2014年3月8日午前2時22分12秒。MH370に関連づけられた最後の一次レーダー位置が、マラッカ海峡北西側のMEKAR付近で記録された。
その約3分後、午前2時25分27秒。今度は航空機のSATCOM端末がInmarsat衛星ネットワークへログオン要求を送った。その後、03:41、04:41、05:41、06:41、08:11と自動的な通信確認が続き、08:19には最後のログオン系列が記録された。[1][2]
これらの信号には、GPSの緯度・経度が入っていたわけではない。乗員が「現在位置」を送ったわけでもない。残っていたのは、本来は衛星通信ネットワークを維持するための技術的なメタデータだった。
それでも解析チームは、そこからMH370と衛星との距離を推定し、さらに機体と衛星の相対運動を調べた。その中心になったのがBTO(Burst Timing Offset)とBFO(Burst Frequency Offset)である。
BTOから得られたのは「機体はこの線上のどこかにいた」という距離制約。BFOから得られたのは「その候補経路が、記録された周波数変化とどれだけ整合するか」という運動の手掛かりだった。この二つを組み合わせた結果、捜索の焦点は北側ではなく南インド洋へ移っていった。[3][2]
第5回では、「衛星のpingで場所が分かった」という一般的な説明を一段深く掘り下げる。BTOとBFOは何を測っていたのか。なぜ点ではなく「アーク」になるのか。そして第7アークが、なぜMH370捜索の基準線になったのかを整理する。
CASE FILE 16|MH370便失踪特集(全10回)
- 第1回|MH370便失踪とは?|239人を乗せたボーイング777が消えた事件を追う
- 第2回|MH370最後の交信|クアラルンプール離陸から二次レーダー消失まで
- 第3回|ACARSとトランスポンダはなぜ途絶えたのか|MH370の通信・監視システムを読む
- 第4回|MH370はどこへ向かったのか|軍用レーダーが捉えた引き返しとマラッカ海峡
- 第5回|現在の記事:Inmarsat衛星データは何を示したのか|BTO・BFOと「第7アーク」
- 第6回|なぜ捜索海域は南インド洋へ移ったのか|2014〜2018年のMH370捜索
- 第7回|漂着残骸はMH370のものなのか|レユニオン島のフラペロンとインド洋の物証
- 第8回|MH370公式調査は何を結論づけたのか|2018年報告書で確定したこと・分からないこと
- 第9回|MH370の仮説はどこまで証拠があるのか|操縦者関与・火災・低酸素・ハイジャック・陰謀論
- 第10回|2026年現在、MH370はどこまで分かっているのか|Ocean Infinity再捜索と残された未解明点
この記事で分かること
- MH370の「衛星ping」がGPS位置情報ではなかったこと
- BTOから航空機と衛星の距離を推定できる仕組み
- なぜ一つのBTO値から「点」ではなくリング/アークができるのか
- BFOが機体と衛星の相対運動を調べる手掛かりになる理由
- BFO解析が北側経路より南側経路と整合した理由
- レーダー最終位置と7回のSATCOM通信をどうつないだのか
- 08:19の通信から作られた「第7アーク」の意味
- 第7アークが墜落地点そのものではない理由
先に結論|BTOは「距離」、BFOは「動き」を制約した
MH370の衛星解析を最も単純化すると、役割は次のように分けられる。
| データ | 何を表すか | 何が分かるか | 単独では分からないこと |
|---|---|---|---|
| BTO | 衛星通信の往復時間に関係する時間差 | 衛星から航空機までのおおよその距離 | リング上のどの位置にいたか |
| BFO | 受信周波数と基準周波数との差 | 衛星と航空機の相対運動に関する制約 | 一意の緯度・経度や航路 |
| レーダー | 失踪初期の実位置・航跡 | MEKAR付近までの飛行経路 | 02:22以降の直接位置 |
| 機体性能・燃料 | 飛行可能距離・速度の制約 | 物理的に成立しない候補経路を除外 | 実際に選ばれた航路 |
つまり、BTOとBFOだけから「MH370はここに墜落した」という一点が計算されたわけではない。
BTOで候補位置を線へ絞り、BFOで候補経路を評価し、レーダー・航空機性能・燃料・気象などを重ねる。その結果として「南インド洋の第7アーク付近」が主要捜索対象になった。[1]
そもそも「衛星ping」とは何だったのか
MH370をめぐる報道では、Inmarsat衛星との通信が「ping」と呼ばれることが多い。しかし、これはレーダーのpingでも、GPS追跡装置から送られた現在位置でもない。
MH370のBoeing 777に搭載されていたSATCOM端末は、Inmarsat Classic Aeroシステムを利用していた。一定時間データ通信がないと、地上局は航空機端末がまだネットワーク上に存在するかを確認するため、Log-on Interrogationと呼ばれる問い合わせを送る。航空機側が応答すると、その通信記録が地上局に残る。[2]
MH370では、航空管制や一次レーダーによる直接追跡が失われた後も、このネットワーク管理用通信が続いた。
| マレーシア時間 | UTC | 主なSATCOM記録 |
|---|---|---|
| 02:25 | 18:25 | SDUからログオン要求 |
| 03:41 | 19:41 | 自動ハンドシェイク |
| 04:41 | 20:41 | 自動ハンドシェイク |
| 05:41 | 21:41 | 自動ハンドシェイク |
| 06:41 | 22:41 | 自動ハンドシェイク |
| 08:11 | 00:11 | 自動ハンドシェイク |
| 08:19 | 00:19 | 機上SDUから最後のログオン系列 |
ATSBは、最後の一次レーダーデータ喪失後に7回のハンドシェイクがあったと整理している。これらの通信ごとにBTOとBFOが地上局ログへ記録されていた。[1]
FACT CHECK|InmarsatはMH370のGPS位置を受信していた?
受信していたわけではない。捜索に使われた主要データは衛星通信のBTOとBFOというメタデータで、緯度・経度を直接送信した位置通報ではない。Inmarsat自身の研究論文も、単一の通信衛星と少数のデータ点から後から開発・精緻化した解析手法によって概略航跡を推定したと説明している。[2]
BTOとは何か|信号の「往復時間」から距離を測る
BTOはBurst Timing Offsetの略である。
ATSBの説明では、地上局から衛星、衛星から航空機へ信号が届き、航空機側から再び衛星を経由して地上局へ戻るまでの通信時間に関連する値である。この時間差から、衛星と航空機の間の距離を計算できる。[3]
考え方そのものはレーダー測距に近い。電波はほぼ光速で進むため、送受信に必要だった時間が分かれば、通信経路の長さを逆算できる。
ただし、Inmarsatシステムはもともと航空機を精密測位するための装置ではない。通信スロットのタイミング管理に使う値を、事故後に位置推定へ応用した。そのため、装置内部の固定遅延や地上局・衛星側の処理時間などを補正しなければ、単純な「時間×光速」では距離を出せない。[2]
解析チームは、MH370がまだ位置の分かっていた飛行初期のデータや、他のBoeing 777便などを利用してモデルを検証した。ATSBは最終的にBTOから得られる位置線の許容幅をおおむね±10kmと評価している。[3]
なぜ「距離」が分かっても場所は一点にならないのか
ここが第7アークを理解する第一のポイントである。
衛星から航空機までの距離が分かっても、その距離だけでは航空機の方向は分からない。
たとえば「東京駅から100kmの場所にいる」とだけ言われても、北に100kmなのか、西に100kmなのかは分からない。同じ距離にある地点をすべて結ぶと、東京駅を中心とした円になる。
衛星通信も概念的には同じで、BTOから得られる「衛星との一定距離」という条件を地球表面上へ投影すると、航空機が存在し得る位置は一本のリング状の線になる。[1]
ただし実際には、航空機の最高速度、直前のレーダー位置、前回の通信から経過した時間などを考慮すると、そのリング全周へ到達できるわけではない。物理的に到達不可能な部分を除外すると、候補はリングの一部分――つまり「アーク」になる。
このため、各SATCOM通信時刻にはそれぞれ対応する位置アークが存在する。
BTOだけでは「北か南か」を決められなかった
BTO解析によって、MH370がそれぞれの時刻に存在し得る距離線は描けた。しかし、それだけでは問題が残った。
同じ距離条件を満たす場所は、インド洋の南側にも、アジア大陸方向の北側にも存在し得たからである。
Inmarsatの研究論文では、初期のBTO解析から非常に広い候補経路が残り、北側と南側をBTOだけで識別することはできなかったと説明されている。極端に言えば、中国、ベトナム、ボルネオ、インドネシア方向へ回り込む経路さえ、距離条件だけなら候補として残り得た。[2]
そこで使われたのがBFOだった。
BFOとは何か|受信周波数の「ずれ」を読む
BFOはBurst Frequency Offsetの略で、地上局が予想していた受信周波数と、実際に受信した周波数との差を表す。
その差には、航空機と衛星の相対運動によるドップラー効果、衛星自身の移動、機上装置のドップラー補正、地上局側の周波数補正、機器固有のバイアスなど複数の要因が含まれる。[1][2]
したがってBFOは、「値がプラスだから南へ飛んでいる」といった単純な方向計ではない。
解析では逆の手順を取る。
まず「この位置を、この速度・方位で飛んでいた」と仮定する。次に、その飛行条件なら衛星通信の受信周波数がどれだけずれるはずかを計算する。その予測値と、実際に記録されたBFOを比較する。誤差が小さい候補経路ほど、実際のMH370の飛行に近い可能性が高くなる。[2]
| 解析 | 入力 | 出力 |
|---|---|---|
| BTO解析 | 実測した通信タイミング | 衛星からの距離 → 位置アーク |
| BFO解析 | 仮定した位置・速度・方位+衛星運動 | 予測周波数偏差 |
| 候補経路評価 | 予測BFOと実測BFO | どの経路がデータにより整合するか |
「静止衛星」なのに、なぜドップラー効果が使えたのか
Inmarsat 3F1はインド洋上空の静止系通信衛星として運用されていた。しかし「静止衛星」という名称は、地球から見て完全に一点で停止しているという意味ではない。
実際の衛星には軌道のわずかな傾きや位置変動があり、MH370の捜索時にも衛星自身の速度・位置は正確に把握されていた。さらに航空機側のSATCOM装置はドップラー効果を補正する機能を持っていたが、その計算では衛星が理想的な静止位置にあるという前提を使っていた。実際の衛星運動との差が、解析可能な周波数情報として残った。[2]
この特性は、本来MH370を追跡するために設計されたものではない。通信システムに残った副次的な誤差を、逆に位置・運動推定へ利用したのである。
BFOが南側経路を支持した
BTOだけからは北側経路と南側経路の双方が残った。
そこでInmarsatは、それぞれの仮想経路を航空機が飛んだ場合に生じるBFOを計算し、実測値と比較した。その結果、18:30 UTC以降の実測BFOは、北側よりも南側へ飛行する経路のパターンに明らかに近かった。[2]
このモデルは、位置と速度が既知だったMH370自身の事故前データや、同時間帯に飛行していた別の航空機のデータでも検証された。Inmarsatの論文では、既知の飛行経路から予測したBFOと実測BFOが良好に一致したと報告されている。[2]
ここで重要なのは、BFOが「南緯○度、東経○度」と墜落地点を直接出したわけではないことだ。
BFOは、多数の候補経路の中で「どれが通信記録と整合するか」を比較する材料だった。その結果、北方へ伸びる候補より、インド洋を南へ進む候補の方が強く支持された。
FACT CHECK|BFOだけで「南インド洋への飛行」が証明された?
BFOは南側経路を強く支持した重要な証拠だが、単独で飛行経路を一意に確定したわけではない。実際の解析ではBTOアーク、最後のレーダー位置、航空機の速度・性能、気象、燃料、衛星・地上局の特性などを合わせ、多数の候補経路を確率的に評価している。[1]
7本のアーク|飛行機は「線のどこか」を通過していた
最後の一次レーダー記録後、SATCOM通信から得られたBTOによって7本の位置線が作られた。
これは7回の通信ごとに、「その時刻に航空機は、このアーク上のどこかにいた」という制約が増えていったことを意味する。
一つのアークだけなら候補は非常に広い。しかし、
02:25のアーク上のどこかにいて、約1時間後には03:41のアークへ到達し、その1時間後には04:41のアークへ到達する――という条件を連続させると、航空機の速度性能を超える経路や、不自然な経路を排除できる。
さらに各時刻のBFOが、その経路で予測される周波数偏差と整合するかを調べる。
このようにして、衛星通信は「一つの測定で場所を当てる」のではなく、複数時刻の距離制約と運動制約を積み重ねることで飛行経路候補を削るために使われた。
第7アークとは何か|08:19の最後の衛星通信から作られた位置線
MH370捜索で最も重要な言葉の一つが「第7アーク」である。
08:19(UTC 00:19)、MH370のSDUから予期されていなかったログオン要求が送信された。これは最後に記録された一連のSATCOM通信であり、そのBTOから得られた位置線が第7アークと呼ばれる。[1]
ATSBは第7アークを、この最終衛星通信時点で航空機が存在し得た、Inmarsat衛星から等距離となる位置の弧として説明している。[4]
位置関係は、ATSBが公開している第7アークの公式図を見ると分かりやすい。

ATSBが公開したMH370の「7th arc」図。白線が第7アークで、オーストラリア西方の南インド洋を南北に延びる。これは墜落地点そのものを示す線ではなく、最後のSATCOM通信時点の位置制約を基準にした捜索計画図である。Source: Australian Transport Safety Bureau / CC BY 4.0.
つまり、第7アークは「墜落地点を結んだ線」ではない。
第7アークが示すのは、08:19頃に機体がこの位置線のどこかにいた可能性が高いということである。その後どれだけ飛行したのか、どの方向へ降下したのかによって、実際の海面衝突地点はアークからずれる可能性がある。
FACT CHECK|第7アーク=墜落地点?
同義ではない。第7アークは、最後のSATCOM通信のBTOから計算された「可能位置線」である。ただし、08:19の通信が燃料枯渇付近の電源変化と整合し、機体がその後長時間飛行した可能性は低いと評価されたため、第7アーク周辺が海底捜索の中心基準になった。[1]
なぜ08:19のログオンが特別なのか
通常、SATCOM端末がすでにネットワークへ接続され続けているなら、突然改めてログオン要求を行う必要はない。
ATSBは08:19のログオンについて、SDUへの電力供給が一度途絶え、その後復帰したときの挙動と整合すると評価した。さらに、燃料残量とBoeing 777の燃料系統・電源系統を組み合わせると、両エンジンの燃料枯渇に続いてAPUが自動始動し、SATCOM系統へ一時的に電力が戻ったシナリオが有力な説明の一つとなった。[1]
ここも言葉を慎重に使う必要がある。
「08:19に燃料切れが起きたことが直接記録された」わけではない。記録されたのはSATCOMのログオン要求であり、その発生メカニズムを機体システムと燃料計算から分析すると、燃料枯渇後の電源復帰と整合する、という関係である。
この解釈が、第7アークを単なる「7本目の位置線」ではなく、終末飛行に近い位置線として扱う理由になった。
最後のBFOは「降下」を示したのか
08:19の最後のログオン系列には、もう一つ重要な特徴があった。
ATSBが公表した分析では、00:19:29 UTCのBFOは182Hz、その8秒後の00:19:37には-2Hzだった。それ以前のBFO傾向から予想される値と大きく異なり、航空機に大きな鉛直速度があった場合と整合することが検討された。ATSBはこのデータを、終末時に機体が降下していた可能性を評価する材料として使用している。[4]
ただし、この値から「機体がこの姿勢で、この角度で海面へ突入した」とまでは分からない。
BFOには測定誤差、衛星・機上装置・地上局の周波数変動、機体の進行方向など複数の要素が影響する。ATSB自身も、最後のBFOから求める降下率を近似的な指標として扱っている。[4]
「南インド洋」は一点ではなく、巨大な候補帯だった
衛星解析によって南側経路が優勢になっても、捜索範囲はすぐに小さくなったわけではない。
第7アーク自体が非常に長く、そのどこを横切ったかを決める必要があった。さらに航空機がどの速度・高度で飛んだか、どの時点で南へ旋回したか、自動操縦がどのモードだったか、風がどう影響したかによって最終位置は変化する。
そのため、ATSBやオーストラリア国防科学技術グループ(DST Group)、Boeing、Inmarsatなどは、多数の飛行経路をシミュレーションし、BTOとBFOの両方へどれだけ適合するかを確率的に評価した。ATSBは、SATCOMモデルをMH370自身の過去の飛行や他のB777データで較正し、航空機運動モデルや気象データも組み合わせたと説明している。[5]
その結果、捜索は「第7アーク全域」ではなく、南インド洋の特定緯度帯とアーク周辺へ重点化されていった。
衛星データから確実に言えること/言えないこと
| 論点 | 評価 | 理由 |
|---|---|---|
| レーダー消失後も数時間、SATCOM端末が通信した | FACT | Inmarsat地上局ログに複数の通信記録 |
| BTOから衛星との距離を推定できる | FACT | 既知位置データで検証された解析手法 |
| BTO単独で緯度・経度が分かる | 誤り | 得られるのは距離に対応する位置線 |
| BFOは南側経路を強く支持した | FACT | 北・南候補の予測値と実測BFOを比較 |
| BFOから一意の飛行経路を求められる | 誤り | 複数の速度・方位が同じBFOと整合し得る |
| 08:19の位置線が第7アーク | FACT | 最後のSATCOMログオン系列のBTOに基づく |
| 第7アーク上に必ず墜落した | 未確定 | 最終通信後の飛行・降下距離が存在し得る |
| 08:19のログオンは燃料枯渇後の電源復帰と整合する | LIKELY | SDU挙動・燃料計算・B777電源系統の分析 |
| 衛星データから失踪原因が分かる | 不可能 | 通信メタデータは操縦室内の出来事を記録していない |
この解析が画期的だった理由
MH370以前、Inmarsat Classic AeroのBTOとBFOは航空事故調査用の位置追跡システムとして設計されていなかった。
BTOは通信スロットのタイミング管理、BFOは通信周波数の差として地上局側に記録されていた技術値である。Inmarsatの技術者たちは、それまで航空機追跡の主役ではなかったこれらの記録を使い、単一衛星との通信だけから飛行経路を逆算した。[2]
一方で、それはGPSやレーダーの代替になる万能な追跡技術ではなかった。
「ある時刻にどの距離線上にいたか」「どの候補経路が周波数変化と整合するか」までしか分からない。だからこそ、解析結果には幅が残り、広大な海底を実際に捜索しなければならなかった。
MH370の衛星解析は、非常に弱い情報から巨大な候補空間を削ることには成功したが、機体位置を一点に決めることには成功していない。この二面性を理解することが重要である。
まとめ|第7アークは「答え」ではなく、捜索を可能にした基準線だった
MH370の位置情報がレーダーから失われた後も、Inmarsat地上局にはSATCOM端末との自動通信記録が残った。
BTOは通信の時間差から衛星と航空機の距離を推定し、各時刻の候補位置をリング/アークとして示した。BFOは受信周波数のずれから候補経路の相対運動を評価し、北側より南側へ飛行した経路が実測データと強く整合することを示した。
そして08:19の最後のSATCOM通信から作られた位置線が、第7アークである。
ただし、第7アークは墜落地点ではない。そこは「最後の通信時点で機体が存在し得た場所」という幾何学的な制約線であり、実際の捜索海域は、さらにBFO、燃料、航空機性能、終末飛行解析などを重ねて決められた。
この解析によって、捜索側は「世界のどこへ行ったか分からない」という状態から、南インド洋という具体的な海域へ進むことができた。
しかし、そこから先には別の問題が待っていた。対象は都市でも陸地でもなく、数千メートルの深さを持つ広大な海底だった。
次の第6回では、衛星解析から決められた南インド洋の候補海域を、実際にどのように捜索したのかを追う。海面捜索、海底地形測量、曳航ソナー、AUV、そして2018年のOcean Infinityまで――「場所を絞れたのに、なぜ見つからなかったのか」を整理する。
CASE FILE 16|全10回
- 第1回|MH370便失踪とは?|239人を乗せたボーイング777が消えた事件を追う
- 第2回|MH370最後の交信|クアラルンプール離陸から二次レーダー消失まで
- 第3回|ACARSとトランスポンダはなぜ途絶えたのか|MH370の通信・監視システムを読む
- 第4回|MH370はどこへ向かったのか|軍用レーダーが捉えた引き返しとマラッカ海峡
- 第5回|現在の記事:Inmarsat衛星データは何を示したのか|BTO・BFOと「第7アーク」
- 第6回|なぜ捜索海域は南インド洋へ移ったのか|2014〜2018年のMH370捜索
- 第7回|漂着残骸はMH370のものなのか|レユニオン島のフラペロンとインド洋の物証
- 第8回|MH370公式調査は何を結論づけたのか|2018年報告書で確定したこと・分からないこと
- 第9回|MH370の仮説はどこまで証拠があるのか|操縦者関与・火災・低酸素・ハイジャック・陰謀論
- 第10回|2026年現在、MH370はどこまで分かっているのか|Ocean Infinity再捜索と残された未解明点
今回出てきた言葉
- Inmarsat
- 国際的な衛星通信事業者。MH370ではインド洋地域を担当する衛星と航空機SATCOM端末の通信記録が、失踪後の飛行経路解析に使われた。
- BTO(Burst Timing Offset)
- 衛星通信のタイミング差を示す値。地上局―衛星―航空機間の通信距離と関係し、衛星から航空機までの距離を推定するために使われた。
- BFO(Burst Frequency Offset)
- 地上局が受信した信号周波数と基準周波数との差。航空機・衛星の相対運動、ドップラー効果、機器補正などが含まれ、候補飛行経路を評価する材料になった。
- ドップラー効果
- 送信源と受信側の相対運動によって観測される周波数が変化する現象。MH370ではBFO解析の主要要素の一つ。
- アーク
- BTOから得られた「衛星から一定距離にある可能位置」のうち、航空機性能や時間条件を考慮して到達可能な部分を残した位置線。
- 第7アーク
- 08:19(UTC 00:19)の最後のSATCOM通信に対応する位置アーク。MH370海底捜索の基準線になった。
- IOR衛星
- Indian Ocean Regionを担当するInmarsat衛星。MH370のSATCOM端末はこの衛星を経由して地上局と通信した。
- GES
- Ground Earth Station。衛星と通信する地上局。MH370関連のSATCOM信号はInmarsat地上局側に記録され、BTO・BFO解析へ使われた。
出典・参考資料
-
Australian Transport Safety Bureau, Considerations on defining the search area – MH370.
BTO・BFOの基本定義、BTOリング/アークの作り方、7回のハンドシェイク、第7アーク、00:19ログオンと終末飛行の考え方を確認するため使用。
ATSB公式解説を開く -
Chris Ashton, Alan Shuster Bruce, Gary Colledge, Mark Dickinson, “The Search for MH370,” The Journal of Navigation, 2015.
Inmarsat技術者による査読論文。Classic Aeroシステム、BTO・BFOの計算思想、北/南経路比較、BFOモデルの検証、衛星運動と周波数補正の詳細確認に使用。
Cambridge University Pressで論文を開く -
Australian Transport Safety Bureau, MH370: Burst Timing Offset (BTO) Characteristics.
BTOが通信往復時間から衛星―航空機間距離を推定する値であること、位置線の精度評価、システムが本来測位用ではなかったことを確認するため使用。
ATSB公式BTO解説を開く -
Australian Transport Safety Bureau, Investigation AE-2014-054 / MH370 search and debris examination updates.
第7アークの定義、BFO解析、00:19の最終通信、最後のBFO値と終末降下解析、検索優先海域の検討を確認するため使用。
ATSB MH370調査ページを開く -
Australian Transport Safety Bureau, MH370 – Search Area.
DST GroupがSATCOMモデル、航空機運動モデル、気象、過去のB777飛行データを組み合わせ、確率分布として候補海域を評価したことの確認に使用。
ATSB公式Search Area解説を開く
本文中のSATCOM時刻は特記しない限りマレーシア時間(MYT/UTC+8)で表記し、技術資料で使われるUTCも必要箇所で併記した。BTO・BFOはGPS位置情報ではなく、衛星通信メタデータから位置・運動条件を間接的に推定するための値である。本記事では「第7アーク=墜落地点」「BFO単独で飛行経路が確定した」といった単純化を避け、ATSBおよびInmarsat技術者の公開資料が示す測定値・解析・推定を分離した。また、00:19ログオンと燃料枯渇の関係は直接観測された事実ではなく、SDU電源挙動・燃料計算・機体システムから導かれた有力な解釈として扱った。