ErebusとTerrorは海氷に捕らえられました。

この時点で船が壊れたわけではありません。
沈没したわけでもありません。

問題は、
海そのものが船を動かせない状態になったことでした。

第4回では1845年5月の出航から、
1846年9月に2隻が動けなくなるまでを時系列で追います。

この記事で分かること

  • フランクリン遠征は1845年5月にどこから出航したのか
  • 出航時134人だった人数が、なぜ129人になったのか
  • 遠征隊が欧州側から最後に目撃されたのはいつだったのか
  • 1845年にWellington Channelをどこまで北上したのか
  • 最初の冬を過ごしたBeechey Islandはどこなのか
  • 1846年に2隻はどの方向へ進んだのか
  • 「1846年9月12日」という日付は何を根拠にしているのか
  • 海氷に「閉じ込められる」とはどのような状態なのか
  • この時点ですでに遠征失敗が確定していたのか

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

先に結論|危機の始まりは「船が壊れた瞬間」ではなかった

フランクリン遠征には、
事故機が墜落するような
明確な一瞬の破局がありません。

少なくとも1846年9月の段階で、
ErebusとTerrorが重大な損傷を受けたという記録は残っていません。

遠征隊自身が残したVictory Point Noteに書かれているのは、
2隻が
1846年9月12日から「beset(海氷に取り囲まれ、動けない状態)」になった
という事実です。

北極探検では、
船が冬のあいだ氷に閉じ込められること自体は
必ずしも異常ではありません。

海氷の中で越冬し、
翌夏に氷が緩んだところで航海を再開する。

それ自体は、
19世紀の極地探検で想定されていた行動でした。

フランクリン遠征を破滅へ向かわせたのは、
1846年に氷に捕まったことそのものではなく、その氷から翌年になっても解放されなかったこと
です。

したがって1846年9月12日は、
「遠征隊が全滅すると決まった日」ではありません。

後から振り返ったとき、
通常の探検航海と長期閉塞を分けた
最初の大きな転換点です。

1845年5月19日|ErebusとTerrorが英国を出航

フランクリン遠征は
1845年5月19日、
ロンドン東方のGreenhitheから出発しました。

Royal Museums Greenwichによれば、
ErebusとTerrorは午前10時30分ごろ、
曳航されながらテムズ川を下り始めています。

出航時の人数は
134人でした。

遠征全体を指揮するジョン・フランクリンはErebusに乗船。
Erebusの艦長はジェームズ・フィッツジェームズ、
Terrorはフランシス・クロージャーが指揮しました。

船内には数年分の食料と物資、
科学観測機器、
石炭、
小艇、
陸上移動用の装備などが積み込まれていました。

この段階では、
「帰還できない遠征」になる兆候が明確に表れていたわけではありません。

1845年7月|グリーンランドで最後の補給

遠征隊は北大西洋を進み、
1845年7月にグリーンランド西岸のDisko Bay周辺へ到達します。

ここで補給船
Barreto Juniorから物資を受け取りました。

同時に、
遠征を継続しない5人が英国へ戻ります。

Parks Canadaは、
この5人を病気などによって遠征から外された
「invalidated crew members」と説明しています。

こうして、
この先へ進む人数は
129人となりました。

FACT CHECK|「129人で英国を出発した」のか

出航時:134人

グリーンランドで離脱:5人

北極諸島へ進んだ人数:129人

そのため「フランクリン遠征の129人」という表現は一般的ですが、
正確には英国出航時は134人、最終補給後に129人です。

1845年7月下旬|欧州側から最後に目撃される

Disko Bayを離れたErebusとTerrorは、
Baffin Bayを北上しました。

1845年7月下旬、
2隻は北部Baffin Bayで捕鯨船から目撃されています。

Royal Museums Greenwichの資料では、
Terrorは7月28日に捕鯨船Enterpriseから
氷山のそばにいるところを確認されたとされています。

別の同館資料では、
2隻がLancaster Sound方面へ向かっているところを
2隻の捕鯨船が7月末に目撃したと整理されています。

これが、
フランクリン遠征隊を欧州側の船員が確認した
最後の目撃記録となりました。

この先、遠征隊から英国へ手紙が届くことはありません。

ただし、
ここで遠征隊が消滅したわけではありません。

後に発見された遺物と記録から、
このあと少なくとも約3年間にわたる行動の一部を
復元することができます。

1845年夏|Lancaster Soundへ入る

2隻はBaffin Bayから
Lancaster Soundへ入りました。

ここは北西航路探索の東側入口です。

第3回で見たように、
Lancaster Soundそのものは
フランクリン以前にも英国海軍の探検船が航行していました。

つまりこの段階では、
完全な未知海域へ突入したわけではありません。

問題はその先でした。

1845年|Wellington Channelを北緯77度まで北上する

遠征隊はBarrow Straitから、
Wellington Channelへ入りました。

そして後に発見されたVictory Point Noteによれば、
北緯77度まで北上しています。

その後、
Cornwallis Islandの西側を通って南へ戻りました。

ここで注意したいのが、
この情報の出所です。

フランクリン遠征の詳細な航海日誌が
現在までまとまった形で発見されているわけではありません。

1845年の航路について現在分かっている重要情報の多くは、
1847年に遠征隊が残した短い記録から逆算されています。

そのため、
「なぜ北緯77度まで進んだのか」
「各地点で何日間滞在したのか」
「どの時点で進路を変更したのか」
といった細かな判断過程までは分かっていません。

1845~1846年冬|Beechey Islandで越冬

Wellington Channelから戻ったErebusとTerrorは、
1845年から1846年にかけて
Beechey Island周辺で最初の冬を過ごしました。

Beechey IslandはDevon Island南西側に位置する。
フランクリン遠征隊は1845~1846年の最初の冬をこの周辺で過ごした。
Google Mapは現在の地理を示すものであり、当時の海氷状態や船の正確な停泊位置を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る

後の捜索では、
ここから遠征隊のキャンプ跡や
3人の隊員の墓が発見されました。

死亡したのは
John Torrington、
John Hartnell、
William Braineです。

つまり最初の冬の段階で、
すでに隊員の死亡は発生していました。

ただし、
3人の死だけを見て
「この時点ですでに遠征隊が崩壊していた」
と判断するのも早すぎます。

翌1846年、
遠征隊は再び2隻を動かして
さらに南へ進むことができています。

Victory Point Noteには越冬年の誤記がある

フランクリン遠征の一次資料を扱ううえで、
興味深い点があります。

1859年に発見されたVictory Point Noteには、
Beechey Islandで
「1846~1847年に越冬した」
という記述があります。

しかしこれは誤りです。

実際の越冬は
1845~1846年でした。

1859年に記録を公表したフランシス・マクリントック自身も、
この日付が誤記であることを指摘しています。

文書が1847年5月28日付であり、
その同じ記録の中に
すでに1846年9月から船が氷に閉じ込められていることが書かれているため、
1846~1847年にBeechey Islandで越冬したという記述とは両立しません。[1]

一次資料でも間違うことがある

Victory Point Noteは、
フランクリン遠征を理解するための最重要一次資料です。

しかし、
一次資料だから内容のすべてが自動的に正しいわけではありません。

Beechey Islandの越冬年については明確な誤記が含まれているため、
他の時系列・考古学的証拠と照合する必要があります。

1846年夏|2隻は再び動き始めた

1846年、
海氷が航行できる状態になると、
ErebusとTerrorはBeechey Island周辺を離れます。

ここから2隻は
カナダ北極諸島をさらに南へ進みました。

後世の航路復元では、
遠征隊はPeel Soundを通って
King William Island方向へ進んだと考えられています。

ただし、
ここでも証拠の性格を区別する必要があります。

Victory Point Noteは
「Wellington Channelを北緯77度まで進んだ」
「Cornwallis Island西側を戻った」
「King William Island北西で氷に捕らえられた」
という両端の情報を残しています。

一方、
その間の航海日誌は現存していません。

そのためPeel Sound経由という航路は、
遠征隊の到達地点と地理条件から再構成されたものとして扱うのが安全です。

King William Islandへ近づく

現在の地図を見ると、
King William Islandは
カナダ北極諸島の南寄りにあります。

フランクリンたちは、
北西航路の東側からかなり深いところまで
船を進めていました。

King William Island周辺。ErebusとTerrorは1846年9月、
島の北西側の海域で海氷に捕らえられた。
正確な閉塞地点についてVictory Point Noteは北緯70度05分・西経98度23分を記録している。


記録された閉塞地点付近をGoogleマップで見る

遠征隊自身の記録によれば、
1847年5月時点で2隻は
北緯70度05分、西経98度23分
付近にいました。[5]

ここが、
1846年秋以降の遠征を理解する中心地点になります。

1846年9月12日|船が海氷に捕らえられる

そして
1846年9月12日。

ErebusとTerrorは
King William Island北西側の海域で
海氷に捕らえられました。

この日付は、
後世の推定ではありません。

1848年4月にクロージャーとフィッツジェームズが
Victory Point Noteへ追記した文章に、
2隻は
「1846年9月12日からbesetされていた」
と記されています。

この短い記述は、
フランクリン遠征の時系列を考えるうえで極めて重要です。

1845年5月の出航から、
約16か月。

遠征隊はここまで船を失わず、
King William Island近くまで到達していました。

そしてこの日から、
航海の性格が変わります。

「beset」とは何が起きた状態なのか

Victory Point Noteで使われた
besetという言葉は、
単に「周囲に氷があった」という意味ではありません。

船の周囲を海氷が取り囲み、
船自身の帆や補助動力では
自由に航行できない状態を指します。

木造船がその場で直ちに破壊される必要はありません。

船体が無傷でも、
周囲の海が連続した氷に変われば進めなくなります。

さらに海氷は完全に静止しているわけではありません。

風や海流によって氷全体が移動すると、
その中に閉じ込められた船も
氷と一緒に動くことがあります。

Royal Museums Greenwichは、
ErebusとTerrorが閉じ込められた後、
氷とともに南方向へ漂流したと説明しています。

船体強度では解決できない問題だった

第2回で見たように、
ErebusとTerrorは海氷を想定して
船体を補強されていました。

しかし、
氷に耐える能力と、氷の中を進む能力は別です。

2隻は現代の砕氷船のように、
船首で厚い海氷へ乗り上げ、
船体重量で氷を破壊しながら航行する船ではありません。

補助蒸気機関もありますが、
搭載できる石炭には限界があります。

さらに周囲を密な海氷に囲まれてしまえば、
プロペラを回す余地そのものが失われます。

頑丈な船体は
「すぐ潰されない」ためには役立ちます。

しかし、
海を開くことはできません。

1846年9月の時点では、まだ「異常事態」とは言い切れない

後の結末を知っていると、
1846年9月12日を
「破滅が決まった日」のように見てしまいます。

しかし当時の隊員たちが
同じ認識だったとは限りません。

極地航海では、
冬になる前に船を安全な氷の中へ置き、
そのまま越冬することがあります。

フランクリン遠征自身も、
前年はBeechey Islandで冬を越していました。

1846年秋に氷へ捕らえられた時点では、
翌1847年の夏に再び氷が開き、航海を続けられる
という期待を持つことは不自然ではありません。

船内にはまだ物資があり、
2隻も存在していました。

そして1847年5月に残された最初のVictory Point Noteには、
遠征隊の状態について
「All well」
と書かれています。

少なくとも記録上は、
1846年秋の閉塞直後に
遠征全体が完全な危機状態へ陥ったとは確認できません。

問題は「次の夏」に起きた

本当の意味で状況が深刻になるのは、
その後です。

通常期待するなら、
1847年夏に氷が緩み、
2隻は再び動き始めるはずでした。

しかし、
ErebusとTerrorは解放されませんでした。

1846年9月から始まった海氷閉塞は、
1847年を越えて続きます。

その間の
1847年6月11日、
遠征隊指揮官ジョン・フランクリンが死亡しました。

そして最終的には、
1848年4月22日まで
2隻は放棄されませんでした。

つまり遠征隊は、
約1年7か月にわたって
同じ氷海から脱出できなかったことになります。

ここで、
一度の越冬は
長期閉塞へ変わりました。

1845年5月から1846年9月までを時系列で整理する

時期 場所 確認できる出来事 証拠の性格
1845年5月19日 Greenhithe 134人で英国を出航 当時資料・公的資料
1845年7月 Disko Bay周辺 補給。5人が遠征から離れ、129人となる 公的資料
1845年7月下旬 Baffin Bay 捕鯨船から最後に目撃される 当時の目撃記録
1845年 Wellington Channel 北緯77度まで北上 Victory Point Note
1845年 Cornwallis Island西側 西岸側を通って南へ戻る Victory Point Note
1845~1846年冬 Beechey Island 最初の越冬 記録+考古学的痕跡
1846年夏 Peel Sound方面 南下してKing William Island方面へ進む 航路の再構成
1846年9月12日 King William Island北西 ErebusとTerrorが海氷に閉じ込められる Victory Point Note

この時系列で「確定していない部分」はどこか

フランクリン遠征は、
航路がすべて1日単位で分かっている探検ではありません。

現在の時系列には、
証拠の濃淡があります。

たとえば
「1846年9月12日に氷に閉じ込められた」
という日付は、
遠征隊自身が残した記録から直接確認できます。

一方、
1846年夏にBeechey Islandから
King William Islandまで
どの日時に、どの速度で、
どの地点を通過したかは分かりません。

詳細な航海日誌が失われているからです。

同じように、
Wellington Channelを北上した判断理由も確認できません。

したがって、
現在描かれるフランクリン遠征の航路図は、
すべての航跡を直接記録したGPSログのようなものではない
ことを理解しておく必要があります。

1846年9月12日は「失踪の日」ではない

フランクリン遠征を紹介する際、
一つ注意したい表現があります。

129人が1845年に北極へ入り、
そのまま消えた。

この言い方は入口としては分かりやすい一方、
実際の時系列をかなり圧縮しています。

遠征隊は1845年夏に突然消滅したわけではありません。

1845~1846年にはBeechey Islandで越冬し、
1846年夏にはさらに南へ進み、
1847年5月にも生存者が記録を残しています。[1]

そして1848年4月まで、
少なくとも105人が生存していたことが記録されています。

したがってフランクリン遠征とは、
一瞬で129人が消えた事件ではなく、数年間かけて外部との情報が途絶えたまま状況が悪化していった遠征
です。

本当の転換点は「1回目の冬」ではなく「2回目の夏」だった

Beechey Islandでの1845~1846年の越冬後、
2隻は再び航行できました。

この事実は重要です。

一度氷の中で冬を過ごしたからといって、
遠征が失敗したわけではありません。

しかし1846年9月に始まった2回目の閉塞では、
翌夏になっても氷が開きませんでした。

ここに、
最初の越冬との決定的な違いがあります。

1回目と2回目の越冬の違い

1845~1846年 1846~1847年
主な場所 Beechey Island King William Island北西
翌夏 再航行できた 再航行できなかった
結果 遠征継続 閉塞継続

フランクリン遠征の危機を理解するには、
「冬になったから動けなかった」のではなく、
翌夏になっても動けなかったことを見る必要がある。

まとめ|1846年9月、航海は「待つ遠征」へ変わった

1845年5月19日、
ErebusとTerrorは134人を乗せて英国を出航しました。

グリーンランドで5人が離脱し、
129人で北極圏へ進みます。

1845年7月下旬には
Baffin Bayで捕鯨船から最後に目撃されました。

そこからLancaster Soundへ入り、
Wellington Channelを北緯77度まで北上。
Cornwallis Islandの西側を戻り、
1845~1846年の冬をBeechey Island周辺で過ごしました。

1846年夏、
2隻は再び航海を開始します。

そしてKing William Island方向へ南下した末、
1846年9月12日、
島の北西側で海氷に捕らえられました。

この時点では、
船はまだありました。

人員も大部分が残っていました。

物資も残っていました。

翌夏に氷が開けば、
遠征を再開できる可能性もありました。

しかし、
その夏は来ませんでした。

正確には、
夏は来ても
船が出られる海には戻らなかったのです。

次回は、
フランクリン遠征で最も重要な1枚の文書を読みます。

Victory Point Note。

1847年には「All well」と書かれていた紙に、
1848年には別の文章が追記されていました。

そこには、
フランクリンの死亡、
24人の死、
105人の生存者、
そしてErebusとTerrorを放棄したことが記されていました。

今回出てきた言葉

Greenhithe
イングランド・ケント州のテムズ川沿いにある場所。
フランクリン遠征のErebusとTerrorは1845年5月19日にここから出航した。
Disko Bay
グリーンランド西岸の湾。
1845年7月、遠征隊はこの地域で最終的な補給を行い、
5人が遠征から外れたため、129人で北極圏へ進んだ。
Beechey Island
現在のカナダ・ヌナブト準州にある島。
フランクリン遠征隊は1845~1846年の最初の冬をこの地域で過ごした。
後の捜索でキャンプ跡や3人の墓が発見された。
King William Island
フランクリン遠征終盤の中心となった島。
ErebusとTerrorは1846年9月、島の北西側の海域で氷に閉じ込められた。
beset
船が密集した海氷に取り囲まれ、
自力で自由に航行できなくなった状態。
船が直ちに沈没・破壊されたことを意味する言葉ではない。
Victory Point Note
1859年にKing William Islandで発見された遠征隊自身の記録。
1846年9月12日からの氷海閉塞を含め、
フランクリン遠征終盤の時系列を知る最重要一次資料。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Parks Canada — Franklin’s 1845 expedition 1845年5月19日の出航、134人から129人への人数変化、 Beechey Islandでの1845~1846年の越冬、 1846年9月のKing William Island北西での氷海閉塞確認に使用。
  2. [2] Royal Museums Greenwich — How do you prepare for an expedition to the Arctic? 1845年5月19日のGreenhithe出航、 午前10時30分ごろの出発、遠征準備の確認に使用。
  3. [3] Royal Museums Greenwich — Relics from Sir John Franklin’s last expedition 1845年7月末の最終目撃、 Wellington ChannelからBeechey Island、 Peel Sound方面を経た航路、 King William Island付近での氷海閉塞に関する確認に使用。
  4. [4] Royal Museums Greenwich — HMS Terror and Sir John Franklin’s final expedition 1845年7月28日のTerror目撃記録、 その後の氷海閉塞と船体放棄に関する確認に使用。
  5. [5] Franklin Expedition Record — Victory Point Note Wellington Channel北緯77度、 Cornwallis Island西側からの帰還、 Beechey Island越冬記録、 北緯70度05分・西経98度23分、 1846年9月12日からの氷海閉塞を確認する一次資料として使用。
  6. [6] Francis Leopold McClintock — Voyage of the Fox / Franklin record Victory Point Note本文と、 Beechey Islandの越冬年が「1846~1847年」と誤記されていることを McClintock自身が指摘した記録の確認に使用。
  7. [7] Parks Canada — Searching for Franklin Victory Point Noteに残された1846年9月以降の閉塞、 1847年・1848年の記録が後世に発見された経緯の確認に使用。

タムルアン洞窟遭難・救出|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較

遭難・救助

STORY SO FAR

前回「2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う」で確認した論点を受け、この回では映画『13人の命』はどこまで実話なのか | タムルアン洞窟救出の史実と比較の場所・空間条件は事件理解にどう関わるのか。を扱う。

2022年に公開された映画『13人の命(Thirteen Lives)』。

監督は『アポロ13』でも実話の生還劇を映画化したロン・ハワード。

ヴィゴ・モーテンセンがリック・スタントン、コリン・ファレルがジョン・ヴォランセン、ジョエル・エドガートンが麻酔科医リチャード・ハリスを演じている。

題材は、2018年のタムルアン洞窟遭難・救出。

少年サッカーチーム12人とコーチ1人が増水した洞窟に閉じ込められ、9日後に全員生存で発見され、さらに6日後から3日間かけて全員を搬出した実話である。[2]

映画を見ると、

「本当にこんな方法で少年を救出したのか」

と思う場面がいくつもある。

少年を麻酔する。

ケタミンを追加注射する。

フルフェイスマスクを着ける。

意識のない少年を水中へ沈める。

熟練ダイバーが一人ずつ運ぶ。

そして3日間で13人全員を救う。

結論から言えば、

映画でもっとも「映画的」に見える救出方法ほど、実は史実に近い。

一方で、映画作品として成立させるため、水中視界、出来事の時系列、登場人物、会話、救助活動の規模などには再構成が入っている。

『13人の命』はドキュメンタリーではない。

しかし、タムルアン救出の核心部分を大きく作り変えた作品でもない。

「救出の物理構造はかなり忠実。人物と時間は映画として整理されている」

と見るのが最も近い。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

先に結論|映画の「信じ難い救出方法」はほぼ実話

『13人の命』で最も驚くのは、少年たちを救出する方法だろう。

通常なら、映画用に誇張された場面と思ってしまう。

しかし、この部分は実際の救出記録とかなり一致している。

映画の描写 史実 判定
英国人洞窟ダイバーが少年たちを発見 リック・スタントンとジョン・ヴォランセンが7月2日に発見 ほぼ史実
少年を麻酔して救出 実際に全身麻酔下で搬送 史実
ケタミンを使用 主要麻酔薬として実際に使用 史実
ダイバーが途中で追加注射 非医師の救出ダイバーも訓練を受け、追加投与を実施 史実
フルフェイスマスクで呼吸 陽圧式フルフェイスマスクを使用 史実
少年を一人ずつ搬送 深部から一人ずつ搬出 史実
サマン・クナンが死亡 7月6日に救助準備中に死亡 史実
排水と山上での水流変更 実際に大規模な排水・地表水迂回を実施 史実
7月8~10日に3日間で全員救出 4人、4人、最後の5人を搬出 史実
水中でもある程度周囲が見える 実際は極端な低視界 映画上の変更
一部の人物・家族 複数人物を統合したキャラクターあり 映画上の再構成

つまり、この映画では、

「信じられないから脚色だろう」と思う部分の多くが実話で、むしろ地味に見える人物配置や時間の方に脚色がある。

映画『13人の命』とは

項目 内容
原題 Thirteen Lives
日本語題 13人の命
公開年 2022年
監督 ロン・ハワード
脚本 ウィリアム・ニコルソン
リック・スタントン ヴィゴ・モーテンセン
ジョン・ヴォランセン コリン・ファレル
リチャード・ハリス ジョエル・エドガートン
題材 2018年タムルアン洞窟遭難・救出

ロン・ハワードにとって、実話の救出MISSIONを映画化するのは初めてではない。

1995年には『アポロ13』を監督している。

本人もタムルアン救出について、『アポロ13』と共通する部分として、

「最善のアイデアが採用される」

という危機対応の構造に惹かれたと説明している。

タムルアンでも同じだった。

誰が提案したかより、

「13人を生きて出すために何が使えるか」

が優先された。

映画は救出当事者を技術顧問にしていた

『13人の命』の再現度が高い大きな理由の一つが、実際の救出ダイバーが制作へ参加していたことである。

13人を発見し、最終救出にも参加したリック・スタントンは、映画の技術顧問を務めた。

同じく救出の中核を担ったジェイソン・マリンソンも制作に参加している。

スタントンは撮影現場に入り、

  • 洞窟ダイバーの身体の使い方
  • 装備の扱い方
  • 狭い場所での移動方法
  • ガイドラインの使い方

などを俳優へ教えた。

ヴィゴ・モーテンセンら主要俳優も潜水訓練を受け、多くの水中場面を本人たちが演じた。

だから潜水装備や身体動作には、通常の「映画のスクーバダイビング」とは違う具体性がある。

最大の違い|実際の水中は、映画ほど見えなかった

リック・スタントン本人が映画と実際の救出との最大の違いとして挙げているのが、

水中視界

である。

映画では、ダイバーの前方、岩、少年、別のダイバーなどを観客が確認できる。

当然ながら、映像作品として何が起きているか見せる必要があるからだ。

実際は違った。

スタントンによれば、良いときでも数フィート程度。

場所によってはほとんど何も見えなかった。

そのため、実際のダイバーは映画のように前方の仲間を目視してコミュニケーションしながら進んでいたわけではない。

視界の悪い水中では、互いの邪魔にならないよう間隔を取り、

ガイドラインを頼りにほぼ単独で進む。

ここは映画化すると再現できない部分だった。

実際と同じ視界にすれば、スクリーンはほとんど濁った水と暗闇になってしまう。

FACT CHECK|映画の洞窟潜水は実際より簡単に見える?

物理的な狭さや装備の動きはかなり忠実に再現されている一方、視覚的には実際より明らかに見やすくされている。

これは技術顧問だったリック・スタントン自身が、映画との最大の差として説明している。

したがって映画を見て、

「ライトを照らせば数m先のルートや仲間が見える」

と理解するのは正確ではない。

映画の洞窟は本物のタムルアンで撮影されたのか

ここも違う。

主要な洞窟場面は、実際のタムルアン洞窟では撮影されていない。

制作時期がCOVID-19パンデミックと重なったことなどから、撮影はオーストラリア・クイーンズランド州を中心に行われた。

ロン・ハワードによれば、制作側は5つの洞窟セットを建設した。

当然ながら、実際の水没洞窟で俳優を数km潜らせて撮影することはできない。

ただし、

  • 救出当事者からの情報
  • 洞窟潜水技術
  • 実際の装備
  • 写真・映像・記録

をもとに環境を再現している。

そのため、

「撮影場所は偽物だが、救出作業の動作を再現するためのセット」

と理解すればよい。

スタントンとヴォランセンが13人を見つける場面は史実か

史実である。

2018年7月2日。

英国人洞窟ダイバーのリック・スタントンとジョン・ヴォランセンは、洞窟深部まで捜索ラインを延ばし、少年12人とコーチを発見した。

ただし、本シリーズ第3回で確認した通り、

2人だけで9日間の捜索を完結させたわけではない。

タイ当局。

タイ海軍特殊部隊。

排水チーム。

ボンベを運ぶダイバー。

地上の支援要員。

それらが捜索ルートを成立させていた。

映画は物語の軸としてスタントンとヴォランセンを強く置くが、実際の作戦全体ははるかに大きい。

映画で少年を麻酔するのは本当か

本当である。

しかも、映画用に少し眠らせた程度ではない。

第8回で確認したように、救出参加医師らの医学論文では、少年たちは

  • 呼びかけに反応しない
  • 目的のある動きをしない
  • 自発呼吸は維持する

全身麻酔状態に置かれた。

主要麻酔薬として使用されたのがケタミン。

実際の麻酔計画を中心となって担当したのが、オーストラリア人麻酔科医で洞窟ダイバーでもあったリチャード・ハリスだった。

この重要人物を映画で演じているのがジョエル・エドガートンである。

ダイバーが少年へ注射する場面も実話

映画を初見で見ると、特に作り話に見えるのがここだろう。

医師ではない洞窟ダイバーが、水没洞窟の途中で少年へ麻酔薬を追加注射する。

これも実際に行われた。

ケタミンの作用が出口までずっと同じ強さで続くわけではない。

少年が途中で覚醒すれば、水中でパニックを起こす危険がある。

そこで搬送担当ダイバーは事前に筋肉注射の方法を教えられ、覚醒兆候があれば追加のケタミンを投与した。

救出参加医師らの詳細報告では、一人につき搬送途中に3~4回程度の追加投与が必要になったとされている。

つまり、

映画の中でもっとも危険な脚色に見える場面が、救出史実の中心だった。

FACT CHECK|映画の「ケタミン救出」はハリウッドの脚色?

脚色ではない。

ケタミン、アトロピン、フルフェイスマスク、自発呼吸を組み合わせる救出方法は医学論文として救出参加者自身が記録している。

ただし映画は医療手順のすべてを詳細に説明する作品ではないため、実際の薬剤量や低体温対策などは第8回で扱った医学資料の方が詳しい。

リチャード・ハリスが最初は難色を示したのも大筋では実話

映画では、少年たちを麻酔して潜水搬送する案に対し、リチャード・ハリスが強い不安を示す。

これも単なる劇的演出だけではない。

実際のリック・スタントンは、少年に意識がある状態では安全な搬送が難しいと考え、洞窟ダイバーで麻酔科医でもあるハリスへ協力を求めた。

ハリス自身も、前例のない麻酔救助について成功を確信していたわけではない。

当時想定された結果には、少年が途中で死亡する可能性も含まれていた。

だからこそ、

「麻酔すれば簡単に運べる」

という方法ではなかった。

他の方法より生還の可能性が高いと判断された、非常に危険な方法

だった。

サマン・クナンの死亡は実話だが、映画は時系列を少し動かしている

元タイ海軍特殊部隊員サマン・クナンが救助活動中に死亡したことは史実である。

実際の死亡日は2018年7月6日。

最終救出開始は7月8日。

つまり実際には約2日前だった。

映画では、クナンの死と最終救出開始の距離がより近くなるよう時系列が整理されている。

リック・スタントン本人が映画の差異を説明した際にも、クナンの死亡時点が映画では実際より約1日後ろへ動かされていることが紹介されている。

出来事そのものを作ったわけではない。

観客へ「救出ルートが人を死亡させるほど危険だった」と示した直後に最終作戦へ入るよう、時間を圧縮した

と見ることができる。

祈りの場面にも時系列の変更がある

映画では、洞窟入口周辺で人々が祈る場面が印象的に使われている。

祈りそのものが創作というわけではない。

ただしスタントンが映画との違いを説明した記録では、映画で9日目に置かれている祈りの場面が、実際にはより早い2日目から始まっていたとされる。[4]

映画では、多数の出来事を約2時間半の中で理解できるよう並べ替えている。

このような変更は、

「起きなかった出来事を作る」脚色というより、「実際に起きた出来事を別の位置へ置く」時間編集

である。

家族の人物には「複合キャラクター」がいる

映画を見る際に、史実上の人物と一対一で対応しない登場人物もいる。

脚本家ウィリアム・ニコルソンは、少年たちの家族について多くの資料を得た一方、全員を映画へ登場させることはできなかったと説明している。

そこで、

複数の親の経験をまとめた母親の複合キャラクター

を作った。

脚本家自身が、この人物は架空だが実際の家族についての調査をもとに作ったと明言している。

これは実話映画では一般的な方法である。

何十人もの人物をすべて個別に登場させれば、観客は誰が誰なのか分からなくなる。

その代わり、一人の登場人物へ複数人の経験をまとめる。

したがって、

映画に登場するすべての人物を「実在した本人」として史料に使うことはできない。

映画の会話は一次資料ではない

これは特に重要である。

『13人の命』には、

スタントンとヴォランセン。

ハリス。

タイ当局。

タイ海軍特殊部隊。

家族。

さまざまな人物の会話が登場する。

しかし、2018年当時のすべての会話が録音されていたわけではない。

脚本家ウィリアム・ニコルソン自身、実話の枠組みの中で会話などを創作する必要があったと説明している。

したがって、

「映画でスタントンがこう言っていた」

ことを、

「実際に2018年7月にその言葉を発言した」

という証拠にはできない。

映画は史実を理解する入口として使える。

だが、

台詞は史料ではない。

それでも「本当に言った」台詞もある

一方、映画の台詞すべてが創作という意味でもない。

リック・スタントン本人は、映画中で自分の人物像を表す一部の言葉について、

実際に自分が言った、あるいは自分らしい内容だったことを認めている。

つまり映画は、

実在人物への取材。

実際の記録。

脚本上の再構成。

を混ぜて人物を作っている。

だからこそ個々の台詞について、

映画を根拠にFACT判定しない

ことが重要になる。

タイ側の救助活動は映画でもかなり描かれている

海外の実話映画では、

「外国から来た主人公だけが問題を解決した」

という構図になりやすい。

タムルアン救出をその形へしてしまうと史実から離れる。

実際の救出はタイ当局が指揮した。

タイ海軍特殊部隊が早期から洞窟へ入り、発見後には少年たちのもとへ要員を残して支援した。

地上では排水、山中の水流変更、通信、医療、搬送、警備など大量の人員が動いた。

『13人の命』は、この問題を比較的意識して作られている。

映画には、

  • タイ側の現場指揮
  • タイ海軍特殊部隊
  • 水を洞窟からそらす作業
  • 農地へ水を流すことを受け入れる農家
  • 家族や地域住民

も描かれる。

制作側も、「英国人ダイバーだけがタイへ来て救った」という作品にしないことを重視したと説明している。

それでも、実際の救助規模は映画よりはるかに大きい

映画には上映時間がある。

登場人物を数千人出すことはできない。

脚本家ウィリアム・ニコルソンも、膨大な資料から誰を描き、誰を物語の軸にするか選ぶ必要があったと説明している。

最終的に中心に選ばれたのが、

  • リック・スタントン
  • ジョン・ヴォランセン
  • リチャード・ハリス

ら専門ダイバーだった。

そのため映画を見た後には、

「数人の洞窟ダイバーが救出した」

という印象が残りやすい。

しかし実際には、

彼らが最難関部分を担当できるよう、巨大な支援システムが背後で動いていた。

第4回と第7回で見たように、

  • 排水
  • 地表水の迂回
  • 多数のボンベ搬送
  • Chamber 3の前進基地化
  • タイ海軍特殊部隊
  • 米軍医療・搬送支援
  • 地上の大量の搬送要員

が救出を成立させている。

映画はその一部を描いているが、実際の組織規模をそのまま再現しているわけではない。

水をそらしたタイ側の作業は本当にあった

映画では、山上で地表水の流れを変え、洞窟へ入る水を減らそうとする作業も描かれる。

これは映画用のサブストーリーではない。

実際に救助側は、

地下からポンプで水を出すだけでなく、

地表の水路を変え、洞窟へ入る水そのものを減らす作業

を行っていた。

排出された水や迂回された水によって農地が冠水するため、地元農家にも影響が出た。

映画が洞窟ダイバー以外にこの作業を入れたのは、救出が地下だけで行われていたわけではないことを示す意味でも重要である。

一方で、映画から完全に省かれた出来事もある

実際のタムルアン救助は、世界中から注目された。

そのため、多数の人物や組織が救助案を提案している。

有名な例が、イーロン・マスクが提案した小型潜水艇である。

この出来事は当時大きく報道されたが、『13人の命』では主要なストーリーとして扱われていない。

ロン・ハワード作品は、

救出を実際に成立させた工程へ物語を集中させる

方向を選んでいる。

映画に出てこないから、その出来事が存在しなかったわけではない。

逆に、実在したすべての出来事を映画に入れる必要もない。

映画と史実の差を整理する

項目 映画 実際 評価
13人の遭難 増水で洞窟内に孤立 同じ 忠実
発見者 スタントンとヴォランセン 同じ 忠実
潜水救出案 英国人ダイバーらが提案 大筋で同じ 忠実
ハリスの役割 麻酔科医・洞窟ダイバーとして参加 同じ 忠実
ケタミン 少年を麻酔 実際に使用 忠実
追加注射 ダイバーが実施 実際に実施 忠実
フルフェイスマスク 少年へ装着 実際に使用 忠実
サマン・クナン死亡 救助直前に描写 7月6日、救出開始は7月8日 時系列を圧縮
水中視界 人物・岩・ルートを確認可能 極端な低視界 映像化のため変更
洞窟 リアルな洞窟として描写 映画は豪州のセットで撮影 再現セット
親の一部 特定人物として描写 複数の親を統合した人物あり 複合キャラクター
会話 具体的な台詞あり すべてに記録があるわけではない 一部創作
国際支援 主要人物を中心に整理 映画以上に大規模 人物・役割を圧縮

映画は「史実に忠実」なのか

ここまでを見る限り、答えは、

「かなり忠実。ただしドキュメンタリーではない」

になる。

特に、

  • 洞窟潜水の難しさ
  • 13人発見
  • 潜水救出という判断
  • 麻酔
  • ケタミン
  • フルフェイスマスク
  • サマン・クナンの死亡
  • 排水
  • 3日間の搬出

という事件の骨格は史実と一致している。

しかも、救出当事者が制作へ直接参加した。

その一方、

  • 水中を観客に見せる
  • 上映時間内へ収める
  • 登場人物を理解しやすくする
  • 感情の流れを作る

ための変更は当然ある。

だから、

映画を「何が起きたか」を理解する入口には使えるが、「誰がいつ何を言ったか」を確定する史料には使えない。

『THE RESCUE』との違い

タムルアン救助には、もう一つ重要な映像作品がある。

National Geographic Documentary Filmsの

『THE RESCUE』

である。

2021年公開。

監督はエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィとジミー・チン。

こちらは劇映画ではなくドキュメンタリーである。

救助関係者のインタビューや資料を使い、

  • 専門洞窟ダイバー
  • タイ海軍特殊部隊
  • 米空軍特殊戦術要員
  • 国際救助チーム

の救出MISSIONを再構成している。

二作品の役割は少し違う。

『13人の命』 『THE RESCUE』
形式 劇映画 ドキュメンタリー
中心 救助ダイバーを中心としたドラマ 救助当事者の証言と記録
洞窟場面 俳優・セットによる再現 資料・証言・再現を組み合わせる
向いている用途 事件の流れと緊張感を理解する 救出当事者が何を考えていたか確認する

史実を詳しく追うなら、

『13人の命』を見てから『THE RESCUE』を見る

という順序も分かりやすい。

前者でルートと人物を把握し、後者で実際の救助者の証言へ進めるからである。

FACT CHECK|『THE RESCUE』なら映像すべてが2018年当時の実写なのか?

ドキュメンタリーだからといって、画面に出るすべての洞窟内部映像が救出当日の記録映像という意味ではない。

実際の救出は水中視界が極端に悪く、最深部で映画撮影のような記録を行える状況ではなかった。

『THE RESCUE』も、実際の資料、当事者インタビュー、映像上の再構成などを組み合わせて事件を説明している。

ドキュメンタリーも「映像=その瞬間の一次映像」と自動的に扱わない方がよい。

『13人の命』で最も史実に近い部分は何か

一つ挙げるなら、

救出を「英雄一人のひらめき」で終わらせていないこと

である。

専門洞窟ダイバーがいなければ13人まで到達できない。

麻酔科医がいなければ少年を安全に眠らせる方法を設計できない。

タイ側が排水しなければ潜水ルートはさらに危険になる。

地上で水をそらさなければ水位低下を維持できない。

ボンベを運ぶ人がいなければダイバーは奥へ行けない。

Chamber 3以降の搬送要員がいなければ、専門ダイバーは一人を出口まで運ぶだけで拘束される。

つまり救助成功は、

異なる専門能力を一つのMISSIONへ接続した結果

だった。

この構造は映画にもかなり残されている。

逆に、映画だけでは分かりにくいこと

映画を見た後に、本シリーズで補足すべきなのは主に5点ある。

1|発見までの9日間も一つの大規模MISSIONだった

映画では時間が圧縮されるため、捜索ルートを少しずつ延ばした過程は実際より短く感じる。

現実には水位と流速によって何度も前進を止められている。

2|Chamber 3までの補給網が重要だった

大量の呼吸用ボンベや器材を奥へ送り込む地下物流が、最終救出の前提だった。

3|排水は失敗ではない

歩いて全員を出せるまで水を抜くことはできなかったが、入口側の潜水区間を減らし、最終救出を容易にした。

4|麻酔救助は映画以上に医学的だった

アルプラゾラム、アトロピン、ケタミン、80%酸素を含む混合ガス、低体温対策など、実際には詳細な医療プロトコルが組まれていた。

5|「13人全員救出」は13回の搬送成功だった

一つの成功した作戦ではなく、危険な搬送を3日間で13回成立させた結果だった。

映画から入っても問題ない

実話映画を入口として使うこと自体に問題はない。

むしろ『13人の命』は、タムルアン洞窟救出を初めて知る入口としてかなり優れている。

洞窟の狭さ。

水中搬送。

フルフェイスマスク。

Chamber 3。

麻酔救出。

排水。

3日間の最終作戦。

文章だけでは想像しにくい構造を、映像で理解できる。

ただし、

映画を見た後に「本当にそうだったのか」を一度資料へ戻って確認する。

それが実録作品を見るときの最も安全な使い方になる。

CASE FILE 18を映画と対応させると

映画で気になった場面 詳しく確認する記事
なぜ洞窟から戻れなくなった? 第2回|地形・雨季・浸水
どうやって13人を見つけた? 第3回|9日間の捜索
なぜ大量のポンプやボンベが必要? 第4回|排水・酸素・Chamber 3
サマン・クナンはなぜ死亡した? 第5回|死亡事故
なぜ他の救出方法を使わなかった? 第6回|救出案比較
少年をどう運んだ? 第7回|救出ルート
本当に麻酔した? 第8回|ケタミンと救出医療
実際の3日間は? 第9回|救出時系列

まとめ|映画は「大筋が実話」、ただし史料ではない

『13人の命』は、2018年タムルアン洞窟救出をかなり忠実に映画化している。

スタントンとヴォランセンが13人を発見したこと。

サマン・クナンが救助準備中に死亡したこと。

待機や排水だけでは時間が足りなくなったこと。

少年たちを全身麻酔下に置いたこと。

ケタミンを使用したこと。

ダイバーが途中で追加注射したこと。

フルフェイスマスクを使ったこと。

そして7月8日から10日に13人全員を搬出したこと。

事件の骨格は映画の創作ではない。

一方、

水中視界は実際より明るくされている。

出来事の一部は時間を移動している。

複数の家族をまとめた架空の複合キャラクターもいる。

会話のすべてが記録された史実でもない。

数千人規模の救助活動も、限られた登場人物へ整理されている。

したがって、

『13人の命』は、タムルアン救出の「仕組み」を理解する映像資料として非常に有用だが、映画そのものを一次資料にはしない。

映画を入口にする。

公的記録へ戻る。

救助当事者の記録を確認する。

医学論文で救出方法を照合する。

そうすると、映画よりさらに異例だった実際の救出が見えてくる。

6月23日。

少年12人とコーチは洞窟へ入った。

雨によって帰路を失った。

9日後に発見された。

そこから排水と補給線が作られた。

救助要員が一人死亡した。

複数の救出案が比較された。

そして最後に、麻酔された13人を一人ずつ水没洞窟から運び出す方法が選ばれた。

7月10日。

13人全員が地上へ戻った。

映画では約2時間半。

現実では、6月23日から7月10日まで続いた。

その間に作られたのは、一つの奇跡ではない。

絶えず変化する水、時間、人体、装備、技術を一つずつ管理し、救出可能な条件を作り続けたMISSIONだった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出――完。


← 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか


CASE FILE 18|第1回から読む →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

今回出てきた言葉

【13人の命/Thirteen Lives】
2018年のタムルアン洞窟救出を題材にした2022年の劇映画。[1]監督はロン・ハワード。リック・スタントン、ジョン・ヴォランセン、リチャード・ハリスら専門ダイバーを中心に救出MISSIONを描く。

【ロン・ハワード】
アメリカの映画監督。『アポロ13』など、実際の危機対応・生還を題材にした作品でも知られる。『13人の命』ではタムルアン救出を国際的な共同作戦として映画化した。

【技術顧問】
映画制作で専門技術の正確性を確認する役割。『13人の命』では実際の救出ダイバーであるリック・スタントンやジェイソン・マリンソンらが潜水場面の再現に協力した。

【複合キャラクター】
複数の実在人物の経験や役割を一人の登場人物へまとめた映画上の人物。『13人の命』では家族側の一部人物について、この方法が用いられている。

【THE RESCUE】
National Geographic Documentary Filmsによる2021年のドキュメンタリー。救助当事者へのインタビューなどを使い、タムルアン洞窟救出を再構成する。

【史実検証】
映画・ドラマ・書籍などで描かれた内容を、公的記録、一次資料、当事者証言、学術資料などと照合し、確認可能な事実と作品上の再構成を分離すること。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Prime Video, “Thirteen Lives / 13人の命,” 2022
  2. [2] British Cave Rescue Council, Tham Luang Nang Non Cave Rescue, 2018年6月~7月各ブリーフィング
  3. [3] UK Cabinet Office, “Civilian Gallantry List: 2019,” 28 December 2018
  4. [4] U.S. Department of Defense, “DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,” 9 July 2018
  5. [5] Lawthaweesawat C, Harris R, Isara W, Pongpirul K., “Prehospital Care of the 13 Hypothermic, Anesthetized Patients in the Thailand Cave Rescue,” New England Journal of Medicine, 2019
  6. [6] van Waart H, Harris RJ, Gant N, et al., “Deep anaesthesia: The Thailand cave rescue and its implications for management of the unconscious diver underwater,” Diving and Hyperbaric Medicine, 2020
  7. [7] National Geographic Documentary Films, “The Rescue,” 2021
  8. [8] Entertainment Weekly, Interview with Rick Stanton on Thirteen Lives, 2022
  9. [9] The Guardian, “Going underground: inside Ron Howard’s explosive movie about the Thai cave rescue,” 22 July 2022
  10. [10] William Nicholson interviews regarding the screenplay and composite characters for Thirteen Lives, 2022

フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄

遭難・救助

STORY SO FAR

前回「遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで」で確認した論点を受け、この回ではフランクリン遠征「最後の記録」 | Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

1847年5月、キングウィリアム島に残された1枚の紙には、
短い言葉が書かれていました。

「All well」――異状なし。

それから約11か月後。

同じ紙の余白には、
まったく違う内容が書き加えられました。

ジョン・フランクリンは死亡。
遠征隊では計24人が死亡。
HMS ErebusとHMS Terrorは放棄され、
残った105人は船を離れていました。

そして翌日、
彼らは南にあるBack’s Fish Riverへ向かう予定だと記されています。

この文書が、
一般にVictory Point Noteと呼ばれる記録です。

フランクリン遠征には、
1845年の出航から最期までを連続して記録した航海日誌が残っていません。

だからこそ、この小さな1枚の紙が重要になります。

第5回ではVictory Point Noteを、
1847年の最初の記録と1848年の追記に分けて読みます。

そこには何が書かれ、
何が書かれていなかったのでしょうか。

この記事で分かること

  • Victory Point Noteとは何なのか
  • 誰が、いつ、どこへ残した文書なのか
  • 1847年5月の「All well」は何を意味するのか
  • その約11か月後に何が書き加えられたのか
  • ジョン・フランクリンの死亡日はなぜ分かっているのか
  • 24人死亡・105人生存という数字はどこから出たのか
  • ErebusとTerrorが放棄された正確な日はいつなのか
  • 残った105人は次にどこを目指したのか
  • この記録だけでは何が分からないのか
  • Victory Point Note自体にも誤記や資料上の注意点があること

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

先に結論|1枚の紙に「正常」と「崩壊」が同居している

Victory Point Noteが特別なのは、
重要な数字が書かれているからだけではありません。

同じ紙に、
遠征隊の状態が大きく変化する前と後の記録が残されている
からです。

記録 1847年5月 1848年4月
指揮官 John Franklin Francis Crozier
船 Erebus / Terrorは氷中 2隻を放棄
状態 「All well」 24人死亡
行動 陸上調査隊を派遣 105人が陸上へ移動
次の目的 探検継続中 Back’s Fish Riverへ向かう

この約11か月の間に、
遠征隊は
船で北西航路を探す集団から、船を捨てて陸上から脱出を試みる集団へ変わりました。

しかし、その変化がどのように起きたのかを説明する文章は、
Victory Point Noteにはありません。

Victory Point Noteとは何なのか

Victory Point Noteは、
フランクリン遠征隊が使用していた
英国海軍本部の標準印刷用紙に書かれた文書です。

用紙には、
この紙を発見した者へ、
発見日時と場所を記録して英国海軍本部へ届けるよう求める文章が
複数の言語で印刷されていました。

遠征隊はこうした記録用紙を持ち、
陸上調査などの際に石積みのケアンへ残しました。

現在Victory Point Noteと呼ばれている紙には、
1847年5月の記録と、1848年4月に追加された記録
の2つが残されています。[1]

後者は用紙中央ではなく、
残された空白や余白へ書き込まれました。

1859年|William Hobsonが記録を発見した

この文書が英国側へ戻ったのは、
遠征隊が船を離れてから11年後でした。

フランクリンの妻Jane Franklinが支援した捜索船Foxを率いていた
Francis Leopold McClintockの遠征隊が、
1859年にKing William Islandを調査します。

その一員である
William Hobsonが島北西部を探索し、
石積みのケアンから金属製の容器と記録を発見しました。

これによって英国側は初めて、
フランクリン遠征の1846~1848年の行動を
遠征隊自身の文章から確認できるようになります。

1847年5月|最初のメッセージ

最初の記録の日付は
1847年5月28日です。

そこにはErebusとTerrorが
北緯70度05分、西経98度23分付近で
氷の中にいることが記されています。

続いて、
遠征隊はBeechey Islandで越冬し、
Wellington Channelを北緯77度まで進み、
Cornwallis Island西側を通って戻ったと説明しています。

そして、
遠征全体の指揮官として
Sir John Franklinの名が記されました。

その直後にあるのが、
有名な短い一文です。

「All well」

「All well」は“誰も死んでいない”という意味ではない

この言葉は、
フランクリン遠征を語るとき強く印象に残ります。

しかし、
「全員健康だった」
「事故も死者もなかった」
という意味にまで広げてはいけません。

遠征隊は1845~1846年のBeechey Island越冬中に、
すでにJohn Torrington、John Hartnell、William Braineの
3人を失っています。

したがって1847年5月の「All well」は、
遠征隊全体として重大な異常を報告する状況ではなかった
程度に読むのが適切です。

少なくとも、
船を放棄して脱出しなければならない状態とは
認識されていなかったことは分かります。

この時点で2隻はすでに8か月以上動けなかった

「All well」と書かれていた一方で、
Victory Point Noteからは別の重要な事実も分かります。

1848年の追記によれば、
ErebusとTerrorが氷に捕らえられたのは
1846年9月12日でした。[5]

つまり1847年5月末には、
2隻はすでに8か月以上、
King William Island周辺から自由に航行できない状態にありました。

それでも遠征隊は、
陸上調査を続けていました。

Graham Goreら8人が船を離れた

1847年の記録には、
5月24日に
士官2人と乗組員6人、計8人が船を離れたことも書かれています。

署名したのは
Lieutenant Graham Goreと
Mate Charles F. Des Voeuxです。

彼らはKing William Island上で
地理調査と記録設置を行っていたと考えられています。

後世には、この陸上調査隊が島南部まで進み、
北西航路の残されていた地理的空白を
事実上つないだ可能性も指摘されています。

ただし、
彼らの詳細な行動記録は残っていません。

一次資料にもある明確な誤記

第4回でも触れましたが、
Victory Point Noteは
内容を無条件に信用できる完璧な記録ではありません。

最初の文章には、
遠征隊がBeechey Islandで
「1846~1847年に越冬した」
と書かれています。

実際には、
Beechey Islandで越冬したのは
1845~1846年です。

1846年9月以降には、
2隻はKing William Island北西で
すでに海氷に捕らえられていました。

同じ文書内の時系列とも一致しないため、
Beechey Islandの年は明確な誤記と考えられています。

ACT CHECK|一次資料=完全に正しい、ではない

Victory Point Noteは、
遠征隊自身が残した一次資料です。

その資料価値は非常に高い一方で、
越冬年のような明らかな誤記もあります。

そのため本特集では、
「一次資料に書かれている事実」と
「複数資料を照合した結果として確定できる事実」

を区別して扱います。

そして約11か月後、同じ紙に追記された

1848年4月。

遠征隊は再びこの記録を手にしました。

同じ用紙の余白には、
Francis CrozierとJames Fitzjamesによって
新しい文章が追加されています。

追記の日付は
1848年4月25日。

そこに書かれた内容は、
前年の「All well」とは大きく異なっていました。

1848年4月22日|ErebusとTerrorを放棄

追記の最初に記録されているのが、
2隻の放棄です。

ErebusとTerrorは
1848年4月22日に放棄されました。

文書によれば、
船は記録地点から
「5 leagues N.N.W.」に位置していました。

また2隻は、
1846年9月12日から
海氷に捕らえられ続けていたと記されています。

つまり船体放棄までの閉塞期間は
約19か月に及びます。

最初の冬では、
Beechey Islandから翌夏に再び船を動かすことができました。

しかし2度目は違いました。

1847年夏を過ぎても船は解放されず、
1848年春、
ついに船を使った遠征を断念したことになります。

「22日」と「25日」と「26日」を混同しない

Victory Point Noteには、
1848年4月の重要な日付が3つ登場します。

日付 出来事
4月22日 ErebusとTerrorを放棄
4月25日 Victory Point Noteの追記を記入
4月26日 Back’s Fish Riverへ向けて出発する予定

資料によっては、
Victory Point Noteを
「1848年4月26日に追記された文書」と説明している場合があります。

Royal Museums Greenwichの一部カタログも、
CrozierとFitzjamesによる追加を
4月26日として整理しています。

しかし、
文書本文に記された追記の日付は
4月25日です。

そして文章の最後には、
「明日26日にBack’s Fish Riverへ向けて出発する」
という内容があります。

本記事では、
文書本文の日付を優先し、
22日=船体放棄、
25日=記録、
26日=出発予定
として区別します。

ジョン・フランクリンは1847年6月11日に死亡していた

1847年5月の最初のメッセージでは、
フランクリンはまだ遠征隊を指揮していました。

しかし、
そのわずか2週間ほど後。

1847年6月11日、
ジョン・フランクリンは死亡しました。

現在フランクリンの死亡日を具体的に
「1847年6月11日」と言えるのは、
この1848年の追記が残っているからです。

ただしVictory Point Noteには、
死因が書かれていません。

病気だったのか。
感染症だったのか。
栄養状態や寒冷が関係したのか。

この文書だけから判断することはできません。

したがって
「フランクリンは○○で死亡した」
と断定する説明には別の根拠が必要です。

24人が死亡していた

1848年4月25日の時点で、
遠征隊の死亡者は
9人の士官と15人の乗組員と記録されています。

合計は
24人です。

フランクリン自身も、
この9人の士官に含まれます。

グリーンランドから先へ進んだ遠征隊は129人でした。

そこから24人を引けば、
残る人数は105人です。

そして実際、
文書には
「officers and crews, consisting of 105 souls」
と記されています。

人数の整合

北極圏へ進んだ人数:129人

1848年4月までの死亡者:24人

129 − 24 = 105人

少なくとも記録上、
この時点までの人数は整合しています。

誰が遠征隊を指揮していたのか

フランクリン死亡後、
遠征隊の最高位の士官となったのが
Francis Crozierです。

1848年の追記には、
105人が
Captain F.R.M. Crozierの指揮下にある
と明記されています。

追記にはJames FitzjamesとCrozierが署名し、
Crozierには
Captain & Senior Officer
と記されています。

つまり、
1847年5月と1848年4月の記録を比較すると、
遠征隊の指揮系統が変わったことも確認できます。[1]

105人は船を離れ、陸上へ上がった

船を放棄した105人は、
King William Islandへ上陸しました。

Victory Point Noteは、
その地点を
北緯69度37分42秒、西経98度41分
と記録しています。

彼らが船を離れた理由について、
文書には詳しい説明がありません。

分かっているのは、
1846年9月から長期間氷に閉じ込められ、
1848年4月には
2隻を放棄する決断が下されていたことです。

「食料が完全になくなったから」
「船が沈みかけていたから」
「船内で特定の病気が流行したから」
などと、
Victory Point Noteだけから原因を限定することはできません。

次に向かったのはBack’s Fish River

記録の最後には、
105人が
翌4月26日にBack’s Fish Riverへ向けて出発する
と書かれています。

Back’s Fish Riverは、
現在のBack Riverです。

King William Islandから南へ向かい、
カナダ本土側へ到達するための目標となりました。

ここで遠征隊の戦略は根本的に変わります。

1845年の出発時、
129人の目的は
2隻の船で北西航路を航行することでした。

1848年4月には、
105人が船を捨て、
ソリや小艇などを使って陸上から南へ向かおうとしていました。

海上探検から徒歩による脱出へ。

Victory Point Noteは、
その転換点を記録しています。

しかし、その先の記録がない

ここが最も重要です。

Victory Point Noteには、
「明日、Back’s Fish Riverへ向かう」
ところまでしか書かれていません。

105人が実際に4月26日に全員出発したのか。

どのルートを通ったのか。

集団は途中で分かれたのか。

誰がどこまで到達したのか。

途中で船へ戻った者がいたのか。

これらを連続して記録した遠征隊自身の文書は、
現在まで確認されていません。

そのため、
1848年4月26日以降がフランクリン遠征最大の記録空白
になります。

Victory Point Noteに「書いていないこと」

この文書は非常に重要ですが、
書かれている情報量そのものは多くありません。

特に次のことは、
この紙だけでは分かりません。

  • ジョン・フランクリンの死因
  • 他の23人の具体的な死因
  • なぜ船を放棄する決断をしたのか
  • 船内の食料・燃料がどれほど残っていたのか
  • 壊血病やその他の病気がどの程度広がっていたのか
  • ErebusとTerrorの船体状態
  • 105人の体力・健康状態
  • 船を離れた後の正確な移動経路
  • 誰が最後まで生きていたのか
  • 一部の隊員が後に船へ戻ったかどうか

これらは、
後世のイヌイット証言、
遺骨、
遺物、
沈没船の位置、
科学分析などから検討する必要があります。

「24人死亡」から死因は分からない

フランクリン遠征については、
壊血病、飢餓、結核、鉛曝露、
低体温症など多くの説明が提示されてきました。

しかしVictory Point Noteが直接示すのは、
1848年4月25日までに
24人が死亡していたという事実までです。

死亡者数だけから、
全員が同じ原因で死亡したと推定することはできません。

個々の死因については、
第8回で遺骨や科学研究を使って検証します。

「船を放棄した」ことと「その場で沈んだ」ことも別

もうひとつ、
Victory Point Noteを読むうえで注意したい点があります。

文書には、
ErebusとTerrorが
deserted――放棄された
とあります。

しかし、
「1848年4月22日に沈没した」とは書かれていません。

実際、
21世紀に発見された2隻は、
1848年に記録された閉塞地点とは異なる場所にありました。

そのため船体放棄後、
ErebusとTerrorがどのように移動し、
現在の沈没地点へ至ったのかは
フランクリン遠征の重要な研究課題になっています。

少なくとも、
「乗組員が船を捨てた日」と「船が沈んだ日」を同一視することはできません。

「All well」から24人死亡まで、何が起きたのか

1847年5月28日。

遠征隊は
「All well」と記録しました。

1848年4月25日。

フランクリンは死亡し、
遠征全体で24人が死亡し、
残った105人は2隻を放棄していました。

約11か月。

しかしこの期間に起きた出来事を連続して説明する文書はありません。

分かっているのは、
その間にも船が氷から抜け出せなかったこと。

1847年6月11日にフランクリンが死亡したこと。

そして1848年4月には、
船で待ち続ける方針を捨てたことです。

この「間」を埋めようとして、
その後170年以上にわたる調査が続くことになります。

なぜ、もっと詳しい記録が残っていないのか

英国海軍の遠征であれば、
本来は航海日誌、観測記録、
士官の日記など大量の文書が作られていたはずです。

実際、
出発直後までは隊員から家族へ送られた手紙も残っています。

しかし北極圏へ入った後の
公式航海記録や長い日誌は、
現在までまとまった形では回収されていません。

船体内部には、
まだ文書や記録媒体が残されている可能性も研究されています。

そのためVictory Point Noteは、
文章量としてはわずかでも、
遠征隊自身の声を直接残す記録として極めて大きな価値を持ちます。

資料差|追記日は25日か26日か

Victory Point Noteについて資料を比較すると、
日付の表現に小さな違いがあります。

現存文書の転写では、
追記は
「April 25, 1848」
から始まります。

文章末尾には、
翌26日にBack’s Fish Riverへ向かうことが書かれています。

一方、
Royal Museums Greenwichの一部カタログでは、
CrozierとFitzjamesによって
「26 April 1848」に追加されたと説明されています。

これは大きな歴史認識の違いではありませんが、
本記事では
原文に明記された25日を追記日
として採用します。

こうした小さな差も、
歴史資料を読む際には分けて記録しておく必要があります。

Victory Point Noteから確定できること

項目 記録から確認できる内容
最初の記録 1847年5月28日
指揮官 1847年5月時点ではJohn Franklin
1847年の状態 「All well」と記録
氷海閉塞開始 1846年9月12日
Franklin死亡 1847年6月11日
船体放棄 1848年4月22日
追記 1848年4月25日
死亡者 士官9人+乗組員15人=24人
残存人員 105人
指揮官 Francis R.M. Crozier
次の目的地 Back’s Fish River
出発予定 1848年4月26日

まとめ|ここまでは記録がある。そして、この先で記録が途切れる

Victory Point Noteには、
フランクリン遠征の2つの時間が残されています。

1847年5月。

ErebusとTerrorは氷に閉じ込められていましたが、
John Franklinが指揮し、
遠征隊は「All well」と記録しました。

約11か月後の1848年4月。

フランクリンは死亡。

死者は24人。

残った105人は
ErebusとTerrorを放棄していました。

Crozierが指揮を引き継ぎ、
彼らはBack’s Fish Riverへ向けて
南へ進もうとしていました。

そして、
遠征隊自身による連続した記録はここで途切れます。

ここから先を知るためには、
彼らが残した文章ではなく、
後から彼らを探した人々の記録を見る必要があります。

次回は、
英国海軍、Jane Franklin、
John Rae、Francis McClintockらが、
消えた129人をどのように探したのかを追います。

Beechey Islandの墓。
イヌイットから得た情報。
銀食器。
人骨。
船を載せたソリ。
そしてVictory Point Note。

失われた遠征の最期は、捜索隊が拾い集めた断片から少しずつ形になっていきました。

今回出てきた言葉

Victory Point Note
フランクリン遠征隊がKing William Islandに残した記録。
1847年5月の最初のメッセージと、
1848年4月にCrozierとFitzjamesが加えた追記が同じ紙に残されている。
All well
1847年5月の記録に書かれた言葉。
すでにBeechey Islandで3人が死亡しているため、
「全員が健康で死者ゼロ」という意味ではなく、
遠征全体として重大な異常を報告していない状態を示す表現として扱う必要がある。
Francis Crozier
HMS Terror艦長でフランクリン遠征の副指揮官。
John Franklin死亡後に遠征全体の指揮を引き継ぎ、
1848年のVictory Point NoteへJames Fitzjamesとともに署名した。
James Fitzjames
HMS Erebus艦長。
1848年のVictory Point NoteでCrozierとともに、
24人の死亡、105人の生存、船体放棄などを記録した。
Back’s Fish River
現在のBack River。
1848年4月、船を放棄した105人が次に目指すと記録した目的地。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Franklin Expedition Record — Victory Point Note 1847年5月28日の最初の記録、 「All well」、 1848年4月25日の追記、 4月22日の船体放棄、 1846年9月12日からの氷海閉塞、 Franklin死亡日、 9士官+15乗組員の死亡、 105人、 Back’s Fish Riverへの移動予定の確認に使用。
  2. [2] Parks Canada — Searching for Franklin William HobsonによるVictory Point Note発見、 2つのメッセージの内容、 24人死亡・105人生存、 Back Riverへ向かったという公的整理の確認に使用。
  3. [3] Parks Canada — Who’s who in the Franklin expedition John Franklinの死亡日、 Francis Crozierによる指揮継承、 James Fitzjamesとの共同署名の確認に使用。
  4. [4] Royal Museums Greenwich — Sir John Franklin’s last message 現存資料HSR/C/9/1の所蔵情報、 標準海軍文書としてのVictory Point Note、 Graham Gore、Crozier、Fitzjames、Hobsonとの関係確認に使用。
  5. [5] Royal Museums Greenwich — What happened to Erebus and Terror? 1848年4月22日の船体放棄、 1846年9月12日からの氷海閉塞、 105人がBack River方面へ向かったという整理の確認に使用。

フランクリン遠征|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック

遭難・救助

STORY SO FAR

前回「フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄」で確認した論点を受け、この回では消えた129人を誰が探したのか | フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントックについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

1845年7月。

HMS ErebusとHMS Terrorは、
Baffin Bayで捕鯨船から目撃されたあと、
英国との連絡を絶ちました。

しかし、
すぐに大規模な救助隊が送り込まれたわけではありません。

フランクリン遠征には数年分の物資があり、
北極で越冬すること自体も計画の範囲内でした。

英国で本格的な懸念が強まるのは、
出航から2年が過ぎても
何の連絡も戻ってこなかった1847年以降です。

そして1848年、
英国海軍は捜索を本格化させました。

そこから始まったのは、
単なる「救助活動」ではありません。

1850年には最初の越冬地が見つかり、
1854年にはイヌイットから
南へ向かった白人集団についての情報が得られ、
1859年にはついに遠征隊自身が残した
Victory Point Noteが回収されます。[3]


人を探す捜索は、
やがて遺物、証言、遺骨、文書から
失われた遠征を復元する調査へ変わっていきました。

この記事で分かること

  • 英国はいつフランクリン捜索を始めたのか
  • なぜ出航直後から救助隊を送らなかったのか
  • 1848年の最初期捜索では何が分かったのか
  • 1850年のBeechey Islandで何が発見されたのか
  • なぜBeechey Island発見だけでは遠征隊の行方が分からなかったのか
  • John Raeは1854年に何を聞き、何を持ち帰ったのか
  • なぜRaeの報告は英国社会で強い反発を受けたのか
  • Lady Franklinはなぜ独自に捜索を続けたのか
  • Francis McClintockとWilliam Hobsonは1859年に何を発見したのか
  • 捜索によってフランクリン遠征の最期がどこまで分かったのか

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

先に結論|フランクリン捜索は「一度の救助作戦」ではない

フランクリン遠征の捜索というと、
行方不明になった129人を探すため、
英国海軍が北極へ救助隊を送り込んだ出来事のように見えます。

しかし実際には、
数十年間にわたる複数の遠征の集合でした。

しかも、
捜索の目的は時間とともに変わっていきます。

段階 主な目的 代表的成果
1848年ごろ 生存者・船を救助する 北極各方面から捜索開始
1850年 遠征隊の航跡を探す Beechey Islandの越冬跡
1854年 最期の行動を知る John RaeがInuit証言と遺物を入手
1859年 記録・遺物を回収する Victory Point Note発見
その後 残る記録・船体を探す 長期探索・考古学へ移行

最初は
「まだどこかで生きている129人」を探していました。

やがて
「何が起きたのか」を探す捜索に変わっていきます。

1847年|英国でようやく不安が強まる

1845年に遠征隊から連絡がなくなっても、
すぐには異常と判断されませんでした。

理由は単純です。

北極探検では越冬が想定されており、
ErebusとTerrorには長期間の物資も積まれていました。

1847年2月、
極地探検経験を持つ
James Clark Rossは、
フランクリン隊を捜索する必要があると海軍本部へ提案しました。

しかし当初は、
「まだ物資があるはずであり、
連絡がないだけで救助が必要とは限らない」
という見方もありました。

その後も何の情報も届かなかったため、
英国政府は捜索を開始します。

1848年|最初期の本格捜索

1848年、
James Clark Rossは
HMS EnterpriseとHMS Investigatorによる捜索遠征を率いました。

後に重要な捜索者となる
Francis Leopold McClintockも、
この遠征に参加しています。

Rossらは
Somerset Island北岸周辺まで進みましたが、
船は海氷に阻まれました。

陸上捜索も行われましたが、
フランクリン隊の確実な痕跡は発見できませんでした。

ここには後世から見ると皮肉があります。

Rossらが捜索していた地点から
300kmも離れていない南側では、
その数か月前の1848年4月、
フランクリン隊の105人が
船を放棄していたからです。

捜索隊と遠征隊は、
同じ巨大な北極圏の中で
わずかな距離の差によってすれ違いました。

1850年|最初の確実な痕跡が見つかる

大きな転換が起きたのは
1850年です。

この年には英国海軍だけでなく、
複数の捜索遠征が同時に北極へ入りました。

Horatio Austin率いる英国海軍遠征、
William Pennyの遠征、
John Rossの捜索、
さらに米国のGrinnell Expeditionなど、
多数の船がLancaster Sound周辺へ集まりました。

そしてCape RileyとBeechey Island周辺で、
ついにフランクリン遠征の痕跡が見つかります。

Beechey Island|「ここで冬を越した」ことが分かった

Beechey Islandでは、
キャンプ跡や物品、
そして3人の隊員の墓が発見されました。

墓に刻まれていたのは、
John Torrington、John Hartnell、William Braine
の名前です。

Royal Museums Greenwichに残る
HMS Resoluteの航海記録では、
この3人の墓が
1850年8月27日に確認されたことが記録されています。[4]

1850年、捜索隊はBeechey Island周辺でフランクリン遠征隊の越冬跡と3人の墓を確認した。
ここから1845~1846年に遠征隊がこの地域で最初の冬を越したことが判明した。


第4回でBeechey Islandまでの航路を見る

これで初めて、
1845年7月の最終目撃後、
遠征隊がどこへ行ったのかについて
確実な地点が一つつながりました。

しかし「その後どちらへ向かったのか」が分からない

Beechey Island発見には、
大きな欠落がありました。

遠征隊が次にどこへ向かったのかを示す文書が見つからなかった
のです。

現在の私たちはVictory Point Noteによって、
Wellington Channelから戻り、
その後King William Island方面へ南下したことを知っています。

しかし1850年の捜索隊には、
その情報がありませんでした。

Beechey Islandには
「次は南へ行く」
という明確なメッセージが残されていませんでした。

したがって捜索隊は、
広大な北極諸島のどこを次に探すべきか
再び推測しなければなりませんでした。

1850年に分かったこと/分からなかったこと

分かった:
フランクリン隊は1845~1846年にBeechey Islandで越冬していた。

分からない:
その後、2隻が北、西、南のどちらへ進んだのか。

最初の重要な発見は、
同時に「次の手掛かりがない」ことも明らかにした。

John Rae|英国海軍とは違う方法で北極を移動した男

フランクリン捜索史で、
その後最も重要な人物の一人となるのが
John Raeです。

Raeは英国海軍士官ではありません。

スコットランドのOrkney出身の医師で、
Hudson’s Bay Companyに勤務しながら
カナダ北部を探検していました。

北極で長距離を移動する際、
Raeは大型の英国海軍遠征とは異なる方法を採りました。

雪上移動、
狩猟、
現地での食料確保など、
北極圏に暮らす先住民から学んだ技術を積極的に利用しました。

大量の人員と物資を人力ソリで運ぶ海軍式の捜索とは、
運用思想そのものが異なっていました。

1854年|RaeがInuitから聞いた話

1854年、
RaeはBoothia Peninsula周辺を調査していました。

そこでInuitから、
フランクリン遠征と考えられる白人集団についての情報を得ます。

Parks Canadaによれば、
彼らが語ったのは、
数年前に
約40人の白人がKing William Island西岸を南へ向かっていた
という目撃情報でした。

彼らは衰弱し、
食料不足に陥っているように見えたと伝えられました。

さらに南では、
多数の遺体が発見されたという証言もありました。

これは、
英国側がそれまで持っていた
「船がどこか北極海に残っている」
という捜索像を大きく変える情報でした。

Raeは「話を聞いただけ」ではなかった

重要なのは、
Raeが口頭証言だけを英国へ持ち帰ったわけではないことです。

Inuitから入手した品の中には、
フランクリン遠征の士官に結び付けられる
銀食器などが含まれていました。

Parks Canadaは、
銀皿、
士官のイニシャルが刻まれたカトラリー、
そしてフランクリンが叙勲時に受けた
Royal Hanoverian Orderのメダルなどを挙げています。

つまりRaeの報告には、
証言と物証の両方がありました。

Raeが持ち帰った、もう一つの重大な報告

Raeが英国へ伝えた内容には、
Victorian社会にとって受け入れ難いものも含まれていました。

Inuitの証言では、
遠征隊の最終段階で
人肉食が行われた可能性が語られていました。

Raeはこの情報も隠さず、
英国海軍本部へ報告しました。

これに対し、
フランクリンの妻Jane Franklinは強く反発します。

作家Charles Dickensも、
英国海軍士官がそのような行動を取るはずがないとして
Inuit証言の信用性を攻撃しました。

この論争は、
単純な「Rae対Lady Franklin」という人物対立だけではありません。

19世紀英国社会が、
誰の証言を信用できる知識として扱ったのか
という問題でもあります。

この点は次回、
イヌイット証言そのものを中心に詳しく扱います。

1854年|英国海軍は遠征隊の死亡を事実上認定する

Raeの報告がもたらした意味は大きいものでした。

捜索開始時には、
目的は「Franklinと129人を救出すること」でした。

しかし1854年までには、
英国海軍本部は
遠征隊全員が死亡したものと判断します。

ここで捜索の性質は変わりました。

生存者を見つける救助から、
死に至った経緯を確かめる探索へ。

Lady Franklinは捜索を終わらせなかった

英国政府が遠征隊の死亡を認定しても、
Jane Franklinは捜索を終わらせませんでした。

彼女は政府や社会へ働きかけ、
複数の捜索活動を支援しました。

その最終的な大型プロジェクトのひとつが、
蒸気ヨット
Fox
による遠征です。

指揮官として選ばれたのが、
Francis Leopold McClintockでした。

Francis McClintock|すでに何度もFranklinを探していた

McClintockは、
1857年になって突然Franklin捜索へ参加した人物ではありません。

1848年のJames Clark Ross遠征にも参加し、
1850年のAustin遠征、
さらに1852~1854年のBelcher遠征でも
北極捜索に加わっていました。[3]

特に、
人力で大型ソリを長距離移動させる
英国海軍式の極地捜索に豊富な経験を持っていました。

1857年7月、
McClintockはFoxで英国を出航します。

Foxの乗員は約25人。

大規模な海軍艦隊ではなく、
比較的小さな私設遠征でした。

Fox自身も北極の氷に閉じ込められた

皮肉なことに、
Franklinを探すFoxも
Baffin Bayで海氷に閉じ込められました。

そのためLancaster Soundへ本格的に進めたのは、
翌1858年です。

その後Bellot Straitへ進み、
1858~1859年の冬を越しました。

ここからMcClintockたちは、
犬ぞりや人力ソリを使って
King William Island周辺を調査します。

1859年|McClintockとHobsonがKing William Islandへ

1859年春、
McClintockと副官
William Robert Hobsonは
King William Islandへ向かいました。

途中で二つの隊に分かれます。

McClintockは島の東側方面。

Hobsonは西岸を調査しました。

ここから、
フランクリン遠征の最終段階を示す証拠が
次々と見つかります。

銀食器、木材、衣類、書籍、遺骨

McClintockらはInuitから
遠征隊由来と考えられる銀食器や木製品を入手しました。

さらにKing William Island周辺では、
遠征隊のものとみられる
衣類、書籍、装備、墓、人骨などが発見されます。

これらは、
Raeが1854年に報告した
「白人の集団がKing William Islandから南へ向かった」
という証言と矛盾するものではありませんでした。

船を載せた巨大なソリ

McClintockが確認した遺物の中でも、
特に知られているものがあります。

大型のソリに載せられた船です。

船内や周辺には、
さまざまな装備や個人用品が残されていました。

この発見は、
船を放棄した隊員たちが、
小艇を陸上移動させようとしていたことを示します。

ただし、
その小艇を誰が、
いつ、
どの方向へ運んでいたのかについては、
遺物だけから完全には確定できません。

そしてHobsonがVictory Pointへ到達する

McClintockが島の別方向を調べている間、
Hobson隊はKing William Island西岸を進みました。

そこで、
石を積み上げたケアンを発見します。

周囲からは、
科学観測器具、
薬箱、
大工道具など
遠征隊の物品も確認されました。

そして
1859年5月7日、
Victory Pointで
金属製ケースに入れられた
1枚の記録が発見されました。

それが、
前回扱った
Victory Point Noteです。

捜索開始から11年|ようやく遠征隊自身の言葉が戻った

1848年に本格捜索が始まってから、
約11年。

Beechey Islandの墓は
「1845~1846年にここまで来た」
ことを示しました。

Raeの情報は
「King William Islandから南へ向かった」
ことを示しました。

そしてVictory Point Noteによって初めて、
次の出来事が一本につながりました。

  • 1845~1846年のBeechey Island越冬
  • Wellington Channelへの航海
  • 1846年9月からの氷海閉塞
  • 1847年6月11日のFranklin死亡
  • 1848年4月までに24人死亡
  • 105人の生存
  • ErebusとTerrorの放棄
  • Back’s Fish Riverへの南下計画

ようやく、
「何も分からない失踪」ではなくなりました。

証拠が増えるたび、捜索範囲は南へ動いた

捜索史を地図として見ると、
もう一つ特徴があります。

最初の捜索は
Lancaster SoundやSomerset Islandなど、
北側の海路を中心に進められました。

1850年にBeechey Islandが見つかったことで、
最初の越冬地は確定します。

しかし1854年のRaeの証言で、
注目は一気に
King William IslandとBack River方向へ移ります。

1859年のMcClintock遠征は、
まさにその地域から
決定的な証拠を回収しました。

つまり捜索隊は、
最初から正解の場所を知っていたわけではありません。


一つの発見によって次の捜索範囲を絞り込み、
また次の証拠を探す。

現代の事故・失踪調査と同じような
証拠の連鎖が形成されていきました。

Franklin捜索そのものが北極地図を更新した

この大規模捜索には、
もう一つ歴史的な結果があります。

数十の捜索隊がカナダ北極圏へ入り、
船とソリで広範囲を調査したことで、
Franklinを見つける過程そのものが
北極諸島の地理調査になりました。

海岸線、
海峡、
島々の位置が調べられ、
Northwest Passageの理解も進みます。

つまり、
フランクリン遠征が達成できなかった
北極地理の解明が、
彼らを探す遠征によって逆説的に進んだ
ことになります。

1859年ですべて解決したわけではない

Victory Point Noteの発見は決定的でした。

しかし、
それでも大きな疑問が残りました。

105人が1848年4月に船を離れたあと、
実際にどのルートを移動したのか。

何人がどこまで生きていたのか。

なぜ各地に遺物が分散していたのか。

ErebusとTerrorがその後どうなったのか。

人肉食に関するInuit証言は
どこまで物証と一致するのか。

船へ戻った集団は存在したのか。

そして、
遠征隊の航海日誌はどこにあるのか。

これらは1859年には解決しませんでした。

その後も捜索は続いた

Franklinをめぐる探索は、
McClintockで終わりません。

Charles Francis Hallは、
1860年代にInuitから大量の証言を収集しました。

1879~1880年には
Frederick Schwatkaらが
King William Island周辺を長距離移動し、
さらなる遺物と証言を収集しています。

Parks Canadaによれば、
Schwatkaの遠征は
約5,232kmをソリで移動した
当時として記録的な長距離行でした。

それでも、
ErebusとTerrorの船体は見つかりませんでした。

捜索で最も重要だったものは「遺物」だけではなかった

Franklin捜索史を並べると、
英国海軍の大型船、
陸上ソリ遠征、
高度な航海技術が目立ちます。

しかし、
最終的に重要な方向性を示した情報の多くは
その地域に住んでいたInuitの証言
でした。

Raeが1854年に得た
南へ向かう白人集団の情報。

McClintockが1859年に聞いた
船や遺物についての情報。

後にHallやSchwatkaが収集した証言。

そして21世紀になって
ErebusとTerrorの探索範囲を設定するときにも、
Inuit oral historyは再び使われます。

19世紀に十分重視されなかった情報が、
170年後の船体発見でも役割を果たしました。

捜索史を時系列で整理する

年 人物・遠征 主な成果
1847 James Clark Ross 海軍本部へ捜索の必要性を提案
1848~1849 James Clark Rossら 初期の本格捜索。Franklinの確実な痕跡は得られず
1850 Austin、Pennyら複数隊 Beechey Island周辺で越冬跡と3人の墓を確認
1854 John Rae Inuit証言とFranklin隊由来の遺物を入手
1857 Francis McClintock Foxで私設捜索遠征を開始
1859 McClintock / Hobson King William Islandで遺骨・遺物・Victory Point Noteを発見
1860年代 Charles Francis Hall 多数のInuit証言を記録
1879~1880 Frederick Schwatka King William Island周辺で証言・遺物を追加収集

まとめ|129人を見つけることはできなかった。それでも遠征の輪郭は戻った

Franklin捜索は、
救助作戦として見れば成功しませんでした。

捜索隊が生存者を発見することはなく、
129人の誰一人として英国へ帰還しませんでした。

しかし、
捜索が無意味だったわけではありません。

1850年、
Beechey Islandで最初の越冬地が確認されました。

1854年、
John RaeがInuitから
King William Island西岸を南下する白人集団についての情報を得ました。

1859年、
McClintockとHobsonの遠征によって
遺骨、遺物、
そしてVictory Point Noteが発見されました。

その結果、
1845年から1848年までの遠征の骨格は
ようやくつながります。

ただし、
その過程にはもう一つ重要な問題がありました。

Raeが持ち帰った情報も、
McClintockや後の探検家が利用した情報も、
かなりの部分が
Inuitが見たもの、聞いたもの、受け継いだ記憶
に依存していました。

では、
彼らは実際に何を見ていたのでしょうか。

次回は捜索者ではなく、
King William Island周辺に暮らしていた人々の側から
フランクリン遠征を見ます。


なぜ19世紀英国では疑われた証言が、
現代の考古学では重要な資料になっているのか。

第7回では、
フランクリン遠征を解明するもう一つの一次情報、
イヌイットの口承記録を検証します。

今回出てきた言葉

Franklin Search
1840年代後半以降、Franklin遠征隊を探して行われた一連の捜索。
単一の遠征ではなく、英国海軍、民間、米国など多数の隊が数十年間にわたり北極圏を調査した。
John Rae
Hudson’s Bay Companyで活動した医師・探検家。
1854年、InuitからFranklin隊の最終段階に関する重要な証言と遺物を得て英国へ報告した。
Francis Leopold McClintock
英国海軍士官・極地探検家。
複数のFranklin捜索に参加し、1857~1859年にはLady Franklinの支援を受けたFox遠征を指揮した。
William Robert Hobson
McClintockのFox遠征に参加した海軍士官。
1859年、King William IslandのVictory PointでFranklin隊の記録を発見した。
Lady Jane Franklin
John Franklinの妻。
政府の捜索縮小後も遠征継続を強く求め、複数の私設捜索を支援した。
Beechey Island
1850年にFranklin遠征隊の最初の越冬跡と3人の墓が確認された場所。
最終目撃後の遠征隊の行動を示した最初の重要地点となった。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Parks Canada — Searching for Franklin Franklin失踪後の捜索全体、 John Raeが1854年に得たInuit証言と遺物、 McClintock・HobsonによるKing William Island調査、 Victory Point Note発見の確認に使用。
  2. [2] Parks Canada — Who’s who in the Franklin expedition / Francis Leopold McClintock McClintockの1848年からの捜索歴、 Fox遠征、 1859年のKing William Island調査、 遺骨・衣類・書籍・船を載せたソリ等の発見確認に使用。
  3. [3] Parks Canada — Inuit traditional knowledge 1850年のBeechey Island発見後も進路が分からなかったこと、 1854年にRaeがInuitから約40人の白人集団について聞いたこと、 後の船体探索にも口承情報が利用されたことの確認に使用。
  4. [4] Royal Museums Greenwich — Journal kept on board HMS Resolute during the search for the Franklin expedition 1850~1851年のAustin遠征、 同時期の複数捜索隊、 Beechey IslandにおけるTorrington・Hartnell・Braineの墓の確認に使用。
  5. [5] Royal Museums Greenwich — Relics from Sir John Franklin’s last expedition 約30年にわたる捜索史、 1850年のBeechey Island、 John Rae、 McClintock、 後続するSchwatkaらの探索の整理に使用。
  6. [6] Francis Leopold McClintock — Voyage of the Fox 1859年のKing William Island探索、 HobsonによるVictory Point Note発見、 遺骨・遺物の現場記録確認に使用。
  7. [7] William R. Hobson — Report of the 1859 sledge journey Victory Point周辺のケアン、 科学器具、薬箱、個人用品などの発見状況と、 Franklin Expedition Record回収過程の確認に使用。

イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言

遭難・救助

STORY SO FAR

前回「消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック」で確認した論点を受け、この回ではイヌイットは何を見ていたのか | フランクリン遠征の最期を伝えた証言について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

1854年、
探検家ジョン・レイはカナダ北極圏で
イヌイットから奇妙な話を聞きました。

数年前、
キングウィリアム島の西岸で
約40人の白人が南へ歩いていた。

男たちは船を失ったらしく、
ソリに小艇を載せて引いていました。

彼らは衰弱し、
食料も不足しているように見えたといいます。

さらに南では、
後に多数の遺体が見つかった。

そして、
遠征隊の最終段階について
英国社会には到底受け入れがたい内容も語られました。

生き残るため、人肉食が行われたという証言です。

当時の英国では、
この話は激しい反発を受けました。

しかし170年近くが過ぎる間に、
人骨の分析、
遺物の位置、
そしてHMS ErebusとHMS Terrorの発見によって、
かつて疑われたイヌイットの証言の一部が
考古学的な証拠と結び付くようになります。

第7回では、
「イヌイットが正しかった」と一言で片付けるのではなく、
誰が、いつ、誰から何を聞き、それが後世の物証とどこまで一致したのか
を整理します。

この記事で分かること

  • なぜイヌイットはフランクリン遠征の重要な目撃者なのか
  • John Raeが1854年に聞いた「約40人」の証言とは何か
  • William UligpakはRaeの調査でどんな役割を果たしたのか
  • 英国社会はなぜイヌイット証言を信用しなかったのか
  • Charles DickensはなぜRaeの報告を批判したのか
  • Charles Francis Hallは1860年代に何を聞き取ったのか
  • TaqulittuqとIpiivikはどのように調査を支えたのか
  • Inukpujijuqが示した沈没船の位置とはどこだったのか
  • 19世紀の口承が2014年のErebus発見とどうつながったのか
  • 「口承記録」を扱う際に何を確定事実とし、何を留保すべきなのか

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

先に結論|「誰にも見られず消えた遠征」ではなかった

フランクリン遠征は、
しばしば
「129人が北極圏で跡形もなく消えた」
と表現されます。

英国との通信という意味では、
確かに1845年7月以降、
遠征隊は外部との連絡を失いました。

しかし、
その後の彼らを誰も見ていなかったわけではありません。

King William Island、
Boothia Peninsula、
Adelaide Peninsula周辺には、
フランクリン遠征以前から
イヌイットの人々が暮らしていました。

彼らは、
北極海を移動する2隻の船、
南へ歩く白人たち、
捨てられた装備、
遺体、
そして最終的に海岸近くへ流れ着いた船について
記憶を残しました。

問題は、
19世紀の英国側が
その情報をどう扱ったかです。

まず区別したい|「目撃証言」と「口承記録」は同じではない

イヌイット証言という言葉で
すべてを一括りにすると、
資料の性格が分からなくなります。

少なくとも次のように分ける必要があります。

種類 意味
直接目撃 本人がFranklin隊員・船・遺物などを実際に見た記憶
同時代の伝聞 家族や別地域のInuitから短期間のうちに伝え聞いた情報
世代間口承 出来事を経験した世代から後世へ伝えられた記憶
Traditional knowledge 地名、海氷、航路、土地利用、歴史的記憶などを含むより広い知識体系

そして現在Parks Canadaが使用している
Inuit Qaujimajatuqangitという言葉も、
単純に「昔話」や「口伝」を意味するものではありません。

地域について蓄積された知識、
経験、
価値観、
土地や海との関係を含む
より広い知識体系です。

したがって本記事でも、
「イヌイット証言=すべて同じ強さの一次証言」
とは扱いません。

1854年|John RaeがPelly Bay周辺で情報を得る

フランクリン遠征の最期に関する
イヌイット情報を英国社会へ初めて大きく伝えたのが、
John Raeでした。

RaeはHudson’s Bay Companyで活動した
医師・探検家です。

1854年、
Boothia Peninsula周辺を調査していたRaeは、
Pelly BayやRepulse Bay周辺のInuitから
失われた英国人について話を聞きました。

Parks Canadaによれば、
その内容の一つは
1848年ごろ、約40人の白人がKing William Island西岸を南へ進んでいた
というものでした。

彼らは船が氷に閉じ込められた後、
徒歩で南へ移動していたらしい。

そして、
衰弱し、
食料が不足しているように見えたと伝えられました。

「約40人」という数字は105人と矛盾するのか

Victory Point Noteによれば、
1848年4月に船を放棄した時点の人数は
105人です。[2]

一方、
Raeが聞いた目撃証言では
「約40人」でした。

数字だけを見ると、
矛盾しているように見えます。

しかし、
この二つが同じ日時・同じ地点の人数を示しているとは限りません。

105人が船を離れてから、
目撃地点へ到達するまでの間に
死亡者が増えた可能性。

集団が複数に分かれていた可能性。

目撃者が全員を確認できなかった可能性。

あるいは、
伝聞の過程で人数が概数になった可能性もあります。

したがって、
「105人だったはずだから40人という証言は誤り」と単純には判断できません。

逆に、
40人という数字から
「この時点までに65人が死亡していた」
と確定することもできません。

さらに南で「約30人の遺体」が見つかったという情報

Raeが記録した話には、
さらに先の出来事もありました。

その白人集団が目撃された場所より南、
Back River河口に近い本土沿岸で、
後に
およそ30人の遺体が発見された
という情報です。

これは、
Victory Point Noteに書かれた
「Back’s Fish Riverへ向かう」
という計画と方向的には一致します。

ただし、
Rae自身がその30人の遺体を直接確認したわけではありません。

ここは
RaeがInuitから聞き取った報告
として扱う必要があります。

FACT CHECK|Rae自身がFranklin隊員を目撃したのか

いいえ。

Raeが1854年に得た主要情報は、
現地のInuitから聞き取った証言です。

一方でRaeは、
Franklin隊に由来する銀食器などの品をInuitから入手しています。

したがってRaeの報告は、
証言だけではなく、遠征隊に結び付けられる物品も伴っていた
点が重要です。

William Uligpak|Raeと情報提供者をつないだ人物

RaeがInuit社会から情報を得るうえで、
重要な役割を果たした人物の一人が
William Uligpakです。

資料では
William Ouligbuck Jr.、
Mar-koなどの名でも記録されています。

UligpakはInuitの狩猟者で、
Raeの通訳・ガイドとして活動しました。

Parks Canadaによれば、
1854年にPelly Bay地域の人々と交わした彼の会話が、
ErebusとTerrorの乗員に何が起きたかを知る
最初の重要証拠につながりました。

つまり、
「Raeという英国人探検家が情報を発見した」
だけではありません。


誰と話すべきかを知り、
言語をつなぎ、
情報をRaeへ伝えたInuit側の人物がいた

からこそ成立した調査でした。

Raeが持ち帰った銀食器は何を意味したのか

Raeは聞き取りだけでなく、
InuitがFranklin隊から入手していた物品も収集しました。

その中には、
銀の皿、
士官のイニシャルが入ったカトラリー、
そしてFranklinが授与された
Royal Hanoverian Orderのメダルなどが含まれていました。

これは重要な違いです。

「正体不明の白人を見た」
という話だけなら、
別の探検隊だった可能性も残ります。

しかし、
Franklin遠征の士官に結び付く品が
同じ情報とともに現れました。

少なくとも、
イヌイットがFranklin隊員または
その遺物と接触していたことを示す
強い根拠になりました。

そして、人肉食についての証言

Raeが英国へ報告した中で
最も大きな論争になったのが、
遠征隊最終段階における
人肉食についての証言でした。

極度に飢えた隊員が、
死亡した仲間の遺体を利用したという内容です。

Victorian英国にとって、
これは単なる遭難情報ではありませんでした。

英国海軍士官の名誉、
文明観、
帝国の自己像そのものに触れる問題でした。

Lady FranklinはRaeの報告を受け入れなかった

John Franklinの妻
Jane Franklinは、
Raeの報告に強く反発しました。

彼女は、
Raeが証言を十分に現地確認せず帰国したこと、
そして政府の報奨金を受け取るため急いだのではないかと批判しました。

さらに著名作家
Charles Dickensも論争へ加わります。

Dickensは自身の雑誌
Household Wordsで、
英国海軍の士官たちが人肉食を行ったという報告を疑い、
イヌイット側の証言の信頼性を攻撃しました。

現代から見ると、
その論考には当時の植民地主義的な価値観や
人種的偏見が明確に反映されています。

Raeはその後、
自分の情報提供者と
イヌイットの証言を擁護する反論を掲載しました。

当時「証言が疑われた」ことと「すべて正しかった」は別

ここで逆方向の単純化も避ける必要があります。

19世紀英国の偏見によって
イヌイット証言が不当に軽視されたことは、
現在の公的資料でも明確に扱われています。

しかし、
だからといって
19世紀に記録されたすべての発言を
細部まで確定事実として扱えるわけではありません。

口承記録には、
聞き手、
通訳、
記録者、
翻訳、
時間経過という複数の段階があります。

人数、
距離、
時期、
船の方角などは、
証言者や記録によって違いが出ることがあります。

必要なのは、
証言を排除することでも、無批判に全部採用することでもありません。

異なる証言同士、
遠征隊自身の記録、
考古学、
地理、
遺物、
船体位置と照合することです。

1859年|McClintockもInuitから船の情報を得る

John Raeだけが
Inuit情報を利用したわけではありません。

1859年のFrancis McClintock遠征でも、
King William Island周辺で
Inuitとの接触がありました。

McClintockは、
Franklin隊のものと考えられる
銀食器や木製品を入手しました。

また、
一方の船がKing William Island西岸側で失われ、
もう一方の船が
Ugjulik(Ook-joo-lik)
と呼ばれる地域で失われたという情報も聞き取っています。

当時、
その情報から船を発見することはできませんでした。

しかし
「Ugjulikに船があった」
という話は、
その後150年以上にわたって
Franklin研究者が追う重要な手掛かりになります。

1860年代|Charles Francis Hallは証言を集め続けた

次に重要なのが
アメリカ人
Charles Francis Hallです。

Hallは、
Franklin遠征の生存者が
Inuitの中で生きているのではないかと考えていました。

1860年から1871年にかけて
北極圏で長期間生活し、
多くのInuitから
英国人と船について聞き取りを行いました。[1]

その調査を支えたのが、
Taqulittuqと
Ipiivikです。

英語資料では
HannahとJoeという名でも登場します。

2人は単なる同行者ではなく、
Hallの通訳、
ガイド、
そしてInuit社会とHallをつなぐ存在でした。

Inukpujijuqが描いた地図

Hallが集めた情報の中で、
21世紀の捜索へ直接つながったものがあります。

1869年、
地域のInukである
Inukpujijuqは、
幼少時に船を訪れた記憶について語りました。

そして
King William Islandより南、
Adelaide Peninsula西岸側の
Ugjulik地域にある船の位置を示しました。

Hallが使っていた海図上で場所を指し、
さらに自分でも地図を描いています。

Parks Canadaによれば、
その位置は
O’Reilly Islandの北東付近
として伝えられました。

ここで語られた内容は、
極めて具体的です。

船はある春、
氷の中に浮いた状態で発見された。

乗組員が船を離れた痕跡があった。

その後Inuitが船へ入り、
内部から多くの物品を回収した。

さらに、
船内には一人の乗組員の遺体が残っていたという証言も記録されています。

この証言は2014年に突然重要になったわけではない

「Inuitの話を信じたらErebusが見つかった」
という説明だけでは、
170年間の過程が抜け落ちます。

Hallの記録は19世紀から残され、
1870年代のSchwatka、
20世紀後半の研究者、
David Woodmanらによって繰り返し検討されてきました。[7]

Woodmanは1992年に
Unravelling the Franklin Mystery: Inuit Testimony
を出版し、
19世紀に残された証言を体系的に再検討しました。

その後も、
Inuitが語ったUgjulik wreckの候補地を探す調査は続きました。

Louie Kamookak|現代の探索へ知識をつないだ

現代のFranklin船体探索で
重要な役割を果たした人物の一人が、
Gjoa Havenの
Louie Kamookakです。

Kamookakは
地域の長老たちから、
Franklin遠征、
地名、
船の位置に関する知識を収集していました。

1990年代以降、
Parks CanadaはKamookakらと協力し、
歴史資料と地域の伝統知識を
現代の捜索範囲へ反映していきます。

これは、
「昔の伝説をソナーで確認する」という単純な関係ではありません。

地域固有の地名が
19世紀の英語表記でどこを意味したのか。

昔の海岸線や海氷環境の中で、
証言された位置が現在のどこに相当するのか。

複数の口承と文書を
地理情報へ変換する作業が必要でした。

2008年|Parks Canadaは南側の捜索区域も設定した

2008年、
Parks CanadaのUnderwater Archaeology Teamは
Franklin船体を探す新たな本格調査を開始しました。

捜索区域は大きく二つに分けられました。

一つは、
Victory Point Noteに記録された
船の放棄地点に近い北側。

もう一つは、
Inuitが船を見たと伝えていた南側です。

現代的な側面走査ソナーを使うとしても、
北極海のすべてを無差別に探すことはできません。

夏の短い無氷期間に、
どこを重点的に調べるかを決める必要があります。

ここで19世紀から受け継がれた情報が、
現代の探索設計に使われました。

2014年|Erebusが証言された地域から見つかる

そして2014年9月2日。

Parks Canadaの調査チームは
海底に沈む船体をソナーで確認しました。

後に
HMS Erebus
と特定されます。

発見地点は、
King William Islandの南、
O’Reilly Island北東側。

Parks Canadaは、
InukpujijuqがHallへ示していた沈没位置に近い地域
だったことを明記しています。

約145年前に記録された証言と、
21世紀の水中考古学が
ここで接続しました。

FACT CHECK|「Inuit証言だけでErebusが見つかった」のか

それも単純化です。

Erebus発見には、
19世紀以来のInuit oral history、
現代のInuit knowledge、
歴史文書、
陸上考古学、
測量、
側面走査ソナー、
長期間の海底探索が組み合わされています。

Parks Canada自身も、
traditional knowledgeと現代の考古学技術・科学的捜索を組み合わせた成果
として説明しています。

2016年|Terrorも「知られていなかった場所」で見つかる

その2年後、
HMS Terrorも発見されました。

場所はKing William Island南西側の
Terror Bay。

Victory Point Noteに記録された
1848年の船体放棄地点とは異なる場所です。

この発見によって、
船を放棄した後に
少なくとも船体が当初の閉塞地点から移動していたことが明確になります。

ただし、
それが海氷による漂流だけなのか、
一部の隊員が船へ戻って再航行したのかなど、
詳細は現在も完全には確定していません。

では、イヌイット証言は「証明された」のか

答えは、
証言ごとに違います。

証言・情報 後世の確認状況
Franklin隊がKing William Island西岸から南へ移動した Victory Point Note、遺骨・遺物分布と大筋で整合
遠征隊由来の品がInuitの手元にあった 銀食器・メダル等を実際に回収
船がKing William Islandより南に存在した Erebusが2014年に南側で発見
Ugjulik周辺に沈没船があった Erebus発見地点と高い地理的整合
遠征終盤に人肉食があった 後世の人骨分析で切断痕等が確認され、証言を支持する物証が存在
証言中の人数・日時・細かな経路 すべてが独立確認されているわけではない

つまり、
証言全体を丸ごと「真実」「誤り」の二択で判定すること自体が適切ではありません。

個別の内容ごとに、
独立した証拠との一致を見ていく必要があります。

人肉食証言は後世の人骨研究によって支持された

Raeが報告した人肉食の話は、
19世紀英国で最も激しく否定された部分でした。

しかし20世紀後半、
King William Island周辺で回収された人骨の一部から、
人為的な切断痕が確認されました。

さらに後の研究では、
長骨が破壊され、
骨髄まで利用された可能性を示す痕跡も検討されています。

2016年にInternational Journal of Osteoarchaeologyに掲載された研究は、
これらの骨加工痕について、
遠征最終段階の人肉食を示す可能性があり、
19世紀のInuit証言の信頼性をさらに支持するとしています。

ただし、
どの人物が、
いつ、
どの状況で行ったのかまでは分かりません。

この物証の詳細は、
次回の第8回で扱います。

証言を軽視したことで、捜索は遠回りしたのか

結果だけを見ると、
そう考えたくなります。

19世紀には、
Inuitから
「船が南側にあった」
という具体的な情報が複数記録されていました。

にもかかわらず、
長期間にわたり探索の重点は
必ずしもその情報と一致していませんでした。

ただし、
これも
「英国人がInuitを信じなかったから150年間見つからなかった」
だけで説明するのは単純すぎます。

北極海では、
捜索可能期間が短く、
当時は水中ソナーもありません。

地名の対応も難しく、
証言された船がErebusなのかTerrorなのかも分かりません。

海氷によって船が移動した可能性もありました。


偏見による証言軽視と、
当時の探索技術・地理条件の限界は、
分けて評価する必要があります。

イヌイットは「捜索の情報源」だけではない

現在、
Wrecks of HMS Erebus and HMS Terror National Historic Siteは、
Parks Canadaだけで管理されている場所ではありません。

Inuitとの共同管理が行われています。

Parks Canadaは、
Franklin遠征当時から地域で暮らしてきたInuitを
この歴史の不可欠な一部と位置づけています。

船体の発見後も、
Inuit Guardiansによる遺跡保護や、
調査、
文化遺産管理への参加が続いています。

したがって、
Franklin遠征におけるInuitの役割を
「英国人探検家へ情報を提供した人々」
だけに限定するのも適切ではありません。

証言が伝えたものを時系列で整理する

時期 記録者・関係者 主な情報
1854年 John Rae / William Uligpak 約40人の白人がKing William Island西岸を南下したという証言、遺物、人肉食に関する情報
1859年 Francis McClintock 船や遺物についてInuitから追加情報を収集
1860~1871年 Charles Francis Hall / Taqulittuq / Ipiivik 多数の目撃・口承記録を収集
1869年 Inukpujijuq Ugjulik周辺の船体位置を海図・手描き地図で示す
1879~1880年 Frederick Schwatka / Ipiivik 追加の口承と遺物を収集
20世紀後半 研究者・地域住民 19世紀証言を再検討し船体探索へ利用
1990年代以降 Louie Kamookakほか 地名・地域史・長老からの知識を現代探索へ接続
2014年 Parks Canadaほか Inuit knowledgeと現代技術を用いた探索でHMS Erebus発見
2016年 現地情報+Parks Canada HMS Terror発見

フランクリン遠征を見る視点が変わる

フランクリン遠征を英国側の資料だけから読むと、
1845年7月以降、
遠征隊は「消えた」ように見えます。

しかし、
地域側の記憶を加えると、
その見え方は変わります。

船は見られていた。

人々は見られていた。

遺体も見つかっていた。

持ち物も回収されていた。

沈没船の位置さえ、
ある程度伝えられていました。

つまり、

情報が存在しなかったのではなく、
異なる知識体系の中に保存されていた

という側面があります。

まとめ|170年後、口承記録とソナーが同じ海域を指した

1854年、
John RaeはInuitから
King William Island西岸を南へ進む白人集団の話を聞きました。

彼は銀食器など
Franklin隊に結び付く物品も入手し、
英国へ報告しました。

しかし、
人肉食を含む証言は
Victorian英国社会から激しく否定されました。

その後、
Charles Francis Hall、
Frederick Schwatkaらは
Inuitからさらに多くの情報を集めます。

1869年にはInukpujijuqが、
King William Island南側に存在した船について
具体的な位置を示しました。

その情報は忘れられたわけではありません。

20世紀以降の研究者、
Louie Kamookakら地域のKnowledge Holders、
そしてParks Canadaへ受け継がれます。

2014年。

HMS Erebusは、
Inukpujijuqが19世紀に示していた場所に近い海域で発見されました。

そして人肉食に関する証言も、
後世の人骨分析によって
少なくとも重要部分が支持されています。

ただし、
証言のすべてが細部まで証明されたわけではありません。

重要なのは、

「英国側文書か、イヌイット証言か」
という二者択一ではなく、
異なる資料を照合することで
失われた遠征を復元できるようになったこと

です。

次回は、
その「物証」の側へ進みます。

King William Islandに残された人骨。
Beechey Islandの遺体。
切断痕。
病気。
飢餓。
鉛。

129人はなぜ帰れなかったのか。

第8回では、
有名な「鉛中毒説」を含め、
遠征隊の死亡原因について
考古学と科学分析から検証します。

今回出てきた言葉

Inuit Qaujimajatuqangit
イヌイット社会に蓄積されてきた知識、経験、価値、土地・海との関係などを含む知識体系。
単なる「昔話」や口承だけを意味する言葉ではない。
Franklin船体探索では地域の地名や歴史的記憶を理解するためにも活用された。
Qallunaat
イヌイット語で非Inuit、特に白人・欧州系の人々を指す際に使われる語。
Raeが記録したFranklin隊員に関する証言を説明するParks Canada資料にも登場する。
William Uligpak
William Ouligbuck Jr.、Mar-koとも記録されるInuitの狩猟者・通訳・ガイド。
1854年のJohn RaeによるFranklin調査で、地域の人々から情報を得るうえで重要な役割を果たした。
Taqulittuq / Ipiivik
Charles Francis Hallの北極調査で通訳・ガイドとして活動したInuit。
英語資料ではHannahとJoeとも呼ばれる。
HallによるFranklin関係の口承収集を支えた。
Inukpujijuq
1869年にCharles Francis Hallへ、Ugjulik地域にあった船の位置を説明したInuk。
海図上で位置を示し、自ら地図も描いた。
2014年にErebusが発見された海域は、この情報と地理的に近かった。
Ugjulik
Franklin探索史で沈没船の情報と結び付いた地域名。
表記にはOok-joo-likなど複数の形がある。
Parks Canadaは「bearded sealsがいる場所」に由来する名称として説明している。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Parks Canada — Inuit culture Franklin ExpeditionとInuitの関係、 Inuit Qaujimajatuqangit、 Erebus・Terror発見へのtraditional knowledgeの役割、 現在の共同管理について確認。
  2. [2] Parks Canada — Inuit traditional knowledge 1854年にRaeが得た約40人の白人集団の証言、 Back River付近の遺体、 McClintock・Hall・Schwatkaによる口承収集、 Inukpujijuqの地図、 Louie Kamookakと現代探索、 2014年Erebus発見との位置関係確認に使用。
  3. [3] Parks Canada — Searching for Franklin John Raeの1854年報告、 銀食器・Franklinのメダル、 人肉食証言、 Lady FranklinとCharles Dickensによる批判、 Charles Francis Hall、Taqulittuq、Ipiivik、 Inukpujijuqに関する確認に使用。
  4. [4] Parks Canada — Who’s who in the Franklin expedition William Uligpakをはじめ、 Franklin捜索に関わったInuitの通訳・ガイド・Knowledge Holdersについて確認。
  5. [5] Parks Canada — Searching for Franklin’s lost ships 2008年以降の現代捜索、 Inuit oral historiesを反映した北側・南側探索区域、 現代技術とtraditional knowledgeを組み合わせた探索方針の確認に使用。
  6. [6] Parks Canada — Finding HMS Erebus 2014年9月2日のHMS Erebus発見と、 長期的な水中探索の確認に使用。
  7. [7] Mays & Beattie — Evidence for End-stage Cannibalism on Sir John Franklin’s Last Expedition to the Arctic 人骨の切断・破砕・骨髄利用を示唆する痕跡と、 19世紀Inuit証言を支持する考古学的証拠の確認に使用。 詳細な死因・人骨分析は第8回で扱う。

フランクリン遠征|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する

遭難・救助

THE QUESTION

129人はなぜ帰れなかったのか | 遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証するについて、通説と確認可能な事実はどう異なるのか。

STORY SO FAR

前回「イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言」で確認した論点を受け、この回では129人はなぜ帰れなかったのか | 遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証するについて、通説と確認可能な事実はどう異なるのか。を扱う。

フランクリン遠征について、
最も有名な説明のひとつがあります。

「缶詰から溶け出した鉛によって隊員たちが中毒になり、判断力と体力を失って全滅した」
という説です。

確かに、
遠征隊員の遺体や人骨からは
高い鉛濃度が検出されました。

しかし、
現在の研究から見ると、
これだけで129人の死を説明することはできません。

Beechey Islandで死亡した3人には、
結核や肺炎を含む重い病気の痕跡がありました。

King William Island周辺では、
遠征隊員の人骨が広い範囲から発見されています。

その一部には
ナイフによる切断痕があり、
さらに長骨を破壊して
骨髄まで利用した可能性を示す痕跡も残っていました。

遠征隊は長期間氷に閉じ込められ、
1848年4月には船を捨て、
105人で陸上から南へ向かっています。

寒冷。
病気。
栄養状態。
飢餓。
長期間の閉塞。
体力低下。
徒歩とソリによる長距離移動。

これらは互いに独立した問題ではありません。


フランクリン遠征の全滅は、
一つの毒物や一つの病気ではなく、
複数の負荷が連鎖した結果として考える方が
現在の証拠に合っています。

この記事で分かること

  • 「鉛中毒で全滅した」という説はどこから生まれたのか
  • Beechey Islandの3遺体から何が分かったのか
  • John Torrington、John Hartnell、William Braineは何で死亡したのか
  • 遠征隊員から高い鉛濃度が検出されたのは事実なのか
  • 鉛の原因を缶詰だけに限定できるのか
  • 2018年の研究が鉛中毒説をどう評価したのか
  • 壊血病は遠征全滅の主因だったのか
  • 結核や呼吸器疾患はどこまで確認されているのか
  • 人骨の切断痕は何を意味するのか
  • 人肉食は「噂」なのか、それとも物証があるのか
  • 現在、最も合理的な遠征崩壊モデルは何か

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

先に結論|129人全員を一つの死因で説明する証拠はない

フランクリン遠征について、
現在確認できる最も重要な事実は、
129人の死因を一括して示す医学記録が存在しない
ことです。

遠征隊には医師がいました。

本来であれば、
病気や治療について記録した
Sick Bookなどの医学記録が作成されていた可能性があります。

しかし、
そうした体系的記録は現在まで回収されていません。

残っているのは、
Beechey Islandで保存された3遺体、
King William Island周辺に散在する人骨、
少数の個人が特定された骨、
遺物、
Inuitの証言、
そしてVictory Point Noteです。

そこから分かるのは、
遠征隊員が全員同じ原因で死亡したとは考えにくい
ということです。

まず確認できる死亡者|Beechey Islandの3人

1845~1846年、
遠征隊はBeechey Island周辺で
最初の冬を過ごしました。

この期間に、
3人が死亡しています。

人物 所属 死亡日
John Torrington HMS Terror 1846年1月1日
John Hartnell HMS Erebus 1846年1月4日
William Braine Royal Marine / HMS Erebus 1846年4月3日

1850年、
捜索隊がこの3人の墓を発見しました。

北極圏の永久凍土に埋葬された遺体は、
極めて良好な状態で保存されていました。

1980年代、
Owen Beattieらの研究チームは
遺体を発掘し、
医学・化学分析を行いました。

ここから、
Franklin遠征の健康状態をめぐる議論が
大きく変わります。

John Torrington|20歳、著しく衰弱していた

最初に詳しく調査されたのが、
HMS Terrorの
John Torringtonです。

死亡時20歳。

遺体は永久凍土によって
非常によく保存されていました。

医学調査では、
死亡時に大きく体重を失っていたことが確認されています。

肺には重い病変があり、
結核を示す所見に加えて
肺炎が死亡に関係したと評価されました。

つまり、
遠征最初の冬に死亡した人物の一人は、
単に
「北極で凍死した」
わけではありません。

すでに重い呼吸器疾患と
著しい身体衰弱が存在していました。

John Hartnell|結核が確認された

Torringtonの3日後、
John Hartnellが死亡します。

25歳でした。

Hartnellの遺体も
1980年代に調査されました。

その結果、
肺結核が死亡に重要な役割を持ったと考えられています。

Hartnellについては、
その後さらに興味深い分析が行われました。

爪を使って、
死亡前数か月間の
鉛、亜鉛、銅などの変化を
時系列として読み取る研究です。

その研究は、
従来の
「遠征中に大量の鉛を摂取し続けた」
という単純なモデルに疑問を投げかけました。

William Braine|結核性疾患を示す所見

1846年4月3日、
3人目の
William Braineが死亡しました。[5]

32歳でした。

Braineの遺体からも、
肺を含む結核性疾患を示す所見が報告されています。

この3人を見るだけでも、
Franklin遠征の健康問題が
「一つの毒物」だけではなかったことが分かります。

少なくとも最初の冬には、
感染症と身体衰弱が現実の問題として存在していました。

では「鉛中毒説」はどこから出てきたのか

1980年代の調査で注目されたのが、
遺体や人骨に含まれる
lead――鉛でした。

Beechey Islandの遺体、
King William Island周辺の人骨などから、
比較的高い鉛濃度が検出されました。

鉛は人体に有害です。

大量または長期間曝露すると、
消化器症状、
貧血、
末梢神経障害、
認知機能への影響などを引き起こす可能性があります。

そのため、
次のような説明が広く知られるようになりました。

有名になった鉛中毒説

大量の缶詰を積載

↓

缶のはんだから鉛が食品へ移る

↓

隊員が長期間鉛を摂取

↓

身体・認知機能が低下

↓

判断力低下と疾病が遠征崩壊を加速

物語としては非常に分かりやすい説明です。

しかし、
その後の研究で
いくつか問題が指摘されました。

「鉛があった」と「鉛中毒で全滅した」は別の主張

ここを分ける必要があります。

Franklin隊員の身体から
鉛が検出されたこと自体は事実です。

問題は、
その濃度が
遠征中に特異的に増えたのか、
そして
遠征を失敗させるほどの臨床的鉛中毒を広範囲に起こしたのか
です。

19世紀の英国社会では、
鉛曝露そのものが
現代よりはるかに一般的でした。

鉛を含む配管、
食器、
薬品、
顔料、
食品容器など、
複数の曝露源が存在しました。

したがって骨から高濃度の鉛が見つかった場合でも、
その鉛が1845年以降の遠征中だけに蓄積したとは限りません。

缶詰だけが鉛の候補だったわけでもない

Franklin隊は、
大量の保存食を積んでいました。

当時の缶詰は、
接合部分にはんだが使われており、
鉛曝露源になった可能性があります。

しかし、
遠征船には別の鉛源も存在しました。

たとえば船内の給水設備なども、
過去の研究では候補として検討されています。

さらに、
隊員たちは遠征前から
社会環境の中で鉛へ曝露していました。

そのため、

「鉛を検出した」
→
「缶詰が原因」
→
「それで全員死亡」

という三段階を、
証拠なしに直結させることはできません。

2018年|骨の中の鉛を細かく調べ直した

鉛中毒説を再評価する重要な研究の一つが、
2018年に発表されました。

研究チームは、
Franklin遠征隊員と考えられる人骨について、
高分解能のX線分析を使い、
骨の微細構造のどこに鉛が分布しているか
を調べました。

目的の一つは、
遠征末期になって
急激に鉛曝露が高まった証拠があるかを見ることです。

結果として、
死亡直前に形成された骨組織にも鉛は確認されました。

しかし、
遠征隊員が比較対象より
異常に高い鉛曝露を受けていたという
一貫した証拠は得られませんでした。

研究者たちは、
鉛がFranklinと乗組員の喪失に中心的・決定的役割を果たしたという結論を支持しない
としています。

FACT CHECK|鉛中毒説は完全否定されたのか

それも違います。

隊員に鉛曝露があったことは確認されています。

個々の隊員に何らかの健康影響があった可能性も
完全には排除できません。

現在否定的に評価されているのは、
「異常な鉛中毒が129人全滅の中心原因だった」とする強い単一原因説
です。

Hartnellの爪から見えた別の問題

John Hartnellの爪を使った研究でも、
鉛について興味深い結果が出ています。

研究では、
遠征期間中に
Hartnellの鉛曝露が一貫して増加したという
証拠は得られませんでした。

むしろ死亡直前に
鉛濃度が上がった部分については、
重い病気と体重減少によって
骨や組織に蓄積していた金属が
体内へ再放出された可能性が提案されています。

同じ研究では、
Hartnellに
亜鉛不足が存在した可能性も提示されました。

亜鉛は免疫機能にも関係します。

そのため、
栄養状態の悪化が結核に対する抵抗力を低下させた可能性が議論されました。

ただし、
これについても確定ではありません。

別の研究者は、
爪の亜鉛濃度をそのまま全身の亜鉛欠乏指標として使うことには不確実性がある
と指摘しています。

つまり、
「鉛説が否定されたので、今度は亜鉛不足が真相」
と置き換えることもできません。

壊血病はどうだったのか

極地探検で頻繁に名前が出る病気が
scurvy――壊血病です。

ビタミンCが長期間不足することで発生し、
疲労、
歯肉出血、
創傷治癒障害、
出血、
最終的には死亡につながります。

Franklin遠征隊も
壊血病対策としてレモンジュースを積んでいました。

しかし、
保存期間や加工によって
ビタミンCの有効性が低下した可能性があり、
遠征後半に壊血病が広がったという説は
古くから存在します。

一方、
現在利用できる人骨の分析だけでは、
船を放棄した1848年時点で壊血病が遠征隊全体を壊滅状態にしていたと確定することはできません。

しかも壊血病では、
すべての症例が骨に明確な痕跡を残すわけでもありません。

したがって評価は、
「壊血病はなかった」でも
「全員が重症壊血病だった」でもありません。

結核は少なくとも現実に存在していた

病気の中で、
より直接的な証拠があるのが
tuberculosis――結核です。

Beechey Islandで死亡した隊員の遺体には、
結核性病変が確認されています。

19世紀の英国では、
結核そのものが珍しい病気ではありませんでした。

さらに、
100人以上が限られた船内空間で長期間生活する環境は、
呼吸器感染症の拡大に有利です。

ただし、
これも
「Franklin隊129人が結核で全滅した」
という意味ではありません。

確認できるのは、
遠征最初期から少なくとも一部の隊員が重大な感染症を抱えていた
ということです。

1848年4月には24人がすでに死亡していた

Victory Point Noteによれば、
1848年4月25日までに
9人の士官と15人の乗組員、合計24人
が死亡していました。[2]

出発時129人に対して、
約19%です。

しかも、
死亡者には
John Franklin本人も含まれていました。

しかし、
24人それぞれの死因は記録されていません。

感染症。

栄養不足。

事故。

外傷。

寒冷。

その他の疾病。

複数の原因が混在していた可能性があります。

船を放棄した105人に待っていたもの

1848年4月22日、
残った105人は
ErebusとTerrorを放棄しました。[2]

ここで条件は劇的に変わります。

それまで彼らには、
少なくとも船という大型の避難場所がありました。

船内には寝床、
暖房設備、
調理設備、
物資の保管場所がありました。

しかし船を離れれば、
それらを持って移動することはできません。

必要な物資を
人間がソリで引かなければならなくなります。

目標は南にある
Back River方面でした。

そこまでの移動は、
海氷、
岩場、
雪、
河川、
湿地などを横断する
極めて厳しい行程になります。

しかも105人は、
健康な状態で出発したとは限りません。

なぜ船を離れてすぐ多くの遺骨が現れるのか

後世の捜索では、
King William Island西岸から南岸、
さらに本土方向にかけて
Franklin隊員と考えられる遺骨や遺物が発見されました。

中には、
船を放棄した地点から
それほど遠くない地域で見つかったものもあります。

これは、
少なくとも一部の隊員が
陸上移動を開始した段階ですでに
相当に衰弱していた可能性
と整合します。

船を降りれば元気になるわけではありません。

むしろ、
病気や栄養不足で弱った身体に
長距離ソリ移動という新しい負荷が加わりました。

そして人骨にナイフの痕跡が見つかった

19世紀、
John RaeがInuitから
人肉食について聞いたことは
前回の記事で扱いました。

当時、
この報告は英国で激しく否定されました。

しかし20世紀後半になると、
King William Island周辺から回収された
Franklin遠征隊員の人骨に
人為的な切断痕が確認されます。

骨に残った痕跡は、
動物による噛み跡とは異なり、
刃物によって軟部組織を取り外した行為と
整合するものでした。

これによって、
Raeが記録したInuit証言は
単なる噂として片付けられなくなりました。

さらに「骨髄まで利用した」可能性

2010年代には、
既存のFranklin隊員人骨が
さらに詳しく再分析されました。

研究対象となった一部の長骨には、
意図的に破壊されたと考えられる痕跡がありました。

さらに破断面の一部には、
加熱した液体中で骨を処理した際に生じる可能性がある磨耗
が確認されています。

研究者は、
これを
骨を砕き、
内部の骨髄脂肪まで利用した
end-stage cannibalism
の可能性として慎重に評価しました。

ここで重要なのは、
センセーショナルな「人食い」の話ではありません。


通常なら利用しない骨髄までカロリー源として処理する必要があったほど、
一部の生存者が深刻な飢餓状態に達していた可能性

です。

人肉食は全滅の「原因」ではなく、末期状態を示す証拠

因果関係を逆にしてはいけません。

人肉食がFranklin遠征を崩壊させたわけではありません。

むしろ、
すでに遠征が極限状態まで崩壊していた結果として発生した可能性が高い行動
です。

したがって、
人骨の切断痕は
「なぜ最初に船が動けなくなったか」を説明しません。

しかし、
「陸上撤退の末期にどれほど食料事情が悪化していたか」
を示す重要な証拠になります。

FACT CHECK|人肉食は証明されたのか

一部のFranklin隊員人骨には、
刃物による切断痕が確認されています。

さらに一部長骨には、
骨髄利用を目的とした破壊・処理と整合する痕跡があります。

したがって、
遠征末期の一部集団で人肉食が行われたとする説明には骨学的根拠があります。
ただし、誰が誰に対して、いつ、どの程度行ったのかまでは特定できません。

寒さそのものより、「寒冷下での消耗」が問題になる

「北極だから凍死した」
という説明も単純すぎます。

遠征隊員は、
極地装備を持っていました。

船内には暖房もあり、
極寒環境への備えは行われていました。

しかし1848年以降は、
船を離れて長距離を移動します。

寒冷環境では、
身体が体温を維持するためにも
多くのエネルギーを消費します。

同じ気温でも、
健康で十分な食料を持つ人間と、
感染症・栄養不足・疲労を抱えた人間では
生存条件が大きく異なります。

そこへ、
重いソリを引く作業が加わりました。

つまり寒冷は
単独で人を殺すだけではなく、
栄養不足・感染症・疲労と相互に作用する増幅要因
になります。

彼らは狩猟で補給できなかったのか

Franklin遠征は、
現地の食料をまったく利用しない計画ではありませんでした。

狩猟によって
船内物資を補うことも想定されていました。

しかし、
ErebusとTerrorが長期間閉じ込められた
King William Island北西周辺は、
常に豊富な獲物を確保できる場所ではありません。

さらに大型の英国海軍遠征では、
100人を超える人員を
現地狩猟だけで長期間養うことは困難です。

後世にFranklin隊を探したJohn Raeや、
Inuitの人々が北極環境で効率的に移動・狩猟できたことと、
105人規模の疲弊した集団を支えることは
同じ問題ではありません。

「なぜ全員死んだのか」を因果関係で整理する

現在の証拠から考えると、
Franklin遠征の崩壊は
次のような連鎖として見るのが合理的です。

1846年9月
船が海氷に拘束

↓

1847年夏にも解放されない

↓

船内生活の長期化
感染症・栄養状態・身体消耗

↓

1848年4月までに24人死亡

↓

105人が船を放棄

↓

寒冷環境で徒歩・ソリによる長距離撤退

↓

食料不足+疾病+疲労+低体温リスク

↓

集団の分散・死亡者増加

↓

一部では極度の飢餓を示す骨処理

このモデルであれば、
鉛曝露、
結核、
壊血病、
その他の疾病が
一部の隊員へ影響した可能性も
同時に組み込むことができます。

どれか一つを
「真犯人」にする必要はありません。

仮説を現在の証拠で比較する

要因 証拠 現在の評価
鉛曝露 遺体・人骨から鉛を検出 存在は確認。ただし遠征全滅の中心原因だったとは支持されない
結核・呼吸器疾患 Beechey Island遺体に病変 少なくとも一部隊員で実在
壊血病 極地環境・長期保存食から可能性 関与の可能性はあるが、1848年時点の全隊員重症説は確定できない
亜鉛不足 Hartnellの爪分析から提案 興味深い仮説だが、指標の解釈には異論あり
ボツリヌス症 保存食との関連から提唱 仮説。遠征全体を説明する直接証拠は不足
飢餓 人骨切断痕・骨髄利用の可能性 少なくとも末期の一部集団では強い物証
寒冷・曝露 北極環境+陸上撤退 疾病・栄養不足と相互作用した可能性が高い
長距離撤退 遺物・人骨分布、Back Riverへの計画 疲弊した集団への重大な追加負荷

「原因不明」ではない。しかし「原因確定」でもない

Franklin遠征について、
原因がまったく分かっていないわけではありません。

何が彼らへ負荷を与えたのかは、
かなり見えてきています。

長期間の海氷閉塞。

遠征初期から存在した感染症。

時間とともに悪化した栄養・食料条件。

寒冷環境。

船を捨てた後の陸上撤退。

そして末期には、
通常なら食料としない人骨の骨髄まで
利用した可能性。

一方で、
129人それぞれについて
直接の死因を特定することはできません。

つまり現在の到達点は、

「何も分からない」から
「複合要因による崩壊だったことはかなり分かる」
まで進んだ

という位置にあります。

まとめ|鉛は存在した。しかし「鉛が129人を殺した」ではない

1980年代、
Beechey Islandの保存遺体から
高い鉛濃度が検出されました。

これによって
「鉛中毒がFranklin遠征を壊滅させた」
という説明が広まりました。

しかし後の研究では、
Franklin隊員が
当時として異常に高い鉛曝露を受けたことや、
遠征期間中に鉛濃度が急上昇したことを示す
一貫した証拠は得られていません。

したがって、
鉛を遠征全滅の中心原因とする説明は
現在では支持しにくくなっています。

一方、
Beechey Islandの3遺体からは
重い呼吸器疾患や身体衰弱が確認されました。

1848年までには24人が死亡。

残った105人は
船を離れて南へ向かいました。

そしてKing William Island周辺の人骨には、
遠征末期の深刻な飢餓と整合する
切断・骨処理の痕跡が残っていました。

Franklin遠征を理解するうえで、
最も重要なのは
「本当の死因を一つ選ぶこと」ではありません。


病気で弱る。
食料条件が悪化する。
寒冷下で消耗する。
船を失う。
重い荷物を引いて歩く。
さらに食料が不足する。

一つの問題が次の問題を悪化させる。

その連鎖こそが、
129人全員が帰還できなかった理由に
最も近いと考えられます。

ただし、
ここまで見てきた証拠の大半は
陸上から見つかったものです。

長い間、
最大の物証だけが欠けていました。

HMS Erebusそのものです。

2014年9月。

1845年の出航から169年後、
海底ソナーに一隻の木造船が映りました。

次回は、
Inuitの口承、
現代の海底探査、
陸上で見つかった小さな金属片が
どのようにつながり、
HMS Erebus発見へ至ったのかを追います。

今回出てきた言葉

鉛中毒説
Franklin遠征隊員の遺体・人骨から高い鉛濃度が確認されたことから、
鉛曝露が遠征崩壊を招いたとする仮説。
鉛曝露そのものは確認されているが、
現在の研究では遠征全滅の決定的原因だったとする説明は支持されていない。
John Torrington
HMS Terrorの隊員。
1846年1月1日にBeechey Islandで死亡した。
永久凍土に保存された遺体の医学調査から、
著しい衰弱と重い呼吸器疾患が確認された。
John Hartnell
HMS Erebusの隊員。
1846年1月4日に死亡。
遺体だけでなく爪の元素分析も行われ、
Franklin遠征における鉛・栄養状態研究の重要な資料となった。
scurvy/壊血病
長期間のビタミンC不足によって起きる疾病。
極地探検で重大な問題だったが、
Franklin遠征でどの程度死亡に寄与したかは現在も確定していない。
end-stage cannibalism
極度の飢餓状態で、軟部組織だけでなく骨を破壊・処理し、
骨髄など残された栄養まで利用する段階を指す考古学上の表現。
Franklin隊員の一部人骨から、この行動と整合する可能性のある痕跡が報告されている。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Swanston et al. (2018) — Franklin expedition lead exposure: New insights from high resolution confocal x-ray fluorescence imaging of skeletal microstructure Franklin隊員人骨の鉛分布、 遠征末期の鉛曝露、 同時代比較、 鉛が遠征喪失に決定的役割を果たしたとする説の再評価に使用。
  2. [2] Millar, Bowman & Battersby — A re-analysis of the supposed role of lead poisoning in Sir John Franklin’s last expedition, 1845–1848 鉛中毒説の成立、 当時の鉛曝露背景、 栄養不足・感染症・寒冷など他要因との相互作用、 単一原因説の問題点確認に使用。
  3. [3] Christensen et al. — Hartnell’s time machine: 170-year-old nails reveal severe zinc deficiency played a greater role than lead in the demise of the Franklin Expedition John Hartnellの爪を用いた鉛・亜鉛・銅の時系列分析、 死亡直前の金属濃度変化と栄養状態仮説の確認に使用。
  4. [4] Millar & Bowman — “Hartnell’s time machine” reprise 爪の亜鉛濃度を亜鉛欠乏の直接指標とすることへの異論、 Hartnell研究の解釈上の限界確認に使用。
  5. [5] Mays & Beattie — Evidence for End-stage Cannibalism on Sir John Franklin’s Last Expedition to the Arctic King William Island周辺の人骨に残る切断痕、 長骨の破壊・磨耗、 骨髄抽出を目的とした末期人肉食の可能性と Inuit証言との整合性確認に使用。
  6. [6] Polar Record — Finding the dead: bodies, bones and burials from the 1845 Franklin Northwest Passage Expedition Franklin隊員の遺骨・埋葬地点の分布、 そこから復元される南下経路、 鉛・壊血病・結核など複数の死亡要因研究の整理に使用。
  7. [7] Polar Record — The health of nine Royal Naval Arctic crews, 1848 to 1854 Franklin遠征のSick Bookが未発見であること、 同時代の北極捜索艦隊に見られた呼吸器・消化器疾患、 壊血病、結核、寒冷曝露とFranklin隊との比較検討に使用。

フランクリン遠征|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見

遭難・救助

THE QUESTION

HMS Erebusはどう見つかったのか | 2014年、失踪から169年後の船体発見について、この回が担う固有の論点は何か。

STORY SO FAR

前回「129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する」で確認した論点を受け、この回ではHMS Erebusはどう見つかったのか | 2014年、失踪から169年後の船体発見について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

2014年9月2日。

カナダ北極圏の海を、
小型調査船がゆっくりと往復していました。

船尾から海中へ伸びているのは、
side-scan sonar――サイドスキャンソナー。

海底へ音波を送り、
戻ってくる反射から
海底にある物体の形を画像として描き出す装置です。

画面を見ていたParks Canadaの水中考古学者
Ryan Harrisたちは、
何年も同じ作業を繰り返していました。

海底を一列ずつ走査する。

何もない。

少し横へ移動し、
また一列走査する。

それを繰り返す。

そしてその日、
モニターに船の形が現れました。


船首。
船尾。
甲板。
船体。

海底に横たわる木造船が、
一目で分かるほどの形を残していました。

1845年に英国を出航し、
その後169年間行方が分からなくなっていた
フランクリン遠征の2隻のうち一隻。

後にその船は、
HMS Erebus
と確認されます。

しかし、
発見は「最新ソナーで海を探したら偶然見つかった」
という話ではありません。

その前には、
19世紀に記録されたイヌイットの証言がありました。

6年間の海底調査がありました。

そして船体発見の
わずか1日前、
陸上から小さな船の部品が見つかっていました。

第9回では、
169年間見つからなかったErebusが、なぜ2014年になって見つかったのか
を追います。

この記事で分かること

  • なぜErebusとTerrorは150年以上見つからなかったのか
  • Parks Canadaはなぜ2008年から再捜索を始めたのか
  • 捜索区域を「北」と「南」に分けた理由
  • イヌイットの口承は捜索場所の決定にどう使われたのか
  • サイドスキャンソナーとは何をする装置なのか
  • 2008~2013年の捜索で何が分かったのか
  • 2014年9月1日に陸上で見つかった2つの遺物とは何か
  • なぜその発見が海底捜索の場所を変えたのか
  • 9月2日のソナー画面に何が映ったのか
  • 発見時点ではなぜErebusかTerrorか分からなかったのか
  • いつHMS Erebusと正式に確認されたのか
  • Erebusの位置がフランクリン遠征に新たな疑問を生んだ理由

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

先に結論|Erebusは「ソナーだけ」で見つかったのではない

HMS Erebus発見の直接的な瞬間は、
2014年9月2日のサイドスキャンソナーです。

しかし、
発見までの流れを見ると
少なくとも4種類の情報が組み合わされています。

情報 役割
19世紀のイヌイット口承 King William Islandより南に船があったという捜索仮説
現代のInuit knowledge 地名・地域史・探索区域の解釈
陸上考古学 2014年9月1日に船由来の部品を発見
水中リモートセンシング 9月2日に海底の船体そのものを検出

したがって、
「最新技術が169年前の謎を解いた」
という説明だけでは半分しかありません。

より正確には、

19世紀から残っていた情報を現代の考古学とソナーで
位置情報へ変換し続けた結果、
ようやく船体へ到達した

という発見です。

そもそも、なぜ船がどこにあるか分からなかったのか

Victory Point Noteによれば、
ErebusとTerrorは
1848年4月22日に放棄されました。[1]

その時、
2隻はKing William Island北西側の海域にありました。

普通に考えれば、
捜索すべき場所はその周辺です。

ところが、
19世紀のイヌイット証言には
King William Islandよりかなり南側で船を見た
という情報が残されていました。

この二つが捜索を難しくします。

船を放棄した場所と、
後に船が見られたとされる場所が違う。

つまり、
放棄後に船体が移動した可能性を
最初から考えなければならなかったのです。

1992年|船が見つかる前に史跡指定されていた

興味深いことに、
ErebusとTerrorは
発見される前から保護対象になっていました。

1992年、
Historic Sites and Monuments Board of Canadaは、
2隻の沈没船を
National Historic Siteとして指定しました。

もちろん、
その時点では位置は分かっていません。


「将来見つかった場合に保護すべき歴史遺産」
として先に指定された

という珍しい状態でした。

1997年にはカナダと英国の間で、
船体が発見された場合の管理について
取り決めも行われます。

こうして21世紀の本格捜索へ向けた
制度的な土台が整っていきました。

2008年|Parks Canadaが現代の本格捜索を開始

2008年、
Parks Canadaの
Underwater Archaeology Teamは、
ErebusとTerrorを探す
複数年計画の調査を開始しました。

最初から一か所だけを探したわけではありません。

歴史資料とイヌイットの口承を検討した結果、
大きく二つの候補区域が設定されました。

北側の捜索区域

Victory Point Noteに記録された
1848年の船体放棄地点周辺。

ここは、
遠征隊自身の記録を基準とした
最も直接的な候補です。

南側の捜索区域

一方、
イヌイットの口承では、
King William Islandより南側にも
船についての記憶が残っていました。

そのためParks Canadaは、
Adelaide Peninsula周辺、
Wilmot and Crampton Bay、
O’Reilly Island周辺などを含む南側も
主要候補地としました。

後にErebusが発見されるのは、
こちら側です。

FACT CHECK|ErebusはVictory Point Noteに書かれた場所で見つかったのか

いいえ。

Victory Point Noteに記録された船体放棄地点は
King William Island北西側です。

Erebusが2014年に発見されたのは、
そこから大きく南へ離れた
Wilmot and Crampton Bay周辺、
King William Islandの約80km南側でした。

したがって発見そのものが、
船体放棄後にErebusが南へ移動した
という新たな問題を生みました。

北極海を全部ソナーで探すことはできない

現代の技術があるなら、
海底を全部スキャンすればよい。

そう考えるかもしれません。

しかし、
北極ではそれが難しい。

Parks Canadaによれば、
Franklin船体の捜索海域が
比較的航行しやすくなるのは
通常、8月下旬から9月上旬ごろです。

つまり、
1年間の大半は海氷によって
効率的な海底調査ができません。

使える時間は短い。

捜索区域は広い。

海図が十分ではない場所もある。

天候も変わる。

そのため
「どこを探すか」自体が調査の中心
になります。

サイドスキャンソナー|海底を横から見る

主要な道具となったのが
side-scan sonarです。

小型のセンサーを船の後方から曳航し、
左右へ音波を発射します。

海底から返ってきた音の強さと影を利用して、
海底面の形状を画像化します。

船体のように
海底から大きく突き出した物体があれば、
強い反射と音響的な影ができます。

ただし、
ソナー画面に
「HMS Erebus」と文字が表示されるわけではありません。

まず異常物を発見し、
形状、
寸法、
位置、
その後の映像や潜水調査から
正体を確認する必要があります。

「芝刈り」のように海底を往復する

Parks Canadaは、
この捜索方法を
“mowing the lawn”
と表現しています。

芝生を刈るときのように、
一定間隔で平行に航行する。

一列終わったら、
少し横へ移動する。

そして反対方向へ戻る。

これを繰り返し、
海底を少しずつ塗りつぶしていきます。

派手な作業ではありません。

大部分の画面には、
船など映りません。

しかし
1本ずつ調査線を増やさなければ、
「ここには船がない」という情報すら得られません。

2008年|まず海図を作るところから始まった

2008年の最初の調査では、
Parks CanadaとCanadian Hydrographic Serviceが、
後に主要探索区域となる
Wilmot and Crampton Bayへ向かう
約65kmの航路を測量しました。[2]

つまり捜索船が安全に奥へ入るための
海底地形調査そのものが必要でした。

「沈没船を探す」以前に、
捜索を行える海を作る
作業が必要だったことになります。

2009年|海へ出られなかった年もあった

2009年には、
調査船の確保や海氷条件の問題などから、
予定していた現地捜索を実施できませんでした。

北極探索では、
計画を立てれば毎年同じように海へ出られるわけではありません。

一年を準備に費やしても、
その年の条件によって
現地調査そのものができないことがあります。

2010年|Franklinを探して別の沈没船を見つける

2010年、
Parks Canadaは南側捜索区域で
海底調査を本格化させました。

約6日間の調査で、
およそ1,000kmの測線を航行し、
150平方km以上の海底を走査しています。[4]

そしてこの年、
Franklinの2隻ではありませんが、
別の歴史的沈没船が発見されました。

HMS Investigatorです。

Investigatorは、
Franklin遠征を捜索するために
19世紀に北極へ送られ、
自身も氷に閉じ込められて放棄された船でした。

Franklinを探す現代調査隊が、
Franklinを探した19世紀の船を先に発見したことになります。

同時に、
Parks Canadaの水中リモートセンシングが
北極の沈没木造船を実際に探知できることも示されました。

2011~2013年|「ない場所」を増やしていく

その後も毎夏、
条件が許す範囲で海底調査が続きました。

2011年には
Victoria StraitやAlexandra Strait方面。

2012年には
O’Reilly Island周辺と北側の海域。

2013年には
O’Reilly Island西側と
Victoria Strait・Alexandra Straitを同時に調査。

海底チームだけではありません。

Government of Nunavutの考古学者は、
陸上でもFranklin遠征由来の痕跡を探しました。

一方で
Gjoa Havenなどの住民から
地域の情報も継続して集められました。

それでも、
ErebusもTerrorも見つかりません。

6年間、「見つからない」という結果を積み重ねた

船体探索では、
発見した場所だけが重要ではありません。

何年も海底を調べて
船がなかった場所
も重要です。

調査済み海域が増えれば、
次に探すべき場所を絞ることができます。

2008年から2013年まで、
Parks Canadaと関係機関は
この作業を繰り返しました。

発見の前年までに、
捜索方法そのものはかなり洗練されていました。

2014年|再び北と南を探す

2014年の捜索には、
Parks Canadaだけでなく
多数の組織が参加しました。

Canadian Coast Guard。

Canadian Hydrographic Service。

Government of Nunavut。

Royal Canadian Navy。

Arctic Research Foundation。

Royal Canadian Geographical Society。

その他の公的・民間組織です。

しかし北側には
海氷や天候の問題がありました。

そのため複数の調査船が
南側の区域へ集中する状況が生まれます。

そして、
そこで一つの陸上発見が起きます。

2014年9月1日|船ではなく、まず「部品」が見つかった

発見の前日、
2014年9月1日。

Government of Nunavutの考古学チームは、
Wilmot and Crampton Bay内の小島へ
ヘリコプターで向かいました。

目的の一つは、
Inuitの居住痕跡である
tent ringなどを調べることでした。

その海岸で、
パイロットのAndrew Stirlingが
錆びた金属片に気づきます。

一見すると、
自転車のフォークのような形でした。

しかし調べると、
これは
davit pintle
と呼ばれる船の部品でした。

davit pintleとは何なのか

davitは、
船に搭載した小艇を
上げ下ろしするための装置です。

davit pintleは、
その装置を船体へ取り付ける
支点・金具に関係する部品です。

発見された金具は、
英国海軍艦の構造と一致し、
Erebusの設計図に描かれた部品とも
対応しました。

さらに、
同じ場所から
丸みを帯びた木製品も発見されます。

これは
hawse plug
と判断されました。

hawse plug|ロープ穴を塞ぐ木製部品

hawse holeは、
船体を通して
ロープやケーブルなどを扱うための開口部です。

hawse plugは、
使用しないときに
そこへ海水が入るのを防ぐための
木製の栓にあたります。

つまり、
9月1日に見つかった2点は
単なる漂着ゴミではありませんでした。

大型の英国海軍船から来た可能性が高い部品
だったのです。

なぜ陸上に船の部品があったのか

この2点は、
後にParks Canadaによって
Franklin船体探索の重要な手掛かりとして位置づけられました。

Parks CanadaのInuit traditional knowledgeに関する資料では、
これらは過去に
何者かのInukによって島へ置かれた可能性
があるものとして説明されています。

つまり、
船体から外れた物品が
海流だけで偶然漂着したと
確定しているわけではありません。

いずれにしても、
その場所の近くに
Franklin遠征の船が存在した可能性が
一気に高くなりました。

その夜、捜索計画が変わった

Government of Nunavutの考古学者Doug Stentonらは、
発見物を
Canadian Coast Guardの
CCGS Sir Wilfrid Laurier
へ持ち帰りました。

船上で考古学者たちが部品を検討します。

そして翌朝、
Parks Canadaの水中考古学チームは
海底捜索範囲を陸上発見地点の近くへ移しました。

6年間、
広大な海底を一列ずつ探してきたチームに、
突然かなり具体的な位置情報が加わりました。

2014年9月2日|Investigatorが海へ出る

Parks Canadaの小型調査船
Investigatorが、
Sir Wilfrid Laurierから海へ降ろされました。

船尾では
サイドスキャンソナーを曳航します。

Parks Canadaによれば、
通常は朝7時ごろから
夜8時ごろまで調査を続け、
その後母船へ戻って給油と翌日の準備をする
という作業が繰り返されていました。

この日も、
海底を平行線状に走査する
「芝刈り」が始まりました。

ただし場所は、
前日に見つかった部品をもとに
調整されています。

数分後、画面に船が出た

そして、
捜索を開始して間もなく。

Ryan Harrisらが見ていた画面に、
巨大な輪郭が現れます。

それまで見続けていた
平坦な海底とは違いました。

長い船体。

船首と船尾。

甲板構造。

海底に沈む
一隻の船が、ほぼ完全な形でソナー画像に現れた
のです。

Parks Canadaによれば、
画像から得られる寸法だけでも、
Franklin遠征船の一隻である可能性は
非常に高いと判断できました。

169年間探し続けられた船の一隻は、
ここにありました。

ただし9月2日時点では「Erebus」と確定していない

ここは日付を分ける必要があります。

9月2日:
ソナーで船体を発見。

しかし、
フランクリン遠征には
ErebusとTerrorという
よく似た2隻があります。

海底に船があっただけでは、
その場でどちらかまで確定することはできませんでした。

まず必要だったのは、
「これは本当にFranklin遠征の船なのか」
を確認することでした。

9月7日|ROVで「Franklin船」であることを確認

悪天候などを挟みながら、
Parks Canadaは
ROV――Remotely Operated Vehicle
を船体へ投入しました。

2014年9月7日、
水中映像によって
船の特徴を詳しく確認します。

船尾付近には大砲。

航海時代の艤装部品。

船体構造。

それらを確認し、
Franklin遠征の2隻のうち一隻である
ことが確定しました。

9月9日、
カナダ政府は
Franklin Expeditionの船を発見したと発表します。

ただしその発表時点でも、
まだErebusかTerrorかは公表されていません。

発見日と確認日を整理

日付 出来事
2014年9月1日 陸上でdavit pintleとhawse plugを発見
9月2日 サイドスキャンソナーで海底の船体を発見
9月7日 ROVでFranklin遠征船の一隻であることを確認
9月9日 カナダ政府がFranklin船発見を発表
9月30日 HMS Erebusであることを確定
10月1日 Erebusであることを正式発表

発見後、考古学者が実際に潜った

Franklin船の一隻だと確認されたあと、
Parks Canadaの水中考古学者は
現場へ戻りました。

潜水調査では、
船体を直接観察し、
写真と映像を記録。

Canadian Hydrographic Serviceによる
マルチビームソナー測量も行われました。

2014年の初期調査では、
2日間で7回の潜水が実施されています。

船の寸法。

甲板配置。

船体構造。

海底に露出している遺物。

それらを設計図や歴史資料と照合することで、
どちらの船なのかが調べられました。

2014年9月30日|HMS Erebusと確定

そして9月30日。

Parks Canadaの水中考古学者による
写真、
映像、
マルチビームソナーによる計測、
現場で確認された特徴などを検討した結果、
船体は
HMS Erebus
と確定されました。

翌10月1日、
カナダ政府が正式発表します。

Franklin自身が乗っていた
遠征旗艦が、
1845年の出航から169年後に
再び確認されたことになります。

船はKing William Islandの約80km南にあった

発見場所は、
King William Islandから
およそ80km南側。

O’Reilly Islandの北東側、
Wilmot and Crampton Bay周辺です。

HMS ErebusはKing William Islandより南、
O’Reilly Island北東側のWilmot and Crampton Bay周辺で発見された。
正確な沈没地点は保護対象となる考古学遺跡であるため、
本地図は周辺地域の位置関係を示す。


Googleマップで周辺を見る

この位置は、
Victory Point Noteに記録された
1848年4月の船体放棄地点から
大きく南に離れています。

ここが、
Erebus発見によって生まれた
最大の疑問の一つです。

なぜErebusはそんな南にあったのか

1848年4月、
105人が船を放棄した時点では
ErebusとTerrorは
King William Island北西側の氷海にいました。

ところがErebusは、
かなり南へ移動した場所で沈んでいました。

何が起きたのでしょうか。

考えられる大きな可能性は二つです。

可能性1|無人の船が海氷とともに漂流した

北極海の氷は、
陸地のように固定されているわけではありません。

風や海流で海氷全体が移動します。

その中に船が残っていれば、
船体も氷とともに移動する可能性があります。

可能性2|一部の隊員が船へ戻った

もう一つ、
長年議論されているのが
Franklin隊の一部が船へ戻った可能性
です。

Inuitの口承には、
南側で船や生存者についての話が残っています。

もし一部の隊員が
Erebusへ戻って再び動かしたのであれば、
南側へ船が移動した理由の一部を説明できる可能性があります。

しかし、
2014年の発見だけでは
この仮説を確定できません。


Erebusが南で見つかったことは事実。
誰が、どのようにそこまで移動させたかは未解明。

この二つを分ける必要があります。

1869年の証言と発見地点が近かった

第7回で扱った
Inukpujijuqの証言が
ここで再び重要になります。

1869年、
InukpujijuqはCharles Francis Hallへ、
King William Islandより南側の
Ugjulik地域に船があったという話を伝えました。

さらに海図上で、
O’Reilly Island北東側に近い位置を示しています。

2014年。

Erebusは、
その証言と地理的に近い海域で発見されました。

これは
「口承が船の正確なGPS座標を169年間保存していた」
という意味ではありません。

しかし、

南側に船が存在したという19世紀の情報が、
現代の実際の船体位置と大きく整合した

ことは重要です。

発見はイヌイット証言の評価も変えた

19世紀、
Franklin遠征に関するInuitの情報は
英国側で十分信頼されなかったことがありました。

しかしErebusが
南側で実際に発見されたことで、
船について語られていた口承の資料価値は
改めて注目されます。

Parks Canada自身も、
Erebus発見を
modern technology、Inuit knowledge、長期的捜索の組み合わせ
として位置づけています。

ソナーだけでもない。

口承だけでもない。

両者を結び付ける考古学調査が
必要だったのです。

2014年の発見を時系列で整理する

時期 出来事
1992年 位置未確認のErebus・Terror沈没船をNational Historic Siteに指定
1997年 発見時の管理に関するカナダ・英国間の取り決め
2008年 Parks Canadaが現代の複数年捜索を開始
2008~2013年 北・南の候補海域をソナー、海底測量、陸上考古学で継続調査
2014年9月1日 小島でdavit pintleとhawse plugを発見
9月2日 Investigatorのサイドスキャンソナーに船体が映る
9月7日 ROVでFranklin遠征船の一隻と確認
9月9日 発見を公表
9月中 潜水・写真・動画・マルチビーム測量で詳細調査
9月30日 HMS Erebusと確定
10月1日 Erebus発見を正式発表

「偶然見つかった」と言えるのか

9月1日の陸上遺物発見だけを見ると、
偶然性はあります。

パイロットが海岸の錆びた金属に気づかなければ、
その日のうちに手掛かりを回収できなかったかもしれません。

翌日に捜索範囲を変更した判断も、
結果的には決定的でした。

しかし、
その島へ考古学チームが向かったこと自体は
無作為ではありません。

その地域は、
長年のInuit oral historyと
過去の捜索結果から
候補地として調査されていました。

そしてソナーを運用する技術と経験は、
6年間の調査で蓄積されていました。

したがってErebus発見は、

「最後の一歩には偶然があったが、
そこへ到達するまでの準備は偶然ではなかった」

と見るのが適切です。

169年間の探索は、船体発見で終わらなかった

2014年の発見で、
一つの大きな問いには答えが出ました。

HMS Erebusは存在していた。

しかも、
19世紀の捜索者が想定していたより
かなり南側に沈んでいました。

しかし、
船が見つかったことで
新しい疑問が増えます。

  • 1848年の放棄後、Erebusはどうやって南へ移動したのか
  • 船へ戻った隊員はいたのか
  • 船内に航海日誌や文書は残っているのか
  • 船内にFranklinや他の隊員の遺体は存在するのか
  • Erebusはいつ、どのように沈没したのか
  • 残るHMS Terrorはどこにあるのか

「船が見つからない」という謎は、
「見つかった船の内部から何を読み取れるか」という考古学へ変わりました。

そして、もう一隻だけが残った

2014年10月。

Erebusの位置は確定しました。

しかし、
HMS Terrorはまだ行方不明です。

Victory Point Noteでは、
2隻は1848年に同じ地域で放棄されたと記録されています。

ならばTerrorも
Erebusに近い南側へ流されたのでしょうか。

それとも、
King William Island北側に残ったのでしょうか。

Parks Canadaは、
Erebusを調査しながら
もう一方の船を探し続けます。

そして2016年。

今度は
当時の主捜索区域から外れた湾
で、
極めて保存状態の良い船が発見されます。

HMS Terrorでした。

まとめ|169年の謎を解いたのは「古い証言+陸上遺物+ソナー」だった

HMS Erebusは、
2014年9月2日に発見されました。

しかし、
その日だけを切り取って
「最新ソナーが失われた船を見つけた」
と説明すると、
発見の本質を落とします。

19世紀には、
Inuitから
King William Islandより南側に船があったという証言が残されていました。

2008年、
Parks Canadaは
北側と南側の二つを候補に
現代の本格捜索を開始します。

6年間、
海底を何度も往復しました。

2014年9月1日。

南側の島で
davit pintleとhawse plugが発見されます。

翌朝、
捜索範囲をその周辺へ移動。

サイドスキャンソナーの画面に、
完全な船の形が現れました。

9月7日に
Franklin遠征船の一隻であることを確認。

9月30日、
HMS Erebusと確定しました。

発見位置は
King William Islandより約80km南。

19世紀にInukpujijuqが
船について語った地域にも近い場所でした。


169年間情報がなかったのではありません。

情報は、
海軍文書、
イヌイットの口承、
海岸の遺物、
海底地形という
異なる場所に分散していました。

それを一つの捜索図へ重ねたとき、
Erebusはようやく見つかりました。

しかし、
CASE FILE 20はここで終わりません。

残る一隻、
HMS Terror。

その船が見つかった場所は、
さらに予想外でした。

そして2隻の発見後、
Franklin遠征は
失踪事件から本格的な水中考古学調査へ移行します。

最終回では、
2016年のTerror発見と、
船室の内部、
回収された遺物、
そして現在も続く調査から
フランクリン遠征の「今」を見ていきます。

今回出てきた言葉

side-scan sonar/サイドスキャンソナー
海底へ左右方向に音波を送り、
反射と音響的な影から海底表面を画像化する装置。
2014年9月2日、Parks Canadaの調査船Investigatorから曳航されたソナーが
HMS Erebusの船体を捉えた。
Underwater Archaeology Team
Parks Canadaの水中考古学チーム。
2008年からFranklin遠征船の現代捜索を主導し、
2014年のErebus発見後は船体の調査・記録・保存にも携わっている。
davit pintle
小艇を上げ下ろしするdavitを船体へ固定する機構に関係する金属部品。
2014年9月1日に南側捜索区域の島で発見され、
翌日の捜索範囲変更につながった。
hawse plug
ロープなどを通す船体の開口部を塞ぎ、
海水の侵入を防ぐための木製部品。
davit pintleとともにErebus探索の重要な陸上手掛かりとなった。
ROV
Remotely Operated Vehicle。
船上から遠隔操作する無人水中機。
2014年9月7日、ソナーで発見された船体を水中映像で確認するために使用された。
Wilmot and Crampton Bay
King William Islandより南側に位置する海域。
HMS Erebusはこの地域、
O’Reilly Island北東側で発見された。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Parks Canada — Finding HMS Erebus 2014年9月2日の船体発見、 Ryan Harrisらによるサイドスキャンソナー調査、 9月1日に発見されたdavit pintleとhawse plug、 陸上遺物を受けた捜索区域変更、 ROVによる初期確認の経緯に使用。
  2. [2] Parks Canada — Searching for Franklin’s lost ships 2008~2014年の複数年捜索、 北側・南側の探索区域、 各年の海底測量、 Inuit oral historyの利用、 2014年までの探索経緯の確認に使用。
  3. [3] Parks Canada — Inuit traditional knowledge Ugjulik wreckに関する19世紀以来の証言、 Inukpujijuqが示した船体位置、 現代捜索におけるInuit knowledge、 Erebus発見地点との地理的関係確認に使用。
  4. [4] Parks Canada — Remote Sensing Search 2014 and Discovery of HMS Erebus 2014年を第6回現地調査とする公式水中考古学報告、 海洋リモートセンシングによる捜索、 発見後の船体評価・記録調査の確認に使用。
  5. [5] Government of Canada — Discovery and identification of HMS Erebus 9月7日のROVによるFranklin船確認、 9月30日のHMS Erebus同定、 高解像度写真・映像・マルチビーム測量による確認、 2014年の初期潜水調査の時系列確認に使用。

HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

遭難・救助

STORY SO FAR

前回「HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見」で確認した論点を受け、この回ではHMS Terror発見 | 2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査について資料と証拠から何が確認できるのか。を扱う。

2016年9月3日。

カナダ北極圏の
Terror Bayへ、
小さな調査船が入りました。

その船、
RV Martin Bergmannは、
本来そこを重点的に探す予定ではありませんでした。

フランクリン遠征の残る一隻、
HMS Terrorを探す主力チームは、
そこから約100km離れた北側の海域を調査していました。

しかしMartin Bergmannに乗っていた
Gjoa Havenの住民
Sammy Kogvikが、
一つの記憶を話します。

約6年前。

Terror Bay付近へ狩猟に出たとき、
海氷から
大きな木材のようなものが突き出している
のを見たというのです。

船は予定航路を外れ、
Terror Bayへ入りました。

そしてソナーを海中へ投入します。

海底に現れたのは、
3本のマストを残し、船体をほぼ直立させた木造船
でした。

その後の調査によって、
船は
HMS Terror
と確認されます。

2014年のHMS Erebusに続き、
これで1845年に英国を出航した
フランクリン遠征の2隻が
ともに発見されました。

しかし、
謎は終わりませんでした。

むしろTerrorが見つかった場所と
異常なほど良好な保存状態によって、
新しい疑問が増えます。


なぜTerrorはここまで移動したのか。
誰かが船へ戻ったのか。
そして船内には、
まだ遠征隊自身の記録が残っているのか。

CASE FILE 20最終回では、
2016年のHMS Terror発見から、
2019年の船内探査、
2024年の再調査、
そして2026年現在のフランクリン考古学までを追います。[3]

この記事で分かること

  • HMS Terrorは2016年に誰が、どのように発見したのか
  • Sammy Kogvikの記憶がなぜ重要だったのか
  • なぜ本来の捜索区域から約100km離れた場所に船があったのか
  • 2016年9月3日と9月18日は何が違うのか
  • Parks CanadaはどうやってHMS Terrorと確認したのか
  • TerrorがErebusより良好な状態で残った理由
  • 2019年のROV調査で船内の何が見えたのか
  • Francis Crozierの船室には何が残っているのか
  • なぜ現在までTerrorから遺物を引き揚げていないのか
  • 2024年の再調査では何が行われたのか
  • 2025年以降、調査方針がどう変わったのか
  • 2隻を発見してもなお残るフランクリン遠征最大の謎は何か

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

先に結論|2隻は見つかった。しかし「遠征の最期」はまだ完成していない

2014年、
HMS Erebusが発見されました。

2016年、
HMS Terrorも発見されました。

これだけを見ると、
170年近く続いたフランクリン遠征の謎は
解決したように見えます。

しかし、
実際にはそうではありません。

2隻の位置が分かったことで、
新たに次の問題が生まれました。

  • 1848年の放棄地点から2隻はどう移動したのか
  • 隊員の一部は船へ戻ったのか
  • ErebusとTerrorはいつ沈没したのか
  • 船内に航海日誌・医療記録・個人の日記は残っているのか
  • 105人が陸上へ移動した後、一部が船へ戻った可能性はあるのか
  • Terror BayまでTerrorを動かしたのは海氷だけなのか
  • 129人一人ひとりの最終地点はどこなのか

つまり、
2016年は
「失われた船を探す時代」の終わり
ではあります。

その代わりに始まったのが、
「見つかった船を考古学資料として読む時代」
でした。

2014年のErebus発見後、残る目標はTerrorだけになった

2014年9月、
Parks Canadaを中心とする調査で
HMS Erebusが発見されました。

フランクリン自身が乗っていた旗艦です。

一方、
HMS Terrorの位置は依然不明でした。

Parks CanadaのUnderwater Archaeology Teamは、
Erebusの記録・保存作業と並行しながら、
残るTerrorの捜索を続けます。

2016年の主な捜索区域は、
King William Island北側の
Victoria Strait方面でした。

Victory Point Noteに記録された
1848年の船体放棄地点を考えれば、
合理的な選択です。

ところが、
Terrorはそこにはありませんでした。

2016年9月3日|Sammy Kogvikが語った記憶

2016年、
Arctic Research Foundationの調査船
Martin Bergmannも
Franklin船探索へ参加していました。

9月3日、
同船はGjoa Havenから
北側の主捜索区域へ向かっていました。

そこで、
乗船していたSammy Kogvikが
以前の狩猟時の出来事を話します。

およそ6年前、
Terror Bay周辺で海氷の上を移動していたとき、
大きな木材のような物体が氷から突き出している
のを見たというものでした。

Kogvik個人の記憶だけではなく、
Gjoa Haven周辺では以前から
Terror Bayに「船」に関する話も伝わっていました。

Martin Bergmannのクルーは、
予定航路を外れて
Terror Bayへ入ることを決めます。

ソナーに映った「直立した3本マストの船」

Terror Bayで
ソナーによる海底探索を行うと、
ほぼすぐに異常な形が現れました。

海底には、
3本マストの木造船がほぼ直立した状態で沈んでいました。

さらに遠隔操作カメラで確認すると、
船内には
乗組員区画、
食堂、
食料保管場所などが
非常に良好な状態で残されていました。

この船体は、
主力捜索隊が調査していた海域から
約100km離れていました。

FACT CHECK|9月3日にHMS Terrorと確定したのか

まだ確定していません。

9月3日にMartin Bergmannが発見したのは、
Franklin遠征船と強く疑われる木造船でした。

Arctic Research Foundationが
カナダ政府へ発見を知らせたのは9月11日。

Parks Canadaが考古学的に
HMS Terrorと確認したのは9月18日
です。

Terror Bay|船はKing William Island南西側にあった

発見場所は
King William Island南西岸の
Terror Bayです。

HMS Terrorは2016年、King William Island南西側のTerror Bayで発見された。
Parks Canadaによれば船体は水深約24mにあり、
冷たい深水と堆積物が良好な保存状態に寄与している。
正確な船体位置は保護対象の考古学遺跡である。

ここは、
Victory Point Noteに書かれた
1848年の船体放棄地点とは異なります。

さらにErebusが見つかった地点とも
約100km離れていました。

2隻は同じ場所で放棄されたのに、
最終的には別々の海域で沈没しています。

これだけでも、
1848年4月以降に2隻へ何かが起きた
ことが分かります。

2016年9月18日|Parks Canadaが船体を確認

Arctic Research Foundationから通報を受けた
Parks CanadaのUnderwater Archaeology Teamは、
Terror Bayへ向かいました。

悪天候による遅れもありましたが、
3日間にわたって潜水調査を実施。

サイドスキャンソナー、
マルチビーム測深、
水中写真、
実際の潜水観察を使って
船体を記録しました。

そこで確認されたのが、
次のような特徴です。

  • 3本マスト
  • 鉄板で補強された船首
  • 二重の舵輪
  • bowspritの形状
  • 舵の配置
  • boarding portの位置
  • deck scupperの配置

ErebusとTerrorは似た船ですが、
細かな構造には違いがあります。

現場の計測値を
19世紀の船体図面と比較した結果、
2016年9月18日、
Parks Canadaは
HMS Terrorであることを正式に確認しました。

なぜTerrorはこれほどきれいに残ったのか

HMS Terrorは
海底でほぼ直立しています。

船体上部の一部には損傷がありますが、
Erebusと比べても
非常に良好な状態で保存されています。

Parks Canadaが挙げている大きな要因が、
水深約24mの冷たい海水と堆積物です。

北極の低水温は
有機物の腐敗速度を低下させます。

さらに船内へ入り込んだ細かな堆積物が、
家具や小さな物品を覆い、
物理的な損傷から守っている部分があります。

結果として船内には、
1840年代の空間が
驚くほどそのまま残っていました。

船の舵輪が今も立っていた

2019年に公開された水中映像を見ると、
Terrorの保存状態がよく分かります。

船尾には、
木製の舵輪が立ったまま残っています。

甲板に搭載されていた小艇の一隻も、
現在は船体横の海底にあります。

船内へ目を向けると、
さらに異常なほど多くのものが残っていました。

2019年|ROVが初めて船内深部へ入った

2019年8月。

Parks Canadaは
研究船RV David Thompsonから
Terrorの大規模な船内調査を実施しました。

使用されたのは、
小型の
ROV――遠隔操作式無人潜水機
です。

7日間にわたり
7回のROV潜航を実施。

20の船室・区画が
系統的に観察されました。

これは、
Terror船内が本格的に映像記録された
最初の大規模調査でした。

乗組員区画|食器が棚に残る

船首側にある
一般乗組員の生活区画では、
内部の仕切り壁が残っていました。

棚には、
皿、
ボウル、
瓶、
カップ、
グラスなどが確認されています。

それらは、
乗組員が日常的に食事をしていた
1840年代の船内生活を
そのまま封じ込めたような状態でした。

士官室|机、ベッド、引き出し

船尾方向へ続く通路には、
士官の個室が並んでいます。

開いた扉の向こうには、
机、
寝台、
引き出し、
便器など、
個人生活を示す物品が残されていました。

壁には
2丁の銃器も確認されています。

食料保管区画には、
多数の瓶が
今も立った状態で残っていました。

Francis Crozierの船室

最も注目された場所の一つが、
船尾にある
Captain Francis Crozierの船室です。

CrozierはTerror艦長であり、
John Franklin死亡後には
遠征全体の最高指揮官になった人物です。

船室中央には作業机が残っています。

近くには椅子。

棚には科学機器とみられる物品。

三脚やケース。

そして、
閉じたままの引き出し
も確認されました。

ここから
一つの大きな期待が生まれています。

紙の記録が、
まだ内部に残っている可能性です。

航海日誌が残っている可能性はあるのか

フランクリン遠征最大の欠落は、
1845年以降の詳細な航海日誌です。

Victory Point Noteは重要ですが、
文章量はごくわずかです。

一方、
英国海軍の遠征であれば本来、
航海記録、
科学観測記録、
医学記録、
個人の日記など
大量の文書が存在していた可能性があります。

Terror船内には、
机や引き出しなどが
閉じた状態で残されています。

冷たい水と泥の中では、
通常なら失われる紙資料が
部分的に保存される可能性もあります。

ただし、
2026年現在、TerrorからFranklin遠征の航海日誌が回収されたという公式発表はありません。

「引き出しがある」
ことと
「そこに日誌が残っている」
ことは別です。

FACT CHECK|Terrorから大量の遺物が回収されているのか

いいえ。

2019年のTerror調査では、
船内をROVで詳細に記録しました。

しかしParks Canadaの2024~2025年度報告では、
Terrorから遺物はまだ回収されていない
とされています。

大量の回収・発掘が行われているのは主にErebus側であり、
Terrorでは良好な保存状態を維持しながら
記録・監視することが重視されています。

なぜ、見つけた遺物をすぐ引き揚げないのか

考古学では、
見つけた物をすべて回収すればよいわけではありません。

水中に170年以上あった木材、
金属、
革、
紙、
布などを
突然空気中へ出すと、
急速に劣化する可能性があります。

さらに重要なのが
context――遺物の位置関係です。

何が、
どの船室の、
どの棚に、
どの方向で置かれていたのか。

その情報そのものが
遠征末期の行動を読み解く証拠になります。

無計画に物を動かしてしまえば、
位置関係という情報を失います。

そのためTerrorでは、
まず船体を壊さず、
内部を映像・写真・3Dデータとして残すことが重要になります。

Erebusでは発掘が進んでいる

対照的に、
HMS Erebusでは
比較的大規模な発掘と遺物回収が進められています。

2019年には
350点を超える遺物が回収されました。

その後も、
拳銃、
航海用器具、
食器、
衣服、
個人用品などが
船内から記録・回収されています。

2024年には、
航海士官が天体高度を測定するために使用した
sextant――六分儀
もErebus下甲板から回収されました。

同年には、
乗組員の収納箱から
髭剃り用ブラシや複数の剃刀なども確認されています。

一つひとつの物品が、
129人を単なる人数ではなく
実際に生活していた人間として復元する資料になっています。

2024年|Terrorへ5年ぶりにダイバーが戻った

2024年9月14日から15日、
Parks CanadaのUnderwater Archaeology Teamは
Terrorを再調査しました。[5]

2019年以来、初めての潜水による現地訪問
でした。

この調査では、
大規模な遺物回収ではなく、
船体状態の確認が中心となっています。

上甲板を大量の高解像度写真で撮影。

それらを組み合わせる
photogrammetry――写真測量
によって、
詳細な船体平面図と
3Dモデルを作るためのデータを収集しました。

船を「発掘する」だけでなく「変化を監視する」

沈没船は
海底にあるから変化しないわけではありません。

海流。

堆積。

海底の洗掘。

海氷。

生物。

金属や木材の劣化。

時間とともに、
船体は少しずつ変化します。

2024年のTerror調査では、
近くの海底に設置されていた
ADCP――Acoustic Doppler Current Profiler
も回収されました。

これは海流の方向や強さを計測する装置です。

Erebus側でも同様の測定を行い、
2隻が置かれている環境が
長期保存へどのような影響を与えているのかを調べています。

2025年から「発掘中心」から「監視中心」へ

Parks Canadaは、
2024年までの10年以上にわたる現地調査を踏まえ、
2025年から調査方針を次の段階へ移す
としています。[5]

それまでの積極的な現地考古学調査から、
より定期的な
monitoring――状態監視
へ移行する方針です。

ただし、
これは
「調査終了」
という意味ではありません。

新しいresearch strategyを策定し、
必要な研究、
保存、
監視を継続するための段階です。

2026年現在、
Franklin遠征研究は
船体を探すフェーズではなく、
記録・保存・分析を長期間続ける文化遺産研究
へ移っています。

InuitとParks Canadaが共同で管理している

現在、
2隻は
Wrecks of HMS Erebus and HMS Terror National Historic Site
として保護されています。

そしてこの史跡は、
Parks Canadaだけが管理するものではありません。

InuitとParks Canadaが共同で管理する最初のNational Historic Site
です。

Inuit Heritage Trust、
Nattilik Heritage Society、
Kitikmeot Inuit Association、
Gjoa Havenのコミュニティなどが
管理・研究に関わっています。

Wrecks Guardiansと呼ばれる地域の監視活動も行われています。

2025年には
Gjoa HavenのNattilik Heritage Centre拡張施設に
新しい展示も開設されました。

19世紀にFranklin捜索者へ情報を伝えた地域の人々が、
現在は船体遺跡の保存と公開にも直接関わっています。

Terror発見は、最大の新しい謎を生んだ

Terrorが見つかったことで、
避けて通れなくなった問いがあります。

なぜ、この船がTerror Bayにあるのか。

1848年4月22日、
Victory Point Noteによれば
ErebusとTerrorは
King William Island北西の氷中で放棄されました。

しかし現在、
Erebusは島の南側。

Terrorは島の南西側、
Terror Bayにあります。

どちらも
記録上の放棄地点にはありません。

仮説1|船は氷とともに漂流した

最も単純なのは、
放棄された船が
海氷に捕らえられたまま移動したという説明です。

北極の海氷は
風と海流で移動します。

船体が氷に固定されていれば、
人間が乗っていなくても
南方向へ運ばれる可能性があります。

したがって、
船が放棄地点と違う位置にあることだけでは、
人間が再び操船した証拠にはなりません。

仮説2|一部の隊員が船へ戻った

一方、
19世紀のInuit oral historyには、
船や生存者について
Victory Point Note以降と思われる情報があります。

そのため、
105人の一部が陸上撤退を中止し、
ErebusまたはTerrorへ戻った可能性が
長く議論されています。

もし人間が再乗船していたのであれば、
2隻の最終位置を説明する材料になるかもしれません。

しかし、
現在まで
「隊員がTerrorをTerror Bayまで航行させた」と直接証明する文書は見つかっていません。

したがって、
これは有力な研究テーマではあっても
確定事実ではありません。

ErebusとTerrorを比較すると

項目 HMS Erebus HMS Terror
発見 2014年 2016年
場所 King William Island南側 Terror Bay・島南西側
発見の重要情報 Inuit oral history+陸上遺物+ソナー Sammy Kogvikの情報+地域の知識+ソナー
船体状態 比較的損傷が大きい 非常に良好、ほぼ直立
内部調査 潜水発掘を継続 2019年ROVで20区画を調査
遺物回収 多数を回収 2024~25年度時点で回収なし
最大の期待 乗員生活・最終行動の復元 保存された船室・文書資料の可能性

2026年現在、何が分かっていないのか

CASE FILE 20を10回追ってきました。

その結果、
1845年当時よりも
はるかに多くのことが分かっています。

しかし、
まだ答えが出ていない問題もあります。

1|1848年4月26日以降の正確な時系列

105人が
Back Riverへ向かった後、
誰がどこへ進んだのか。

連続した記録はありません。

2|John Franklinの直接の死因

死亡日は1847年6月11日と分かっています。

しかし直接の死因は確定していません。

3|129人一人ひとりの最終地点

遺骨は発見されていますが、
129人すべてが
どこで死亡したのかは分かりません。

4|なぜErebusとTerrorが移動したのか

氷による漂流か。

人間が再乗船したのか。

その両方なのか。

完全な時系列は復元されていません。

5|航海日誌は残っているのか

船内には
文書が保存されている可能性があります。

しかし、
遠征の空白期間を埋める
決定的な航海日誌はまだ回収されていません。

6|105人は一つの集団だったのか

Inuit証言と遺骨・遺物の分布を見ると、
後に集団が分かれた可能性があります。

しかし、
どの時点で、
誰が、
どの方向へ別れたのかは確定していません。

では、フランクリン遠征は「未解決事件」なのか

完全な未解決とも、
完全な解決とも言えません。

現在確定している大枠はかなりあります。

  • 129人が北極圏へ進んだ
  • 1845~1846年にBeechey Islandで越冬した
  • 1846年9月から2隻が氷に閉じ込められた
  • Franklinが1847年6月11日に死亡した
  • 1848年4月までに24人が死亡した
  • 残る105人が2隻を放棄した
  • 南のBack River方向へ向かおうとした
  • その後全員が死亡した
  • Erebusは2014年に発見された
  • Terrorは2016年に発見された

一方、
その大枠をつなぐ
細部の時間軸
が欠けています。

そのためフランクリン遠征は、
「何が起きたか何も分からない謎」ではなく、
結末は分かっているが、そこへ至る過程に大きな空白が残る歴史事件
と見る方が実態に近いでしょう。

1845年から2026年へ|証拠の種類そのものが変わった

このCASEで興味深いのは、
時代によって
「証拠」が変わっていったことです。

時代 主な証拠
1840年代 遠征隊自身の記録
1850年代 墓・遺物・Victory Point Note
19世紀後半 Inuit証言・追加遺物・人骨
20世紀 保存遺体・人骨分析・化学分析
21世紀 side-scan sonar・ROV・水中考古学
現在 3Dモデル・写真測量・保存科学・環境モニタリング

一枚の紙だけで解決したわけではありません。

一人の探検家が真相を見つけたわけでもありません。


170年以上にわたり、
異なる種類の証拠が積み重なって
現在のフランクリン遠征像ができています。

そして、19世紀に軽視された情報が船まで導いた

CASE20を最初から振り返ると、
もう一つ大きな流れがあります。

英国側から見ると、
Franklin隊は1845年に
「消息を絶ちました」。

しかし地域のInuitは、
その後の人々や船について
記憶を残していました。

1854年、
John Raeがその一部を記録しました。

1859年、
McClintockも情報を集めました。

1860年代、
Charles Francis Hallが
さらに詳しい口承を残しました。

そして21世紀。

その情報を現代の海底測量と組み合わせた結果、
ErebusとTerrorは発見されます。

2016年のTerror発見も、
決定的なきっかけは
Gjoa HavenのSammy Kogvikが
地域で見たものを伝えたことでした。

フランクリン遠征史は、
英国海軍だけの物語ではありません。


北極圏で起きた出来事を、
そこで暮らす人々の知識と
後世の科学が一緒に復元してきた歴史

でもあります。

CASE FILE 20 最終結論|「消えた129人」から「調べ続けられる129人」へ

1845年5月。

ErebusとTerrorは
北西航路を完成させるため英国を出発しました。

グリーンランドから先へ進んだのは129人。

1846年9月、
2隻はKing William Island北西で
氷に閉じ込められました。

1847年6月、
John Franklinが死亡。

1848年4月。

死者は24人となり、
残った105人は船を放棄しました。

その先の連続した記録はありません。

そして129人は
一人も帰還しませんでした。

しかし、
何も残らなかったわけではありません。

Beechey Islandの墓。

Victory Point Note。

銀食器。

人骨。

Inuitの証言。

2014年のErebus。

2016年のTerror。

そして現在も海底に残る
数千点規模の可能性を持つ遺物。

1845年には失われた遠征だったものが、
170年以上かけて
少しずつ姿を取り戻してきました。

ただし、
最後の1ページはまだありません。

105人が船を離れたあと、
誰がどこへ行き、
誰が船へ戻り、
最後の一人がどこで死亡したのか。

それを説明する連続した記録は、
今も見つかっていません。

だからフランクリン遠征は、
船体発見によって
「解決済み」になったのではありません。


失踪ミステリーから、
現在進行形の考古学研究へ姿を変えた。

それが、
2026年現在の
フランクリン遠征です。


特集の最初へ
第1回|フランクリン遠征とは? →

今回出てきた言葉

HMS Terror
1813年進水の英国海軍艦。
1845年のFranklin遠征ではFrancis Crozierが艦長を務めた。
2016年9月、King William Island南西側のTerror Bayで発見された。
Sammy Kogvik
Gjoa Havenの住民。
2016年、過去にTerror Bayで海氷から大きな木材のような物体が突き出しているのを見た記憶をMartin Bergmannの乗組員へ伝え、
Terror発見につながる重要な手掛かりとなった。
Terror Bay
King William Island南西側の湾。
HMS Terrorは2016年、この湾の水深約24mの海底でほぼ直立した状態で発見された。
ROV
Remotely Operated Vehicle。
遠隔操作式無人潜水機。
2019年にはTerror船内へ入り、
20の船室・区画を映像記録した。
photogrammetry/写真測量
多数の写真を重ね合わせ、
物体の正確な形状や3次元モデルを作る技術。
2024年のTerror調査では上甲板の詳細記録に使用された。
ADCP
Acoustic Doppler Current Profiler。
音波を利用して水流の方向と速度を測定する装置。
船体周辺の環境と長期保存条件を把握するために使用されている。
Wrecks Guardians
Gjoa Havenを拠点にFranklin船体遺跡の保護・監視へ関わるInuitの取り組み。
現在の史跡管理では地域コミュニティが重要な役割を担っている。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Parks Canada — Finding HMS Terror 2016年9月3日のMartin Bergmann、 Sammy Kogvikの情報、 Terror Bayへの進入、 ソナーによる船体発見、 9月11日の政府への連絡、 9月18日のHMS Terror確認の経緯に使用。
  2. [2] Parks Canada — Validation of discovery of HMS Terror 3日間の潜水、 サイドスキャンソナー、 マルチビーム測深、 二重舵輪、鉄製船首補強、bowsprit、boarding port、deck scupperなど、 HMS Terrorと同定した根拠の確認に使用。
  3. [3] Parks Canada — Guided tour of HMS Terror / Exploration 2019 2019年の7日間・7回のROV潜航、 20区画の船内探査、 乗組員区画、士官室、保管庫、 Crozier船室の机・引き出し・科学機器等の確認に使用。
  4. [4] Parks Canada — Inuit traditional knowledge Terror Bayでの発見、 約24mの水深、 良好な船体保存、 Franklin船体発見におけるInuit knowledgeの役割確認に使用。
  5. [5] Parks Canada — Exploration 2024 2024年9月のTerror再調査、 2019年以来の初潜水訪問、 photogrammetry、 3Dモデル作成、 ADCPによる環境調査、 2025年以降のモニタリング移行方針の確認に使用。
  6. [6] Parks Canada — Artifacts / 2024 Artifacts 現在のErebus遺物研究、 2024年に回収された六分儀、 個人用品など、 Franklin考古学が継続している状況の確認に使用。
  7. [7] Parks Canada — 2024–25 Departmental Results Report HMS Terrorからは同報告時点で遺物が回収されていないこと、 今後のサイト監視、研究戦略、保存活動の確認に使用。
  8. [8] Parks Canada — Wrecks of HMS Erebus and HMS Terror National Historic Site InuitとParks Canadaによる共同管理、 Wrecks Guardians、 現在の史跡保護体制の確認に使用。

タムルアン洞窟遭難・救出|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー

遭難・救助

THE QUESTION

13人はどう発見されたのか | 9日間の捜索と英国人洞窟ダイバーについて、この回が担う固有の論点は何か。

STORY SO FAR

前回「なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水」で確認した論点を受け、この回では13人はどう発見されたのか | 9日間の捜索と英国人洞窟ダイバーについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

2018年7月2日。

タムルアン洞窟の奥で、2人の英国人洞窟ダイバーが水面から顔を出した。

ライトの向こうに、人影があった。

6月23日から行方が分からなくなっていた少年サッカーチームの12人とコーチ1人。13人全員が生きていた。

世界中で繰り返し放送されたこの発見場面だけを見ると、ダイバーが洞窟の奥まで潜っていき、偶然13人を見つけたようにも見える。

しかし、そこへ到達するまでには9日間かかっている。

その理由は、単に洞窟が長かったからではない。

豪雨による増水で捜索そのものが何度も止まり、視界の悪い水没通路へガイドラインを敷き、呼吸用ボンベを奥へ送り、少しずつ「次に進める地点」を作らなければならなかった。

13人の発見は、一度の長距離潜水で達成されたものではない。

水位が下がる短い機会を使いながら、数日かけて捜索ルートを洞窟深部へ延ばした結果だった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

先に結論|9日かかった理由は「居場所」より「そこへ進めなかった」ことにある

13人が洞窟のどこにいる可能性が高いかについて、救助側にはある程度の見当があった。

洪水から逃れているなら、洞窟内部の高い場所へ後退している可能性がある。

捜索では「Pattaya Beach」と呼ばれる地下地点が一つの目標になっていた。

しかし、目標地点を想定できることと、そこへ到達できることは別だった。

途中の通路は増水によって水没していた。

British Cave Rescue Council(BCRC)の記録では、英国人洞窟ダイバーが6月29日と30日にChamber 3より先へ進もうとした際、強い水流と約1m程度の視界によって探索を断念している。[3]

7月1日になって水位と流れが改善し、ようやく奥へガイドラインを延ばせるようになった。

そして7月2日、さらに奥へ進んだリック・スタントンとジョン・ヴォランセンが13人を発見した。

つまり9日間の中心的な問題は、

「13人がどこにいるのか分からない」だけでなく、「可能性の高い場所まで捜索隊自身が進めない」ことだった。

FACT CHECK|発見したのは誰か

13人を最初に発見したのは、英国人洞窟ダイバーのリック・スタントン(Rick Stanton)とジョン・ヴォランセン(John Volanthen)だった。

ただし、2人だけで9日間の捜索を行ったわけではない。

作戦全体はタイ当局が指揮し、タイ海軍特殊部隊、軍、警察、地元救助関係者に加え、英国、米国、オーストラリアなどから専門家が参加した。

BCRCも6月28日の時点で、タイ当局が救助作戦全体を統括し、英国チームはタイ側の能力を補完する立場であると明記している。

したがって、「英国人2人だけが少年たちを探し出した」という理解も正確ではない。

6月23日|13人が帰ってこない

少年サッカーチーム「Wild Boars」の12人とコーチは、6月23日にタムルアン洞窟へ入った。

その夜になっても帰宅しなかった。

翌24日には、洞窟入口付近で自転車や靴などが発見された。

これによって、一行が洞窟へ入ったことは強く裏付けられた。

ここで、現在のTham Luang Nang Non Cave入口がチェンライ県Mae Sai地区のどこにあるかを確認しておく。

Tham Luang Nang Non Cave入口の現在位置。現在のGoogle Mapは洞窟入口と周辺地理を確認するためのもので、2018年当時の水位、水没区間、Chamber 3、Monks Junction、Pattaya Beach、13人の発見地点など地下の位置関係を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る


BCRC掲載の洞窟測量図で内部地点を確認する

問題は、その先だった。

洞窟内部では雨によって水位が上昇していた。

13人を探すには、その水の向こう側へ進まなければならない。

6月25日|タイ海軍特殊部隊が洞窟へ入る

オーストラリア政府が後にまとめた救助作戦の時系列では、6月25日にタイ海軍特殊部隊が少年たちの捜索のため洞窟内へ入ったとされている。

同じ日、現場では激しい雨が続き、排水ポンプも投入された。

しかし、ポンプを設置したからといって、洞窟内の水がすぐに消えるわけではない。

山地へ降り続く雨は、新しい水を洞窟へ送り続ける。

救助側は「奥へ進む作業」と「流れ込んでくる水を減らす作業」を同時に進めなければならなかった。

6月26日|洪水で捜索隊自身が押し戻される

6月26日には、Pattaya Beach方面への到達を試みたダイバーが、流れ込む洪水によって洞窟から撤退を余儀なくされた。

これは、9日間の捜索が長期化した理由をよく示している。

少年たちが洞窟奥にいる可能性が高くても、そこへ向かう水没区間の流速が強すぎれば、捜索隊は進めない。

洞窟潜水では、単に強いフィンキックで流れに逆らえばよいわけではない。

狭い通路、岩、濁水、装備、呼吸ガスの残量を考えながら、安全に戻れる範囲で前進しなければならない。

前へ進む能力だけでなく、引き返すためのガスと時間を残すことも必要になる。

国外から専門ダイバーが集められた理由

タムルアンで必要とされたのは、一般的な潜水技術だけではなかった。

BCRCは6月28日のブリーフィングで、英国チームの強みとして、

  • 低視界での洞窟潜水
  • 狭い通路での潜水
  • 地下の河川洞窟での捜索
  • 洞窟内部の地形・測量に関する経験

を挙げている。

通常の海でのスクーバダイビングと、タムルアンのような洪水洞窟での潜水は条件が大きく異なる。

海なら緊急時に水面へ浮上できる場合が多い。

洞窟では頭上に岩盤がある。

入口方向へ戻らない限り外へ出られない。

しかも水が濁れば、出口の方向を目で確認することもできない。

だからこそ、英国の洞窟救助・洞窟潜水の専門家がタイ側から要請された。

6月28日|Chamber 3までの偵察

後に英国政府がスタントンとヴォランセンの功績を記録した資料によれば、6月28日、2人は完全に水没した3つの区間を潜って、後にChamber 3と呼ばれる場所まで偵察している。

そこで2人は、増水によって取り残されていたタイ人救助要員4人の退避も支援した。

この出来事は重要である。

救助側まで洪水によって孤立する危険があったことを示しているからだ。

Chamber 3はその後、洞窟内部で人員・装備・医療・物資を集約する重要な拠点になっていく。

ただし、この時点では13人まではまだ遠かった。

6月29日・30日|前進できない

英国政府の記録では、6月29日と30日にもChamber 3より奥の探索が試みられた。[3]

しかし、強い水流と約1mの視界によって断念された。

13人の捜索で最も重要だったのは、距離だけではなかったことがここでも分かる。

前日と同じ場所へ行こうとしても、水位や流速が変われば通過条件も変わる。

捜索ルートは固定された道路ではない。

天候によって通行可能性が毎日変化する地下の水路だった。

ガイドラインとは何か|視界ゼロでも帰るための道

洞窟ダイバーが先へ進む際、重要な装備の一つがガイドラインである。

細いラインを入口側から連続して延ばしていき、潜水中はそれを経路の基準として使う。

濁った水の中では、ライトを点けてもほとんど前が見えないことがある。

その状態で方向感覚だけを頼りに戻ろうとすれば、出口を失う危険がある。

ガイドラインがあれば、視界が失われても手でラインを確認しながら出口方向へ戻ることができる。

タムルアンでは、単にダイバーが奥へ泳ぐのではなく、

次のダイバーも同じ場所まで安全に進めるルートを作りながら前進する

必要があった。

さらに、呼吸用ボンベを途中へ配置する作業も進められた。

一度の潜水で入口から最奥部まで完結させるのではなく、深部へ活動範囲を伸ばすためのインフラを洞窟内部へ作っていったのである。

6月30日から7月1日|雨が弱まり、状況が変わる

6月末になって、捜索側に重要な変化が起きた。

雨が一時的に弱まり、水位と流速が低下した。

BCRCは7月2日午前のブリーフィングで、

  • 水位がある程度低下した
  • 流速が弱まった
  • 水中視界が改善した

ため、潜水捜索を再開できたと説明している。

英国人洞窟ダイバー2人が先行してルートを探し、その後方ではタイ海軍特殊部隊、オーストラリア、米国などのダイバーが呼吸用ボンベを搬送し、エア供給地点を作った。

捜索の先端と、その先端を維持する補給作業が同時に動いていた。

7月1日|奥へラインを延ばす

英国政府の叙勲資料では、7月1日にスタントンとヴォランセンがChamber 3からさらに約800m奥へ進み、ガイドラインを敷設したとされている。

それ以前にタイ海軍特殊部隊が到達していた範囲は、同資料ではChamber 3から約250m先までとされている。

進路には高低差があり、岩による障害や狭窄部も多かった。

この前進によって、13人がいる可能性の高いPattaya Beach方面へ捜索範囲が一気に伸びた。

同日のBCRC資料では、捜索隊がMonks Junctionまで到達したことも報告されている。

翌7月2日の目標は、そのさらに奥にあるPattaya Beachだった。

7月2日|Pattaya Beachまで行っても13人はいなかった

Pattaya Beachは、捜索前から13人が避難している可能性の高い地点として考えられていた。

しかし、そこまで到達しても13人はいなかった。

これは捜索側にとって重要な瞬間だった。

想定地点で見つからないからといって、そこで探索を終えることはできない。

スタントンとヴォランセンはさらに奥へ進んだ。

そして水面へ浮上した先の乾いた空間で、人影を確認した。

12人の少年とコーチ。

13人全員が生きていた。

発見地点は「Pattaya Beach」ではない

この点は資料を読む際に注意が必要である。

現在でも「少年たちはPattaya Beachで発見された」と説明されることがある。

しかし、BCRCが発見直後に公表したブリーフィングでは、13人がいたのはPattaya Beachの南側にある乾いた空間だった。

BCRCはその距離を約200mとしている。

一方、オーストラリア政府の後年の時系列資料では、Pattaya Beachから約400m先と記されている。

このため、本特集では「Pattaya Beachから正確に○m」と固定しない。

確実に言えるのは、

13人はPattaya Beachそのものではなく、そこからさらに奥へ進んだ乾いた高所で発見された

という点である。

FACT CHECK|「入口から何kmで発見された」の数字は資料によって異なる

発見地点の距離についても、公的・準公的資料で数値が一致していない。

資料 発見地点の表現
オーストラリア政府 Symposium Report・Executive Summary 洞窟系内部約4.7km
同報告書本文 洞口から約2.5kmの高い粘土質の場所
BCRC発見直後ブリーフィング Pattaya Beachから約200m南側
オーストラリア政府時系列 Pattaya Beachから約400m先

これは洞窟内の測定経路、基準点、実移動距離、洞窟測量上の表現が異なることが一因と考えられる。

したがって、「入口から正確に4.7kmだった」など、一つの数字だけを絶対値として扱うのは避けた方がよい。

本シリーズでは位置関係を、

入口 → 水没区間 → Chamber 3 → Monks Junction → Pattaya Beach周辺 → さらに奥の発見地点

として理解する。

6月23日から7月2日まで|捜索の流れ

日付 捜索・現場の動き
6月23日 少年12人とコーチが洞窟へ入り、帰宅しない
6月24日 洞窟入口付近で自転車や所持品が確認される
6月25日 タイ海軍特殊部隊が洞窟内で捜索。激しい雨と増水が続く
6月26日 Pattaya Beach方面への前進を試みるが、洪水のため撤退
6月27日 国外から軍・洞窟潜水の専門家が現場へ加わる
6月28日 豪雨で捜索活動が制限。英国人ダイバーがChamber 3方面を偵察
6月29~30日 強い流れと低視界によりChamber 3より奥への進行が困難
7月1日 水位・流速が改善。ガイドラインを洞窟奥へ延長
7月2日 スタントンとヴォランセンがPattaya Beachより奥へ進み、13人全員を発見

なぜスタントンとヴォランセンだったのか

2人が選ばれた理由を「勇敢だったから」だけで説明すると、救助作戦の本質を見失う。

必要だったのは、極めて専門性の高い洞窟潜水能力だった。

タムルアンでは、

  • 流れのある水中を進む
  • 濁水でほとんど視界がない
  • 狭窄部を通る
  • ガイドラインを設置する
  • 呼吸ガス消費を管理する
  • 複雑な洞窟内から確実に帰還する

必要があった。

しかも、未知の水没洞窟へ先頭で入る「パスファインディング」の能力が必要になる。

スタントンとヴォランセンは、この種の英国の洞窟潜水・洞窟救助で長い経験を持っていた。

だから2人が捜索の最前線を担った。

一方、その前進を可能にしたのは後方の補給チームだった。

ボンベが送られなければ前へ進めない。

排水が進まなければ潜水を再開できない。

地上の指揮・通信がなければ捜索範囲を管理できない。

発見は、最前線の2人と、その後ろにあった大規模作戦を切り離して理解することはできない。

発見時、13人は比較的安定していた

9日間、食料もなく洞窟内にいた13人は、発見時には衰弱していた。

それでも映像では全員が意識を保ち、ダイバーとのやりとりに反応している。

オーストラリア政府の後年の時系列資料も、7月2日に13人が「alive and relatively well」、つまり生存し比較的良好な状態で発見されたと記録している。

ただし、「元気だった」という意味ではない。

長期間の絶食、暗闇、湿潤環境、感染症、低体温などのリスクを考える必要があり、発見後には医療評価と食料・薬剤の供給が開始された。

そして、ここから救助作戦の性質が変わる。

「捜索」は終わったが、「救助」は始まったばかりだった

7月2日の時点で、一つの重大な疑問には答えが出た。

13人は生きている。

場所も分かった。

だが、救助隊がその場所まで潜って到達できたということは、少年たちも同じルートを通って帰れるという意味ではない。

スタントンとヴォランセンは、世界でも経験豊富な洞窟ダイバーだった。

少年たちには潜水経験がない。

しかも、洞窟の水位は天候によって再び上昇する可能性があった。

13人を見つけるMISSIONは成功した。

しかし次に必要になったのは、

その13人を洞窟内で生かし続けながら、救出可能な環境を作ること

だった。

まとめ|9日間で作られたのは「13人まで届く道」だった

6月23日に13人が行方不明になった後、タイ当局は洞窟内の捜索を開始した。

しかし豪雨によって水位は上がり、捜索隊自身が撤退を余儀なくされる状態が続いた。

国外から洞窟潜水の専門家が加わっても、すぐに13人の場所まで進めたわけではない。

6月29日と30日には強い流れと低視界で前進できず、水位が低下した7月1日になってようやくガイドラインをさらに奥へ延ばすことができた。[4]

7月2日、リック・スタントンとジョン・ヴォランセンはPattaya Beachよりさらに奥へ進み、乾いた高所で少年12人とコーチを発見した。

9日間の捜索で救助側が作り上げたのは、単なる「探索記録」ではない。

地上から13人まで、人員と物資が到達できる経路そのものだった。

そして、その経路は発見後も使い続けなければならない。

食料、薬、呼吸用ボンベ、医師、潜水装備を奥へ運ぶ一方、洞窟には雨水が流れ続ける。

次回は、発見後のもう一つの巨大な作戦を追う。

洞窟の水をどう減らし、奥にいる13人へ酸素と物資をどう届けたのか。


← 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか


第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

今回出てきた言葉

【リック・スタントン】
英国の洞窟ダイバー。タムルアン捜索ではジョン・ヴォランセンとともに水没通路の最前線を進み、2018年7月2日に13人を発見した。その後の搬出計画にも中心的に参加した。

【ジョン・ヴォランセン】
英国の洞窟ダイバー。スタントンとともにガイドラインを洞窟奥へ延ばし、少年12人とコーチが避難していた場所へ到達した。

【Chamber 3】
救助作戦で重要な前進拠点となった洞窟内部の区画。物資・ボンベ・人員を奥へ送り込むための中継地点となり、後の搬出作戦でも重要な役割を持った。

【Monks Junction】
洞窟内部の地点名。7月2日朝のBCRCブリーフィングでは、英国人ダイバーらがこの付近まで捜索ルートを延ばしていたと報告された。

【Pattaya Beach】
13人がいる可能性が高いと考えられていた洞窟内部の地点。実際の発見場所はPattaya Beachそのものではなく、そのさらに奥だった。

【パスファインディング】
未確立の洞窟潜水ルートを先頭で探索し、安全に通過可能な経路を見つけていく作業。タムルアンではガイドラインを設置しながら進む必要があった。

【ガイドライン】
洞窟潜水で経路を確認するために設置するライン。濁水で視界を失っても、ラインをたどることで出口方向や進路を確認できる。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] British Cave Rescue Council, “Luang Nang Non – Cave Rescue Incident,” 28 June 2018. British Cave Rescue Council
  2. [2] British Cave Rescue Council, “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – BCRC Update2,” 2 July 2018. British Cave Rescue Council
  3. [3] British Cave Rescue Council, “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – Supplement,” 2–3 July 2018. British Cave Rescue Council
  4. [4] UK Cabinet Office, “Civilian Gallantry List: 2019,” 28 December 2018. GOV.UK
  5. [5] Australian Government, Emergency Management Australia, “Thai Cave Rescue Symposium 2018 – Symposium Report.” Australian Government

タムルアン洞窟遭難・救出|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3

遭難・救助

THE QUESTION

洞窟の水と酸素をどう管理したのか | 排水・補給線・Chamber 3について、この回が担う固有の論点は何か。

STORY SO FAR

前回「13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー」で確認した論点を受け、この回では洞窟の水と酸素をどう管理したのか | 排水・補給線・Chamber 3について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

2018年7月2日、洞窟の奥で13人全員の生存が確認された。

だが、彼らを見つけたからといって、そのまま救助できる状態になったわけではない。

入口と13人との間には、長い水没区間が残っていた。

そこを通れるのは熟練した洞窟ダイバーだけだった。

少年たちは食事を必要としている。医療評価も必要になる。救出方法を検討する間にも、洞窟には雨水が流れ込む。

そして、ダイバーが奥へ行くためには呼吸用ボンベも必要になる。

つまり発見後の問題は、

「13人をどう救うか」だけではなく、「救うまでの間、この洞窟をどう維持するか」

だった。

タムルアンでは、ポンプで水を排出し、山の上では洞窟へ流れ込む水をそらし、洞窟内部には大量の呼吸用ボンベと物資を配置した。

そしてChamber 3と呼ばれる地点を、洞窟深部へ人員と物資を送り込むための前進基地へ変えていった。

救出成功の前には、巨大な地下ロジスティクスの構築があった。

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)

先に結論|救助隊は「水を抜く」だけではなく、洞窟を救助可能な状態へ変えていった

タムルアン救助で行われた排水を、「ポンプで洞窟の水を全部抜こうとした」と考えると実態からずれる。

洞窟は巨大で、しかも地上から新しい水が流れ込んでくる。

すべてを完全に乾燥させることは現実的ではなかった。

救助側が必要としていたのは、

  • 洞窟内部の水位を少しでも下げる
  • 流速を弱める
  • 歩いて通れる区間を増やす
  • ダイバーが安全に活動できる条件を作る
  • 再び大量の水が入る速度を遅らせる

ことだった。

並行して、洞窟奥へ呼吸用ボンベ、食料、薬、照明、医療要員を送り続ける必要がある。

そのため、タムルアンの救助活動は大きく、

「水を制御する系統」と「人・物資を送る系統」

の2つに分けて考えると理解しやすい。

FACT CHECK|排水だけで13人を歩かせて出す計画だったのか?

排水は極めて重要だったが、最終的に洞窟全体を乾燥させて13人を歩いて脱出させることはできなかった。

7月8日の時点ではChamber 1~3付近の水位が下がり、一部区間は歩行可能になっていた。

しかし、その奥には依然として水没区間が残っていた。

つまり排水の成果は無意味だったのではない。

救出時に潜水しなければならない距離や、水中作業の難度を減らすことに大きな意味があった。

6月25日|捜索開始とほぼ同時にポンプが持ち込まれた

排水作業は、13人が発見されてから始まったものではない。

オーストラリア政府の「Thai Cave Rescue Symposium 2018」の時系列では、6月25日の段階で激しい雨が続く中、洞窟から水を排出するためのポンプが現場へ持ち込まれたと記録されている。[1]

翌26日、Pattaya Beach方面を目指したダイバーは、流れ込む洪水によって撤退を余儀なくされた。

28日には、本格的なポンプ排水が続けられている。

つまり排水の最初の目的は「少年を救出すること」以前に、

捜索隊が奥へ進める状態を作ること

だった。

実際、6月末に雨が弱まり、水位と流速が低下したことで、英国人洞窟ダイバーらは再び奥へ進むことができるようになった。

地下から水を出すだけでは足りなかった

洞窟の中から大量の水をポンプで排出しても、地上から同じかそれ以上の水が流れ込めば水位は下がらない。

そこで地表側でも作業が行われた。

British Cave Rescue Councilは7月5日、洞窟上部で確認された水の流入口、割れ目、地表水路などから水をそらし、地下へ入る流量そのものを減らす取り組みが進められていると報告している。

考え方は単純である。

地下へ入ってしまった水をポンプで出すだけではなく、

そもそも洞窟へ入る水を減らす。

この2つを同時に行う。

対策 目的
洞窟内部のポンプ排水 すでに洞窟へ入った水を外へ出す
地表水の迂回 新たに地下へ流れ込む水量を減らす
気象監視 再増水の可能性を予測する
水位監視 潜水・歩行可能区間の変化を把握する

タムルアンで行われたのは、「巨大なポンプ1台で洞窟を空にする」ような作業ではない。

多数の設備と人員を使い、流入と排出のバランスを少しずつ救助側へ有利に変えていく作業だった。

数十センチの水位低下にも意味があった

洞窟で水位が下がる意味は、単純な水深の変化だけではない。

通路には高低差がある。

そのため水面が少し下がるだけでも、それまで天井まで完全に水で満たされていた区間に空気の空間が生まれる場合がある。

水中でしか通過できなかった場所が、顔を水面に出して進めるようになることもある。

さらに水圧差や流速が弱まれば、ダイバーの移動も容易になる。

つまり排水量そのものより、

「どの区間の通過条件が変わったか」

の方が救助作戦では重要だった。

7月8日にタイ当局が公表したブリーフィングでは、Chamber 1、2、3の水位が下がり、この区間を歩いて通行できる状態になっていたことが報告されている。[2]

これは最終搬出において大きな意味を持った。

少年を洞窟入口まで全区間潜水させる必要がなくなったからである。

Chamber 3|ただの洞窟空間が「前進基地」になった

第3回でも登場したChamber 3は、救助作戦が進むにつれて重要性を増していった。

13人が発見された場所は、Chamber 3からさらに約1,500m奥だった。

その間には完全水没区間があり、誰でも自由に往来できるわけではない。

一方、入口側からChamber 3までの環境は、排水によって次第に改善されていった。

その結果、Chamber 3は、

  • 洞窟潜水チームの出発・帰還地点
  • 呼吸用ボンベの集積
  • 器材の中継
  • 人員配置
  • 救出された少年の引き渡し
  • 医療搬送への接続

を担う前進基地として機能するようになった。

地上の救助本部から、最奥部まで一つのチームが往復するのではない。

地上からChamber 3までの区間と、Chamber 3から13人までの危険な潜水区間を分割することで、役割を分担できるようになった。

ここで洞窟内部の位置関係を確認しておく。
この記事で重要なのは地上の現在位置ではなく、入口、Chamber 3、さらに奥の水没区間と13人の待機地点が一本の補給線としてどうつながっていたかである。

2018年の洞窟内部ロジスティクスは、地上のGoogle Mapでは表現できない。Royal Thai Navy Medical JournalのFigure 5は、Main entrance、Rescue base(Chamber 3)、Monk’s Junction、Pattaya Beach、Boysの位置関係と水没区間を模式的に示している。図は救助経路を理解するための模式図であり、精密な測量断面図としては扱わない。


Royal Thai Navy Medical Journal「Figure 5|Evacuation route in the cave rescue」を確認する


Australian Government「Thai Cave Rescue Symposium 2018」の時系列を確認する


タイ政府資料でChamber 3の現在の位置づけを確認する

この図で見ると、Chamber 3が単なる途中地点ではなく、地上側の大量輸送と、専門ダイバーだけが担える深部輸送を切り替える境界だったことが分かる。

7月1日|「数百本のエアタンク」が洞窟へ運ばれる

オーストラリア政府の救助検証資料には、7月1日の出来事として、

ダイバーがChamber 3へ到達し、数百本のエアタンクとその他の物資が内部へ引き込まれた

と記録されている。

これはタムルアン救助の規模を理解するうえで重要な記録である。

洞窟ダイバーは、自分が背負っているボンベだけで何度も最奥部まで往復したわけではない。

洞窟内部の各地点へ呼吸用ガスをあらかじめ配置し、必要な場所で使用できるようにする。

捜索範囲が奥へ延びれば、その分だけ補給線も奥へ延ばさなければならない。

つまりガイドラインと同じように、

呼吸用ガスの補給拠点も洞窟の中へ一段ずつ構築されていった。

「酸素ボンベ」と「潜水ボンベ」は同じ意味ではない

タムルアン救助を扱う報道では、「酸素タンク」「酸素ボンベ」「エアタンク」などの表現が混在している。

ここは注意したい。

一般的な潜水用シリンダーに入っているのは、必ずしも純酸素ではない。

通常の潜水では圧縮空気などの呼吸用ガスが使用される。

一方、洞窟内部の空気環境を改善する目的や医療用途では、「酸素」という語が別の意味で登場する。

さらに2018年当時の報道や政府資料でも、「air tank」と「oxygen tank」が厳密に区別されず使用されている例がある。

そのため本シリーズでは、

  • ダイバーが潜水で使うもの:呼吸用ボンベ/潜水用ボンベ
  • 洞窟内空気の問題:酸素濃度
  • 資料が明示的にoxygenと記す場合:資料の表現を注記

として区別する。

「数百本の純酸素ボンベが洞窟へ運ばれた」と断定するのは適切ではない。

FACT CHECK|ボンベには何が入っていたのか?

公開資料の用語は統一されていない。

オーストラリア政府の救助時系列は7月1日の搬入物を「air tanks」としている。一方、米国防総省など一部資料では、サマン・クナンが「oxygen tanks」の搬送に関与したという表現が使われている。

これらの記録だけから、洞窟内へ搬入されたすべてのシリンダーのガス組成を一括して確定することはできない。

そのため、潜水活動用について本記事では原則として「呼吸用ボンベ」と表記する。

13人が見つかると、補給線の役割が変わった

7月2日まで、洞窟内部の補給線は主として「捜索隊を奥へ進ませる」ために使われていた。

13人が発見された後は、そこへ新しい物流が加わる。

少年たち自身を生存させるための物資である。

オーストラリア政府の時系列では、7月3日に、

  • 食料
  • 高カロリーのジェル
  • パラセタモールなどの医療物資

が少年たちとコーチへ届けられたとされている。

英国政府の記録でも、発見後にスタントンやヴォランセンらが複数回潜水し、13人へ物資を運んだことが確認できる。

一度届ければ終わりではない。

救出方法が決まるまで何日かかるか分からないため、補給を継続できること自体が重要だった。

「13人分」だけを運べばよかったわけではない

洞窟内で呼吸用ガスや物資を消費するのは、少年12人とコーチだけではない。

むしろ救助活動中は、数多くの救助要員が洞窟へ出入りしている。

ダイバー、タイ海軍特殊部隊、医療要員、搬送要員、器材輸送要員。

人が増えれば、必要な装備と補給も増える。

さらに洞窟内で長時間活動する人員が増えることは、空間そのものの換気・酸素環境にも関係する。

7月上旬には、13人が待機する洞窟深部の酸素濃度低下が現場の懸念事項として公表されるようになった。

BCRCも7月8日の救出方式を説明した文書で、モンスーン期間を洞窟内で待つ案について、酸素低下と増水リスクを理由の一部として、もはや現実的ではないと説明している。

酸素濃度の低下は「今すぐ窒息する」という意味ではなかった

当時の報道では、洞窟内の酸素濃度が低下していることが大きく取り上げられた。

ここも表現には注意が必要である。

酸素濃度が通常の大気より低くなったからといって、その瞬間に13人が窒息する状態だったという意味ではない。

しかし問題は、いつまで洞窟内に留まる必要があるか分からなかったことである。

数時間なら許容できる環境でも、数週間、数か月同じ場所に多数の人間が滞在する計画なら条件は異なる。

しかも救助要員も出入りする。

再増水によって空気のある空間自体が小さくなる可能性もある。

したがって酸素の問題は、

「今日生きられるか」ではなく、「雨季が終わるまでここで生活できるか」

という長期待機案の成立性を下げる要素だった。

Chamber 3から奥は「物流のボトルネック」だった

救助作戦を物流として見ると、最も難しい部分が見えてくる。

地上からChamber 3まで物を運ぶことと、Chamber 3からさらに奥へ運ぶことでは難度が違う。

奥側には完全水没区間がある。

そこから先へ送れる人員は、洞窟潜水能力を持つ者に限定される。

大きな荷物も自由には運べない。

つまりChamber 3から先では輸送能力が急激に小さくなる。

物流でいう「ボトルネック」である。

区間 主な条件
地上 車両、人員、大型設備を比較的自由に配置可能
入口~Chamber 3 排水後は歩行・搬送可能区間が増加
Chamber 3~洞窟深部 水没区間あり。洞窟ダイバーと特殊な搬送が必要
13人の待機地点 食料・医療・呼吸環境を維持しながら救出を待つ

だからChamber 3に大量の物資を集める意味があった。

そこまでは大人数で運び、

そこから先だけを専門ダイバーが受け持つ。

作業を分割することで、限られた洞窟ダイバーを最も危険な区間へ集中させることができた。

米軍部隊が「最初の3区画」を整備した理由

米国防総省の記録では、タイ政府の要請を受けて米軍要員42人などが救助活動へ参加している。

その役割の一つとして、

洞窟の最初の3つの区画へ器材を配置し、安全に通過できるよう準備すること

が挙げられている。

さらに救出時には、洞窟出口側の区間で少年たちの搬送を支援し、医療要員や技術支援も提供した。

これは、最奥部を潜るダイバー以外にも大きな役割があったことを示す。

最深部で一人の少年を救出しても、洞窟入口まで安全に運べなければ作戦は完了しない。

地下の全ルートを、一つの搬送ラインとして機能させる必要があった。

7月8日|排水の成果が救出ルートを変える

本格救出が始まった7月8日、タイ当局のブリーフィングでは、Chamber 1、2、3の水位が下がり、歩行可能になっていると説明された。

これは重要な変化だった。

もし入口から最奥部までのほぼ全区間が潜水だったなら、少年一人を外へ出す難度はさらに高くなっていた。

実際の搬出では、特に危険な深部の水没区間を洞窟ダイバーが担当し、Chamber 3まで運んだ後、別の人員へ引き継ぐ方式を取ることができた。

排水は「13人が歩いて脱出できるほど水を抜く」という最終目標には間に合わなかった。

しかし、

救助ルートを分割し、潜水が必要な部分を減らすことには成功していた。

それだけでも救出作戦のリスクは大きく変わる。

毎回、物資を元の状態へ戻す必要があった

7月8日から始まった救出は、一日ですべての少年を運び出す作戦ではなかった。

初日に4人が救出された後、作戦はいったん停止された。

オーストラリア政府の事後検証資料では、その停止時間を約10時間とし、酸素・その他の物資を補充するためだったと記録している。

翌日、同じような工程で次の4人を運ぶ。

そのためには、前日に消費したボンベや器材を補充し、再び同じ救助能力を作り直さなければならない。

これは救出MISSIONを理解するうえで重要である。

一人を外へ出せたから、残りも自動的に出せるわけではない。

一回の救出ごとに消費した資源を補給し、システムを再構成する必要があった。

最後まで水との競争は終わらなかった

排水によって救助条件は改善した。

だが、洞窟の水を完全に制御できたわけではない。

英国政府の記録では、救出作戦の終盤に水位が再び上昇し、救助要員は急いで撤退しなければならなかったとされている。

オーストラリア政府の時系列でも、7月10日、最後の少年とコーチが救出された後、洞窟内にいた約145人の救助要員が退避するころにポンプが停止し、水位が急速に上昇したと記録されている。[1]

最終日まで、洞窟は安定した場所になってはいなかった。

救助隊が作っていたのは永久的な安全環境ではない。

天候と機械設備によって成立している、一時的な救出可能時間

だった。

FACT CHECK|ポンプが止まったから救出を急いだのか?

時間関係には注意が必要である。

最後の5人の救出を決定した主因を「ポンプ故障」とするのは適切ではない。

救出作戦はすでに7月8日から実施されており、最終搬出は7月10日に進行していた。

オーストラリア政府資料は、最終救出と救助要員の撤収が行われるころにポンプが停止し、水位が急速に上昇したと記録している。

したがってポンプ停止は、救出開始の原因というより、最後まで作戦に時間的余裕がなかったことを示す出来事として理解するのが適切である。

水・空気・物流は一つの問題だった

排水、酸素、ボンベ、Chamber 3。

一見すると別々の話に見える。

しかし救助作戦では相互につながっている。

水位が高ければ、潜水区間が長くなる。

潜水区間が長ければ、必要な呼吸用ガスが増える。

ボンベが増えれば、奥へ運ぶ人員が必要になる。

人員が増えれば、洞窟内部で必要な空間、時間、補給も増える。

さらに長期間待機するほど、13人がいる空間の酸素や健康状態、モンスーンの再増水を考えなければならなくなる。

つまり一つの条件だけを改善すればよいわけではない。

タムルアン救助で必要だったのは、

水位・潜水距離・人員・呼吸用ガス・食料・医療・時間を一つのシステムとして成立させること

だった。

6月25日から7月10日まで|地下インフラはこう作られた

日付 水・補給・ロジスティクス
6月25日 激しい雨の中、排水用ポンプが現場へ持ち込まれる
6月26日 洪水によりダイバーがPattaya Beach方面から撤退
6月28日 ポンプによる排水を継続。豪雨で捜索自体は制限される
7月1日 Chamber 3までルートが延び、数百本のエアタンクなどを搬入
7月2日 13人を発見。捜索用補給線が生存支援・救助準備用へ変化
7月3日 高カロリー食、薬などが13人へ届く
7月5日 地表の水流を洞窟流入口から迂回させる作業などを継続
7月6~7日 救出用ボンベ・装備・医療体制をさらに構築
7月8日 Chamber 1~3の水位低下。一部歩行可能。最初の4人を救出
7月8~9日 約10時間かけ呼吸用ガス・物資を再補給して次の救出に備える
7月10日 最後の5人を救出。救助要員撤収時にポンプ停止・水位急上昇

まとめ|救出前に「地下の補給路」を作る必要があった

13人は7月2日に発見された。

しかし、発見地点は地上から簡単に物資を届けられる場所ではなかった。

救助隊はその前からポンプを投入して洞窟内部の水位を下げ、地表では新たな流入水を減らす作業を続けていた。

一方、洞窟内部には大量の呼吸用ボンベと器材を運び込み、Chamber 3を前進基地として利用した。

13人が見つかると、その補給線を使って食料と医療物資を届けた。

排水が進んだことで、救出開始時には入口側の一部区間が歩行可能になり、最も危険な潜水区間を深部側へ限定することもできた。

つまりタムルアン救出では、ダイバーが13人を運び始める前に、

「地上から13人まで物資を届け、13人から地上まで人間を運べる地下物流網」

を作る必要があった。

だが、その補給線の維持自体が危険な仕事だった。

7月6日、その危険が最も明確な形で表れる。

洞窟内部へ呼吸用ボンベを運ぶ活動に参加していた元タイ海軍特殊部隊員、サマン・クナンが死亡した。

次回は、プロの潜水経験を持つ救助要員がなぜ死亡するほど、この補給ルートが危険だったのかを追う。


← 第3回|13人はどう発見されたのか


第5回|サマン・クナンの死亡事故 →

CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集

今回出てきた言葉

【Chamber 3】
タムルアン洞窟内部の区画。捜索・救出作戦では前進基地として重要な役割を持ち、深部へ向かうダイバー、呼吸用ボンベ、器材などの中継地点となった。救出時には深部から運ばれた少年を別の搬送・医療チームへ引き渡す地点にもなった。

【呼吸用ボンベ】
潜水時にダイバーが呼吸するガスを入れた高圧シリンダー。本記事では資料間で「air tank」「oxygen tank」など表記が一定しないため、ガス組成を確定できない場合は総称として「呼吸用ボンベ」とした。

【排水ポンプ】
洞窟内へ流入した水を外へ排出する設備。タムルアンでは複数のポンプを運用し、水位と流速を下げることで捜索・救出条件の改善を図った。

【地表水迂回】
山上の沢や水路などから洞窟へ流れ込む水を別方向へ導く方法。地下から排水するだけでなく、新たな流入量自体を減らす目的で実施された。

【ボトルネック】
システム全体の能力を制限する最も処理能力の小さい部分。タムルアンではChamber 3より奥の水没区間が、人員・物資輸送の大きな制約となった。

【前進基地】
作戦の最前線近くに設ける人員・物資の中継拠点。Chamber 3は地上と洞窟深部をつなぐ前進基地として機能した。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Australian Government, Emergency Management Australia, “Thai Cave Rescue Symposium 2018 – Symposium Report.”
  2. [2] British Cave Rescue Council, “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – BCRC Update2,” 2 July 2018
  3. [3] British Cave Rescue Council, “Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – Update,” 5 July 2018
  4. [4] British Cave Rescue Council, “More, as key phase begins of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave,” 8 July 2018
  5. [5] British Cave Rescue Council, “Key phase of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave begins,” 8 July 2018
  6. [6] UK Cabinet Office, “Civilian Gallantry List: 2019,” 28 December 2018
  7. [7] U.S. Department of Defense, “DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,” 9 July 2018

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