現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

「モガディシュ・マイル」と撤収10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか

軍事作戦・戦闘

1993年10月4日、午前5時42分。

Super 61が撃墜されてから、
すでに13時間以上が経過していた。

モガディシュは明るくなり始めていた。

第1墜落地点では、
夜通し続いていた搭乗員の回収作業がようやく終わろうとしている。

負傷者と戦死者は装甲兵員輸送車へ乗せられた。

しかし、問題が一つ残った。

救援に来た車両だけでは、その場にいる全員を一度に運べなかった。

歩ける兵士は、
装甲車列とともに徒歩で市街地を抜けることになった。

レンジャー。
デルタ。
第10山岳師団。

彼らはShalalawi Streetを南へ進み、
National Street上の友軍部隊との合流地点を目指した。

周囲からは、まだ小火器とRPGが飛んでくる。

その撤収行動は後に、
「Mogadishu Mile――モガディシュ・マイル」
と呼ばれるようになった。

しかし映画『ブラックホーク・ダウン』で知られる
「兵士たちが装甲車に置き去りにされ、スタジアムまで走り続ける」というイメージと、
実際の撤収は完全には一致しない。

第9回では、
10月4日未明の搭乗員回収から、
05時42分の撤収、
モガディシュ・マイル、
そして06時30分ごろに主力がパキスタン・スタジアムへ到着するまでを追う。

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘特集(全10回)

この特集では、
Operation Gothic Serpentと1993年10月3~4日の
モガディシュ市街戦を中心に追う。

第8回では、
第10山岳師団、マレーシア軍、パキスタン軍を組み込んだ
多国籍救援部隊が01時55分に第1墜落地点へ到達するまでを見た。

第9回では、
そこから全員が市街地を離れるまでを扱う。

最終回となる第10回では、
戦闘後の米国政策、撤収決定、
UNOSOM II、
そして『ブラックホーク・ダウン』によって形成された記憶と史実を整理する。


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊
  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか【現在の記事】

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

先に結論|「モガディシュ・マイル」は最後の徒歩撤収だった

モガディシュ・マイルとは、
一晩続いた戦闘の最後に行われた
米軍部隊の徒歩撤収を指す。

10月4日未明、
多国籍救援車列がSuper 61の第1墜落地点へ到達した。

そこで負傷者と戦死者を装甲兵員輸送車へ収容したが、
その場にいた戦闘可能な兵士全員を乗せる余裕はなかった。

そこで残った兵士は、
車列と連携しながら徒歩で南へ移動した。

米陸軍Center of Military Historyの公式戦史では、
05時42分に
「run-and-gun movement」
が始まったと記録されている。

徒歩部隊はShalalawi StreetからNational Street方向へ移動。

装甲兵員輸送車は移動する遮蔽物となり、
上空では米軍攻撃ヘリコプターが交差道路などへの火力支援を行った。

そして06時30分ごろ、
主力車列はパキスタン・スタジアムへ到着した。

この時点で、
10月3日午後から続いた市街地での主要戦闘は終わった。

01時55分|救援車列が到着しても、まだ帰れなかった

第8回で見た通り、
第10山岳師団兵を乗せたマレーシア軍装甲兵員輸送車は、
10月4日01時55分にSuper 61の第1墜落地点へ突破した。

しかし救援部隊到着は、
即時撤収を意味しなかった。

まだSuper 61の機体内部に
回収できていない搭乗員が残っていた。

墜落したBlack Hawkは激しく損傷しており、
操縦席部分から遺体を取り出す作業には時間がかかった。

その間にも周囲から射撃や手榴弾攻撃が続いていた。

レンジャー、
デルタ、
CSAR、
第10山岳師団などの部隊は、
墜落地点を守りながら回収作業を続けた。

AH-6 Little BirdやAH-1 Cobraも
上空から支援を続けている。

一晩の目的は「機体」ではなく「人員回収」だった

ここでも、
Super 61というBlack Hawkそのものを
完全に持ち帰ろうとしていたわけではない。

優先されたのは、
機体内部に残った搭乗員を回収することだった。

生存している兵士。

負傷した兵士。

そして死亡した兵士。

全員を置き去りにせず、
市街地から搬出できる状態にする。

それが終わらなければ、
第1墜落地点の防御部隊も移動できない。

結果として、
救援車列到着から撤収開始までにも
約4時間近くを要した。

夜明け|負傷者と戦死者を装甲車へ収容する

夜が明けるころ、
ようやく第1墜落地点からの撤収準備が整った。

米陸軍公式戦史では、
第1墜落地点のcasualties――死傷者は装甲兵員輸送車へ収容された
と記録されている。

これは当然の優先順位だった。

歩けない重傷者を徒歩撤収させることはできない。

戦死者も車両で搬送する必要がある。

そのため、
装甲車両の限られたスペースは
まず死傷者へ割り当てられた。

ここで、
戦闘可能で歩行できる兵士の一部が
車外に残ることになった。

なぜ全員を装甲車へ乗せられなかったのか

救援車列は60両を超える大規模なものだった。

それでも、
第1墜落地点にいる全員を
そのまま座席へ収容できたわけではない。

理由は、
車両の数だけで判断できないことにある。

車列には戦車も含まれている。

車両乗員もいる。

第10山岳師団など救援側の兵士も乗っている。

負傷者は、
健常者より広いスペースを必要とする場合がある。

さらに市街地で戦闘しながら移動するため、
単純な定員いっぱいまで人間を詰め込めばよいわけではない。

そこで、
歩ける兵士は徒歩で撤収することになった。

FACT CHECK|兵士たちは車列に「置き去り」にされたのか

映画『ブラックホーク・ダウン』では、
装甲車列が先に走り去り、
米兵が置き去りにされたためスタジアムまで走るような印象が強い。

しかし米陸軍公式戦史では、
負傷者などを装甲兵員輸送車へ収容した後、
残る部隊が装甲車両の移動援護を受けながら徒歩で南下した
と整理されている。

近年の米陸軍によるMogadishu Mileの説明も、
車両に全員分の座席がなかったため
約1マイル先の合流地点まで徒歩で移動したとしている。

したがって、
「車列が米兵を忘れて逃げたため、
兵士だけが完全に孤立して走った」
と固定するのは適切ではない。

05時42分|撤収が始まる

米陸軍Center of Military Historyによれば、
徒歩部隊と車列の移動が始まったのは
10月4日05時42分だった。

第1墜落地点から、
部隊はShalalawi Streetを南へ進んだ。

目的は、
National Street方向にいる友軍部隊と合流し、
そこから安全地域へ移動することだった。

この移動が、
後に「Mogadishu Mile」と呼ばれる。

ここで位置関係を確認しておく。
現在のGoogle Mapは撤収先となったスタジアムの現代位置を確認するために使い、
1993年当時の第1墜落地点、Shalalawi Street、National Street、スタジアムの位置関係は
米陸軍公式戦史のMap 3を優先する。

Mogadishu Stadiumの現在位置。1993年当時、米陸軍公式戦史Map 3では市街地北東側のスタジアムに「PAKISTANI HQ」が示されている。現在のGoogle Mapは、当時の道路・建物配置やモガディシュ・マイルの実際の徒歩経路を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る


米陸軍公式戦史「Map 3」で1993年当時の位置関係を確認する

ただし「Mile」という言葉は、
厳密な測量による移動距離を表す正式作戦名ではない。

約1マイル規模の徒歩撤収を象徴する呼称として定着したものと考えた方がよい。

歩兵は装甲車列と一緒に移動した

徒歩である以上、
装甲車の内部にいる兵士より危険なのは間違いない。

しかし、
徒歩部隊が何の支援もなく単独で移動したわけでもない。

米陸軍公式戦史は、
装甲兵員輸送車が
rolling cover――移動する遮蔽物
を提供したと記録している。

装甲車両が道路を進み、
歩兵はその近くを移動する。

攻撃を受ければ応戦する。

停止する必要があれば、
周囲の建物や道路を警戒する。

「走る」といっても、
陸上競技のように全員が一斉に一本道を駆け抜けたわけではない。

戦闘可能な隊形を維持しながら
急速に離脱する戦術的撤収だった。

上空からも火力支援が続いた

05時42分になっても、
敵対側の攻撃が終わったわけではない。

米陸軍公式戦史では、
ソマリア側から車列への射撃が続いたとされている。

これに対し、
米軍の航空部隊も撤収を支援した。

ヘリコプターガンシップは、
徒歩部隊と車列が通過する道路へ射撃してくる地点を抑えるため、
交差道路などへ火力を投入した。

つまりモガディシュ・マイルは、
戦闘が終わった後の帰り道ではない。

戦闘を継続しながら敵対地域から離脱する最後のMISSION
だった。

「走った」のか「歩いた」のか

資料によって、
この撤収を表す言葉にも違いがある。

米陸軍公式戦史は
「moved rapidly on foot」、
つまり徒歩で迅速に移動したと記録している。

さらに撤収を
「run-and-gun movement」と表現している。

一方、
実際の参加者による回顧では、
「走り続けた」というより
戦術隊形を取りながら迅速に歩いたという説明もある。

この違いは矛盾というより、
部隊全員が同じ速度・同じ方法で移動したわけではないことを示している。

射撃を受ければ走る。

遮蔽物があれば止まる。

隊形を整える。

装甲車両と歩調を合わせる。

その繰り返しだったと見る方が自然である。

FACT CHECK|本当に「1マイル走り続けた」のか

「Mogadishu Mile」という名称から、
全兵士が1マイルをノンストップで走ったように理解されることがある。

しかし公式戦史では
「徒歩で迅速に移動」とされ、
装甲車両と航空機による援護も記録されている。

米陸軍の近年の説明では、
第1墜落地点から約1マイル離れた
合流地点まで徒歩で移動した部隊がいたとされる。

したがって、
「全員が同じ1マイルを一気に走った」
と厳密に定義する必要はない。

目的地は最初からパキスタン・スタジアムではなかった

ここも映像作品と史実を分けるうえで重要である。

モガディシュ・マイルの徒歩区間は、
必ずしも第1墜落地点から
パキスタン・スタジアムの門まで続いたわけではない。

米陸軍の近年の説明では、
徒歩部隊はまず
National Street上の第10山岳師団側の合流地点
を目指したとされる。

そこには、
さらに兵士を運ぶ車両が待機していた。

徒歩移動と車両移動を組み合わせながら、
最終的に部隊はパキスタン軍が管理する安全地域へ向かった。

映画では、
視覚的に分かりやすくするため
「市街地を走り続けてスタジアムへ入る」
という一本の動線に整理されている。

史実はもう少し複雑だった。

なぜパキスタン・スタジアムだったのか

パキスタン・スタジアムは、
UNOSOM IIのパキスタン部隊が管理する安全地域の一つだった。

市街地の戦闘区域から離れ、
多数の兵士と負傷者を受け入れられる。

医療要員も待機していた。

第1墜落地点から抜け出した兵士にとって、
まず必要なのはTask Force Ranger基地へ直接戻ることではない。

安全地域へ到達し、
負傷者を治療し、
人員を確認し、
そこから必要な医療施設や飛行場へ送ることだった。

06時30分ごろ|主力がパキスタン・スタジアムへ到達

米陸軍Center of Military Historyによれば、
救援車列の主力は
06時30分ごろまでに
パキスタン・スタジアムへ到達した。

そこでは医療要員が負傷者への緊急処置を開始した。

さらに必要に応じ、
病院や飛行場への搬送準備が行われた。

15時32分に始まった拘束作戦から、
約15時間が経過していた。

本来なら短時間で完了するはずだったOperation Gothic Serpentの一回の襲撃は、
二機のBlack Hawk墜落を経て、
一夜をまたぐ市街戦になった。

では、戦闘が終わった時刻は06時30分なのか

戦闘には、
一分単位で明確な「終了ボタン」があるわけではない。

第1墜落地点から主要部隊が撤収し、
主力がパキスタン・スタジアムへ到着したことで、
10月3日から続いた大規模な市街地戦闘は事実上終了した。

その意味では、
06時30分前後
Battle of Mogadishuの主要戦闘終了時点として扱うことができる。

ただし、
その後も人員確認、
負傷者搬送、
行方不明者の確認、
Super 64乗員の捜索などは続いている。

特にこの時点では、
マイケル・デュラントが生存して捕虜になっていることを含め、
第2墜落地点の状況が完全には把握されていなかった。

「全員帰還」ではなかった

06時30分に安全地域へ到達したからといって、
10月3日の出撃者が全員戻ったわけではない。

Super 64の第2墜落地点では、
ゲイリー・ゴードン、
ランディ・シュガート、
航空機乗員らが死亡していた。

マイケル・デュラントは捕虜となっている。

さらに戦死者・重傷者も多数発生していた。

したがって、
モガディシュ・マイルは
「全員が無事に逃げ切った最後の場面」ではない。

すでに大きな損害を受けた部隊を、
それ以上の損害を防ぎながら戦場から引き抜く撤収作戦

だった。

米軍の死者は18人|「19人」とされる理由

モガディシュの戦闘における米軍死者数は、
資料によって18人と19人の両方が見られる。

米陸軍Center of Military Historyの公式戦史では、
10月3~4日に
Task Force Rangerが16人、
第2大隊第14歩兵連隊が2人を失った。

合計18人である。

一方、
10月6日にはTask Force Rangerの空港施設が迫撃砲攻撃を受け、
Matt Riersonが死亡した。

これをOperation Gothic Serpentの一連の損失に含めると
米軍死者は19人となる。

FACT CHECK|Battle of Mogadishuの米軍死者は18人か19人か

10月3~4日の市街戦そのものでは、
米陸軍公式戦史上の米軍死者は18人。

10月6日の迫撃砲攻撃で死亡したMatt Riersonまで
Operation Gothic Serpent関連損失へ含める場合、
19人という数字になる。

本特集では、
10月3~4日のBattle of Mogadishu=18人
とし、
10月6日の戦死者を含む数字とは区別する。

負傷者数も、一つの数字に固定しにくい

負傷者数についても資料差がある。

米陸軍の一般向け記事では、
18人死亡・73人負傷という数字がよく使用されている。

一方、
Center of Military Historyの戦史では、
Task Force Rangerについて57人負傷、
第2大隊第14歩兵連隊について22人負傷としている。

単純に合計すれば79人になる。

さらに特殊作戦軍系資料では、
別の集計範囲による数字も見られる。

これは戦闘負傷者、
治療対象者、
部隊別集計、
後日の負傷確認などの
集計範囲が資料ごとに一致しないためである。

そのため本特集では、
負傷者数を一つだけ選んで
絶対的な確定値として扱わない。

ソマリア側の死傷者は、さらに不確実である

ソマリア側の死傷者については、
米軍側以上に確定が難しい。

武装したSNA民兵だけでなく、
その他の武装要員や民間人も市街地に存在していた。

誰を戦闘員として数えるのかも資料によって異なる。

米陸軍Center of Military Historyは、
ソマリア側の死傷者について
500~1500人という幅のある推計を紹介している。

これは「公式に1000人死亡した」という意味ではない。

戦闘後に複数の推計が存在したことを示している。

したがって、
本特集ではソマリア側の死傷者を
一つの確定値へ固定しない。

15時間で、MISSIONはどう変わったのか

第4回からここまでの流れを一本につなぐと、
この戦闘の構造が見える。

時刻 出来事 MISSION
10月3日 15:32 Task Force Ranger出撃 主要人物拘束
15時台 24人拘束 撤収準備
16:20 Super 61墜落 第1墜落地点救出
16時40分台 Super 64墜落 二つの救出MISSIONへ分裂
夕方~夜 地上車列が突破できず 墜落地点防御
10月4日 01:55 多国籍救援部隊が第1墜落地点到達 人員回収
夜明け 搭乗員回収完了 撤収準備
05:42 徒歩・車列による撤収開始 戦場離脱
約06:30 主力がパキスタン・スタジアム到着 主要戦闘終了

最初と最後では、
部隊が行っていることが完全に違う。

15時32分の目的は
「アイディード派主要人物を拘束すること」だった。

15時間後の目的は
「死傷者を含む残存部隊をモガディシュ市街地から脱出させること」になっていた。

モガディシュ・マイルは「敗走」だったのか

結果だけを見れば、
米軍部隊が敵対地域から徒歩で撤収している。

そのため、
モガディシュ・マイルを
単純に「敗走」と表現する場合がある。

しかし軍事的な意味では、
もう少し分けて考える必要がある。

当初の拘束対象24人は確保されていた。

一方、
二機のBlack Hawkを失い、
多数の死傷者を出し、
一晩にわたって部隊が市街地へ固定された。

そして最終的には、
外部の多国籍救援部隊がなければ
撤収できない状態になった。

したがって
「作戦目的は完全に失敗した」でも、
「拘束に成功したから勝利した」でも足りない。


初期の拘束任務は達成したが、
その後の航空機喪失によって作戦全体のコストと目的が根本的に変質した

と整理する方が実態に近い。

撤収して初めて、15時間の戦闘全体が見えた

パキスタン・スタジアムへ到着した兵士たちは、
そこで初めて比較的安全な場所に入った。

負傷者が治療される。

誰が戻ったのか確認する。

誰が死亡したのか。

誰が行方不明なのか。

Super 64の乗員はどうなったのか。

一晩のあいだ各地点に分断されていたため、
戦闘中には全体像そのものを誰も完全には把握できていなかった。

06時30分は、
単に最後の銃声が止んだ時間というだけではない。

Task Force Rangerがようやく戦場の外側から
自分たちの損害を確認し始められる時点でもあった。

まとめ|「モガディシュ・マイル」は、作戦の最後に残った撤収MISSIONだった

10月4日01時55分、
多国籍救援部隊はSuper 61の第1墜落地点へ到達した。

しかし、そこですぐ戦闘が終わったわけではない。
破壊された機体から搭乗員を回収し、
負傷者と戦死者を装甲車へ収容する作業が夜明けまで続いた。

全員を車両へ乗せる余裕はなく、
05時42分、
歩行可能な兵士の一部は装甲車両と連携しながら
Shalalawi Streetを南へ徒歩で撤収した。

これが後に
「モガディシュ・マイル」と呼ばれる行動である。

しかし、
映画のように兵士全員が車列から完全に置き去りにされ、
第1墜落地点からスタジアムまで孤立して走り続けたわけではない。

装甲車両によるrolling cover、
第10山岳師団側との合流地点、
上空からの航空火力支援を組み合わせながら行われた
戦術的な徒歩撤収だった。

そして06時30分ごろ、
主力はパキスタン・スタジアムへ到達する。

15時32分から始まった約15時間のMISSIONは、
「捕らえて帰る作戦」から
「墜落機を救出する作戦」、
そして最後には
「生き残った部隊を戦場から引き抜く作戦」へ変わっていた。

戦闘は終わった。

しかし、その影響はここから始まる。

18人の米軍戦死者。
二機のBlack Hawk喪失。
捕虜となったマイケル・デュラント。
幅の大きいソマリア側死傷者推計。

そして数日後、
米国政府はソマリア政策そのものを大きく変更する。

最終回では、
モガディシュの戦闘が米国のソマリア介入に何をもたらしたのか、
その後の撤収、
UNOSOM IIの終焉、
そして映画『ブラックホーク・ダウン』がどこまで史実を再現しているのかを整理する。


← 前の記事:夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊


次の記事:モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実 →

CASE FILE 23|モガディシュの戦闘 全10回


  1. 第1回 モガディシュの戦闘とは?|短時間の拘束作戦が一夜の市街戦へ変わった日

  2. 第2回 なぜ米軍はアイディードを追ったのか|UNOSOM IIとOperation Gothic Serpent

  3. 第3回 Task Force Rangerとは何だったのか|デルタ、レンジャー、160th SOARの作戦設計

  4. 第4回 1993年10月3日、襲撃はどう始まったのか|標的拘束からSuper 61撃墜まで

  5. 第5回 Super 61墜落地点で何が起きたのか|拘束作戦が救出作戦へ変わった瞬間

  6. 第6回 地上車列はなぜ墜落地点へたどり着けなかったのか|市街戦・経路・通信の混乱

  7. 第7回 Super 64撃墜|ゴードン、シュガート、デュラントの第2墜落地点

  8. 第8回 夜間救出部隊はどう突入したのか|第10山岳師団とマレーシア・パキスタン部隊
  9. 第9回 「モガディシュ・マイル」と撤収|10月4日朝、戦闘はどう終わったのか【現在の記事】

  10. 第10回 モガディシュの戦闘は何を変えたのか|米軍撤収と『ブラックホーク・ダウン』の史実

出典・参考資料

  • U.S. Army Center of Military History,
    The U.S. Army in Somalia, 1992–1994.
    — 01時55分の第1墜落地点到達、
    夜明けまでの搭乗員回収、
    casualtiesの装甲車収容、
    05時42分の徒歩撤収、
    Shalalawi StreetからNational Streetへの移動、
    06時30分ごろのパキスタン・スタジアム到着を確認。
  • United States Forces Somalia,
    After Action Report and Historical Overview.
    — 第1墜落地点の夜間防御、
    搭乗員・死傷者回収、
    救援車列と撤収の基本経過を確認。
  • U.S. Army,
    Fort Drum Soldiers Remember Battle of Mogadishu.
    — 車両に全員を収容できず、
    約1マイル先の合流地点まで一部兵士が徒歩移動したこと、
    18人戦死・73人負傷という一般向け米陸軍集計を確認。
  • U.S. Army Europe and Africa,
    Mogadishu Mile.
    — Mogadishu Mileを
    墜落地点からNational Street上の合流地点までの徒歩撤収として説明している
    近年の米陸軍公式記録を確認。
  • U.S. Army,
    Golden Dragons Honor Their History at Battle of Mogadishu.
    — 第10山岳師団2-14 Infantryの救援、
    車両スペース不足と徒歩撤収、
    約1マイルのlink-up pointについて確認。

※「Mogadishu Mile」は正式な作戦名称や厳密な測量距離ではなく、
10月4日朝の徒歩撤収を指す通称として定着した。
米陸軍資料では「約1マイル先の合流地点」という説明が用いられている。

※映画『ブラックホーク・ダウン』では、
徒歩部隊が市街地からパキスタン・スタジアムまで走り続けるように描かれる。
公式戦史では、徒歩部隊は装甲車両によるrolling coverと航空支援を受けながら
Shalalawi StreetからNational Street方向へ移動し、
友軍・車列と合流したものとして整理されている。

※10月3~4日のBattle of Mogadishuにおける米軍死者は18人。
10月6日の迫撃砲攻撃で死亡したMatt Riersonを
一連のOperation Gothic Serpent損失へ含める場合は19人となる。
本特集では両者を区別する。

※米軍負傷者数には資料差がある。
一般向け米陸軍資料では73人負傷との数字が多く使われる一方、
Center of Military Historyの部隊別数字を合計すると異なる値になる。
本記事では単一値を確定値として扱わない。

※ソマリア側死傷者数についても確定値は存在しない。
Center of Military Historyは500~1500人という複数推計の幅を紹介しているため、
本特集でも一つの数字へ固定しない。