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消えた129人を誰が探したのかフランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック

消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック

遭難・救助

1845年7月。

HMS ErebusとHMS Terrorは、
Baffin Bayで捕鯨船から目撃されたあと、
英国との連絡を絶ちました。

しかし、
すぐに大規模な救助隊が送り込まれたわけではありません。

フランクリン遠征には数年分の物資があり、
北極で越冬すること自体も計画の範囲内でした。

英国で本格的な懸念が強まるのは、
出航から2年が過ぎても
何の連絡も戻ってこなかった1847年以降です。

そして1848年、
英国海軍は捜索を本格化させました。

そこから始まったのは、
単なる「救助活動」ではありません。

1850年には最初の越冬地が見つかり、
1854年にはイヌイットから
南へ向かった白人集団についての情報が得られ、
1859年にはついに遠征隊自身が残した
Victory Point Noteが回収されます。


人を探す捜索は、
やがて遺物、証言、遺骨、文書から
失われた遠征を復元する調査へ変わっていきました。

この記事で分かること

  • 英国はいつフランクリン捜索を始めたのか
  • なぜ出航直後から救助隊を送らなかったのか
  • 1848年の最初期捜索では何が分かったのか
  • 1850年のBeechey Islandで何が発見されたのか
  • なぜBeechey Island発見だけでは遠征隊の行方が分からなかったのか
  • John Raeは1854年に何を聞き、何を持ち帰ったのか
  • なぜRaeの報告は英国社会で強い反発を受けたのか
  • Lady Franklinはなぜ独自に捜索を続けたのか
  • Francis McClintockとWilliam Hobsonは1859年に何を発見したのか
  • 捜索によってフランクリン遠征の最期がどこまで分かったのか

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)

  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート
  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄

  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック【現在の記事】
  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

先に結論|フランクリン捜索は「一度の救助作戦」ではない

フランクリン遠征の捜索というと、
行方不明になった129人を探すため、
英国海軍が北極へ救助隊を送り込んだ出来事のように見えます。

しかし実際には、
数十年間にわたる複数の遠征の集合でした。

しかも、
捜索の目的は時間とともに変わっていきます。

段階 主な目的 代表的成果
1848年ごろ 生存者・船を救助する 北極各方面から捜索開始
1850年 遠征隊の航跡を探す Beechey Islandの越冬跡
1854年 最期の行動を知る John RaeがInuit証言と遺物を入手
1859年 記録・遺物を回収する Victory Point Note発見
その後 残る記録・船体を探す 長期探索・考古学へ移行

最初は
「まだどこかで生きている129人」を探していました。

やがて
「何が起きたのか」を探す捜索に変わっていきます。

1847年|英国でようやく不安が強まる

1845年に遠征隊から連絡がなくなっても、
すぐには異常と判断されませんでした。

理由は単純です。

北極探検では越冬が想定されており、
ErebusとTerrorには長期間の物資も積まれていました。

1847年2月、
極地探検経験を持つ
James Clark Rossは、
フランクリン隊を捜索する必要があると海軍本部へ提案しました。

しかし当初は、
「まだ物資があるはずであり、
連絡がないだけで救助が必要とは限らない」
という見方もありました。

その後も何の情報も届かなかったため、
英国政府は捜索を開始します。

1848年|最初期の本格捜索

1848年、
James Clark Rossは
HMS EnterpriseとHMS Investigatorによる捜索遠征を率いました。

後に重要な捜索者となる
Francis Leopold McClintockも、
この遠征に参加しています。

Rossらは
Somerset Island北岸周辺まで進みましたが、
船は海氷に阻まれました。

陸上捜索も行われましたが、
フランクリン隊の確実な痕跡は発見できませんでした。

ここには後世から見ると皮肉があります。

Rossらが捜索していた地点から
300kmも離れていない南側では、
その数か月前の1848年4月、
フランクリン隊の105人が
船を放棄していたからです。

捜索隊と遠征隊は、
同じ巨大な北極圏の中で
わずかな距離の差によってすれ違いました。

1850年|最初の確実な痕跡が見つかる

大きな転換が起きたのは
1850年です。

この年には英国海軍だけでなく、
複数の捜索遠征が同時に北極へ入りました。

Horatio Austin率いる英国海軍遠征、
William Pennyの遠征、
John Rossの捜索、
さらに米国のGrinnell Expeditionなど、
多数の船がLancaster Sound周辺へ集まりました。

そしてCape RileyとBeechey Island周辺で、
ついにフランクリン遠征の痕跡が見つかります。

Beechey Island|「ここで冬を越した」ことが分かった

Beechey Islandでは、
キャンプ跡や物品、
そして3人の隊員の墓が発見されました。

墓に刻まれていたのは、
John Torrington、John Hartnell、William Braine
の名前です。

Royal Museums Greenwichに残る
HMS Resoluteの航海記録では、
この3人の墓が
1850年8月27日に確認されたことが記録されています。

1850年、捜索隊はBeechey Island周辺でフランクリン遠征隊の越冬跡と3人の墓を確認した。
ここから1845~1846年に遠征隊がこの地域で最初の冬を越したことが判明した。


第4回でBeechey Islandまでの航路を見る

これで初めて、
1845年7月の最終目撃後、
遠征隊がどこへ行ったのかについて
確実な地点が一つつながりました。

しかし「その後どちらへ向かったのか」が分からない

Beechey Island発見には、
大きな欠落がありました。

遠征隊が次にどこへ向かったのかを示す文書が見つからなかった
のです。

現在の私たちはVictory Point Noteによって、
Wellington Channelから戻り、
その後King William Island方面へ南下したことを知っています。

しかし1850年の捜索隊には、
その情報がありませんでした。

Beechey Islandには
「次は南へ行く」
という明確なメッセージが残されていませんでした。

したがって捜索隊は、
広大な北極諸島のどこを次に探すべきか
再び推測しなければなりませんでした。

1850年に分かったこと/分からなかったこと

分かった:
フランクリン隊は1845~1846年にBeechey Islandで越冬していた。

分からない:
その後、2隻が北、西、南のどちらへ進んだのか。

最初の重要な発見は、
同時に「次の手掛かりがない」ことも明らかにした

John Rae|英国海軍とは違う方法で北極を移動した男

フランクリン捜索史で、
その後最も重要な人物の一人となるのが
John Raeです。

Raeは英国海軍士官ではありません。

スコットランドのOrkney出身の医師で、
Hudson’s Bay Companyに勤務しながら
カナダ北部を探検していました。

北極で長距離を移動する際、
Raeは大型の英国海軍遠征とは異なる方法を採りました。

雪上移動、
狩猟、
現地での食料確保など、
北極圏に暮らす先住民から学んだ技術を積極的に利用しました。

大量の人員と物資を人力ソリで運ぶ海軍式の捜索とは、
運用思想そのものが異なっていました。

1854年|RaeがInuitから聞いた話

1854年、
RaeはBoothia Peninsula周辺を調査していました。

そこでInuitから、
フランクリン遠征と考えられる白人集団についての情報を得ます。

Parks Canadaによれば、
彼らが語ったのは、
数年前に
約40人の白人がKing William Island西岸を南へ向かっていた
という目撃情報でした。

彼らは衰弱し、
食料不足に陥っているように見えたと伝えられました。

さらに南では、
多数の遺体が発見されたという証言もありました。

これは、
英国側がそれまで持っていた
「船がどこか北極海に残っている」
という捜索像を大きく変える情報でした。

Raeは「話を聞いただけ」ではなかった

重要なのは、
Raeが口頭証言だけを英国へ持ち帰ったわけではないことです。

Inuitから入手した品の中には、
フランクリン遠征の士官に結び付けられる
銀食器などが含まれていました。

Parks Canadaは、
銀皿、
士官のイニシャルが刻まれたカトラリー、
そしてフランクリンが叙勲時に受けた
Royal Hanoverian Orderのメダルなどを挙げています。

つまりRaeの報告には、
証言と物証の両方がありました。

Raeが持ち帰った、もう一つの重大な報告

Raeが英国へ伝えた内容には、
Victorian社会にとって受け入れ難いものも含まれていました。

Inuitの証言では、
遠征隊の最終段階で
人肉食が行われた可能性が語られていました。

Raeはこの情報も隠さず、
英国海軍本部へ報告しました。

これに対し、
フランクリンの妻Jane Franklinは強く反発します。

作家Charles Dickensも、
英国海軍士官がそのような行動を取るはずがないとして
Inuit証言の信用性を攻撃しました。

この論争は、
単純な「Rae対Lady Franklin」という人物対立だけではありません。

19世紀英国社会が、
誰の証言を信用できる知識として扱ったのか
という問題でもあります。

この点は次回、
イヌイット証言そのものを中心に詳しく扱います。

1854年|英国海軍は遠征隊の死亡を事実上認定する

Raeの報告がもたらした意味は大きいものでした。

捜索開始時には、
目的は「Franklinと129人を救出すること」でした。

しかし1854年までには、
英国海軍本部は
遠征隊全員が死亡したものと判断します。

ここで捜索の性質は変わりました。

生存者を見つける救助から、
死に至った経緯を確かめる探索へ。

Lady Franklinは捜索を終わらせなかった

英国政府が遠征隊の死亡を認定しても、
Jane Franklinは捜索を終わらせませんでした。

彼女は政府や社会へ働きかけ、
複数の捜索活動を支援しました。

その最終的な大型プロジェクトのひとつが、
蒸気ヨット
Fox
による遠征です。

指揮官として選ばれたのが、
Francis Leopold McClintockでした。

Francis McClintock|すでに何度もFranklinを探していた

McClintockは、
1857年になって突然Franklin捜索へ参加した人物ではありません。

1848年のJames Clark Ross遠征にも参加し、
1850年のAustin遠征、
さらに1852~1854年のBelcher遠征でも
北極捜索に加わっていました。

特に、
人力で大型ソリを長距離移動させる
英国海軍式の極地捜索に豊富な経験を持っていました。

1857年7月、
McClintockはFoxで英国を出航します。

Foxの乗員は約25人。

大規模な海軍艦隊ではなく、
比較的小さな私設遠征でした。

Fox自身も北極の氷に閉じ込められた

皮肉なことに、
Franklinを探すFoxも
Baffin Bayで海氷に閉じ込められました。

そのためLancaster Soundへ本格的に進めたのは、
翌1858年です。

その後Bellot Straitへ進み、
1858~1859年の冬を越しました。

ここからMcClintockたちは、
犬ぞりや人力ソリを使って
King William Island周辺を調査します。

1859年|McClintockとHobsonがKing William Islandへ

1859年春、
McClintockと副官
William Robert Hobson
King William Islandへ向かいました。

途中で二つの隊に分かれます。

McClintockは島の東側方面。

Hobsonは西岸を調査しました。

ここから、
フランクリン遠征の最終段階を示す証拠が
次々と見つかります。

銀食器、木材、衣類、書籍、遺骨

McClintockらはInuitから
遠征隊由来と考えられる銀食器や木製品を入手しました。

さらにKing William Island周辺では、
遠征隊のものとみられる
衣類、書籍、装備、墓、人骨などが発見されます。

これらは、
Raeが1854年に報告した
「白人の集団がKing William Islandから南へ向かった」
という証言と矛盾するものではありませんでした。

船を載せた巨大なソリ

McClintockが確認した遺物の中でも、
特に知られているものがあります。

大型のソリに載せられた船です。

船内や周辺には、
さまざまな装備や個人用品が残されていました。

この発見は、
船を放棄した隊員たちが、
小艇を陸上移動させようとしていたことを示します。

ただし、
その小艇を誰が、
いつ、
どの方向へ運んでいたのかについては、
遺物だけから完全には確定できません。

そしてHobsonがVictory Pointへ到達する

McClintockが島の別方向を調べている間、
Hobson隊はKing William Island西岸を進みました。

そこで、
石を積み上げたケアンを発見します。

周囲からは、
科学観測器具、
薬箱、
大工道具など
遠征隊の物品も確認されました。

そして
1859年5月7日
Victory Pointで
金属製ケースに入れられた
1枚の記録が発見されました。

それが、
前回扱った
Victory Point Noteです。

捜索開始から11年|ようやく遠征隊自身の言葉が戻った

1848年に本格捜索が始まってから、
約11年。

Beechey Islandの墓は
「1845~1846年にここまで来た」
ことを示しました。

Raeの情報は
「King William Islandから南へ向かった」
ことを示しました。

そしてVictory Point Noteによって初めて、
次の出来事が一本につながりました。

  • 1845~1846年のBeechey Island越冬
  • Wellington Channelへの航海
  • 1846年9月からの氷海閉塞
  • 1847年6月11日のFranklin死亡
  • 1848年4月までに24人死亡
  • 105人の生存
  • ErebusとTerrorの放棄
  • Back’s Fish Riverへの南下計画

ようやく、
「何も分からない失踪」ではなくなりました。

証拠が増えるたび、捜索範囲は南へ動いた

捜索史を地図として見ると、
もう一つ特徴があります。

最初の捜索は
Lancaster SoundやSomerset Islandなど、
北側の海路を中心に進められました。

1850年にBeechey Islandが見つかったことで、
最初の越冬地は確定します。

しかし1854年のRaeの証言で、
注目は一気に
King William IslandとBack River方向へ移ります。

1859年のMcClintock遠征は、
まさにその地域から
決定的な証拠を回収しました。

つまり捜索隊は、
最初から正解の場所を知っていたわけではありません。


一つの発見によって次の捜索範囲を絞り込み、
また次の証拠を探す。

現代の事故・失踪調査と同じような
証拠の連鎖が形成されていきました。

Franklin捜索そのものが北極地図を更新した

この大規模捜索には、
もう一つ歴史的な結果があります。

数十の捜索隊がカナダ北極圏へ入り、
船とソリで広範囲を調査したことで、
Franklinを見つける過程そのものが
北極諸島の地理調査になりました。

海岸線、
海峡、
島々の位置が調べられ、
Northwest Passageの理解も進みます。

つまり、
フランクリン遠征が達成できなかった
北極地理の解明が、
彼らを探す遠征によって逆説的に進んだ
ことになります。

1859年ですべて解決したわけではない

Victory Point Noteの発見は決定的でした。

しかし、
それでも大きな疑問が残りました。

105人が1848年4月に船を離れたあと、
実際にどのルートを移動したのか。

何人がどこまで生きていたのか。

なぜ各地に遺物が分散していたのか。

ErebusとTerrorがその後どうなったのか。

人肉食に関するInuit証言は
どこまで物証と一致するのか。

船へ戻った集団は存在したのか。

そして、
遠征隊の航海日誌はどこにあるのか。

これらは1859年には解決しませんでした。

その後も捜索は続いた

Franklinをめぐる探索は、
McClintockで終わりません。

Charles Francis Hallは、
1860年代にInuitから大量の証言を収集しました。

1879~1880年には
Frederick Schwatkaらが
King William Island周辺を長距離移動し、
さらなる遺物と証言を収集しています。

Parks Canadaによれば、
Schwatkaの遠征は
約5,232kmをソリで移動した
当時として記録的な長距離行でした。

それでも、
ErebusとTerrorの船体は見つかりませんでした。

捜索で最も重要だったものは「遺物」だけではなかった

Franklin捜索史を並べると、
英国海軍の大型船、
陸上ソリ遠征、
高度な航海技術が目立ちます。

しかし、
最終的に重要な方向性を示した情報の多くは
その地域に住んでいたInuitの証言
でした。

Raeが1854年に得た
南へ向かう白人集団の情報。

McClintockが1859年に聞いた
船や遺物についての情報。

後にHallやSchwatkaが収集した証言。

そして21世紀になって
ErebusとTerrorの探索範囲を設定するときにも、
Inuit oral historyは再び使われます。

19世紀に十分重視されなかった情報が、
170年後の船体発見でも役割を果たしました。

捜索史を時系列で整理する

人物・遠征 主な成果
1847 James Clark Ross 海軍本部へ捜索の必要性を提案
1848~1849 James Clark Rossら 初期の本格捜索。Franklinの確実な痕跡は得られず
1850 Austin、Pennyら複数隊 Beechey Island周辺で越冬跡と3人の墓を確認
1854 John Rae Inuit証言とFranklin隊由来の遺物を入手
1857 Francis McClintock Foxで私設捜索遠征を開始
1859 McClintock / Hobson King William Islandで遺骨・遺物・Victory Point Noteを発見
1860年代 Charles Francis Hall 多数のInuit証言を記録
1879~1880 Frederick Schwatka King William Island周辺で証言・遺物を追加収集

まとめ|129人を見つけることはできなかった。それでも遠征の輪郭は戻った

Franklin捜索は、
救助作戦として見れば成功しませんでした。

捜索隊が生存者を発見することはなく、
129人の誰一人として英国へ帰還しませんでした。

しかし、
捜索が無意味だったわけではありません。

1850年、
Beechey Islandで最初の越冬地が確認されました。

1854年、
John RaeがInuitから
King William Island西岸を南下する白人集団についての情報を得ました。

1859年、
McClintockとHobsonの遠征によって
遺骨、遺物、
そしてVictory Point Noteが発見されました。

その結果、
1845年から1848年までの遠征の骨格は
ようやくつながります。

ただし、
その過程にはもう一つ重要な問題がありました。

Raeが持ち帰った情報も、
McClintockや後の探検家が利用した情報も、
かなりの部分が
Inuitが見たもの、聞いたもの、受け継いだ記憶
に依存していました。

では、
彼らは実際に何を見ていたのでしょうか。

次回は捜索者ではなく、
King William Island周辺に暮らしていた人々の側から
フランクリン遠征を見ます。


なぜ19世紀英国では疑われた証言が、
現代の考古学では重要な資料になっているのか。

第7回では、
フランクリン遠征を解明するもう一つの一次情報、
イヌイットの口承記録を検証します。


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今回出てきた言葉

Franklin Search
1840年代後半以降、Franklin遠征隊を探して行われた一連の捜索。
単一の遠征ではなく、英国海軍、民間、米国など多数の隊が数十年間にわたり北極圏を調査した。
John Rae
Hudson’s Bay Companyで活動した医師・探検家。
1854年、InuitからFranklin隊の最終段階に関する重要な証言と遺物を得て英国へ報告した。
Francis Leopold McClintock
英国海軍士官・極地探検家。
複数のFranklin捜索に参加し、1857~1859年にはLady Franklinの支援を受けたFox遠征を指揮した。
William Robert Hobson
McClintockのFox遠征に参加した海軍士官。
1859年、King William IslandのVictory PointでFranklin隊の記録を発見した。
Lady Jane Franklin
John Franklinの妻。
政府の捜索縮小後も遠征継続を強く求め、複数の私設捜索を支援した。
Beechey Island
1850年にFranklin遠征隊の最初の越冬跡と3人の墓が確認された場所。
最終目撃後の遠征隊の行動を示した最初の重要地点となった。

CASE FILE 20|フランクリン遠征特集 全10回

  1. 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
  2. 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
  3. 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート
  4. 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
  5. 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
  6. 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック【現在の記事】
  7. 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言
  8. 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
  9. 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
  10. 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査

出典・参考資料

  • Parks Canada — Searching for Franklin

    Franklin失踪後の捜索全体、
    John Raeが1854年に得たInuit証言と遺物、
    McClintock・HobsonによるKing William Island調査、
    Victory Point Note発見の確認に使用。
  • Parks Canada — Who’s who in the Franklin expedition / Francis Leopold McClintock

    McClintockの1848年からの捜索歴、
    Fox遠征、
    1859年のKing William Island調査、
    遺骨・衣類・書籍・船を載せたソリ等の発見確認に使用。
  • Parks Canada — Inuit traditional knowledge

    1850年のBeechey Island発見後も進路が分からなかったこと、
    1854年にRaeがInuitから約40人の白人集団について聞いたこと、
    後の船体探索にも口承情報が利用されたことの確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — Journal kept on board HMS Resolute during the search for the Franklin expedition

    1850~1851年のAustin遠征、
    同時期の複数捜索隊、
    Beechey IslandにおけるTorrington・Hartnell・Braineの墓の確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — Relics from Sir John Franklin’s last expedition

    約30年にわたる捜索史、
    1850年のBeechey Island、
    John Rae、
    McClintock、
    後続するSchwatkaらの探索の整理に使用。
  • Francis Leopold McClintock — Voyage of the Fox

    1859年のKing William Island探索、
    HobsonによるVictory Point Note発見、
    遺骨・遺物の現場記録確認に使用。
  • William R. Hobson — Report of the 1859 sledge journey

    Victory Point周辺のケアン、
    科学器具、薬箱、個人用品などの発見状況と、
    Franklin Expedition Record回収過程の確認に使用。

本記事ではFranklin捜索を一つの遠征として扱わず、
1848年以降に行われた複数の政府・民間捜索を時系列で整理した。
特に1854年のJohn Raeによる報告については、
Inuit証言そのものと、それに対するVictorian英国社会の評価を分離して記述した。
人肉食の物証的検証は本記事では結論を出さず、第8回の遺骨・科学研究で扱う。
また1859年のVictory Point Note発見日は、現存資料の整理に基づき1859年5月7日としている。