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Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

軍事作戦・戦闘

1993年10月3日、モガディシュ空港の西端から19機の航空機と12両の車両が動き始めた。
出撃した人員は約160人。

目的は市街地を占領することでも、
アイディード派と長時間戦うことでもなかった。

標的となる建物へ特殊作戦部隊を送り込み、
周囲をレンジャー部隊が封鎖する。
建物内にいるアイディード派の主要人物を拘束したら、
地上車列へ乗せ、全員がモガディシュ空港の基地へ戻る。

そのために組まれていたのが
Task Force Rangerだった。

映画『ブラックホーク・ダウン』では、
デルタフォース、レンジャー、ブラックホーク、リトルバードなどが次々に登場する。
しかし、それぞれが同じ仕事をしていたわけではない。

突入する部隊。
建物の外を封鎖する部隊。
兵士を運ぶ航空部隊。
上空から火力支援する航空機。
拘束者を回収する車列。
墜落事故が起きた場合に投入する戦闘捜索救難部隊。

Task Force Rangerは、
こうした異なる能力を一つの短時間作戦へ組み合わせた
統合特殊作戦部隊だった。

そして10月3日に起きたことを理解するには、
まず「本来なら、どう動くはずだったのか」を知る必要がある。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、ソマリア内戦全体ではなく、
Operation Gothic Serpentと1993年10月3~4日のモガディシュ市街戦を中心に追う。

第3回では戦闘そのものへ入る前に、
Task Force Rangerの部隊構成、航空機、地上車列、
そして標準的な拘束作戦の流れを整理する。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent
  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計【現在の記事】

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|Task Force Rangerは「一つの特殊部隊」ではない

Task Force Rangerという名前を見ると、
「レンジャーという特殊部隊の部隊名」のようにも見える。

実際にはそうではない。

Task Force Rangerは、
アイディードとその主要側近を拘束するために編成された
Joint Special Operations Task Force(統合特殊作戦任務部隊)だった。

中心となったのは、
第75レンジャー連隊第3大隊、
1st Special Forces Operational Detachment-Delta、
第160特殊作戦航空連隊だった。

さらに米空軍の特殊戦術要員、
米海軍SEAL要員なども参加している。

つまり、
歩兵だけでも航空部隊だけでも成立しない。


標的の位置を把握する
→ 航空機で突入する
→ 建物を制圧する
→ 周囲を封鎖する
→ 拘束者を車両へ移す
→ 航空・地上部隊を撤収させる

という一連の工程を、
複数の専門部隊を組み合わせて短時間で実行するための組織だった。

司令官はウィリアム・F・ギャリソン少将

Task Force Rangerを指揮したのは、
米陸軍のウィリアム・F・ギャリソン少将だった。

1993年8月22日、
米中央軍は米特殊作戦軍に対し、
ソマリアへ特殊作戦部隊を展開するよう指示した。
先遣部隊は8月23日にモガディシュへ到着し、
主力部隊も続いた。

米軍のTask Force Ranger公式報告では、
8月28日までに441人がソマリアへ到着し、
訓練、連絡体制の構築、通信網の準備を進めていたと記録されている。

重要なのは、
Task Force RangerがUNOSOM IIの一部として編入された部隊ではなかったことだ。

国連側の任務を支援し、
拘束した人物をUNOSOM IIへ引き渡す役割を持っていたが、
作戦の計画・実行は米軍独自の指揮系統で行われた。

ギャリソンは現地米軍司令官トーマス・モンゴメリー少将などと情報共有・調整を行っていたものの、
Task Force Rangerそのものが国連軍司令官の作戦統制下に置かれていたわけではない。

FACT CHECK|「Task Force Ranger=レンジャー部隊」ではない

名前にRangerと入っているが、
第75レンジャー連隊だけで構成された部隊ではない。

Army、Navy、Air Forceの特殊作戦要素を組み合わせた統合部隊であり、
Rangerはその主要な地上戦闘要素の一つだった。

また、モガディシュに展開したTask Force Ranger全体の人員と、
10月3日の襲撃へ実際に出撃した人員も同じではない。
8月末には441人が現地にいた一方、
10月3日の作戦に投入されたのは約160人だった。

デルタフォース|建物へ入り、標的人物を拘束する

10月3日の作戦で、
標的となった建物そのものへ突入する中心的な役割を担ったのが、
1st Special Forces Operational Detachment-Delta、
一般にデルタフォースと呼ばれる部隊だった。

Task Force Rangerの作戦を工程として見ると、
デルタの役割は比較的明確だった。

標的建物へ短時間で入り、
内部を制圧し、
拘束対象となる人物を識別して確保する。

つまり、作戦のAssault Force(突入部隊)である。

一方で、建物の中だけを確保しても作戦は成立しない。

突入中に外部から武装勢力が建物へ入り込めば、
突入部隊は内外から攻撃される。
拘束対象が裏口や周囲の路地から逃げれば、
建物の制圧自体が成功しても任務は失敗する。

そのため、突入部隊とは別に
建物の周囲を押さえる部隊が必要だった。

第75レンジャー連隊|標的建物の外側を封鎖する

その役割を担った中心が、
第75レンジャー連隊第3大隊だった。

10月3日の作戦では、
レンジャー部隊はヘリコプターから標的周辺へ降下し、
建物を囲むようにBlocking Forceを形成する計画だった。

ここでいうBlocking Forceは、
単に「外で警備する兵士」ではない。

標的建物の周囲の道路や交差点を押さえ、
外部から突入部隊へ接近する脅威を止める。
同時に、建物から逃げようとする人物を封じる。

言い換えれば、
デルタが内側を制圧し、
レンジャーが外側を固定する構造だった。

要素 主な役割 成立させる条件
Assault Force 標的建物へ突入・拘束 短時間で建物内部を制圧
Blocking Force 建物周辺を封鎖 外部増援と標的逃走を防ぐ

この二つが機能すれば、
標的地点を一時的に米軍側の管理下へ置ける。

しかし、それだけではまだ帰れない。

第160特殊作戦航空連隊|部隊を「突然そこへ出現させる」

地上部隊を市中心部へ送り込む役割を担ったのが、
第160特殊作戦航空連隊
(160th Special Operations Aviation Regiment)だった。

通称は「Night Stalkers」。
特殊作戦部隊の潜入、離脱、航空支援を専門とする航空部隊である。

モガディシュで重要だったのは、
道路を走って標的地点へ接近する必要を減らせることだった。

地上車両だけなら、
出発地点から目標までの道路をすべて通らなければならない。
途中でバリケードを作られれば止められ、
接近そのものを早期に発見される可能性も高くなる。

ヘリコプターを使えば、
標的建物の近くへ地上部隊を直接投入できる。

Task Force Rangerが過去6回の襲撃で使用していた基本思想も、
この速度と奇襲性にあった。

MH-60 Black Hawk|レンジャーを標的周囲へ運ぶ

Task Force Rangerを象徴する航空機となったのが、
MH-60 Black Hawkだった。

MH-60は通常のUH-60系を基礎としながら、
特殊作戦用の装備を備えた機体である。

10月3日には、
レンジャーなどを標的地点周囲へ運ぶほか、
指揮、援護、戦闘捜索救難など、
複数の役割でMH-60系機が投入されていた。

市街地には安全に着陸できる広い場所があるとは限らない。

そこで地上部隊は、
機体を完全に着陸させず、
ホバリングするヘリコプターから
ファストロープを使って地上へ降下する。

これなら狭い交差点や道路付近にも兵士を送り込める。

一方で、
兵士が降下している間、
ヘリコプターは一定位置に留まらなければならない。

その時間は、
地上から見れば航空機を狙いやすい時間でもある。

MH-6 Little Bird|小さな機体で突入部隊を送り込む

もう一つ重要だったのが、
MH-6 Little Birdだった。

MH-60よりはるかに小型で、
少人数の特殊作戦要員を素早く運ぶことができる。

機体の外側に取り付けられたベンチ状の座席へ隊員を乗せ、
標的付近へ短時間で接近する運用も可能だった。

大きな輸送ヘリを着陸させにくい都市部では、
この小ささ自体が利点になる。

デルタの突入要員を目標へ送り、
拘束作戦の最初の数分を成立させる。

Task Force Rangerにとって、
Little Birdは単なる「小型ヘリ」ではなく、
襲撃の速度を作る航空機だった。

AH-6 Little Bird|空から近接火力を提供する

同じLittle Bird系でも、
AH-6は兵員輸送ではなく攻撃任務を担当する。

市街地上空を飛びながら、
地上部隊へ接近する武装勢力に対して火力支援を行う。

これは地上部隊にとって重要だった。

Blocking Forceは標的周囲を確保するため、
その場に留まらなければならない。

敵の数が増えたからといって、
簡単に別の場所へ移動すれば
封鎖そのものが崩れてしまう。

そのため、地上部隊の火器だけで処理しきれない方向へ
航空火力を迅速に向けられることは、
短時間作戦を維持するための重要な要素だった。

地上車列|拘束した人物と突入部隊を回収する

ヘリコプターだけで完結する作戦ではなかった。

標的を拘束した後、
その人物を安全に基地まで運ばなければならない。

その役割を担うのが地上車列だった。

10月3日の作戦では、
ハンヴィーやトラックなど計12両の車両が投入された。

計画では、
航空部隊が突入部隊とBlocking Forceを先に目標付近へ送り込み、
その後、地上車列が標的建物へ到着する。

拘束した人物と突入部隊を車両へ乗せ、
そのまま空港側のTask Force Ranger基地へ戻る。

つまり、
航空機が入口を作り、
車列が出口になる設計だった。

なぜ帰りもヘリコプターではなかったのか

ここには実務上の理由がある。

突入時には、
誰を何人拘束できるか完全には分からない。

拘束者をヘリコプターへ乗せるには、
航空機を再び目標付近へ降ろす必要があり、
地上からの射撃へさらす時間も増える。

車列なら、
建物前で拘束者を収容した後、
突入要員もまとめて輸送できる。

そのため、
航空強襲+地上回収という組み合わせは、
短時間の都市拘束作戦として合理性があった。

ただし、その設計には前提がある。

車列が目標地点へ到達し、
そこから基地まで走って帰れることだ。

10月3日には、
この前提そのものが後に大きく崩れることになる。

空軍特殊戦術要員|航空と地上の間をつなぐ

Task Force Rangerには、
米空軍の特殊戦術要員も参加していた。

米空軍史では、
第24特殊戦術飛行隊から
パラレスキュー要員とCombat Controllerが加わっていたことが確認できる。

Combat Controllerは、
特殊作戦環境で航空機と地上部隊を結び、
航空管制や航空支援の調整などを行う専門要員である。

パラレスキューは、
負傷者の救命・回収能力を持つ専門部隊だった。

これはTask Force Rangerが
単に「建物へ突入するための部隊」ではなかったことを示している。

航空機事故や重傷者が発生した場合に備え、
救出・医療まで作戦内に組み込まれていた。

墜落時のためのCSARチームも準備されていた

「ブラックホークが墜落することは誰も考えていなかった」
という説明も正確ではない。

Task Force Rangerには、
Combat Search and Rescue、
CSARと呼ばれる戦闘捜索救難チームが用意されていた。

米陸軍公式戦史によれば、
Super 61が墜落した直後には、
レンジャーの一部、
MH-6、
そして15人のCSARチームを搭載したMH-60が墜落地点へ向かっている。

つまり、
航空機が墜落したときに何をするかという
最低限の緊急対応そのものは計画されていた。

問題は、
一つの墜落事故へ対応している最中に、
別のブラックホークまで撃墜されたことだった。

FACT CHECK|「墜落への備えが全くなかった」は正しくない

Task Force RangerにはCSAR要員が存在し、
第1墜落地点へ直ちに投入された。

したがって問題は、
「ヘリコプターが落ちる可能性を想定していなかった」
という単純なものではない。

より正確には、
短時間の拘束作戦中に複数の墜落地点が発生し、
それぞれを同時に確保・救出しなければならない状況へ拡大した

ことが大きかった。

約160人・19機・12両|10月3日の作戦規模

10月3日の出撃規模を整理すると、
この作戦の性格が分かりやすい。

項目 規模
出撃人員 約160人
航空機 19機
地上車両 12両
主な地上部隊 デルタ/第75レンジャー連隊第3大隊など
主な航空部隊 第160特殊作戦航空連隊
中心任務 アイディード派主要人物の拘束

160人という数字だけを見ると大きな戦力にも見える。

しかし、
これはモガディシュの一地区を占領し続けるための部隊ではない。

複数の役割へ人員が分かれている。

突入する人員。
四方を封鎖する人員。
車列を運用する人員。
航空機を飛ばす人員。
上空で指揮・援護する人員。
救難待機する人員。

そのため、
「160人全員を一か所へ集めて戦える」という構成ではなかった。

本来はどう動けば成功だったのか

作戦の基本シーケンスを単純化すると、
次のようになる。

段階 動作 担当
1 標的情報を確認し出撃 Task Force Ranger司令部
2 航空機で標的へ高速接近 160th SOAR
3 突入部隊を標的建物へ投入 Delta / MH-6等
4 建物周囲へBlocking Forceを投入 Ranger / MH-60
5 建物内部を制圧し標的人物を拘束 Assault Force
6 地上車列が標的へ到着 Ground Force
7 拘束者と突入部隊を車両へ収容 地上車列
8 Blocking Forceを回収 航空/地上部隊
9 全員が空港基地へ帰還 Task Force Ranger

ここで重要なのは、
各工程が前の工程に依存していることだ。

建物の制圧が遅れれば車列が待つ。
Blocking Forceが崩れれば突入部隊が孤立する。
車列が来なければ拘束者を運べない。
航空支援が維持できなければ地上部隊への圧力が高まる。

そして航空機が墜落すれば、
それまで存在しなかった
「墜落地点を確保し、乗員を救出する」という工程が
突然追加される。

過去6回は、この方式で機能していた

この作戦設計は、
10月3日に突然思いついたものではなかった。

Task Force Rangerは8月末から9月にかけて、
モガディシュで6回の襲撃作戦を実施している。

米軍の公式Task Force Ranger報告は、
これら最初の6回を
tactical successes
戦術的成功だったと評価している。

Assault ForceとBlocking Forceは目標へ降下し、
建物や施設を確保し、
人物を拘束して撤収する。

大部分の作戦では、
降下時の抵抗はないか、あっても限定的だった。

9月21日には、
アイディードの主要顧問で資金面の重要人物だった
オスマン・アットの拘束にも成功している。

つまり10月3日の計画は、
机上だけで成立していた方式ではない。

同じ都市で、直前まで繰り返し成功していた方法だった。

ただし9月には、敵側の対応が変わり始めていた

成功実績があった一方で、
9月後半には無視できない変化も起きていた。

オスマン・アットを拘束した9月21日の作戦で、
米軍ヘリコプターはそれまで以上にまとまったRPG射撃を受けた。

さらに9月25日、
Task Force Rangerとは別任務を行っていた米軍ブラックホークが
RPGによって撃墜され、米兵3人が死亡した。

これは重要な変化だった。

RPGは本来、
主として装甲車両などを攻撃するための兵器である。

しかしモガディシュでは、
低空を飛ぶヘリコプターに対して使用され、
実際に撃墜へ至った。

それまで作戦の速度を作っていた航空機が、
逆に攻撃対象として狙われるようになっていたのである。

作戦設計の強みが、そのまま弱点にもなり得た

Task Force Rangerの方法には明確な強みがあった。

奇襲性が高い。
航空機なら道路封鎖を越えて直接接近できる。
デルタとレンジャーの役割分担も明確だった。
拘束後は車列でまとめて撤収できる。

過去6回の成功も、
この方式が実際に機能することを示していた。

一方、その強みは
いくつかの前提が維持されている場合に成立する。

強み 必要な前提 崩れた場合
航空機による高速突入 航空機が行動を継続できる 墜落地点そのものが新しい目標になる
少人数の専門部隊 作戦時間が短い 長時間戦闘では消耗する
Blocking Force 封鎖地点を維持できる 各部隊が固定される
地上車列で回収 道路を走行できる 撤収経路が成立しなくなる
航空・地上の同期 各部隊が予定どおり進む 位置と任務が複雑化する

10月3日に起きるのは、
これらの前提が一つずつ崩れていく過程だった。

「装備が弱かったから失敗した」だけでは説明できない

モガディシュの戦闘では、
「戦車や装甲車を持っていかなかったから失敗した」
という説明がよく使われる。

しかし、第3回の段階では
それだけで結論づけるべきではない。

10月3日のTask Force Rangerは、
市街地を長時間制圧する機甲部隊として設計されていたわけではない。

過去にも使用してきた
短時間の航空強襲・拘束・撤収を前提としていた。

したがって検討すべきなのは、
「なぜ戦車がなかったか」だけではなく、
そもそも
なぜ短時間で終わる作戦という前提が維持できなくなったのか
である。

その答えは、
第4回以降の実際の時系列を見ると明確になる。

FACT CHECK|第10山岳師団とTask Force Rangerは同じ部隊ではない

モガディシュには、
Task Force Rangerとは別に、
第10山岳師団を中心とする米軍Quick Reaction Forceが存在していた。

Task Force Rangerは米特殊作戦側の独自指揮系統を持ち、
QRFとは連絡将校を交換するなどして調整していた。

10月3日の襲撃が大規模救出へ変化すると、
この外部QRFが重要な役割を持つようになる。
詳細は第8回で扱う。

10月3日午後、設計どおりに作戦は始まった

10月3日、
アイディードの主要側近が
Olympic Hotel付近の建物へ集まっているという情報が入った。

Task Force Rangerは短時間で部隊を招集し、
作戦を開始する。

15時30分ごろ、
Assault ForceとBlocking Forceを運ぶヘリコプターが
モガディシュ空港側の基地から発進した。

その約3分後、
地上車列も基地を出る。

15時42分ごろには、
地上部隊が標的地点へ到達した。

デルタが建物へ入り、
レンジャーが周囲のBlocking Positionを確保する。

ここまでは、
Task Force Rangerが過去に繰り返してきた
拘束作戦の形だった。

そして実際、
アイディードの主要側近2人を含む24人を拘束する。

当初任務だけを見れば、
作戦は成功へ向かっていた。

しかしその間にも、
地上からの射撃は過去の作戦より激しくなっていた。

さらにレンジャーの一人、
PFCトッド・ブラックバーンがヘリコプターからの降下中に転落し、
重傷を負う。

予定にはなかった負傷者搬送が発生する。

それでもこの時点では、
作戦全体を変更するほどではなかった。

決定的な変化は、その後に起きる。

上空を飛んでいたMH-60、
Super 61がRPGを受ける。

ブラックホークは市街地へ墜落した。

その瞬間、
Task Force Rangerの作戦図には
それまで存在しなかった新しい地点が一つ追加された。

「墜落地点」である。

まとめ|Task Force Rangerは「速度」で成立するシステムだった

Task Force Rangerは、
デルタフォース、レンジャー、第160特殊作戦航空連隊などを
一つに集めただけの部隊ではなかった。

デルタが標的建物へ突入し、
レンジャーが周囲を封鎖する。
160th SOARが部隊を直接市街地へ運び、
航空火力を提供する。
地上車列が拘束者と突入部隊を回収し、
CSAR要員が緊急時に備える。

それぞれの役割を短時間で同期させることで、
敵対地域の中心へ入り、
標的人物だけを拘束して離脱する。
それがTask Force Rangerの基本設計だった。

しかも、この方式は10月3日以前の6回の作戦で戦術的成功を収めていた。
だからこそ、第7回でも同じ基本方式を使うこと自体は、
結果だけを知った後から見えるほど単純な判断ではない。

問題は、
10月3日の作戦が途中から
「短時間で拘束して帰る作戦」ではなくなったことだった。

次回は15時30分ごろの出撃から、
目標建物への突入、24人の拘束、
そしてSuper 61が撃墜されるまでを時系列で追う。
ここからTask Force Rangerの設計が、
現実のモガディシュ市街地で少しずつ崩れ始める。


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次の記事:1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで →

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent
  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計【現在の記事】

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • U.S. Special Operations Command / U.S. Army Special Operations Command History Offices,
    Task Force Ranger: Operations in Somalia, 3–4 October 1993.
    — Task Force Rangerの展開規模、指揮、過去6回の作戦、Assault Force、Blocking Force、
    CSAR、MH-6、AH-6などの確認。
  • U.S. Army Center of Military History,
    The U.S. Army in Somalia, 1992–1994.
    — Task Force Rangerの構成、指揮関係、10月3日の作戦構成、
    Super 61墜落後の対応の確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — Task Force Rangerの任務、UNOSOM IIとの関係、
    8~9月の拘束作戦と10月3日の経過の確認。
  • U.S. Army Military Review,
    Cyber is the New Air: Domain Superiority in the Megacity.
    — 10月3日の投入規模「19 aircraft / 12 vehicles / 160 men」、
    Task Force Ranger主要構成の確認。
  • U.S. Army,
    75th Ranger Regiment Heritage.
    — 第75レンジャー連隊第3大隊のソマリア展開と
    10月3日の作戦参加の確認。
  • United States Air Force Historical Research Agency,
    U.S. Air Force Operations in Somalia, 1992–1995.
    — 第24特殊戦術飛行隊のパラレスキュー・Combat Controllerなど
    空軍特殊戦術要員の構成確認。

※Task Force Ranger全体の現地展開人数と、10月3日の襲撃に投入された人数は異なる。
公式Task Force Ranger報告では8月28日までに441人がソマリアへ到着していた。
一方、10月3日の作戦に実際に投入された規模は約160人、航空機19機、車両12両とされる。

※Task Force RangerはUNOSOM IIの目的を支援していたが、
UNOSOM IIの作戦統制下に置かれていた部隊ではない。
米軍独自の指揮系統を維持しつつ、現地米軍・UNOSOM II側と調整していた。

※Task Force Rangerには米海軍・米空軍の特殊作戦要員も含まれていた。
資料によって海軍要員の部隊名称表記に差があるため、
本記事では確実に確認できる範囲で「米海軍SEAL要員」と表記した。

※本記事では「装甲車両がなかったこと」だけを戦闘結果の単一原因として扱っていない。
10月3日の戦闘では、航空機撃墜、部隊分散、地上車列の移動、
通信・位置把握、救出任務追加など複数の要因が重なっており、
それぞれ第4回以降で分離して検証する。

1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

軍事作戦・戦闘

1993年10月3日16時20分。

モガディシュ上空を飛んでいたMH-60 Black Hawk、
コールサイン「Super 61」がロケット推進擲弾、RPGを受けた。

機体は目標建物から北東へ数ブロック離れた市街地へ墜落する。

この瞬間は、後に映画『ブラックホーク・ダウン』を象徴する場面として知られることになる。
しかし、作戦開始からここまでを見ると、
Task Force Rangerが最初から失敗していたわけではない。

むしろその逆だった。

特殊作戦部隊は目標建物へ入り、
アイディード派の主要人物2人を含む24人を拘束。
地上車列も現場へ入り、
拘束者を積み込む段階まで進んでいた。

つまり16時20分直前まで、
本来予定していた「標的を拘束して撤収する作戦」は、かなりの部分まで成立していた

では、その約50分間に何が起きていたのか。

第4回では、10月3日午後に標的情報が入ってから、
15時32分の出撃、建物への突入、最初の重傷者、
24人の拘束、そしてSuper 61撃墜までを時系列で追う。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、ソマリア内戦全体ではなく、
Operation Gothic Serpentと1993年10月3~4日のモガディシュ市街戦を中心に追う。

第4回から、いよいよ10月3日の実際の作戦へ入る。
今回はSuper 61墜落までに範囲を限定し、
墜落後の第1墜落地点での救出活動は第5回、
地上車列の混乱は第6回で詳しく扱う。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計
  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで【現在の記事】

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|16時20分までは、拘束作戦そのものは成立していた

10月3日の作戦について、
最初からすべてが崩れていたと考えると実際の経過を見失う。

Task Force Rangerは目標建物を特定し、
航空強襲によって突入部隊とBlocking Forceを投入した。

一部のレンジャーは予定地点からずれた場所へ降下し、
降下事故による重傷者も発生した。
地上からの射撃も過去の作戦より激しかった。

それでも、建物そのものの制圧は進んだ。

アイディード派の主要人物2人を含む
24人が拘束された

地上車列も目標地点へ入り、
拘束者を車両へ積み込む段階に達していた。

つまり本来の作戦シーケンス、


突入
→ 封鎖
→ 標的人物の拘束
→ 車列へ収容
→ 空港へ撤収

のうち、
最後の「撤収」を残すところまで進んでいた。

しかし16時20分、
Super 61が墜落した。

それまでの作戦計画には存在しなかった
「墜落地点」という新しい目標が市街地に発生する。

ここからTask Force RangerのMISSIONは、
拘束者を連れて帰ることだけではなくなった。

10月3日昼|最初に入ったのは「会合」の情報だった

10月3日は日曜日だった。

Task Force Rangerにとっては、
常に大規模作戦が予定されていた日ではない。

しかし午後、
情報部門へアイディード派の重要人物が
モガディシュ中心部で会合しているという情報が入った。

1994年に作成されたTask Force Rangerの公式報告によれば、
13時台に人的情報源、
HUMINTから情報が入っている。

対象の一人は
アイディードの有力な政治顧問
オマル・サラド・エルミだった。

さらに複数の重要人物が同じ場所にいる可能性がある。

問題は、
「重要人物がモガディシュにいる」と分かっただけでは
作戦を開始できないことだった。

市街地には似たような建物が多数並んでいる。
特殊部隊を投入するには、
どの建物なのかを正確に特定しなければならない。

情報源に「どの建物か」を確認させた

Task Force Rangerは、
人的情報源からの報告だけで突入しなかった。

上空には偵察用航空機やヘリコプターを配置し、
情報源が示す地点を確認した。

公式Task Force Ranger報告によれば、
情報源にはOlympic Hotel付近であらかじめ決めた行動を取らせ、
上空の偵察要員がその車両を確認。
そこから会合場所まで追跡する方法が使われた。

一度目の確認ではうまく捕捉できず、
情報源にもう一度同じ手順を行わせている。

二度目に上空の偵察部隊が車両を確認し、
標的建物が特定された。

ここからデルタの作戦要員が、
航空写真や市街地情報を使って突入計画を組み立てた。

FACT CHECK|襲撃されたのは「Olympic Hotel」そのものではない

モガディシュの戦闘を説明する際、
10月3日の襲撃対象を「Olympic Hotel」と書く資料もある。

しかし米軍の公的資料では、
標的はOlympic Hotel付近の別の建物として記録されている。

Olympic Hotelは位置を説明するランドマークとして頻繁に使用されたため、
「Olympic Hotel raid」という表現が定着した。

本特集では、
建物そのものと周辺ランドマークを混同せず、
「Olympic Hotel付近の標的建物」と表記する。

まず現在の地理では、Bakara Market(Hawlwadag District)周辺を基準に、
1993年10月3日の作戦地域がモガディシュ市街地のどの一帯にあったのかを確認できる。

現在のBakara Market(Hawlwadag District)周辺。1993年当時のOlympic Hotel付近の標的建物、Blocking Position、Super 61墜落地点の正確な位置を示すものではない。


Googleマップで大きく見る

この地図で確認するのは現在の市街地上の大まかな位置だけである。
標的建物とSuper 61墜落地点の位置関係は、1993年の米軍公的地図に基づく専用図で扱う必要がある。

拘束対象の名前にも資料上の混同がある

さらに、標的となった主要人物にも注意が必要である。

初期情報では、
オマル・サラド・エルミとともに、
アイディード派の有力者
アブディ・ハッサン・アワレ、通称Qeydidが
会合に参加している可能性があると考えられていた。

しかしTask Force Rangerの公式報告は、
実際にその場にいたのは別人だったと整理している。

拘束された主要人物は、
オマル・サラド・エルミと
モハメド・ハッサン・アワレだった。

FACT CHECK|「Awale」という名前の混同

当日の情報ではAbdi Hassan Awaleがいる可能性が示されていたが、
後の公式報告では、
実際に会合していたのはMohammed Hassan Awaleだったとされている。

同姓・類似した名前を持つ人物が複数登場するため、
本特集では公式Task Force Ranger報告の整理を優先する。

15時32分|19機の航空部隊が発進する

標的が確認され、
作戦実施が決定された。

米空軍の戦史研究がTask Force RangerのAfter Action Reportを照合した結果では、
航空部隊がモガディシュ空港側の基地を離れた時刻は
15時32分だった。

編成にはMH-60 Black Hawk、
MH-6 Little Bird、
AH-6攻撃ヘリコプター、
指揮・統制用航空機、
CSAR用航空機などが含まれていた。

目標は前回説明した通り、
短時間での拘束だった。

デルタの突入部隊を建物へ送り、
レンジャーを周囲のBlocking Positionへ降ろす。

その後、
地上車列が拘束者と突入部隊を回収する。

長時間その場所を保持する計画ではなかった。

約3分後|標的地域へ進入

航空部隊は15時32分に発進し、
約3分後にはHawlwadig Road周辺の標的地域へ入った。

地上車列もほぼ同時期に基地を出発している。

ここで航空部隊は、
デルタとレンジャーを市街地へ投入した。

しかし、降下開始直後から
予定との小さなずれが生まれる。

ヘリコプターのローターが巻き上げた砂塵によって、
地上が見えにくくなる
いわゆるbrown-outが発生した。

公式Task Force Ranger報告には、
砂や土が数十フィートまで舞い上がり、
一部のMH-60が予定位置から約1ブロックずれた場所へ降下したと記録されている。

市街地で1ブロックずれることは、
単なる位置誤差ではない。

Blocking Forceは指定された交差点へ移動し、
その場所を確保しなければならない。

予定外の地点へ降りれば、
そこから自力で本来の位置まで移動する必要が生じる。

Chalk 4は予定地点から外れた

特に影響を受けたのが、
レンジャーのChalk 4だった。

公式報告では、
Chalk 4は予定位置から約2ブロック北へ降下し、
激しい射撃を受けながら
本来のBlocking Positionへ移動することになった。

そのため、
別のChalkが一時的に標的建物の後方を守るなど、
現場で役割を補う必要が生じた。

ただし、
この位置ずれだけで作戦が破綻したわけではない。

各部隊は修正しながら配置へ向かい、
突入部隊も標的建物の制圧を進めていた。

降下中、PFCトッド・ブラックバーンが転落する

作戦開始直後、
最初の重大な負傷者が出た。

レンジャーの
PFCトッド・ブラックバーンが
ヘリコプターからファストロープで降下する際、
ロープを保持できず転落した。

米軍公式記録では、
高さは60フィートを超えていたとされる。

ブラックバーンは重傷を負った。

これは作戦計画にはない最初の大きな処理だった。

現場では救命処置が行われ、
彼をできるだけ早く医療施設へ運ばなければならなくなった。

ただし重要なのは、
この事故が発生しても、主作戦そのものは継続できていたことである。

建物内部では拘束作戦が進んでいた

外側でレンジャーが配置につく一方、
デルタを中心とするAssault Forceは建物内部を制圧していった。

公式Task Force Ranger報告には、
突入部隊が部屋を順に確認し、
初期段階で10~12人を一室で拘束した記録が残る。

その後も建物内部の確認が続けられ、
拘束者は中庭へ集められた。

最終的に、
24人が拘束された。

その中には、
今回の主要標的だったアイディード派の有力人物2人が含まれていた。

ここだけを見れば、
Task Force Rangerは目的を達成している。

地上からの抵抗は、以前より激しかった

一方、建物の外では状況が悪化していた。

米空軍戦史は、
地上車列が目標建物へ到着する前から
過去の作戦より激しい射撃を受けていたと記録している。

Blocking Forceも小火器やRPGによる攻撃を受けた。

9月21日のオスマン・アット拘束作戦でも
RPG射撃はすでに増えていた。

9月25日には、
Task Force Rangerとは別の米軍UH-60が
RPGで撃墜されている。

したがって10月3日、
ソマリア側がヘリコプターへRPGを撃つこと自体は、
完全に未知の戦術ではなかった。

違っていたのは、
その攻撃密度と、
実際にTask Force Rangerの航空機へ致命的な命中弾が出たことだった。

地上車列は目標建物へ到着した

航空強襲と並行して、
ハンヴィーと5トントラックなどで構成された地上車列も市街地へ入った。

車列の目的は明確だった。

拘束した24人と突入部隊を収容し、
モガディシュ空港側の基地へ戻す。

車列は攻撃を受けながらも、
目標建物へ到達した。

しかし現場で待機している間にも攻撃は続き、
5トントラックの1両がRPGによって使用できなくなった。

これは小さくない問題だった。

拘束者24人に加え、
突入部隊も車両で撤収する予定だったため、
輸送能力が減少することになる。

それでもまだ、
残った車両を使って拘束者を輸送することは可能だった。

16時13分|ブラックバーンを先に搬送する

作戦開始から約40分後、
ブラックバーンの状態は
現場に残しておけるものではないと判断された。

公式Task Force Ranger報告によれば、
16時13分
Ground Reaction Forceの指揮官は
ブラックバーンを直ちに後送することを決定した。

2両の武装ハンヴィーと
1両の輸送用ハンヴィーが分離され、
負傷者搬送へ向かう。

結果として、
本隊の車列はさらに小さくなる。

それでも標的建物側では
拘束者の積み込み準備が進んでいた。

この時点でも、
作戦の中心はまだ
「拘束者を連れて撤収すること」だった。

Super 61はなぜ目標付近に残っていたのか

MH-60「Super 61」は、
突入部隊を投入して役目を終えたわけではなかった。

航空部隊はその後も市街地上空を飛び、
地上部隊を監視・支援していた。

Super 61には航空機搭載の武装と狙撃要員もあり、
目標地域周辺で地上部隊への支援を続けていた。

その一方で、
低高度を飛行するヘリコプターは
市街地からの小火器・RPG射撃へさらされ続ける。

ソマリア側は一発だけRPGを撃っていたわけではない。

米軍After Action Reportでは、
Super 61が撃墜された際、
ヘリコプターへ向けて
多数のRPGが一斉に発射されていたと記録されている。

16時20分|Super 61にRPGが命中する

16時20分。

RPGの一発がSuper 61へ命中した。

操縦していたのは
クリフトン・“エルヴィス”・ウォルコットと
ドノヴァン・“ブル”・ブライリーだった。

機体は飛行を維持できなくなり、
目標建物から北東へ約3ブロック、
およそ200m前後離れた市街地へ墜落した。

上空の別の航空機からは、
墜落後に機体から生存者が出てくる様子が確認された。

同時に、
ソマリア側の武装要員が
墜落地点へ接近していることも報告された。

時間を置いて救助するという選択肢は取りにくかった。

ここでMISSIONが変わった

Super 61が墜落した時点で、
標的建物には24人の拘束者がいた。

車列も現場へ到達している。

本来なら、
彼らを車両へ載せ、
Blocking Forceを回収して基地へ戻る段階だった。

しかし今度は、
約200m離れた場所に
墜落した米軍航空機と乗員がいる。

しかも、
その場所へ武装したソマリア側の人員が近づいている。

そのためTask Force Rangerには、
新しい最優先課題が発生した。

Super 61の墜落地点を確保し、搭乗員を救出すること。

レンジャーの一部はすでに墜落方向へ動き始めた。

事前に準備されていたCSAR、
Combat Search and Rescueチームも投入される。

突入部隊の一部には、
拘束者を車列へ乗せて基地へ戻す任務が割り当てられ、
残りの部隊は墜落地点へ向かうことになる。

ここで、一つだった部隊の目的が分かれた。

FACT CHECK|「標的拘束作戦は失敗した」のか

標的人物を拘束するという当初目的だけを見れば、
Task Force Rangerは24人を拘束し、
主要標的2人も確保している。

したがって
「標的を捕らえられなかったため作戦が失敗した」
という説明は正しくない。

問題は、
拘束には成功したが、計画していた方法で部隊を撤収できなくなった
ことだった。

Super 61墜落によって、
当初の拘束MISSIONへ
救出MISSIONが追加されたのである。

約50分間を時系列で整理する

ここまでの流れを時刻順に並べると、
作戦がどの地点で変化したのかが分かりやすい。

時刻 出来事 作戦上の状態
13時台 アイディード派主要人物の会合情報を取得 標的確認開始
14時台 人的情報源と航空偵察で標的建物を確認 作戦計画を確定
15:32 航空部隊がモガディシュ空港から発進 拘束MISSION開始
約15:35 航空部隊が標的地域へ進入、突入・封鎖開始 建物制圧へ
作戦開始直後 ブラックバーンが降下中に転落 最初の重傷者発生
15時台後半~ 建物を制圧、24人を拘束 中心目的は達成
16時前後 地上車列が目標地点へ入り拘束者収容準備 撤収段階へ
16:13 ブラックバーンの緊急後送を決定 車列の一部を分離
16:20 Super 61がRPGを受け墜落 救出MISSION発生

FACT CHECK|時刻資料には一部差がある

モガディシュの戦闘では、
回想録、公式戦史、After Action Reportなどによって
数分から数十分程度の時刻差が見られる。

本記事では、
Task Force RangerのAfter Action Reportを再検証した
米軍・米空軍の公的研究を優先し、
15:32発進、16:13重傷者後送決定、16:20 Super 61撃墜
を基準時刻とした。

初期情報が入った時刻については公的資料間にも差があるため、
無理に1分単位へ固定せず「13時台」としている。

まだ「ブラックホーク・ダウン」は一機だけだった

16時20分の段階では、
まだ撃墜されたブラックホークはSuper 61の1機だった。

Task Force Rangerには
航空機墜落を想定したCSARチームが用意されていた。

実際、
Super 61が墜落すると、
そのチームはただちに現場へ投入される。

MH-6も墜落地点へ着陸し、
負傷した搭乗員を回収する。

したがって、この時点だけなら、
事前の緊急対応計画の範囲で収束する可能性も残っていた。

しかし現実には、
墜落地点へ集まった米軍部隊が
周囲から激しい攻撃を受ける。

さらにその後、
別のBlack Hawk、
Super 64まで撃墜される。

問題は一つの墜落事故から、
二つの墜落地点を同時に守らなければならない戦闘へ拡大していく。

その段階については、
第5回と第7回で分けて追う。

まとめ|作戦が崩れた瞬間は「標的建物」ではなく、その外側にあった

10月3日の襲撃開始直後には、
すでに予定外の出来事が起きていた。

砂塵による降下地点のずれ。
Chalk 4の移動。
トッド・ブラックバーンの転落。
過去の作戦より激しい小火器・RPG射撃。
地上車両の損傷。

それでもTask Force Rangerは、
標的建物を制圧し、
24人を拘束した。

つまり、
建物へ入り標的人物を捕らえるという
Operation Gothic Serpentの中心工程そのものは機能していた。

決定的な変化は16時20分に起きた。

Super 61が墜落したことで、
Task Force Rangerは
「捕らえて帰る部隊」から「墜落した仲間を救出しなければ帰れない部隊」へ変わった。

そして、この新しいMISSIONは
標的建物から約200m離れた市街地で始まる。

次回はSuper 61の墜落地点へ移る。
ウォルコット、ブライリーらを乗せた機体が墜落した後、
MH-6、レンジャー、CSARチームはどのように現場へ入り、
なぜ第1墜落地点から簡単に撤収できなくなったのかを追う。


← 前の記事:Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計


次の記事:Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間 →

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計
  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで【現在の記事】

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • United States Special Operations Command / United States Army Special Operations Command History Offices,
    Task Force Ranger: Operations in Somalia, 3–4 October 1993.
    — 標的情報、偵察、15時32分の発進、降下地点のずれ、24人の拘束、
    ブラックバーン負傷、16時13分の後送判断、16時20分のSuper 61撃墜を確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — Olympic Hotel付近への襲撃、24人の拘束、地上車列、
    16時20分前後のBlack Hawk撃墜と作戦転換を確認。
  • U.S. Air Force History,
    Special Tactics Airmen in the Battle of Mogadishu.
    — 15時32分の航空部隊発進、15時35分前後の進入、
    地上車列の構成、Super 61撃墜時刻の再検証に使用。
  • U.S. Army Center of Military History,
    The United States Army in Somalia, 1992–1994.
    — 10月3日の標的、主要人物、24人の拘束、
    Super 61墜落とその後のMISSION転換を確認。
  • U.S. Army,
    Veterans reflect on Battle of Mogadishu.
    — トッド・ブラックバーンの降下事故、
    Assault ForceとRanger Blocking Forceの役割、
    Super 61撃墜前後の流れを確認。

※10月3日の作戦開始時刻には、資料によって数分程度の差がある。
本記事ではTask Force RangerのAfter Action Reportを再検証した米空軍史研究が示す
15時32分の航空部隊発進を基準とした。

※最初の標的情報が入った時刻にも公的資料間で差があるため、
本文では「13時台」とした。
一方、Super 61撃墜の16時20分は複数の米軍公的資料で整合している。

※襲撃対象はOlympic Hotelそのものではなく、その付近にあった標的建物。
「Olympic Hotel raid」という通称と実際の建物を区別した。

※第4回はSuper 61撃墜までを対象とする。
墜落直後のMH-6による救出、CSAR投入、第1墜落地点の防御については第5回、
地上車列の経路・誘導・通信問題については第6回で詳述する。

Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

軍事作戦・戦闘

1993年10月3日16時20分。

MH-60 Black Hawk「Super 61」がRPGを受け、
モガディシュ市街地へ墜落した。

その数分前まで、Task Force Rangerはアイディード派の主要人物を拘束し、
地上車列へ乗せて空港へ戻ろうとしていた。

しかし墜落によって、現場にはそれまで存在しなかった新しい目的が生まれた。

墜落した航空機へ到達し、搭乗員を救出し、現場を確保する。

米軍は、この事態をまったく想定していなかったわけではない。
Combat Search and Rescue――CSARと呼ばれる戦闘捜索救難チームが待機しており、
小型のMH-6もすぐ墜落地点へ向かった。

実際、最初の負傷者は短時間で搬出されている。

それでもSuper 61の墜落地点は、
救難部隊が到着すれば終わる場所にはならなかった。

周囲から武装したソマリア側の人員が接近し、
投入された救難部隊自身も攻撃を受ける。
さらに、破壊された機体からすぐには回収できない搭乗員が残った。

その結果、墜落地点は
「助けに行く場所」から「守り続けなければならない場所」へ変化していく。

第5回では、Super 61が墜落した直後から、
MH-6、レンジャー、CSARチームが到着し、
第1墜落地点が翌朝まで米軍を拘束する固定戦場になるまでを追う。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、Operation Gothic Serpentと
1993年10月3~4日のモガディシュ市街戦を中心に追う。

第5回は第1墜落地点に集中する。
地上車列がなぜ現場へ容易に到達できなかったのかは第6回、
その後に発生するSuper 64の第2墜落地点は第7回で分けて扱う。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで
  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間【現在の記事】

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|救出部隊はすぐ動いた。それでも撤収できなかった

Super 61撃墜後の米軍対応を、
「救出計画がなく、部隊が場当たり的に墜落地点へ集まった」
と説明するのは正確ではない。

Task Force Rangerには航空機墜落を想定したCSARチームが準備されていた。

Super 61が墜落すると、
近くにいた小型ヘリMH-6が真っ先に現場へ入り、
負傷者2人を搬出した。

続いて、レンジャーの6人部隊が徒歩で到着する。
さらにMH-60「Super 68」が
15人のCSARチームをファストロープで墜落地点へ投入した。

つまり初動そのものは速かった。

問題はその先にあった。

墜落地点には負傷者だけでなく死亡した搭乗員も残っていた。
周辺から攻撃が続き、
救難チーム自身にも負傷者が発生する。

さらに墜落した機体から搭乗員を回収する作業は、
短時間では終わらなかった。

このため米軍は、
Super 61を置いたまま墜落地点を放棄することも、
全員をただちに連れて撤収することもできなくなった。

救出MISSIONが、
現場保持MISSIONへ変わったのである。

16時20分|Super 61は第1墜落地点になった

Super 61を操縦していたのは、
CW3クリフトン・“クリフ”・ウォルコットと
CW2ドノヴァン・ブライリーだった。

機体には他の乗員や特殊作戦要員も搭乗していた。

RPGを受けた機体は制御を失い、
標的建物から数ブロック離れた狭い市街地へ墜落した。

現在の地理では、作戦地域だったBakara Market周辺を基準に、モガディシュ市街地の位置関係を確認できる。

Bakara Market周辺の現在位置。現在のGoogle Mapは1993年当時の道路・建物配置、標的建物、Super 61の第1墜落地点を再現するものではない。歴史的な位置関係は米陸軍公式戦史のMap 3を優先する。


Googleマップで大きく見る


米陸軍公式戦史「Map 3」で1993年当時の位置関係を確認する

ウォルコットとブライリーは墜落で死亡した。
一方、機内には生存者もいた。

Airborne and Special Operations Museumの記録では、
特殊作戦狙撃手のダニエル・ブッシュとジム・スミスは墜落を生き延び、
直後から周辺の防御に加わったとされる。

他の乗員にも重傷者が出ていた。

したがって墜落直後の優先順位は、
単純な航空機回収ではない。

まだ生存している搭乗員を、接近する攻撃側より先に確保することだった。

墜落地点には、ソマリア側も集まり始めた

ヘリコプターが市街地へ墜落したことは、
米軍だけが認識していたわけではない。

墜落機は市街地の中にあり、
周辺から多数の武装要員が接近できる位置にあった。

米陸軍公式戦史では、
墜落後ただちに米軍側の複数部隊が現場へ向かった一方、
墜落地点周辺では激しい戦闘が始まったと記録されている。

ここで時間が重要になる。

米軍にとっては、
数分でも早く生存者へ到達したい。

一方、
大規模な地上部隊を道路から向かわせるには時間がかかる。

そこで最初に現場へ入ったのは、
大きな地上車列ではなかった。

最初に着いたのはMH-6 Little Birdだった

米陸軍Center of Military Historyの公式戦史では、
Super 61墜落直後、
小型のMH-6 Little Birdが墜落地点へ向かった。

MH-6は大きなMH-60より小型で、
狭い場所へ入りやすい。

操縦士は狭い路地へ機体を降ろした。

周囲ではすでに戦闘が始まっていたが、
乗員は墜落機から負傷者を回収し、
2人を野戦病院へ搬送した

ここは重要な点である。

Super 61墜落後、
最初の航空救出そのものは成功している。

「ブラックホークが墜落したため、
誰も搭乗員へ近づけなかった」
わけではない。

ただしMH-6は小型機であり、
墜落地点にいる全員を一度に回収できるわけではなかった。

現場を確保する地上部隊も必要だった。

6人のレンジャー部隊が徒歩で墜落地点へ向かう

航空救出と並行して、
近くのBlocking Forceから
レンジャー6人の部隊がSuper 61へ向かった。

第3回で見たように、
レンジャーは本来、
標的建物の周囲にBlocking Positionを作る役割を担当していた。

しかしSuper 61墜落により、
その一部が持ち場を離れて
新しい目標へ移動する。

これもMISSION転換が
部隊配置そのものを変え始めた例だった。

レンジャー部隊は徒歩で墜落地点へ到達し、
周辺の防御に加わった。

ここから墜落地点には、
航空機搭乗員だけでなく、
地上から到着した戦闘部隊も集まり始める。

15人のCSARチームを乗せたSuper 68が接近する

続いて投入されたのが、
事前に用意されていたCSARチームだった。

CSARは
Combat Search and Rescue
戦闘捜索救難の略である。

一般的な救急搬送とは違い、
敵の攻撃を受ける可能性がある地域へ入り、
墜落した航空機の搭乗員を捜索・救出することを前提としている。

Task Force Rangerでは、
約15人のCSARチームがMH-60
「Super 68」に搭乗して待機していた。

この中には米空軍第24特殊戦術飛行隊の
Pararescue要員なども含まれていた。

彼らは救命処置だけを行う医療要員ではない。

敵対地域へ入り、
自分たちを防御しながら負傷者を処置し、
航空機から取り出し、
搬送へつなげるための能力を持つ。

Super 68までRPGを受けた

Super 68はSuper 61の墜落地点上空へ入り、
CSARチームをファストロープで降下させ始めた。

その最中、
Super 68自身にもRPGが命中した。

米陸軍の回顧記録によれば、
機長ダン・ジョロタは衝撃を受けて一度機体を上昇させようとした。

しかしその時点で、
まだ隊員がファストロープにぶら下がっていた。

乗員から状況を知らされたジョロタは機体を戻し、
残ったCSAR要員が地上へ降りられる状態を維持した。

チームの降下が終わった後、
損傷したSuper 68は現場を離れ、
米軍管理下の飛行場まで帰還した。

FACT CHECK|Super 68も「撃墜」されたのか

RPGは命中しているが、
Super 68は墜落していない。

損傷を受けながらCSARチームの降下を完了し、
その後、自力で飛行場へ帰還した。

したがって、
10月3日の「撃墜されたBlack Hawk 2機」は
Super 61と後のSuper 64であり、
Super 68を加えて3機と数えるのは誤り。

救難チームは着いたが、現場の問題は減らなかった

これで墜落地点には、
航空機搭乗員、
レンジャー、
CSAR要員が集まった。

通常なら、
ここから負傷者を処置し、
航空機または地上車両で搬送すればよい。

しかしSuper 61の墜落地点では、
救難部隊そのものが継続的な攻撃対象になった。

米陸軍の戦闘参加者による回顧では、
CSARチームにも多数の負傷者が発生していた。

つまり、
救出する側の人数が増える一方で、
救出されなければならない人員も増えていく。

これは救難作戦を難しくする典型的な悪循環だった。

段階 目的 新たに生じた問題
Super 61墜落 搭乗員を救出 墜落地点を確保する必要
MH-6到着 負傷者を緊急搬出 全員は収容できない
レンジャー到着 周囲を防御 Blocking Forceが分散
CSAR投入 本格的な救難 CSAR要員自身にも死傷者
地上部隊集結 墜落地点保持 多数の人員をまとめて撤収する必要

標的建物にいた部隊も、墜落地点へ移り始めた

Super 61墜落後、
Task Force Rangerは元の標的地点にいた部隊を
二つの方向へ振り分ける必要が生じた。

拘束した24人は、
地上車列で基地へ送らなければならない。

同時に、
戦闘可能な地上要員は
第1墜落地点へ向かわなければならない。

米陸軍公式戦史では、
拘束者を車両へ積み込んだ後、
残ったAssault ForceとBlocking Forceが徒歩で
第1墜落地点へ移動したと記録されている。

だが、標的地点から墜落地点まで
直線距離だけなら数百m程度であっても、
簡単に歩ける環境ではなかった。

狭い道路、
建物、
路地、
バリケード、
そして周囲からの小火器・RPG射撃。

地上部隊は戦闘しながら移動する必要があった。

「数百m」が遠かった

都市戦では、
地図上の距離と実際の移動難易度が一致しない。

200~300m離れた場所でも、
道路を一本渡れなければ到達できない。

建物の陰から射撃を受ければ、
交差点を通過するだけでも時間がかかる。

負傷者が出れば、
戦闘員の一部は搬送や応急処置へ回らなければならない。

そのため、
「墜落地点は標的建物のすぐ近くだったのだから、
全員ですぐ集合できたはずだ」
という理解は現場の条件に合わない。

米軍部隊は、
道路を移動する車列と、
徒歩で動く部隊の双方で
同じ問題に直面することになる。

車列側の問題については、
次の第6回で詳しく扱う。

墜落機を「置いて帰る」という選択肢はなかった

第1墜落地点を難しくしたもう一つの理由が、
機体そのものだった。

Super 61の操縦席は墜落時に大きく損傷し、
死亡した搭乗員を短時間で機外へ出せる状態ではなかった。

米陸軍公式戦史では、
後に救援部隊が到着した後も、
夜明けまで搭乗員の遺体回収作業が続いたと記録されている。

ここにTask Force Rangerの行動原則が重なる。

生存者だけを連れて撤退し、
死亡した仲間や機体をそのまま残していくことはしない。

したがって、
現場の防御部隊は
回収作業が終わるまで墜落地点を保持する必要があった。

これは救出の時間を長くし、
時間が長くなるほど弾薬・水・医療資材を消耗させる。

FACT CHECK|「機体回収」が最優先だったわけではない

第1墜落地点で最初に優先されたのは、
航空機そのものを回収することではなく、
生存している搭乗員の救命と
死亡した搭乗員を含む人員の回収だった。

Super 61の機体をその場で完全に撤去することが
10月3~4日の戦闘目的だったわけではない。

問題は、
搭乗員が破壊された機体内部に残っており、
その回収が終わるまで現場を放棄できなかったことにある。

救出作戦は、やがて「陣地防御」へ近づいていく

Super 61墜落直後、
米軍がしようとしていたのは
航空事故への緊急対応だった。

しかし時間が経つにつれて、
現場の性格が変わった。

周辺建物から攻撃される。
負傷者が増える。
航空機による完全な搬出はできない。
地上車列もすぐには到着しない。

その結果、
墜落地点周辺の建物や路地を使いながら
部隊は防御線を作る必要が出てきた。

救難要員も、
レンジャーも、
デルタの要員も、
本来の担当を越えて
第1墜落地点の防御へ組み込まれていく。

救助へ向かった部隊が、
そこで新たに救助を必要とする状態になれば、
MISSIONはさらに大きくなる。

これがモガディシュで起きた
「任務の連鎖的拡大」の核心だった。

AH-6 Little Birdが上空から支援を続けた

地上部隊が夜まで持ちこたえられた要因の一つが、
航空火力支援だった。

AH-6 Little Birdは
市街地上空から地上部隊へ接近する武装要員を攻撃し、
墜落地点周辺の防御を支援した。

小型のAH-6は夜間も繰り返し現場へ戻り、
地上部隊からの誘導を受けながら射撃を行った。

しかし航空支援があるからといって、
地上部隊が自由に移動できるわけではない。

建物と建物の間、
狭い路地、
墜落機の周囲では、
友軍と攻撃対象との距離が近い。

地上部隊との連携なしに
無差別に火力を投入できる環境ではなかった。

そのため航空火力は、
地上部隊を救出する代替手段ではなく、
地上部隊が現場を保持するための支援手段だった。

第1墜落地点だけなら、まだ対処できた可能性はあった

ここまでを見ると、
Super 61墜落は重大だったものの、
Task Force Rangerには対応する仕組みが存在した。

MH-6が負傷者を搬出した。

レンジャーが徒歩で現場へ入った。

15人のCSARチームも到着した。

標的建物にいたAssault ForceとBlocking Forceも
第1墜落地点へ向かい始めた。

地上車列も、
最終的には墜落地点へ向かうことになる。

つまり、
非常に困難ではあっても、
「一つの墜落地点を全戦力で確保する」という形なら
まだ問題を集約できる余地があった。

しかし16時20分から約28分後、
状況は再び変わる。

別のMH-60
Super 64がRPGを受け、
第1墜落地点から約1マイル離れた場所へ墜落した。

これによって、
「一つの墜落地点へ部隊を集める」という解決策そのものが成立しなくなる。

第2墜落地点については第7回で扱う。

なぜ第1墜落地点から夜まで動けなかったのか

ここまでの条件を整理すると、
第1墜落地点に部隊が固定された理由は一つではない。

要因 何が起きたか 結果
搭乗員 死亡・負傷した搭乗員が残る 現場を放棄できない
機体損壊 短時間で全員を取り出せない 回収作業が長時間化
周辺攻撃 小火器・RPGによる攻撃が継続 防御要員が必要
CSAR被害 救難要員自身にも負傷者 搬出対象が増える
都市構造 道路・路地・建物で移動が限定 増援・撤収が遅れる
車列 地上救援が容易に到達できない 徒歩部隊が現場を保持

つまり、
「墜落機を救助しに行ったら包囲された」
という一文だけでは足りない。


搭乗員を置いて帰れない
→ 回収に時間がかかる
→ 現場を守る人数が必要になる
→ 守る部隊にも被害が出る
→ さらに撤収が難しくなる

という循環が発生していた。

FACT CHECK|CSARは事前に用意されていた

モガディシュの戦闘を振り返る際、
「米軍はヘリコプター撃墜をまったく想定していなかった」
と説明されることがある。

しかしTask Force Rangerの公式報告には、
Super 61墜落時に投入されたCSAR部隊について
独立した記録が残されている。

また、実際にCSAR参加者は
航空機墜落に備えた訓練を行っていたと証言している。

したがって正確には、
墜落への対応策は存在したが、実際の戦闘はその対応能力を超えて拡大した
と見るべきである。

特に決定的だったのは、
第1墜落地点への救難活動中に
第2のBlack Hawkまで失われたことだった。

第1墜落地点は、翌朝まで戦闘の中心になった

夕方以降、
Task Force Rangerの多数の地上要員は
Super 61の墜落地点周辺へ集結した。

しかし自力で一斉撤収できる状態ではなかった。

弾薬。
水。
医療物資。
負傷者。
そして機体内部に残る搭乗員。

短時間作戦用に準備されていた部隊が、
想定を大幅に超える時間、
市街地の一角を保持することになった。

最終的に外部から
第10山岳師団、
マレーシア軍、
パキスタン軍を含む大規模な救援車列が組織される。

その車列が第1墜落地点へ到着するのは、
翌10月4日1時55分ごろだった。

それまで、
現場の部隊は自力で防御を続けなければならなかった。

そして救援車列が到着しても、
すぐには撤収できない。

破壊されたSuper 61から
搭乗員を回収する作業が残っていたためである。

作業は夜明けまで続いた。

まとめ|墜落地点は「新しい目標」になった

Super 61が墜落した16時20分、
Task Force Rangerには予定外の救出MISSIONが発生した。

しかし救出への初動が遅かったわけではない。

MH-6は狭い路地へ入り、
負傷者2人を搬出した。

レンジャー6人が徒歩で到達し、
15人のCSARチームもSuper 68から降下した。
Super 68自身がRPGを受けながらも、
チームの投入は完了している。

問題は、その後だった。

救難要員自身にも被害が出る。
周囲から攻撃が続く。
破壊された機体から搭乗員を短時間で回収できない。

そのため第1墜落地点は、
「数分間だけ救助する場所」ではなく、
翌朝まで守らなければならない固定戦場
になった。

そして、そこへ向かうはずだったもう一つの重要な戦力――
地上車列もまた、
思うように動けなくなっていた。

次回は視点を車列へ移す。

上空から見れば近いSuper 61墜落地点へ、
なぜハンヴィーとトラックの車列は簡単にたどり着けなかったのか。

道路封鎖、市街地構造、射撃、位置情報、
そして「上空では見えているのに地上では分からない」という通信・誘導の問題を追う。


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CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで
  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間【現在の記事】

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • U.S. Army Center of Military History,
    The United States Army in Somalia, 1992–1994.
    — Super 61撃墜、MH-6による最初の救出、レンジャー6人部隊、
    15人CSARチーム、Super 68被弾、
    第1墜落地点の防御・翌朝までの回収作業を確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — 24人の拘束からSuper 61墜落、
    Assault Force・Blocking Forceの墜落地点への移動、
    第1墜落地点が作戦上の新しい目標になった経過を確認。
  • U.S. Special Operations Command / U.S. Army Special Operations Command History Offices,
    Task Force Ranger: Operations in Somalia, 3–4 October 1993.
    — 「61 Is Down」、MH-6救出、CSARとSuper 68、
    Pararescue、Ranger Medicsなどの一次的回顧記録を確認。
  • U.S. Army,
    Veterans reflect on Battle of Mogadishu.
    — Super 68へのRPG命中、
    CSAR降下継続、墜落地点での戦闘、
    第2墜落までの時間経過を確認。
  • U.S. Army,
    Soldiers reflect on Battle of Mogadishu.
    — 第1墜落地点のCSAR部隊の被害、
    夜間まで部隊が現場に固定された状況、
    多国籍救援部隊到着までの経過を確認。
  • Airborne and Special Operations Museum,
    The Battle of Mogadishu.
    — Super 61の操縦士、
    墜落時の死亡・負傷状況、
    墜落直後の搭乗員の状態を補助的に確認。

※Super 61は16時20分ごろRPGを受けて墜落した。
米陸軍公式戦史では、MH-6が最初に現場へ到着し、
狭い路地へ着陸して負傷者2人を野戦病院へ搬送したとされる。

※CSARチームは事前にTask Force Rangerへ組み込まれていた。
そのため「Black Hawk墜落を全く想定していなかった」とする単純な説明は採用しない。
問題は、墜落への初動対応後も現場を保持し続ける必要が生じ、
さらに第2の航空機墜落が発生したことにある。

※Super 68はCSAR投入中にRPGを受けたが、
撃墜されず飛行場へ帰還した。
本特集では「撃墜されたBlack Hawk」をSuper 61とSuper 64の2機として区別する。

※第1墜落地点の正確な歴史的位置を現在のGoogle Map上へ
推測座標で固定することは行わない。
位置関係は米陸軍公式戦史に収録された1993年当時の戦闘地図を優先する。

地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

軍事作戦・戦闘

Super 61の墜落地点は、標的建物から何十kmも離れていたわけではない。

米陸軍公式戦史の地図を見ると、Olympic Hotel付近の標的地域と第1墜落地点は、
同じモガディシュ中心部の比較的狭い範囲に収まっている。

上空から見れば、「数ブロック先」である。

それでも、拘束したアイディード派関係者を乗せたTask Force Rangerの地上車列は、
その墜落地点へ簡単には到達できなかった。

道路を曲がる。
行き止まりになる。
バリケードが現れる。
方向を修正する。
その間にも建物や路地から小火器とRPGによる射撃を受ける。
負傷者が出れば車列を止め、収容しなければならない。

さらに、上空で街を見ている側と、
地上のハンヴィーから街を見ている側では、
同じモガディシュがまったく違って見えた。

第6回では、
なぜ「近い墜落地点」が地上車列にとって遠かったのかを、
市街地構造、道路封鎖、航法、通信、車両、死傷者搬送の5つに分けて追う。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、Operation Gothic Serpentと
1993年10月3~4日のモガディシュ市街戦を中心に追う。

第5回ではSuper 61の第1墜落地点で救出部隊が固定されるまでを見た。
今回は、その現場へ向かおうとした地上車列側を見る。

次の第7回では、さらに別方向へ墜落したSuper 64と、
ゲイリー・ゴードン、ランディ・シュガート、マイケル・デュラントの第2墜落地点へ移る。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間
  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱【現在の記事】

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|問題は「道に迷った」だけではない

地上車列が第1墜落地点へ到達できなかった理由を、
「兵士がモガディシュの道を知らなかったから」とだけ説明すると不十分である。

実際には、複数の条件が同時に重なっていた。

問題 現場で起きたこと
市街地構造 狭く曲がった道路・路地が多く、上空から見える経路と地上で通れる経路が一致しない
道路封鎖 バリケードによって予定経路が突然使えなくなる
敵火力 小火器・RPG射撃を受けながら移動するため、停止・方向転換そのものが危険
航法 モガディシュの道路に詳しい人員が限られていた
通信 上空の情報が地上車両へ直接・即時に届く単純な構造ではなかった
死傷者 負傷者を回収するほど車両内が埋まり、戦闘・移動能力が低下

つまり地上車列は、
「目的地が分からない」問題と「分かってもそこへ通れない」問題を同時に抱えていた

地図上では近かった

米陸軍Center of Military Historyが公開している戦闘地図を見ると、
標的地点、Crash Site #1、Crash Site #2、21 October Road、
National Street、Mogadishu Airportなどの位置関係が確認できる。

第1墜落地点は、標的建物から市の反対側にあるわけではない。

このため、平面図だけを見ると
「数ブロックなら車で数分ではないか」と感じる。

ここで、1993年10月3日の標的地域と第1墜落地点の位置関係を、
当時の米陸軍公式戦闘地図を基準に確認しておく。

位置関係【記事用SELF-DIAGRAM|1993年10月3–4日】

※U.S. Army Center of Military Historyの「Mogadishu 3–4 October 1993(Map 3)」と本文記述を基礎に、
記事理解用に位置関係だけを簡略化したSELF-DIAGRAM。縮尺、正確な街路形状、車列の走行線、個々のバリケード位置は再現していない。

モガディシュ戦闘位置関係の模式図 米陸軍Center of Military History Map 3を基礎にした記事用模式図。正確な車列走行経路は描いていない。

北 ↑ NOT TO SCALE

21 October Road

Armed Forces Street

National Street

Via Lenin

Hawl Wadaag St.

Shalalow St.

BLACK SEA AREA

Olympic Hotel 標的地域

Crash Site #1 Super 61

Crash Site #2 Super 64

K4 Circle

Mogadishu Airport HQ Task Force Ranger

地上車列:Crash Site #1へ北側から接近を試みた ※正確な街路ごとの走行線は描かない

海岸・港湾方向(概略)

この図で見るべきなのは、標的地域とCrash Site #1が市の反対側ではなく近接している一方、
その間を移動するには複数の道路・交差点を通らなければならなかったことである。Crash Site #2はさらに別地点にあり、戦闘中に救援先が分裂した。

拘束者を積んだ地上車列は第1墜落地点へ北側から接近しようとしたが、
米陸軍公式戦史は正確な街路ごとの走行線を確定図として示していないため、
ここでは推測した経路線を描いていない。


米陸軍公式戦闘地図(Map 3)を開く

しかし都市戦では、
直線距離はそのまま移動時間にはならない。

車両は建物を突き抜けられない。
道路を使うしかない。

一本の道路が塞がれれば、
交差点まで戻り、
別の道路を探す。

その迂回路も塞がれている可能性がある。

そして交差点で停止・方向転換している時間は、
周囲の建物から見れば車列を狙う時間になる。

上空のモガディシュと地上のモガディシュは違って見えた

米陸軍の戦闘参加者は後に、
上空から見たモガディシュは比較的単純な道路網に見えたと振り返っている。

主要道路は数本しかない。

ところが実際にハンヴィーで市内へ入ると、
景色は一変した。

低い建物。
小屋。
塀。
瓦礫。
細い路地。
似たような交差点。

上空からなら「次の交差点を右」と説明できても、
地上から見れば、
そもそもどれが上空で見えている交差点なのか判別しにくい。

さらに車列は止まって地図を確認しているわけではない。

走りながら射撃を受け、
前方の道路を確認し、
車間を維持し、
負傷者にも対処しなければならない。

平時のカーナビのような航法ではなかった。

最も道路に詳しかった兵士が、先に現場を離れていた

航法上の問題をさらに難しくしたのが、
経験の偏りだった。

当時レンジャーだったジェフ・ストルーカーは、
後年の米陸軍インタビューで、
モガディシュの道路について自分が比較的多くの経験を持っていたと証言している。

しかし10月3日、
トッド・ブラックバーンが降下事故で重傷を負ったため、
ストルーカーは小規模な車列を率いて負傷者を後送する任務へ回った。

つまり、Super 61が墜落し、
残った地上部隊が初めて予定外の地点へ移動しなければならなくなった時、
道路事情に比較的詳しい人員の一人は本隊から離れていた。

ストルーカー自身は後に、
地上航法の知識を複数人で共有していなかったことを
部隊側の問題として振り返っている。

FACT CHECK|「米軍は地図を持っていなかった」のか

問題を「地図がなかった」と単純化するのは適切ではない。

Task Force Rangerには航空偵察、指揮所、地上部隊の通信系統があり、
モガディシュの主要道路についても情報を持っていた。

問題は、
平面上の道路情報を、戦闘中に刻々と変わる「実際に通れる道路」へ変換することだった。

バリケード、銃撃、車両損傷、死傷者によって、
数分前まで使えると考えていた道路が使えなくなる可能性があった。

ソマリア側は道路そのものを戦場にした

米軍の車列が道路を使わなければ移動できない以上、
道路を塞ぐことは非常に有効だった。

モガディシュでは以前から、
道路封鎖を撤去しようとする国連部隊が攻撃を受けていた。

9月8日には米軍・パキスタン軍が
Cigarette Factory付近で道路封鎖を撤去中に攻撃を受け、
106mm無反動砲、RPG、小火器などが使用された。

9月16日、21日にも
21 October Road上で道路封鎖撤去部隊が攻撃されている。

つまり10月3日に突然、
「道路を塞ぐ」という発想が登場したわけではない。

道路封鎖と、それを利用した待ち伏せは、
すでにモガディシュの戦闘環境の一部になっていた。

バリケードは、単に車を止めるだけではない

車列にとってバリケードが危険なのは、
その場で停止させられるからである。

走行中の車両を射撃するより、
交差点で停止した車両を射撃する方が狙いやすい。

さらに先頭車両が止まれば、
後ろの車両も止まる。

狭い道路では横へ逃げられない。

そこでRPGや小火器による攻撃を受ければ、
車列全体が同じ場所に集中する。

バリケードを迂回するには、
再び方向を確認しなければならない。

その時間もまた、
射撃を受ける時間になる。

ハンヴィーと5トントラックは、装甲車ではなかった

Task Force Rangerの地上車列は、
主としてHMMWV、いわゆるハンヴィーと、
5トントラックなどで構成されていた。

これらは高い機動力を持つ一方、
戦車や本格的な装甲兵員輸送車とは性格が違う。

米軍After Action Reportでも、
現地QRFの車両について
「soft skinned vehicles」と表現されている。

つまり、小火器やRPGが飛び交う市街地で
長時間攻撃を受け続けるための重装甲車両ではなかった。

そのため、一発の攻撃で車両が完全に破壊されなくても、
乗員・搭乗員が負傷すれば車列全体の能力は落ちる。

タイヤ、エンジン、操縦系統、武装担当者が損傷しても同じである。

拘束者を積んだまま、第1墜落地点へ向かった

Super 61墜落後、
標的建物ではすでに24人の拘束者が確保されていた。

米陸軍公式戦史によれば、
残ったAssault ForceとBlocking Forceは徒歩で第1墜落地点へ向かい、
拘束者を積んだ地上車列は別の経路から
第1墜落地点への接近を試みた。

ここで車列には、
二つの役割が同時に乗ることになった。

拘束した人物を安全に運ぶこと。

そしてSuper 61墜落地点へ行き、
負傷者・地上部隊を回収すること。

本来は拘束者を基地へ持ち帰るための車列だったものが、
途中から救援車列としても機能しなければならなくなった。

狭く曲がった路地の中で、墜落地点を見つけられなかった

米陸軍Center of Military Historyの記述は明確である。

拘束者を乗せた車列は、
第1墜落地点へ北側から接近しようとした。

しかし、
狭く曲がりくねった路地の中で墜落地点を発見できなかった。

その間にも、
小火器とRPGによる激しい射撃を受け続けた。

これは「目的地の位置を知らなかった」というより、
目的地点のおおまかな方向を知っていても、
そこへ通じる経路を地上から選択できなかったという問題に近い。

上空からの誘導にも時間差があった

Task Force Ranger側には、
上空から市街地を監視できる航空機が存在した。

米陸軍の後年の分析では、
P-3 Orionなど上空の監視・指揮要素が
地上部隊の誘導にも使用されたと整理されている。

しかし、
上空の航空機からハンヴィーの運転手へ
直接「次を右」と伝わる単純な仕組みではなかった。

情報は指揮・連絡要員を介して地上へ伝達される。

そのため、


上空で状況を確認
→ 情報を伝達
→ 中継
→ 地上車列へ指示
→ 車列が交差点へ到達

という間に時間が生じる。

その数十秒から数分の間に、
前方へバリケードが作られたり、
車列が予定とは違う方向へ進んだりすれば、
上空から見た「正しい指示」が地上へ届いた時には
すでに古くなっている可能性がある。

FACT CHECK|「無線が壊れていたから迷った」のか

通信問題は重要だったが、
単純な無線機故障だけで説明するのは正確ではない。

より大きな問題は、
上空、指揮所、地上車列の間で情報を共有する経路が複数段階に分かれており、
変化の速い市街戦では時間差が生じたことだった。

さらに上空からは見えない道路障害もあり、
通信が成立していても「その道を実際に通れるか」は別問題だった。

「左か右か」の判断に失敗すると、数秒では戻れない

映画では、
車列が交差点を通り過ぎ、
「今の角を曲がるはずだった」と指示される場面が描かれている。

史実でも、
車列と上空側の位置認識には遅れが生じていた。

しかし重要なのは、
軍用車列は普通乗用車のように簡単にUターンできないことだ。

複数台が一定の間隔で走っている。

後方車両には拘束者や負傷者がいる。

交差点では周囲から射撃される。

先頭車両が進路を変えれば、
後続車両すべてへ伝えなければならない。

一度曲がる場所を誤れば、
次の交差点を探して大きく迂回することになる。

その迂回中にも被害は増える。

死傷者を見つければ、置いて進むことはできない

車列を遅らせたもう一つの重要な要因が、
途中で発生する死傷者だった。

車列自身が攻撃を受けて負傷者を出す。

さらに道路上には、
別の部隊で負傷した米兵がいる場合もある。

そうした人員を発見すれば、
回収して車両へ乗せなければならない。

しかし一人を収容するたびに、
車内スペースが減る。

医療処置のために戦闘可能な人員が一人取られることもある。

車列は移動すればするほど、
最初の状態より重くなっていった。

車両損失と負傷者が積み上がっていく

第1墜落地点を探している間、
地上車列は激しい攻撃を受けた。

米陸軍公式戦史では、
多数の死傷者を出し、
5トントラック2両を失い、
その他の車両にも大きな損傷が生じた
と記録されている。

車両が1両失われる影響は、
車両数が1減るだけではない。

その車両に乗っていた拘束者、兵士、負傷者を
残った車両へ移さなければならない。

車内はさらに混雑する。

負傷者を横たえる場所も必要になる。

戦闘可能な兵士が車外へ射撃する位置も減る。

一つの損失が、
次の損失に耐えられる余裕を削っていく。

最終的に、車列は空港へ戻る判断をした

第1墜落地点を発見できないまま、
車列の被害は増え続けた。

多数の負傷者。

損傷した車両。

拘束者。

そして継続する小火器・RPG射撃。

米陸軍公式戦史では、
地上車列の指揮官はこの状況を受け、
墜落地点への接近を断念して
空港へ戻ることを決定したとしている。

これは「救助を諦めた」という意味ではない。

このまま同じ車列で走り続ければ、
現在抱えている負傷者と拘束者まで失う危険が高まっていた。

いったん基地へ戻り、
部隊を再編成する必要が生じたのである。

戻る途中で、別の救援車列と合流する

さらに戦場は複雑化していた。

第1墜落地点へ向かった地上車列が戻る途中、
Task Force Ranger基地から新たに出ていたQuick Reaction的な車列と遭遇した。

この別車列は、
その頃すでに発生していた
Super 64の第2墜落地点へ向かおうとしていた。

戻ってきた車列は、
自分たちが収容していた負傷者の一部を
新しい車列へ移した。

しかし、こちらも簡単には第2墜落地点へ到達できない。

つまり16時台後半には、
モガディシュ市内で複数の米軍車列が、
異なる目的地へ向かいながら、
互いに負傷者を引き渡し、
再編成を繰り返す状態になっていた。

ここでTask Force Rangerの「出口」が消えた

第3回で見たTask Force Rangerの基本設計では、
地上車列には重要な役割があった。

航空機で突入する。

標的人物を拘束する。

そして地上車列が、
拘束者と突入部隊を回収して空港へ戻す。

つまり車列は、
作戦の「出口」だった。

しかしSuper 61墜落後、
その出口が救援任務へ転用される。

さらに道路封鎖、銃撃、航法、通信、死傷者によって、
車列自体が自由に動けなくなる。

この結果、
第1墜落地点に集まった徒歩部隊には
すぐ使える撤収手段がなくなった。

救出するための車列が来られない以上、
現場の部隊はその場所で防御し続けるしかない。

「通信の失敗」だけでも、「装甲不足」だけでもない

モガディシュの戦闘では、
一つの原因を選んで説明したくなる。

通信が悪かった。

地図が悪かった。

装甲車がなかった。

道路を知らなかった。

敵を過小評価した。

しかし地上車列の失敗を見ると、
実際にはこれらが相互に作用していたことが分かる。

要因 単独なら 実戦では
航法 道を間違えても修正できる 修正中に射撃される
道路封鎖 別ルートへ迂回できる 迂回路の位置確認にも時間がかかる
通信遅延 多少遅れても情報は届く 届く頃には車列位置や道路状況が変わる
軽装甲車両 高速移動には向く 停止すると小火器・RPGへの危険が増える
負傷者 少数なら搬送できる 増えるほど車列の戦闘能力・輸送能力を奪う

一つの問題が次の問題を悪化させた。

これが、地上車列が「数ブロック先」へたどり着けなかった理由だった。

FACT CHECK|「マックナイトの車列は単純に迷子になった」のか

戦闘を短く説明する際、
地上車列を「道に迷った車列」と表現することがある。

しかし米陸軍公式戦史では、
車列は第1墜落地点への接近を試みながら、
狭い市街地で地点を特定できず、
同時に小火器・RPGの激しい攻撃を受け、
多数の死傷者と車両損失を出したと記録されている。

したがって、
航法ミスだけを敗因として切り出すのは不適切である。

上空に地図があっても、地上の道路は開かない

この戦闘を理解するうえで、
地上車列は非常に重要な例になる。

米軍には上空から市街地を見る能力があった。

通信手段もあった。

航空支援もあった。

それでも、
車列の前にある瓦礫やバリケードそのものを
上空から取り除くことはできない。

建物の陰から射撃してくる相手を
すべて事前に発見することもできない。

負傷した兵士を
衛星画像の上だけで搬送することもできない。

情報優位と、
地上で自由に動けることは同じではない。

モガディシュでは、
その差が極端な形で表れた。

第1墜落地点では、徒歩部隊が取り残されていた

一方、第1墜落地点では、
レンジャー、デルタ、CSAR要員などが
Super 61周辺で防御を続けていた。

彼らが必要としていたのは、
単なる方向情報ではない。

負傷者を乗せられる車両。

弾薬。

水。

そして、全員を市街地から運び出せる輸送力だった。

地上車列が戻ったことで、
それらを即座に提供する手段が失われた。

この時点から、
短時間でTask Force Ranger単独の力だけで撤収する可能性は急速に小さくなる。

外部から、
より大きな救援部隊を組織する必要があった。

しかし、さらにもう一機が落ちていた

第1墜落地点への車列が苦戦している間、
上空ではもう一つ重大な出来事が起きていた。

MH-60「Super 64」がRPGを受ける。

操縦士マイケル・デュラントは
損傷した機体を制御しようとしたものの、
Super 64も市街地へ墜落した。

場所はSuper 61とは別だった。

つまり地上部隊は、
一つの墜落地点へたどり着けていない状態で、
二つ目の墜落地点まで救出しなければならなくなった。

これによりTask Force Rangerの問題は、
さらに分裂する。

まとめ|近かったのは「地図の上」だけだった

Super 61の第1墜落地点は、
標的建物から数ブロックの位置にあった。

しかし、地上車列にとってその距離は
単純な数百mではなかった。

狭く曲がった道路。
突然現れるバリケード。
建物・路地からの小火器とRPG。
航法経験の偏り。
上空と地上の位置認識差。
複数段階を経る通信。
そして増え続ける負傷者と損傷車両。

これらが重なり、
拘束者を乗せた車列は第1墜落地点を発見できないまま
大きな損害を受け、空港へ戻ることになった。

したがって、
地上車列が失敗した理由は
「道を知らなかった」でも「無線が悪かった」でもなく、
都市の道路網そのものが戦場になり、
航法・通信・火力・輸送の問題が同時に発生したから
だった。

そして、この車列が第1墜落地点へたどり着けない間に、
さらに別のBlack Hawkが墜落する。

次回はSuper 64の第2墜落地点へ移る。

なぜゲイリー・ゴードンとランディ・シュガートは
地上への降下を繰り返し要請したのか。

そして、マイケル・デュラントだけが生き残った第2墜落地点で、
何が起きたのかを公的記録から追う。


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CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間
  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱【現在の記事】

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • U.S. Army Center of Military History,
    The United States Army in Somalia, 1992–1994.
    — 10月3日の公式戦闘地図、第1・第2墜落地点、
    地上車列が狭い路地で第1墜落地点を発見できなかったこと、
    小火器・RPG射撃、5トントラック2両の損失、
    空港への帰還判断を確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — Task Force Ranger、地上車列、QRF、
    モガディシュ市街地での車両運用と救援作戦の基本経過を確認。
  • U.S. Army,
    Soldiers reflect on Battle of Mogadishu.
    — ジェフ・ストルーカーによる地上航法の回顧、
    道路知識を複数人で共有していなかった点、
    地上から見たモガディシュの航法難易度を確認。
  • U.S. Army University Press,
    Battle of Mogadishu.
    — 上空のP-3 Orionと地上部隊の情報伝達、
    道路封鎖、通信経路による時間差、
    地上車列の行動について補助的に確認。
  • U.S. Army Center of Military History,
    Somalia campaign records.
    — 9月以前から道路封鎖撤去部隊が攻撃されていたこと、
    106mm無反動砲、RPG、小火器などが使用されていた戦闘環境を確認。

※「地上車列が道に迷った」という表現だけでは、
第1墜落地点へ到達できなかった理由を十分に説明できない。
米陸軍公式戦史では、狭く曲がった市街地、
小火器・RPG射撃、多数の死傷者、車両損失が併記されている。

※通信問題については、
「無線機が一律に故障していた」という意味ではない。
上空の監視・指揮要素から地上車列まで情報が伝わる過程に時間差があり、
その間に車列位置や道路状況が変化する問題を重視した。

※現在のGoogle Mapは1993年当時の道路・建物・バリケードを再現しないため、
本記事ではGoogle Map埋め込みを使用しない。
位置関係は米陸軍Center of Military Historyが公開する
「Mogadishu 3–4 October 1993」の公式戦闘地図を基礎にした模式図で確認し、
現在地図より公式戦闘地図を優先した。

※本記事で扱うのはTask Force Ranger側の10月3日夕方の地上車列。
第10山岳師団、マレーシア軍、パキスタン軍による夜間の多国籍救援車列は
構成・任務・装甲車両が異なるため、第8回で分離して扱う。

Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

軍事作戦・戦闘

Super 61が墜落してから、まだ30分も経っていなかった。

1993年10月3日夕方。
モガディシュ上空を飛行していたもう1機のMH-60 Black Hawk、
コールサイン「Super 64」がRPGを受けた。

機体を操縦していたマイケル・デュラントは、
損傷したBlack Hawkを制御しようとした。

しかしSuper 64は、
第1墜落地点から約1マイル離れた市街地へ墜落する。

その瞬間、Task Force Rangerが抱えていた問題は二つに分裂した。

第1墜落地点にはすでに多数の米兵が集まり、
負傷者と死亡した搭乗員を回収しながら防御を続けている。
地上車列はそこへさえ容易に到達できていない。

そして今度は、
まったく別の場所にもう一つの墜落地点が生まれた。

Super 64の乗員は重傷を負い、
周囲には武装したソマリア側の人員が集まり始める。

しかし、すぐ地上へ投入できるまとまった救援部隊はなかった。

その上空にいたのが、
Task Force Rangerの狙撃チームだった
Master Sergeant Gary GordonとSergeant First Class Randall Shughartである。

2人は地上への投入を要請した。

一度ではない。

二度拒否され、
3度目の要請でようやく許可された。

第7回では、
Super 64が撃墜されてから、
ゴードンとシュガートの降下、
マイケル・デュラントの防御、
墜落地点の陥落、
そしてデュラントが捕虜になるまでを、
米陸軍の公式勲章記録を中心に追う。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、Operation Gothic Serpentと
1993年10月3~4日のモガディシュ市街戦を中心に追う。

第5回ではSuper 61の第1墜落地点、
第6回ではそこへ向かった地上車列の混乱を扱った。

今回はSuper 64の第2墜落地点だけに焦点を絞る。
翌朝の多国籍救援については第8回で扱う。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱
  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点【現在の記事】

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|第2墜落地点には、すぐ送れる救援部隊がいなかった

Super 64の第2墜落地点が第1墜落地点よりさらに深刻だった最大の違いは、
まとまった地上部隊がすぐ現場へ入れなかったことにある。

Super 61が墜落したときには、
MH-6、レンジャー6人、15人のCSARチームなどが短時間で現場へ入った。

しかしその救難戦力は、
すでに第1墜落地点で戦闘中だった。

標的建物にいたAssault ForceやBlocking Forceの多くも
第1墜落地点へ向かっている。

地上車列も市街地で損害を受け、
自由に動ける状態ではない。

そこへSuper 64が墜落した。

第2墜落地点には重傷を負った乗員がいる。

上空からは武装したソマリア側の人員が
現場へ近づいていることも確認できた。

しかし、
彼らを守るためにすぐ送り込める地上部隊がない。

この空白を埋めようとしたのが
ゴードンとシュガートだった。

Super 61から約28分後、Super 64もRPGを受けた

米陸軍の回顧資料では、
Super 61が撃墜されてから約28分後、
Super 64がRPGを受けたとされている。

Super 61の撃墜を16時20分とすれば、
おおむね16時48分前後となる。

RPGはSuper 64のテールローター系統に重大な損傷を与えた。

操縦していたのは
CW3 Michael DurantとCW3 Raymond Frankだった。

機体にはさらに、
クルー・チーフのWilliam ClevelandとThomas Fieldが搭乗していた。

デュラントは損傷した機体の制御を試みたが、
Super 64は飛行を維持できなくなった。

機体は第1墜落地点から約1マイル離れた市街地へ落ちた。

FACT CHECK|Super 64の撃墜時刻は16時40分か16時48分か

公的資料にも表記差がある。

一部の米空軍広報資料では16時40分としている一方、
米陸軍の戦闘参加者回顧では
「Super 61撃墜の28分後」と記録されている。

Super 61を16時20分とすると後者は16時48分前後になる。

本特集では分単位の確定を過度に行わず、
16時40分台後半を中心として扱う。

第2墜落地点は、第1墜落地点から離れていた

Super 61とSuper 64は、
同じ場所へ落ちたわけではない。

米陸軍公式資料では、
Super 64の墜落地点は
第1墜落地点から約1マイル離れていたとされる。

ここで現在の地理では、作戦地域だったBakara Market周辺を基準に、
第1・第2墜落地点が生じたモガディシュ市街地のおおまかな範囲を確認できる。

Bakara Market周辺の現在位置。現在のGoogle Mapは1993年当時の道路・建物配置や、Super 61・Super 64の正確な墜落地点を示すものではない。2つの墜落地点の歴史的な位置関係は、米陸軍公式戦史のMap 3を優先する。


Googleマップで大きく見る


米陸軍公式戦史「Map 3」で1993年当時の第1・第2墜落地点を確認する

この距離が決定的だった。

第1墜落地点の地上部隊が
そのまま徒歩で第2墜落地点まで移動するには、
現在守っているSuper 61を放棄しなければならない。

しかし第1墜落地点には、
負傷者、死亡した搭乗員、
回収作業中の機体が残っている。

つまり、
一つ目の救出MISSIONを中止して
二つ目へ移ることはできなかった。

Task Force Rangerは、
同時に二つの墜落地点を確保しなければならなくなった。

「一つの事故への備え」は、「二つの事故」には足りなかった

第5回で見たように、
Task Force Rangerには航空機墜落用のCSARチームが準備されていた。

それはSuper 61へ投入された。

MH-6も第1墜落地点で救助を行った。

レンジャーも徒歩で現場へ向かった。

そのためSuper 64が墜落した時点では、
第1墜落地点と同じ規模の救難チームを
直ちにもう一組投入することはできなかった。

ここで10月3日の作戦は、
質的にもう一段階悪化する。


一つの予定外事態を処理している最中に、
同じ種類の予定外事態が別地点でもう一度発生した。

これが第2墜落地点の孤立につながった。

Super 64の4人は全員、戦闘できる状態ではなかった

米陸軍のMedal of Honor公式勲章記録は、
第2墜落地点の4人を
「critically wounded personnel」と記録している。

つまり、
4人全員が墜落後に正常な歩兵部隊として
周囲を守れる状態ではなかった。

特にデュラントは、
墜落によって重傷を負っていた。

自力で現場から移動することは困難だった。

墜落地点を守るには、
外部から戦闘可能な人員を送る必要がある。

しかし地上部隊は間に合わない。

上空では狙撃チームが支援を続けていた

第2墜落地点の上空には、
Task Force Rangerの特殊作戦狙撃チームがいた。

その中心が、
Master Sergeant Gary Gordonと
Sergeant First Class Randall Shughartだった。

2人は10月3日の作戦開始時から、
ヘリコプター上から精密射撃を行い、
地上部隊を支援していた。

Super 61が墜落した後も、
墜落地点へ接近する武装要員への射撃を行っている。

そしてSuper 64が落ちると、
今度は第2墜落地点の防御を上空から支援した。

しかし、
上空から撃てる範囲には限界がある。

建物。
塀。
小屋。
路地。

攻撃側が墜落機へ近づけば、
航空機上からでは死角が増える。

地上で直接防御する人員が必要になった。

ゴードンとシュガートは、地上への投入を要請した

米陸軍のMedal of Honor公式勲章記録によれば、
ゴードンとシュガートは、
地上部隊がすぐ第2墜落地点へ到着できないことを知った。

そして、
Super 64の乗員を守るため
自分たちを地上へ投入するよう要請した。

状況は非常に危険だった。

周囲には多数の武装要員が集まりつつあり、
降下した2人を直ちに支援できる地上部隊もない。

そのため最初の要請は認められなかった。

2度目も拒否された。

それでも2人は要請を続ける。

3度目の要請で、ようやく地上への投入が許可された。

FACT CHECK|命令されて降下したのか

公式Medal of Honor citationは、
ゴードンとシュガートが自ら
第2墜落地点への投入を志願したと明記している。

また一度の要請ですぐ許可されたのではなく、
3回目の要請で許可された

したがって、
「上官から第2墜落地点へ行くよう命令された2人」
という説明は公式記録と一致しない。

墜落地点そのものには降りられなかった

2人を乗せた航空機は、
Super 64の墜落地点へ接近した。

しかし墜落機周辺には残骸があり、
地上からの射撃も激しかった。

そのため、
墜落地点そのものへ安全に投入することはできなかった。

米陸軍公式勲章記録では、
ゴードンとシュガートは
墜落地点の約100m南へ投入されたとされている。

地図上では100mは短い。

しかし第6回で見た通り、
都市戦の100mは平地の100mではない。

2人は小屋や建物が密集する区域を、
射撃を受けながら進まなければならなかった。

狙撃銃と拳銃だけで墜落地点へ進んだ

公式勲章記録は、
2人の装備についても記録している。

ゴードンとシュガートは、
基本的に狙撃銃と拳銃を携行していた。

数十人規模の部隊が降下したわけではない。

装甲車もない。

CSARチームもいない。

2人は墜落地点まで移動し、
負傷したSuper 64の乗員へ到達した。

そして機内から乗員を引き出し、
周囲に防御線を作った。

2人は「救出」ではなく、到着までの時間を作ろうとしていた

ここで重要なのは、
ゴードンとシュガートの2人だけで
Super 64の乗員4人を安全地帯まで運ぶことが
現実的なMISSIONではなかったことである。

デュラントを含む乗員は重傷を負っていた。

徒歩で数km離脱することはできない。

2人の役割は、
墜落地点を一時的に確保し、
地上救援部隊が到着するまで生存者を守ることだった。

言い換えれば、
彼らが必要としていたのは
「勝利」ではなく「時間」だった。

その時間の間に、
地上部隊が到着すればよい。

しかし地上救援部隊は到着できなかった

Task Force Ranger基地側では、
Super 64の乗員を救出するための地上車列も編成された。

しかし第6回で見たのと同じ問題が起きる。

道路封鎖。

小火器・RPG。

航法。

負傷者。

車両損傷。

米陸軍の回顧資料では、
Super 64へ向かった車列も
最終的に第2墜落地点へ到達できなかった。

つまりゴードンとシュガートが期待していた
「後から来る地上救援」が間に合わなかった。

上空からの支援も永続することはできなかった

2人を降下させた後も、
上空のBlack Hawkは第2墜落地点への火力支援を続けた。

しかし航空機自身も、
地上から小火器とRPGの攻撃を受けていた。

10月3日の時点ですでに、
Super 61とSuper 64が失われ、
Super 68もRPGを受けている。

上空にBlack Hawkを同じ場所へ長時間留め続けることは、
別の墜落を招く危険があった。

そのため、
第2墜落地点は次第に
ゴードン、シュガート、
そして重傷のSuper 64乗員だけで守る状態へ近づいていった。

墜落機から乗員を出し、防御位置を作る

ゴードンとシュガートは
Super 64へ到達すると、
重傷の乗員を機体から引き出した。

公式勲章記録では、
2人は墜落機周辺に防御線を設定し、
自分たちを最も攻撃を受けやすい位置へ置いたとされている。

周囲には武装したソマリア側の人員が接近していた。

2人は墜落地点の周囲を移動しながら、
接近する相手へ射撃を続けた。

しかし弾薬は有限だった。

なぜデュラントだけが生き残ったのか

第2墜落地点にいたSuper 64乗員のうち、
最終的に生存したのはマイケル・デュラントだった。

米陸軍資料は、
墜落地点が最終的にソマリア側に制圧され、
ゴードンとシュガートを含む米兵が死亡したと記録している。

デュラントは重傷を負った状態で拘束された。

ここで注意したいのは、
「デュラントが一人だけ戦って生き残った」
という意味ではない。

彼は墜落による重傷を負い、
ゴードンとシュガートが地上へ来なければ
さらに早い段階で現場が制圧されていた可能性が高い。

米陸軍のMedal of Honor citationも、
2人の行動がパイロットの生命を救ったと明記している。

ゴードンとシュガートの最後について、細部を映画と混同しない

第2墜落地点の最終局面は、
『ブラックホーク・ダウン』でも強く描かれた部分である。

ただし、
誰がどの瞬間に倒れ、
誰が最後にどの武器をデュラントへ渡したのかといった細部は、
後年の再現や二次資料によって描写が異なる。

このため本特集では、
映像作品の順序をそのまま史実として採用しない。

米陸軍の公式Medal of Honor citationが確実に示しているのは、
次の点である。

確認できる事実 公式記録
投入要請 2人は自ら志願し、3度目の要請で許可された
投入地点 墜落地点から約100m南
移動 小屋・建物の密集地を戦闘しながら進んだ
乗員への対応 重傷の乗員を機体から出した
防御 墜落地点周辺で防御を継続した
結果 2人とも戦死、デュラントは生存

FACT CHECK|「最後に銃を渡したのは誰か」

一般的な再現作品や二次資料には、
最終局面の細かな順序について異なる描写が存在する。

米陸軍のGary Gordon公式Medal of Honor citationでは、
Gordonが墜落機から残弾のあるライフルを回収し、
パイロットへ渡したという記録になっている。

一方、映像作品や一部の二次資料では
別の順序で描かれることがある。

本記事では公式勲章記録を基準とするが、
最終局面の秒単位の行動順まで
完全に再現できる一次映像記録があるわけではないため、
必要以上に細部を断定しない。

第2墜落地点は最終的に制圧された

地上救援部隊が到着する前に、
第2墜落地点へ接近するソマリア側の人数は増えていった。

ゴードンとシュガートは防御を続けたが、
弾薬も人員も限られていた。

最終的に墜落地点は制圧された。

ゴードンとシュガートは戦死した。

Super 64の乗員も、
デュラントを除いて死亡した。

デュラントは拘束され、
アイディード派の管理下で捕虜となった。

米軍側は当初、
第2墜落地点の乗員全員がどうなったのか正確には把握できていなかった。

航空機は夜間も生存者を捜索した。

米軍は夜になってもSuper 64の生存者を探していた

Super 68を操縦していたダン・ジョロタは、
損傷機で空港へ戻った後、
別の航空機で再び戦闘へ戻った。

米陸軍の回顧記事によれば、
彼はSuper 64の乗員が機体から脱出し、
市街地を移動している可能性も考えていた。

そのため夜間も上空から
Super 64の乗員を探し続けた。

しかし実際には、
第2墜落地点はすでに制圧されていた。

デュラントだけが生存し、
捕虜になっていた。

11日間の捕虜生活

デュラントは重傷を負った状態で拘束された。

その後、
彼が生存していることは米国側にも知られるようになる。

デュラントの拘束は、
単なる一兵士の救出問題ではなく、
戦闘後の米国とソマリア側との政治的交渉にも関わる問題になった。

最終的に、
デュラントは11日後に解放された。

解放後は医療搬送され、
治療を受けている。

この11日間については、
本シリーズでは戦闘当日の構造から離れすぎるため詳細には踏み込まない。

重要なのは、
第2墜落地点で米軍側が全滅したわけではなく、
デュラントという生存者が残り、
後に帰還したことである。

ゴードンとシュガートにはMedal of Honorが授与された

ゴードンとシュガートの行動に対して、
米国は2人にMedal of Honor、
名誉勲章を授与した。

授与は死後である。

1994年5月23日、
ホワイトハウスで遺族へ授与された。

これはベトナム戦争後、
久しく授与されていなかったMedal of Honorでもあった。

ただし、
この第7回の目的は2人を英雄的に美化することではない。

なぜ2人だけが第2墜落地点へ入らざるを得なかったのか。

その背景には、
Task Force Rangerの複数部隊が
すでに別の問題へ拘束されていたという作戦構造がある。

第1墜落地点と第2墜落地点は、何が違ったのか

二つの墜落地点を比較すると、
第2墜落地点がなぜ急速に孤立したのかが分かる。

Super 61 第1墜落地点 Super 64 第2墜落地点
発生 先に発生 約28分後
初動航空救助 MH-6が到着 まとまった航空救難部隊なし
CSAR 15人チーム投入 第1墜落地点へ投入済み
徒歩地上部隊 レンジャー・Assault Forceが集結 すぐ到着できず
即時防御 複数部隊 最終的にGordon・Shughart中心
結果 翌朝まで保持 夜を待たず制圧される

同じMH-60墜落でも、
発生した順番によって利用できる救援資源がまったく違っていた。

第1墜落地点がすでに
Task Force Rangerの戦力を吸収していたからこそ、
第2墜落地点には部隊を集められなかったのである。

2機目の墜落が「決定的な転換点」になった

米陸軍の戦闘参加者の一人は、
Super 64が落ちた瞬間を
戦闘がさらに悪化した転換点として振り返っている。

理由は分かりやすい。

Super 61だけなら、
Task Force Rangerの戦力を第1墜落地点へ集約することができた。

しかしSuper 64が別の場所へ落ちたことで、
部隊は集約できなくなった。

一つの救援MISSIONが、
二つの独立した救援MISSIONになった。

しかも、どちらも市街地の敵対地域の中にある。

Task Force Ranger単独で
両方を短時間に処理する余裕は消えていた。

FACT CHECK|「デュラント救出の車列」は存在した

第2墜落地点へ地上から誰も向かわなかったわけではない。

Task Force Ranger基地側では
Super 64の生存者を救出するための車列が出動している。

しかし市街地で激しい攻撃を受け、
最終的に墜落地点へ到達することはできなかった。

したがって、
GordonとShughartが完全に計画外の独断で
「誰も来ない場所」へ行ったという理解も正確ではない。

地上救援は試みられていたが、
間に合わなかったのである。

「英雄譚」だけでは、この第2墜落地点は理解できない

ゴードンとシュガートの行動だけを見ると、
第2墜落地点は2人の勇気を語る物語になる。

その行動が極めて危険で、
公式に最高位の軍事勲章が授与されたことは事実である。

しかしCASE FILEとして重要なのは、
その一段前を見ることである。

なぜ2人だけだったのか。

なぜCSARチームは来なかったのか。

なぜ地上車列は間に合わなかったのか。

なぜ上空からの支援だけでは守れなかったのか。

それらの答えは、
第1墜落地点で救難資源がすでに使用され、
道路上の部隊も戦闘と負傷者搬送で動けなくなっていたことにある。

第2墜落地点の悲劇は、
2人の選択だけではなく、
戦場全体の救援能力が飽和した結果でもあった。

まとめ|Super 64で、MISSIONは二つに割れた

Super 61が墜落したとき、
Task Force Rangerは拘束作戦から救出作戦へ変わった。

しかしSuper 64が墜落すると、
その救出作戦自体が二つに分裂した。

第1墜落地点にはすでにMH-6、レンジャー、CSAR、
Assault Forceなどが集まっていた。

そのため約1マイル離れた第2墜落地点へ、
同じ規模の救援戦力をすぐ送ることはできなかった。

ゴードンとシュガートは、
地上部隊が間に合わないことを知りながら、
3度にわたって投入を要請した。

約100m離れた地点へ降下し、
重傷のSuper 64乗員へ到達。
墜落地点を守り続けた。

しかし地上救援部隊は間に合わず、
最終的に2人は戦死した。

Super 64の乗員では
マイケル・デュラントだけが生存し、
捕虜となった後、11日後に解放された。

第2墜落地点で明らかになったのは、
Task Force Rangerがすでに自力で全員を回収できる段階を越えていたということだった。

次に必要だったのは、
Task Force Rangerの外側から投入される
より大きな救援戦力だった。

次回はその救援部隊を見る。

第10山岳師団だけではない。

マレーシア軍の装甲兵員輸送車、
パキスタン軍の戦車も組み込まれた多国籍救援部隊は、
なぜ必要になり、
どのように夜のモガディシュへ突入したのかを追う。


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CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱
  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点【現在の記事】

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • U.S. Army,
    Somalia Medal of Honor Recipients — Gary I. Gordon / Randall D. Shughart.
    — 3度にわたる投入要請、約100m南への降下、
    重傷乗員の救出、防御行動、両名の戦死についての公式勲章記録。
  • U.S. Army Center of Military History,
    The United States Army in Somalia, 1992–1994.
    — Super 61とSuper 64の位置関係、
    第2墜落地点の陥落、デュラント拘束など戦闘全体の確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — 2機目のMH-60喪失、
    第1墜落地点と第2墜落地点へ戦力が分散した経過を確認。
  • U.S. Army,
    Veterans reflect on Battle of Mogadishu.
    — Super 64がSuper 61の約28分後に墜落したこと、
    地上救援車列が到達できなかったこと、
    デュラントの捕虜・11日後の解放を確認。
  • U.S. Army,
    Soldiers reflect on Battle of Mogadishu.
    — Super 64の操縦士Michael DurantとRaymond Frank、
    第2墜落地点の孤立、
    夜間の生存者捜索について確認。
  • U.S. Army University Press,
    This Month in NCO History: The Battle of Mogadishu, Oct. 3, 1993.
    — GordonとShughartの上空支援、投入要請、
    4人の重傷乗員、防御行動の確認。

※Super 64撃墜時刻は公的資料にも表記差がある。
米陸軍回顧資料はSuper 61撃墜から「28分後」としており、
Super 61を16時20分とすれば16時48分前後となる。
一方、一部の公的広報資料には16時40分との表記がある。
このため本記事では「16時40分台後半」を中心に扱う。

※GordonとShughartの最終局面については、
映画・書籍・二次資料で行動順序に違いがある。
本記事では米陸軍のMedal of Honor公式勲章記録を最優先し、
一次資料で確認できない秒単位の順序は断定していない。

※Michael DurantはSuper 64第2墜落地点の唯一の生存者となり、
捕虜として11日間拘束された後に解放された。

※第2墜落地点の現在の正確なGoogle Map座標を、
二次資料から推測して掲載することは行わない。
位置関係は米陸軍公式戦史の戦闘地図を基準とする。

夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

軍事作戦・戦闘

10月3日の夜、
モガディシュ市内には約100人のTask Force Ranger要員が取り残されていた。

第1墜落地点では、
Super 61の残骸を囲むようにレンジャー、デルタ、CSAR要員らが防御を続けている。

負傷者がいる。

弾薬と水にも限りがある。

墜落機内部には、
まだ回収できていない搭乗員が残っている。

そして、第2墜落地点のSuper 64はすでに制圧され、
マイケル・デュラントは捕虜となっていた。

Task Force Ranger単独による救援車列も、
第10山岳師団のQuick Reaction Forceも、
昼間のうちには墜落地点へ突破できなかった。

そこで夜になって組織されたのが、
米軍だけでは完結しない救援部隊だった。


米陸軍第10山岳師団の歩兵。
マレーシア軍の装甲兵員輸送車。
パキスタン軍の戦車。
そして米軍のヘリコプター。

それまで一緒に訓練したことすらほとんどなかった部隊を、
数時間のうちに一つの車列へまとめる。

目的は一つだった。

夜のモガディシュへ再び入り、取り残された部隊を連れ戻す。

第8回では、
なぜこの多国籍救援部隊が必要になったのか、
どのように編成され、
どのように第1墜落地点まで突破したのかを追う。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、
Operation Gothic Serpentと1993年10月3~4日の
モガディシュ市街戦を中心に追う。

第7回までに、
二機のBlack Hawk墜落とTask Force Rangerの分断を見てきた。

第8回は、
その状況を外側から解決するために組織された
多国籍救援部隊を扱う。

救援部隊到着後の撤収と
「モガディシュ・マイル」については第9回で続ける。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点
  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊【現在の記事】

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|救出には「装甲」が必要になった

10月3日午後のTask Force Rangerは、
ヘリコプターとハンヴィー、5トントラックを中心とする
高速な襲撃部隊だった。

しかし戦闘が長期化すると、
その強みだった軽さが別の問題を生んだ。

市内には道路封鎖がある。

交差点や建物から小火器が撃たれる。

RPGによって車両やヘリコプターが攻撃される。

さらに大量の負傷者を
市街地から運び出さなければならない。

昼間に投入された軽車両中心の救援部隊は、
こうした環境で繰り返し阻止された。

そこで必要になったのが、
攻撃を受けながら歩兵と負傷者を運べる装甲車両だった。

しかし、米軍のQRFには
その夜すぐ使用できる十分な戦車・装甲兵員輸送車がなかった。

車両を持っていたのは、
UNOSOM IIに参加していた
マレーシア軍とパキスタン軍だった。

第10山岳師団QRFも、最初の救出には失敗していた

Task Force Rangerとは別に、
モガディシュには米陸軍第10山岳師団を中心とする
Quick Reaction Force――QRFが存在していた。

中心となった地上部隊は、
第2大隊第14歩兵連隊、
通称「Golden Dragons」だった。

Super 61とSuper 64の墜落を受け、
QRFも救援へ動いた。

しかし最初の試みは成功しなかった。

C Companyを中心とする部隊は、
第2墜落地点へ向かう途中、
K-4 Circle付近で激しい射撃を受けた。

米陸軍公式戦史では、
指揮官William C. David中佐は
小規模で火力の不足した部隊をこれ以上前進させず、
空港へ戻して再編成する判断をしたとされる。

つまり、
夜間救援車列が組織される前に、
米軍通常部隊による救援も一度は阻止されていた。

必要なのは、ハンヴィーを増やすことではなかった

昼間の経験から明らかになったのは、
単純に車両数を増やして再突入すればよいわけではないことだった。

必要だったのは、
道路封鎖とRPGの中を進める車両だった。

第10山岳師団のQRF指揮官たちは、
本格的な装甲を備えた救援部隊を必要としていた。

だが、その装甲戦力を
米軍だけでは用意できない。

そこでUNOSOM IIの他国部隊へ協力が求められた。

パキスタン軍には戦車があった

パキスタン軍は、
UNOSOM IIでモガディシュの治安任務を担っていた主要部隊の一つだった。

9月以前から、
市内で道路封鎖撤去や武装勢力との戦闘を経験している。

そして米軍側にはない、
戦車部隊を現地に持っていた。

夜間救援作戦では、
パキスタン軍の戦車小隊が加わった。

米陸軍公式戦史は、
後に編成された救援車列について
パキスタン戦車が先頭を進んだと記録している。

役割は単なる輸送ではない。

道路封鎖を突破し、
攻撃を受けた場合に強力な火力で応戦し、
後続する装甲兵員輸送車と歩兵の進路を確保する。

救援車列の先頭には、
それまでのTask Force Ranger車列とは
まったく違う種類の車両が置かれた。

マレーシア軍にはCondor装甲兵員輸送車があった

もう一つ重要だったのが、
マレーシア軍MALBATTだった。

マレーシア陸軍の公式記録によれば、
19th Royal Malay Regimentを中心とする部隊が
1993年6月からUNOSOM IIの一員としてモガディシュへ展開していた。

その部隊が運用していたのが、
Condor装甲兵員輸送車だった。

夜間救援作戦では、
マレーシア軍の二個中隊から
装甲兵員輸送車が提供された。

そして車両だけが貸し出されたのではない。

マレーシア側の乗員が車両を操縦し、
実際に敵対地域へ進入した。

その内部には、
第10山岳師団の米兵が乗り込んだ。

つまり、


マレーシア軍が車両を動かし、
米軍歩兵を戦闘地域へ運ぶ

という編成だった。

FACT CHECK|マレーシア軍は「装甲車を貸しただけ」だったのか

違う。

米陸軍の戦史は
「Malaysian armored personnel carriers」と記述しているが、
マレーシア陸軍側の記録を見ると、
MALBATT要員自身が車両を運転・運用して救出MISSIONへ参加している。

実際、
Condor装甲車を運転していたMat Aznan Awangは
救出作戦中の攻撃で戦死している。

したがってマレーシア軍を
「米軍へ車両だけ貸し出した部隊」と表現するのは不正確である。

それまで一緒に訓練していなかった部隊を、その夜に統合する

ただし、
車両が見つかればすぐ出発できるわけではなかった。

第10山岳師団、
マレーシア軍、
パキスタン軍は、
Task Force Ranger救出を想定した統合訓練を
事前に行っていた部隊ではない。

米陸軍の回顧記録では、
第2大隊第14歩兵連隊は
マレーシア・パキスタン部隊と
それまで一度も共同訓練をしていなかったとされている。

通信方法。

車列の順序。

誰がどの部隊を運ぶのか。

どの道路を使うのか。

第1墜落地点と第2墜落地点のどちらへ向かうのか。

攻撃を受けたとき誰がどう動くのか。

これらを夜の数時間で調整しなければならなかった。

なぜ出発まで何時間もかかったのか

Super 61が墜落したのは16時20分ごろだった。

それに対し、
大規模救援部隊が市街地へ出るのは夜遅くになってからである。

この時間差だけを見ると、
「救出部隊の編成が遅すぎた」と感じる。

しかし米陸軍Center of Military Historyは、
この時間を単なる遅延とは評価していない。

パキスタンとマレーシアから戦車・装甲車を集め、
計画を説明し、
第10山岳師団の部隊と統合する必要があった。

公式戦史は、
この調整時間は複雑な多国籍作戦にとって不可欠だった
と明記している。

昼間のように急いで小規模車列を再投入し、
再びK-4 Circleで阻止されれば意味がない。

次の一回は、
墜落地点まで突破できなければならなかった。

FACT CHECK|マレーシア・パキスタン部隊が協力を渋ったから遅れたのか

この点は資料によって語り方が異なるため注意が必要である。

米陸軍公式戦史が強調しているのは、
多国籍部隊へ計画を説明し、
部隊を一つの作戦へ統合するための時間だった。

少なくとも
「マレーシア軍やパキスタン軍が救出を拒否したため数時間失われた」
と単純に説明できる公的根拠はない。

実際には両国部隊とも救援車列に参加し、
敵対地域の内部まで進入している。

救援部隊はNew Port地区へ集められた

救援部隊は、
最初に空港周辺で準備され、
その後New Port地区へ集結していった。

ここで各国部隊と車両を組み合わせる。

現在の地理では、救援車列の集結地点として公式戦史に記録される「New Port area」の大まかな位置関係を、現在のモガディシュ港を基準に確認できる。

現在のモガディシュ港。1993年の米陸軍公式戦史が救援車列の集結地点として記す「New Port area」の都市内での大まかな位置関係を確認するための地図であり、当時の正確な集結地点・道路網・進攻経路を示すものではない。


Googleマップで大きく見る

米陸軍公式戦史では、
最終的な車列は
60両を超える規模になったとされている。

正確な車両数については資料差がある。

しかし少なくとも、
Task Force Rangerが昼間に使用した
12両規模の地上車列とは
まったく異なる規模だったことは明らかである。

要素 主な役割
第10山岳師団 2-14 Infantry 救出地点への地上戦闘・現場確保
パキスタン軍 戦車による車列先導・重装甲・火力
マレーシア軍 Condor装甲兵員輸送車による兵員・負傷者輸送
米軍航空部隊 航空偵察・指揮統制・火力支援
Task Force Ranger残存要員 救援・連絡・特殊作戦支援

正確な「何両だったか」は資料によって違う

救援車列については、
資料によって車両数に違いがある。

米陸軍Center of Military Historyは、
詳細な内訳を固定せず
「60両を超える車列」としている。

一方、別の米軍研究・軍事研究では、
パキスタン軍の戦車4両、
マレーシア軍のCondor装甲兵員輸送車約20~30両規模など、
より詳細な内訳を示すものがある。

このため本記事では、
数字を一つに統合して
「正確に○両だった」と断定しない。

重要なのは、
多数の装甲車両を含む、60両超の多国籍車列になった
という公式戦史で確認できる範囲である。

夜遅く、車列が動き始めた

数時間の準備を経て、
救援車列はNew Port地区を出発した。

後年の米軍タイムラインでは、
23時台に出発したとする記録が多い。

車列の先頭にはパキスタン軍戦車。

その後ろに、
第10山岳師団兵を乗せた
マレーシア軍の装甲兵員輸送車などが続く。

さらに上空では、
AH-1 Cobra攻撃ヘリコプター、
指揮統制用UH-60、
OH-58偵察ヘリコプターなどが支援した。

昼間の救援とは違う。

地上部隊そのものに装甲を与え、
上空の航空部隊と組み合わせた突破部隊になっていた。

パキスタン戦車を先頭にNational Streetへ入る

救援車列はNew Port地区から北へ進み、
National Streetへ入った。

ここから先は、
第6回で地上車列が苦戦した
モガディシュ中心部へ再び入ることになる。

道路封鎖。

RPG。

機関銃・小火器。

夜間。

車列が大きくなったからといって、
これらの問題がなくなるわけではない。

しかし今回は、
先頭に装甲戦力がある。

道路上の障害を突破し、
攻撃を受けても車列全体を前へ押し続けることが
作戦の前提だった。

長い車列は、別の弱点も持っていた

ただし、
車両が多ければ必ず有利というわけでもない。

60両を超える車列では、
先頭と最後尾の距離が長くなる。

交差点を一つ通過するだけでも時間がかかる。

先頭が曲がっても、
後方部隊にはその状況がすぐ見えない。

さらに今回は、
米軍、マレーシア軍、パキスタン軍という
異なる部隊が混在している。

通信系統も完全に共通ではない。

昼間とは違う形で、
航法と指揮の難しさが残っていた。

実際に車列の一部が分離した

National Streetを進行中、
その問題が現実になる。

米陸軍公式戦史では、
第10山岳師団第2小隊の兵士を乗せた
マレーシア軍装甲兵員輸送車2両が、
誤ってNational Streetから南方向へ曲がったと記録している。

本隊は別方向へ進んだ。

結果として、
2両の装甲車と搭乗していた部隊が孤立する。

彼らは直後に待ち伏せを受け、
周囲の建物へ避難して戦闘することになった。

再び、
救援する側の一部が救援を必要とする状態
が発生した。

マレーシア軍にも死傷者が出た

多国籍救援車列は、
安全な輸送任務ではなかった。

マレーシア軍のCondorも
RPGや対戦車兵器による攻撃を受けた。

マレーシア陸軍の公式記録では、
Condor装甲車の運転手だった
Mat Aznan Awang
救出作戦中の攻撃で戦死している。

同じ攻撃では複数の負傷者も発生した。

つまり、
第8回でいう「多国籍救援」とは、
後方から米兵を迎えに来ただけの任務ではない。

マレーシア部隊自身も
モガディシュの敵対地域へ入り、
攻撃を受けながら前進していた。

FACT CHECK|マレーシア軍の死傷者数には資料差がある

この戦闘のマレーシア軍被害については、
米軍資料間でも数字が一致していない。

米陸軍Center of Military Historyは
3~4日のマレーシア側被害を「2人死亡・7人負傷」と記録している。

一方、別の米軍資料には
「1人死亡・10人負傷」とするものがあり、
マレーシア陸軍の公式記録では
Mat Aznan Awangの戦死と、
彼の車両への攻撃で複数の負傷者が出たことが確認できる。

集計範囲や負傷者の数え方が一致していないため、
本特集では一つの数字へ無理に統合しない。

第10山岳師団兵は装甲車から降り、道路を切り開いた

装甲兵員輸送車があるからといって、
最後まで全員が車内にいられるわけではない。

道路上には障害物がある。

建物や路地から射撃される。

前方の敵を排除しなければ、
車列自体が停止する。

そのため第10山岳師団兵は
必要に応じて装甲車から降り、
徒歩で道路沿いを戦闘しながら前進した。

米陸軍の参加者回顧では、
先頭部隊が障害物を処理し、
激しい射撃の中を一ブロックずつ進んだことが記録されている。

装甲車は、
歩兵の代わりではない。

歩兵が戦える状態で
目的地まで運び、
必要な場所では火力と防御を与えるための道具だった。

A Companyの一部は激しい待ち伏せを受けた

National Street周辺では、
第10山岳師団A Companyの一部が
非常に激しい攻撃を受けた。

米軍部隊は建物へ入り、
そこを一時的な防御拠点として戦闘を続けた。

この中で
PFC James Henry Martin Jr.が戦死している。

また戦闘工兵Cornell Houstonも重傷を負い、
後に死亡した。

つまり救援車列は、
Task Force Rangerを救出するまで
無傷で進んだわけではない。

第10山岳師団側にも
死傷者を出しながらの突破だった。

救援部隊は二つの墜落地点を目指した

車列は一つの場所だけを目指していたわけではない。

第1墜落地点には
約100人規模の米軍部隊が残っている。

しかし第2墜落地点にも
Super 64とその乗員がいるはずだった。

そこで救援部隊は、
状況に応じて複数方向へ分かれた。

第1墜落地点へ向かう主力。

第2墜落地点を捜索する部隊。

途中で孤立した部隊を回収する部隊。

夜間救出MISSIONそのものが、
さらに複数の小MISSIONに分かれていった。

第2墜落地点には、もう誰もいなかった

第10山岳師団A Companyの一部は、
Super 64の第2墜落地点へ到達した。

しかし、そこには
探していた米兵の姿がなかった。

ゴードンとシュガートはすでに戦死し、
デュラントは連れ去られていた。

米軍側はこの時点でも、
デュラントが捕虜として生存していることを
完全には把握できていなかった。

第2墜落地点では、
救出対象そのものがすでに消えていたのである。

01時55分|第1墜落地点へ突破する

一方、主力車列は
National StreetからShalalawi Streetへ進み、
Olympic Hotel付近を通過して
Super 61の第1墜落地点へ向かった。

米陸軍Center of Military Historyによれば、
10月4日01時55分
マレーシア軍装甲兵員輸送車に乗った
第10山岳師団の「Lightfighters」が
ついに第1墜落地点へ突破した。

Super 61が撃墜された16時20分から、
約9時間半が経過していた。

現場には、
レンジャー、
デルタ、
CSAR要員などが残っていた。

彼らは夕方から夜まで
墜落地点を守り続けていた。

ようやく、
外部からまとまった装甲救援部隊が到達した。

到着しても、すぐ撤収できなかった

ここで戦闘が終わったわけではない。

第1墜落地点には、
まだ重要な作業が残っていた。

Super 61の機体内部に、
死亡した操縦士Cliff Wolcottが残っていた。

墜落時に破壊された機体から
遺体を取り出すことが難しく、
救援部隊到着後も回収作業が続いた。

その間にも、
周囲から小火器や手榴弾による攻撃を受けている。

AH-6 Little Birdや
第10山岳師団側のAH-1 Cobraなどが
上空から火力支援を続けた。

つまり多国籍救援車列は、
到着した瞬間に「迎えに来た車」から、
墜落地点を守る戦闘部隊へ変わった。

なぜ装甲車両が決定的だったのか

この夜の救援を、
「戦車が強かったから成功した」
だけで片づけるのも適切ではない。

重要なのは、
昼間の車列にはできなかった複数の仕事を
装甲車両が可能にしたことだった。

昼間の軽車両中心車列 夜間の装甲救援車列
小火器・RPGへの防護が限定的 装甲により乗員・歩兵を保護
負傷者を載せると防御力が低下 APC内部へ負傷者を収容可能
道路封鎖で停止すると危険 戦車・APCを伴い突破力を向上
軽車両中心 戦車・装甲車・歩兵・航空支援を統合

ただし装甲があっても、
車列の一部は孤立し、
死傷者も出た。

装甲車両は無敵だったのではない。

それでも、
夜のモガディシュを突破して多数の負傷者を運び出すために必要な防護力を提供した
ことは大きかった。

FACT CHECK|米軍は事前に戦車を要求していたのか

要求そのものは存在した。

米陸軍公式戦史によれば、
UNOSOM IIの米軍司令部側では8月から
機械化歩兵と戦車部隊の増強が検討され、
9月には戦車小隊を含む機械化部隊の正式要求が出されていた。

この要求は最終的に承認されなかった。

ただし、
これをそのまま
「戦車要求を拒否したためモガディシュの戦闘が起きた」
と一本の因果関係にするのは適切ではない。

10月3日の結果には、
二機のヘリ墜落、市街地構造、道路封鎖、
通信、部隊分散、作戦時間の長期化など
複数の要素が関与している。

映画では見えにくい「多国籍救援」

映画『ブラックホーク・ダウン』では、
物語の中心がTask Force Rangerに置かれているため、
マレーシア軍・パキスタン軍の役割は大きく縮小されている。

しかし史実の10月4日未明を見ると、
米兵が自力だけで市街地から脱出したわけではない。

パキスタン軍戦車が車列へ加わった。

マレーシア軍がCondor装甲兵員輸送車を運転した。

第10山岳師団兵がその車両に乗り、
道路を戦闘しながら前進した。

さらに米軍航空部隊が上空から支援した。

第1墜落地点への突破は、多国籍部隊による共同作戦だった。

この点を外すと、
なぜ昼間には救出できなかったのに
夜中には突破できたのかを説明できなくなる。

救援車列の流れを時系列で整理する

午後から未明までを見ると、
救援が一回の試みではなく、
失敗と再編成を経て成立したことが分かる。

時刻・時間帯 出来事 意味
16時台 第10山岳師団QRFが救援へ動く 米軍通常部隊による初動
夕方 K-4 Circle付近などでQRFが阻止される 軽装備だけでの突破が困難
マレーシア・パキスタン部隊へ装甲支援を要請 多国籍救援へ転換
New Port地区で部隊・車両を統合 60両超規模の車列を編成
23時台 救援車列が市街地へ進入 パキスタン戦車を先頭に前進
10月4日未明 一部部隊が分離・待ち伏せを受ける 救援側にも死傷者発生
01:55 主力がSuper 61第1墜落地点へ到達 包囲された部隊と接続
夜明けまで Super 61搭乗員の回収を継続 即時撤収はできず

救出成功の瞬間は「01時55分」ではない

01時55分に救援車列が到着したことで、
包囲された部隊が外部と接続した。

しかし、これを
「01時55分に救出完了」とするのは早い。

まだ負傷者を車両へ乗せなければならない。

Super 61内部から搭乗員を回収しなければならない。

夜明けまで周囲から攻撃も続く。

そして最終的には、
全員を乗せるだけの車両スペースも不足する。

その結果、
歩ける兵士の一部は
装甲車とともに徒歩で市街地を抜けることになる。

ここから先が、
後に「Mogadishu Mile」と呼ばれる撤収である。

まとめ|Task Force Rangerを救ったのは、一つの国の部隊ではなかった

10月3日夕方の段階で、
Task Force Rangerは自力だけで
第1墜落地点から撤収できる状態ではなくなっていた。

米第10山岳師団QRFも
最初の救出では市街地を突破できなかった。

そこで必要になったのが、
パキスタン軍の戦車と
マレーシア軍の装甲兵員輸送車だった。

それまで共同訓練をほとんどしていなかった
米軍・マレーシア軍・パキスタン軍を数時間で統合し、
60両を超える救援車列を組織した。

夜間の市街地で攻撃を受け、
車列の一部が分断され、
救援側にも死傷者を出しながら前進する。

そして10月4日01時55分、
マレーシア軍の装甲兵員輸送車に乗った第10山岳師団部隊が
Super 61の第1墜落地点へ到達した。

したがって、
モガディシュの救出を
「Task Force Rangerが自力で脱出した作戦」
として描くのは正確ではない。

最後の突破を可能にしたのは、
米第10山岳師団、
マレーシア軍、
パキスタン軍、
そして上空を支援した航空部隊を組み合わせた
多国籍救援作戦だった。

しかし、
到着した装甲車にも全員を乗せる余裕はなかった。

夜明け。

負傷者と遺体を車両へ収容した後、
歩ける兵士の一部が
モガディシュの道路を徒歩で南へ移動し始める。

次回は、
10月4日05時42分から始まった撤収と、
後に「モガディシュ・マイル」と呼ばれることになる
最後の移動を追う。


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CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点
  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊【現在の記事】

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • U.S. Army Center of Military History,
    The U.S. Army in Somalia, 1992–1994.
    — 多国籍救援部隊の編成、パキスタン戦車、
    マレーシア装甲兵員輸送車、第10山岳師団2-14 Infantry、
    60両超の車列、01時55分の第1墜落地点到達を確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — QRFによる最初の救出失敗、
    多国籍部隊の統合、装甲車両の必要性、
    救援車列の進攻と墜落地点到達を確認。
  • U.S. Army,
    “We Didn’t Leave Anybody Behind” — 10th Mountain Division Veterans Reflect on Mogadishu Rescue Mission.
    — 第10山岳師団2-14 Infantryの救援計画、
    パキスタン戦車小隊、マレーシア二個中隊のAPC、
    共同訓練経験がほぼなかったこと、
    市街地での戦闘経過を確認。
  • U.S. Army,
    Soldiers Reflect on Battle of Mogadishu.
    — マレーシア・パキスタン・第10山岳師団による
    多国籍救援車列と10月4日未明の到達を確認。
  • Tentera Darat Malaysia / Malaysian Army,
    Pengorbanan — Kpl Mat Aznan Awang.
    — MALBATTによる米軍救出作戦への参加、
    Condor装甲兵員輸送車、
    Mat Aznan Awangの戦死について確認。
  • Tentera Darat Malaysia / Malaysian Army,
    Misi PBB — Somalia (UNOSOM).
    — 19 RAMDを中心とするマレーシア部隊の
    UNOSOM展開と10月3~4日の救出MISSION参加を確認。

※夜間救援車列の正確な車両内訳は資料によって異なる。
米陸軍Center of Military Historyは「60両超」としており、
本記事ではこれを基準とした。
パキスタン戦車やマレーシアCondor APCの詳細な台数は
資料差があるため一つの数字へ固定していない。

※マレーシア軍の死傷者数にも資料差がある。
米陸軍公式戦史と他の米軍資料で数字が一致していないため、
本記事ではマレーシア陸軍自身が明確に記録している
Mat Aznan Awangの戦死を確定事項として扱い、
総負傷者数については単一値へ統合していない。

※「救援部隊編成が遅れた理由」を
マレーシア軍・パキスタン軍の協力姿勢だけに帰す説明は採用しない。
米陸軍公式戦史は、
事前に統合されていなかった多国籍部隊へ計画を説明し、
装甲車両・歩兵・航空支援を一つの作戦へ組み込むための
調整時間が必要だったとしている。

※第8回は救援部隊が第1墜落地点へ到達するまでを中心に扱う。
05時42分以降の徒歩撤収、
いわゆる「Mogadishu Mile」と06時30分前後の戦闘終結は
第9回で詳述する。

「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

軍事作戦・戦闘

1993年10月4日、午前5時42分。

Super 61が撃墜されてから、
すでに13時間以上が経過していた。

モガディシュは明るくなり始めていた。

第1墜落地点では、
夜通し続いていた搭乗員の回収作業がようやく終わろうとしている。

負傷者と戦死者は装甲兵員輸送車へ乗せられた。

しかし、問題が一つ残った。

救援に来た車両だけでは、その場にいる全員を一度に運べなかった。

歩ける兵士は、
装甲車列とともに徒歩で市街地を抜けることになった。

レンジャー。
デルタ。
第10山岳師団。

彼らはShalalawi Streetを南へ進み、
National Street上の友軍部隊との合流地点を目指した。

周囲からは、まだ小火器とRPGが飛んでくる。

その撤収行動は後に、
「Mogadishu Mile――モガディシュ・マイル」
と呼ばれるようになった。

しかし映画『ブラックホーク・ダウン』で知られる
「兵士たちが装甲車に置き去りにされ、スタジアムまで走り続ける」というイメージと、
実際の撤収は完全には一致しない。

第9回では、
10月4日未明の搭乗員回収から、
05時42分の撤収、
モガディシュ・マイル、
そして06時30分ごろに主力がパキスタン・スタジアムへ到着するまでを追う。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、
Operation Gothic Serpentと1993年10月3~4日の
モガディシュ市街戦を中心に追う。

第8回では、
第10山岳師団、マレーシア軍、パキスタン軍を組み込んだ
多国籍救援部隊が01時55分に第1墜落地点へ到達するまでを見た。

第9回では、
そこから全員が市街地を離れるまでを扱う。

最終回となる第10回では、
戦闘後の米国政策、撤収決定、
UNOSOM II、
そして『ブラックホーク・ダウン』によって形成された記憶と史実を整理する。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊
  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか【現在の記事】

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|「モガディシュ・マイル」は最後の徒歩撤収だった

モガディシュ・マイルとは、
一晩続いた戦闘の最後に行われた
米軍部隊の徒歩撤収を指す。

10月4日未明、
多国籍救援車列がSuper 61の第1墜落地点へ到達した。

そこで負傷者と戦死者を装甲兵員輸送車へ収容したが、
その場にいた戦闘可能な兵士全員を乗せる余裕はなかった。

そこで残った兵士は、
車列と連携しながら徒歩で南へ移動した。

米陸軍Center of Military Historyの公式戦史では、
05時42分に
「run-and-gun movement」
が始まったと記録されている。

徒歩部隊はShalalawi StreetからNational Street方向へ移動。

装甲兵員輸送車は移動する遮蔽物となり、
上空では米軍攻撃ヘリコプターが交差道路などへの火力支援を行った。

そして06時30分ごろ、
主力車列はパキスタン・スタジアムへ到着した。

この時点で、
10月3日午後から続いた市街地での主要戦闘は終わった。

01時55分|救援車列が到着しても、まだ帰れなかった

第8回で見た通り、
第10山岳師団兵を乗せたマレーシア軍装甲兵員輸送車は、
10月4日01時55分にSuper 61の第1墜落地点へ突破した。

しかし救援部隊到着は、
即時撤収を意味しなかった。

まだSuper 61の機体内部に
回収できていない搭乗員が残っていた。

墜落したBlack Hawkは激しく損傷しており、
操縦席部分から遺体を取り出す作業には時間がかかった。

その間にも周囲から射撃や手榴弾攻撃が続いていた。

レンジャー、
デルタ、
CSAR、
第10山岳師団などの部隊は、
墜落地点を守りながら回収作業を続けた。

AH-6 Little BirdやAH-1 Cobraも
上空から支援を続けている。

一晩の目的は「機体」ではなく「人員回収」だった

ここでも、
Super 61というBlack Hawkそのものを
完全に持ち帰ろうとしていたわけではない。

優先されたのは、
機体内部に残った搭乗員を回収することだった。

生存している兵士。

負傷した兵士。

そして死亡した兵士。

全員を置き去りにせず、
市街地から搬出できる状態にする。

それが終わらなければ、
第1墜落地点の防御部隊も移動できない。

結果として、
救援車列到着から撤収開始までにも
約4時間近くを要した。

夜明け|負傷者と戦死者を装甲車へ収容する

夜が明けるころ、
ようやく第1墜落地点からの撤収準備が整った。

米陸軍公式戦史では、
第1墜落地点のcasualties――死傷者は装甲兵員輸送車へ収容された
と記録されている。

これは当然の優先順位だった。

歩けない重傷者を徒歩撤収させることはできない。

戦死者も車両で搬送する必要がある。

そのため、
装甲車両の限られたスペースは
まず死傷者へ割り当てられた。

ここで、
戦闘可能で歩行できる兵士の一部が
車外に残ることになった。

なぜ全員を装甲車へ乗せられなかったのか

救援車列は60両を超える大規模なものだった。

それでも、
第1墜落地点にいる全員を
そのまま座席へ収容できたわけではない。

理由は、
車両の数だけで判断できないことにある。

車列には戦車も含まれている。

車両乗員もいる。

第10山岳師団など救援側の兵士も乗っている。

負傷者は、
健常者より広いスペースを必要とする場合がある。

さらに市街地で戦闘しながら移動するため、
単純な定員いっぱいまで人間を詰め込めばよいわけではない。

そこで、
歩ける兵士は徒歩で撤収することになった。

FACT CHECK|兵士たちは車列に「置き去り」にされたのか

映画『ブラックホーク・ダウン』では、
装甲車列が先に走り去り、
米兵が置き去りにされたためスタジアムまで走るような印象が強い。

しかし米陸軍公式戦史では、
負傷者などを装甲兵員輸送車へ収容した後、
残る部隊が装甲車両の移動援護を受けながら徒歩で南下した
と整理されている。

近年の米陸軍によるMogadishu Mileの説明も、
車両に全員分の座席がなかったため
約1マイル先の合流地点まで徒歩で移動したとしている。

したがって、
「車列が米兵を忘れて逃げたため、
兵士だけが完全に孤立して走った」
と固定するのは適切ではない。

05時42分|撤収が始まる

米陸軍Center of Military Historyによれば、
徒歩部隊と車列の移動が始まったのは
10月4日05時42分だった。

第1墜落地点から、
部隊はShalalawi Streetを南へ進んだ。

目的は、
National Street方向にいる友軍部隊と合流し、
そこから安全地域へ移動することだった。

この移動が、
後に「Mogadishu Mile」と呼ばれる。

ここで位置関係を確認しておく。
現在のGoogle Mapは撤収先となったスタジアムの現代位置を確認するために使い、
1993年当時の第1墜落地点、Shalalawi Street、National Street、スタジアムの位置関係は
米陸軍公式戦史のMap 3を優先する。

Mogadishu Stadiumの現在位置。1993年当時、米陸軍公式戦史Map 3では市街地北東側のスタジアムに「PAKISTANI HQ」が示されている。現在のGoogle Mapは、当時の道路・建物配置やモガディシュ・マイルの実際の徒歩経路を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る


米陸軍公式戦史「Map 3」で1993年当時の位置関係を確認する

ただし「Mile」という言葉は、
厳密な測量による移動距離を表す正式作戦名ではない。

約1マイル規模の徒歩撤収を象徴する呼称として定着したものと考えた方がよい。

歩兵は装甲車列と一緒に移動した

徒歩である以上、
装甲車の内部にいる兵士より危険なのは間違いない。

しかし、
徒歩部隊が何の支援もなく単独で移動したわけでもない。

米陸軍公式戦史は、
装甲兵員輸送車が
rolling cover――移動する遮蔽物
を提供したと記録している。

装甲車両が道路を進み、
歩兵はその近くを移動する。

攻撃を受ければ応戦する。

停止する必要があれば、
周囲の建物や道路を警戒する。

「走る」といっても、
陸上競技のように全員が一斉に一本道を駆け抜けたわけではない。

戦闘可能な隊形を維持しながら
急速に離脱する戦術的撤収だった。

上空からも火力支援が続いた

05時42分になっても、
敵対側の攻撃が終わったわけではない。

米陸軍公式戦史では、
ソマリア側から車列への射撃が続いたとされている。

これに対し、
米軍の航空部隊も撤収を支援した。

ヘリコプターガンシップは、
徒歩部隊と車列が通過する道路へ射撃してくる地点を抑えるため、
交差道路などへ火力を投入した。

つまりモガディシュ・マイルは、
戦闘が終わった後の帰り道ではない。

戦闘を継続しながら敵対地域から離脱する最後のMISSION
だった。

「走った」のか「歩いた」のか

資料によって、
この撤収を表す言葉にも違いがある。

米陸軍公式戦史は
「moved rapidly on foot」、
つまり徒歩で迅速に移動したと記録している。

さらに撤収を
「run-and-gun movement」と表現している。

一方、
実際の参加者による回顧では、
「走り続けた」というより
戦術隊形を取りながら迅速に歩いたという説明もある。

この違いは矛盾というより、
部隊全員が同じ速度・同じ方法で移動したわけではないことを示している。

射撃を受ければ走る。

遮蔽物があれば止まる。

隊形を整える。

装甲車両と歩調を合わせる。

その繰り返しだったと見る方が自然である。

FACT CHECK|本当に「1マイル走り続けた」のか

「Mogadishu Mile」という名称から、
全兵士が1マイルをノンストップで走ったように理解されることがある。

しかし公式戦史では
「徒歩で迅速に移動」とされ、
装甲車両と航空機による援護も記録されている。

米陸軍の近年の説明では、
第1墜落地点から約1マイル離れた
合流地点まで徒歩で移動した部隊がいたとされる。

したがって、
「全員が同じ1マイルを一気に走った」
と厳密に定義する必要はない。

目的地は最初からパキスタン・スタジアムではなかった

ここも映像作品と史実を分けるうえで重要である。

モガディシュ・マイルの徒歩区間は、
必ずしも第1墜落地点から
パキスタン・スタジアムの門まで続いたわけではない。

米陸軍の近年の説明では、
徒歩部隊はまず
National Street上の第10山岳師団側の合流地点
を目指したとされる。

そこには、
さらに兵士を運ぶ車両が待機していた。

徒歩移動と車両移動を組み合わせながら、
最終的に部隊はパキスタン軍が管理する安全地域へ向かった。

映画では、
視覚的に分かりやすくするため
「市街地を走り続けてスタジアムへ入る」
という一本の動線に整理されている。

史実はもう少し複雑だった。

なぜパキスタン・スタジアムだったのか

パキスタン・スタジアムは、
UNOSOM IIのパキスタン部隊が管理する安全地域の一つだった。

市街地の戦闘区域から離れ、
多数の兵士と負傷者を受け入れられる。

医療要員も待機していた。

第1墜落地点から抜け出した兵士にとって、
まず必要なのはTask Force Ranger基地へ直接戻ることではない。

安全地域へ到達し、
負傷者を治療し、
人員を確認し、
そこから必要な医療施設や飛行場へ送ることだった。

06時30分ごろ|主力がパキスタン・スタジアムへ到達

米陸軍Center of Military Historyによれば、
救援車列の主力は
06時30分ごろまでに
パキスタン・スタジアムへ到達した。

そこでは医療要員が負傷者への緊急処置を開始した。

さらに必要に応じ、
病院や飛行場への搬送準備が行われた。

15時32分に始まった拘束作戦から、
約15時間が経過していた。

本来なら短時間で完了するはずだったOperation Gothic Serpentの一回の襲撃は、
二機のBlack Hawk墜落を経て、
一夜をまたぐ市街戦になった。

では、戦闘が終わった時刻は06時30分なのか

戦闘には、
一分単位で明確な「終了ボタン」があるわけではない。

第1墜落地点から主要部隊が撤収し、
主力がパキスタン・スタジアムへ到着したことで、
10月3日から続いた大規模な市街地戦闘は事実上終了した。

その意味では、
06時30分前後
Battle of Mogadishuの主要戦闘終了時点として扱うことができる。

ただし、
その後も人員確認、
負傷者搬送、
行方不明者の確認、
Super 64乗員の捜索などは続いている。

特にこの時点では、
マイケル・デュラントが生存して捕虜になっていることを含め、
第2墜落地点の状況が完全には把握されていなかった。

「全員帰還」ではなかった

06時30分に安全地域へ到達したからといって、
10月3日の出撃者が全員戻ったわけではない。

Super 64の第2墜落地点では、
ゲイリー・ゴードン、
ランディ・シュガート、
航空機乗員らが死亡していた。

マイケル・デュラントは捕虜となっている。

さらに戦死者・重傷者も多数発生していた。

したがって、
モガディシュ・マイルは
「全員が無事に逃げ切った最後の場面」ではない。

すでに大きな損害を受けた部隊を、
それ以上の損害を防ぎながら戦場から引き抜く撤収作戦

だった。

米軍の死者は18人|「19人」とされる理由

モガディシュの戦闘における米軍死者数は、
資料によって18人と19人の両方が見られる。

米陸軍Center of Military Historyの公式戦史では、
10月3~4日に
Task Force Rangerが16人、
第2大隊第14歩兵連隊が2人を失った。

合計18人である。

一方、
10月6日にはTask Force Rangerの空港施設が迫撃砲攻撃を受け、
Matt Riersonが死亡した。

これをOperation Gothic Serpentの一連の損失に含めると
米軍死者は19人となる。

FACT CHECK|Battle of Mogadishuの米軍死者は18人か19人か

10月3~4日の市街戦そのものでは、
米陸軍公式戦史上の米軍死者は18人。

10月6日の迫撃砲攻撃で死亡したMatt Riersonまで
Operation Gothic Serpent関連損失へ含める場合、
19人という数字になる。

本特集では、
10月3~4日のBattle of Mogadishu=18人
とし、
10月6日の戦死者を含む数字とは区別する。

負傷者数も、一つの数字に固定しにくい

負傷者数についても資料差がある。

米陸軍の一般向け記事では、
18人死亡・73人負傷という数字がよく使用されている。

一方、
Center of Military Historyの戦史では、
Task Force Rangerについて57人負傷、
第2大隊第14歩兵連隊について22人負傷としている。

単純に合計すれば79人になる。

さらに特殊作戦軍系資料では、
別の集計範囲による数字も見られる。

これは戦闘負傷者、
治療対象者、
部隊別集計、
後日の負傷確認などの
集計範囲が資料ごとに一致しないためである。

そのため本特集では、
負傷者数を一つだけ選んで
絶対的な確定値として扱わない。

ソマリア側の死傷者は、さらに不確実である

ソマリア側の死傷者については、
米軍側以上に確定が難しい。

武装したSNA民兵だけでなく、
その他の武装要員や民間人も市街地に存在していた。

誰を戦闘員として数えるのかも資料によって異なる。

米陸軍Center of Military Historyは、
ソマリア側の死傷者について
500~1500人という幅のある推計を紹介している。

これは「公式に1000人死亡した」という意味ではない。

戦闘後に複数の推計が存在したことを示している。

したがって、
本特集ではソマリア側の死傷者を
一つの確定値へ固定しない。

15時間で、MISSIONはどう変わったのか

第4回からここまでの流れを一本につなぐと、
この戦闘の構造が見える。

時刻 出来事 MISSION
10月3日 15:32 Task Force Ranger出撃 主要人物拘束
15時台 24人拘束 撤収準備
16:20 Super 61墜落 第1墜落地点救出
16時40分台 Super 64墜落 二つの救出MISSIONへ分裂
夕方~夜 地上車列が突破できず 墜落地点防御
10月4日 01:55 多国籍救援部隊が第1墜落地点到達 人員回収
夜明け 搭乗員回収完了 撤収準備
05:42 徒歩・車列による撤収開始 戦場離脱
約06:30 主力がパキスタン・スタジアム到着 主要戦闘終了

最初と最後では、
部隊が行っていることが完全に違う。

15時32分の目的は
「アイディード派主要人物を拘束すること」だった。

15時間後の目的は
「死傷者を含む残存部隊をモガディシュ市街地から脱出させること」になっていた。

モガディシュ・マイルは「敗走」だったのか

結果だけを見れば、
米軍部隊が敵対地域から徒歩で撤収している。

そのため、
モガディシュ・マイルを
単純に「敗走」と表現する場合がある。

しかし軍事的な意味では、
もう少し分けて考える必要がある。

当初の拘束対象24人は確保されていた。

一方、
二機のBlack Hawkを失い、
多数の死傷者を出し、
一晩にわたって部隊が市街地へ固定された。

そして最終的には、
外部の多国籍救援部隊がなければ
撤収できない状態になった。

したがって
「作戦目的は完全に失敗した」でも、
「拘束に成功したから勝利した」でも足りない。


初期の拘束任務は達成したが、
その後の航空機喪失によって作戦全体のコストと目的が根本的に変質した

と整理する方が実態に近い。

撤収して初めて、15時間の戦闘全体が見えた

パキスタン・スタジアムへ到着した兵士たちは、
そこで初めて比較的安全な場所に入った。

負傷者が治療される。

誰が戻ったのか確認する。

誰が死亡したのか。

誰が行方不明なのか。

Super 64の乗員はどうなったのか。

一晩のあいだ各地点に分断されていたため、
戦闘中には全体像そのものを誰も完全には把握できていなかった。

06時30分は、
単に最後の銃声が止んだ時間というだけではない。

Task Force Rangerがようやく戦場の外側から
自分たちの損害を確認し始められる時点でもあった。

まとめ|「モガディシュ・マイル」は、作戦の最後に残った撤収MISSIONだった

10月4日01時55分、
多国籍救援部隊はSuper 61の第1墜落地点へ到達した。

しかし、そこですぐ戦闘が終わったわけではない。
破壊された機体から搭乗員を回収し、
負傷者と戦死者を装甲車へ収容する作業が夜明けまで続いた。

全員を車両へ乗せる余裕はなく、
05時42分、
歩行可能な兵士の一部は装甲車両と連携しながら
Shalalawi Streetを南へ徒歩で撤収した。

これが後に
「モガディシュ・マイル」と呼ばれる行動である。

しかし、
映画のように兵士全員が車列から完全に置き去りにされ、
第1墜落地点からスタジアムまで孤立して走り続けたわけではない。

装甲車両によるrolling cover、
第10山岳師団側との合流地点、
上空からの航空火力支援を組み合わせながら行われた
戦術的な徒歩撤収だった。

そして06時30分ごろ、
主力はパキスタン・スタジアムへ到達する。

15時32分から始まった約15時間のMISSIONは、
「捕らえて帰る作戦」から
「墜落機を救出する作戦」、
そして最後には
「生き残った部隊を戦場から引き抜く作戦」へ変わっていた。

戦闘は終わった。

しかし、その影響はここから始まる。

18人の米軍戦死者。
二機のBlack Hawk喪失。
捕虜となったマイケル・デュラント。
幅の大きいソマリア側死傷者推計。

そして数日後、
米国政府はソマリア政策そのものを大きく変更する。

最終回では、
モガディシュの戦闘が米国のソマリア介入に何をもたらしたのか、
その後の撤収、
UNOSOM IIの終焉、
そして映画『ブラックホーク・ダウン』がどこまで史実を再現しているのかを整理する。


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CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊
  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか【現在の記事】

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • U.S. Army Center of Military History,
    The U.S. Army in Somalia, 1992–1994.
    — 01時55分の第1墜落地点到達、
    夜明けまでの搭乗員回収、
    casualtiesの装甲車収容、
    05時42分の徒歩撤収、
    Shalalawi StreetからNational Streetへの移動、
    06時30分ごろのパキスタン・スタジアム到着を確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — 第1墜落地点の夜間防御、
    搭乗員・死傷者回収、
    救援車列と撤収の基本経過を確認。
  • U.S. Army,
    Fort Drum Soldiers Remember Battle of Mogadishu.
    — 車両に全員を収容できず、
    約1マイル先の合流地点まで一部兵士が徒歩移動したこと、
    18人戦死・73人負傷という一般向け米陸軍集計を確認。
  • U.S. Army Europe and Africa,
    Mogadishu Mile.
    — Mogadishu Mileを
    墜落地点からNational Street上の合流地点までの徒歩撤収として説明している
    近年の米陸軍公式記録を確認。
  • U.S. Army,
    Golden Dragons Honor Their History at Battle of Mogadishu.
    — 第10山岳師団2-14 Infantryの救援、
    車両スペース不足と徒歩撤収、
    約1マイルのlink-up pointについて確認。

※「Mogadishu Mile」は正式な作戦名称や厳密な測量距離ではなく、
10月4日朝の徒歩撤収を指す通称として定着した。
米陸軍資料では「約1マイル先の合流地点」という説明が用いられている。

※映画『ブラックホーク・ダウン』では、
徒歩部隊が市街地からパキスタン・スタジアムまで走り続けるように描かれる。
公式戦史では、徒歩部隊は装甲車両によるrolling coverと航空支援を受けながら
Shalalawi StreetからNational Street方向へ移動し、
友軍・車列と合流したものとして整理されている。

※10月3~4日のBattle of Mogadishuにおける米軍死者は18人。
10月6日の迫撃砲攻撃で死亡したMatt Riersonを
一連のOperation Gothic Serpent損失へ含める場合は19人となる。
本特集では両者を区別する。

※米軍負傷者数には資料差がある。
一般向け米陸軍資料では73人負傷との数字が多く使われる一方、
Center of Military Historyの部隊別数字を合計すると異なる値になる。
本記事では単一値を確定値として扱わない。

※ソマリア側死傷者数についても確定値は存在しない。
Center of Military Historyは500~1500人という複数推計の幅を紹介しているため、
本特集でも一つの数字へ固定しない。

モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

軍事作戦・戦闘

1993年10月4日朝。

モガディシュ市街地から撤収した米兵たちは、
パキスタン軍が管理する安全地域へ入った。

18人の米軍人が死亡していた。
多数の負傷者が出ていた。
二機のBlack Hawkが撃墜された。

そしてSuper 64の操縦士
マイケル・デュラントは戻っていなかった。

しかし、
米軍はこの日すぐソマリアから撤退したわけではない。

むしろ戦闘直後には、
M1 Abrams戦車、
Bradley歩兵戦闘車、
追加の歩兵、
海兵隊、
特殊作戦部隊などがソマリアへ増派された。

一見すると、
アイディード派への大規模な反撃が始まりそうにも見える。

実際には逆だった。

ワシントンで決められたのは、
アイディードをさらに追い詰めることではなく、
米軍の攻勢を止め、部隊を守りながらソマリアから撤収すること
だった。

10月3~4日のモガディシュの戦闘は、
一つの特殊作戦の失敗だけでは終わらなかった。

米国のソマリア政策そのものを転換させ、
UNOSOM IIの任務にも影響を与え、
その後は書籍と映画『ブラックホーク・ダウン』によって
世界的に知られる戦闘となった。

CASE FILE 23最終回では、
戦闘後に何が変わったのかを追う。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、
1993年10月3日の拘束作戦が、
二機のBlack Hawk撃墜によって
救出・撤収MISSIONへ変わっていく過程を追ってきた。

最終回では現場を離れ、
戦闘後の政策、撤収、
UNOSOM II、
そして『ブラックホーク・ダウン』によって残された記憶を整理する。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか
  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実【現在の記事】

先に結論|モガディシュの戦闘は「撤退そのもの」より政策の方向を変えた

モガディシュの戦闘を、
「18人が死亡したので米軍は即座にソマリアから逃げた」
と説明するのは正確ではない。

米国は戦闘以前から、
ソマリアへの軍事関与を縮小し、
より多くの任務を国連側へ移す方向を検討していた。

実際、10月4日の時点でビル・クリントン大統領自身が、
米国には以前からソマリア撤収の計画があったと説明している。

しかし10月3~4日の戦闘は、
その方向に明確な期限と新しい優先順位を与えた。

戦闘後の米国政策は、


アイディード追跡
→ 攻勢停止
→ 米軍防護
→ 政治交渉
→ 期限を設定した撤収

へ変化した。

したがってモガディシュの戦闘は、
「撤収という考えをゼロから生んだ事件」というより、
すでに存在していた撤収方向を決定的な政策へ変えた転換点
と見る方が実態に近い。

10月4日|戦闘直後からワシントンでは政策見直しが始まった

戦闘の全容が米国へ伝わると、
クリントン政権はソマリア政策の再検討に入った。

18人の死亡。

多数の負傷者。

二機のBlack Hawk喪失。

米兵の遺体が市街地で扱われる映像。

そしてデュラントの拘束。

問題は、
Operation Gothic Serpentの戦術評価だけではなかった。

そもそも米軍がソマリアで
何を達成しようとしているのかが改めて問われた。

1992年末、
米軍が大規模介入した中心目的は人道援助の安全確保だった。

ところが1993年10月には、
米特殊作戦部隊が一人の軍閥指導者とその主要側近を追跡し、
首都中心部で市街戦を行っている。

MISSIONがどこまで変化していたのかが、
戦闘の犠牲によって一気に可視化された。

10月6日|米軍によるアイディード追跡が事実上止まる

米陸軍Center of Military Historyの公式戦史によれば、
10月6日にホワイトハウスで国家安全保障政策の見直しが行われた。

そこでクリントン大統領は、
米軍に対し
自衛に必要な場合を除き、
アイディードに対する攻撃行動を停止する

よう指示した。

これはOperation Gothic Serpentにとって決定的な変更だった。

Task Force Rangerは、
そもそもアイディードと主要側近を拘束するために
ソマリアへ派遣された部隊である。

その中心任務が止められた。

つまり10月3日の戦闘からわずか数日で、
Operation Gothic Serpentを継続する政治的前提そのものが失われたことになる。

それでも米軍は、むしろ一時的に増えた

ここが、
「モガディシュの戦闘=米軍即時撤退」という理解と
実際の経過が最も異なる部分である。

戦闘直後、
米軍兵力は減るどころか一時的に増強された。

米陸軍公式戦史によれば、
第24歩兵師団から
Bradley歩兵戦闘車を装備した部隊が投入された。

さらにM1 Abrams戦車を持つ部隊が加わった。

第10山岳師団から追加歩兵も派遣された。

海兵隊のMarine Expeditionary Unit、
追加特殊作戦要員、
AC-130も投入された。

10月3日のTask Force Rangerが欲しかったような
重装甲・重火力が、
戦闘後になってソマリアへ到着したことになる。

なぜ「撤収する」のに戦車を増やしたのか

一見すると矛盾している。

撤収するのであれば、
なぜ戦車やBradleyを送る必要があるのか。

目的が変わったからである。

米陸軍公式戦史は、
新しく投入された戦力について、
アイディードを処罰するためではなく、
米軍と国連部隊を保護しながら撤収を実現するため
に使用されたと整理している。

つまり、


増派=戦争拡大

ではなかった。

むしろ、


増派=安全に縮小するための一時的な戦力増強

だった。

FACT CHECK|戦闘後、米軍は「報復のため戦車を送った」のか

戦車、Bradley、追加歩兵、海兵隊などが
実際に増派されたことは事実である。

しかし同時に、
米国政府はアイディードへの攻勢を停止している。

米陸軍公式戦史では、
増派部隊は米軍・国連部隊の防護と
米軍撤収を支えるために使用されたと整理されている。

したがって
「モガディシュの戦闘後、米軍が報復戦争を開始した」
という理解は正しくない。

10月7日|「1994年3月31日まで」という期限が設定された

10月7日、
クリントン政権は新しいソマリア政策を公表した。

米軍は即座に撤収しない。

しかし、
1994年3月31日までに
ほぼすべての米軍部隊を撤収する

という期限を設定した。

この約6か月の猶予には、
いくつかの目的があった。

国連側が米軍の役割を引き継ぐ時間を作る。

ソマリア側に政治交渉の機会を与える。

拘束されている米兵を帰還させる。

そして、
米軍が大きな損害を受けた直後に
即座に撤退したという形を避ける。

期限は設定されたが、
翌日から全員が荷物をまとめて帰国したわけではなかった。

「戦闘前から撤収予定だった」は本当か

これは半分正しく、
半分だけでは不十分な説明である。

戦闘直後の10月4日、
クリントン大統領は
米国には以前からソマリア撤収の計画があったと説明している。

さらに10月7日の国防長官レス・アスピンの説明では、
9月末の時点ですでに
米軍プレゼンス縮小を検討していたことが語られている。

つまり、
「10月3日までは永久駐留するつもりだったが、
戦闘に負けて突然撤退を決めた」
わけではない。

一方、
10月3日以前には
「1994年3月31日までにほぼ全軍撤収」という
同じ政治的重みを持つ期限が確定していたわけでもない。

モガディシュの戦闘によって、
撤収方向が具体的な国家政策へ変わった。

FACT CHECK|「モガディシュの戦闘が米軍撤収を決めた」のか

「すべての原因だった」とするのは単純化しすぎる。

米国は戦闘前から
ソマリアにおける大規模な直接関与を縮小する方向を検討していた。

しかし10月3~4日の戦闘後、
アイディード追跡停止、
政治交渉への再重点化、
1994年3月31日の撤収期限設定が
数日以内に実施された。

したがって、
モガディシュの戦闘は米国撤収政策の唯一の原因ではないが、
政策を決定的に転換させたwatershed――分水嶺だった

と整理するのが適切である。

ロバート・オークリーが再びソマリアへ送られた

軍事作戦を縮小する一方、
米国は外交ルートを再び前面に出した。

元ソマリア特使ロバート・オークリーが
クリントン大統領によって再び派遣された。

オークリーは10月9日にモガディシュへ入り、
地域諸国やソマリア側との交渉を進めた。

最も緊急性が高かった問題の一つが、
Super 64の操縦士マイケル・デュラントだった。

デュラントは重傷を負った状態で
アイディード派に拘束されている。

彼を軍事作戦で奪還しようとすれば、
再び大規模な戦闘になる可能性がある。

米国は交渉による帰還を目指した。

10月14日|マイケル・デュラントが解放された

捕虜となってから11日後の10月14日、
マイケル・デュラントは解放された。

ホワイトハウスの記録には、
同日クリントン大統領が
モガディシュにいるデュラント本人と電話で話したことが残されている。

デュラントは医療処置を受け、
その後米国側へ戻った。

第7回で見たSuper 64の第2墜落地点で
唯一生き残った乗員が、
ようやく帰還したことになる。

10月20日|Task Force Rangerの撤収が命じられる

アイディードと主要側近を捕らえるために派遣されたTask Force Rangerも、
その役割を終える。

米陸軍の公式戦史では、
10月20日にクリントン大統領が
レンジャーと特殊作戦部隊の撤収を命じたとされている。

Operation Gothic Serpentは、
これによって事実上終了した。

8月末にソマリアへ入り、
6回の戦術的成功を経て、
第7回の作戦がモガディシュの戦闘へ発展した。

そして最終的には、
最大の標的だったアイディード本人を
拘束しないまま部隊が撤収することになった。

1994年3月|米軍は期限どおり撤収する

その後数か月をかけて、
米軍は段階的にソマリアから部隊を引き揚げた。

撤収は一斉ではない。

装備、
部隊、
後方支援、
防護戦力を整理しながら
段階的に縮小された。

米陸軍の後年の公式戦史では、
最後の海兵隊警戒部隊が
1994年3月25日にモガディシュを離れたとされている。

クリントン政権が設定した
3月31日の期限より前だった。

米国の大規模な地上軍事介入は、
ここで終了する。

しかし、国連はまだソマリアに残っていた

ここは非常に重要である。

1994年3月の米軍撤収=UNOSOM II終了ではない。

UNOSOM IIには、
米国以外にも多数の国が参加していた。

米軍の主要戦闘部隊が撤収した後も、
国連はソマリアで活動を続けた。

ただし、
10月3日以前と同じやり方が維持されたわけでもない。

国連自身も任務を見直すことになる。

1994年2月|UNOSOM IIの任務が変わる

1994年2月4日、
国連安全保障理事会は決議897を採択した。

これによってUNOSOM IIの任務は改定された。

国連の公式説明では、
それまでの強制的方法を外し、
ソマリア各勢力の合意に基づく協力的な武装解除、
停戦、
政治的和解を支援する方向へ重心が移された。

主な任務は、

港・空港・重要インフラの保護。

人道援助。

警察・司法制度の再建。

難民・避難民の帰還支援。

政治プロセスの支援。

国連・NGO要員の保護。

などへ整理された。

第2回で見た
1993年6月以降の「強制的武装解除」と
アイディード追跡を中心とする段階からは、
大きな方向転換だった。

モガディシュの戦闘だけでUNOSOM IIが終わったわけではない

UNOSOM IIがさらに約1年活動を続けたことからも、
10月3日の戦闘だけで
国連介入が即座に終了したわけではないことが分かる。

その後も政治的和解への働きかけや
人道支援は続けられた。

しかし、
ソマリア各派の対立は解消されなかった。

再武装。

地域的な戦闘。

政治交渉の停滞。

国家機構の再建も進まない。

国連自身が、
軍事力によってソマリアの政治問題を解決することには
限界があると判断していく。

1994年11月|UNOSOM IIの終了が決まる

1994年11月4日、
国連安全保障理事会は決議954を採択した。

UNOSOM IIの任期を
1995年3月31日までの最終期間
として延長する決定だった。

同時に、
軍事部門と装備を
安全かつ秩序立って撤収する準備を進めることも決められた。

国連が示した理由の一つは、
ソマリアの和平・国民和解に十分な進展がなく、
当事者から必要な協力を得られていないことだった。

UNITAFから続いた大規模な国際軍事介入は、
終わりへ向かう。

1995年3月|UNOSOM IIもソマリアを離れる

UNOSOM IIの撤収は、
1994年末から段階的に進められた。

各国部隊が順に帰国する。

拠点が縮小される。

モガディシュの港から大量の装備が搬出される。

最終撤収時には、
米国を含む複数国による
Operation United Shieldが
後衛部隊の撤収を支援した。

国連の公式記録によれば、
UNOSOM IIの後衛部隊は1995年3月2日までに撤収を完了。

撤収を支援した多国籍部隊も
3月3日にモガディシュを離れた。

UNOSOM IIは、
ここで実質的にソマリアでの活動を終えた。

では、国際介入は「何も残さなかった」のか

結果だけを見ると、
1995年に国連部隊が撤収した後も
ソマリアに安定した中央政府は成立していなかった。

その意味で、
国家再建や政治的和解という目標を
達成したとは言い難い。

一方、
1992~93年の人道危機への対応まで
すべて失敗だったとまとめることもできない。

米陸軍Center of Military Historyは、
米国を中心とする介入によって
深刻な飢餓状態が改善され、
多数の命が救われたことを認めている。

最初の人道MISSIONには、
明確な成果があった。

問題は、
その後に任務が
治安維持、
武装解除、
国家再建、
軍閥指導者の拘束へ広がっていったことだった。

そこで
「何を達成すればMISSION終了なのか」が
次第に曖昧になっていった。

FACT CHECK|ソマリア介入は「完全な失敗」だったのか

何を評価対象にするかで答えが変わる。

1992年末の人道危機への対応では、
食料輸送の安全性が改善し、
大規模な飢餓を抑える成果があった。

一方、
武装解除、政治的和解、
安定した国家制度の再建という
より長期的な目標は達成できなかった。

したがって
「全部成功」でも
「何一つ成功しなかった」でもない。


人道MISSIONでは成果を上げた一方、
任務拡大後の政治・軍事MISSIONでは
持続可能な解決を作れなかった

という二つを分けて見る必要がある。

モガディシュの戦闘が残した最大の問い

CASE23を第1回から追うと、
単純な「特殊部隊対民兵」の話ではないことが分かる。

最初は食料を届けるための介入だった。

UNOSOM IIになると、
武装解除と国家再建が加わった。

6月5日の国連部隊への攻撃を境に、
責任者の拘束が重要任務になる。

アイディードを捕らえるためTask Force Rangerが投入される。

そして10月3日、
主要側近を拘束するための短時間作戦が始まった。

このように、
一つ一つの判断にはそれぞれ理由があった。

しかし積み重ねた結果、
最初にソマリアへ入った理由と、
10月3日に米兵が戦っていた理由の間には
大きな距離が生まれていた。

そこにこの事件の最も重要な教訓の一つがある。

MISSIONは、一度に大きく変わるとは限らない。

小さな追加目的が積み重なり、
気づいたときには最初とまったく違う作戦になっていることがある。

1999年|マーク・ボウデンの『Black Hawk Down』

この戦闘が後世に記憶されるうえで、
大きな役割を果たしたのが
ジャーナリストのマーク・ボウデンだった。

ボウデンは多数の参加者への取材や資料調査をもとに、
モガディシュの戦闘を詳細に再構成した。

その成果は1999年、
Black Hawk Down: A Story of Modern War
として出版された。

日本では
『ブラックホーク・ダウン――アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録』
などの邦題で知られている。

この本が重要なのは、
戦闘を上層部の政策だけでなく、
複数の現場参加者の視点をつないで再構成したことだった。

ただし、
この本も軍の公式戦史そのものではない。

ジャーナリズム作品として、
証言と取材に基づく再構成である。

本特集では、
公式軍事記録をFACTの骨格に置き、
Bowdenの著作は現場証言を理解するための資料として位置づける。

2001年|映画『ブラックホーク・ダウン』

さらに2001年、
リドリー・スコット監督による映画
『ブラックホーク・ダウン』が制作された。

映画はBowdenの著作をもとに、
10月3~4日の戦闘を
Task Force Rangerの視点から映像化している。

Black Hawk、
Little Bird、
レンジャー、
デルタ、
地上車列、
二つの墜落地点。

戦闘の基本的な骨格は、
実際の出来事をもとにしている。

その一方で映画である以上、
多数の人物、
複数の部隊、
長時間にわたる作戦、
通信系統、
政治的背景を
約2時間台の物語へ圧縮する必要がある。

したがって、
映画をそのまま戦闘記録として読むことはできない。

映画で比較的そのまま残っている骨格

映画化に伴う再構成があっても、
戦闘の大きな流れには史実との共通部分が多い。

映画で描かれる主な出来事 史実
主要人物を拘束する航空強襲 実際に24人を拘束
レンジャーの降下事故 トッド・ブラックバーンが重傷
Super 61撃墜 RPGで撃墜され第1墜落地点が発生
Super 64撃墜 別地点へ墜落
GordonとShughartの降下 3度目の要請で投入が許可された
Durantが捕虜になる 11日後に解放
地上車列の混乱 航法・通信・道路封鎖・攻撃が複合
夜間救援 第10山岳師団・マレーシア・パキスタン部隊が参加

映画で最も省略されやすいのは「外側の部隊」だった

映画はTask Force Rangerを物語の中心に置いている。

そのため、
実際の救援作戦を理解するうえで重要だった
「Task Force Rangerの外側」の構造は圧縮されている。

特に重要なのが、
第10山岳師団、
マレーシア軍、
パキスタン軍である。

第8回で見たように、
10月4日01時55分に第1墜落地点へ到達したのは、
Task Force Rangerだけで編成された車列ではない。

マレーシア軍のCondor装甲兵員輸送車に
第10山岳師団兵が乗り、
パキスタン軍の戦車を含む装甲部隊とともに
市街地へ入った。

つまり史実では、
最後の救出は
米特殊部隊だけの自己救出ではなく、多国籍共同作戦
だった。

「モガディシュ・マイル」も映画と完全には同じではない

第9回で扱った通り、
映画の終盤では
米兵が車列から離れ、
市街地を走り抜けて
パキスタン・スタジアムへ到着する印象が強い。

実際には、
徒歩部隊は装甲車両のrolling coverと
航空支援を受けながら移動している。

また、
徒歩区間そのものも
第1墜落地点からスタジアムまで
全員がノンストップで同じ距離を走ったわけではない。

National Street上の友軍との合流地点へ移動し、
そこから車両を利用した部隊もいる。

映画は複雑な撤収を、
一つの強い映像へまとめている。

FACT CHECK|『ブラックホーク・ダウン』は史実どおりなのか

「全部史実」でも
「ほとんどフィクション」でもない。

作戦の主要な時系列、
二機のBlack Hawk撃墜、
第1・第2墜落地点、
GordonとShughart、
Durantの捕虜化、
夜間救援といった大きな骨格には史実がある。

一方、
人物の統合、
会話、
時間の圧縮、
戦闘の位置関係、
多国籍救援部隊の描写などは
映画として再構成されている。

したがって映画は、
この事件へ入る優れた入口にはなるが、
FACT確認の最終資料にはならない。

「ブラックホーク・ダウン」という名前が事件そのものになった

1993年当時の米軍作戦名は
Operation Gothic Serpentだった。

10月3~4日の戦闘は
Battle of Mogadishuと呼ばれる。

しかし後世では、
書籍と映画の題名から
「Black Hawk Down」が
この事件そのものを指す言葉のように使われることが多くなった。

その結果、
二機のヘリコプター撃墜が
戦闘全体を象徴する出来事になった。

ただし、
CASE23をここまで追ってきたように、
問題はBlack Hawkが落ちたことだけではない。

なぜ墜落地点へ地上車列が行けなかったのか。

なぜ第2墜落地点に救援部隊を回せなかったのか。

なぜ15人のCSARがいても第1墜落地点から撤収できなかったのか。

なぜ最後には他国の戦車・装甲車が必要になったのか。

ヘリコプター撃墜は、
それら複数の問題を一度に表面化させた出来事だった。

CASE23全体を一つのMISSIONとして見る

最後に、
全10回の流れを一つにまとめる。

段階 中心MISSION 何が変えたか
1992年末 人道援助の安全確保 飢餓・内戦
1993年5月 武装解除・治安・政治再建 UNOSOM IIへの移行
1993年6月 攻撃責任者の拘束 6月5日攻撃・決議837
1993年8月 アイディード・側近の拘束 Task Force Ranger投入
10月3日15:32 主要側近の拘束 第7回襲撃開始
16:20 Super 61救出 第1墜落
16時40分台 二つの墜落地点救出 Super 64墜落
第1墜落地点保持 地上救援失敗
10月4日未明 多国籍救援 装甲救援車列投入
05:42以降 戦場撤収 Mogadishu Mile
戦闘後 米軍防護・政治交渉・撤収 米国政策転換

最初の問いへ戻る

CASE23の最初に置いた問いは、


「アイディード派幹部を拘束するはずだった作戦は、
なぜ二機のヘリ墜落を経て、
一夜をかけた救出・撤収MISSIONへ変わったのか」

だった。

答えは、
Black Hawkが二機撃墜されたからだけではない。

Task Force Rangerは、
短時間・高速・奇襲を前提とするシステムだった。

そのシステムは、
標的建物への突入と24人の拘束までは機能した。

しかしSuper 61が墜落したことで、
作戦区域の外側に
新しい固定目標が生まれた。

CSARを投入している最中にSuper 64も墜落し、
救援資源は二つに分断された。

地上車列は、
道路封鎖、
航法、
通信、
銃撃、
死傷者によって自由に動けなくなる。

結果として、
本来数十分で離脱するための部隊が
一晩市街地を保持しなければならなくなった。

その状態を解決するには、
Task Force Rangerの外から
第10山岳師団、
マレーシア軍、
パキスタン軍の重装甲救援部隊を投入する必要があった。

まとめ|モガディシュで変わったのは、作戦だけではなかった

10月3日15時32分に始まったMISSIONの目的は、
アイディード派の主要人物を拘束することだった。

その目的自体は達成され、
24人が拘束された。

しかし二機のBlack Hawk撃墜によって、
MISSIONは救出、墜落地点防御、
多国籍救援、
そして戦場撤収へ変化した。

戦闘後、
米軍はすぐソマリアから逃げ帰ったわけではない。
むしろ一時的に重装甲戦力を増派した。
しかし、その目的はアイディードへの攻勢ではなく、
部隊を守り、安全に撤収することへ変わっていた。

1994年3月までに米軍主要部隊は撤収した。
その後もUNOSOM IIは活動を続けたが、
任務は強制的武装解除から政治・人道支援中心へ修正され、
1995年3月には国連部隊もソマリアを離れた。

そして1999年のマーク・ボウデンの著作、
2001年の映画『ブラックホーク・ダウン』によって、
この戦闘は二機のBlack Hawk撃墜を象徴とする物語として記憶されるようになった。

しかし10回を通して見えてくるのは、
一機のヘリコプターや一つの判断だけでは説明できない戦闘である。

人道介入。
任務拡大。
武装解除。
軍閥追跡。
特殊作戦。
航空機墜落。
都市戦。
通信。
救難。
多国籍救援。
撤収。

それらが連鎖した結果、
「捕らえて帰る」ために始まった短時間MISSIONは、
約15時間後、「全員を戦場から帰す」MISSIONへ変わっていた。


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CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか
  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実【現在の記事】

出典・参考資料

  • U.S. Army Center of Military History,
    The U.S. Army in Somalia, 1992–1994.
    — 10月3~4日の戦闘後の政策転換、
    10月6日の攻勢停止、
    米軍増派、撤収方針、
    Durant解放、Task Force Ranger撤収を確認。
  • The White House,
    Remarks and Briefing on Somalia, October 1993.
    — 1993年10月4~13日のクリントン政権の認識、
    1994年3月31日の米軍撤収期限、
    戦闘前から撤収縮小が検討されていたことを確認。
  • The White House,
    Statement on President Clinton’s Call to Michael Durant, 14 October 1993.
    — マイケル・デュラントの解放と大統領との通話を確認。
  • United Nations Security Council,
    Resolution 897 (1994), S/RES/897.
    — UNOSOM IIの改定後任務、
    政治的和解、協力的武装解除、人道・治安支援への再重点化を確認。
  • United Nations Security Council,
    Resolution 954 (1994), S/RES/954.
    — UNOSOM IIの最終任期を1995年3月31日までとし、
    安全かつ秩序立った撤収を決定したことを確認。
  • United Nations Peacekeeping,
    UNOSOM II — Background / Mandate.
    — 1994~95年の任務縮小、
    各国部隊撤収、
    1995年3月2日の後衛撤収完了、
    Operation United Shieldを確認。
  • Mark Bowden,
    Black Hawk Down: A Story of Modern War,
    Atlantic Monthly Press, 1999.
    — 10月3~4日の戦闘を参加者証言から再構成した主要ジャーナリズム資料。
  • Sony Pictures / Revolution Studios,
    Black Hawk Down, 2001.
    — Bowdenの著作を原作とする映画作品。
    戦闘理解への入口として参照し、FACTの根拠資料とは分離した。

※「モガディシュの戦闘で負けたため、その翌日に米軍撤退が決まった」という単純な説明は採用しない。
米国は戦闘以前からプレゼンス縮小を検討していた一方、
10月3~4日の戦闘後に攻勢停止と1994年3月31日の明確な撤収期限が設定された。
本記事では戦闘を「撤収政策の唯一の原因」ではなく「決定的な分水嶺」と位置づけた。

※戦闘後にM1 Abrams、Bradley、追加歩兵、海兵隊などがソマリアへ投入された。
これはアイディードへの大規模報復攻勢ではなく、
米軍・国連部隊の防護と米軍撤収を安全に実施するための一時的な増強として扱った。

※米軍主要部隊の撤収とUNOSOM II終了は別の出来事である。
米国は1994年3月までに主要戦力を撤収したが、
UNOSOM IIは改定された任務で活動を続け、
1995年3月に撤収した。

※映画『ブラックホーク・ダウン』は史実を題材としているが、
人物、時間、位置関係、会話、部隊構成などに映画的な圧縮・再構成がある。
本特集では映像作品をFACT sourceとして使用せず、
米陸軍・国連・米政府の公的記録を優先した。

※CASE23全体では、
「人道介入そのものが失敗だった」
「特殊部隊の装備不足だけが敗因だった」
「Black Hawk撃墜を全く想定していなかった」
「米兵だけで自力脱出した」
などの単一原因化を避けた。
複数のMISSIONが連鎖的に追加され、部隊の当初設計を超えたことを中心に整理している。

モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

軍事作戦・戦闘

1993年10月3日午後、ソマリアの首都モガディシュ。
米軍の特殊作戦部隊「Task Force Ranger」は、市中心部の建物へ向けてヘリコプターと車列を出発させた。
目的は、軍閥指導者モハメド・ファラ・アイディード本人との接触ではなく、その側近たちを拘束して基地へ連れ帰ることだった。

実際、突入部隊は標的となった人物を含む24人を拘束するところまで進んでいる。
ここだけを見れば、作戦は目的を達成しつつあった。

ところが撤収準備中、上空を旋回していたMH-60ブラックホークがロケット推進擲弾(RPG)を受けて市街地へ墜落した。
さらに別のブラックホークも撃墜される。
その瞬間から、作戦の中心は「拘束した人物を連れ帰ること」ではなく、
墜落地点へ向かい、搭乗員と地上部隊を救出し、全員を市街地から撤収させることへ変わった。

後に映画『ブラックホーク・ダウン』で広く知られることになる「モガディシュの戦闘」である。
しかし実際の出来事を追うには、撃墜されたヘリコプターだけを見ても全体像はつかめない。
なぜ米軍がソマリアにいたのか。なぜアイディード派を追跡していたのか。
なぜ短時間で終わるはずだった作戦が、翌朝まで続く市街戦になったのか。
そして、包囲された部隊を最終的に誰が救出したのか。

この第1回では、1993年10月3日から4日にかけて何が起きたのかを、
シリーズ全体の入口として俯瞰する。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、ソマリア内戦そのものを網羅するのではなく、
米軍のOperation Gothic Serpentと、1993年10月3~4日のモガディシュ市街戦を中心に追う。

焦点となるのは、一つの軍事作戦が途中で目的を変えざるを得なくなった過程である。
標的拘束、ヘリコプター撃墜、墜落地点の確保、車列の混乱、夜間救援、そして翌朝の撤収までを、
作戦・地理・時系列に分けて整理する。

  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日【現在の記事】

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|何が起きた戦闘だったのか

モガディシュの戦闘を最も短く説明すれば、
アイディード派幹部を拘束する米軍の急襲作戦が、2機のブラックホーク撃墜によって大規模な救出・撤収作戦へ変わった戦闘
だった。

10月3日午後、Task Force Rangerはモガディシュ中心部、バカラ・マーケットに近い地域へ突入した。
米陸軍の公式戦史によれば、部隊はアイディードの主要側近2人を含む24人を拘束している。
この時点では、少なくとも作戦の中心目標そのものは達成されていた。

だが、部隊が拘束者を車列へ移そうとしていた段階でブラックホーク1機がRPGを受けて墜落。
救難部隊と地上部隊が墜落地点へ向かった直後、さらに別のブラックホークも墜落した。

これにより部隊は一か所へ集まって撤収することができなくなった。
拘束地点、第1墜落地点、第2墜落地点、地上車列、空港側の救援部隊がそれぞれ別の問題へ対処しなければならなくなり、
市街地各所で戦闘が続いた。

夜になると、第10山岳師団を中心とする米軍のQuick Reaction Force(QRF)に加え、
マレーシア軍の装甲車両とパキスタン軍の戦車を含む多国籍の救援部隊が投入された。
翌10月4日未明に第1墜落地点へ到達し、朝までに残っていた米軍部隊の撤収が進められた。

したがって、この戦闘を理解するうえで重要なのは、
「ブラックホークが2機撃墜された」という結果だけではない。
一つの墜落によって作戦目的と部隊配置が変化し、さらに二つ目の墜落によって問題が分裂したことが、
戦闘を長期化させた核心にある。

そもそも、なぜ米軍はソマリアにいたのか

1991年、長期政権を率いていたモハメド・シアド・バーレが国外へ追われると、
ソマリアでは中央政府の統治能力が事実上崩壊した。
複数の武装勢力が地域ごとに勢力を持ち、干ばつと内戦が重なったことで食料危機も深刻化した。

国際的な援助活動が始まったものの、食料輸送そのものが武装勢力の影響を受け、
援助物資を必要とする住民へ安全に届けることが難しい地域が生まれていた。

1992年12月、米国を中心とした多国籍部隊によるOperation Restore Hopeが開始される。
当初の大きな目的は、食料などの人道援助を輸送・配布できる安全な環境を確保することだった。
米陸軍の公式戦史では、この段階の介入によって大量餓死の危機は大きく緩和されたと整理されている。

1993年5月には、米国主導のUNITAFから国連のUNOSOM IIへ主要任務が引き継がれた。
ここから状況は変化していく。
UNOSOM IIには、人道援助だけでなく、治安回復や武装解除、政治的再建まで含む、より広い任務が与えられていた。

6月5日の襲撃が「アイディード追跡」へつながった

転機となったのが1993年6月5日だった。
モガディシュで国連部隊が攻撃され、パキスタン兵24人が死亡した。
国連安全保障理事会は翌6月6日に決議837を採択し、攻撃責任者に対する措置を求めた。

その後の国連調査では、モハメド・ファラ・アイディードが率いるSomali National Alliance(SNA)側に
攻撃の責任があるとの判断が示された。
こうして、国際部隊とアイディード派の関係は、人道援助をめぐる緊張から明確な武力対立へ近づいていった。

米軍は8月、アイディードとその主要幹部を拘束するため、Task Force Rangerをモガディシュへ展開した。
この部隊はデルタフォース、75th Ranger Regiment、160th Special Operations Aviation Regimentなどの
特殊作戦要素によって構成されていた。

ここで注意したいのは、Task Force Rangerを単純に「国連軍の特殊部隊」と考えると実態とずれることだ。
米陸軍のAfter Action Reportでは、Task Force RangerはUNOSOM IIの指揮下には置かれず、
米軍独自の指揮系統のもとで作戦を実施していたことが確認できる。
一方で、現地の米軍QRFやUNOSOM II側とは調整・連絡を行っていた。

10月3日|第7回目の作戦が始まった

Task Force Rangerは8月末から9月にかけ、モガディシュで複数回の拘束作戦を実施していた。
10月3日の作戦は、その第7回目にあたる。

情報部門が、アイディードの主要人物が市内の建物へ集まっているとの情報を得た。
場所はバカラ・マーケットに近く、当時アイディード派の影響が強かった市街地だった。

米陸軍公式戦史では、ヘリコプターに搭乗した突入・封鎖部隊が15時30分ごろに基地を出発し、
地上車列もその数分後に移動を開始したとしている。
15時42分ごろには部隊が目標地点付近へ到達した。

作戦そのものは航空部隊と地上部隊を組み合わせた構成だった。
特殊作戦部隊が建物へ突入し、レンジャー部隊が周辺を封鎖。
地上車列が拘束者と突入部隊を回収し、モガディシュ空港側の基地へ戻る。

結果として、アイディードの主要側近2人を含む24人が拘束された。
ところが、撤収する段階で状況が崩れ始める。

ブラックホークの墜落で「別の作戦」になった

目標地点周辺では、作戦開始後から米軍に対する射撃が激しくなっていた。
そのなかで、上空を飛行していたMH-60ブラックホークがRPGを受けて墜落した。
機体は目標地点から数ブロック離れた市街地へ落ちた。

ここで、地上部隊には新しい任務が発生した。
墜落した航空機の乗員を救出し、現場を確保しなければならない。
レンジャーの一部、MH-6、さらにCombat Search and Rescue(CSAR=戦闘捜索救難)部隊が墜落地点へ向かった。

しかし、その対応中に別のMH-60も撃墜された。
第2墜落地点は第1墜落地点とは別の場所に生じたため、
すでに複数方向へ分散していた米軍は、さらに戦力を分けざるを得なくなった。

本来なら、目標建物から拘束者と部隊を回収し、そのまま基地へ戻ればよかった。
ところが実際には、
拘束者の輸送、負傷者の搬送、第1墜落地点の防御、第2墜落地点への対応、地上車列の誘導
を同時に処理する必要が生じた。

モガディシュの戦闘が「作戦失敗」という一語だけでは説明できない理由がここにある。
拘束そのものは成功している。
しかし、撤収条件が途中で完全に変わったのである。

戦場はどこだったのか

主な戦闘は、モガディシュ南部のバカラ・マーケット周辺、
当時「Black Sea」と呼ばれていた地域を含む市街地で発生した。
米陸軍公式戦史の地図では、目標となったOlympic Hotel付近、第1墜落地点、第2墜落地点、
空港、パキスタン軍施設などが比較的狭い都市空間の中に位置している。

距離だけを見ると、それぞれが極端に離れているわけではない。
しかし市街地では道路封鎖、射撃、車両の方向転換、負傷者搬送などによって、
数百mから数kmの移動がそのまま実行できるとは限らなかった。

現在のモガディシュ、バカラ・マーケット周辺。
1993年当時の道路名称・建物・検問所・戦闘地点を現在の地図とそのまま一致させることはできない。
この地図は戦闘地域のおおまかな位置を把握するためのもの。


Googleマップで大きく見る

夜になっても、部隊は市内に残っていた

最初の墜落地点に集まった米軍部隊は、激しい攻撃を受けながら現場を保持した。
負傷者を抱えた状態で、市内から簡単に移動できる状況ではなかった。

一方、空港や国連側では救援部隊の編成が進められた。
最終的な救援車列には、米陸軍第10山岳師団の部隊だけでなく、
マレーシア軍の装甲兵員輸送車とパキスタン軍の戦車も参加した。

米陸軍公式戦史では、救援部隊が10月4日1時55分ごろに第1墜落地点へ到達したとされる。
そこから負傷者や遺体の収容が続けられ、
夜明け後、車両に乗り切れなかった兵士の一部は徒歩で移動した。
この移動が、後に「Mogadishu Mile」と呼ばれるようになる。

6時30分ごろまでには、主要な米軍部隊がパキスタン軍施設側へ到達した。
10月3日の午後に始まった作戦は、翌朝になってようやく一区切りを迎えた。

死者18人|ただし「負傷者数」には資料差がある

モガディシュの戦闘では、米軍人18人が死亡した。
この数字については、米陸軍・国連双方の主要資料で一致している。

一方、負傷者数は資料によって表記が異なる。
米陸軍の広報記事では73人、国連資料では75人、
米陸軍Center of Military Historyの戦史では部隊別に集計すると79人となる。

FACT CHECK|なぜ負傷者数が違うのか

「73人」「75人」「79人」のいずれか一つを、他が誤りだと断定するのは適切ではない。
資料によって対象部隊や負傷者の集計範囲が異なっているためである。

この特集では、米軍死者については18人を基本値とする。
負傷者数については、記事ごとに使用する資料と集計範囲を示し、
必要な場合は資料差そのものを記載する。

ソマリア側の死傷者数は、さらに不確実性が大きい。
米陸軍公式戦史も複数の推定値を挙げているが、正確な人数が確定したとはしていない。
そのため本特集では、幅の大きな推計を単一の「確定死者数」として扱わない。

「国連軍対ソマリア」という単純な構図ではない

この戦闘は、説明を短くしようとすると構図を単純化しやすい。
だが、実際にはいくつもの指揮系統と組織が同じモガディシュに存在していた。

Task Force Rangerは米軍独自の指揮系統に属していた。
その一方で、第10山岳師団を中心とする米軍QRFはUNOSOM IIを支援しており、
最終的な救出ではマレーシア軍やパキスタン軍の装甲部隊も必要になった。

ソマリア側も「ソマリア軍」という単一の国家軍が相手だったわけではない。
中央政府の機能が崩壊するなか、アイディード率いるSNAなど複数の勢力が存在していた。
さらに市街戦では武装した民兵と住民を明確に区分すること自体が困難な場面もあった。

この複雑さは、映画だけでは把握しにくい部分でもある。
第2回以降では、「誰が誰の指揮下にいたのか」を分けながら見ていく。

この戦闘は、米国のソマリア政策を変えた

18人の米軍人が死亡した戦闘は、米国内で大きな政治問題となった。
テレビでは死亡した米兵の遺体が市街地で扱われる映像も放送され、
「なぜ米軍はソマリアで戦っているのか」という疑問が強く意識されるようになる。

10月7日、クリントン政権はソマリア政策を修正し、
軍事的圧力だけではなく政治的解決を重視する方向を示した。
その後、米国は1994年3月31日までに主要部隊を撤収させる方針を明確にしている。

つまりモガディシュの戦闘は、一日の市街戦だけで完結する出来事ではなかった。
戦術レベルでは救出・撤収の問題だったが、
戦略レベルでは米国がソマリアへどこまで関与するのかという政策そのものを変える転換点になった。

映画『ブラックホーク・ダウン』だけでは見えにくい部分

この出来事が世界的に知られる大きなきっかけになったのが、
マーク・ボウデンの著作と、それを原作とした映画『ブラックホーク・ダウン』だった。

映画は市街戦の緊迫感や米兵側の体験を知る入口として非常に強い。
一方で、一本の映画には時間的な制約がある。

なぜソマリアへの介入が始まったのか。
UNITAFとUNOSOM IIは何が違ったのか。
Task Force Rangerは国連の指揮下だったのか。
救援に参加した第10山岳師団、マレーシア軍、パキスタン軍は何をしたのか。
戦闘後、米国の政策はなぜ変わったのか。

こうした部分まで含めなければ、
「米特殊部隊のヘリコプターが撃墜され、市街地で包囲された事件」という理解で止まってしまう。

本特集では映画を史料として使用するのではなく、
米軍・国連などの公的資料を基準に出来事を再構成し、
映画との違いについては最終回で分離して検証する。

モガディシュの戦闘を一つの流れで見る

段階 出来事 作戦上の意味
1992年 米国主導のOperation Restore Hope開始 人道援助を安全に届ける環境を確保
1993年5月 UNOSOM IIへ主要任務を移行 治安・武装解除・政治再建まで任務が拡大
6月5日 パキスタン国連部隊への攻撃 アイディード派との対立が急激に深まる
8月 Task Force Ranger展開 アイディードと主要幹部の拘束を狙う
10月3日午後 目標建物を急襲、24人を拘束 当初の拘束任務は達成へ向かう
10月3日16時台 ブラックホーク2機が撃墜 拘束作戦から救出・撤収作戦へ転換
10月3日夜 第1墜落地点周辺で部隊が孤立 外部から大規模救援が必要になる
10月4日未明 米・マレーシア・パキスタン部隊が救援 包囲部隊の回収開始
10月4日朝 主要部隊が市街地から撤収 約一夜に及んだ戦闘が終結

この流れを見ると、10月3日の作戦だけを独立した「特殊部隊の失敗」として見るのも、
逆に単純な「英雄的救出作戦」として見るのも不十分だと分かる。

人道介入から平和強制へ、アイディード追跡へ、標的拘束へ、
そして墜落機の救出へ。
目的が段階的に変化してきた最後の地点に、10月3日の市街戦があった。

まとめ|拘束には成功した。それでも作戦は終わらなかった

1993年10月3日、Task Force Rangerが行おうとしていたのは、
モガディシュ中心部へ入り、アイディードの主要側近を拘束して基地へ戻る短時間の作戦だった。
実際に部隊は24人を拘束しており、当初目標は達成に近づいていた。

しかし、ブラックホークの撃墜によって状況は変わった。
1機目の墜落で救出という新しい任務が発生し、
2機目の墜落によって部隊はさらに分散した。
地上車列は激しい攻撃と道路状況のなかで移動を阻まれ、
墜落地点の部隊は夜まで市街地に残ることになった。

最終的には第10山岳師団、マレーシア軍、パキスタン軍を含む救援部隊が投入され、
翌10月4日朝までに撤収が進められた。
米軍人18人が死亡し、負傷者数については公的資料にも73~79人の差が残っている。

モガディシュの戦闘の核心は、
「ブラックホークが撃墜されたこと」だけではない。
予定していたMISSIONが途中で成立しなくなり、現場で新しいMISSIONへ変えざるを得なくなったことにある。

次回は時間を少し戻し、
なぜ人道援助のために始まったソマリア介入が、
軍閥指導者アイディードとその幹部を追跡する作戦へ変わっていったのかを整理する。

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次の記事:なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent →

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回

  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日【現在の記事】

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

※本記事は米陸軍Center of Military History、米軍After Action Report、国連資料などの公的資料を中心に再構成した。
映画『ブラックホーク・ダウン』は事件を知る入口として言及しているが、本文の事実認定には使用していない。

※米軍の負傷者数には資料差がある。米陸軍の広報資料では73人、国連資料では75人、
米陸軍公式戦史の部隊別記録では3~4 Octoberの負傷者を合計すると79人となる。
本特集では数値を一律に統合せず、資料ごとの集計範囲を確認して記載する。

※ソマリア側の死傷者数には大きな推定幅があり、確定値として扱える統一資料がない。
そのため本記事では単一の死傷者数を確定値として掲載していない。

なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

軍事作戦・戦闘

1992年12月、米軍がソマリアへ大規模に上陸したとき、
その中心的な任務はモハメド・ファラ・アイディードを捕らえることではなかった。

内戦と飢餓のなかで滞っていた食料などの人道援助を届けるため、
港、空港、道路、援助拠点を安全に使える環境を確保する。
米国主導のUNITAFによるOperation Restore Hopeは、そこから始まっている。

ところが約10か月後の1993年10月、
米軍特殊作戦部隊はモガディシュ中心部へ飛び込み、
アイディード本人やその主要側近を拘束する作戦を繰り返していた。

「食料を届けるための軍事介入」から、
なぜ「特定の軍閥指導者を追跡する作戦」へ変わったのか。

その間にあった大きな転換点が、
UNITAFからUNOSOM IIへの移行、
1993年6月5日のパキスタン国連部隊への攻撃、
そして翌日に採択された国連安全保障理事会決議837だった。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、ソマリア内戦全体を網羅するのではなく、
Operation Gothic Serpentと1993年10月3~4日のモガディシュ市街戦を中心に追う。

第2回では戦闘当日から時間を戻し、
米軍と国連がなぜアイディード派を追うようになったのかを整理する。
ここを押さえておくと、10月3日の作戦が突然始まったものではなく、
約4か月続いた対立の延長線上にあったことが見えてくる。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日
  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent【現在の記事】

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|「人道支援」から直接アイディード追跡へ変わったわけではない

米軍がアイディードを追うようになった経緯を、
「人道支援で入った米軍が、途中から軍閥討伐へ目的を変えた」とだけ説明すると、
重要な段階が抜け落ちる。

実際には、少なくとも次のような変化があった。

段階 中心となる目的 転換点
1992年末 人道援助を安全に届ける環境の確保 UNITAF / Operation Restore Hope
1993年5月 武装解除・治安回復・政治再建まで拡大 UNOSOM IIへ移行
1993年6月 UN部隊への攻撃責任者の調査・拘束 6月5日攻撃/決議837
1993年6~8月 アイディード派の軍事能力を抑え、アイディードを拘束 UNOSOM IIとSNAの武力対立
1993年8月末以降 アイディードと主要側近の拘束 Task Force Ranger投入

つまり、10月3日のOperation Gothic Serpentへつながる直接的な起点は、
1992年の飢餓そのものではなく、
1993年5月以降のUNOSOM IIによる武装解除と、
6月5日以降のアイディード派との武力対立
にあった。

出発点は国家機能の崩壊と人道危機だった

ソマリアでは1991年1月、長期政権を率いていたモハメド・シアド・バーレが政権を追われた。
しかし、その後に安定した中央政府が成立したわけではない。

首都モガディシュでは、
暫定大統領アリ・マフディ・モハメドを支持する勢力と、
モハメド・ファラ・アイディードを支持する勢力などが衝突した。
戦闘は首都以外にも広がり、多数の武装集団が地域ごとに力を持つ状態になった。

干ばつと内戦が重なり、食料不足は深刻化した。
国連の記録では、当時ソマリア人口の半数を超える約450万人が
深刻な栄養失調や関連疾病の危険にさらされたとされている。

問題は、援助物資が存在しても、
それを必要な地域へ安全に届けられるとは限らなかったことだった。
道路の検問、武装勢力による略奪、輸送隊への攻撃などによって、
人道支援そのものが治安状況に左右されていた。

1992年12月|Operation Restore Hopeは「アイディード逮捕作戦」ではなかった

1992年末、米国は大規模な多国籍部隊を組織・指揮することを提案した。
国連安全保障理事会は決議794を採択し、
人道援助活動のための安全な環境を確立する目的で、
必要な手段を用いることを認めた。

これを受けて編成されたのが
Unified Task Force、略してUNITAFである。
米国が主導するOperation Restore Hopeの中心となった。

UNITAFは港、空港、主要な援助拠点や輸送路を確保し、
人道援助物資を再び流通させることに重点を置いた。
1993年初めまでに食料輸送は大きく改善し、
差し迫っていた大量餓死の危機も緩和していった。

ただし、これはソマリアの政治問題そのものが解決したという意味ではない。
武装勢力は残り、中央政府も機能していなかった。

そこで次に問題となったのが、
「援助物資を運べる状態」から
「ソマリア自身が再び国家として機能できる状態」へどう移行するかだった。

UNOSOM IIでは任務そのものが大きく広がった

1993年3月26日、
国連安全保障理事会は決議814を採択した。
これに基づいて、UNITAFから新しい国連活動UNOSOM IIへ任務を移すことが決まった。

軍事指揮の移行は5月4日に実施された。
Operation Restore Hopeは終了し、
ソマリアでの主要な国際軍事活動はUNOSOM IIへ引き継がれた。

しかし、名称と指揮組織が変わっただけではない。
UNOSOM IIにはUNITAFより広い仕事が与えられていた。

停戦の監視だけでなく、
武装勢力の武装解除、
違法な小火器の押収、
主要港・空港・輸送路の保護、
警察や行政機構の再建、
政治的和解、
難民・国内避難民の帰還支援まで含まれていた。

さらに決議814は国連憲章第7章に基づいており、
必要な場合には強制措置を使用できる構造だった。

これは従来型の「停戦した両者の間に立つ」だけの平和維持活動とは性格が違う。
ソマリアでは安定した国家も完全な停戦も成立していない状態で、
国連部隊自身が武装解除と治安回復を進めようとしていた。

より広い任務を、より小さな部隊で行うことになった

UNOSOM IIへの移行には、もう一つ重要な変化があった。

国連の公式整理では、
米国主導のUNITAFは約3万7000人を展開し、
主としてソマリア南部・中部の約40%の地域を活動範囲としていた。

これに対してUNOSOM IIは、
約2万2000人規模でソマリア全土を対象とし、
さらに武装解除や国家制度再建まで担うことになった。

数字だけを単純比較することはできないが、
地理的にも政治的にも任務が広がる一方で、
UNITAF期の大規模な米軍戦力の多くは撤収していた
ことは重要である。

米軍そのものが完全にソマリアから去ったわけではない。
国連部隊を支える兵站部隊に加え、
第10山岳師団を中心とするQuick Reaction Force、
つまり緊急時に出動する即応部隊が残された。

だが、5月以降のソマリアでは、
「人道援助拠点の安全確保」だけだった任務の範囲が、
武装勢力との直接的な力関係へ入り込むようになっていた。

武装解除をめぐってアイディード派との緊張が高まる

1993年3月、ソマリアの主要政治勢力はアディスアベバで開かれた国民和解会議で、
停戦、武装解除、復興、暫定的な政治制度などについて合意していた。

UNOSOM IIは、この合意を実際に進める立場にあった。
重火器を国際管理下へ置き、許可されていない武装要員から小火器を回収する。
そのためには各勢力が保有している武器や施設を確認しなければならない。

ところが、UNOSOM IIへの移行後、
アイディード率いるSomali National Alliance、
SNAとの関係は悪化していった。

国連側は武装解除を合意の履行だと考える。
一方、武装勢力側から見れば、
武器を失うことは軍事力だけでなく政治的な交渉力を失うことにもつながる。

その緊張が、6月5日に一気に表面化した。

1993年6月5日|パキスタン国連部隊が攻撃された

6月5日朝、
UNOSOM IIのパキスタン部隊は南モガディシュで、
武器保管場所の査察を含む任務にあたっていた。

その過程で、複数の地点にいるパキスタン部隊が攻撃された。
援助物資の配布に関わっていた兵士、
武器保管場所の査察から戻る部隊、
最初に攻撃された部隊の救援へ向かった兵士も戦闘に巻き込まれた。

後に作成された国連の調査報告S/26351では、
この一連の攻撃によりパキスタン兵24人が死亡、56人が負傷したとされている。

調査報告は、攻撃が起きた南モガディシュを
アイディード率いるSNAが長く支配していた地域と整理している。

この事件によって、
UNOSOM IIとアイディード派の関係は決定的に悪化した。

FACT CHECK|6月5日の死者は24人か25人か

国連資料の中でも数字は完全には一致していない。
UNOSOM IIの初期の背景資料には「25人死亡、54人負傷」と記載されたものがある。
一方、後にまとめられた6月5日事件の国連調査報告S/26351は
「24人死亡、56人負傷」としている。

本特集では、後発の調査報告であるS/26351の
24人死亡・56人負傷を基本値として扱う。
ただし、初期公表値との差があること自体は隠さない。

6月6日の決議837は、アイディードを名指ししていない

攻撃翌日の6月6日、
国連安全保障理事会は決議837を全会一致で採択した。

この決議は6月5日のUNOSOM II要員への攻撃を強く非難し、
攻撃に責任を負う者に対して必要な措置を取る権限があることを改めて確認した。

そこには、
責任者の行為を調査し、
逮捕・拘束して、
訴追、裁判、処罰につなげることも含まれていた。

ここで非常に重要なのは、
決議837の本文自体が「アイディードを逮捕せよ」と名指ししたわけではないことである。

決議が対象としたのは、
6月5日の攻撃について責任を負う者と、
攻撃を公然と扇動した者だった。
さらに国連事務総長へ、
どの派閥指導者が事件に関与していたのかを含めて調査するよう求めている。

したがって、
「6月5日に攻撃が起きる → 翌日国連がアイディード逮捕を命令する」
という一直線の説明は正確ではない。

決議837が法的・政治的な枠組みを作り、
その後の調査と軍事的対立の中で
アイディード本人が具体的な拘束対象になっていった。

6月12日|UNOSOM IIは軍事行動へ踏み込んだ

決議837の採択後、
UNOSOM IIはアイディード派との対立を軍事的に処理する方向へ進んでいく。

6月12日から南モガディシュで航空・地上作戦が始まり、
SNAが使用していた武器保管施設や軍事関連施設が攻撃された。

アイディード派が使用していたRadio Mogadishuの送信能力も破壊された。
国連は、この放送施設がUNOSOM IIへの攻撃を扇動する役割を持っていると判断していた。

米軍もAC-130ガンシップなどを投入し、
武器庫や車両集積地などへの攻撃を支援した。

この時点で、国際部隊とアイディード派の関係は、
武装解除をめぐる緊張から、
互いに武器を使用する継続的な対立へ変化していた。

6月17日|アイディード本人が拘束対象になる

6月17日、
国連事務総長特別代表ジョナサン・ハウは、
6月5日の攻撃へのSNA民兵の関与を示す証拠が積み重なっているとして、
アイディードにUNOSOM IIへの平和的な出頭を求めた。

同時に、UNOSOM II司令官に対して、
6月5日の攻撃とその扇動について調査するため
アイディードを拘束するよう指示した。

米陸軍の公式戦史では、
この措置をアイディードに対する逮捕状の発行として整理しており、
2万5000ドルの報奨金も設定されたとしている。

しかしアイディードは拘束されなかった。

むしろ空爆や地上戦が続いたことで、
SNA側はアイディードの所在を隠し、
国連・米軍側も彼の居場所を特定することが難しくなっていった。

ここから「武装解除」より「アイディード捜索」が前面に出る

6月から7月にかけ、
UNOSOM IIとアイディード派の間では軍事衝突が繰り返された。

国連側の武器庫・指揮施設への攻撃、
SNA側からの待ち伏せや射撃、
UNOSOM II施設への攻撃が続き、
モガディシュの一部地域では双方の対立が日常化していった。

この段階になると、
当初の「ソマリア各勢力を包括的に武装解除する」という任務の中でも、
アイディードとSNAへの対応が突出して大きな問題になっていた。

国連のUNOSOM II公式記録も、
6月以降は南モガディシュで
アイディード派の民兵や武器庫を対象とする
「coercive disarmament」、強制的な武装解除が進められたと整理している。

同時に、
6月5日以降の国連要員への攻撃に関与した人物の拘束も続けられた。

通常部隊ではアイディードを捕らえられなかった

8月になると、
アイディード本人と主要側近を拘束するための資源がさらに投入された。

当初、米軍Quick Reaction Forceや現地特殊作戦要員は、
アイディードを継続的に監視し、
移動中など条件のよい瞬間を捉えて航空強襲で拘束する計画を立てていた。

計画上の狙いは、
アイディードを生きたまま拘束し、
味方や民間人への被害をできるだけ小さくすること
だった。

しかし実際には、
作戦を発動できる条件が整わなかった。

追跡が強まるほどアイディードは表立って行動しなくなり、
SNAの支配地域からほとんど姿を見せなくなった。
監視して捕らえるという当初の方式では、
拘束機会そのものを作れなくなったのである。

米軍側は、
通常の即応部隊ではなく、
都市内部の限定された目標へ短時間で突入し、
標的人物だけを拘束して離脱できる能力が必要だと判断した。

Task Force Rangerがソマリアへ送られた

そこで米国から追加投入されたのが、
Task Force Rangerだった。

主要部隊は1993年8月末までにモガディシュへ展開した。
任務は、
アイディードと主要側近を捕らえ、UNOSOM II側へ引き渡すことだった。

ただし、ここでも指揮関係には注意が必要である。

Task Force RangerはUNOSOM IIのための任務を支援していたが、
国連軍の指揮下に直接入っていたわけではない。

部隊は米軍独自の指揮系統に置かれ、
司令官ウィリアム・F・ギャリソン少将は
米中央軍側へ直接報告する仕組みになっていた。

FACT CHECK|Task Force Rangerは「国連軍」だったのか

直接の意味では違う。
Task Force Rangerの作戦はUNOSOM IIの目的を支援していたが、
作戦計画と実行は米軍によって行われ、
部隊そのものも米軍の指揮系統に残っていた。

一方で完全に独立して勝手に行動していたわけでもない。
現地の米軍司令部、Quick Reaction Force、
UNOSOM II側との連絡・調整は行われていた。

8~9月、Task Force Rangerは6回の作戦を行った

10月3日の作戦は、
Task Force Rangerにとって最初の襲撃ではなかった。

米陸軍公式戦史によれば、
8月から9月にかけて部隊はモガディシュで6回の作戦を実施している。
アイディード本人を捕らえることはできなかったものの、
主要側近の拘束には成功していた。

その中で大きな成果となったのが9月21日の作戦だった。

アイディードの主要顧問であり、
資金面でも重要人物だったオスマン・アットを、
ディグフェル病院付近で拘束した。

ただし同じ時期、
SNA側の抵抗も変化していた。

9月21日の作戦では、
レンジャー部隊が周辺からまとまったRPG射撃を受けた。
さらに9月25日には、
別任務中の米陸軍UH-60ブラックホークがRPGで撃墜され、
米兵3人が死亡している。

つまり10月3日の時点で、
「ブラックホークがRPGで撃墜される可能性」は
完全に未知の脅威ではなかった。

それでもTask Force Rangerは、
高速なヘリコプター強襲と地上車列を組み合わせれば、
標的を短時間で拘束し撤収できると考えていた。

そして10月3日、第7回目の作戦へ

10月3日、
Task Force Rangerは
アイディードの主要側近がモガディシュ中心部の建物へ集まっているという情報を得た。

今回も狙いは、
市街地を占領することでも、
アイディード派との決戦を行うことでもない。

建物へ急襲し、
標的人物を拘束し、
地上車列へ乗せて基地へ戻る。

これまで繰り返してきた、
短時間の「snatch operation」に近い作戦だった。

結果として24人を拘束し、
その中にはアイディードの主要側近2人も含まれていた。

つまり、標的人物を捕らえるという部分だけを見れば、
10月3日の襲撃は成功していた。

だが撤収前に、
上空のブラックホークが撃墜される。

そこから先は、
それまで6回経験してきた拘束作戦とは全く違うものになった。

「なぜ米軍はアイディードを追ったのか」を時系列で整理する

日付 出来事 意味
1991年 シアド・バーレ政権崩壊 中央政府が機能しなくなり内戦が拡大
1992年12月 UNITAF / Operation Restore Hope開始 人道援助の安全確保が中心
1993年3月26日 国連安保理決議814 UNOSOM IIの広範な任務を承認
1993年5月4日 UNITAFからUNOSOM IIへ移行 武装解除・政治再建まで任務が拡大
1993年6月5日 パキスタンUNOSOM II部隊への攻撃 24人死亡、対立の大きな転換点
1993年6月6日 国連安保理決議837 攻撃責任者の調査・逮捕・拘束を認める
1993年6月12日以降 UNOSOM IIがSNA関連施設へ軍事行動 強制的武装解除へ移行
1993年6月17日 アイディードへの出頭要求・拘束指示 本人が具体的な追跡対象になる
1993年8月末 Task Force Ranger展開 特殊作戦によるアイディード・側近拘束へ
1993年9月21日 オスマン・アット拘束 主要側近の拘束に成功
1993年10月3日 主要側近を狙った第7回作戦 モガディシュの戦闘へ発展

まとめ|10月3日は、6月5日から続いた追跡の延長線上にあった

米軍がソマリアへ入った最初の目的は、
アイディードを捕らえることではなかった。
1992年末のOperation Restore Hopeでは、
飢餓と内戦のなかで人道援助を安全に届けられる環境を確保することが中心だった。

転換したのは1993年だった。
UNITAFからUNOSOM IIへ移行すると、
任務は武装解除、治安回復、警察・政治制度の再建へ大きく広がった。
その武装解除をめぐってアイディード派との緊張が高まり、
6月5日にはパキスタン国連部隊24人が死亡する攻撃が発生した。

翌日の決議837はアイディード本人を名指ししてはいなかったが、
攻撃責任者の調査、逮捕、拘束を認める枠組みを作った。
その後の調査と武力衝突を経て、
6月17日にはアイディード本人が具体的な拘束対象となる。

しかし通常部隊による追跡では彼を捕らえられない。
そのため8月末、
都市部へ高速で突入して標的人物を拘束するために
Task Force Rangerが投入された。

したがって10月3日の作戦は、
突然計画された一回限りの襲撃ではない。
6月5日から約4か月続いていた「アイディードと主要側近を捕らえる」という作戦系列の第7回目だった。

次回は、そのTask Force Rangerそのものを見る。
デルタフォース、レンジャー、160th SOAR、地上車列は、
それぞれ何を担当し、
どのように「短時間で突入して拘束し、撤収する」作戦を成立させようとしていたのか。
10月3日の失敗を理解するためには、まず本来の作戦設計を知る必要がある。


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CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日
  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent【現在の記事】

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • United Nations Security Council,
    Resolution 814 (1993), S/RES/814(1993).
    — UNOSOM IIの設置、任務拡大、政治再建・武装解除に関する確認。
  • United Nations Security Council,
    Resolution 837 (1993), S/RES/837(1993).
    — 1993年6月5日の攻撃、責任者の調査・逮捕・拘束に関する確認。
  • United Nations,
    Report of an investigation into the 5 June 1993 attack on United Nations forces in Somalia,
    S/26351.
    — 6月5日の攻撃経過、パキスタン兵24人死亡・56人負傷の確認。
  • United Nations Peacekeeping,
    United Nations Operation in Somalia II (UNOSOM II): Background / Mandate.
    — UNITAFからUNOSOM IIへの移行、武装解除、6月以降の軍事行動、
    アイディードへの出頭要求、10月3日までの経過の確認。
  • U.S. Army Center of Military History,
    The U.S. Army in Somalia, 1992–1994.
    — Operation Restore Hope、UNOSOM II、6月以降の対立、
    Task Force Ranger投入と8~9月の作戦の確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — アイディード拘束計画、QRFによる追跡、
    Task Force Rangerの任務・指揮関係・作戦経過の確認。
  • The White House,
    President Clinton’s Letter to Congress on Somalia, 10 June 1993.
    — UNITAFからUNOSOM IIへの移行と、6月5日事件直後の米国政府側の認識を確認。

※国連安保理決議837は、モハメド・ファラ・アイディード本人を名指しして
「逮捕せよ」と規定した決議ではない。
決議は6月5日の攻撃に責任を負う者の調査・逮捕・拘束を認め、
その後の調査とUNOSOM IIの判断によってアイディード本人が具体的な拘束対象となった。

※1993年6月5日のパキスタン国連部隊の被害については資料差がある。
UNOSOM IIの初期資料には25人死亡・54人負傷との記載がある一方、
後の国連調査報告S/26351では24人死亡・56人負傷としている。
本記事では後発の調査報告を基本値とした。

※英語資料では人物名を Aidid / Aideed など複数の綴りで表記している。
本特集の日本語本文では「モハメド・ファラ・アイディード」に統一する。