先に結論|カーターは「勘だけ」で探したのではなく、ツタンカーメンが王家の谷に葬られた可能性を示す複数の痕跡と、まだ十分に掘られていない区画を組み合わせて探索を続けた
THE QUESTION
ハワード・カーターはなぜツタンカーメンの墓を探し続けたのか | 最後の発掘シーズンまでについて、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「ツタンカーメン王墓はなぜ20世紀まで残ったのか|KV62発見の意味」で確認した論点を受け、この回ではハワード・カーターはなぜツタンカーメンの墓を探し続けたのか | 最後の発掘シーズンまでについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1922年11月のツタンカーメン王墓発見は、しばしば「諦めなかった男が最後のチャンスで奇跡を起こした」という物語として語られる。
その骨格自体は間違っていない。ハワード・カーターは長期間、王家の谷でツタンカーメンの墓を探し、成果が乏しいまま1922年秋に「最後の努力」としてもう一度現場へ戻った。実際、カーターが後年の講演用に残したメモには、探索隊がほとんど諦めかけていたこと、しかしラムセス6世墓の近くに残った古代の作業員小屋の下を未調査のまま残したくなかったため「もう一シーズン」を決めたことが記されている。
ただし、この発見を執念だけで説明すると本質を外す。
カーターには、ツタンカーメンの王墓が王家の谷に存在するはずだと考える材料があった。セオドア・デイヴィスの発掘では、ツタンカーメンの名を記した埋葬関連資料や遺物が谷から見つかっていた。デイヴィス自身は、それらをツタンカーメンの墓そのものと解釈したこともあったが、後の検討では少なくとも一部は王のミイラ化・葬儀に伴う埋納物だったと分かった。カーターは、むしろそれを「王本人の墓がこの谷のどこかに残っている」ことを示す手掛かりとして見た。
さらに1914年、王家の谷の発掘権がデイヴィスからカーナーヴォン卿とカーター側へ移った。第一次世界大戦の影響で本格的な探索は遅れたが、カーター自身の回想では1917年秋から「本当のキャンペーン」が始まる。彼は王家の谷の中央部に、過去の発掘残土が厚く積もり、十分に岩盤まで確認されていない三角形状の区域を設定した。そして数シーズンにわたり、表土・旧発掘土・作業員小屋を段階的に除去し、岩盤面を系統的に確認していった。
つまり、1922年11月の発見は、
ツタンカーメンの存在を示す先行発見
+
「王墓はまだ未発見」とする仮説
+
過去の発掘が残した空白区画の特定
+
複数シーズンにわたる系統的な地表除去
+
最後まで残った作業員小屋下の確認
が重なった結果だった。
この第2回では、11月4日に階段が出た瞬間そのものには踏み込まない。そこは第3回で日付単位に追う。
ここで扱うのは、その一歩手前まで――なぜカーターはそこを掘り続けたのか、何を根拠にツタンカーメンを探し、なぜ1922年が最後のシーズンになったのかである。
1|カーターは1922年に突然「ツタンカーメンを探そう」と思いついたわけではない
ツタンカーメン王墓探索の前提には、王家の谷で積み重なっていた発掘史がある。
20世紀初頭、王家の谷ではすでに多数の王墓が知られていた。発掘許可を得た資産家セオドア・M・デイヴィスのもとでは、エドワード・エアトンら複数の考古学者が調査を行い、重要な墓や埋納物を次々に発見していた。
カーター自身も王家の谷に不慣れな人物ではない。
Griffith Instituteの人物記録によれば、彼は1899年にエジプト考古局の上エジプト主任監察官となり、1902年からデイヴィスの王家の谷発掘を監督した。1905年に考古局を辞職した後、数年間は画家や案内役として過ごしたが、1909年からカーナーヴォン卿のテーベ西岸発掘に関わるようになった。
この経歴は重要である。
カーターは、1922年の時点で「王家の谷に来たばかりの人物」ではなかった。既存の墓、過去の発掘区画、残土の位置、発掘方法、行政制度、人員運用を長年知っていた。
そしてツタンカーメンについても、王名そのものが未知だったわけではない。
むしろ問題は、王の存在は知られているのに、その王墓が確定していないことだった。
2|最初の重要な手掛かり――KV54の埋葬関連資料
カーターがツタンカーメンの墓を王家の谷で探す根拠として重視したものの一つが、デイヴィス側の先行発見だった。
1907年、デイヴィスの発掘隊は王家の谷で小さな穴を発見し、そこから白く塗られ封印された大型の土器、布、ナトロンなどを見つけた。現在KV54として知られるこの埋納遺構には、ツタンカーメンの王名を含む布や封泥が含まれていた。
当時、この発見の意味はすぐには正確に理解されなかった。
メトロポリタン美術館の資料によれば、デイヴィスは一時、これをツタンカーメンの墓とみなした。しかし後にメトロポリタン美術館のハーバート・ウィンロックが内容を検討し、これらがツタンカーメンの遺体をミイラ化した際の材料や葬儀に伴う品をまとめた「埋葬キャッシュ」だと認識した。
ここから導かれる意味は大きい。
もしKV54が王本人の墓ではないなら、ツタンカーメンの葬儀関連物が王家の谷に存在するにもかかわらず、本人の王墓はまだ別の場所にある可能性が高い。
カーターとアーサー・メイスは後の著作で、このデイヴィスの発見がツタンカーメン王墓の位置を探る「手掛かり」の一つだったと述べている。
ただし、「KV54があった場所のすぐ隣を掘れば墓がある」という単純な位置推定ではない。
重要なのは、
ツタンカーメンの葬送活動が王家の谷で行われた物証が存在する
という点だった。
3|デイヴィスの発見は「墓が見つかった証拠」ではなく、「まだ墓がある証拠」に反転した
ここには考古学らしい逆転がある。
発見者デイヴィスは、自分がツタンカーメンの墓を見つけたと考えたことがあった。
しかし、その解釈が後に崩れたことで、カーターにとっては逆に探索理由が強くなった。
王名入りの布。
封泥。
ミイラ化で使われたナトロン。
葬送に関連する容器。
さらに王家の谷の別地点から得られた、ツタンカーメンや同時代王族に結び付く小遺物。
これらは「王はこの谷と無関係だった」という説明を難しくする。
カーターは1924年頃の講演メモで、デイヴィスが王家の谷で行った「ある種の発見」から、ツタンカーメンの墓を谷で探すには十分な証拠があると感じていたと明記している。
この記述は、1922年の探索が単なる夢や直感ではなかったことを示す。
もちろん、王家の谷に関連遺物があることと、未発見の王墓が必ず残っていることは同じではない。
別の墓から持ち込まれた可能性。
盗掘者が移動させた可能性。
埋納物だけが谷に置かれ、王本人は別の場所へ葬られた可能性。
考えられる説明はいくつかある。
それでも、探索を続けるには十分だった。
カーターが解こうとしていたのは、「ツタンカーメンという王がいたか」ではなく、
「王家の谷に残されたツタンカーメン関連資料は、まだ見つかっていない王墓の存在を示すのか」
という問題だった。
4|1914年――発掘権は得たが、すぐには掘れなかった
転機は1914年に来る。
カーターの後年の記録によれば、その年、デイヴィスが長く保持していた王家の谷の発掘権が終了し、カーナーヴォン卿とカーター側が王家の谷で発掘を行う権利を得た。
カーターは講演メモの中で、「ツタンカーメン王墓発見の物語はここから始まる」と振り返っている。
ただし、1914年は第一次世界大戦が始まった年でもある。
発掘権を得たからといって、その年から連続して大規模発掘を進められたわけではない。カーター自身、戦時業務によって時間を取られ、本格的な王家の谷探索が始まったのは1917年秋だったと記している。
この時間差は、よくある「7年間探した」という表現を理解するうえで重要である。
「7年間の探索」は何を数えているのか
メトロポリタン美術館は、1922年11月4日の発見を「7年間の探索の後」と表現している。
一方、カーター本人の後年の講演メモでは、
- 1914年に発掘権を得た
- 戦争のため本格探索は1917年秋から
- その後6年間、この地点で探索した
という語り方をしている。
これは必ずしも矛盾ではない。
「発掘権取得から発見まで」を広く数えるか、
「実際の本格キャンペーン」を数えるか、
複数の冬季シーズンをどう数えるかで表現が変わる。
本記事では、誤差のあるキャッチコピーとして「7年間」だけを独立させず、
1914年に発掘権取得 → 戦争で遅延 → 1917年秋から本格探索 → 1922年11月に発見[4]
という時系列を正本とする。
5|カーターが選んだのは、王家の谷の「中央に残った空白」だった
カーターは、王家の谷全域を無作為に掘ったわけではない。
後年の講演メモで彼は、ツタンカーメン王墓を探す区域として、ラムセス2世、メルエンプタハ、ラムセス6世の墓に囲まれた三角形状の区域を選んだと説明している。
理由は、その区域が王家の谷の中央に位置しながら、過去の発掘で完全には処理されていなかったからである。
さらに問題を複雑にしたのが、過去の発掘残土だった。
19世紀以来、王家の谷では多くの調査隊が穴を掘り、その土砂を別の場所へ積み上げてきた。したがって20世紀の発掘では、「自然堆積を掘る」だけでは済まない。
上層にあるのが、
自然の砂礫なのか、
古代の工事残土なのか、
19世紀の発掘残土なのか、
作業員小屋の崩壊層なのかを見分けながら除去しなければならない。
カーターの講演メモでは、選んだ区域に過去の調査者が捨てた大量の残土が積み上がっていたとされる。
彼は後年、6年間で約20万トンを除去したと回想した。
この数値を現代的な精密測量値として扱うべきではない。講演用の回想であり、丸められた数字である可能性がある。
しかし、作業規模が極めて大きかったことは分かる。
つまり探索の中心作業は、ロマンチックな「秘密の扉探し」ではない。
既存の残土をどかし、過去に誰がどこまで掘ったかを確認し、岩盤を露出させ、未調査部分を潰していく作業だった。
6|地図が示す「勘」ではなく「探索範囲」
Griffith Instituteには、1917年から1922年初めまでのカーナーヴォン発掘を示すカーター作成の草案図が残っている。
この図には、ラムセス9世墓KV6、ラムセス6世墓KV9、KV55、ホルエムヘブ王墓KV57、そして後にKV62と呼ばれるツタンカーメン王墓の位置が含まれている。
重要なのは、これは発見後に物語用として描かれた「宝の地図」ではなく、発掘区域の関係を示す実務的記録だという点である。
探索には、
- 既知の墓
- 過去に掘った範囲
- 残土
- 作業員小屋
- 岩盤露出範囲
- 次に掘る領域
を空間的に管理する必要がある。
カーターが後年「三角形の区域」と説明したのも、神秘的な三角形に意味があったからではない。
単に、既知の王墓に囲まれた中央区域が、彼の仮説上もっとも重要な未検証区画だったということである。
ここは誤解しやすい。
カーターは「王墓の場所を正確に知っていた」のではない。
「ここにはまだ検証し切れていない地面がある」と判断していた。
この違いは大きい。
もし位置を知っていたなら、1917年から数年間も広い範囲を掘る必要はない。
彼が持っていたのは、座標ではなく探索優先順位だった。
7|なぜ何年も成果が出なかったのか
後から見ると、KV62は「掘れば出る場所」にあったように感じられる。
しかし、探索中のカーターに未来の地図はない。
王家の谷はすでに何十年も発掘されている。
既知の墓が密集している。
過去の残土が重なっている。
古代の構造物や作業員小屋もある。
地表の見た目から地下の入口を直接判断できない。
さらに、王墓は必ずしも大きな開口部を地上に見せるわけではない。
第1回で見たように、KV62の入口は地表から階段で下る構造で、1922年には古代の作業員小屋の下を調べる過程で階段が現れた。
したがって、探索区域のすぐ近くまで到達していても、
その上にある層を実際に除去し、岩盤まで確認しなければ「墓がない」とは言えない。
カーターの探索方法は、この空白を一つずつ減らすものだった。
それでも数年間、決定的な成果は出なかった。
Griffith Instituteのカーター人物記録は、1917年から1922年の冬季に王家の谷を探索したが、1922年11月まではほとんど成果がなかったと要約している。[4]
発掘資金を出す側から見れば、これは非常に厳しい。
人員を雇う。
宿営を維持する。
道具を用意する。
土砂を運ぶ。
毎シーズン許可を得る。
そして、目立った発見がない。
「もう一度だけ」という判断が出るのは不思議ではない。
8|カーナーヴォン卿は、単なるスポンサーではなかった
この探索はカーター一人では成立しない。
資金面を支えたのが第5代カーナーヴォン伯爵、ジョージ・ハーバートである。
Griffith Instituteの人物記録によれば、カーナーヴォンは1900年代からエジプトで発掘を行い、1909年頃からカーターと本格的に共同作業を進めた。二人の活動は1912年に『Five Years’ Explorations at Thebes』として出版されている。
1914年以降の王家の谷発掘も、発掘許可だけでなく、長期間の資金投入が必要だった。
ここで、人気のある物語には一つ注意が必要である。
よく語られるのは、
「1922年、カーナーヴォンが資金打ち切りを決めた。カーターが英国まで行って直談判し、自費で払うと申し出たため、最後の一シーズンが認められた」
という筋書きである。
これは後世の伝記・一般向け記事で広く流通している。
しかし、本記事で一次資料として重視するカーターの1924年頃の講演メモは、そこまで細部を劇化していない。
カーターの記述から直接確認できるのは、
- 探索はほとんど絶望的な段階にあった
- それでも未検証の作業員小屋下が残っていた
- そのため「もう一シーズン」の作業を決めた
- 1922年10月に最終努力のためルクソールへ戻った
という流れである。
したがってREAL CASE FILEでは、資金打ち切りをめぐる会話を確定事実として再現しない。
「最後のシーズン」は事実として扱える。
「その場で誰が何と言ったか」は、資料の強さを分ける。
9|最後まで残ったのは「掘れなかった場所」ではなく、「後回しにしていた場所」だった
1922年の発見地点を理解するうえで、最も重要なのが古代の作業員小屋である。
カーターは後年の講演メモで、ラムセス6世墓へ近づく区域に、粗い石で造られた作業員小屋群が存在したと説明している。
その下には、墓入口の充填材に使われるような火打石の集積もあり、彼はそれを気にしていた。
しかし、その区域は容易には処理できなかった。
小屋自体も古代遺構である以上、ただ壊して捨てればよいわけではない。
まず記録し、除去し、その下の岩盤を確認する必要がある。
また、ラムセス6世墓は訪問者の動線とも関係するため、現場運用上も扱いにくい場所だったと考えられる。
カーターの講演メモでは、探索システムを完遂し「何も未調査のまま残さない」ため、最後に小屋を記録して除去し、その下を見ることにしたと述べている。
この言葉は、1922年の発見の性格をよく表している。
カーターが最後に頼ったのは、新しい霊感ではない。
自分たちが決めた探索範囲に、まだ検証していない場所が一つ残っていた。
だから掘った。
この点では、発見はむしろ工学的なデバッグに近い。
「原因がありそうな場所」を当てるだけでなく、
確認済み領域と未確認領域を分け、
最後の未確認領域まで潰す。
その結果、最も重要な答えが最後に残っていた。
10|120人規模で始まった「最終努力」
カーターの講演メモによれば、1922年10月、彼は最終努力のためルクソールへ戻った。
11月1日、エジプト人のスタッフ約120人を動員し、まず作業員小屋を除去・記録し、その下の岩盤を調べる作業を開始したとしている。
一方、発掘当時の日誌にも、10月28日にルクソールへ到着し、11月1日に王家の谷で作業を開始したことが記録されている。[5]
二つの記録を合わせると、発見は「たまたま散歩中に足元が崩れた」ような出来事ではない。
シーズン開始時点で、
- 調べる場所が決まっていた
- 作業員小屋を除去する計画があった
- その下の岩盤を確認する方針があった
- 多数の現地労働者を投入した
という明確な作業工程が存在した。
そして開始から数日で状況が変わる。
ただし、ここで止める。
階段の最上段がどのように見つかったか。
11月4日にカーターが現場へ来たとき何が起きていたか。
11月5日に最初の封鎖扉から何が読めたか。
なぜすぐ内部へ入らず、カーナーヴォンの到着を待ったのか。
それらはCASE051-03の領域である。
本記事で重要なのは、11月1日の時点ですでに「最後の探索地点」が明確に設定されていたことである。
11|カーターの成功を「執念」で説明しすぎてはいけない理由
カーターの探索は長かった。
成果が乏しくても続けた。
発掘区域を絞った。
最後の未調査部分まで確認した。
この意味で「執念」は間違いではない。
しかし、それだけを強調すると、三つの要素が消えてしまう。
1. 先行研究と先行発見
デイヴィスの発掘がなければ、ツタンカーメンと王家の谷を結び付ける物証は弱かった。
カーターは、前任者の成果を否定したのではない。
前任者の成果を別の意味に読み替えた。
「ここで王の痕跡が出た」
↓
「王墓は見つかった」
ではなく、
「ここで王の痕跡が出た」
↓
「しかし王墓そのものではない」
↓
「ならば王墓が別に残っている可能性がある」
という推論である。
2. 空間管理
王家の谷で何年も探すには、どこを掘ったかを管理する必要がある。
カーターの草案図は、探索が空間的・系統的に進められていたことを示す資料である。
3. 大規模な労働
発掘を物語化すると、名前が残るのはカーターとカーナーヴォンになりやすい。
しかし地表を剥ぎ、残土を運び、作業員小屋を除去し、岩盤を露出させたのは多数のエジプト人作業員だった。
カーター自身の講演メモでも、1922年11月1日に約120人の「Egyptian staff」を作業へ投入したと書いている。
つまり、発見は一人の知性ではなく、
仮説を立てた人間
資金を提供した人間
現場を管理した人間
大量の土砂を実際に除去した作業員
によって成立した。
12|なぜデイヴィスは「もう何もない」と考え、カーターは逆を考えたのか
デイヴィスの発掘は失敗続きだったわけではない。
むしろ非常に多くの成果を上げていた。
ツタンカーメンに関連する埋葬キャッシュを含め、王家の谷で多数の重要発見を行った。メトロポリタン美術館の資料では、デイヴィスは1912年に谷を離れ、「もう発見すべきものはない」という趣旨の判断をしていたと紹介されている。
後から見れば間違いだった。
しかし、これは「デイヴィスは無能で、カーターだけが正しかった」という話ではない。
考古学では、同じ証拠でも探索戦略によって結論が変わる。
長期間発掘し、多くの王墓や埋納物を発見した人から見れば、
「主要な王墓はほぼ出尽くした」
と考える合理性がある。
一方カーターは、
「既知の王のうち、王墓が確定していない人物がいる」
「その人物の葬送資料が谷で見つかっている」
「しかも中央部に岩盤まで十分に確認されていない区域が残っている」
という組み合わせを重視した。
ここに探索方針の違いがある。
デイヴィスは、これまでの成果量から“残りは少ない”と見た。
カーターは、未解決の王名と未検証の地面から“まだ一つ残っているかもしれない”と見た。
どちらも、その時点の情報から作られた判断だった。
13|「巨大な王墓」を探していたなら、KV62を見逃した可能性もある
ここでもう一つ重要なのが、期待値の問題である。
ツタンカーメンは王である。
そのため探索者が「王墓なら大規模な入口があるはず」「長い回廊があるはず」と固定観念を持てば、実際のKV62は期待から外れる。
第1回で見たように、KV62は王家の谷の王墓としては比較的小さい。
入口は階段で下り、全体も大規模な長軸墓ではない。
カーターが1922年11月に最初の階段を見つけた段階では、それがツタンカーメンの王墓だと即断できなかった。
この事実は、探索前の仮説が「正確な墓形を予測していた」わけではないことを示す。
カーターが正しかったのは、
ツタンカーメンの墓は王家の谷にまだ存在する可能性がある
という大きな仮説であって、
墓の位置・大きさ・構造を事前に当てた
わけではない。
この区別をしておくと、発見の価値を過剰に神秘化せずに済む。
14|FACT CHECK|「最後の一掘りで発見した」はどこまで本当か
「カーナーヴォンは1922年で資金提供をやめる予定だった」
判定:大筋では支持されるが、会話の細部は慎重に扱う。
一般向け資料では、カーナーヴォンが資金打ち切りを考え、カーターの説得で最後の一シーズンを認めたという説明が広く使われる。一方、カーター自身の講演メモから直接確認できるのは、探索がほぼ絶望的になっていたこと、未調査の作業員小屋下を確認するため「もう一シーズン」を決め、1922年10月に最終努力へ戻ったことまでである。
「カーターは7年間ずっと毎日ツタンカーメンだけを探した」
判定:単純化。
1914年に発掘権を得たが、第一次世界大戦で本格作業は遅れた。カーター自身は1917年秋から本格キャンペーンが始まったとしている。一般資料の「7年間」は期間の数え方による。
「カーターは勘で場所を当てた」
判定:不正確。
ツタンカーメン関連物の先行発見、未発見王墓という仮説、未調査区域、長期の岩盤確認を組み合わせていた。
「デイヴィスは何も見つけていなかった」
判定:誤り。
デイヴィス側の発掘は多数の重要成果を上げ、KV54のツタンカーメン埋葬関連資料も含まれる。これらは後にカーターの探索根拠の一部となった。
「発見地点は最後まで誰も掘っていなかった完全な空白地帯だった」
判定:誤解を招く。
王家の谷中央の既発掘地帯にあり、周辺は過去の発掘・古代活動で複雑に攪乱されていた。重要なのは「誰も近づかなかった」のではなく、作業員小屋の下まで岩盤を系統的に確認し切っていなかったことである。
15|探索を「仮説→残差→最後の未確認点」として見る
カーターの探索を現代的に整理すると、次のようになる。
仮説
ツタンカーメンは王家の谷に葬られた可能性が高い。
観測
王家の谷からツタンカーメン名入りの葬送資料が出ている。
反証候補
それらは王墓そのものではない可能性がある。
残る問題
では王本人の墓はどこにあるのか。
探索範囲
既知王墓に囲まれ、過去の発掘残土が積もる中央区域。
実行
残土を除去し、岩盤を露出し、調査済み領域を拡大する。
1922年時点の残差
ラムセス6世墓付近の古代作業員小屋と、その下の未確認岩盤。
最終シーズン
小屋を記録・除去し、その下を確認する。
この構造で見ると、発見は「奇跡」ではあるが「偶然だけ」ではない。
最後に残っていた場所を選んだのは、それまでの調査履歴だった。
そして、その場所を最後まで実際に掘り切るためには、資金、人員、時間が必要だった。
16|1922年11月1日――探索はここで「発見の時系列」へ切り替わる
1922年10月28日、カーターはルクソールへ到着した。
11月1日、王家の谷で作業を開始した。
日誌には、ラムセス6世墓入口の北東角付近で、以前中断した発掘を再開したことが記されている。
講演メモでは、古代の作業員小屋を除去・記録し、その下の岩盤を確認する作業として説明されている。
この時点で、長い探索フェーズはほぼ終わる。
数年間の問いは、
「ツタンカーメン王墓は本当に王家の谷に残っているのか」
「残っているなら、どの未調査区域にあるのか」
だった。
11月1日からは、
「最後に残った区域の下に何があるのか」
という局所的な問いへ変わる。
そして数日後、現場の意味は完全に変わる。
そこから先は第3回で扱う。
まとめ|カーターが探し続けた理由は、「信じたから」だけではない
ハワード・カーターは、ツタンカーメンの墓を探し続けた。
しかし、その理由を「執念」だけにすると、発見までの構造が見えなくなる。
彼には、王家の谷でツタンカーメンを探す根拠があった。
デイヴィスの発掘から、ツタンカーメンの葬送に直接関係する資料が出ていた。
それらは王墓そのものではないと再解釈できた。
王家の谷には、過去の発掘で完全に岩盤まで確認されていない区域が残っていた。
カーターは1917年以降、そこを系統的に掘り続けた。
数年間成果が乏しくても、最後に作業員小屋下の未確認部分が残った。
だから1922年、もう一シーズンだけ確認することになった。
つまり最終的な発見は、
「強い信念」ではなく、
「未解決の証拠」と「未確認の地面」が最後まで残っていたから続いた探索
だった。
1922年11月1日、カーターはその最後の地面へ作業員を入れた。
その3日後、発掘現場で作業が止まる。
次回は、11月4日の最初の階段から11月26日の内部確認まで、誰がいつ何を知ったのかを、カーターの日誌と発掘記録に沿って一日ずつ追う。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Griffith Institute, University of Oxford, Tutankhamun Spatial Archive, Howard Carter, “TAA i.12.02 — Carter’s lecture notes on the discovery of Tutankhamun’s tomb”
- [2] Griffith Institute, University of Oxford, Tutankhamun Spatial Archive, Howard Carter, “TAA i.12.03 — Carter’s lecture notes on the discovery of Tutankhamun’s tomb”
- [3] Griffith Institute, University of Oxford, “Howard Carter”
- [4] Griffith Institute, University of Oxford, “Carter MSS i.G.49 — Draft plan for the Carnarvon excavations, 1917 to early 1922”
- [5] Griffith Institute, University of Oxford, “TAA i.2.1.25 — Archaeological journal, 28 October–5 November 1922”
- [6] The Metropolitan Museum of Art, “Tutankhamun’s Funeral”
- [7] The Metropolitan Museum of Art, “Bag of Natron from Tutankhamun’s Embalming Cache”
- [8] The Metropolitan Museum of Art, “Discovering Tutankhamun: The Photographs of Harry Burton”
- [9] The Metropolitan Museum of Art, “Harry Burton (1879–1940): The Pharaoh’s Photographer”
ツタンカーメン王墓発見|発掘は何を明らかにしたのか 第2回 全8回 全8回を見る
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