2018年7月6日未明。
タムルアン洞窟の救助作戦で、初めて死者が出た。
死亡したのは、元タイ海軍特殊部隊員で、救助活動へ志願して参加していたサマン・クナンだった。
13人の少年とコーチが発見されてから4日後。本格的な搬出作戦が始まる2日前のことである。
クナンは洞窟深部へ向かうルート上に呼吸用ボンベを配置する任務に参加していた。
任務を終えて戻る途中、水中で意識を失った。同行していたダイバーが救命処置を行ったが、蘇生できなかった。
この事故は、タムルアン救出の難しさを一つの事実として突きつけた。
少年たちを外へ出すために使おうとしていたルートで、潜水経験を持つ救助要員自身が死亡した。
そして2日後、そのルートへ潜水経験のない少年たちを通す作戦が始まる。
CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)
- 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
- 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
- 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
- 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
- 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか【現在の記事】
- 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
- 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
- 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
- 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
- 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較
先に結論|「酸素不足で死んだ」だけでは事故を正確に説明できない
サマン・クナンの死亡については、「酸素ボンベの酸素がなくなり死亡した」と短く説明されることが多い。
当時のタイ当局は、クナンが帰路で空気を失い、意識を失ったと説明している。海外主要メディアも、タイ海軍特殊部隊司令官の発表をもとに「lack of oxygen」「ran out of air」などと報じた。
一方で、British Cave Rescue Council(BCRC)が事故当日に公表した声明は、死亡原因の細かなメカニズムについて断定していない。
確認できる中心的な事実は、
- クナンは元タイ海軍の潜水要員だった
- 救助作戦へ志願して参加していた
- 7月5日夜から6日未明にかけて洞窟内部で活動した
- 呼吸用ボンベを救出ルートへ配置する任務に参加していた
- 帰路の水中で意識を失った
- 同行者が救命処置を行ったが蘇生しなかった
というところである。
したがって本記事では、
「ボンベ内の酸素が完全にゼロになったことが医学的に確認された」
といった、公開資料以上に踏み込んだ断定は行わない。
FACT CHECK|サマン・クナンの死亡原因はどこまで分かっているのか
当時のタイ海軍特殊部隊司令官の説明を引用した報道では、クナンは帰路で呼吸用ガスを失い、水中で意識を失ったとされる。
しかし、一般に公開されている救助関係の公的資料からは、
- シリンダーの正確な残圧
- 使用していたガスの組成
- 呼吸用ガスを失った直接原因
- 機材故障の有無
- 事故時の生理学的状態
までを確定できない。
したがって、
「帰路で呼吸用ガスを確保できなくなり意識を失い、蘇生できなかった」
という確認可能な範囲を本文の基準とする。
サマン・クナンとは誰だったのか
サマン・クナンは、タイ海軍の特殊部隊で潜水任務を経験した元隊員だった。
2018年のタムルアン救助時には現役隊員ではなく、救助活動へ志願して加わった。
英語資料では名前のローマ字表記が統一されておらず、
- Saman Kunan
- Saman Gunan
- Saman Gunan / Kunan
など複数の表記が確認できる。
本シリーズでは日本語で広く使われる「サマン・クナン」に統一する。
米国防総省も後の救助報告で、クナンを「former Thai Navy SEAL」とし、洞窟内へ呼吸用タンクを届けた後に死亡した人物として追悼している。
彼が参加していたのは、救出作戦の華やかな最終段階ではない。
まだ13人をどう外へ出すかさえ完全には決まっていなかった時期の、補給路を構築する作業だった。
7月2日に13人を発見しても、洞窟内の物流は続いていた
第3回で見たように、13人は7月2日に発見された。
しかし、発見地点とChamber 3の間には長い水没区間が残っていた。
そのため発見後もダイバーは毎日のように洞窟奥へ向かっている。
運ぶものも増えた。
- 食料
- 医薬品
- 照明
- 潜水器材
- 救出準備用の器材
- 呼吸用ボンベ
特に呼吸用ボンベは、洞窟深部で活動するダイバーにとって欠かせない。
一人のダイバーが入口から最奥部までの往復に必要なすべてのガスを背負うのではなく、経路途中へ交換・予備用のシリンダーを配置しておけば、活動範囲と安全余裕を確保しやすくなる。
しかし、そのボンベを配置するためにも誰かが潜って運ばなければならない。
クナンは、その仕事に参加していた。
ここで、Chamber 3と洞窟深部の位置関係を確認しておく。

出典:Wikimedia Commons「2018 Tham-Luang-cave-map-cropped.png」、Per Meistrup、CC0 1.0。
図はOpenStreetMapと作成者による洞窟経路の概略化に基づき、正確な縮尺図ではない。サマン・クナンが意識を失った正確な地点や、個々のボンベ配置位置を示すものでもない。
事故前日|救出ルートへボンベを配置する
当時のタイ当局の説明を伝えた報道によれば、クナンは7月5日夜、別のタイ人ダイバーとともにChamber 3側から洞窟深部へ向かった。
目的は、今後の救助や潜水活動に備え、呼吸用ボンベをルート上へ配置することだった。
複数の当時報道では、クナンが3本のボンベを運ぶ任務に出たと報告されている。
任務そのものは完了したとされる。
事故が起きたのは帰路だった。
この点は重要である。
洞窟潜水では、目的地点へ到達することだけが成功ではない。
戻ってこられるだけの呼吸用ガス、体力、時間を残して初めて一つの潜水が完了する。
なぜ帰路も危険なのか
地上の登山なら、頂上へ向かう往路より下山の方が身体的に楽な場合もある。
洞窟潜水では、単純に「帰りだから短い」とは言えない。
進んだ距離と同じ距離を戻る必要がある。
途中にある狭窄部も、濁水も、流れも消えない。
さらに往路ですでに、
- 呼吸用ガス
- 体力
- 集中力
- 時間
を消費している。
必要なガス量を見積もる際も、「目的地点まで届けばよい」では成立しない。
帰路だけでなく、予期しない停止、流れの変化、同行者のトラブルなどに備える予備も必要になる。
その意味で、洞窟潜水ではガス管理そのものが安全設計になる。
洞窟潜水では水面へ逃げられない
タムルアンの水没区間が危険だった最大の理由の一つが、オーバーヘッド環境だったことである。
海や湖の通常のスクーバ潜水なら、状況によっては水面へ緊急浮上できる。
洞窟では頭上に岩がある。
呼吸器に問題が起きても、
真上へ浮上して空気を吸うことはできない。
空気のある区間か出口へ、実際の通路を戻る必要がある。
さらにタムルアンでは濁りが強く、ガイドラインを頼りに進む区間があった。
トラブルが起きた場所から安全な空間まで数十秒で戻れるとは限らない。
クナンの死亡は、こうした環境の中で起きた。
同行者は蘇生を試みた
タイ海軍特殊部隊司令官の説明を伝えた当時報道によれば、クナンは帰還中に意識を失った。
同行していたダイバーが救命処置を行ったが、意識は戻らなかった。
その後Chamber 3へ搬送されたが、死亡が確認された。
報道された時系列では、7月5日夜に任務へ出発し、7月6日未明に死亡したとされている。
つまり、13人の発見からまだ4日しか経っていない。
本格救出が始まる7月8日までは、さらに2日残っていた。
British Cave Rescue Councilが事故当日に強調したこと
事故が報じられた7月6日、British Cave Rescue Councilは声明を発表した。
そこでは細かな死亡原因よりも、この事故が何を意味するかが強調されている。
BCRCは、長い深水区間や完全水没区間を含む洞窟環境そのものが危険であり、クナンの死が13人の救出作戦の難しさを明確に示したとした。
これは重要な視点である。
死亡事故を、
「一人のダイバーがボンベ管理を失敗した事故」
だけに縮小してしまうと、救出ルート全体の危険性が見えなくなる。
当時の救助側が直面していたのは、一人の技量だけでは解決できない環境だった。
「元SEALなら洞窟潜水にも熟練していた」とは限らない
ここには、もう一つ注意すべき点がある。
サマン・クナンが元タイ海軍特殊部隊員だったという事実から、
「世界最高レベルの洞窟ダイバーが死亡した」
と表現するのも正確ではない。
軍事潜水と洞窟潜水は、重なる技術を持つ一方で同じものではない。
洞窟潜水では、
- オーバーヘッド環境
- 狭窄部
- 低視界
- 長距離のライン追従
- 複雑なガス管理
- 出口まで直接浮上できない環境
に特化した経験が重要になる。
BCRCが英国から専門の洞窟ダイバーを派遣した理由もここにあった。
したがってクナンの死を、
「特殊部隊員でも無理だったのだから誰にも不可能だった」
と単純化する必要はない。
一方で、
潜水訓練と体力を持つ救助要員でさえ死亡し得る環境だった
という事実は変わらない。
FACT CHECK|サマン・クナンは現役のタイ海軍SEALだったのか?
事故時には現役隊員ではなかった。
British Cave Rescue Councilはクナンを「volunteer, former Thai Navy diver」と記している。
米国防総省も「former Thai Navy SEAL」としている。
したがって、
「救助任務中に現役タイ海軍SEAL隊員が死亡した」
という表現より、
「元タイ海軍特殊部隊員のサマン・クナンが、志願救助要員として参加中に死亡した」
とする方が正確である。
この事故は救出計画を中止させなかった
クナンの死亡によって、救助隊が潜水救出案を放棄したわけではない。
むしろ救助側が直面していたのは、他の選択肢にも重大なリスクがあるという状況だった。
雨季が終わるまで洞窟内で待つ案には、再増水、酸素濃度低下、長期補給という問題がある。
排水だけで歩いて脱出できる状態になる保証もなかった。
山上から穴を掘る案も、短期間で13人の場所へ到達できる見通しは立っていなかった。
そして強い雨が再び予想されていた。
クナンの死亡事故は、
「潜水救助は危険だからやめればよい」
という単純な結論にはつながらなかった。
救助側は、危険な潜水案と、時間を使うことでさらに条件が悪化する可能性のある他案を比較しなければならなかった。
それが、次の判断へつながる。
事故後も、ルート構築は続いた
7月6日の事故後も、洞窟内部では救出準備が続いた。
British Cave Rescue Councilは翌7日、さらに洞窟救助ダイバーをタイへ追加派遣すると発表している。
7月8日には、
- 13人の国際ダイバー
- 5人のタイ海軍特殊部隊ダイバー
からなる救出チームが本格的な搬出作戦を開始した。
つまりクナンが配置作業に参加していた呼吸用ボンベと補給ルートは、その後の救助MISSIONそのものに組み込まれていった。
彼の死は救出作戦とは別に起きた周辺事故ではない。
13人を外へ出すためのシステムを作っている最中に起きた死亡事故
だった。
なぜ、この事故が救出方法の重さを変えたのか
7月6日の時点で救助側が考えなければならなかった対象は、潜水経験のある成人ではない。
少年12人とコーチである。
少年たちの多くには本格的な潜水経験がなかった。
その少年を、
- 濁った水中
- 狭い洞窟
- 完全水没区間
- 長い移動距離
へ入れなければならない。
しかも、そこで救助要員自身がすでに死亡している。
だからこそ、「少年に短期間でダイビングを教えて自力で泳がせる」という発想だけでは十分ではなかった。
パニックを起こさせないこと。
マスクを外させないこと。
少年自身に複雑な判断をさせないこと。
ダイバーが可能な限り少年の状態を制御すること。
後に採用される救出方法は、こうした制約を一つずつ減らす方向へ設計されていく。
「死亡者1人、13人全員生還」という結果だけでは見えないもの
タムルアン洞窟救助は最終的に、少年12人とコーチ1人の全員生還で終わった。
その成功の強さから、「奇跡の救出」として記憶されやすい。
しかし救助作戦全体で見れば、人的犠牲なしに終わった出来事ではない。
サマン・クナンは、本格救出が始まる前の準備段階で死亡した。
彼が参加していたのは、
他のダイバーが洞窟奥へ入り、その後13人を外へ運ぶために必要な補給線を作る仕事
だった。
この事実を含めて初めて、タムルアン救出の危険度を正確に見ることができる。
7月5日夜から6日未明|確認できる時系列
| 時点 | 出来事 |
|---|---|
| 7月5日夜 | サマン・クナンが別のタイ人ダイバーと洞窟内部へ入る |
| 往路 | 救助・潜水活動に必要な呼吸用ボンベをルート上へ配置 |
| 帰路 | クナンが水中で意識を失う |
| その後 | 同行者が救命処置を試みる |
| 7月6日未明 | 蘇生できず、死亡が確認される |
| 7月6日 | タイ当局およびBCRCなどが死亡を公表 |
| 7月7日 | 救出準備継続。国外から追加の洞窟救助ダイバーが到着 |
| 7月8日 | 13人を外へ運び出す本格救出作戦が始まる |
一部報道では具体的な出発時刻、帰還時刻、ボンベ本数なども報じられている。
ただし、それらはBCRCなどの公的性格の強い資料では詳細確認できない項目もあるため、本記事では事故の理解に不可欠な範囲のみを確定情報として扱っている。
まとめ|サマン・クナンの死が示したのは「救出ルートそのものの危険」だった
サマン・クナンは、元タイ海軍特殊部隊員として潜水経験を持ち、タムルアン救助へ志願して参加した。
7月5日夜から6日未明にかけて、救助ルートへ呼吸用ボンベを配置する作業に参加した。
任務後の帰路、水中で意識を失い、救命処置を受けたものの死亡した。
当時のタイ当局は呼吸用ガスを失ったことを死亡につながった要因として説明している。
しかし公開資料から、事故の細かな機材状態や生理学的メカニズムまで断定することはできない。
確実なのは、その事故が長い水没区間を持つタムルアン洞窟の危険を現実に示したことである。
その2日後。
救助隊は、同じ洞窟から13人を外へ運び始める。
では、なぜこれほど危険な潜水救出を実行することになったのか。
待つことはできなかったのか。
ポンプで水を抜き続ける方法はなかったのか。
山の上から穴を掘る方法は使えなかったのか。
次回は、潜水・待機・排水・掘削という複数の救出案を比較し、なぜ最終的に潜水搬出が選ばれたのかを追う。
CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集
今回出てきた言葉
【サマン・クナン】
元タイ海軍特殊部隊員。2018年のタムルアン洞窟救助へ志願して参加し、救助ルートへの呼吸用ボンベ配置作業後、帰路の水中で意識を失って死亡した。英語ではSaman Kunan、Saman Gunanなど複数の表記がある。
【タイ海軍特殊部隊】
タイ王国海軍の特殊作戦部隊。英語報道ではThai Navy SEALsと呼ばれることが多い。タムルアンでは捜索、物資搬送、洞窟内での少年たちの支援、搬出作戦などに参加した。
【オーバーヘッド環境】
洞窟や沈船など、水面へ直接浮上できない潜水環境。トラブル時にも頭上へ浮上して脱出できず、出口または空気のある区間まで通路を戻らなければならない。
【ガス管理】
潜水中に使用する呼吸用ガスの残量を管理し、往路・帰路・緊急時に必要な量を確保する考え方。洞窟潜水では直接浮上できないため、特に重要になる。
【ステージシリンダー】
長距離潜水などで途中に携行・配置して使用する追加の呼吸用シリンダー。タムルアンでは洞窟深部で活動するダイバーのため、多数の呼吸用ボンベがルート上へ運ばれた。
【洞窟潜水】
水没した洞窟内部を潜水する活動。通常のスクーバ潜水と異なり、水面へ直接浮上できない、視界が極端に悪い、狭窄部があるなどの条件に対応する専門技術が必要になる。
出典・参考資料
-
British Cave Rescue Council,
“Tham Luang Nang Non Cave, Thailand – Update 5,”
6 July 2018. -
U.S. Department of Defense,
“DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,”
9 July 2018. -
British Cave Rescue Council,
“Further deployment of British cave rescue divers to Thailand,”
7 July 2018. -
British Cave Rescue Council,
“Key phase of the rescue operation to bring the boys out of Tham Luang Nang Non Cave begins,”
8 July 2018. -
Australian Broadcasting Corporation,
“Thai cave rescue: Former Navy SEAL working to rescue boys dies from lack of oxygen,”
6 July 2018. -
Australian Broadcasting Corporation,
“Thai cave rescue: Boys are told of the death of former Navy SEAL diver Saman Gunan,”
16 July 2018.
サマン・クナンの死亡について、当時のタイ当局を引用した報道では「lack of oxygen」「ran out of air」などと説明されている。一方、British Cave Rescue Councilの2018年7月6日声明は死亡原因の細かな機序を示さず、長い深水区間・完全水没区間を含む洞窟環境の危険性を強調している。公開された事故調査報告書や機材検証記録を本記事では確認できていないため、「ボンベが完全に空になった」「機材故障があった」などの詳細は確定事実として扱わなかった。またクナンを「現役タイ海軍SEAL」とせず、BCRCおよび米国防総省の表現に合わせて「元タイ海軍特殊部隊員・志願救助要員」とした。軍事潜水経験がどの程度洞窟潜水専門訓練を含んでいたかも公開資料から確定できないため、「熟練洞窟ダイバー」とは表記していない。