10月3日の夜、
モガディシュ市内には約100人のTask Force Ranger要員が取り残されていた。
第1墜落地点では、
Super 61の残骸を囲むようにレンジャー、デルタ、CSAR要員らが防御を続けている。
負傷者がいる。
弾薬と水にも限りがある。
墜落機内部には、
まだ回収できていない搭乗員が残っている。
そして、第2墜落地点のSuper 64はすでに制圧され、
マイケル・デュラントは捕虜となっていた。
Task Force Ranger単独による救援車列も、
第10山岳師団のQuick Reaction Forceも、
昼間のうちには墜落地点へ突破できなかった。
そこで夜になって組織されたのが、
米軍だけでは完結しない救援部隊だった。
米陸軍第10山岳師団の歩兵。
マレーシア軍の装甲兵員輸送車。
パキスタン軍の戦車。
そして米軍のヘリコプター。
それまで一緒に訓練したことすらほとんどなかった部隊を、
数時間のうちに一つの車列へまとめる。
目的は一つだった。
夜のモガディシュへ再び入り、取り残された部隊を連れ戻す。
第8回では、
なぜこの多国籍救援部隊が必要になったのか、
どのように編成され、
どのように第1墜落地点まで突破したのかを追う。
CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)
この特集では、
Operation Gothic Serpentと1993年10月3~4日の
モガディシュ市街戦を中心に追う。
第7回までに、
二機のBlack Hawk墜落とTask Force Rangerの分断を見てきた。
第8回は、
その状況を外側から解決するために組織された
多国籍救援部隊を扱う。
救援部隊到着後の撤収と
「モガディシュ・マイル」については第9回で続ける。
-
第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日
-
第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent
-
第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計
-
第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで
-
第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間
-
第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱
-
第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点
- 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊【現在の記事】
-
第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか
-
第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実
先に結論|救出には「装甲」が必要になった
10月3日午後のTask Force Rangerは、
ヘリコプターとハンヴィー、5トントラックを中心とする
高速な襲撃部隊だった。
しかし戦闘が長期化すると、
その強みだった軽さが別の問題を生んだ。
市内には道路封鎖がある。
交差点や建物から小火器が撃たれる。
RPGによって車両やヘリコプターが攻撃される。
さらに大量の負傷者を
市街地から運び出さなければならない。
昼間に投入された軽車両中心の救援部隊は、
こうした環境で繰り返し阻止された。
そこで必要になったのが、
攻撃を受けながら歩兵と負傷者を運べる装甲車両だった。
しかし、米軍のQRFには
その夜すぐ使用できる十分な戦車・装甲兵員輸送車がなかった。
車両を持っていたのは、
UNOSOM IIに参加していた
マレーシア軍とパキスタン軍だった。
第10山岳師団QRFも、最初の救出には失敗していた
Task Force Rangerとは別に、
モガディシュには米陸軍第10山岳師団を中心とする
Quick Reaction Force――QRFが存在していた。
中心となった地上部隊は、
第2大隊第14歩兵連隊、
通称「Golden Dragons」だった。
Super 61とSuper 64の墜落を受け、
QRFも救援へ動いた。
しかし最初の試みは成功しなかった。
C Companyを中心とする部隊は、
第2墜落地点へ向かう途中、
K-4 Circle付近で激しい射撃を受けた。
米陸軍公式戦史では、
指揮官William C. David中佐は
小規模で火力の不足した部隊をこれ以上前進させず、
空港へ戻して再編成する判断をしたとされる。
つまり、
夜間救援車列が組織される前に、
米軍通常部隊による救援も一度は阻止されていた。
必要なのは、ハンヴィーを増やすことではなかった
昼間の経験から明らかになったのは、
単純に車両数を増やして再突入すればよいわけではないことだった。
必要だったのは、
道路封鎖とRPGの中を進める車両だった。
第10山岳師団のQRF指揮官たちは、
本格的な装甲を備えた救援部隊を必要としていた。
だが、その装甲戦力を
米軍だけでは用意できない。
そこでUNOSOM IIの他国部隊へ協力が求められた。
パキスタン軍には戦車があった
パキスタン軍は、
UNOSOM IIでモガディシュの治安任務を担っていた主要部隊の一つだった。
9月以前から、
市内で道路封鎖撤去や武装勢力との戦闘を経験している。
そして米軍側にはない、
戦車部隊を現地に持っていた。
夜間救援作戦では、
パキスタン軍の戦車小隊が加わった。
米陸軍公式戦史は、
後に編成された救援車列について
パキスタン戦車が先頭を進んだと記録している。
役割は単なる輸送ではない。
道路封鎖を突破し、
攻撃を受けた場合に強力な火力で応戦し、
後続する装甲兵員輸送車と歩兵の進路を確保する。
救援車列の先頭には、
それまでのTask Force Ranger車列とは
まったく違う種類の車両が置かれた。
マレーシア軍にはCondor装甲兵員輸送車があった
もう一つ重要だったのが、
マレーシア軍MALBATTだった。
マレーシア陸軍の公式記録によれば、
19th Royal Malay Regimentを中心とする部隊が
1993年6月からUNOSOM IIの一員としてモガディシュへ展開していた。
その部隊が運用していたのが、
Condor装甲兵員輸送車だった。
夜間救援作戦では、
マレーシア軍の二個中隊から
装甲兵員輸送車が提供された。
そして車両だけが貸し出されたのではない。
マレーシア側の乗員が車両を操縦し、
実際に敵対地域へ進入した。
その内部には、
第10山岳師団の米兵が乗り込んだ。
つまり、
マレーシア軍が車両を動かし、
米軍歩兵を戦闘地域へ運ぶ
という編成だった。
FACT CHECK|マレーシア軍は「装甲車を貸しただけ」だったのか
違う。
米陸軍の戦史は
「Malaysian armored personnel carriers」と記述しているが、
マレーシア陸軍側の記録を見ると、
MALBATT要員自身が車両を運転・運用して救出MISSIONへ参加している。
実際、
Condor装甲車を運転していたMat Aznan Awangは
救出作戦中の攻撃で戦死している。
したがってマレーシア軍を
「米軍へ車両だけ貸し出した部隊」と表現するのは不正確である。
それまで一緒に訓練していなかった部隊を、その夜に統合する
ただし、
車両が見つかればすぐ出発できるわけではなかった。
第10山岳師団、
マレーシア軍、
パキスタン軍は、
Task Force Ranger救出を想定した統合訓練を
事前に行っていた部隊ではない。
米陸軍の回顧記録では、
第2大隊第14歩兵連隊は
マレーシア・パキスタン部隊と
それまで一度も共同訓練をしていなかったとされている。
通信方法。
車列の順序。
誰がどの部隊を運ぶのか。
どの道路を使うのか。
第1墜落地点と第2墜落地点のどちらへ向かうのか。
攻撃を受けたとき誰がどう動くのか。
これらを夜の数時間で調整しなければならなかった。
なぜ出発まで何時間もかかったのか
Super 61が墜落したのは16時20分ごろだった。
それに対し、
大規模救援部隊が市街地へ出るのは夜遅くになってからである。
この時間差だけを見ると、
「救出部隊の編成が遅すぎた」と感じる。
しかし米陸軍Center of Military Historyは、
この時間を単なる遅延とは評価していない。
パキスタンとマレーシアから戦車・装甲車を集め、
計画を説明し、
第10山岳師団の部隊と統合する必要があった。
公式戦史は、
この調整時間は複雑な多国籍作戦にとって不可欠だった
と明記している。
昼間のように急いで小規模車列を再投入し、
再びK-4 Circleで阻止されれば意味がない。
次の一回は、
墜落地点まで突破できなければならなかった。
FACT CHECK|マレーシア・パキスタン部隊が協力を渋ったから遅れたのか
この点は資料によって語り方が異なるため注意が必要である。
米陸軍公式戦史が強調しているのは、
多国籍部隊へ計画を説明し、
部隊を一つの作戦へ統合するための時間だった。
少なくとも
「マレーシア軍やパキスタン軍が救出を拒否したため数時間失われた」
と単純に説明できる公的根拠はない。
実際には両国部隊とも救援車列に参加し、
敵対地域の内部まで進入している。
救援部隊はNew Port地区へ集められた
救援部隊は、
最初に空港周辺で準備され、
その後New Port地区へ集結していった。
ここで各国部隊と車両を組み合わせる。
現在の地理では、救援車列の集結地点として公式戦史に記録される「New Port area」の大まかな位置関係を、現在のモガディシュ港を基準に確認できる。
現在のモガディシュ港。1993年の米陸軍公式戦史が救援車列の集結地点として記す「New Port area」の都市内での大まかな位置関係を確認するための地図であり、当時の正確な集結地点・道路網・進攻経路を示すものではない。
米陸軍公式戦史では、
最終的な車列は
60両を超える規模になったとされている。
正確な車両数については資料差がある。
しかし少なくとも、
Task Force Rangerが昼間に使用した
12両規模の地上車列とは
まったく異なる規模だったことは明らかである。
| 要素 | 主な役割 |
|---|---|
| 第10山岳師団 2-14 Infantry | 救出地点への地上戦闘・現場確保 |
| パキスタン軍 | 戦車による車列先導・重装甲・火力 |
| マレーシア軍 | Condor装甲兵員輸送車による兵員・負傷者輸送 |
| 米軍航空部隊 | 航空偵察・指揮統制・火力支援 |
| Task Force Ranger残存要員 | 救援・連絡・特殊作戦支援 |
正確な「何両だったか」は資料によって違う
救援車列については、
資料によって車両数に違いがある。
米陸軍Center of Military Historyは、
詳細な内訳を固定せず
「60両を超える車列」としている。
一方、別の米軍研究・軍事研究では、
パキスタン軍の戦車4両、
マレーシア軍のCondor装甲兵員輸送車約20~30両規模など、
より詳細な内訳を示すものがある。
このため本記事では、
数字を一つに統合して
「正確に○両だった」と断定しない。
重要なのは、
多数の装甲車両を含む、60両超の多国籍車列になった
という公式戦史で確認できる範囲である。
夜遅く、車列が動き始めた
数時間の準備を経て、
救援車列はNew Port地区を出発した。
後年の米軍タイムラインでは、
23時台に出発したとする記録が多い。
車列の先頭にはパキスタン軍戦車。
その後ろに、
第10山岳師団兵を乗せた
マレーシア軍の装甲兵員輸送車などが続く。
さらに上空では、
AH-1 Cobra攻撃ヘリコプター、
指揮統制用UH-60、
OH-58偵察ヘリコプターなどが支援した。
昼間の救援とは違う。
地上部隊そのものに装甲を与え、
上空の航空部隊と組み合わせた突破部隊になっていた。
パキスタン戦車を先頭にNational Streetへ入る
救援車列はNew Port地区から北へ進み、
National Streetへ入った。
ここから先は、
第6回で地上車列が苦戦した
モガディシュ中心部へ再び入ることになる。
道路封鎖。
RPG。
機関銃・小火器。
夜間。
車列が大きくなったからといって、
これらの問題がなくなるわけではない。
しかし今回は、
先頭に装甲戦力がある。
道路上の障害を突破し、
攻撃を受けても車列全体を前へ押し続けることが
作戦の前提だった。
長い車列は、別の弱点も持っていた
ただし、
車両が多ければ必ず有利というわけでもない。
60両を超える車列では、
先頭と最後尾の距離が長くなる。
交差点を一つ通過するだけでも時間がかかる。
先頭が曲がっても、
後方部隊にはその状況がすぐ見えない。
さらに今回は、
米軍、マレーシア軍、パキスタン軍という
異なる部隊が混在している。
通信系統も完全に共通ではない。
昼間とは違う形で、
航法と指揮の難しさが残っていた。
実際に車列の一部が分離した
National Streetを進行中、
その問題が現実になる。
米陸軍公式戦史では、
第10山岳師団第2小隊の兵士を乗せた
マレーシア軍装甲兵員輸送車2両が、
誤ってNational Streetから南方向へ曲がったと記録している。
本隊は別方向へ進んだ。
結果として、
2両の装甲車と搭乗していた部隊が孤立する。
彼らは直後に待ち伏せを受け、
周囲の建物へ避難して戦闘することになった。
再び、
救援する側の一部が救援を必要とする状態
が発生した。
マレーシア軍にも死傷者が出た
多国籍救援車列は、
安全な輸送任務ではなかった。
マレーシア軍のCondorも
RPGや対戦車兵器による攻撃を受けた。
マレーシア陸軍の公式記録では、
Condor装甲車の運転手だった
Mat Aznan Awangが
救出作戦中の攻撃で戦死している。
同じ攻撃では複数の負傷者も発生した。
つまり、
第8回でいう「多国籍救援」とは、
後方から米兵を迎えに来ただけの任務ではない。
マレーシア部隊自身も
モガディシュの敵対地域へ入り、
攻撃を受けながら前進していた。
FACT CHECK|マレーシア軍の死傷者数には資料差がある
この戦闘のマレーシア軍被害については、
米軍資料間でも数字が一致していない。
米陸軍Center of Military Historyは
3~4日のマレーシア側被害を「2人死亡・7人負傷」と記録している。
一方、別の米軍資料には
「1人死亡・10人負傷」とするものがあり、
マレーシア陸軍の公式記録では
Mat Aznan Awangの戦死と、
彼の車両への攻撃で複数の負傷者が出たことが確認できる。
集計範囲や負傷者の数え方が一致していないため、
本特集では一つの数字へ無理に統合しない。
第10山岳師団兵は装甲車から降り、道路を切り開いた
装甲兵員輸送車があるからといって、
最後まで全員が車内にいられるわけではない。
道路上には障害物がある。
建物や路地から射撃される。
前方の敵を排除しなければ、
車列自体が停止する。
そのため第10山岳師団兵は
必要に応じて装甲車から降り、
徒歩で道路沿いを戦闘しながら前進した。
米陸軍の参加者回顧では、
先頭部隊が障害物を処理し、
激しい射撃の中を一ブロックずつ進んだことが記録されている。
装甲車は、
歩兵の代わりではない。
歩兵が戦える状態で
目的地まで運び、
必要な場所では火力と防御を与えるための道具だった。
A Companyの一部は激しい待ち伏せを受けた
National Street周辺では、
第10山岳師団A Companyの一部が
非常に激しい攻撃を受けた。
米軍部隊は建物へ入り、
そこを一時的な防御拠点として戦闘を続けた。
この中で
PFC James Henry Martin Jr.が戦死している。
また戦闘工兵Cornell Houstonも重傷を負い、
後に死亡した。
つまり救援車列は、
Task Force Rangerを救出するまで
無傷で進んだわけではない。
第10山岳師団側にも
死傷者を出しながらの突破だった。
救援部隊は二つの墜落地点を目指した
車列は一つの場所だけを目指していたわけではない。
第1墜落地点には
約100人規模の米軍部隊が残っている。
しかし第2墜落地点にも
Super 64とその乗員がいるはずだった。
そこで救援部隊は、
状況に応じて複数方向へ分かれた。
第1墜落地点へ向かう主力。
第2墜落地点を捜索する部隊。
途中で孤立した部隊を回収する部隊。
夜間救出MISSIONそのものが、
さらに複数の小MISSIONに分かれていった。
第2墜落地点には、もう誰もいなかった
第10山岳師団A Companyの一部は、
Super 64の第2墜落地点へ到達した。
しかし、そこには
探していた米兵の姿がなかった。
ゴードンとシュガートはすでに戦死し、
デュラントは連れ去られていた。
米軍側はこの時点でも、
デュラントが捕虜として生存していることを
完全には把握できていなかった。
第2墜落地点では、
救出対象そのものがすでに消えていたのである。
01時55分|第1墜落地点へ突破する
一方、主力車列は
National StreetからShalalawi Streetへ進み、
Olympic Hotel付近を通過して
Super 61の第1墜落地点へ向かった。
米陸軍Center of Military Historyによれば、
10月4日01時55分、
マレーシア軍装甲兵員輸送車に乗った
第10山岳師団の「Lightfighters」が
ついに第1墜落地点へ突破した。
Super 61が撃墜された16時20分から、
約9時間半が経過していた。
現場には、
レンジャー、
デルタ、
CSAR要員などが残っていた。
彼らは夕方から夜まで
墜落地点を守り続けていた。
ようやく、
外部からまとまった装甲救援部隊が到達した。
到着しても、すぐ撤収できなかった
ここで戦闘が終わったわけではない。
第1墜落地点には、
まだ重要な作業が残っていた。
Super 61の機体内部に、
死亡した操縦士Cliff Wolcottが残っていた。
墜落時に破壊された機体から
遺体を取り出すことが難しく、
救援部隊到着後も回収作業が続いた。
その間にも、
周囲から小火器や手榴弾による攻撃を受けている。
AH-6 Little Birdや
第10山岳師団側のAH-1 Cobraなどが
上空から火力支援を続けた。
つまり多国籍救援車列は、
到着した瞬間に「迎えに来た車」から、
墜落地点を守る戦闘部隊へ変わった。
なぜ装甲車両が決定的だったのか
この夜の救援を、
「戦車が強かったから成功した」
だけで片づけるのも適切ではない。
重要なのは、
昼間の車列にはできなかった複数の仕事を
装甲車両が可能にしたことだった。
| 昼間の軽車両中心車列 | 夜間の装甲救援車列 |
|---|---|
| 小火器・RPGへの防護が限定的 | 装甲により乗員・歩兵を保護 |
| 負傷者を載せると防御力が低下 | APC内部へ負傷者を収容可能 |
| 道路封鎖で停止すると危険 | 戦車・APCを伴い突破力を向上 |
| 軽車両中心 | 戦車・装甲車・歩兵・航空支援を統合 |
ただし装甲があっても、
車列の一部は孤立し、
死傷者も出た。
装甲車両は無敵だったのではない。
それでも、
夜のモガディシュを突破して多数の負傷者を運び出すために必要な防護力を提供した
ことは大きかった。
FACT CHECK|米軍は事前に戦車を要求していたのか
要求そのものは存在した。
米陸軍公式戦史によれば、
UNOSOM IIの米軍司令部側では8月から
機械化歩兵と戦車部隊の増強が検討され、
9月には戦車小隊を含む機械化部隊の正式要求が出されていた。
この要求は最終的に承認されなかった。
ただし、
これをそのまま
「戦車要求を拒否したためモガディシュの戦闘が起きた」
と一本の因果関係にするのは適切ではない。
10月3日の結果には、
二機のヘリ墜落、市街地構造、道路封鎖、
通信、部隊分散、作戦時間の長期化など
複数の要素が関与している。
映画では見えにくい「多国籍救援」
映画『ブラックホーク・ダウン』では、
物語の中心がTask Force Rangerに置かれているため、
マレーシア軍・パキスタン軍の役割は大きく縮小されている。
しかし史実の10月4日未明を見ると、
米兵が自力だけで市街地から脱出したわけではない。
パキスタン軍戦車が車列へ加わった。
マレーシア軍がCondor装甲兵員輸送車を運転した。
第10山岳師団兵がその車両に乗り、
道路を戦闘しながら前進した。
さらに米軍航空部隊が上空から支援した。
第1墜落地点への突破は、多国籍部隊による共同作戦だった。
この点を外すと、
なぜ昼間には救出できなかったのに
夜中には突破できたのかを説明できなくなる。
救援車列の流れを時系列で整理する
午後から未明までを見ると、
救援が一回の試みではなく、
失敗と再編成を経て成立したことが分かる。
| 時刻・時間帯 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 16時台 | 第10山岳師団QRFが救援へ動く | 米軍通常部隊による初動 |
| 夕方 | K-4 Circle付近などでQRFが阻止される | 軽装備だけでの突破が困難 |
| 夜 | マレーシア・パキスタン部隊へ装甲支援を要請 | 多国籍救援へ転換 |
| 夜 | New Port地区で部隊・車両を統合 | 60両超規模の車列を編成 |
| 23時台 | 救援車列が市街地へ進入 | パキスタン戦車を先頭に前進 |
| 10月4日未明 | 一部部隊が分離・待ち伏せを受ける | 救援側にも死傷者発生 |
| 01:55 | 主力がSuper 61第1墜落地点へ到達 | 包囲された部隊と接続 |
| 夜明けまで | Super 61搭乗員の回収を継続 | 即時撤収はできず |
救出成功の瞬間は「01時55分」ではない
01時55分に救援車列が到着したことで、
包囲された部隊が外部と接続した。
しかし、これを
「01時55分に救出完了」とするのは早い。
まだ負傷者を車両へ乗せなければならない。
Super 61内部から搭乗員を回収しなければならない。
夜明けまで周囲から攻撃も続く。
そして最終的には、
全員を乗せるだけの車両スペースも不足する。
その結果、
歩ける兵士の一部は
装甲車とともに徒歩で市街地を抜けることになる。
ここから先が、
後に「Mogadishu Mile」と呼ばれる撤収である。
まとめ|Task Force Rangerを救ったのは、一つの国の部隊ではなかった
10月3日夕方の段階で、
Task Force Rangerは自力だけで
第1墜落地点から撤収できる状態ではなくなっていた。
米第10山岳師団QRFも
最初の救出では市街地を突破できなかった。
そこで必要になったのが、
パキスタン軍の戦車と
マレーシア軍の装甲兵員輸送車だった。
それまで共同訓練をほとんどしていなかった
米軍・マレーシア軍・パキスタン軍を数時間で統合し、
60両を超える救援車列を組織した。
夜間の市街地で攻撃を受け、
車列の一部が分断され、
救援側にも死傷者を出しながら前進する。
そして10月4日01時55分、
マレーシア軍の装甲兵員輸送車に乗った第10山岳師団部隊が
Super 61の第1墜落地点へ到達した。
したがって、
モガディシュの救出を
「Task Force Rangerが自力で脱出した作戦」
として描くのは正確ではない。
最後の突破を可能にしたのは、
米第10山岳師団、
マレーシア軍、
パキスタン軍、
そして上空を支援した航空部隊を組み合わせた
多国籍救援作戦だった。
しかし、
到着した装甲車にも全員を乗せる余裕はなかった。
夜明け。
負傷者と遺体を車両へ収容した後、
歩ける兵士の一部が
モガディシュの道路を徒歩で南へ移動し始める。
次回は、
10月4日05時42分から始まった撤収と、
後に「モガディシュ・マイル」と呼ばれることになる
最後の移動を追う。
CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回
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第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日
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第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent
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第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計
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第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで
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第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間
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第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱
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第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点
- 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊【現在の記事】
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第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか
-
第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実
出典・参考資料
-
U.S. Army Center of Military History,
The U.S. Army in Somalia, 1992–1994.
— 多国籍救援部隊の編成、パキスタン戦車、
マレーシア装甲兵員輸送車、第10山岳師団2-14 Infantry、
60両超の車列、01時55分の第1墜落地点到達を確認。 -
United States Forces Somalia,
After Action Report and Historical Overview.
— QRFによる最初の救出失敗、
多国籍部隊の統合、装甲車両の必要性、
救援車列の進攻と墜落地点到達を確認。 -
U.S. Army,
“We Didn’t Leave Anybody Behind” — 10th Mountain Division Veterans Reflect on Mogadishu Rescue Mission.
— 第10山岳師団2-14 Infantryの救援計画、
パキスタン戦車小隊、マレーシア二個中隊のAPC、
共同訓練経験がほぼなかったこと、
市街地での戦闘経過を確認。 -
U.S. Army,
Soldiers Reflect on Battle of Mogadishu.
— マレーシア・パキスタン・第10山岳師団による
多国籍救援車列と10月4日未明の到達を確認。 -
Tentera Darat Malaysia / Malaysian Army,
Pengorbanan — Kpl Mat Aznan Awang.
— MALBATTによる米軍救出作戦への参加、
Condor装甲兵員輸送車、
Mat Aznan Awangの戦死について確認。 -
Tentera Darat Malaysia / Malaysian Army,
Misi PBB — Somalia (UNOSOM).
— 19 RAMDを中心とするマレーシア部隊の
UNOSOM展開と10月3~4日の救出MISSION参加を確認。
※夜間救援車列の正確な車両内訳は資料によって異なる。
米陸軍Center of Military Historyは「60両超」としており、
本記事ではこれを基準とした。
パキスタン戦車やマレーシアCondor APCの詳細な台数は
資料差があるため一つの数字へ固定していない。
※マレーシア軍の死傷者数にも資料差がある。
米陸軍公式戦史と他の米軍資料で数字が一致していないため、
本記事ではマレーシア陸軍自身が明確に記録している
Mat Aznan Awangの戦死を確定事項として扱い、
総負傷者数については単一値へ統合していない。
※「救援部隊編成が遅れた理由」を
マレーシア軍・パキスタン軍の協力姿勢だけに帰す説明は採用しない。
米陸軍公式戦史は、
事前に統合されていなかった多国籍部隊へ計画を説明し、
装甲車両・歩兵・航空支援を一つの作戦へ組み込むための
調整時間が必要だったとしている。
※第8回は救援部隊が第1墜落地点へ到達するまでを中心に扱う。
05時42分以降の徒歩撤収、
いわゆる「Mogadishu Mile」と06時30分前後の戦闘終結は
第9回で詳述する。