潜水経験のない少年を、濁った水で満たされた洞窟へ入れる。
前はほとんど見えない。
頭上は岩で閉ざされ、苦しくなっても水面へ浮上することはできない。
途中には狭い通路があり、出口まで数時間かかる。
ここで少年が恐怖から暴れたらどうなるのか。
フルフェイスマスクを外す。
身体を岩へぶつける。
ガイドラインやダイバーへ絡む。
そうなれば、少年だけでなく救助するダイバーまで危険になる。
タムルアン洞窟救助で選ばれた解決方法は、通常の救急医療ではほとんど考えられないものだった。
少年たちを全身麻酔下に置き、呼吸だけを維持したまま水没洞窟の中を運ぶ。
主に使用された麻酔薬はケタミン。
顔には陽圧式のフルフェイスマスク。
そして、少年を担当する洞窟ダイバー自身が途中で追加のケタミンを注射した。
「眠らせて運んだ」という一文では、この救出がどれほど異例だったのかは分からない。
タムルアンでは、麻酔科医なら通常避けようとする条件を重ねたまま、13人を水中へ送り出さなければならなかった。
CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)
- 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
- 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
- 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
- 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
- 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
- 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
- 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
- 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療【現在の記事】
- 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
- 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較
先に結論|必要だったのは「軽い鎮静」ではなく全身麻酔だった
タムルアン救出について、「少年たちは鎮静剤を投与されて救出された」と説明されることがある。
しかし救出に参加した麻酔科医リチャード・ハリスらが後に発表した医学論文は、この表現を明確に区別している。
少年たちは、
- 眠っている
- 呼びかけに反応しない
- 目的を持った身体運動を示さない
状態に置かれていた。
医学的には単なる軽い「鎮静」ではなく、全身麻酔に相当する深い麻酔状態だった。
なぜ、そこまで意識を落とす必要があったのか。
中途半端に意識が残っている方が、タムルアンでは危険だったからである。
もし少年が途中で覚醒し、自分が暗い水中にいることを理解したら、パニックを起こす可能性がある。
手足を動かす。
マスクへ手を伸ばす。
救助ダイバーへしがみつく。
狭い水没通路でこれが起これば、状況を立て直す場所そのものがない。
そこで救助計画は、
少年に何も操作させず、何も判断させず、呼吸だけを自発的に続けさせた状態で運ぶ
という方向へ進んだ。
FACT CHECK|「鎮静」と「全身麻酔」は同じなのか?
同じではない。
鎮静には、呼びかければ反応できる軽い状態から、強い刺激にしか反応しない深い状態まで幅がある。
一方、タムルアン救出に関する医学論文は、少年たちが眠り、呼びかけへ反応せず、目的のある動きを示さなかったことから、意図的にanaesthetised=麻酔されたという表現を使っている。
後年の医学倫理論文も、「sedated」という一般的表現は正確ではなく、救出時には少年たちを完全に意識のない状態へ置く必要があったと指摘している。
したがって本シリーズでは、
「鎮静された少年」ではなく「全身麻酔下で搬送された少年」
を基本表現とする。
なぜ意識を残してはいけなかったのか
通常なら、患者の意識がある方が安全と思える。
異常を本人が伝えられる。
呼吸器に問題があれば、自分で対応できる可能性もある。
しかし、それは十分な訓練を受け、状況を理解している潜水者の場合である。
タムルアンの少年たちは違った。
突然、
- 光のない水中
- 岩に囲まれた狭い空間
- 濁って何も見えない環境
- 自力では浮上できない場所
へ入れられる。
しかも水没区間は短時間では終わらない。
一度パニックを起こすと、「少し休んで落ち着かせる」ことさえ難しい。
完全水没した通路では、立って呼吸できる場所がないからである。
救出計画にとって最も避けなければならなかったのは、
少年が水中で制御不能になること
だった。
なぜケタミンだったのか
最終的に中心となった麻酔薬がケタミンだった。
ケタミンは一般の人には「強い鎮静薬」という印象があるかもしれないが、医療では麻酔にも使用される薬剤である。
タムルアンの特殊条件に対して、いくつか重要な利点があった。
| ケタミンの特徴 | タムルアンでの意味 |
|---|---|
| 筋肉注射で投与可能 | 静脈ラインを維持しながら洞窟を搬送する必要がない |
| 比較的広い治療域 | 通常の手術室ほど精密な監視ができない環境で使いやすい |
| 自発呼吸を比較的維持しやすい | 人工呼吸器を使用できない水中搬送で重要 |
| 循環抑制が比較的小さい | 連続した血圧監視が困難な環境に適する |
| 筋肉注射後の作用時間 | 洞窟内で一定時間麻酔を維持しやすい |
とりわけ重要なのが、自発呼吸を維持しやすいという特徴だった。
通常の全身麻酔なら、患者の呼吸が弱くなれば人工呼吸を行う。
気管にチューブを入れて気道を確保する場合もある。
タムルアンの水中では、そのような管理を続けられない。
少年自身に呼吸を続けてもらうしかなかった。
ケタミンは、その条件に比較的適した麻酔薬だった。
FACT CHECK|ケタミンなら呼吸が絶対に止まらないのか?
そうではない。
ケタミンは他の一部の全身麻酔薬と比較して自発呼吸や気道反射を維持しやすいが、呼吸への影響がゼロになる薬ではない。
実際、救出参加医師らの記録では、フルフェイスマスクを装着し水へ顔を入れた際などに、少年が一時的に息を止めた、あるいは無呼吸のように見えた例があった。
その際にはマスクのレギュレーターにあるパージ機能を短時間作動させ、陽圧の呼吸を与える対応が行われた。
つまりケタミンは、
「呼吸停止の心配がない薬」ではなく、この特殊条件で他の選択肢より扱いやすいと判断された麻酔薬
だった。
麻酔前にはアルプラゾラムも使われた
救出参加医師らの2020年の報告では、搬出対象となった少年は、まず経口でアルプラゾラム0.5mgを投与された。
アルプラゾラムはベンゾジアゼピン系薬剤で、不安を抑える作用を持つ。
目的は、
- 麻酔導入前の不安を減らす
- 麻酔中に意識が戻った場合の記憶や不快感を抑える
ことだった。
より大量の投与や作用時間の長い薬剤は、呼吸抑制を強める可能性を考えて避けられた。
つまり救出医療は「ケタミンを打つ」だけではない。
麻酔へ入る前の心理状態まで含めて設計されていた。
アトロピンは何のために使われたのか
次に使用されたのがアトロピンだった。
ケタミンには唾液などの分泌を増やすことがある。
通常の手術室なら吸引装置などで対応できる。
しかし水中では、口や気道の分泌物を自由に吸引することはできない。
そこで麻酔科医リチャード・ハリスは、ケタミン投与前にアトロピンを筋肉注射した。
医学論文では、アトロピンの投与量は20µg/kgと記録されている。
目的は、唾液分泌を抑えることだった。
この点からも、タムルアンの麻酔は単に「眠らせればよい」という発想ではなかったことが分かる。
水中で問題になりそうな生理反応を、事前に一つずつ減らしていた。
ケタミンは5mg/kgを筋肉注射した
救出参加医師らの詳細報告では、最初のケタミン投与量は5mg/kgだった。
少年の最近の体重記録をもとに、洞窟内での絶食による体重減少も考慮して投与量を判断した。
注射は静脈ではなく筋肉内へ行われた。
しかも少年はウェットスーツを着用した状態だったため、針をウェットスーツ越しに大腿部へ刺して投与したと記録されている。
麻酔が十分深くなり、
- 呼びかけへ反応しない
- 目的のある身体運動をしない
- 自発呼吸は維持されている
ことを確認してから、フルフェイスマスクを装着した。
ここでようやく水中搬送の準備へ進む。
なぜ静脈麻酔ではなかったのか
病院で全身麻酔を受けるとき、腕の静脈へ点滴を入れることが多い。
タムルアンでは、筋肉注射が大きな意味を持った。
静脈ラインを使うなら、
- ラインが抜けないよう固定する
- チューブを岩や装備へ引っ掛けない
- 水中でも接続を維持する
- 薬液を運ぶ
必要がある。
狭い洞窟で搬送するには、大きな弱点になる。
筋肉注射なら、注射した後にチューブを残さずに済む。
さらにケタミンは筋肉注射でも十分な麻酔効果を得られる。
この「配線を残さない」という単純さも、洞窟救助では大きな意味を持った。
フルフェイスマスクはどう装着されたのか
十分な麻酔状態になったことを確認した後、救助ダイバーとハリスは少年へフルフェイスマスクを装着した。
使用されたのはInterspiro Divatorと呼ばれるタイプだった。
後年の研究では、このマスクはオープンサーキット式スクーバで使用した場合、呼吸中もマスク内部を外部より陽圧に維持できることが確認されている。
これは水中で重要な性質である。
マスク内部の圧力が外部より高ければ、わずかな隙間が生じたときにも水が内側へ流入しにくくなる方向へ作用する。
もちろん、完全に外れれば助からない。
だからマスクのストラップは、通常の潜水で快適と感じるより強く締め付けられた。
呼吸用ガスは「純酸素」ではなかった
医学論文によれば、フルフェイスマスクへつながれたシリンダーには、
酸素80%、窒素20%
の混合ガスが充填されていた。
高濃度の酸素を使った理由の一つは、仮に一時的な無呼吸が起きた場合でも、血液中に保持できる酸素の余裕を増やすことだった。
一方、100%酸素ではなく少量の窒素を残すことで、肺胞がつぶれる吸収性無気肺を理論上減らす狙いもあったと論文は説明している。
また、救出ルートで想定された最大深度でも、酸素分圧が予定された曝露時間の範囲で許容可能になるよう考慮されていた。
FACT CHECK|少年は「酸素ボンベ」で呼吸していたのか?
「酸素ボンベ」という表現だけでは不正確である。
救出参加医師らによる詳細報告では、少年のフルフェイスマスクへ供給したシリンダーは80%酸素+20%窒素の混合ガスだった。
したがって、第4回で扱った潜水ルート上の各種呼吸用シリンダーと、少年自身のマスクへ接続されたガスを同一視しない方がよい。
マスクを付けた後、すぐ洞窟へ出したわけではない
マスク装着後には、水中で正常に呼吸できるかを確認する試験が行われた。
少年をうつ伏せにし、顔を水へ入れる。
呼気がマスクから出る泡を観察し、呼吸が続いているか確認する。
約30秒後に再び起こして、マスク内部へ水が入っていないか確かめる。
この確認を複数回繰り返した。
ハリスと救助ダイバーの両方がマスクの密閉状態に納得してから、実際の搬送へ進んだ。
言い換えれば、
洞窟水中へ入る前に、呼吸系統を実際の水中状態で試験していた。
それでも一時的に呼吸が止まる場面があった
詳細な医学報告には、さらに緊張する記録が残っている。
少年の顔を水へ入れた際などに、呼吸を止めた、あるいは無呼吸のように見える状態になることがあった。
その場合、救助側はフルフェイスマスクのレギュレーターにあるパージバルブを短時間押した。
マスク内へ陽圧でガスを送り込み、一回の呼吸を補助するような操作である。
すると呼吸が再開した例があった。
これはタムルアン救助の危険性をよく表している。
ケタミンを選び、フルフェイスマスクを用意しても、
少年を水中へ入れた時点で呼吸が確実に保証されたわけではなかった。
なぜ手を後ろで固定したのか
救出時、少年の手足はある程度固定されていた。
この描写だけを見ると、非常に強い処置に見える。
医学論文では理由が2つ説明されている。
一つは、手足が洞窟内の岩などへ引っ掛かるのを防ぐこと。
もう一つは、
もし麻酔が予想より早く浅くなった場合、少年が反射的にフルフェイスマスクへ手を伸ばすことを防ぐこと
だった。
両手は背中側でまとめられ、足首も緩く固定された。
これは拘束そのものが目的ではない。
水没洞窟内で最も危険な「予期しない身体運動」を抑える安全策だった。
麻酔科医は少年と一緒に出口まで行かなかった
ここがタムルアン麻酔でも特に異例な部分である。
通常の全身麻酔では、麻酔科医が患者のそばにいる。
心電図。
血圧。
酸素飽和度。
呼吸。
気道。
それらを監視し、異常が起きれば即座に処置する。
タムルアンでは不可能だった。
ハリスが最奥部で麻酔を導入した後、少年は救助ダイバーへ預けられる。
そしてハリスはその少年に付き添って出口まで移動するのではなく、次の少年を麻酔するため洞窟深部に残った。
つまり水没区間で少年を医学的に見守ったのは、
麻酔科医ではなく洞窟ダイバー
だった。
ダイバー自身がケタミンを追加投与した
筋肉注射のケタミンも、出口へ着くまで永遠に効き続けるわけではない。
救出途中で少年が覚醒し始めれば、再びパニックの危険が生まれる。
そこで搬送担当の洞窟ダイバーには、ケタミンを追加投与する方法が教えられた。
2020年の詳細報告では、少年一人につき搬送中に3~4回の追加投与が行われたとされている。
投与したのは主として医師ではない救助ダイバーだった。
少年が覚醒し始めたと判断した場合、洞窟の水没区間と水没区間の間にある空間などで筋肉注射を行った。
しかも条件は病院とは程遠い。
流れる水の中で少年を保持しながら薬を取り出し、注射する場面もあった。
タムルアン救出が通常の麻酔医療から大きく逸脱していた理由の一つである。
FACT CHECK|ダイバーは麻酔科医だったのか?
全員が医師だったわけではない。
麻酔計画を中心となって設計し、最初の麻酔導入を担当したリチャード・ハリスは麻酔科医であり、経験豊富な洞窟ダイバーでもあった。
一方、少年を実際に外へ運ぶ主担当ダイバーの多くは医学専門家ではない。
彼らは搬送中に少年が覚醒し始めた場合のケタミン再投与について訓練を受けた。
これは通常の医療体制では極めて異例であり、通常時の麻酔診療へそのまま一般化できるものではない。
リチャード・ハリスが必要とされた理由
オーストラリア政府の救助検証資料では、英国人洞窟ダイバーたちは13人を発見した後、救出を成立させるにはさらに専門家が必要だと判断したとされている。
その中でも特に必要だったのが、
洞窟潜水と麻酔の両方を理解する人間
だった。
リチャード・ハリスはオーストラリアの麻酔科医であると同時に、経験豊富な洞窟ダイバーだった。
病院の麻酔だけを知る医師では、タムルアンのルートを十分理解できない。
逆に、洞窟潜水だけを知るダイバーでは、無意識の患者を安全に麻酔管理する方法を設計できない。
二つの専門性が一人の人物に重なっていたことが、この救助では重要だった。
オーストラリア政府はハリスと獣医師で洞窟ダイバーでもあるクレイグ・チャレンを派遣し、2人は救出計画で中心的な役割を担った。
なぜ獣医師のクレイグ・チャレンも重要だったのか
クレイグ・チャレンは獣医師であり、経験豊富な洞窟ダイバーでもあった。
獣医療では、人間へ投与するのと同じではないものの、ケタミンを扱う経験がある。
救出参加者らの論文では、チャレンが洞窟途中の乾いた区間で少年の初期医学評価を行い、他のダイバーが初めてケタミンを追加投与する際の支援も行ったことが記録されている。
つまり医療系統も、
最奥部のハリス一人だけに依存するのではなく、洞窟ルート上へ分散していた。
通常の麻酔なら、やってはいけない条件が重なっていた
この救出が医学的にどれほど異例だったのかは、通常の全身麻酔と比べると分かりやすい。
| 通常の全身麻酔 | タムルアン救出 |
|---|---|
| 麻酔科医が患者のそばにいる | 麻酔導入後は洞窟ダイバーが搬送 |
| 血圧・酸素飽和度・心電図などを連続監視 | 水中では通常の連続モニターを使用できない |
| 気道トラブルなら直ちに処置可能 | 水没洞窟では処置できる場所が限定される |
| 呼吸が止まれば人工呼吸可能 | 水中で通常の人工呼吸管理はできない |
| 静脈ラインから薬剤を調整可能 | 筋肉注射で投与し、ダイバーが途中で追加 |
| 患者は手術台など安定した場所にいる | 水中・岩場・狭窄部を数時間搬送 |
| 保温装置を使用可能 | 約23℃の水・空気に長時間さらされる |
麻酔科医から見れば、リスク要因がほぼすべて悪い方向にそろっている。
それでも麻酔を選んだ。
なぜなら、
意識のある未経験者をこの洞窟へ潜らせる危険の方が大きいと判断されたから
である。
もう一つの敵は低体温だった
最初の4人が7月8日に洞窟から出てくると、医療チームは新しい問題を確認した。
低体温である。
New England Journal of Medicineに掲載された救出医療報告では、洞窟内の水中を搬送された少年たちに低体温がみられた。
初日に救出された少年の一人では、ヘリコプター搬送時に体温がさらに低下した例も記録されている。
少年たちはウェットスーツを着ていたが、長時間冷たい水と洞窟内環境にさらされている。
しかも全身麻酔下では、本人が
「寒い」
と訴えることもできない。
ケタミン自体も震えによる熱産生を抑える可能性がある。
そのため初日の救出後、医療チームは翌日以降の処置を変更した。
初日の4人から医療プロトコルを修正した
NEJMの報告では、初日の振り返りで、
- 低体温
- 医療チーム内の連携
が重要な改善点として特定された。
そこで翌日以降、ABC+Hと呼べる考え方で役割を整理した。
ABCは救急医療で基本となる、
- Airway=気道
- Breathing=呼吸
- Circulation=循環
である。
そこへ、
H=Hypothermia(低体温)
を加えた。
体温測定方法も改善し、毛布、加温用ブランケット、全身を覆うフォイル、温風式加温装置などが使用された。
点滴液も温めて投与するようになった。
つまり救出作戦は初日の成功をそのまま繰り返したのではない。
最初の4人から得られた医療データを使い、2日目、3日目の手順を改善した。
13人に重大な水の誤嚥は確認されなかった
水中で麻酔患者を搬送するとき、最も恐ろしい事態の一つがマスクへ水が入り、肺へ吸い込んでしまうことである。
救出後の医学報告では、13人の初期所見に大量の水を誤嚥したことを示す明確な証拠はなかったとされている。
これはフルフェイスマスク、陽圧機構、ダイバーによる管理、そして麻酔計画が結果として機能したことを示す重要な所見である。
ただし、ここから
「無意識の人間をフルフェイスマスクで潜らせても安全」
という結論を出すことはできない。
論文の著者たち自身が、その一般化に強く注意している。
成功したからといって、医学の常識が変わったわけではない
通常、潜水中に人が意識を失った場合、最優先されるのはできるだけ早く水面へ戻すことである。
フルフェイスマスクを着けていたとしても、長時間水中で無意識の人間の気道を安全に維持することには高い危険がある。
タムルアンの成功を受けて、救出参加医師らはフルフェイスマスクの陽圧機能を実験的に調べた。
その結果、使用されたInterspiro Divatorはオープンサーキット式の条件ではマスク内部を陽圧に維持できることが確認された。
しかし論文の結論は、
この成功を他の潜水事故へ単純に一般化してはならない
というものだった。
タムルアンで成立したのは、
- 薬剤で計画的に作った麻酔状態
- 自発呼吸が維持されていた
- 専用フルフェイスマスク
- 十分に準備された洞窟ルート
- 世界有数の洞窟ダイバー
- 麻酔科医による計画
- 多数の支援要員
が重なった極めて特殊な条件だった。
麻酔は「危険をなくした」のではなく「危険の種類を変えた」
タムルアンの麻酔救助を評価するとき、重要なのはここである。
少年を麻酔すればパニックは抑えられる。
しかし代わりに、
- 本人が異常を訴えられない
- 自分でマスクを直せない
- 呼吸が弱くなっても伝えられない
- 気道管理をダイバー側へ依存する
- 麻酔が切れれば追加注射が必要
- 低体温に気づきにくい
という新しい危険が生まれる。
つまり麻酔は「安全装置」ではない。
パニックという制御不能なリスクを、救助側がある程度管理できる医学的リスクへ置き換えた
と考える方が正確である。
そして、その新しいリスクをフルフェイスマスク、薬剤選択、呼吸確認、途中の追加投与、医療チーム、低体温対策で一つずつ補った。
救出麻酔の流れを整理する
| 工程 | 内容 |
|---|---|
| ① 絶食 | 救出対象者は当日の朝から食事を止める |
| ② 不安軽減 | アルプラゾラム0.5mgを経口投与 |
| ③ 装備準備 | ウェットスーツ、浮力装備などを装着 |
| ④ 分泌抑制 | アトロピン20µg/kgを筋肉注射 |
| ⑤ 麻酔導入 | ケタミン5mg/kgを筋肉注射 |
| ⑥ 麻酔確認 | 無反応かつ自発呼吸が維持されていることを確認 |
| ⑦ 呼吸装置 | 陽圧式フルフェイスマスクを強く固定 |
| ⑧ ガス供給 | 80%酸素+20%窒素の混合ガスを接続 |
| ⑨ 水中試験 | 顔を水へ入れ、呼吸とマスクの水密性を複数回確認 |
| ⑩ 身体固定 | 手足を固定し、岩への引っ掛かりやマスクを外す動作を防止 |
| ⑪ 水中搬送 | 洞窟ダイバーが少年をうつ伏せ方向で搬送 |
| ⑫ 麻酔維持 | 覚醒兆候があれば途中でケタミンを追加投与 |
| ⑬ 医療引き継ぎ | 潜水終了地点以降で医学評価し、地上病院へ搬送 |
| ⑭ 低体温処置 | ABCにHypothermiaを加え、積極的な保温を実施 |
FACT CHECK|13人全員にまったく同じ薬剤量を使ったのか?
違う。
アルプラゾラムは0.5mgと報告されているが、アトロピンと初回ケタミンは体重を基準に計算された。
ケタミンも搬送中の覚醒状態に応じて追加投与されたため、全員が完全に同じ総投与量になったわけではない。
また、2019年のNEJM報告では最初の4人について救助ダイバーが投与したケタミン量を現場病院側が把握していなかったと記録されている。
したがって、13人全員について完全な投与量一覧が一つの公開資料に整理されているとは扱わない。
最も異例だったのは「麻酔された人間を水中へ入れたこと」
ケタミンを筋肉注射すること自体は、医療として特異な行為ではない。
フルフェイスマスクも潜水装備として存在していた。
洞窟ダイバーも、それぞれの技術を以前から持っていた。
異例だったのは、それらを組み合わせたことである。
全身麻酔された子どもを、気管挿管せず、自発呼吸のまま、約1kmを超える完全水没区間へ通す。
救出参加医師らは後年、この状況を医学的に検討し直している。
麻酔倫理を扱った論文も、これは通常の麻酔診療の基本原則から大きく外れる選択であり、前例のない実践的・倫理的問題だったと評価している。
それでも、当時の救助側が比較していた相手は「普通の安全な麻酔」ではない。
意識のある子どもを、同じ水没洞窟へ潜らせるという別の危険だった。
選択肢のどちらにも大きなリスクがあり、
より制御できる方のリスクを選んだ。
13人全員が生還したことの意味
7月8日から10日まで、同じ基本方式を使って少年12人とコーチが搬出された。
全員が洞窟を出た。
救出後には低体温などへの処置が必要だったものの、全員が生存した。
麻酔された13人を長距離の水没洞窟から搬出するという計画は、結果として成立した。
しかし、この結果だけを見て、
「大胆な麻酔方法が正しかった」
で終わらせるべきではない。
実際には、
- ケタミンの薬理特性
- アトロピンによる分泌抑制
- アルプラゾラムによる不安軽減
- 陽圧式フルフェイスマスク
- 80%酸素を含む呼吸ガス
- 水中でのマスク試験
- 少年の身体固定
- 救助ダイバーへの追加投与訓練
- 途中の支援ダイバー
- 救出後の低体温管理
が重ねられていた。
それぞれが別のリスクを抑える防護層になっていた。
まとめ|麻酔は「眠らせるため」だけではなかった
タムルアン洞窟救助で少年たちへ麻酔が使われた最大の理由は、水中でのパニックを防ぐためだった。
しかし、実際の救出医療は「ケタミンで眠らせる」という一工程ではない。
不安を抑える。
唾液分泌を抑える。
自発呼吸を維持しながら全身麻酔へ入れる。
フルフェイスマスクを密着させる。
水中で呼吸できることを確認する。
途中で麻酔が浅くなれば追加投与する。
洞窟外では低体温を治療する。
これらすべてが一つの工程だった。
麻酔によって危険が消えたわけではない。
むしろ、
「恐怖で何をするか予測できない少年」を、「呼吸・麻酔深度・体温を救助側が管理しなければならない患者」へ変えた。
そして救助隊は、その新しい危険を管理するシステムを作った。
7月8日。
この方法を使って最初の4人が洞窟の外へ運ばれる。
翌9日にさらに4人。
10日には残る少年4人とコーチ。
次回は、この救出システムが実際の3日間でどのように動き、13人がどの順序で洞窟から出されたのかを一本の時系列として追う。
CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集
今回出てきた言葉
【全身麻酔】
意識を消失させ、外部からの呼びかけなどへ反応しない状態を作る麻酔。タムルアンでは少年たちを単なる軽い鎮静ではなく、無意識の状態にして搬送した。
【ケタミン】
麻酔などに用いられる薬剤。筋肉注射が可能で、自発呼吸や循環を比較的維持しやすい特徴があり、通常の麻酔設備を使用できないタムルアンの条件で中心薬剤として選択された。
【アルプラゾラム】
ベンゾジアゼピン系薬剤。救出前に0.5mgが経口投与され、不安軽減などに用いられた。
【アトロピン】
タムルアンではケタミンによる唾液分泌増加を抑える目的で使用された。救出参加医師らの報告では20µg/kgを筋肉注射した。
【Interspiro Divator】
タムルアン救出で少年たちに使用されたフルフェイスマスク。オープンサーキット式ではマスク内部を外部より陽圧に維持する機能があり、水の侵入を抑える方向に働く。
【陽圧】
内部の圧力が周囲より高い状態。フルフェイスマスク内部を陽圧に保つことで、小さな隙間から水が内側へ入り込みにくくする効果が期待される。
【自発呼吸】
人工呼吸器などによらず、本人自身の呼吸運動によって行う呼吸。タムルアンでは麻酔された少年が自発呼吸を維持することが救出成立の重要な条件だった。
【ABC+H】
Airway(気道)、Breathing(呼吸)、Circulation(循環)にHypothermia(低体温)を加えた救出後の医療管理。初日の経験を踏まえて低体温対策が強化された。
【低体温症】
深部体温が低下した状態。タムルアンでは長時間の水中搬送による体温低下が確認され、救出後の重要な治療対象となった。
出典・参考資料
-
Lawthaweesawat C, Harris R, Isara W, Pongpirul K.,
“Prehospital Care of the 13 Hypothermic, Anesthetized Patients in the Thailand Cave Rescue,”
New England Journal of Medicine,
2019;380:1372–1373.
New England Journal of Medicine
-
van Waart H, Harris RJ, Gant N, Vrijdag XCE, et al.,
“Deep anaesthesia: The Thailand cave rescue and its implications for management of the unconscious diver underwater,”
Diving and Hyperbaric Medicine,
2020;50(2):121–129.
PubMed Central
-
Australian Government, Emergency Management Australia,
“Thai Cave Rescue Symposium 2018 – Symposium Report.”
Australian Government
-
Devereaux J, Gauntlett-Gilbert J.,
“The Thailand Cave Rescue: General Anaesthesia in Unique Circumstances Presents Ethical Challenges for the Rescue Team,”
Journal of Bioethical Inquiry,
2022.
PubMed Central
本記事では、一般報道で多用された「鎮静」という表現をそのまま採用せず、救出参加者を著者に含む医学論文の記述を優先した。2020年のDiving and Hyperbaric Medicine論文は、少年たちが眠り、声へ反応せず、目的のある動きを示さなかったため「anaesthetised」という表現を意図的に使用したと説明している。同論文を基準に、アルプラゾラム0.5mg、アトロピン20µg/kg、初回ケタミン5mg/kg、酸素80%・窒素20%の呼吸ガス、搬送中3~4回のケタミン追加投与などを記載した。ただし、これらは2018年タムルアン救出という特殊な災害医療環境で採用されたプロトコルであり、一般的な麻酔・潜水救助の標準手順を示すものではない。また13人全員の個別総投与量が公開資料で完全に一覧化されているとは確認できないため、「全員へ同じ量を使用した」とはしていない。2019年NEJM報告で最初の4人のケタミン投与量が現場病院側には不明だったことも、この資料上の限界として扱った。