先に結論|KV62は小さく、部屋数も少ない。しかし「封鎖が残る墓」と「一度も侵入されていない墓」は同じではない
STORY SO FAR
前回「1922年11月、王墓発見はどう進んだのか|最初の階段から「wonderful things」まで」で確認した論点を受け、この回ではKV62はどんな墓だったのか | 前室・別室・玄室・宝物庫と「ほぼ無傷」の実像について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
ツタンカーメン王墓KV62は、王家の谷の王墓としては非常にコンパクトである。
Theban Mapping Projectの平面図では、主要空間は次のように整理できる。
- Entrance Corridor(入口回廊)
- Antechamber(前室)
- Annexe(別室)
- Burial Chamber(玄室)
- Treasury(宝物庫)
入口から階段を下り、通路を進み、前室へ入る。
前室の側面に別室があり、北側の封鎖壁の向こうに玄室、その先に宝物庫が接続する。
構造だけ見れば単純である。
だが、発見時の状態は単純ではなかった。
第一封鎖と通路には過去の侵入と再封鎖を示す痕跡があった。
前室の物品は整然とした展示室のようではなく、盗掘後にある程度戻されたと考えられる混乱を残していた。
別室はさらに激しく荒らされ、多くの物品が転倒・散乱していた。
一方、前室から玄室へ入る封鎖壁は再び閉じられ、内部の巨大な厨子の一部にはオリジナルの封泥が残っていた。
つまりKV62は、
入口から奥まで完全に誰にも触れられていない墓
ではない。
より正確には、
古代に少なくとも複数回の侵入を受け、前室や別室が荒らされた一方、墓全体の大部分が再封鎖され、王の埋葬設備と数千点の副葬品を例外的に豊富な状態で残した墓
である。
この第4回では、墓を「部屋の並び」と「盗掘の痕跡」の二つの軸で読む。
1|KV62の基本構造
Theban Mapping Projectの図面では、KV62は入口階段から下降通路を経て前室へ入り、その周囲に三つの主要空間が接続する。
模式化すると、次のようになる。
地表
│
▼
Entrance Stairway
│
▼
Entrance Corridor
│
▼
Antechamber ── Annexe
│
▼
Burial Chamber ── Treasury
実際の位置関係は完全な一直線ではないが、読者が理解するための最小構造としてはこれで十分である。

Theban Mapping Projectの平面・断面情報を根拠にしたREDRAW。測量図の複製ではなく、縮尺は説明用。
2|入口階段と入口回廊――最初の二つの封鎖
1922年11月、発掘隊が最初に見つけたのは入口階段だった。
階段の下には第一の封鎖。
その先には石屑で埋められた下降通路。
さらに奥に第二の封鎖があった。
この構造は、盗掘の痕跡を考えるうえで重要である。
もし墓が埋葬後から完全に untouched だったなら、入口・通路・第二扉は一貫してオリジナルの封鎖状態を保っているはずである。
実際にはそうではなかった。
カーターは封鎖の一部に、過去に開けられ、再び閉じられたと考えられる箇所を認識している。
第二封鎖にも、第一封鎖と対応する侵入口の痕跡があった。
これは、盗掘者が単に第一扉まで来て引き返したのではなく、少なくとも前室へ到達した可能性を示す。
第3回で見たように、11月26日にカーターが第二封鎖へ小孔を開けた際、その向こうには前室があった。
つまり古代の侵入ルートも基本的には、
入口
→階段
→通路
→前室
という正規動線に沿っていたと考えられる。
3|前室――「organized chaos」
前室は、1922年11月26日にカーターが最初に目視した主要空間である。[2]
Griffith InstituteのSpatial Archiveは、この部屋を「organized chaos」と表現している。
そこには、
- 戦車
- 大型の寝台
- 箱
- 家具
- 容器
- 王の守護像
- 各種副葬品
が密集していた。
メトロポリタン美術館の説明では、解体された戦車が一方に集まり、大型の動物頭付き寝台が室内を占め、王の等身大守護像が玄室への封鎖入口を挟むように立っていた。
重要なのは、これが「葬儀直後の配置そのまま」ではない可能性が高いことだ。
カーターは発掘時、前室と別室に盗掘者の活動痕を認識している。
ただし、前室は完全に破壊された状態ではなかった。
盗掘後、墓地管理者が侵入口を塞ぎ、ある程度内部を整理し直したと考えられる。
その結果、
本来の埋葬配置
+
盗掘者による移動
+
古代の再整理
+
長期間の劣化
が重なった状態を1922年の発掘隊が見た。
したがって、前室の配置をそのまま「葬儀時のレイアウト」とみなすことはできない。
4|別室――盗掘の痕跡が最も露骨に残る部屋
11月27日、前室を詳しく調査していた現地監察官イブラヒムが、壁の下部に開口部を見つけた。[2]
カーターとカーナーヴォンが大型寝台の下を通ってのぞくと、その先に小さな部屋があった。
後にAnnexeと呼ばれる別室である。
カーターの日誌は、この部屋の状態をかなり厳しく描写している。
ベッド。
椅子。
箱。
アラバスターやファイアンスの容器。
小像。
特殊形状のケース。
あらゆるものが転倒し、価値のある品を探した痕跡があった。
入口を破った際の石まで内部の品の上に落ち、物品を押し潰していた。
この部屋は「未盗掘墓」のイメージと最も遠い。
後年のカーター記録でも、Annexeは盗掘者によって徹底的に物色された空間として扱われている。
特に油脂や香油を入れていた石製容器が開けられ、内容物が持ち去られたと考えられている。
一方で、金属製品や高価な物品がすべて失われたわけではない。
盗掘は存在したが、時間・運搬・警備などの制約で完全には遂行されなかった可能性が高い。
5|前室と別室の差が、再封鎖の存在を示す
前室も別室も盗掘を受けている。
しかし状態は同じではない。
前室は混乱しているが、ある程度秩序が戻されている。
別室はより激しく散乱した状態が残る。
カーターは後年、別室では盗掘後の整理がほとんど行われなかったため、盗掘直後の混乱をより直接的に残している可能性を指摘している。
ここから推定できるのは、古代の墓地管理者が侵入を発見した後、
- 主空間では一定の整理を行った
- 一部の品を戻した、または動かした
- 開口部を再び塞いだ
- 印章を押し直した
という復旧作業をした可能性である。
ただし、この復旧工程を完全に再現することはできない。
誰が、いつ、何回、どの部屋まで整理したかは不明部分が残る。
したがって本記事では、
再封鎖の痕跡は強い
が、
復旧作業の全手順は確定できない
と分ける。
6|玄室への封鎖――前室とは違う意味を持つ壁
前室の北側には、王の等身大守護像が二体立っていた。
その間に、漆喰を施した石積みの封鎖壁があった。
この向こうがBurial Chamber、つまり玄室である。
Theban Mapping Projectの図面では、この境界が「AntechamberとBurial Chamberの間の瓦礫石積み壁」として示されている。
1922年11月の時点で、発掘隊はこの壁をすぐには全面撤去しなかった。
前室だけでも膨大な物品があり、安全に作業する空間を確保する必要があったからである。
玄室が正式に開かれるのは1923年2月。
ここで発見されたのは、部屋の大半を占める巨大な木製金張りの厨子群だった。
これらは一つではない。
複数の厨子が入れ子状に設置され、その内部に石棺、さらに棺が収められていた。
この重層構造が、王の遺体を守る最後の防御層になっていた。
7|「玄室は未盗掘だった」のか
この問いには慎重に答える必要がある。
メトロポリタン美術館の説明では、玄室内部の第二・第三の厨子の扉にオリジナルの粘土封印が残っていたため、カーターはツタンカーメンのミイラが乱されていない可能性を期待した。
これは重要な証拠である。
入口や前室には盗掘痕がある。
しかし奥の王の埋葬設備では、より内側の封鎖が保たれていた。
この違いがあるからこそ、
「墓全体は盗掘された」
と
「王の埋葬本体まで完全に荒らされた」
を分ける必要がある。
KV62の最大の特徴は、前者の痕跡がありながら、後者が限定的だったことにある。
したがって、
KV62は盗掘された墓である
とだけ言うのも、
完全未盗掘墓である
と言うのも、どちらも粗すぎる。
正確なのは、
外側の空間は侵入・物色されたが、王の埋葬設備の核心部は例外的に保護された
という評価である。
8|玄室だけが装飾されていた
KV62の構造上、もう一つ特徴的なのが壁面装飾である。
メトロポリタン美術館は、墓に必要な儀礼空間はそろっていたものの、装飾されたのは玄室だけだったと説明している。
王家の谷の大規模な王墓では、長い回廊や複数室に宗教文書や神々の場面が描かれることがある。
KV62ではそれが非常に限定されている。
この点は、ツタンカーメンが若くして死去し、墓の準備期間が短かった可能性と関連付けて論じられることが多い。
ただし、ここも断定には注意が必要である。
「小さい=必ず急造」
「装飾が少ない=未完成」
と単純化はできない。
それでも、規模と装飾範囲が同時代の代表的な王墓と異なることは事実である。
その意味でKV62は、巨大王墓というより、必要な王の葬送設備を非常に圧縮した墓に見える。
9|宝物庫――王の身体を守る設備と副葬品
玄室の東側にはTreasury、カーターが宝物庫と呼んだ空間がある。
ここは前室のような「生活用品中心の物置」ではない。
メトロポリタン美術館の説明では、入口付近にアヌビス神の像を載せた携帯式の厨子が置かれ、その奥にはカノポス容器を収めた大きな金張り厨子があった。
カノポス設備は、ミイラ化の際に取り出された王の内臓を収める重要な葬送設備である。
さらに、
- 王の個人用品を収めた箱
- 模型船
- 魔術的小像
- 神像
- 各種葬送用物品
が置かれていた。
つまり宝物庫は「高価なものを集めた部屋」というより、
王の死後の身体・再生・旅を支える宗教的設備が集まる空間
と理解した方がよい。
10|部屋ごとに盗掘の深さが違う
KV62を一つの状態として「盗掘済み/未盗掘」に分類すると、重要な情報を失う。
部屋ごとに状態を整理すると、違いが見える。
| 空間 | 1922年の状態 | 盗掘・再封鎖の読み |
|---|---|---|
| 入口階段・回廊 | 封鎖と埋め戻し | 過去の開口と再閉鎖痕 |
| 前室 | 大量物品、混乱あり | 侵入・物色後にある程度整理された可能性 |
| 別室 | 激しい散乱 | 盗掘の影響が強く残る |
| 玄室 | 封鎖壁の奥、厨子群 | 王の埋葬核心部は比較的保全 |
| 宝物庫 | 大量の宗教・葬送用品 | 重要物が多数残存 |
この表から分かるのは、盗掘が「墓全体を均一に荒らすイベント」ではなかったことである。
侵入者は短時間で持ち出せる価値物を狙う。
大型家具は邪魔になる。
厨子は解体が必要。
石棺は動かせない。
奥へ行くほど作業時間と危険が増える。
だから外側の部屋ほど荒れ、内側の核心部が残るという状態は合理的である。
11|「二度盗掘された」はどこまで確実か
KV62については、古代に二度盗掘されたという説明がよく使われる。
カーターも後年、別室の状態などから複数回の盗掘を想定している。
一回目は持ち運びやすい金属類。
二回目は香油・軟膏などを狙った可能性。
特に別室では、石製容器の栓が外され、中身が失われていたことから、液体・軟膏類を持ち出す目的の侵入が考えられている。
ただし、「正確に二回」と断定する際は注意したい。
封鎖・侵入口・物品移動の痕跡から複数の侵入段階を再構成できる一方、各痕跡を完全に一回ずつの事件へ割り当てることには解釈が含まれる。
したがって本記事では、
少なくとも複数段階の侵入・再封鎖があった可能性が高い
という書き方を優先する。
12|「ほぼ無傷」という言葉の正しい意味
ではなぜ、KV62は今でも「ほぼ無傷の王墓」と呼ばれるのか。
理由は、比較対象にある。
王家の谷の多くの王墓では、古代に大規模な盗掘を受け、
- 貴金属
- 宝飾品
- 木製家具
- 葬送用品
- 王の棺設備
の多くが失われている。
後世の再埋葬で王のミイラが別の場所へ移された例もある。
それに対しKV62では、
- 王のミイラ
- 三重の棺
- 石棺
- 複数の金張り厨子
- カノポス設備
- 戦車
- 家具
- 衣類
- 武器
- 装身具
- 食品関連資料
- 宗教用具
- 日用品
などが一つの墓から大量に残った。
したがって「ほぼ無傷」とは、
盗掘がなかった
ではなく、
王墓の埋葬セットが、他の多くの王墓と比べて例外的な完全性で残った
という比較表現である。
13|墓の小ささは、保存に有利だったのか
KV62は小さい。
では、小さいから盗掘されにくかったのか。
単純には言えない。
小型で入口が見つかりにくい点は、再発見を難しくした可能性がある。
一方、内部が狭いことは、盗掘者にとって奥へ進むのを難しくする面もある。
しかし同時に、全体を一度発見されれば、移動距離が短いという逆の面もある。
保存に決定的だったのは、小ささそのものより、
- 入口が後世に覆われた
- 侵入が限定的だった
- 再封鎖された
- 王の埋葬核心部まで徹底的に破壊されなかった
という複数要因だと考えるべきである。
14|FACT CHECK|「未盗掘」「封印」「ほぼ無傷」を混同しない
「KV62は未盗掘墓だった」
判定:不正確。
前室・別室・入口に古代の侵入痕がある。カーター自身が盗賊の侵入を認識している。
「封印が残っていたので誰も入っていない」
判定:誤り。
再封鎖された扉にも印章を押すことができる。封印の存在だけでは初封鎖か再封鎖かを判断できない。
「墓全体が完全に荒らされていた」
判定:誤り。
王の埋葬核心部や大量の副葬品が残っていた。
「Annexeの散乱は1922年の発掘隊が動かした」
判定:主要因としては違う。
発掘前から盗掘者による激しい混乱があり、カーター記録でもその状態が説明されている。
「玄室は最初から前室から見えていた」
判定:誤り。
前室との間には封鎖壁があり、その向こうに玄室があった。正式な開扉は1923年2月である。
15|KV62は「防犯に成功した墓」ではなく「盗掘に失敗し切らなかった墓」
表現を変えると、KV62の実像が見えやすい。
古代の盗掘者は侵入に成功した。
前室へ入り、別室も荒らした。
高価なものを一部持ち出した可能性が高い。
つまり防犯そのものは破られている。
しかし、
- 十分な時間がなかった
- 監視・墓地管理によって中断された
- 再封鎖された
- 奥の埋葬設備を完全に解体できなかった
- 後世に入口が覆われた
結果として、大規模な第二波・第三波の略奪を免れた。
その意味でKV62は、
盗掘を一度も受けなかった墓
ではなく、
盗掘が墓の全内容を消し去るところまで進まなかった墓
と考える方が実態に近い。
16|墓の構造が、次の作業を決めた
1922年11月末、発掘隊が前室を確認した後、すぐ玄室へ突入しなかったのは、興奮が足りなかったからではない。[2]
前室自体が作業場として危険だった。
床や通路は大量の物品で塞がれている。
大型家具を動かさなければ玄室封鎖へ近づけない。
木材・布・皮革などは非常に脆い。
物品を移動すれば、元の位置情報が失われる。
したがって次に必要なのは、
- 写真
- 番号付け
- 図面
- 保存処置
- 梱包
- 搬出
である。
墓の構造を理解すると、なぜ発見後の作業に何年もかかったのかが見えてくる。
部屋が四つしかないから簡単なのではない。
狭い四室に数千点が密集していたからこそ、一点を動かす前に大量の情報を固定しなければならなかった。
補足|「どの封鎖が破られ、どこが残ったか」で読む
KV62の状態を理解する最も実用的な方法は、盗掘を人物の物語ではなく「境界の状態」として追うことである。
入口側では、階段下の第一封鎖と通路奥の第二封鎖に過去の開口・補修を示す痕跡がある。前室へ入ると、物品の配置はすでに人為的に乱されている。Annexe入口も古代に破られ、内部は激しく物色されていた。一方、前室から玄室へ進む境界では、封鎖壁そのものに小規模な侵入口と再封鎖の痕跡があるものの、その先の巨大厨子群まで同じ程度に解体されたわけではない。
この違いは、盗掘者が「墓に入れたか」ではなく、どこまで長時間作業できたかが保存状態を決めたことを示唆する。玄室の外壁を突破しても、内部には大型厨子が幾重にもあり、その奥に石棺・棺が続く。外側の部屋で小型の貴重品を探す作業と、王の埋葬核心部を解体する作業では必要な時間も危険もまったく違う。
したがって、KV62の保存状態は一枚のラベルではなく、入口から奥へ向かう「侵入深度の勾配」として見る方がよい。外側ほど人為的撹乱が大きく、内側ほどオリジナルの封鎖・埋葬設備が残る。この勾配が、墓が一度も荒らされていないわけではないのに、王墓全体としては例外的な完全性を保った理由を理解する手掛かりになる。
また、1922年の発掘隊自身もこの勾配を一度に理解したわけではない。前室を見た段階では「王墓らしい大量の装備」が見えたにすぎず、Annexeの乱雑さ、玄室封鎖、厨子の封泥を順に確認することで、古代の侵入と再封鎖の履歴像が組み上がっていった。これは、墓の状態評価そのものが発掘とともに更新されたことを意味する。
さらに、部屋名自体も発掘者側の整理である点に注意したい。Antechamber、Annexe、Treasuryという呼称は、空間の機能を理解しやすくするための名称であり、古代エジプト人が同じ名称で設計図を残したわけではない。したがって「宝物庫だから高価品だけが置かれた」と逆算せず、実際に何がどこにあったかを優先して読む必要がある。
まとめ|KV62の価値は「無傷」ではなく「侵入と保存が同時に記録できたこと」にある
KV62は完全未盗掘墓ではない。
入口と通路には侵入・再封鎖の痕跡がある。
前室は混乱している。
別室は盗掘者に激しく荒らされている。
それでも、
玄室の封鎖。
厨子群の封印。
王のミイラ。
多数の大型家具。
戦車。
装身具。
宗教用具。
生活用品。
が残った。
だからKV62は特別だった。
「盗掘されていないから価値がある」のではない。
盗掘された痕跡と、盗掘を免れた埋葬セットを同じ墓の中で比較できるほど大量の文脈が残ったことに価値がある。
そして、この大量の文脈は、発見しただけでは保存できない。
次回は、5000点を超える物品を、どう写真に撮り、番号を付け、補強し、狭い墓から運び出したのかを追う。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Theban Mapping Project, “KV 62 – Tutankhamen, Dyn. XVIII — Plan, sections, axonometric”
- [2] Griffith Institute, University of Oxford, Howard Carter, “TAA i.2.1.37 — 27 November 1922”
- [3] Griffith Institute, University of Oxford, Howard Carter, “TAA i.2.1.39 — 27–29 November 1922”
- [4] Griffith Institute, University of Oxford, “Antechamber”
- [5] Griffith Institute, University of Oxford, “Carter MSS i.G.3 — Draft plan of the tomb with intact sealed doorways”
- [6] The Metropolitan Museum of Art, “Discovering Tutankhamun: The Photographs of Harry Burton”
- [7] Howard Carter, The Tomb of Tut·ankh·Amen, Volume III, via Griffith Institute
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