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フランクリンは何を探していたのか北西航路と1845年遠征のルート

フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート

遭難・救助

1845年5月、HMS ErebusとHMS Terrorは英国を出航しました。

目的地は「北極」そのものではありません。

フランクリン遠征に与えられた最大の任務は、 北米大陸の北側を通って大西洋と太平洋を結ぶ 北西航路(Northwest Passage)の、 まだ確認されていない区間をつなぐことでした。

ここで重要なのは、 1845年の英国海軍が 「北極圏のどこに海があるのかすら分からない」 状態だったわけではないことです。

それ以前の数十年間に、 ジョン・ロス、ウィリアム・エドワード・パリー、 ジョン・フランクリンらの探検によって、 カナダ北極諸島の輪郭はかなり明らかになっていました。

英国海軍本部がフランクリンへ出した命令には、 北西航路について 「完成すべき部分はわずかに残るだけ」 という認識まで記されています。

つまり1845年の遠征は、 未知の海へ無方向に突入した探検ではありません。

すでに地図に描かれていた東側と西側を、 最後の海路でつなぐことを狙った遠征 でした。

ところが、その「最後の区間」にこそ、 ErebusとTerrorを2年間動けなくする海氷が待っていました。

この記事で分かること

  • 北西航路とはどこを通る航路なのか
  • なぜ英国は何世紀にもわたって北西航路を探したのか
  • 1845年時点でどこまで地図が完成していたのか
  • 海軍本部はフランクリンにどのようなルートを指示したのか
  • なぜCape Walker付近から南西へ進もうとしたのか
  • 遠征隊がWellington Channelへ入ったことは、なぜ分かっているのか
  • 1845年の越冬地Beechey Islandはどこにあるのか
  • 1846年にPeel Soundを南下した2隻がどこまで進んだのか
  • フランクリン遠征は北西航路を「発見した」と言えるのか

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート【現在の記事】
  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

先に結論|フランクリンが探していたのは「最後の海路」だった

北西航路とは、 大西洋側から北米大陸の北を通り、 太平洋側へ抜ける海上ルートの総称です。

現在の地名で大きく見るなら、 大西洋側から Davis Strait → Baffin Bay → Lancaster Sound へ入り、 カナダ北極諸島の多数の海峡を抜け、 最終的にBeaufort Sea方面からBering Straitへ向かうルートです。

ただし、 「北西航路」という一本の決まった海峡が存在するわけではありません。

カナダ北極諸島には、 数多くの島、海峡、湾が複雑に入り組んでいます。

その中から、 船が連続して通過できる経路を見つけなければなりませんでした。

1845年までには、 その入口とかなりの区間がすでに調査されていました。

フランクリンに求められたのは、 地図上に残された最後の空白を航海し、 大西洋側から太平洋側まで海がつながっていることを確認すること でした。

なぜ英国は北西航路を探し続けたのか

北西航路探索の歴史は、 フランクリン遠征よりはるかに古くまでさかのぼります。

16世紀以降、 欧州では大西洋から北米大陸の北を回り、 アジアへ到達できる航路が存在するのではないかと考えられていました。

期待されたのは、 欧州とアジアを結ぶ新しい海上ルートです。

実際に商業航路としてどれほど有利だったかは別として、 海図上で大西洋と太平洋をつなぐ経路を確定することは、 地理学、航海術、英国海軍の威信という意味でも大きな価値を持っていました。

英国では特に1818年以降、 北極探検が再び活発になります。

その中心人物の一人が ウィリアム・エドワード・パリーでした。

1819年、パリーはLancaster Soundの奥まで進んでいた

北西航路探索における大きな進展のひとつが、 1819~1820年のパリー遠征です。

それ以前、 Baffin Bay西岸に開くLancaster Soundが 本当に西へ続いているのかは明確ではありませんでした。

パリーはLancaster Soundへ入り、 さらに西のBarrow Straitを航行。 その先のカナダ北極諸島深部まで進みました。

1845年の海軍本部命令では、 Lancaster SoundとBarrow Straitについて、 パリーがすでに複数回航行しており、 捕鯨船もその後利用していたことが明記されています。

つまりフランクリン遠征にとって、 Lancaster Soundは 未知の入口ではありませんでした。

ここまでは、ある程度実績のあるルートだったのです。

1845年時点の考え方|まず西へ、Cape Walkerから南西へ

1845年5月5日、 英国海軍本部はフランクリンに対して 詳細な航海指示を出しました。

そこには、 遠征隊がどこを目指すべきかがかなり具体的に書かれています。

まずDavis StraitからBaffin Bayへ入り、 Lancaster Soundへ向かう。

そこからBarrow Straitを およそ北緯74度15分付近で西へ進む。

そして Cape Walker付近、およそ西経98度 まで到達したら、 可能な限り南および西へ進み、 Bering Strait方面を目指す。

これが基本方針でした。

1845年の基本計画

英国

Davis Strait

Baffin Bay

Lancaster Sound

Barrow Strait

Cape Walker付近

南~南西方向へ未知区間を突破

既知の西側海域

Bering Strait

太平洋

なぜCape Walkerから南へ曲がる計画だったのか

当時すでに、 Barrow Straitからさらに西へ進むルートについては 大きな問題が知られていました。

1820年のパリー遠征では、 Melville Island南西側のCape Dundas付近で 大規模で安定した海氷に阻まれています。

そこで1845年の海軍本部は、 単純にそのルートをもう一度西へ押し続けることを 第一案とはしませんでした。

Cape Walker付近まで行ったところで、 そこから南西方向へ抜ける海路を探す。

これが、 北西航路を完成させる可能性が高いと判断されていました。

現在の地図を知っている私たちから見れば、 この判断が何を意味していたかが分かります。

Cape Walkerより南には、 Prince of Wales Island、 Somerset Island、 Peel Sound、 Franklin Strait、 Victoria Strait、 King William Islandなどが広がっています。

フランクリンたちは、 この複雑な海域のどこかに 西側へつながる通路があると考えていました。

ただし「予定ルート」と「実際の航路」は同じではない

ここで、 フランクリン遠征を理解するために重要な区別があります。

英国海軍本部が1845年に指示したルートと、 ErebusとTerrorが実際に航海したルートは、 完全には一致しません。

海軍本部は、 基本的にはBarrow Straitを西へ進み、 Cape Walker付近から南西へ向かうよう指示していました。

ところが、 現在確認されている遠征隊の記録によれば、 2隻は1845年に Wellington Channelを北へ進んでいます。

これは、 1859年に発見されたVictory Point Noteから確認できます。

1845年|Wellington Channelを北緯77度まで進んだ

Victory Point Noteには、 ErebusとTerrorが Wellington Channelを北緯77度まで上った ことが記されています。

その後、 2隻はCornwallis Islandの西側を回って南へ戻りました。

つまり1845年の航海では、 Barrow Straitからすぐ南へ向かったのではなく、 一度かなり北へ進んでいます。

この航路によって、 結果的にCornwallis Islandを周回する形になりました。

なぜフランクリンがWellington Channelを北上したのか。

ここは注意が必要です。

遠征隊の詳細な航海日誌が現在まで発見されていないため、 フランクリン本人がその判断理由を説明した記録は残っていません。

海氷の状態を見て代替ルートを調べたのか、 北側に有望な通路があると判断したのか、 科学・地理調査を兼ねていたのか。

複数の可能性は考えられますが、 確定はできません。

FACT CHECK|Wellington Channel北上は命令違反だったのか

海軍本部の基本指示は、 Barrow Straitを西へ進みCape Walker付近から南西へ向かうものでした。

ただし同じ命令書には、 氷の状態によって西進できない場合、 Devon IslandとCornwallis Islandの間の海峡を 代替ルートとして検討する余地も示されています。

したがって、 Wellington Channelへ入った事実だけを根拠に 「フランクリンが命令を無視した」と断定することはできません。 また、実際に北上を決めた理由を説明する遠征隊の日誌も現存していません。

1845~1846年|Beechey Islandで最初の冬を越す

Wellington Channelから南へ戻った遠征隊は、 Beechey Island付近で冬を迎えました。

Beechey Islandは、 Devon Island南西側に位置する小さな島です。

Lancaster SoundとBarrow Straitの接続部に近く、 北西航路探索の要所にあります。

Beechey Island周辺。フランクリン遠征隊は1845~1846年の冬をこの地域で過ごした。 Google Mapは現在の地理を示すものであり、1845年当時の海岸線・海氷状況・遠征隊の正確な航跡を再現するものではない。

Googleマップで大きく見る

ここでは後に、 John Torrington、 William Braine、 John Hartnellの3人の墓が発見されました。

つまり1845年の遠征隊は、 「最後に捕鯨船から見られた後、すぐに消息不明になった」 わけではありません。

彼らはLancaster Soundを通過し、 Wellington Channelを北上し、 Cornwallis Island周辺を航海し、 Beechey Islandで越冬するところまで進んでいました。

1846年|今度はPeel Soundを南へ進む

冬が終わり、 海氷が航行可能な状態になると、 ErebusとTerrorは再び動き始めました。

1846年の遠征隊は、 今度はPeel Soundを南へ進みます。

Peel Soundは、 西側のPrince of Wales Islandと、 東側のSomerset Islandの間にある海峡です。

このルートを南下すれば、 北極諸島中心部から King William Island方面へ進むことができます。

地図上で見ると、 フランクリンが最初から求めていた 「Cape Walker付近から南西へ抜ける」 という目的に近い方向へ進んだことになります。

地図で見ると、目的達成まであと少しに見える

現代の地図でフランクリン遠征の1846年ルートを見ると、 奇妙な印象を受けます。

ErebusとTerrorはPeel Soundを抜け、 King William Island北西付近まで到達しました。

さらに南には、 Franklin Strait、 James Ross Strait、 Rae Strait、 Queen Maud Gulfなど、 最終的に西側海域へつながる水路があります。

つまり地図だけを見れば、 北西航路をつなぐ地点はかなり近い。

しかし、 北極航海では 「海が地図上でつながっている」ことと 「船がそこを通れる」ことは同じではありません。

北西航路最大の問題|水路があっても氷で通れない

カナダ北極諸島の海峡は、 年間を通して一定の状態ではありません。

夏になれば海氷が完全に消えるとは限らず、 年によって氷の位置、厚さ、密度、 開水面ができる場所が変わります。

狭い海峡では、 風や海流によって押し寄せた氷が集まり、 大きな氷塊が動けなくなることもあります。

19世紀の木造探検船にとって、 航路選択とは単に 「地図上で海がある方向へ進む」 ことではありませんでした。

その年、その場所で、 船が通れるだけの水面が開いているか が決定的でした。

1846年9月|キングウィリアム島北西で停止する

Peel Soundを南下した2隻は、 1846年9月、 King William Island北西の海域へ到達しました。

そしてここで ErebusとTerrorは海氷に拘束されます。

King William Island周辺。1846年9月、ErebusとTerrorは島の北西側の海域で海氷に拘束された。 資料によって周辺海域をVictoria Strait、McClintock Channel側などと表現する場合があるため、本記事では「キングウィリアム島北西の海域」として統一する。

Googleマップで大きく見る

Victory Point Noteによれば、 船が氷に捕らえられたのは 1846年9月12日でした。

問題は、 その冬だけではありません。

翌1847年の夏になっても、 2隻は解放されませんでした。

そして1848年4月まで、 船はこの地域から自力で脱出できませんでした。

航路を完成させる目前まで進みながら、 船を進めるための「海」が開かなかったのです。

1847年の陸上調査は「最後のリンク」をつないだ可能性がある

船が氷に閉じ込められている間も、 遠征隊は完全に何もしていなかったわけではありません。

1847年5月、 Graham Goreらの一隊が 船からKing William Islandへ向かっています。

Royal Museums Greenwichは、 この隊が島の南岸Cape Herschel付近まで到達し、 それまで未確認だった北西航路の区間を 地理的につないだ可能性を説明しています。

つまり皮肉なことに、 フランクリン遠征は地理調査の目的そのものには、かなり近いところまで到達していた可能性があります。

しかし、 その成果を持ち帰る人間はいませんでした。

フランクリンは「北西航路を発見した」のか

ここは表現に注意が必要です。

後世には、 フランクリン隊が 北西航路の最後の未確認区間をつないだとして、 「彼らは命と引き換えに最後のリンクを完成させた」 という評価が生まれました。

しかし、 実際にErebusとTerrorが 大西洋から太平洋まで航行したわけではありません。

2隻はKing William Island付近で停止し、 最終的に放棄されています。

したがって、 フランクリン遠征が北西航路を船で通過した と表現するのは正確ではありません。

一方で、 遠征隊による航海と陸上調査が、 当時残っていた地理的空白の一部を埋めた可能性は高い。

この2つは分けて考える必要があります。

最初に「北西航路を通過した」とされるのは別の遠征だった

フランクリン隊を探すために始まった大規模な捜索そのものが、 北西航路の解明をさらに進めました。

1850年、 太平洋側から捜索に入った Robert McClureは、 複数年をかけて北極圏を横断します。

McClureは後に、 北西航路を最初に通過した人物として認定されました。

ただし、 その旅程の一部は船ではなく 海氷上を徒歩で移動したものでした。

船だけで北西航路を完全に航海した最初の成功例として知られるのは、 Roald Amundsenです。

Amundsenは小型船Gjøaを使い、 1903年から1906年にかけて より南側のRae Straitなどを通るルートで 大西洋側から太平洋側への航海を完成させました。

フランクリン遠征から 約60年後のことです。

フランクリンの大型船とアムンセンの小型船

この違いは、 北西航路を理解するうえで興味深い点です。

ErebusとTerrorは、 長期間の遠征に必要な大量の物資、 129人の人員、 科学機材などを積んだ英国海軍の探検船でした。

一方、 Amundsenが使用したGjøaは はるかに小型の船でした。

狭く浅い海峡を利用できる小型船と、 大型の海軍探検船では、 選択できる航路が異なります。

したがって 「地図上に北西航路が存在するなら、なぜフランクリンはそこを通らなかったのか」 という疑問には、 単純な答えはありません。

航路の水深、 海峡の幅、 海氷、 季節、 船の喫水、 その年の気象条件。

北西航路は「存在するかどうか」だけでなく、 「その船が、その年に通過できるか」が問題になる航路 だったのです。

1845~1846年の航路を整理すると

時期 地点・海域 行動
1845年5月19日 Greenhithe 英国を出航
1845年7月 Disko Bay周辺 最終補給。5人が離脱し129人となる
1845年7月下旬 Baffin Bay 捕鯨船から最後に目撃される
1845年 Lancaster Sound カナダ北極諸島へ進入
1845年 Wellington Channel 北緯77度付近まで北上
1845年 Cornwallis Island 島の西側を通って南へ戻る
1845~1846年冬 Beechey Island 最初の越冬
1846年夏 Peel Sound 南へ航行
1846年9月12日 King William Island北西 海氷に拘束される

最大のポイント|航路選択そのものが失敗だったとはまだ言えない

結果だけを見ると、 Peel SoundからKing William Island方面へ向かったことが 遠征隊を破滅させたように見えます。

しかし、 これを単純な「航路選択ミス」と断定するのも危険です。

1845年の海軍本部命令そのものが、 Cape Walker付近から南西へ進むことを 主要ルートとして想定していました。

そして北極海の海氷状況は年によって変化します。

後世の地図を見ながら 「別の海峡を選べばよかった」と言うことは簡単ですが、 1846年のフランクリンたちには 現在と同じ海図も、 衛星画像も、 海氷予報もありませんでした。

彼らがその時点で何を観測し、 どの海峡を候補として比較し、 なぜPeel Soundを選んだのか。

その判断過程を記した航海日誌は、 現在まで見つかっていません。

分かっているのは、 選択したルートの先で2隻が1846年9月に動けなくなった という結果です。

北西航路を知ると、フランクリン遠征の見え方が変わる

フランクリン遠征を 「129人が北極へ行って消えた事件」 として見るだけでは、 なぜ2隻がKing William Islandまで進んだのかが分かりません。

そこには明確な目的がありました。

すでに知られていたLancaster Soundを通り、 Barrow Straitから西へ進み、 地図上に残る空白を南西へ抜ける。

大西洋側の海図と、 太平洋側から蓄積されていた知識をつなぐ。

1845年当時、 英国海軍は 北西航路完成まであとわずかだと考えていました。

そして実際、 フランクリン遠征は かなり深いところまで進みました。

問題は、 その最後の数百キロメートルが 地図上の距離以上に厳しい場所だったことです。

海峡は存在した。

しかし、 船が通れるとは限らなかった。

1846年9月、 その違いがErebusとTerrorを止めることになります。

まとめ|地図の空白は小さくなっていた。しかし、海氷という壁は残っていた

1845年のフランクリン遠征が探していたのは、 漠然とした「未知の北極」ではありませんでした。

目的は、 大西洋と太平洋を北米大陸北側で結ぶ 北西航路の最後の未確認区間をつなぐことでした。

海軍本部は、 Lancaster SoundからBarrow Straitを西進し、 Cape Walker付近から南西へ向かうルートを基本方針としていました。

実際の遠征隊は1845年、 Wellington Channelを北緯77度まで北上し、 Cornwallis Island西側を回ってBeechey Islandで越冬。

1846年にはPeel Soundを南下し、 King William Island北西まで進みました。

そこは、 地理的には北西航路をつなぐ地点へかなり近い場所でした。

しかし1846年9月12日、 ErebusとTerrorは海氷に捕らえられます。

そして次の夏になっても、 船は動きませんでした。

次回は、 この遠征を 1845年5月の出航から1846年9月の氷海閉塞まで 時系列で追います。

2隻はどこで補給し、 どこで越冬し、 どのようにKing William Islandまで到達したのか。

そして、 いつ「普通の極地航海」が 帰還できない状況へ変わったのでしょうか。

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今回出てきた言葉

北西航路(Northwest Passage)
北米大陸北側の北極海を通り、大西洋と太平洋を結ぶ海上ルートの総称。 単一の海峡ではなく、カナダ北極諸島に存在する複数の海峡を組み合わせて通過する。
Lancaster Sound
Baffin Bayからカナダ北極諸島内部へ西進する主要な入口。 フランクリン遠征以前にパリーらによって航行されていた。
Barrow Strait
Lancaster Soundから西へ続く水路。 1845年の海軍本部命令では、この海域を西へ進みCape Walker付近を目指すことが基本方針とされた。
Wellington Channel
Devon IslandとCornwallis Islandの間から北へ伸びる海峡。 フランクリン隊は1845年に北緯77度付近まで進んだことがVictory Point Noteから確認されている。
Peel Sound
Prince of Wales IslandとSomerset Islandの間の海峡。 遠征隊は1846年にこの海峡を南下し、King William Island方面へ進んだ。
Cape Walker
1845年の海軍本部命令で重要な目標地点とされた場所。 この付近から南西へ進み、Bering Strait方面へ抜ける海路を探すことが期待されていた。

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集 全10回

  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート【現在の記事】
  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

出典・参考資料

本記事では、1845年に英国海軍本部が想定していた「計画上のルート」と、 Victory Point Noteなどから後世に再構成された「実際に航海したルート」を分けて記述している。 特にWellington Channelを北上した理由や、1846年にPeel Soundを選択した詳細な判断過程については、 遠征隊の航海日誌が現存しないため断定していない。