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なぜ米軍はアイディードを追ったのかUNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

軍事作戦・戦闘

1992年12月、米軍がソマリアへ大規模に上陸したとき、
その中心的な任務はモハメド・ファラ・アイディードを捕らえることではなかった。

内戦と飢餓のなかで滞っていた食料などの人道援助を届けるため、
港、空港、道路、援助拠点を安全に使える環境を確保する。
米国主導のUNITAFによるOperation Restore Hopeは、そこから始まっている。

ところが約10か月後の1993年10月、
米軍特殊作戦部隊はモガディシュ中心部へ飛び込み、
アイディード本人やその主要側近を拘束する作戦を繰り返していた。

「食料を届けるための軍事介入」から、
なぜ「特定の軍閥指導者を追跡する作戦」へ変わったのか。

その間にあった大きな転換点が、
UNITAFからUNOSOM IIへの移行、
1993年6月5日のパキスタン国連部隊への攻撃、
そして翌日に採択された国連安全保障理事会決議837だった。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、ソマリア内戦全体を網羅するのではなく、
Operation Gothic Serpentと1993年10月3~4日のモガディシュ市街戦を中心に追う。

第2回では戦闘当日から時間を戻し、
米軍と国連がなぜアイディード派を追うようになったのかを整理する。
ここを押さえておくと、10月3日の作戦が突然始まったものではなく、
約4か月続いた対立の延長線上にあったことが見えてくる。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日
  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent【現在の記事】

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|「人道支援」から直接アイディード追跡へ変わったわけではない

米軍がアイディードを追うようになった経緯を、
「人道支援で入った米軍が、途中から軍閥討伐へ目的を変えた」とだけ説明すると、
重要な段階が抜け落ちる。

実際には、少なくとも次のような変化があった。

段階 中心となる目的 転換点
1992年末 人道援助を安全に届ける環境の確保 UNITAF / Operation Restore Hope
1993年5月 武装解除・治安回復・政治再建まで拡大 UNOSOM IIへ移行
1993年6月 UN部隊への攻撃責任者の調査・拘束 6月5日攻撃/決議837
1993年6~8月 アイディード派の軍事能力を抑え、アイディードを拘束 UNOSOM IIとSNAの武力対立
1993年8月末以降 アイディードと主要側近の拘束 Task Force Ranger投入

つまり、10月3日のOperation Gothic Serpentへつながる直接的な起点は、
1992年の飢餓そのものではなく、
1993年5月以降のUNOSOM IIによる武装解除と、
6月5日以降のアイディード派との武力対立
にあった。

出発点は国家機能の崩壊と人道危機だった

ソマリアでは1991年1月、長期政権を率いていたモハメド・シアド・バーレが政権を追われた。
しかし、その後に安定した中央政府が成立したわけではない。

首都モガディシュでは、
暫定大統領アリ・マフディ・モハメドを支持する勢力と、
モハメド・ファラ・アイディードを支持する勢力などが衝突した。
戦闘は首都以外にも広がり、多数の武装集団が地域ごとに力を持つ状態になった。

干ばつと内戦が重なり、食料不足は深刻化した。
国連の記録では、当時ソマリア人口の半数を超える約450万人が
深刻な栄養失調や関連疾病の危険にさらされたとされている。

問題は、援助物資が存在しても、
それを必要な地域へ安全に届けられるとは限らなかったことだった。
道路の検問、武装勢力による略奪、輸送隊への攻撃などによって、
人道支援そのものが治安状況に左右されていた。

1992年12月|Operation Restore Hopeは「アイディード逮捕作戦」ではなかった

1992年末、米国は大規模な多国籍部隊を組織・指揮することを提案した。
国連安全保障理事会は決議794を採択し、
人道援助活動のための安全な環境を確立する目的で、
必要な手段を用いることを認めた。

これを受けて編成されたのが
Unified Task Force、略してUNITAFである。
米国が主導するOperation Restore Hopeの中心となった。

UNITAFは港、空港、主要な援助拠点や輸送路を確保し、
人道援助物資を再び流通させることに重点を置いた。
1993年初めまでに食料輸送は大きく改善し、
差し迫っていた大量餓死の危機も緩和していった。

ただし、これはソマリアの政治問題そのものが解決したという意味ではない。
武装勢力は残り、中央政府も機能していなかった。

そこで次に問題となったのが、
「援助物資を運べる状態」から
「ソマリア自身が再び国家として機能できる状態」へどう移行するかだった。

UNOSOM IIでは任務そのものが大きく広がった

1993年3月26日、
国連安全保障理事会は決議814を採択した。
これに基づいて、UNITAFから新しい国連活動UNOSOM IIへ任務を移すことが決まった。

軍事指揮の移行は5月4日に実施された。
Operation Restore Hopeは終了し、
ソマリアでの主要な国際軍事活動はUNOSOM IIへ引き継がれた。

しかし、名称と指揮組織が変わっただけではない。
UNOSOM IIにはUNITAFより広い仕事が与えられていた。

停戦の監視だけでなく、
武装勢力の武装解除、
違法な小火器の押収、
主要港・空港・輸送路の保護、
警察や行政機構の再建、
政治的和解、
難民・国内避難民の帰還支援まで含まれていた。

さらに決議814は国連憲章第7章に基づいており、
必要な場合には強制措置を使用できる構造だった。

これは従来型の「停戦した両者の間に立つ」だけの平和維持活動とは性格が違う。
ソマリアでは安定した国家も完全な停戦も成立していない状態で、
国連部隊自身が武装解除と治安回復を進めようとしていた。

より広い任務を、より小さな部隊で行うことになった

UNOSOM IIへの移行には、もう一つ重要な変化があった。

国連の公式整理では、
米国主導のUNITAFは約3万7000人を展開し、
主としてソマリア南部・中部の約40%の地域を活動範囲としていた。

これに対してUNOSOM IIは、
約2万2000人規模でソマリア全土を対象とし、
さらに武装解除や国家制度再建まで担うことになった。

数字だけを単純比較することはできないが、
地理的にも政治的にも任務が広がる一方で、
UNITAF期の大規模な米軍戦力の多くは撤収していた
ことは重要である。

米軍そのものが完全にソマリアから去ったわけではない。
国連部隊を支える兵站部隊に加え、
第10山岳師団を中心とするQuick Reaction Force、
つまり緊急時に出動する即応部隊が残された。

だが、5月以降のソマリアでは、
「人道援助拠点の安全確保」だけだった任務の範囲が、
武装勢力との直接的な力関係へ入り込むようになっていた。

武装解除をめぐってアイディード派との緊張が高まる

1993年3月、ソマリアの主要政治勢力はアディスアベバで開かれた国民和解会議で、
停戦、武装解除、復興、暫定的な政治制度などについて合意していた。

UNOSOM IIは、この合意を実際に進める立場にあった。
重火器を国際管理下へ置き、許可されていない武装要員から小火器を回収する。
そのためには各勢力が保有している武器や施設を確認しなければならない。

ところが、UNOSOM IIへの移行後、
アイディード率いるSomali National Alliance、
SNAとの関係は悪化していった。

国連側は武装解除を合意の履行だと考える。
一方、武装勢力側から見れば、
武器を失うことは軍事力だけでなく政治的な交渉力を失うことにもつながる。

その緊張が、6月5日に一気に表面化した。

1993年6月5日|パキスタン国連部隊が攻撃された

6月5日朝、
UNOSOM IIのパキスタン部隊は南モガディシュで、
武器保管場所の査察を含む任務にあたっていた。

その過程で、複数の地点にいるパキスタン部隊が攻撃された。
援助物資の配布に関わっていた兵士、
武器保管場所の査察から戻る部隊、
最初に攻撃された部隊の救援へ向かった兵士も戦闘に巻き込まれた。

後に作成された国連の調査報告S/26351では、
この一連の攻撃によりパキスタン兵24人が死亡、56人が負傷したとされている。

調査報告は、攻撃が起きた南モガディシュを
アイディード率いるSNAが長く支配していた地域と整理している。

この事件によって、
UNOSOM IIとアイディード派の関係は決定的に悪化した。

FACT CHECK|6月5日の死者は24人か25人か

国連資料の中でも数字は完全には一致していない。
UNOSOM IIの初期の背景資料には「25人死亡、54人負傷」と記載されたものがある。
一方、後にまとめられた6月5日事件の国連調査報告S/26351は
「24人死亡、56人負傷」としている。

本特集では、後発の調査報告であるS/26351の
24人死亡・56人負傷を基本値として扱う。
ただし、初期公表値との差があること自体は隠さない。

6月6日の決議837は、アイディードを名指ししていない

攻撃翌日の6月6日、
国連安全保障理事会は決議837を全会一致で採択した。

この決議は6月5日のUNOSOM II要員への攻撃を強く非難し、
攻撃に責任を負う者に対して必要な措置を取る権限があることを改めて確認した。

そこには、
責任者の行為を調査し、
逮捕・拘束して、
訴追、裁判、処罰につなげることも含まれていた。

ここで非常に重要なのは、
決議837の本文自体が「アイディードを逮捕せよ」と名指ししたわけではないことである。

決議が対象としたのは、
6月5日の攻撃について責任を負う者と、
攻撃を公然と扇動した者だった。
さらに国連事務総長へ、
どの派閥指導者が事件に関与していたのかを含めて調査するよう求めている。

したがって、
「6月5日に攻撃が起きる → 翌日国連がアイディード逮捕を命令する」
という一直線の説明は正確ではない。

決議837が法的・政治的な枠組みを作り、
その後の調査と軍事的対立の中で
アイディード本人が具体的な拘束対象になっていった。

6月12日|UNOSOM IIは軍事行動へ踏み込んだ

決議837の採択後、
UNOSOM IIはアイディード派との対立を軍事的に処理する方向へ進んでいく。

6月12日から南モガディシュで航空・地上作戦が始まり、
SNAが使用していた武器保管施設や軍事関連施設が攻撃された。

アイディード派が使用していたRadio Mogadishuの送信能力も破壊された。
国連は、この放送施設がUNOSOM IIへの攻撃を扇動する役割を持っていると判断していた。

米軍もAC-130ガンシップなどを投入し、
武器庫や車両集積地などへの攻撃を支援した。

この時点で、国際部隊とアイディード派の関係は、
武装解除をめぐる緊張から、
互いに武器を使用する継続的な対立へ変化していた。

6月17日|アイディード本人が拘束対象になる

6月17日、
国連事務総長特別代表ジョナサン・ハウは、
6月5日の攻撃へのSNA民兵の関与を示す証拠が積み重なっているとして、
アイディードにUNOSOM IIへの平和的な出頭を求めた。

同時に、UNOSOM II司令官に対して、
6月5日の攻撃とその扇動について調査するため
アイディードを拘束するよう指示した。

米陸軍の公式戦史では、
この措置をアイディードに対する逮捕状の発行として整理しており、
2万5000ドルの報奨金も設定されたとしている。

しかしアイディードは拘束されなかった。

むしろ空爆や地上戦が続いたことで、
SNA側はアイディードの所在を隠し、
国連・米軍側も彼の居場所を特定することが難しくなっていった。

ここから「武装解除」より「アイディード捜索」が前面に出る

6月から7月にかけ、
UNOSOM IIとアイディード派の間では軍事衝突が繰り返された。

国連側の武器庫・指揮施設への攻撃、
SNA側からの待ち伏せや射撃、
UNOSOM II施設への攻撃が続き、
モガディシュの一部地域では双方の対立が日常化していった。

この段階になると、
当初の「ソマリア各勢力を包括的に武装解除する」という任務の中でも、
アイディードとSNAへの対応が突出して大きな問題になっていた。

国連のUNOSOM II公式記録も、
6月以降は南モガディシュで
アイディード派の民兵や武器庫を対象とする
「coercive disarmament」、強制的な武装解除が進められたと整理している。

同時に、
6月5日以降の国連要員への攻撃に関与した人物の拘束も続けられた。

通常部隊ではアイディードを捕らえられなかった

8月になると、
アイディード本人と主要側近を拘束するための資源がさらに投入された。

当初、米軍Quick Reaction Forceや現地特殊作戦要員は、
アイディードを継続的に監視し、
移動中など条件のよい瞬間を捉えて航空強襲で拘束する計画を立てていた。

計画上の狙いは、
アイディードを生きたまま拘束し、
味方や民間人への被害をできるだけ小さくすること
だった。

しかし実際には、
作戦を発動できる条件が整わなかった。

追跡が強まるほどアイディードは表立って行動しなくなり、
SNAの支配地域からほとんど姿を見せなくなった。
監視して捕らえるという当初の方式では、
拘束機会そのものを作れなくなったのである。

米軍側は、
通常の即応部隊ではなく、
都市内部の限定された目標へ短時間で突入し、
標的人物だけを拘束して離脱できる能力が必要だと判断した。

Task Force Rangerがソマリアへ送られた

そこで米国から追加投入されたのが、
Task Force Rangerだった。

主要部隊は1993年8月末までにモガディシュへ展開した。
任務は、
アイディードと主要側近を捕らえ、UNOSOM II側へ引き渡すことだった。

ただし、ここでも指揮関係には注意が必要である。

Task Force RangerはUNOSOM IIのための任務を支援していたが、
国連軍の指揮下に直接入っていたわけではない。

部隊は米軍独自の指揮系統に置かれ、
司令官ウィリアム・F・ギャリソン少将は
米中央軍側へ直接報告する仕組みになっていた。

FACT CHECK|Task Force Rangerは「国連軍」だったのか

直接の意味では違う。
Task Force Rangerの作戦はUNOSOM IIの目的を支援していたが、
作戦計画と実行は米軍によって行われ、
部隊そのものも米軍の指揮系統に残っていた。

一方で完全に独立して勝手に行動していたわけでもない。
現地の米軍司令部、Quick Reaction Force、
UNOSOM II側との連絡・調整は行われていた。

8~9月、Task Force Rangerは6回の作戦を行った

10月3日の作戦は、
Task Force Rangerにとって最初の襲撃ではなかった。

米陸軍公式戦史によれば、
8月から9月にかけて部隊はモガディシュで6回の作戦を実施している。
アイディード本人を捕らえることはできなかったものの、
主要側近の拘束には成功していた。

その中で大きな成果となったのが9月21日の作戦だった。

アイディードの主要顧問であり、
資金面でも重要人物だったオスマン・アットを、
ディグフェル病院付近で拘束した。

ただし同じ時期、
SNA側の抵抗も変化していた。

9月21日の作戦では、
レンジャー部隊が周辺からまとまったRPG射撃を受けた。
さらに9月25日には、
別任務中の米陸軍UH-60ブラックホークがRPGで撃墜され、
米兵3人が死亡している。

つまり10月3日の時点で、
「ブラックホークがRPGで撃墜される可能性」は
完全に未知の脅威ではなかった。

それでもTask Force Rangerは、
高速なヘリコプター強襲と地上車列を組み合わせれば、
標的を短時間で拘束し撤収できると考えていた。

そして10月3日、第7回目の作戦へ

10月3日、
Task Force Rangerは
アイディードの主要側近がモガディシュ中心部の建物へ集まっているという情報を得た。

今回も狙いは、
市街地を占領することでも、
アイディード派との決戦を行うことでもない。

建物へ急襲し、
標的人物を拘束し、
地上車列へ乗せて基地へ戻る。

これまで繰り返してきた、
短時間の「snatch operation」に近い作戦だった。

結果として24人を拘束し、
その中にはアイディードの主要側近2人も含まれていた。

つまり、標的人物を捕らえるという部分だけを見れば、
10月3日の襲撃は成功していた。

だが撤収前に、
上空のブラックホークが撃墜される。

そこから先は、
それまで6回経験してきた拘束作戦とは全く違うものになった。

「なぜ米軍はアイディードを追ったのか」を時系列で整理する

日付 出来事 意味
1991年 シアド・バーレ政権崩壊 中央政府が機能しなくなり内戦が拡大
1992年12月 UNITAF / Operation Restore Hope開始 人道援助の安全確保が中心
1993年3月26日 国連安保理決議814 UNOSOM IIの広範な任務を承認
1993年5月4日 UNITAFからUNOSOM IIへ移行 武装解除・政治再建まで任務が拡大
1993年6月5日 パキスタンUNOSOM II部隊への攻撃 24人死亡、対立の大きな転換点
1993年6月6日 国連安保理決議837 攻撃責任者の調査・逮捕・拘束を認める
1993年6月12日以降 UNOSOM IIがSNA関連施設へ軍事行動 強制的武装解除へ移行
1993年6月17日 アイディードへの出頭要求・拘束指示 本人が具体的な追跡対象になる
1993年8月末 Task Force Ranger展開 特殊作戦によるアイディード・側近拘束へ
1993年9月21日 オスマン・アット拘束 主要側近の拘束に成功
1993年10月3日 主要側近を狙った第7回作戦 モガディシュの戦闘へ発展

まとめ|10月3日は、6月5日から続いた追跡の延長線上にあった

米軍がソマリアへ入った最初の目的は、
アイディードを捕らえることではなかった。
1992年末のOperation Restore Hopeでは、
飢餓と内戦のなかで人道援助を安全に届けられる環境を確保することが中心だった。

転換したのは1993年だった。
UNITAFからUNOSOM IIへ移行すると、
任務は武装解除、治安回復、警察・政治制度の再建へ大きく広がった。
その武装解除をめぐってアイディード派との緊張が高まり、
6月5日にはパキスタン国連部隊24人が死亡する攻撃が発生した。

翌日の決議837はアイディード本人を名指ししてはいなかったが、
攻撃責任者の調査、逮捕、拘束を認める枠組みを作った。
その後の調査と武力衝突を経て、
6月17日にはアイディード本人が具体的な拘束対象となる。

しかし通常部隊による追跡では彼を捕らえられない。
そのため8月末、
都市部へ高速で突入して標的人物を拘束するために
Task Force Rangerが投入された。

したがって10月3日の作戦は、
突然計画された一回限りの襲撃ではない。
6月5日から約4か月続いていた「アイディードと主要側近を捕らえる」という作戦系列の第7回目だった。

次回は、そのTask Force Rangerそのものを見る。
デルタフォース、レンジャー、160th SOAR、地上車列は、
それぞれ何を担当し、
どのように「短時間で突入して拘束し、撤収する」作戦を成立させようとしていたのか。
10月3日の失敗を理解するためには、まず本来の作戦設計を知る必要がある。


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CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日
  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent【現在の記事】

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊

  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • United Nations Security Council,
    Resolution 814 (1993), S/RES/814(1993).
    — UNOSOM IIの設置、任務拡大、政治再建・武装解除に関する確認。
  • United Nations Security Council,
    Resolution 837 (1993), S/RES/837(1993).
    — 1993年6月5日の攻撃、責任者の調査・逮捕・拘束に関する確認。
  • United Nations,
    Report of an investigation into the 5 June 1993 attack on United Nations forces in Somalia,
    S/26351.
    — 6月5日の攻撃経過、パキスタン兵24人死亡・56人負傷の確認。
  • United Nations Peacekeeping,
    United Nations Operation in Somalia II (UNOSOM II): Background / Mandate.
    — UNITAFからUNOSOM IIへの移行、武装解除、6月以降の軍事行動、
    アイディードへの出頭要求、10月3日までの経過の確認。
  • U.S. Army Center of Military History,
    The U.S. Army in Somalia, 1992–1994.
    — Operation Restore Hope、UNOSOM II、6月以降の対立、
    Task Force Ranger投入と8~9月の作戦の確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — アイディード拘束計画、QRFによる追跡、
    Task Force Rangerの任務・指揮関係・作戦経過の確認。
  • The White House,
    President Clinton’s Letter to Congress on Somalia, 10 June 1993.
    — UNITAFからUNOSOM IIへの移行と、6月5日事件直後の米国政府側の認識を確認。

※国連安保理決議837は、モハメド・ファラ・アイディード本人を名指しして
「逮捕せよ」と規定した決議ではない。
決議は6月5日の攻撃に責任を負う者の調査・逮捕・拘束を認め、
その後の調査とUNOSOM IIの判断によってアイディード本人が具体的な拘束対象となった。

※1993年6月5日のパキスタン国連部隊の被害については資料差がある。
UNOSOM IIの初期資料には25人死亡・54人負傷との記載がある一方、
後の国連調査報告S/26351では24人死亡・56人負傷としている。
本記事では後発の調査報告を基本値とした。

※英語資料では人物名を Aidid / Aideed など複数の綴りで表記している。
本特集の日本語本文では「モハメド・ファラ・アイディード」に統一する。