現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

ツタンカーメン王墓発見「ファラオの呪い」は事実だったのかカーナーヴォン卿の死と報道が生んだ伝説

ツタンカーメン王墓発掘の資金提供者だった第5代カーナーヴォン伯爵
Public Domain / GetArchive source 出典 Public Domain

先に結論|「呪い」を支持する死亡パターンは確認できない。伝説が強まった核心は、発見直後の熱狂、カーナーヴォン卿の急死、報道競争が結び付いたことにある

STORY SO FAR

前回「ツタンカーメンの副葬品は何を語るのか|黄金だけではない王の生活と葬送」で確認した論点を受け、この回では「ファラオの呪い」は事実だったのか | カーナーヴォン卿の死と報道が生んだ伝説について資料と証拠から何が確認できるのか。を扱う。

ツタンカーメン王墓には「開けた者は呪われる」という伝説がつきまとう。

発掘のスポンサーだったカーナーヴォン卿は、玄室が開かれた約7週間後の1923年4月5日にカイロで死亡した。
その後も、発掘や墓に関係した人物が死亡するたび、

「ファラオの呪いではないか」

という物語へ組み込まれていった。

だが、史料を順に見ると構造は別のものになる。

カーナーヴォンの死因には、蚊に刺された箇所の感染を起点とする丹毒・敗血症、さらに肺炎という医学的経過が記録されている。
カーター本人は1939年まで生きた。
発掘に関係した多くの人々も、その後数十年生存している。
2002年にBMJへ掲載された歴史的コホート研究では、カーターの記録から対象者44人を抽出し、「呪いに曝露した」と分類された25人と非曝露群を比較したが、曝露と生存期間に有意な関連は認められなかった。

したがって、現在の証拠から言えることは明確である。

超自然的な「ファラオの呪い」が存在したことを支持する証拠はない。

一方で、呪い伝説そのものは非常に重要な歴史資料である。

なぜなら1920年代の新聞報道、考古学への大衆的熱狂、情報独占をめぐる対立、古代エジプトを神秘化する文化が、実際の発掘より強い物語を生み出したからだ。

この第7回では、呪いを「本当か嘘か」だけで終わらせず、

何が事実で、どこから物語が追加されたのか

を分解する。


1|出発点は1923年4月5日、カーナーヴォン卿の死

第5代カーナーヴォン伯爵ジョージ・ハーバートは、カーターの発掘を長年資金面で支えた人物である。

1922年11月、発見の電報を受けて英国からエジプトへ戻り、11月26日の前室初見にも立ち会った。[1]
1923年2月16日には玄室封鎖の公式開扉にも関係した。

その約7週間後、4月5日にカイロで死亡した。

Griffith Instituteの人物記録では、経過は次のように整理されている。

1923年3月、王家の谷滞在中に蚊に刺される。
刺された箇所が感染。
カイロへ移動。
丹毒と血液感染が起こる。
さらに肺炎を発症。
何度か持ち直したものの4月5日に死亡。

つまり、史料上の死は突然「原因不明で倒れた」わけではない。

医学的な病状進行が記録されている。

しかもカーナーヴォンは1901年の重大な自動車事故後、健康上の理由で冬季をエジプトで過ごすようになった人物でもある。

これだけで「墓と無関係」と数学的に証明できるわけではないが、少なくとも

説明可能な感染症経過がある死を、原因不明の超常死として扱う理由はない。


2|死の直前にも、周囲は病状を現実の医療問題として見ていた

Griffith Instituteには、アラン・ガーディナーが1923年4月4日、つまり死亡前日に妻へ送った手紙が残る。

そこでは、カーナーヴォンの病状が非常に深刻であり、看護側が絶望的と見ていたこと、家族は回復を信じていたことなどが記されている。

これは呪い伝説と対照的である。

後世の物語では、

「墓を開けた者が突然死した」

という一点だけが切り取られる。

同時代の近しい人の記録では、

重い感染症で数日間危篤状態にある患者

として見られている。

歴史上のセンセーショナルな事件では、この「経過を消して結果だけ残す」ことが伝説形成の典型になる。


3|なぜカーナーヴォンの死がこれほど強く結び付いたのか

理由の第一は、タイミングである。

1922年11月に墓が発見。
1923年2月に玄室を開く。
1923年4月にスポンサーが死亡。

時間的に近い。

人間は、近接して起きた重大事件を因果関係で結び付けやすい。

特に、

「古代王墓」
「封印」
「死者」
「侵入」
「突然の死」

という要素がそろえば、物語は非常に作りやすい。

だが、

Aの後にBが起きた
ことと、
AがBを引き起こした
ことは別である。

呪い説を検証するなら、他の関係者にも同様の異常死亡が集中しているかを見る必要がある。


4|報道競争が伝説を増幅した

ツタンカーメン王墓は、発見直後から世界的ニュースになった。

その巨大な報道需要に対し、カーナーヴォンはThe Timesとニュース配信契約を結んだ。

カーター自身は後の著書で、膨大な報道要求を一つの組織を通して処理し、発掘作業への妨害を減らす目的だったと説明している。

しかし、この契約は他の新聞との激しい摩擦を生んだ。

カーターは1924年の日誌でも、Timesとの契約がエジプト現地紙との関係を悪化させたと認めている。

ここで呪い伝説の成長条件が整う。

公式の発掘ニュースにアクセスしにくい新聞は、同じ内容を報じるだけでは競争できない。
独自の記事が必要になる。
そこへ、発見から間もないカーナーヴォンの死が起きる。

BMJ研究の著者も後の回答で、Timesに発見報道の特別な権利があった状況下で、競合紙がカーナーヴォン死去を含む別の話題へ強く反応した可能性を指摘している。

したがって「呪い」は、単に古代エジプト人が残したものではない。

1920年代のメディア市場で再構成された現代の物語

でもある。


5|墓に「侵入者は死ぬ」と書かれていたのか

呪い伝説には、しばしばもっともらしい碑文が登場する。

「王の眠りを妨げる者に死が翼に乗って訪れる」

といった文句である。

しかし、この種の有名な「呪文」をツタンカーメン王墓の入口にあった実在の碑文として扱うのは危険である。

KV62の封鎖には王墓地の印章やツタンカーメンの王名が確認されている。
墓内には宗教文書、神々、守護の図像、呪文的な機能を持つ物品が多数ある。

だが、

「この墓を開けた現代人を殺す」と直接宣言する有名な警告文が入口に刻まれていた

という話は、史料上の事実として扱えない。

古代エジプトに墓の保護を願う宗教表現や、他時代・他墓に侵入者への警告表現が存在することと、KV62に「ファラオの呪い」の定型句があったことは別問題である。

この混同が、伝説を事実らしく見せる。


6|カーター本人は「最も曝露した人」だった

呪い説を単純に考えるなら、最も危険なのは誰か。

封鎖へ穴を開けたカーター。
何度も墓内へ入り、何年も物品を扱ったバートン。
保存処置を行ったルーカス。
発掘・搬出を続けた現場スタッフ。

であるはずだ。

カーターは1922年の発見後も十年近く作業を続け、1939年に64歳で死亡した。[1]
ハリー・バートンも1940年まで生き、複数シーズンにわたり墓の撮影を続けた。

もちろん、一人の長寿例だけで呪いを反証できるわけではない。

しかし、

「墓へ入った者は短期間で死ぬ」

という強い形の主張とは明らかに整合しない。

呪い説が成立するためには、都合の悪い長期生存者を説明から除外し、早く死亡した人だけを選ぶ必要がある。

これは典型的な選択バイアスである。


7|2002年BMJ研究は何を調べたのか

呪い説を統計的に検証した代表例が、Mark R. NelsonによるBMJの歴史的コホート研究である。

研究はカーターの記録を用い、1923年2月から1926年11月までの特定の墓開扉・棺開封などに関連してエジプトにいた西洋人44人を同定した。[2]

そのうち25人を、設定した基準で「呪いに潜在的に曝露した群」とした。

比較したのは、

  • 死亡年齢
  • 曝露後の生存期間

などである。

結果は、

曝露群の平均死亡年齢:約70歳。
非曝露群:約75歳。

曝露後平均生存期間:約20.8年。
非曝露群:約28.9年。

しかし差は統計的に有意ではなかった。

研究の結論は明確である。

呪いへの曝露と生存に有意な関連はなく、呪いの存在を支持する証拠は得られなかった。


8|ただしBMJ研究を「完全証明」として使わない

ここも重要である。

BMJ論文は、超常現象を数学的に完全否定した実験ではない。

歴史資料を使った後ろ向きコホート研究である。

対象者の定義。
誰を「曝露」とするか。
西洋人に限定されていること。
史料に残る人物だけを扱うこと。

などの制約がある。

したがって適切な読み方は、

「呪いが絶対に存在しないと科学が証明した」

ではなく、

検証可能な死亡データを比較しても、呪いに曝露したとされる人々が異常に早く死亡するパターンは確認できなかった

である。

超自然的主張では、証拠責任の向きも重要だ。

「呪いが存在する」と主張する側に、それを支持する再現可能な証拠が必要になる。

現時点では、その証拠がない。


9|「10年以内に死んだ人」を並べるだけでは統計にならない

呪いを紹介する記事では、

Aが死亡。
Bも死亡。
Cも死亡。

と名前が列挙される。

しかし、これだけでは何も分からない。

比較対象がないからである。

当時の年齢。
健康状態。
事故率。
何人が墓に関係したか。
何人が生き続けたか。

を同時に見なければならない。

たとえば100人が関係し、その後10年間に高齢者10人が死亡した場合、それは呪いなのか通常の死亡率なのか。

死亡者だけを集めれば、どんな大規模事業にも「不吉なリスト」を作ることができる。

これが「分母」の問題である。

BMJ研究の価値は完璧さではなく、少なくとも

死亡した人だけではなく、曝露したが生存した人も比較対象へ入れた

ことにある。


10|「電気が消えた」「犬が遠くで死んだ」はどう扱うべきか

カーナーヴォン死亡の物語には、しばしば追加エピソードが付く。

死亡時にカイロの電気が消えた。
英国にいた犬が同時に死んだ。
コブラがカーターのカナリアを食べた。
墓にいた人物が次々死んだ。

これらは非常に物語性が高い。

しかし、個別に一次資料を確認せず一つのセットとして流通している場合が多い。

本シリーズでは、この種の要素を主証拠として採用しない。

理由は二つある。

第一に、後世の再話で細部が変化しやすい。

第二に、仮に停電や動物の死が同時に起きても、それだけでは因果関係を示さない。

「奇妙な一致」
と
「原因を示す証拠」
を分ける必要がある。


11|病原体説なら「超常」ではなく自然科学の仮説になる

呪い伝説には、後から自然科学的説明を与える試みもある。

古代の墓に真菌や細菌が残り、それが侵入者を病気にしたのではないか、という仮説である。

これは超自然的な呪いとは別問題である。

密閉空間。
塵。
カビ。
動物排泄物。

が健康リスクになる可能性は一般論として存在する。

しかし、「ツタンカーメン王墓に特定の病原体があり、カーナーヴォンを死亡させた」とするには、その病原体と曝露、発症を結ぶ証拠が必要である。

BMJ論文への反応でもヒストプラズマ症などの仮説が提示されたが、これは仮説であり、確定診断ではない。

Griffith Instituteが示すカーナーヴォンの経過は、蚊刺部の感染から丹毒・敗血症、肺炎へ進んだものとしている。

したがって本記事では、

未知の墓内病原体説を、呪いの科学的正体として確定しない。


12|報道契約は、なぜ考古学史上の問題になったのか

Timesとの契約は、呪い伝説だけでなく発掘運営そのものにも影響した。

カーターの第二シーズン日誌では、1923年秋以降、前年の新聞対立と訪問者問題を繰り返さないため、エジプト紙とTimesへほぼ同時に情報を配る案を政府側へ提示している。

1924年2月には、カーター自身がTimes契約は現地報道との関係を悪化させた「大きな間違い」だったという趣旨の会話を記録している。

ここから分かるのは、発掘現場が研究だけでは動いていなかったことである。

考古局。
エジプト政府。
英国側関係者。
スポンサー。
新聞。
観光客。

複数の利害がぶつかっていた。

呪い伝説は、この政治・メディア環境から切り離して理解できない。


13|「呪い」は古代エジプトより1920年代社会を映す

呪い説を真面目に歴史資料として読むと、むしろ近代社会の方が見えてくる。

20世紀初頭の欧米では、古代エジプトは強い異国趣味と神秘性を持って受け止められていた。

ミイラ。
秘密の墓。
象形文字。
黄金。
古代王。
死後世界。

そこへ世界的な発見が現れた。

しかも大量の写真があり、新聞が毎日続きを求める。

この環境では、

「長期間にわたる保存記録」

より、

「王墓を開けた伯爵が謎の死」

の方が記事として強い。

呪いは、古代人が近代人へ送ったメッセージというより、

近代の読者が古代エジプトに期待した物語

として成長した面が大きい。


14|選択バイアスで「連続死」を作る方法

呪い伝説が長く残る仕組みを、論理的に分解してみる。

手順 1

墓に関係した人を広く集める。

手順 2

その中で比較的早く死亡した人物を選ぶ。

手順 3

病気、事故、殺人など死因が違っていても「呪い」に統合する。

手順 4

長生きした関係者はリストから外す。

手順 5

直接墓に入っていない人物も、関係があれば追加する。

手順 6

対象期間を必要に応じて伸ばす。

これをすれば、「次々と死んだ」という印象を作れる。

しかし科学的検証では逆に、

最初に対象集団と曝露条件を決め、その全員を追跡する

必要がある。

BMJ研究が行ったのは、この方向への修正である。


15|因果関係を主張するなら、最低でも四つの条件が必要になる

「墓を開けたから死んだ」という主張を、単なる印象ではなく因果仮説として扱うなら、最低限確認すべき条件がある。

1. 曝露を定義できるか

墓へ入った人だけか。
階段へ降りた人も含むか。
発掘隊全員か。
発見のニュースを扱った人まで含むのか。

対象を結果を見た後で広げれば、どんな死でも「呪い」に追加できる。

2. 時間範囲を先に決められるか

一週間以内か。
一年以内か。
十年以内か。
数十年後も含むのか。

期限を設定せず「いつか死んだ」を証拠にすれば、人間は最終的に全員死亡するため必ず成立してしまう。

3. 非曝露群と比べて異常か

墓に関係しなかった同年代・同時代の人より死亡が多いのか。
平均寿命が短いのか。

ここを比較しなければ、通常の病気や事故を異常と区別できない。

4. 一貫した作用機序があるか

同じ呪いなら、なぜ死因が感染症、事故、老衰などばらばらなのか。
なぜ最も長期間墓内で作業した人が長く生きる場合があるのか。

超自然現象だから作用機序は不要だ、としてしまえば、その主張は検証不能になる。

この四点を当てると、「呪われた死亡者一覧」が科学的な因果証拠になりにくい理由が分かる。


16|「有名な死亡例」だけが記憶されるサバイバーシップの逆転

一般にはサバイバーシップ・バイアスというと、生き残った事例だけを見る問題を指す。

呪い伝説では、その逆方向の選択が起こる。

死んだ人だけが物語へ残り、生き続けた人が消える。

カーナーヴォンは有名である。
死が早かった。
発見のスポンサーだった。
そのため呪い物語の中心になる。

一方、カーターが1939年まで生きたことは、呪いを紹介する短い記事では省略されやすい。
バートンが1930年代まで撮影を続けたことも同様である。
現地で作業した多数のエジプト人労働者については、そもそも名前や生没年の記録が均等に残っていない。

この史料の偏りも重要だ。

「記録に残った西洋人の有名人」を中心に作られた死亡リストは、発掘現場全体の母集団ではない。

BMJ研究もこの限界から自由ではなく、西洋人44人という史料上追跡可能な集団を使っている。

それでも、少なくとも「死んだ有名人だけを後から集める」方法よりは検証可能性が高い。


17|反証不能な説明は、どれだけ事例を足しても強くならない

呪い説にはもう一つ構造的な問題がある。

予測が固定されていない。

墓へ入ってすぐ死ぬ。
数年後に死ぬ。
家族が死ぬ。
動物が死ぬ。
事故に遭う。
病気になる。

何が起きても「呪いの現れ」と解釈できる。

しかし、科学的な仮説は、

何が起きたらその仮説を棄却するのか

を決められなければならない。

例えば、

「墓へ直接入った人は10年以内の死亡率が有意に高くなる」

と定義すれば検証できる。

実際、BMJ研究はこれに近い形で対象者と曝露を定義し、死亡を比較した。

結果は支持しなかった。

このように検証条件を具体化すると、物語としての呪いは急に弱くなる。

だから「不思議な事例がいくつあるか」ではなく、

事前に定めたルールで全対象を比較した時、異常なパターンが残るか

を見る必要がある。

15|FACT CHECK|有名な呪い説を分解する

「カーナーヴォンは墓を開けた直後、原因不明で急死した」

判定:不正確。

死亡は玄室開扉から約7週間後。蚊刺部の感染から丹毒・敗血症、肺炎へ進んだ医学的経過が記録されている。

「墓に侵入者を殺す呪文が書かれていた」

判定:KV62の有名な入口碑文としては支持できない。

宗教的守護表現と、後世の定型的な「呪い文句」を混同しない。

「発掘関係者は次々若死にした」

判定:統計的には支持されない。

BMJのコホート研究では、曝露と生存期間に有意な関連は認められなかった。

「カーターも呪いで死亡した」

判定:誤り。

カーターは発見後16年以上生存し、1939年に死亡した。

「墓内の菌が呪いの正体だと証明された」

判定:証明されていない。

自然科学的な病原体仮説と、カーナーヴォンの実際の診断・死亡経過を区別する。


16|それでも呪い説が消えない理由

証拠が弱いのに、なぜ呪いは100年以上残るのか。

理由は、物語として完成度が高いからである。

長く閉ざされた王墓。
黄金。
封印。
禁忌を破る発掘者。
スポンサーの死。
古代の神々。
謎の連続死。

因果関係を証明しなくても、これらを順番に並べるだけで一つの物語になる。

さらに反証が難しい。

関係者が死ねば「呪い」。
生きれば「まだ効いていない」。
病気なら「呪い」。
事故でも「呪い」。

どんな結果も後付けで説明できる主張は、科学的には検証可能性が低い。

しかし都市伝説としては非常に強い。


17|呪いの検証で最も大切なのは「0か100か」にしないこと

ここまで読んで、

「呪いは完全な作り話だった」

と一文で片付けるのも、少し粗い。

超自然的な力を支持する証拠はない。

これは明確である。

一方、

カーナーヴォンが実際に死亡したこと。
新聞競争が激しかったこと。
Timesとの情報契約があったこと。
同時代人が死と発見を結び付けたこと。
後世に伝説が成長したこと。

もすべて現実の歴史である。

つまり「呪い」は、

超自然現象としては支持されない
が、
メディア史・大衆文化史の事件としては実在する

という二層構造を持つ。

この分け方をすれば、伝説を笑い話にする必要も、事実として信じる必要もない。


まとめ|死者を呪ったのは古代王ではなく、事実と偶然を結び付ける物語だった

カーナーヴォン卿は本当に死んだ。

発見から近い時期だった。
病状は重く、周囲もその死を予測していた。
新聞は世界的発見をめぐって激しく競争していた。

その条件が重なり、

「墓を開けたから死んだ」

という短く強い物語が生まれた。

しかし検証すると、

カーナーヴォンには感染症の医学的経過がある。
カーターを含む多くの関係者は長く生存した。
BMJの歴史的コホート研究でも、墓への曝露と生存期間の有意な関連は認められなかった。

したがって、現時点の合理的な結論は、

ファラオの呪いを実在の致死現象として支持する証拠はない。

ただし呪い伝説そのものは、ツタンカーメン王墓が世界文化へ与えた影響を示す重要な資料である。

発見は、墓の中だけで完結しなかった。

新聞。
観光。
政治。
展示。
保存。
大衆文化。

へ広がった。

最終回は、1922年から100年以上の間に、KV62が「発掘する場所」から「保存しながら公開する場所」へどう変わったのかを追う。


FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Griffith Institute, University of Oxford, Tutankhamun Spatial Archive, “Lord Carnarvon”
  2. [2] Griffith Institute, University of Oxford, “Gardiner MSS 47.13.01”, 4 April 1923
  3. [3] Howard Carter, The Tomb of Tut·ankh·Amen, Volume II, Preface
  4. [4] Howard Carter, “TAA i.2.1.111”, 7 February 1924
  5. [5] Mark R. Nelson, “The mummy’s curse: historical cohort study”, BMJ 2002;325:1482
  6. [6] Griffith Institute, University of Oxford, “Howard Carter”
  1. 01 ツタンカーメン王墓発見|ツタンカーメン王墓はなぜ20世紀まで残ったのか|KV62発見の意味
  2. 02 ツタンカーメン王墓発見|ハワード・カーターはなぜツタンカーメンの墓を探し続けたのか|最後の発掘シーズンまで
  3. 03 ツタンカーメン王墓発見|1922年11月、王墓発見はどう進んだのか|最初の階段から「wonderful things」まで
  4. 04 ツタンカーメン王墓発見|KV62はどんな墓だったのか|前室・別室・玄室・宝物庫と「ほぼ無傷」の実像
  5. 05 ツタンカーメン王墓発見|5000点超の副葬品をどう取り出したのか|10年に及ぶ記録・保存・搬出
  6. 06 ツタンカーメン王墓発見|ツタンカーメンの副葬品は何を語るのか|黄金だけではない王の生活と葬送
  7. 07 ツタンカーメン王墓発見|「ファラオの呪い」は事実だったのか|カーナーヴォン卿の死と報道が生んだ伝説
  8. 08 ツタンカーメン王墓発見は何を変えたのか|考古学・保存・公開の100年

RSS FEED

RSSで更新を受け取る

RSSリーダーへ次のURLを登録すると、新着記事を確認できます。

フィードを直接開く