1854年、
探検家ジョン・レイはカナダ北極圏で
イヌイットから奇妙な話を聞きました。
数年前、
キングウィリアム島の西岸で
約40人の白人が南へ歩いていた。
男たちは船を失ったらしく、
ソリに小艇を載せて引いていました。
彼らは衰弱し、
食料も不足しているように見えたといいます。
さらに南では、
後に多数の遺体が見つかった。
そして、
遠征隊の最終段階について
英国社会には到底受け入れがたい内容も語られました。
生き残るため、人肉食が行われたという証言です。
当時の英国では、
この話は激しい反発を受けました。
しかし170年近くが過ぎる間に、
人骨の分析、
遺物の位置、
そしてHMS ErebusとHMS Terrorの発見によって、
かつて疑われたイヌイットの証言の一部が
考古学的な証拠と結び付くようになります。
第7回では、
「イヌイットが正しかった」と一言で片付けるのではなく、
誰が、いつ、誰から何を聞き、それが後世の物証とどこまで一致したのか
を整理します。
この記事で分かること
- なぜイヌイットはフランクリン遠征の重要な目撃者なのか
- John Raeが1854年に聞いた「約40人」の証言とは何か
- William UligpakはRaeの調査でどんな役割を果たしたのか
- 英国社会はなぜイヌイット証言を信用しなかったのか
- Charles DickensはなぜRaeの報告を批判したのか
- Charles Francis Hallは1860年代に何を聞き取ったのか
- TaqulittuqとIpiivikはどのように調査を支えたのか
- Inukpujijuqが示した沈没船の位置とはどこだったのか
- 19世紀の口承が2014年のErebus発見とどうつながったのか
- 「口承記録」を扱う際に何を確定事実とし、何を留保すべきなのか
CASE FILE 20|フランクリン遠征特集(全10回)
- 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
- 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
- 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート
- 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
- 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
- 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
-
第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言【現在の記事】
- 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
- 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
- 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査
先に結論|「誰にも見られず消えた遠征」ではなかった
フランクリン遠征は、
しばしば
「129人が北極圏で跡形もなく消えた」
と表現されます。
英国との通信という意味では、
確かに1845年7月以降、
遠征隊は外部との連絡を失いました。
しかし、
その後の彼らを誰も見ていなかったわけではありません。
King William Island、
Boothia Peninsula、
Adelaide Peninsula周辺には、
フランクリン遠征以前から
イヌイットの人々が暮らしていました。
彼らは、
北極海を移動する2隻の船、
南へ歩く白人たち、
捨てられた装備、
遺体、
そして最終的に海岸近くへ流れ着いた船について
記憶を残しました。
問題は、
19世紀の英国側が
その情報をどう扱ったかです。
まず区別したい|「目撃証言」と「口承記録」は同じではない
イヌイット証言という言葉で
すべてを一括りにすると、
資料の性格が分からなくなります。
少なくとも次のように分ける必要があります。
| 種類 | 意味 |
|---|---|
| 直接目撃 | 本人がFranklin隊員・船・遺物などを実際に見た記憶 |
| 同時代の伝聞 | 家族や別地域のInuitから短期間のうちに伝え聞いた情報 |
| 世代間口承 | 出来事を経験した世代から後世へ伝えられた記憶 |
| Traditional knowledge | 地名、海氷、航路、土地利用、歴史的記憶などを含むより広い知識体系 |
そして現在Parks Canadaが使用している
Inuit Qaujimajatuqangitという言葉も、
単純に「昔話」や「口伝」を意味するものではありません。
地域について蓄積された知識、
経験、
価値観、
土地や海との関係を含む
より広い知識体系です。
したがって本記事でも、
「イヌイット証言=すべて同じ強さの一次証言」
とは扱いません。
1854年|John RaeがPelly Bay周辺で情報を得る
フランクリン遠征の最期に関する
イヌイット情報を英国社会へ初めて大きく伝えたのが、
John Raeでした。
RaeはHudson’s Bay Companyで活動した
医師・探検家です。
1854年、
Boothia Peninsula周辺を調査していたRaeは、
Pelly BayやRepulse Bay周辺のInuitから
失われた英国人について話を聞きました。
Parks Canadaによれば、
その内容の一つは
1848年ごろ、約40人の白人がKing William Island西岸を南へ進んでいた
というものでした。
彼らは船が氷に閉じ込められた後、
徒歩で南へ移動していたらしい。
そして、
衰弱し、
食料が不足しているように見えたと伝えられました。
「約40人」という数字は105人と矛盾するのか
Victory Point Noteによれば、
1848年4月に船を放棄した時点の人数は
105人です。
一方、
Raeが聞いた目撃証言では
「約40人」でした。
数字だけを見ると、
矛盾しているように見えます。
しかし、
この二つが同じ日時・同じ地点の人数を示しているとは限りません。
105人が船を離れてから、
目撃地点へ到達するまでの間に
死亡者が増えた可能性。
集団が複数に分かれていた可能性。
目撃者が全員を確認できなかった可能性。
あるいは、
伝聞の過程で人数が概数になった可能性もあります。
したがって、
「105人だったはずだから40人という証言は誤り」と単純には判断できません。
逆に、
40人という数字から
「この時点までに65人が死亡していた」
と確定することもできません。
さらに南で「約30人の遺体」が見つかったという情報
Raeが記録した話には、
さらに先の出来事もありました。
その白人集団が目撃された場所より南、
Back River河口に近い本土沿岸で、
後に
およそ30人の遺体が発見された
という情報です。
これは、
Victory Point Noteに書かれた
「Back’s Fish Riverへ向かう」
という計画と方向的には一致します。
ただし、
Rae自身がその30人の遺体を直接確認したわけではありません。
ここは
RaeがInuitから聞き取った報告
として扱う必要があります。
FACT CHECK|Rae自身がFranklin隊員を目撃したのか
いいえ。
Raeが1854年に得た主要情報は、
現地のInuitから聞き取った証言です。
一方でRaeは、
Franklin隊に由来する銀食器などの品をInuitから入手しています。
したがってRaeの報告は、
証言だけではなく、遠征隊に結び付けられる物品も伴っていた
点が重要です。
William Uligpak|Raeと情報提供者をつないだ人物
RaeがInuit社会から情報を得るうえで、
重要な役割を果たした人物の一人が
William Uligpakです。
資料では
William Ouligbuck Jr.、
Mar-koなどの名でも記録されています。
UligpakはInuitの狩猟者で、
Raeの通訳・ガイドとして活動しました。
Parks Canadaによれば、
1854年にPelly Bay地域の人々と交わした彼の会話が、
ErebusとTerrorの乗員に何が起きたかを知る
最初の重要証拠につながりました。
つまり、
「Raeという英国人探検家が情報を発見した」
だけではありません。
誰と話すべきかを知り、
言語をつなぎ、
情報をRaeへ伝えたInuit側の人物がいた
からこそ成立した調査でした。
Raeが持ち帰った銀食器は何を意味したのか
Raeは聞き取りだけでなく、
InuitがFranklin隊から入手していた物品も収集しました。
その中には、
銀の皿、
士官のイニシャルが入ったカトラリー、
そしてFranklinが授与された
Royal Hanoverian Orderのメダルなどが含まれていました。
これは重要な違いです。
「正体不明の白人を見た」
という話だけなら、
別の探検隊だった可能性も残ります。
しかし、
Franklin遠征の士官に結び付く品が
同じ情報とともに現れました。
少なくとも、
イヌイットがFranklin隊員または
その遺物と接触していたことを示す
強い根拠になりました。
そして、人肉食についての証言
Raeが英国へ報告した中で
最も大きな論争になったのが、
遠征隊最終段階における
人肉食についての証言でした。
極度に飢えた隊員が、
死亡した仲間の遺体を利用したという内容です。
Victorian英国にとって、
これは単なる遭難情報ではありませんでした。
英国海軍士官の名誉、
文明観、
帝国の自己像そのものに触れる問題でした。
Lady FranklinはRaeの報告を受け入れなかった
John Franklinの妻
Jane Franklinは、
Raeの報告に強く反発しました。
彼女は、
Raeが証言を十分に現地確認せず帰国したこと、
そして政府の報奨金を受け取るため急いだのではないかと批判しました。
さらに著名作家
Charles Dickensも論争へ加わります。
Dickensは自身の雑誌
Household Wordsで、
英国海軍の士官たちが人肉食を行ったという報告を疑い、
イヌイット側の証言の信頼性を攻撃しました。
現代から見ると、
その論考には当時の植民地主義的な価値観や
人種的偏見が明確に反映されています。
Raeはその後、
自分の情報提供者と
イヌイットの証言を擁護する反論を掲載しました。
当時「証言が疑われた」ことと「すべて正しかった」は別
ここで逆方向の単純化も避ける必要があります。
19世紀英国の偏見によって
イヌイット証言が不当に軽視されたことは、
現在の公的資料でも明確に扱われています。
しかし、
だからといって
19世紀に記録されたすべての発言を
細部まで確定事実として扱えるわけではありません。
口承記録には、
聞き手、
通訳、
記録者、
翻訳、
時間経過という複数の段階があります。
人数、
距離、
時期、
船の方角などは、
証言者や記録によって違いが出ることがあります。
必要なのは、
証言を排除することでも、無批判に全部採用することでもありません。
異なる証言同士、
遠征隊自身の記録、
考古学、
地理、
遺物、
船体位置と照合することです。
1859年|McClintockもInuitから船の情報を得る
John Raeだけが
Inuit情報を利用したわけではありません。
1859年のFrancis McClintock遠征でも、
King William Island周辺で
Inuitとの接触がありました。
McClintockは、
Franklin隊のものと考えられる
銀食器や木製品を入手しました。
また、
一方の船がKing William Island西岸側で失われ、
もう一方の船が
Ugjulik(Ook-joo-lik)
と呼ばれる地域で失われたという情報も聞き取っています。
当時、
その情報から船を発見することはできませんでした。
しかし
「Ugjulikに船があった」
という話は、
その後150年以上にわたって
Franklin研究者が追う重要な手掛かりになります。
1860年代|Charles Francis Hallは証言を集め続けた
次に重要なのが
アメリカ人
Charles Francis Hallです。
Hallは、
Franklin遠征の生存者が
Inuitの中で生きているのではないかと考えていました。
1860年から1871年にかけて
北極圏で長期間生活し、
多くのInuitから
英国人と船について聞き取りを行いました。
その調査を支えたのが、
Taqulittuqと
Ipiivikです。
英語資料では
HannahとJoeという名でも登場します。
2人は単なる同行者ではなく、
Hallの通訳、
ガイド、
そしてInuit社会とHallをつなぐ存在でした。
Inukpujijuqが描いた地図
Hallが集めた情報の中で、
21世紀の捜索へ直接つながったものがあります。
1869年、
地域のInukである
Inukpujijuqは、
幼少時に船を訪れた記憶について語りました。
そして
King William Islandより南、
Adelaide Peninsula西岸側の
Ugjulik地域にある船の位置を示しました。
Hallが使っていた海図上で場所を指し、
さらに自分でも地図を描いています。
Parks Canadaによれば、
その位置は
O’Reilly Islandの北東付近
として伝えられました。
ここで語られた内容は、
極めて具体的です。
船はある春、
氷の中に浮いた状態で発見された。
乗組員が船を離れた痕跡があった。
その後Inuitが船へ入り、
内部から多くの物品を回収した。
さらに、
船内には一人の乗組員の遺体が残っていたという証言も記録されています。
この証言は2014年に突然重要になったわけではない
「Inuitの話を信じたらErebusが見つかった」
という説明だけでは、
170年間の過程が抜け落ちます。
Hallの記録は19世紀から残され、
1870年代のSchwatka、
20世紀後半の研究者、
David Woodmanらによって繰り返し検討されてきました。
Woodmanは1992年に
Unravelling the Franklin Mystery: Inuit Testimony
を出版し、
19世紀に残された証言を体系的に再検討しました。
その後も、
Inuitが語ったUgjulik wreckの候補地を探す調査は続きました。
Louie Kamookak|現代の探索へ知識をつないだ
現代のFranklin船体探索で
重要な役割を果たした人物の一人が、
Gjoa Havenの
Louie Kamookakです。
Kamookakは
地域の長老たちから、
Franklin遠征、
地名、
船の位置に関する知識を収集していました。
1990年代以降、
Parks CanadaはKamookakらと協力し、
歴史資料と地域の伝統知識を
現代の捜索範囲へ反映していきます。
これは、
「昔の伝説をソナーで確認する」という単純な関係ではありません。
地域固有の地名が
19世紀の英語表記でどこを意味したのか。
昔の海岸線や海氷環境の中で、
証言された位置が現在のどこに相当するのか。
複数の口承と文書を
地理情報へ変換する作業が必要でした。
2008年|Parks Canadaは南側の捜索区域も設定した
2008年、
Parks CanadaのUnderwater Archaeology Teamは
Franklin船体を探す新たな本格調査を開始しました。
捜索区域は大きく二つに分けられました。
一つは、
Victory Point Noteに記録された
船の放棄地点に近い北側。
もう一つは、
Inuitが船を見たと伝えていた南側です。
現代的な側面走査ソナーを使うとしても、
北極海のすべてを無差別に探すことはできません。
夏の短い無氷期間に、
どこを重点的に調べるかを決める必要があります。
ここで19世紀から受け継がれた情報が、
現代の探索設計に使われました。
2014年|Erebusが証言された地域から見つかる
そして2014年9月2日。
Parks Canadaの調査チームは
海底に沈む船体をソナーで確認しました。
後に
HMS Erebus
と特定されます。
発見地点は、
King William Islandの南、
O’Reilly Island北東側。
Parks Canadaは、
InukpujijuqがHallへ示していた沈没位置に近い地域
だったことを明記しています。
約145年前に記録された証言と、
21世紀の水中考古学が
ここで接続しました。
FACT CHECK|「Inuit証言だけでErebusが見つかった」のか
それも単純化です。
Erebus発見には、
19世紀以来のInuit oral history、
現代のInuit knowledge、
歴史文書、
陸上考古学、
測量、
側面走査ソナー、
長期間の海底探索が組み合わされています。
Parks Canada自身も、
traditional knowledgeと現代の考古学技術・科学的捜索を組み合わせた成果
として説明しています。
2016年|Terrorも「知られていなかった場所」で見つかる
その2年後、
HMS Terrorも発見されました。
場所はKing William Island南西側の
Terror Bay。
Victory Point Noteに記録された
1848年の船体放棄地点とは異なる場所です。
この発見によって、
船を放棄した後に
少なくとも船体が当初の閉塞地点から移動していたことが明確になります。
ただし、
それが海氷による漂流だけなのか、
一部の隊員が船へ戻って再航行したのかなど、
詳細は現在も完全には確定していません。
では、イヌイット証言は「証明された」のか
答えは、
証言ごとに違います。
| 証言・情報 | 後世の確認状況 |
|---|---|
| Franklin隊がKing William Island西岸から南へ移動した | Victory Point Note、遺骨・遺物分布と大筋で整合 |
| 遠征隊由来の品がInuitの手元にあった | 銀食器・メダル等を実際に回収 |
| 船がKing William Islandより南に存在した | Erebusが2014年に南側で発見 |
| Ugjulik周辺に沈没船があった | Erebus発見地点と高い地理的整合 |
| 遠征終盤に人肉食があった | 後世の人骨分析で切断痕等が確認され、証言を支持する物証が存在 |
| 証言中の人数・日時・細かな経路 | すべてが独立確認されているわけではない |
つまり、
証言全体を丸ごと「真実」「誤り」の二択で判定すること自体が適切ではありません。
個別の内容ごとに、
独立した証拠との一致を見ていく必要があります。
人肉食証言は後世の人骨研究によって支持された
Raeが報告した人肉食の話は、
19世紀英国で最も激しく否定された部分でした。
しかし20世紀後半、
King William Island周辺で回収された人骨の一部から、
人為的な切断痕が確認されました。
さらに後の研究では、
長骨が破壊され、
骨髄まで利用された可能性を示す痕跡も検討されています。
2016年にInternational Journal of Osteoarchaeologyに掲載された研究は、
これらの骨加工痕について、
遠征最終段階の人肉食を示す可能性があり、
19世紀のInuit証言の信頼性をさらに支持するとしています。
ただし、
どの人物が、
いつ、
どの状況で行ったのかまでは分かりません。
この物証の詳細は、
次回の第8回で扱います。
証言を軽視したことで、捜索は遠回りしたのか
結果だけを見ると、
そう考えたくなります。
19世紀には、
Inuitから
「船が南側にあった」
という具体的な情報が複数記録されていました。
にもかかわらず、
長期間にわたり探索の重点は
必ずしもその情報と一致していませんでした。
ただし、
これも
「英国人がInuitを信じなかったから150年間見つからなかった」
だけで説明するのは単純すぎます。
北極海では、
捜索可能期間が短く、
当時は水中ソナーもありません。
地名の対応も難しく、
証言された船がErebusなのかTerrorなのかも分かりません。
海氷によって船が移動した可能性もありました。
偏見による証言軽視と、
当時の探索技術・地理条件の限界は、
分けて評価する必要があります。
イヌイットは「捜索の情報源」だけではない
現在、
Wrecks of HMS Erebus and HMS Terror National Historic Siteは、
Parks Canadaだけで管理されている場所ではありません。
Inuitとの共同管理が行われています。
Parks Canadaは、
Franklin遠征当時から地域で暮らしてきたInuitを
この歴史の不可欠な一部と位置づけています。
船体の発見後も、
Inuit Guardiansによる遺跡保護や、
調査、
文化遺産管理への参加が続いています。
したがって、
Franklin遠征におけるInuitの役割を
「英国人探検家へ情報を提供した人々」
だけに限定するのも適切ではありません。
証言が伝えたものを時系列で整理する
| 時期 | 記録者・関係者 | 主な情報 |
|---|---|---|
| 1854年 | John Rae / William Uligpak | 約40人の白人がKing William Island西岸を南下したという証言、遺物、人肉食に関する情報 |
| 1859年 | Francis McClintock | 船や遺物についてInuitから追加情報を収集 |
| 1860~1871年 | Charles Francis Hall / Taqulittuq / Ipiivik | 多数の目撃・口承記録を収集 |
| 1869年 | Inukpujijuq | Ugjulik周辺の船体位置を海図・手描き地図で示す |
| 1879~1880年 | Frederick Schwatka / Ipiivik | 追加の口承と遺物を収集 |
| 20世紀後半 | 研究者・地域住民 | 19世紀証言を再検討し船体探索へ利用 |
| 1990年代以降 | Louie Kamookakほか | 地名・地域史・長老からの知識を現代探索へ接続 |
| 2014年 | Parks Canadaほか | Inuit knowledgeと現代技術を用いた探索でHMS Erebus発見 |
| 2016年 | 現地情報+Parks Canada | HMS Terror発見 |
フランクリン遠征を見る視点が変わる
フランクリン遠征を英国側の資料だけから読むと、
1845年7月以降、
遠征隊は「消えた」ように見えます。
しかし、
地域側の記憶を加えると、
その見え方は変わります。
船は見られていた。
人々は見られていた。
遺体も見つかっていた。
持ち物も回収されていた。
沈没船の位置さえ、
ある程度伝えられていました。
つまり、
情報が存在しなかったのではなく、
異なる知識体系の中に保存されていた
という側面があります。
まとめ|170年後、口承記録とソナーが同じ海域を指した
1854年、
John RaeはInuitから
King William Island西岸を南へ進む白人集団の話を聞きました。
彼は銀食器など
Franklin隊に結び付く物品も入手し、
英国へ報告しました。
しかし、
人肉食を含む証言は
Victorian英国社会から激しく否定されました。
その後、
Charles Francis Hall、
Frederick Schwatkaらは
Inuitからさらに多くの情報を集めます。
1869年にはInukpujijuqが、
King William Island南側に存在した船について
具体的な位置を示しました。
その情報は忘れられたわけではありません。
20世紀以降の研究者、
Louie Kamookakら地域のKnowledge Holders、
そしてParks Canadaへ受け継がれます。
2014年。
HMS Erebusは、
Inukpujijuqが19世紀に示していた場所に近い海域で発見されました。
そして人肉食に関する証言も、
後世の人骨分析によって
少なくとも重要部分が支持されています。
ただし、
証言のすべてが細部まで証明されたわけではありません。
重要なのは、
「英国側文書か、イヌイット証言か」
という二者択一ではなく、
異なる資料を照合することで
失われた遠征を復元できるようになったこと
です。
次回は、
その「物証」の側へ進みます。
King William Islandに残された人骨。
Beechey Islandの遺体。
切断痕。
病気。
飢餓。
鉛。
129人はなぜ帰れなかったのか。
第8回では、
有名な「鉛中毒説」を含め、
遠征隊の死亡原因について
考古学と科学分析から検証します。
今回出てきた言葉
- Inuit Qaujimajatuqangit
-
イヌイット社会に蓄積されてきた知識、経験、価値、土地・海との関係などを含む知識体系。
単なる「昔話」や口承だけを意味する言葉ではない。
Franklin船体探索では地域の地名や歴史的記憶を理解するためにも活用された。 - Qallunaat
-
イヌイット語で非Inuit、特に白人・欧州系の人々を指す際に使われる語。
Raeが記録したFranklin隊員に関する証言を説明するParks Canada資料にも登場する。 - William Uligpak
-
William Ouligbuck Jr.、Mar-koとも記録されるInuitの狩猟者・通訳・ガイド。
1854年のJohn RaeによるFranklin調査で、地域の人々から情報を得るうえで重要な役割を果たした。 - Taqulittuq / Ipiivik
-
Charles Francis Hallの北極調査で通訳・ガイドとして活動したInuit。
英語資料ではHannahとJoeとも呼ばれる。
HallによるFranklin関係の口承収集を支えた。 - Inukpujijuq
-
1869年にCharles Francis Hallへ、Ugjulik地域にあった船の位置を説明したInuk。
海図上で位置を示し、自ら地図も描いた。
2014年にErebusが発見された海域は、この情報と地理的に近かった。 - Ugjulik
-
Franklin探索史で沈没船の情報と結び付いた地域名。
表記にはOok-joo-likなど複数の形がある。
Parks Canadaは「bearded sealsがいる場所」に由来する名称として説明している。
CASE FILE 20|フランクリン遠征特集 全10回
- 第1回|フランクリン遠征とは?|129人が北極圏へ消えた1845年の探検
- 第2回|HMS ErebusとTerrorとはどんな船だったのか|129人を北極へ運んだ2隻と遠征隊
- 第3回|フランクリンは何を探していたのか|北西航路と1845年遠征のルート
- 第4回|遠征隊はどこで動けなくなったのか|1845年出航からキングウィリアム島の氷海閉塞まで
- 第5回|フランクリン遠征「最後の記録」|Victory Point Noteが伝えた24人の死と船の放棄
- 第6回|消えた129人を誰が探したのか|フランクリン捜索隊とジョン・レイ、マクリントック
- 第7回|イヌイットは何を見ていたのか|フランクリン遠征の最期を伝えた証言【現在の記事】
- 第8回|129人はなぜ帰れなかったのか|遺骨・病気・飢餓・鉛中毒説を検証する
- 第9回|HMS Erebusはどう見つかったのか|2014年、失踪から169年後の船体発見
- 第10回|HMS Terror発見|2016年の船体発見と現在も続くフランクリン遠征の調査
出典・参考資料
-
Parks Canada — Inuit culture
Franklin ExpeditionとInuitの関係、
Inuit Qaujimajatuqangit、
Erebus・Terror発見へのtraditional knowledgeの役割、
現在の共同管理について確認。
-
Parks Canada — Inuit traditional knowledge
1854年にRaeが得た約40人の白人集団の証言、
Back River付近の遺体、
McClintock・Hall・Schwatkaによる口承収集、
Inukpujijuqの地図、
Louie Kamookakと現代探索、
2014年Erebus発見との位置関係確認に使用。
-
Parks Canada — Searching for Franklin
John Raeの1854年報告、
銀食器・Franklinのメダル、
人肉食証言、
Lady FranklinとCharles Dickensによる批判、
Charles Francis Hall、Taqulittuq、Ipiivik、
Inukpujijuqに関する確認に使用。
-
Parks Canada — Who’s who in the Franklin expedition
William Uligpakをはじめ、
Franklin捜索に関わったInuitの通訳・ガイド・Knowledge Holdersについて確認。
-
Parks Canada — Searching for Franklin’s lost ships
2008年以降の現代捜索、
Inuit oral historiesを反映した北側・南側探索区域、
現代技術とtraditional knowledgeを組み合わせた探索方針の確認に使用。
-
Parks Canada — Finding HMS Erebus
2014年9月2日のHMS Erebus発見と、
長期的な水中探索の確認に使用。
-
Mays & Beattie — Evidence for End-stage Cannibalism on Sir John Franklin’s Last Expedition to the Arctic
人骨の切断・破砕・骨髄利用を示唆する痕跡と、
19世紀Inuit証言を支持する考古学的証拠の確認に使用。
詳細な死因・人骨分析は第8回で扱う。
本記事では「Inuit testimony」を一種類の資料として扱わず、
直接目撃、同時代の伝聞、世代間口承、traditional knowledgeを可能な限り区別した。
また、19世紀の証言が後世の考古学・船体発見によって支持された事例を示す一方、
人数・日時・細かな経路など独立確認できていない部分については確定事実としていない。
人肉食については人骨上の物証が存在することのみを示し、
具体的な骨学的評価は次回の記事で扱う。