先に結論|発見後の本当の難題は「宝物を見ること」ではなく、壊さず、位置情報を失わず、保存処置をし、運搬可能な状態に変えることだった
THE QUESTION
5000点超の副葬品をどう取り出したのか | 10年に及ぶ記録・保存・搬出について、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「KV62はどんな墓だったのか|前室・別室・玄室・宝物庫と「ほぼ無傷」の実像」で確認した論点を受け、この回では5000点超の副葬品をどう取り出したのか | 10年に及ぶ記録・保存・搬出について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1922年11月26日、ハワード・カーターが前室をのぞいた時、目の前にあったのは「展示可能な宝物」ではない。[4]
大型の動物頭付き寝台。
解体された戦車。
箱。
椅子。
衣類。
容器。
彫像。
王の守護像。
細かな装身具。
植物・食品関連の資料。
それらが狭い空間に密集し、一部は古代の盗掘で動かされ、木材や布、皮革、塗装層は長期間の乾燥と劣化で非常に脆くなっていた。
この状態で一番危険なのは、「価値のある品を早く取り出す」ことである。
動かせば壊れる。
隣の品に触れる。
元の位置関係が消える。
表面の顔料が剥がれる。
湿度・温度が変わる。
搬出中に振動する。
つまり、発掘隊がやるべきことは単純な回収ではない。
その場で記録し、番号を付け、状態を診断し、必要なら補強し、写真を撮り、搬出経路を確保し、梱包し、別の場所で再び記録する。
これが、ツタンカーメン王墓の「発見」が十年規模のプロジェクトになった理由である。
この第5回では、ハリー・バートンの写真、アルフレッド・ルーカスの保存処置、オブジェクトカード、作業場、梱包・搬出という実務を追う。
1|5000点超という数字より重要なのは「一点ずつ別の問題だった」こと
メトロポリタン美術館は、ツタンカーメン王墓から5000点を超える物品が見つかり、ハリー・バートンがその多くを約1400枚のガラス乾板に記録したと説明している。[1]
別資料では約5400点と数えることもある。
本シリーズでは総数を一つの厳密値として固定しない。
理由は、カーター番号が一つでも内部に複数部品を含む場合があり、「一点」の数え方が資料によって違うからである。
実務上もっと重要なのは、5000という大きな数字ではない。
各物品が材質・状態・大きさ・配置・取り外し方を異にしたことである。
木。
象牙。
金。
ガラス。
石。
布。
皮革。
植物素材。
樹脂。
顔料。
接着層。
同じ保存方法は使えない。
一つの箱でも、木地と象嵌、塗装、金箔、内容物を別々に扱う必要がある。
発掘とは、番号を増やす作業ではなく、問題の種類が増える作業だった。
2|まず「動かす前」に写真を撮る
ツタンカーメン王墓の発掘記録で中心的な役割を果たしたのが、メトロポリタン美術館エジプト調査隊の写真家ハリー・バートンである。
カーターは、発見した物品群を本格的に処理するには、自分のチームだけでは足りないと判断した。
メトロポリタン美術館は人員を貸し出し、その一人がバートンだった。
バートンの仕事は、完成品の美術写真を撮ることだけではない。
最も重要なのは、
物を動かす前の状態を固定すること
だった。
前室のように物品が密集している空間では、一つの家具を移動すると、その後ろに隠れていた別の品が見える。
箱を持ち上げると、下に小物があるかもしれない。
戦車部品を外せば、元の組み合わせが分からなくなる。
したがって撮影は、発掘作業の前処理になる。
「発掘が終わってから写真を撮る」のではない。
写真を撮らなければ次の物を動かせない。
3|約1400枚のガラス乾板が意味するもの
メトロポリタン美術館は、バートンが10年にわたる作業で約1400枚のガラス乾板を残したとしている。[1]
現代のデジタル撮影と違い、撮影枚数を無制限に増やせるわけではない。
大型カメラ。
三脚。
ガラス乾板。
露光。
現像。
照明。
狭い地下空間での撮影は、機材を置くだけでも難しい。
バートンは墓内の自然光だけに頼れないため、反射光や電気照明を工夫して撮影した。
こうして残された写真は、
- 発見時の配置
- 物品相互の位置
- 移動前後
- 保存処置前後
- 室内全景
- 細部
- 作業工程
を比較するための記録になった。
現在、Griffith InstituteとMetに残る写真群を使えば、1920年代の発掘工程をかなり細かく追える。
これは「写真が美しいから」ではなく、写真がデータだからである。
4|オブジェクトカード――番号が「物」と「記録」をつなぐ
写真だけでは足りない。
写真に写る箱が何番の物品か。
どの部屋のどこから出たか。
寸法は何か。
材質は何か。
内部に何が入っていたか。
文字や王名はあるか。
保存処置は何をしたか。
これらを関連付ける必要がある。
Griffith Instituteには、カーターと共同研究者が作成したオブジェクトカード群が残されている。
作成者には、
- ハワード・カーター
- アルフレッド・ルーカス
- アラン・ガーディナー
- パーシー・ニューベリー
- アーサー・メイス
など複数の専門家が含まれる。
ここから分かるのは、記録が一人のメモではなかったということだ。
物品番号を軸に、
写真
カード
図面
保存記録
分析メモ
が結び付く。
これは現代のデータベースに近い考え方である。
5|「番号を付ける」だけではない
発掘現場で番号を付ける行為は、単なる管理番号発行ではない。
番号は、物を元の文脈と結び付けるキーになる。
たとえば、
同じ箱の蓋。
内部の布。
金具。
外れた象嵌。
床に落ちた断片。
これらを無関係な別物として扱えば、後から復元できない。
逆に、すべてを一つの大番号にまとめると、個別の状態記録ができない。
したがってカーター番号体系では、親番号と枝番号を使う例が多い。
発掘時に必要なのは、
現場で扱いやすい粒度
と
後から研究できる粒度
の両立である。
これは100年前の発掘でも、現代の設備設計や保守記録でも同じである。
識別子が曖昧なら、後工程で整合しなくなる。
6|保存担当アルフレッド・ルーカス
写真記録と並ぶもう一つの柱が保存処置である。
その中心人物がアルフレッド・ルーカスだった。
Griffith Instituteによれば、ルーカスは化学者で、1923年からエジプト考古局のChemistとなり、ツタンカーメン王墓では清掃・補強・保存の知識を用いた。
彼の保存記録は現在も残っている。
たとえば、彩色箱No.21についての記録では、
- 表面の白い粉塵を除去
- 浮き上がった塗装層の下へワックスを入れる
- ひび割れへセルロイド溶液を使う
- 外れた小片を接着
- 全体表面を処理
といった具体的な工程が書かれている。
重要なのは、保存方法が最初から完璧に決まっていたわけではないことだ。
ルーカスのノートには、実際に処理してみた結果、
「この方法だけでは不十分だった」
「温度・湿度変化で塗装が剥がれ始めた」
「より全面的な処置が必要になった」
という判断変更も記録されている。
つまり保存は、固定レシピではなく、状態を見ながら更新する工程だった。
7|墓から出した瞬間に状態が悪化することがある
なぜ、3000年以上残った物が、発掘後に急に壊れるのか。
ルーカスの保存ノートが示す典型例は、環境変化である。
墓内では長期間、比較的安定した環境に置かれていた。
それを外へ出すと、
- 温度
- 湿度
- 空気流
- 日光
- 振動
- 人が触れる回数
が変化する。
彩色木製品の木地と塗装層は、膨張・収縮の速度が同じではない。
接着剤や樹脂も変化する。
乾燥した布や皮革は、わずかな曲げでも割れる。
ルーカスはNo.21の箱について、写真撮影や内容物確認のために動かすたび、状態が少しずつ悪化したと記録している。
これは重要な教訓である。
発掘=保存ではない。
発掘は、安定していた埋蔵環境から人工環境へ物を移す行為であり、それ自体が劣化リスクを生む。
8|「触らない」だけでも保存できない
では、危険なら何も触らなければよいのか。
それもできない。
物品は互いに重なっている。
下の品を確認するには上を動かす必要がある。
玄室へ進むには前室を整理する必要がある。
研究・保存・公開のためには搬出が必要である。
だから選択肢は、
「触る/触らない」
ではなく、
「いつ、どの順序で、どの程度補強してから動かすか」
になる。
保存担当者は、発掘の後工程ではない。
どの物を先に動かせるかを決める意味で、発掘工程そのものに入っている。
9|作業場として使われたセティ2世墓
ツタンカーメン王墓の中だけで、すべての処理を行ったわけではない。
発掘隊は王家の谷にあるセティ2世墓を作業場・研究室として使用した。
第二シーズンの日誌では、
- laboratory
- magazine
- photography
- restoration
- packing
- carpentry
のための準備が行われていることが分かる。
墓から取り出した品は、すぐカイロへ送るのではない。
まず作業場へ移し、
- 状態確認
- 清掃
- 補強
- 写真
- 記録
- 梱包
を行う。
つまり物流は、
発見位置
↓
墓内で初期記録
↓
搬出
↓
現地ラボ
↓
保存・写真・詳細記録
↓
梱包
↓
輸送
↓
カイロ
という多段階工程だった。
10|大きな物は「そのまま持ち上げる」ことができない
王墓には、手で持てる小物だけがあったわけではない。
大型寝台。
戦車。
厨子。
箱。
椅子。
彫像。
これらは、入口や通路の寸法より大きい場合がある。
古代には部品で搬入され、墓内で組み立てられた可能性もある。
発掘隊は逆に、
- 現状を撮影
- 組み方を記録
- 必要なら部分分解
- 各部品を識別
- 補強
- 搬出
- 再組立可能な状態で梱包
という工程を考える必要があった。
一度分解した物を、記録なしで運び出せば、後から正しい構造を復元できない。
したがって、物理的な搬出設計と記録設計は同じ問題である。
11|布・皮革・木・塗装は「見た目より弱い」
黄金製品は視覚的に目立つ。
しかし保存上もっと難しいのは、有機物である。
木。
布。
皮革。
籠。
植物繊維。
樹脂。
これらは墓内で形を保っていても、力学的強度がほとんど失われている場合がある。
見た目では一枚の布でも、持ち上げると粉になる。
革製品は折れずに曲がるように見えて、実際には割れる。
木製品の表面だけが残り、内部が脆弱なこともある。
ルーカスの記録には、布へのセルロース系処置、木製品や塗装層への補強、石材表面の清掃など、材質ごとに異なる方法が残る。
現代の保存科学から見れば、当時の薬剤や処置の一部は再評価される。
しかし1920年代に、
材質を見分け、状態を記録し、化学的処置を選び、処置履歴を残す
という体系を採ったこと自体が重要である。
12|写真と保存の順番も固定ではない
理想的には、
写真
→保存
→移動
と考えたくなる。
実際は、品物によって順序が変わる。
非常に脆い表面なら、写真のために照明・移動する前に仮固定が必要かもしれない。
逆に保存剤を塗れば、表面の見た目が変わる可能性があるため、処置前写真が必要になる。
箱を開ければ内部が変形するかもしれない。
だから工程は、
記録優先
と
安全優先
のバランスになる。
ルーカスの保存ノートに試行錯誤が残るのは、このためである。
13|1922–23年シーズンだけで終わらなかった
Griffith InstituteのSeason recordsを見ると、ツタンカーメン王墓の作業は複数シーズンにわたる。
第一シーズン:
前室処理、玄室開扉。
第二シーズン:
前室最後の物品、玄室の厨子。
第三シーズン:
棺・各種物品の保存、写真、梱包。
その後:
王のミイラ、宝物庫、別室、細部資料。
メトロポリタン美術館は、墓のclearanceが10年にわたったと説明している。
これは「作業が遅かった」からではない。
むしろ、急いで片付けなかったからデータが残ったと考えるべきである。
14|輸送は保存工程の最後ではなく、別のリスク工程
現地ラボで処置が終わると、物品は梱包され、カイロへ輸送される。
しかし輸送は「箱に入れて終わり」ではない。
振動。
衝撃。
温度。
積み替え。
重量。
荷重集中。
脆弱な古代物品にとって、輸送は独立したリスクである。
保存記録には、カイロ到着後に小片が外れていた例や、再修理の記録も残る。
したがって、
現場で安全
≠
輸送後も安全
である。
輸送を前提にした補強・支持・梱包が必要になる。
15|チームの専門分業
ツタンカーメン王墓の発掘を「カーターの発掘」と呼ぶことは便利だが、実際の作業は専門分業だった。
ハワード・カーター
全体指揮、発掘判断、記録。
アーサー・カレンダー
現場技術・設備・作業支援。
ハリー・バートン
写真記録。
アルフレッド・ルーカス
化学・保存。
アーサー・メイス
発掘・保存・記録。
アラン・ガーディナー、パーシー・ニューベリー等
文字資料・植物・物品研究など。
さらに、多数のエジプト人作業員が、
- 土砂除去
- 搬送
- 足場
- 警備
- 大型品移動
を担った。
発見後の10年は、単なる発掘ではなく、小さな複合プロジェクト組織だった。
16|FACT CHECK|「カーターが全部記録した」は正しいか
「カーター一人が全5000点を記録した」
判定:誤り。
オブジェクトカード、写真、保存記録には複数の専門家が関与している。
「発見後、宝物はすぐカイロへ運ばれた」
判定:誤り。
墓内記録、搬出、現地ラボでの保存・撮影・梱包を経て段階的に輸送された。
「写真は広報用だった」
判定:不十分。
広報価値もあったが、発見時配置と作業工程を固定する考古学的記録として重要だった。
「保存処置は現代と同じ」
判定:誤り。
1920年代の材料・方法には当時の技術的限界がある。ただし詳細な処置記録を残していることは大きな価値を持つ。
「5000点という数字は完全に固定された厳密総数」
判定:注意が必要。
数え方により約5000、5000超、約5400など表現差がある。
17|この発掘が現代的に見える理由
ツタンカーメン王墓発掘は100年以上前の仕事である。
それでも記録を読むと、現代の技術プロジェクトに近い構造が見える。
現状固定
↓
識別番号
↓
状態確認
↓
処置計画
↓
作業
↓
再記録
↓
梱包
↓
移送
↓
受入確認
一つの工程を飛ばすと、後戻りできない。
特に考古学では、物を動かした瞬間に元の状態は失われる。
だから「最初に記録する」が絶対条件になる。
この意味で、カーター隊の最大の成果は、黄金を運び出したことではない。
動かすことで失われる情報を、可能な限り別の媒体へ移したことである。
補足1|「記録→処置→移動」の順序は、物品ごとに違った
発掘工程を一つの標準フローとして描くと分かりやすいが、実際にはすべての品を同じ順番で処理できたわけではない。
たとえば、表面の塗装が浮いている木製箱なら、写真撮影のために少し動かすだけで顔料が落ちる可能性がある。その場合は、最小限の仮固定を先に行う必要がある。一方、保存剤を塗布すると表面の色や光沢が変わるため、処置前の状態を写真に残しておくことも重要になる。
つまり現場では、
写真を先に撮るべきか
仮固定を先にするべきか
中身を出してから補強するか
外側だけ先に固定するか
を物品ごとに判断する必要があった。
ルーカスのNo.21彩色箱の記録は、この判断が一度で終わらなかった例である。初期の局所処置だけでは、墓外へ出した後の温湿度変化と移動によって塗装層の剥離が進み、最終的により全面的な処置へ切り替えた。ここには「最初の処置が失敗だった」という単純な話ではなく、環境が変わると必要条件も変わるという保存実務の難しさが表れている。
補足2|現地ラボは「修理室」ではなく工程の中間バッファだった
セティ2世墓を利用したlaboratoryは、単なる修理工房ではなかった。
墓内から取り出された品を、そのままカイロへ送ると、輸送前に状態を把握できない。逆にすべてを墓内で処置しようとすると、狭すぎて作業できない。
そこで現地ラボが中間バッファとして機能する。
墓内
↓
一次記録
↓
搬出
↓
現地ラボ
├─ 詳細撮影
├─ 清掃
├─ 補強
├─ 材質確認
├─ 内容物確認
├─ 包装設計
└─ 送付準備
↓
輸送
この構造にすると、発掘の進行と輸送の進行を分離できる。墓から出した物をすぐ輸送しなくてもよくなり、保存担当者が処置に必要な時間を確保できる。
第二シーズンの日誌に、laboratory前の整地、写真撮影、修復、梱包、木工作業のための準備が並んでいるのは、この拠点が複数工程を集約する場所だったからである。
補足3|「搬出完了」ではなく「受入後まで」が一つのトランザクション
古代物品の搬出は、墓から外へ出た時点で完了ではない。
梱包箱に収める。
運ぶ。
積み替える。
カイロへ到着する。
開梱する。
破損がないか確認する。
必要なら再修理する。
ここまで一連で考えなければならない。
ルーカスの保存記録には、カイロで開梱した際に小片の破損を確認し、再接着した記録もある。これは輸送中に新しい損傷が発生し得たことを示す。
したがって発掘隊に必要だったのは、単なる「頑丈な箱」ではない。
物品が箱の中で動かないこと。
荷重が脆弱部へ集中しないこと。
部品同士が接触しないこと。
開梱時に元の向きが分かること。
どの箱に何が入っているか記録されていること。
こうした条件を満たして初めて、墓内で得た情報を別の場所へ移せる。
考古学的な意味では、物品だけを運んでも不十分である。
物品と、その識別情報・状態情報・位置情報を一緒に移送して初めて「資料」を運んだことになる。
補足4|十年という期間は「毎年ずっと掘っていた」意味ではない
「発掘に十年」と聞くと、10年間連続して墓内で掘削していたように感じる。
実際にはシーズン制である。
暑季を避け、現地での作業期間を区切り、各シーズンごとに対象区画や物品群を設定する。墓内作業のほか、カイロでの博物館作業、分析、出版準備、行政調整もある。
したがって十年という時間は、
発掘
+
写真
+
保存
+
分析
+
梱包
+
輸送
+
再開準備
の合計である。
この見方をすると、10年は「遅い」のではなく、数千点の異種材料を扱うにはむしろ必要な時間だったと理解できる。しかも、その時間こそが現在の再検証可能性を支えている重要な基盤である。
まとめ|10年かかったのは、5000点を「物」ではなく「記録付き資料」に変えたから
ツタンカーメン王墓の発見は1922年11月に起きた。
しかし発掘は、そこから始まった。
前室にある一つの箱を動かすだけでも、
写真。
番号。
位置。
寸法。
材質。
内容物。
状態。
保存処置。
梱包。
が必要になる。
これを数千点に対して繰り返す。
さらに大型家具、戦車、厨子、棺、布、皮革、植物資料など、性質の異なる物が混在する。
だから10年かかった。
そして、この時間をかけたからこそ、現在私たちは単に「ツタンカーメンの宝物」を見るだけでなく、
それがどこにあり、どう発見され、どう動かされ、どう保存されたか
まで追うことができる。
次回は、その記録された副葬品そのものを見る。
黄金のマスクだけではない。衣服、家具、戦車、武器、玩具、容器、食料関連品まで、王の生活と葬送を何が語るのかを整理する。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Griffith Institute, University of Oxford, “Object cards”
- [2] Griffith Institute, University of Oxford, “Conservation notes”
- [3] Griffith Institute, University of Oxford, “Alfred Lucas”
- [4] Alfred Lucas, “TAA i.2.12a.1.1–2 — Methods of Treatment Used”
- [5] Griffith Institute, University of Oxford, “1st Season (1922–1923)”
- [6] Griffith Institute, University of Oxford, “2nd Season (1923–1924)”
- [7] The Metropolitan Museum of Art, “Discovering Tutankhamun: The Photographs of Harry Burton”
- [8] The Metropolitan Museum of Art, “Tutankhamun’s Tomb: The Thrill of Discovery”
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