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遠征隊はどこで動けなくなったのか1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで

遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで

遭難・救助

1845年5月19日、
HMS ErebusとHMS Terrorは英国を出航しました。

約3年分の物資。
極地航海用に補強された船体。
補助蒸気機関。
129人の遠征隊。

目指したのは、
カナダ北極諸島を抜けて大西洋と太平洋を結ぶ
北西航路でした。

出発から最初の冬までは、
少なくとも遠征そのものが破綻していた形跡はありません。

遠征隊はグリーンランドで最後の補給を行い、
Lancaster Soundへ入り、
Wellington Channelを北へ調査し、
1845~1846年の冬をBeechey Islandで越しました。

1846年の夏には再び船を動かし、
Peel Sound方面からさらに南へ進みます。

そして1846年9月12日

King William Island北西の海域で、
ErebusとTerrorは海氷に捕らえられました。

この時点で船が壊れたわけではありません。
沈没したわけでもありません。

問題は、
海そのものが船を動かせない状態になったことでした。

第4回では1845年5月の出航から、
1846年9月に2隻が動けなくなるまでを時系列で追います。

この記事で分かること

  • フランクリン遠征は1845年5月にどこから出航したのか
  • 出航時134人だった人数が、なぜ129人になったのか
  • 遠征隊が欧州側から最後に目撃されたのはいつだったのか
  • 1845年にWellington Channelをどこまで北上したのか
  • 最初の冬を過ごしたBeechey Islandはどこなのか
  • 1846年に2隻はどの方向へ進んだのか
  • 「1846年9月12日」という日付は何を根拠にしているのか
  • 海氷に「閉じ込められる」とはどのような状態なのか
  • この時点ですでに遠征失敗が確定していたのか

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)


  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検

  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊

  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート

  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで【現在の記事】

  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄

  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック

  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言

  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する

  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見

  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

先に結論|危機の始まりは「船が壊れた瞬間」ではなかった

フランクリン遠征には、
事故機が墜落するような
明確な一瞬の破局がありません。

少なくとも1846年9月の段階で、
ErebusとTerrorが重大な損傷を受けたという記録は残っていません。

遠征隊自身が残したVictory Point Noteに書かれているのは、
2隻が
1846年9月12日から「beset(海氷に取り囲まれ、動けない状態)」になった
という事実です。

北極探検では、
船が冬のあいだ氷に閉じ込められること自体は
必ずしも異常ではありません。

海氷の中で越冬し、
翌夏に氷が緩んだところで航海を再開する。

それ自体は、
19世紀の極地探検で想定されていた行動でした。

フランクリン遠征を破滅へ向かわせたのは、
1846年に氷に捕まったことそのものではなく、その氷から翌年になっても解放されなかったこと
です。

したがって1846年9月12日は、
「遠征隊が全滅すると決まった日」ではありません。

後から振り返ったとき、
通常の探検航海と長期閉塞を分けた
最初の大きな転換点です。

1845年5月19日|ErebusとTerrorが英国を出航

フランクリン遠征は
1845年5月19日
ロンドン東方のGreenhitheから出発しました。

Royal Museums Greenwichによれば、
ErebusとTerrorは午前10時30分ごろ、
曳航されながらテムズ川を下り始めています。

出航時の人数は
134人でした。

遠征全体を指揮するジョン・フランクリンはErebusに乗船。
Erebusの艦長はジェームズ・フィッツジェームズ、
Terrorはフランシス・クロージャーが指揮しました。

船内には数年分の食料と物資、
科学観測機器、
石炭、
小艇、
陸上移動用の装備などが積み込まれていました。

この段階では、
「帰還できない遠征」になる兆候が明確に表れていたわけではありません。

1845年7月|グリーンランドで最後の補給

遠征隊は北大西洋を進み、
1845年7月にグリーンランド西岸のDisko Bay周辺へ到達します。

ここで補給船
Barreto Juniorから物資を受け取りました。

同時に、
遠征を継続しない5人が英国へ戻ります。

Parks Canadaは、
この5人を病気などによって遠征から外された
「invalidated crew members」と説明しています。

こうして、
この先へ進む人数は
129人となりました。

FACT CHECK|「129人で英国を出発した」のか

出航時:134人

グリーンランドで離脱:5人

北極諸島へ進んだ人数:129人

そのため「フランクリン遠征の129人」という表現は一般的ですが、
正確には英国出航時は134人、最終補給後に129人です。

1845年7月下旬|欧州側から最後に目撃される

Disko Bayを離れたErebusとTerrorは、
Baffin Bayを北上しました。

1845年7月下旬、
2隻は北部Baffin Bayで捕鯨船から目撃されています。

Royal Museums Greenwichの資料では、
Terrorは7月28日に捕鯨船Enterpriseから
氷山のそばにいるところを確認されたとされています。

別の同館資料では、
2隻がLancaster Sound方面へ向かっているところを
2隻の捕鯨船が7月末に目撃したと整理されています。

これが、
フランクリン遠征隊を欧州側の船員が確認した
最後の目撃記録となりました。

この先、遠征隊から英国へ手紙が届くことはありません。

ただし、
ここで遠征隊が消滅したわけではありません。

後に発見された遺物と記録から、
このあと少なくとも約3年間にわたる行動の一部を
復元することができます。

1845年夏|Lancaster Soundへ入る

2隻はBaffin Bayから
Lancaster Soundへ入りました。

ここは北西航路探索の東側入口です。

第3回で見たように、
Lancaster Soundそのものは
フランクリン以前にも英国海軍の探検船が航行していました。

つまりこの段階では、
完全な未知海域へ突入したわけではありません。

問題はその先でした。

1845年|Wellington Channelを北緯77度まで北上する

遠征隊はBarrow Straitから、
Wellington Channelへ入りました。

そして後に発見されたVictory Point Noteによれば、
北緯77度まで北上しています。

その後、
Cornwallis Islandの西側を通って南へ戻りました。

ここで注意したいのが、
この情報の出所です。

フランクリン遠征の詳細な航海日誌が
現在までまとまった形で発見されているわけではありません。

1845年の航路について現在分かっている重要情報の多くは、
1847年に遠征隊が残した短い記録から逆算されています。

そのため、
「なぜ北緯77度まで進んだのか」
「各地点で何日間滞在したのか」
「どの時点で進路を変更したのか」
といった細かな判断過程までは分かっていません。

1845~1846年冬|Beechey Islandで越冬

Wellington Channelから戻ったErebusとTerrorは、
1845年から1846年にかけて
Beechey Island周辺で最初の冬を過ごしました。

Beechey IslandはDevon Island南西側に位置する。
フランクリン遠征隊は1845~1846年の最初の冬をこの周辺で過ごした。
Google Mapは現在の地理を示すものであり、当時の海氷状態や船の正確な停泊位置を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る

後の捜索では、
ここから遠征隊のキャンプ跡や
3人の隊員の墓が発見されました。

死亡したのは
John Torrington、
John Hartnell、
William Braineです。

つまり最初の冬の段階で、
すでに隊員の死亡は発生していました。

ただし、
3人の死だけを見て
「この時点ですでに遠征隊が崩壊していた」
と判断するのも早すぎます。

翌1846年、
遠征隊は再び2隻を動かして
さらに南へ進むことができています。

Victory Point Noteには越冬年の誤記がある

フランクリン遠征の一次資料を扱ううえで、
興味深い点があります。

1859年に発見されたVictory Point Noteには、
Beechey Islandで
「1846~1847年に越冬した」
という記述があります。

しかしこれは誤りです。

実際の越冬は
1845~1846年でした。

1859年に記録を公表したフランシス・マクリントック自身も、
この日付が誤記であることを指摘しています。

文書が1847年5月28日付であり、
その同じ記録の中に
すでに1846年9月から船が氷に閉じ込められていることが書かれているため、
1846~1847年にBeechey Islandで越冬したという記述とは両立しません。

一次資料でも間違うことがある

Victory Point Noteは、
フランクリン遠征を理解するための最重要一次資料です。

しかし、
一次資料だから内容のすべてが自動的に正しいわけではありません。

Beechey Islandの越冬年については明確な誤記が含まれているため、
他の時系列・考古学的証拠と照合する必要があります。

1846年夏|2隻は再び動き始めた

1846年、
海氷が航行できる状態になると、
ErebusとTerrorはBeechey Island周辺を離れます。

ここから2隻は
カナダ北極諸島をさらに南へ進みました。

後世の航路復元では、
遠征隊はPeel Soundを通って
King William Island方向へ進んだと考えられています。

ただし、
ここでも証拠の性格を区別する必要があります。

Victory Point Noteは
「Wellington Channelを北緯77度まで進んだ」
「Cornwallis Island西側を戻った」
「King William Island北西で氷に捕らえられた」
という両端の情報を残しています。

一方、
その間の航海日誌は現存していません。

そのためPeel Sound経由という航路は、
遠征隊の到達地点と地理条件から再構成されたものとして扱うのが安全です。

King William Islandへ近づく

現在の地図を見ると、
King William Islandは
カナダ北極諸島の南寄りにあります。

フランクリンたちは、
北西航路の東側からかなり深いところまで
船を進めていました。

King William Island周辺。ErebusとTerrorは1846年9月、
島の北西側の海域で海氷に捕らえられた。
正確な閉塞地点についてVictory Point Noteは北緯70度05分・西経98度23分を記録している。


記録された閉塞地点付近をGoogleマップで見る

遠征隊自身の記録によれば、
1847年5月時点で2隻は
北緯70度05分、西経98度23分
付近にいました。

ここが、
1846年秋以降の遠征を理解する中心地点になります。

1846年9月12日|船が海氷に捕らえられる

そして
1846年9月12日

ErebusとTerrorは
King William Island北西側の海域で
海氷に捕らえられました。

この日付は、
後世の推定ではありません。

1848年4月にクロージャーとフィッツジェームズが
Victory Point Noteへ追記した文章に、
2隻は
「1846年9月12日からbesetされていた」
と記されています。

この短い記述は、
フランクリン遠征の時系列を考えるうえで極めて重要です。

1845年5月の出航から、
約16か月。

遠征隊はここまで船を失わず、
King William Island近くまで到達していました。

そしてこの日から、
航海の性格が変わります。

「beset」とは何が起きた状態なのか

Victory Point Noteで使われた
besetという言葉は、
単に「周囲に氷があった」という意味ではありません。

船の周囲を海氷が取り囲み、
船自身の帆や補助動力では
自由に航行できない状態を指します。

木造船がその場で直ちに破壊される必要はありません。

船体が無傷でも、
周囲の海が連続した氷に変われば進めなくなります。

さらに海氷は完全に静止しているわけではありません。

風や海流によって氷全体が移動すると、
その中に閉じ込められた船も
氷と一緒に動くことがあります。

Royal Museums Greenwichは、
ErebusとTerrorが閉じ込められた後、
氷とともに南方向へ漂流したと説明しています。

船体強度では解決できない問題だった

第2回で見たように、
ErebusとTerrorは海氷を想定して
船体を補強されていました。

しかし、
氷に耐える能力と、氷の中を進む能力は別です。

2隻は現代の砕氷船のように、
船首で厚い海氷へ乗り上げ、
船体重量で氷を破壊しながら航行する船ではありません。

補助蒸気機関もありますが、
搭載できる石炭には限界があります。

さらに周囲を密な海氷に囲まれてしまえば、
プロペラを回す余地そのものが失われます。

頑丈な船体は
「すぐ潰されない」ためには役立ちます。

しかし、
海を開くことはできません。

1846年9月の時点では、まだ「異常事態」とは言い切れない

後の結末を知っていると、
1846年9月12日を
「破滅が決まった日」のように見てしまいます。

しかし当時の隊員たちが
同じ認識だったとは限りません。

極地航海では、
冬になる前に船を安全な氷の中へ置き、
そのまま越冬することがあります。

フランクリン遠征自身も、
前年はBeechey Islandで冬を越していました。

1846年秋に氷へ捕らえられた時点では、
翌1847年の夏に再び氷が開き、航海を続けられる
という期待を持つことは不自然ではありません。

船内にはまだ物資があり、
2隻も存在していました。

そして1847年5月に残された最初のVictory Point Noteには、
遠征隊の状態について
「All well」
と書かれています。

少なくとも記録上は、
1846年秋の閉塞直後に
遠征全体が完全な危機状態へ陥ったとは確認できません。

問題は「次の夏」に起きた

本当の意味で状況が深刻になるのは、
その後です。

通常期待するなら、
1847年夏に氷が緩み、
2隻は再び動き始めるはずでした。

しかし、
ErebusとTerrorは解放されませんでした。

1846年9月から始まった海氷閉塞は、
1847年を越えて続きます。

その間の
1847年6月11日
遠征隊指揮官ジョン・フランクリンが死亡しました。

そして最終的には、
1848年4月22日まで
2隻は放棄されませんでした。

つまり遠征隊は、
約1年7か月にわたって
同じ氷海から脱出できなかったことになります。

ここで、
一度の越冬は
長期閉塞へ変わりました。

1845年5月から1846年9月までを時系列で整理する

時期 場所 確認できる出来事 証拠の性格
1845年5月19日 Greenhithe 134人で英国を出航 当時資料・公的資料
1845年7月 Disko Bay周辺 補給。5人が遠征から離れ、129人となる 公的資料
1845年7月下旬 Baffin Bay 捕鯨船から最後に目撃される 当時の目撃記録
1845年 Wellington Channel 北緯77度まで北上 Victory Point Note
1845年 Cornwallis Island西側 西岸側を通って南へ戻る Victory Point Note
1845~1846年冬 Beechey Island 最初の越冬 記録+考古学的痕跡
1846年夏 Peel Sound方面 南下してKing William Island方面へ進む 航路の再構成
1846年9月12日 King William Island北西 ErebusとTerrorが海氷に閉じ込められる Victory Point Note

この時系列で「確定していない部分」はどこか

フランクリン遠征は、
航路がすべて1日単位で分かっている探検ではありません。

現在の時系列には、
証拠の濃淡があります。

たとえば
「1846年9月12日に氷に閉じ込められた」
という日付は、
遠征隊自身が残した記録から直接確認できます。

一方、
1846年夏にBeechey Islandから
King William Islandまで
どの日時に、どの速度で、
どの地点を通過したかは分かりません。

詳細な航海日誌が失われているからです。

同じように、
Wellington Channelを北上した判断理由も確認できません。

したがって、
現在描かれるフランクリン遠征の航路図は、
すべての航跡を直接記録したGPSログのようなものではない
ことを理解しておく必要があります。

1846年9月12日は「失踪の日」ではない

フランクリン遠征を紹介する際、
一つ注意したい表現があります。

129人が1845年に北極へ入り、
そのまま消えた。

この言い方は入口としては分かりやすい一方、
実際の時系列をかなり圧縮しています。

遠征隊は1845年夏に突然消滅したわけではありません。

1845~1846年にはBeechey Islandで越冬し、
1846年夏にはさらに南へ進み、
1847年5月にも生存者が記録を残しています。

そして1848年4月まで、
少なくとも105人が生存していたことが記録されています。

したがってフランクリン遠征とは、
一瞬で129人が消えた事件ではなく、数年間かけて外部との情報が途絶えたまま状況が悪化していった遠征
です。

本当の転換点は「1回目の冬」ではなく「2回目の夏」だった

Beechey Islandでの1845~1846年の越冬後、
2隻は再び航行できました。

この事実は重要です。

一度氷の中で冬を過ごしたからといって、
遠征が失敗したわけではありません。

しかし1846年9月に始まった2回目の閉塞では、
翌夏になっても氷が開きませんでした。

ここに、
最初の越冬との決定的な違いがあります。

1回目と2回目の越冬の違い

1845~1846年 1846~1847年
主な場所 Beechey Island King William Island北西
翌夏 再航行できた 再航行できなかった
結果 遠征継続 閉塞継続

フランクリン遠征の危機を理解するには、
「冬になったから動けなかった」のではなく、
翌夏になっても動けなかったことを見る必要がある。

まとめ|1846年9月、航海は「待つ遠征」へ変わった

1845年5月19日、
ErebusとTerrorは134人を乗せて英国を出航しました。

グリーンランドで5人が離脱し、
129人で北極圏へ進みます。

1845年7月下旬には
Baffin Bayで捕鯨船から最後に目撃されました。

そこからLancaster Soundへ入り、
Wellington Channelを北緯77度まで北上。
Cornwallis Islandの西側を戻り、
1845~1846年の冬をBeechey Island周辺で過ごしました。

1846年夏、
2隻は再び航海を開始します。

そしてKing William Island方向へ南下した末、
1846年9月12日
島の北西側で海氷に捕らえられました。

この時点では、
船はまだありました。

人員も大部分が残っていました。

物資も残っていました。

翌夏に氷が開けば、
遠征を再開できる可能性もありました。

しかし、
その夏は来ませんでした。

正確には、
夏は来ても
船が出られる海には戻らなかったのです。

次回は、
フランクリン遠征で最も重要な1枚の文書を読みます。

Victory Point Note。

1847年には「All well」と書かれていた紙に、
1848年には別の文章が追記されていました。

そこには、
フランクリンの死亡、
24人の死、
105人の生存者、
そしてErebusとTerrorを放棄したことが記されていました。


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今回出てきた言葉

Greenhithe
イングランド・ケント州のテムズ川沿いにある場所。
フランクリン遠征のErebusとTerrorは1845年5月19日にここから出航した。
Disko Bay
グリーンランド西岸の湾。
1845年7月、遠征隊はこの地域で最終的な補給を行い、
5人が遠征から外れたため、129人で北極圏へ進んだ。
Beechey Island
現在のカナダ・ヌナブト準州にある島。
フランクリン遠征隊は1845~1846年の最初の冬をこの地域で過ごした。
後の捜索でキャンプ跡や3人の墓が発見された。
King William Island
フランクリン遠征終盤の中心となった島。
ErebusとTerrorは1846年9月、島の北西側の海域で氷に閉じ込められた。
beset
船が密集した海氷に取り囲まれ、
自力で自由に航行できなくなった状態。
船が直ちに沈没・破壊されたことを意味する言葉ではない。
Victory Point Note
1859年にKing William Islandで発見された遠征隊自身の記録。
1846年9月12日からの氷海閉塞を含め、
フランクリン遠征終盤の時系列を知る最重要一次資料。

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集 全10回


  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検

  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊

  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート

  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで【現在の記事】

  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄

  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック

  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言

  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する

  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見

  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

出典・参考資料

本記事は、1845年5月の英国出航から1846年9月12日の氷海閉塞までを扱った。
遠征隊自身の航海日誌が現存していないため、
Victory Point Noteから直接確認できる地点・日付と、
後世に再構成された航路を区別して記述している。
また、Victory Point Note自体にもBeechey Islandの越冬年について誤記があるため、
一次資料であっても他資料・考古学的証拠との照合を前提としている。