2022年に公開された映画『13人の命(Thirteen Lives)』。
監督は『アポロ13』でも実話の生還劇を映画化したロン・ハワード。
ヴィゴ・モーテンセンがリック・スタントン、コリン・ファレルがジョン・ヴォランセン、ジョエル・エドガートンが麻酔科医リチャード・ハリスを演じている。
題材は、2018年のタムルアン洞窟遭難・救出。
少年サッカーチーム12人とコーチ1人が増水した洞窟に閉じ込められ、9日後に全員生存で発見され、さらに6日後から3日間かけて全員を搬出した実話である。
映画を見ると、
「本当にこんな方法で少年を救出したのか」
と思う場面がいくつもある。
少年を麻酔する。
ケタミンを追加注射する。
フルフェイスマスクを着ける。
意識のない少年を水中へ沈める。
熟練ダイバーが一人ずつ運ぶ。
そして3日間で13人全員を救う。
結論から言えば、
映画でもっとも「映画的」に見える救出方法ほど、実は史実に近い。
一方で、映画作品として成立させるため、水中視界、出来事の時系列、登場人物、会話、救助活動の規模などには再構成が入っている。
『13人の命』はドキュメンタリーではない。
しかし、タムルアン救出の核心部分を大きく作り変えた作品でもない。
「救出の物理構造はかなり忠実。人物と時間は映画として整理されている」
と見るのが最も近い。
CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集(全10回)
- 第1回|タムルアン洞窟遭難・救出とは?|13人を全員生還させた2018年の救助作戦
- 第2回|なぜ13人は洞窟から出られなくなったのか|タムルアンの地形・雨季・浸水
- 第3回|13人はどう発見されたのか|9日間の捜索と英国人洞窟ダイバー
- 第4回|洞窟の水と酸素をどう管理したのか|排水・補給線・Chamber 3
- 第5回|サマン・クナンの死亡事故|救助前の洞窟潜水で何が起きたのか
- 第6回|13人をどう外へ出すべきだったのか|待機・掘削・排水・潜水案を比較する
- 第7回|救出ルートはどう設計されたのか|ダイバー、ガイドライン、ボンベ、搬送
- 第8回|なぜ少年たちに麻酔を使ったのか|ケタミンとフルフェイスマスクの救出医療
- 第9回|2018年7月8〜10日、13人はどう救出されたのか|3日間の救出作戦を時系列で追う
- 第10回|映画『13人の命』はどこまで実話なのか|タムルアン洞窟救出の史実と比較【現在の記事】
先に結論|映画の「信じ難い救出方法」はほぼ実話
『13人の命』で最も驚くのは、少年たちを救出する方法だろう。
通常なら、映画用に誇張された場面と思ってしまう。
しかし、この部分は実際の救出記録とかなり一致している。
| 映画の描写 | 史実 | 判定 |
|---|---|---|
| 英国人洞窟ダイバーが少年たちを発見 | リック・スタントンとジョン・ヴォランセンが7月2日に発見 | ほぼ史実 |
| 少年を麻酔して救出 | 実際に全身麻酔下で搬送 | 史実 |
| ケタミンを使用 | 主要麻酔薬として実際に使用 | 史実 |
| ダイバーが途中で追加注射 | 非医師の救出ダイバーも訓練を受け、追加投与を実施 | 史実 |
| フルフェイスマスクで呼吸 | 陽圧式フルフェイスマスクを使用 | 史実 |
| 少年を一人ずつ搬送 | 深部から一人ずつ搬出 | 史実 |
| サマン・クナンが死亡 | 7月6日に救助準備中に死亡 | 史実 |
| 排水と山上での水流変更 | 実際に大規模な排水・地表水迂回を実施 | 史実 |
| 7月8~10日に3日間で全員救出 | 4人、4人、最後の5人を搬出 | 史実 |
| 水中でもある程度周囲が見える | 実際は極端な低視界 | 映画上の変更 |
| 一部の人物・家族 | 複数人物を統合したキャラクターあり | 映画上の再構成 |
つまり、この映画では、
「信じられないから脚色だろう」と思う部分の多くが実話で、むしろ地味に見える人物配置や時間の方に脚色がある。
映画『13人の命』とは
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 原題 | Thirteen Lives |
| 日本語題 | 13人の命 |
| 公開年 | 2022年 |
| 監督 | ロン・ハワード |
| 脚本 | ウィリアム・ニコルソン |
| リック・スタントン | ヴィゴ・モーテンセン |
| ジョン・ヴォランセン | コリン・ファレル |
| リチャード・ハリス | ジョエル・エドガートン |
| 題材 | 2018年タムルアン洞窟遭難・救出 |
ロン・ハワードにとって、実話の救出MISSIONを映画化するのは初めてではない。
1995年には『アポロ13』を監督している。
本人もタムルアン救出について、『アポロ13』と共通する部分として、
「最善のアイデアが採用される」
という危機対応の構造に惹かれたと説明している。
タムルアンでも同じだった。
誰が提案したかより、
「13人を生きて出すために何が使えるか」
が優先された。
映画は救出当事者を技術顧問にしていた
『13人の命』の再現度が高い大きな理由の一つが、実際の救出ダイバーが制作へ参加していたことである。
13人を発見し、最終救出にも参加したリック・スタントンは、映画の技術顧問を務めた。
同じく救出の中核を担ったジェイソン・マリンソンも制作に参加している。
スタントンは撮影現場に入り、
- 洞窟ダイバーの身体の使い方
- 装備の扱い方
- 狭い場所での移動方法
- ガイドラインの使い方
などを俳優へ教えた。
ヴィゴ・モーテンセンら主要俳優も潜水訓練を受け、多くの水中場面を本人たちが演じた。
だから潜水装備や身体動作には、通常の「映画のスクーバダイビング」とは違う具体性がある。
最大の違い|実際の水中は、映画ほど見えなかった
リック・スタントン本人が映画と実際の救出との最大の違いとして挙げているのが、
水中視界
である。
映画では、ダイバーの前方、岩、少年、別のダイバーなどを観客が確認できる。
当然ながら、映像作品として何が起きているか見せる必要があるからだ。
実際は違った。
スタントンによれば、良いときでも数フィート程度。
場所によってはほとんど何も見えなかった。
そのため、実際のダイバーは映画のように前方の仲間を目視してコミュニケーションしながら進んでいたわけではない。
視界の悪い水中では、互いの邪魔にならないよう間隔を取り、
ガイドラインを頼りにほぼ単独で進む。
ここは映画化すると再現できない部分だった。
実際と同じ視界にすれば、スクリーンはほとんど濁った水と暗闇になってしまう。
FACT CHECK|映画の洞窟潜水は実際より簡単に見える?
物理的な狭さや装備の動きはかなり忠実に再現されている一方、視覚的には実際より明らかに見やすくされている。
これは技術顧問だったリック・スタントン自身が、映画との最大の差として説明している。
したがって映画を見て、
「ライトを照らせば数m先のルートや仲間が見える」
と理解するのは正確ではない。
映画の洞窟は本物のタムルアンで撮影されたのか
ここも違う。
主要な洞窟場面は、実際のタムルアン洞窟では撮影されていない。
制作時期がCOVID-19パンデミックと重なったことなどから、撮影はオーストラリア・クイーンズランド州を中心に行われた。
ロン・ハワードによれば、制作側は5つの洞窟セットを建設した。
当然ながら、実際の水没洞窟で俳優を数km潜らせて撮影することはできない。
ただし、
- 救出当事者からの情報
- 洞窟潜水技術
- 実際の装備
- 写真・映像・記録
をもとに環境を再現している。
そのため、
「撮影場所は偽物だが、救出作業の動作を再現するためのセット」
と理解すればよい。
スタントンとヴォランセンが13人を見つける場面は史実か
史実である。
2018年7月2日。
英国人洞窟ダイバーのリック・スタントンとジョン・ヴォランセンは、洞窟深部まで捜索ラインを延ばし、少年12人とコーチを発見した。
ただし、本シリーズ第3回で確認した通り、
2人だけで9日間の捜索を完結させたわけではない。
タイ当局。
タイ海軍特殊部隊。
排水チーム。
ボンベを運ぶダイバー。
地上の支援要員。
それらが捜索ルートを成立させていた。
映画は物語の軸としてスタントンとヴォランセンを強く置くが、実際の作戦全体ははるかに大きい。
映画で少年を麻酔するのは本当か
本当である。
しかも、映画用に少し眠らせた程度ではない。
第8回で確認したように、救出参加医師らの医学論文では、少年たちは
- 呼びかけに反応しない
- 目的のある動きをしない
- 自発呼吸は維持する
全身麻酔状態に置かれた。
主要麻酔薬として使用されたのがケタミン。
実際の麻酔計画を中心となって担当したのが、オーストラリア人麻酔科医で洞窟ダイバーでもあったリチャード・ハリスだった。
この重要人物を映画で演じているのがジョエル・エドガートンである。
ダイバーが少年へ注射する場面も実話
映画を初見で見ると、特に作り話に見えるのがここだろう。
医師ではない洞窟ダイバーが、水没洞窟の途中で少年へ麻酔薬を追加注射する。
これも実際に行われた。
ケタミンの作用が出口までずっと同じ強さで続くわけではない。
少年が途中で覚醒すれば、水中でパニックを起こす危険がある。
そこで搬送担当ダイバーは事前に筋肉注射の方法を教えられ、覚醒兆候があれば追加のケタミンを投与した。
救出参加医師らの詳細報告では、一人につき搬送途中に3~4回程度の追加投与が必要になったとされている。
つまり、
映画の中でもっとも危険な脚色に見える場面が、救出史実の中心だった。
FACT CHECK|映画の「ケタミン救出」はハリウッドの脚色?
脚色ではない。
ケタミン、アトロピン、フルフェイスマスク、自発呼吸を組み合わせる救出方法は医学論文として救出参加者自身が記録している。
ただし映画は医療手順のすべてを詳細に説明する作品ではないため、実際の薬剤量や低体温対策などは第8回で扱った医学資料の方が詳しい。
リチャード・ハリスが最初は難色を示したのも大筋では実話
映画では、少年たちを麻酔して潜水搬送する案に対し、リチャード・ハリスが強い不安を示す。
これも単なる劇的演出だけではない。
実際のリック・スタントンは、少年に意識がある状態では安全な搬送が難しいと考え、洞窟ダイバーで麻酔科医でもあるハリスへ協力を求めた。
ハリス自身も、前例のない麻酔救助について成功を確信していたわけではない。
当時想定された結果には、少年が途中で死亡する可能性も含まれていた。
だからこそ、
「麻酔すれば簡単に運べる」
という方法ではなかった。
他の方法より生還の可能性が高いと判断された、非常に危険な方法
だった。
サマン・クナンの死亡は実話だが、映画は時系列を少し動かしている
元タイ海軍特殊部隊員サマン・クナンが救助活動中に死亡したことは史実である。
実際の死亡日は2018年7月6日。
最終救出開始は7月8日。
つまり実際には約2日前だった。
映画では、クナンの死と最終救出開始の距離がより近くなるよう時系列が整理されている。
リック・スタントン本人が映画の差異を説明した際にも、クナンの死亡時点が映画では実際より約1日後ろへ動かされていることが紹介されている。
出来事そのものを作ったわけではない。
観客へ「救出ルートが人を死亡させるほど危険だった」と示した直後に最終作戦へ入るよう、時間を圧縮した
と見ることができる。
祈りの場面にも時系列の変更がある
映画では、洞窟入口周辺で人々が祈る場面が印象的に使われている。
祈りそのものが創作というわけではない。
ただしスタントンが映画との違いを説明した記録では、映画で9日目に置かれている祈りの場面が、実際にはより早い2日目から始まっていたとされる。
映画では、多数の出来事を約2時間半の中で理解できるよう並べ替えている。
このような変更は、
「起きなかった出来事を作る」脚色というより、「実際に起きた出来事を別の位置へ置く」時間編集
である。
家族の人物には「複合キャラクター」がいる
映画を見る際に、史実上の人物と一対一で対応しない登場人物もいる。
脚本家ウィリアム・ニコルソンは、少年たちの家族について多くの資料を得た一方、全員を映画へ登場させることはできなかったと説明している。
そこで、
複数の親の経験をまとめた母親の複合キャラクター
を作った。
脚本家自身が、この人物は架空だが実際の家族についての調査をもとに作ったと明言している。
これは実話映画では一般的な方法である。
何十人もの人物をすべて個別に登場させれば、観客は誰が誰なのか分からなくなる。
その代わり、一人の登場人物へ複数人の経験をまとめる。
したがって、
映画に登場するすべての人物を「実在した本人」として史料に使うことはできない。
映画の会話は一次資料ではない
これは特に重要である。
『13人の命』には、
スタントンとヴォランセン。
ハリス。
タイ当局。
タイ海軍特殊部隊。
家族。
さまざまな人物の会話が登場する。
しかし、2018年当時のすべての会話が録音されていたわけではない。
脚本家ウィリアム・ニコルソン自身、実話の枠組みの中で会話などを創作する必要があったと説明している。
したがって、
「映画でスタントンがこう言っていた」
ことを、
「実際に2018年7月にその言葉を発言した」
という証拠にはできない。
映画は史実を理解する入口として使える。
だが、
台詞は史料ではない。
それでも「本当に言った」台詞もある
一方、映画の台詞すべてが創作という意味でもない。
リック・スタントン本人は、映画中で自分の人物像を表す一部の言葉について、
実際に自分が言った、あるいは自分らしい内容だったことを認めている。
つまり映画は、
実在人物への取材。
実際の記録。
脚本上の再構成。
を混ぜて人物を作っている。
だからこそ個々の台詞について、
映画を根拠にFACT判定しない
ことが重要になる。
タイ側の救助活動は映画でもかなり描かれている
海外の実話映画では、
「外国から来た主人公だけが問題を解決した」
という構図になりやすい。
タムルアン救出をその形へしてしまうと史実から離れる。
実際の救出はタイ当局が指揮した。
タイ海軍特殊部隊が早期から洞窟へ入り、発見後には少年たちのもとへ要員を残して支援した。
地上では排水、山中の水流変更、通信、医療、搬送、警備など大量の人員が動いた。
『13人の命』は、この問題を比較的意識して作られている。
映画には、
- タイ側の現場指揮
- タイ海軍特殊部隊
- 水を洞窟からそらす作業
- 農地へ水を流すことを受け入れる農家
- 家族や地域住民
も描かれる。
制作側も、「英国人ダイバーだけがタイへ来て救った」という作品にしないことを重視したと説明している。
それでも、実際の救助規模は映画よりはるかに大きい
映画には上映時間がある。
登場人物を数千人出すことはできない。
脚本家ウィリアム・ニコルソンも、膨大な資料から誰を描き、誰を物語の軸にするか選ぶ必要があったと説明している。
最終的に中心に選ばれたのが、
- リック・スタントン
- ジョン・ヴォランセン
- リチャード・ハリス
ら専門ダイバーだった。
そのため映画を見た後には、
「数人の洞窟ダイバーが救出した」
という印象が残りやすい。
しかし実際には、
彼らが最難関部分を担当できるよう、巨大な支援システムが背後で動いていた。
第4回と第7回で見たように、
- 排水
- 地表水の迂回
- 多数のボンベ搬送
- Chamber 3の前進基地化
- タイ海軍特殊部隊
- 米軍医療・搬送支援
- 地上の大量の搬送要員
が救出を成立させている。
映画はその一部を描いているが、実際の組織規模をそのまま再現しているわけではない。
水をそらしたタイ側の作業は本当にあった
映画では、山上で地表水の流れを変え、洞窟へ入る水を減らそうとする作業も描かれる。
これは映画用のサブストーリーではない。
実際に救助側は、
地下からポンプで水を出すだけでなく、
地表の水路を変え、洞窟へ入る水そのものを減らす作業
を行っていた。
排出された水や迂回された水によって農地が冠水するため、地元農家にも影響が出た。
映画が洞窟ダイバー以外にこの作業を入れたのは、救出が地下だけで行われていたわけではないことを示す意味でも重要である。
一方で、映画から完全に省かれた出来事もある
実際のタムルアン救助は、世界中から注目された。
そのため、多数の人物や組織が救助案を提案している。
有名な例が、イーロン・マスクが提案した小型潜水艇である。
この出来事は当時大きく報道されたが、『13人の命』では主要なストーリーとして扱われていない。
ロン・ハワード作品は、
救出を実際に成立させた工程へ物語を集中させる
方向を選んでいる。
映画に出てこないから、その出来事が存在しなかったわけではない。
逆に、実在したすべての出来事を映画に入れる必要もない。
映画と史実の差を整理する
| 項目 | 映画 | 実際 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 13人の遭難 | 増水で洞窟内に孤立 | 同じ | 忠実 |
| 発見者 | スタントンとヴォランセン | 同じ | 忠実 |
| 潜水救出案 | 英国人ダイバーらが提案 | 大筋で同じ | 忠実 |
| ハリスの役割 | 麻酔科医・洞窟ダイバーとして参加 | 同じ | 忠実 |
| ケタミン | 少年を麻酔 | 実際に使用 | 忠実 |
| 追加注射 | ダイバーが実施 | 実際に実施 | 忠実 |
| フルフェイスマスク | 少年へ装着 | 実際に使用 | 忠実 |
| サマン・クナン死亡 | 救助直前に描写 | 7月6日、救出開始は7月8日 | 時系列を圧縮 |
| 水中視界 | 人物・岩・ルートを確認可能 | 極端な低視界 | 映像化のため変更 |
| 洞窟 | リアルな洞窟として描写 | 映画は豪州のセットで撮影 | 再現セット |
| 親の一部 | 特定人物として描写 | 複数の親を統合した人物あり | 複合キャラクター |
| 会話 | 具体的な台詞あり | すべてに記録があるわけではない | 一部創作 |
| 国際支援 | 主要人物を中心に整理 | 映画以上に大規模 | 人物・役割を圧縮 |
映画は「史実に忠実」なのか
ここまでを見る限り、答えは、
「かなり忠実。ただしドキュメンタリーではない」
になる。
特に、
- 洞窟潜水の難しさ
- 13人発見
- 潜水救出という判断
- 麻酔
- ケタミン
- フルフェイスマスク
- サマン・クナンの死亡
- 排水
- 3日間の搬出
という事件の骨格は史実と一致している。
しかも、救出当事者が制作へ直接参加した。
その一方、
- 水中を観客に見せる
- 上映時間内へ収める
- 登場人物を理解しやすくする
- 感情の流れを作る
ための変更は当然ある。
だから、
映画を「何が起きたか」を理解する入口には使えるが、「誰がいつ何を言ったか」を確定する史料には使えない。
『THE RESCUE』との違い
タムルアン救助には、もう一つ重要な映像作品がある。
National Geographic Documentary Filmsの
『THE RESCUE』
である。
2021年公開。
監督はエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィとジミー・チン。
こちらは劇映画ではなくドキュメンタリーである。
救助関係者のインタビューや資料を使い、
- 専門洞窟ダイバー
- タイ海軍特殊部隊
- 米空軍特殊戦術要員
- 国際救助チーム
の救出MISSIONを再構成している。
二作品の役割は少し違う。
| 『13人の命』 | 『THE RESCUE』 | |
|---|---|---|
| 形式 | 劇映画 | ドキュメンタリー |
| 中心 | 救助ダイバーを中心としたドラマ | 救助当事者の証言と記録 |
| 洞窟場面 | 俳優・セットによる再現 | 資料・証言・再現を組み合わせる |
| 向いている用途 | 事件の流れと緊張感を理解する | 救出当事者が何を考えていたか確認する |
史実を詳しく追うなら、
『13人の命』を見てから『THE RESCUE』を見る
という順序も分かりやすい。
前者でルートと人物を把握し、後者で実際の救助者の証言へ進めるからである。
FACT CHECK|『THE RESCUE』なら映像すべてが2018年当時の実写なのか?
ドキュメンタリーだからといって、画面に出るすべての洞窟内部映像が救出当日の記録映像という意味ではない。
実際の救出は水中視界が極端に悪く、最深部で映画撮影のような記録を行える状況ではなかった。
『THE RESCUE』も、実際の資料、当事者インタビュー、映像上の再構成などを組み合わせて事件を説明している。
ドキュメンタリーも「映像=その瞬間の一次映像」と自動的に扱わない方がよい。
『13人の命』で最も史実に近い部分は何か
一つ挙げるなら、
救出を「英雄一人のひらめき」で終わらせていないこと
である。
専門洞窟ダイバーがいなければ13人まで到達できない。
麻酔科医がいなければ少年を安全に眠らせる方法を設計できない。
タイ側が排水しなければ潜水ルートはさらに危険になる。
地上で水をそらさなければ水位低下を維持できない。
ボンベを運ぶ人がいなければダイバーは奥へ行けない。
Chamber 3以降の搬送要員がいなければ、専門ダイバーは一人を出口まで運ぶだけで拘束される。
つまり救助成功は、
異なる専門能力を一つのMISSIONへ接続した結果
だった。
この構造は映画にもかなり残されている。
逆に、映画だけでは分かりにくいこと
映画を見た後に、本シリーズで補足すべきなのは主に5点ある。
1|発見までの9日間も一つの大規模MISSIONだった
映画では時間が圧縮されるため、捜索ルートを少しずつ延ばした過程は実際より短く感じる。
現実には水位と流速によって何度も前進を止められている。
2|Chamber 3までの補給網が重要だった
大量の呼吸用ボンベや器材を奥へ送り込む地下物流が、最終救出の前提だった。
3|排水は失敗ではない
歩いて全員を出せるまで水を抜くことはできなかったが、入口側の潜水区間を減らし、最終救出を容易にした。
4|麻酔救助は映画以上に医学的だった
アルプラゾラム、アトロピン、ケタミン、80%酸素を含む混合ガス、低体温対策など、実際には詳細な医療プロトコルが組まれていた。
5|「13人全員救出」は13回の搬送成功だった
一つの成功した作戦ではなく、危険な搬送を3日間で13回成立させた結果だった。
映画から入っても問題ない
実話映画を入口として使うこと自体に問題はない。
むしろ『13人の命』は、タムルアン洞窟救出を初めて知る入口としてかなり優れている。
洞窟の狭さ。
水中搬送。
フルフェイスマスク。
Chamber 3。
麻酔救出。
排水。
3日間の最終作戦。
文章だけでは想像しにくい構造を、映像で理解できる。
ただし、
映画を見た後に「本当にそうだったのか」を一度資料へ戻って確認する。
それが実録作品を見るときの最も安全な使い方になる。
CASE FILE 18を映画と対応させると
| 映画で気になった場面 | 詳しく確認する記事 |
|---|---|
| なぜ洞窟から戻れなくなった? | 第2回|地形・雨季・浸水 |
| どうやって13人を見つけた? | 第3回|9日間の捜索 |
| なぜ大量のポンプやボンベが必要? | 第4回|排水・酸素・Chamber 3 |
| サマン・クナンはなぜ死亡した? | 第5回|死亡事故 |
| なぜ他の救出方法を使わなかった? | 第6回|救出案比較 |
| 少年をどう運んだ? | 第7回|救出ルート |
| 本当に麻酔した? | 第8回|ケタミンと救出医療 |
| 実際の3日間は? | 第9回|救出時系列 |
まとめ|映画は「大筋が実話」、ただし史料ではない
『13人の命』は、2018年タムルアン洞窟救出をかなり忠実に映画化している。
スタントンとヴォランセンが13人を発見したこと。
サマン・クナンが救助準備中に死亡したこと。
待機や排水だけでは時間が足りなくなったこと。
少年たちを全身麻酔下に置いたこと。
ケタミンを使用したこと。
ダイバーが途中で追加注射したこと。
フルフェイスマスクを使ったこと。
そして7月8日から10日に13人全員を搬出したこと。
事件の骨格は映画の創作ではない。
一方、
水中視界は実際より明るくされている。
出来事の一部は時間を移動している。
複数の家族をまとめた架空の複合キャラクターもいる。
会話のすべてが記録された史実でもない。
数千人規模の救助活動も、限られた登場人物へ整理されている。
したがって、
『13人の命』は、タムルアン救出の「仕組み」を理解する映像資料として非常に有用だが、映画そのものを一次資料にはしない。
映画を入口にする。
公的記録へ戻る。
救助当事者の記録を確認する。
医学論文で救出方法を照合する。
そうすると、映画よりさらに異例だった実際の救出が見えてくる。
6月23日。
少年12人とコーチは洞窟へ入った。
雨によって帰路を失った。
9日後に発見された。
そこから排水と補給線が作られた。
救助要員が一人死亡した。
複数の救出案が比較された。
そして最後に、麻酔された13人を一人ずつ水没洞窟から運び出す方法が選ばれた。
7月10日。
13人全員が地上へ戻った。
映画では約2時間半。
現実では、6月23日から7月10日まで続いた。
その間に作られたのは、一つの奇跡ではない。
絶えず変化する水、時間、人体、装備、技術を一つずつ管理し、救出可能な条件を作り続けたMISSIONだった。
CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出――完。
CASE FILE 18|タムルアン洞窟遭難・救出特集
今回出てきた言葉
【13人の命/Thirteen Lives】
2018年のタムルアン洞窟救出を題材にした2022年の劇映画。監督はロン・ハワード。リック・スタントン、ジョン・ヴォランセン、リチャード・ハリスら専門ダイバーを中心に救出MISSIONを描く。
【ロン・ハワード】
アメリカの映画監督。『アポロ13』など、実際の危機対応・生還を題材にした作品でも知られる。『13人の命』ではタムルアン救出を国際的な共同作戦として映画化した。
【技術顧問】
映画制作で専門技術の正確性を確認する役割。『13人の命』では実際の救出ダイバーであるリック・スタントンやジェイソン・マリンソンらが潜水場面の再現に協力した。
【複合キャラクター】
複数の実在人物の経験や役割を一人の登場人物へまとめた映画上の人物。『13人の命』では家族側の一部人物について、この方法が用いられている。
【THE RESCUE】
National Geographic Documentary Filmsによる2021年のドキュメンタリー。救助当事者へのインタビューなどを使い、タムルアン洞窟救出を再構成する。
【史実検証】
映画・ドラマ・書籍などで描かれた内容を、公的記録、一次資料、当事者証言、学術資料などと照合し、確認可能な事実と作品上の再構成を分離すること。
出典・参考資料
-
Prime Video,
“Thirteen Lives / 13人の命,”
2022. -
British Cave Rescue Council,
Tham Luang Nang Non Cave Rescue,
2018年6月~7月各ブリーフィング. -
UK Cabinet Office,
“Civilian Gallantry List: 2019,”
28 December 2018. -
U.S. Department of Defense,
“DoD Personnel Assist in Thai Cave Rescue Operations,”
9 July 2018. -
Lawthaweesawat C, Harris R, Isara W, Pongpirul K.,
“Prehospital Care of the 13 Hypothermic, Anesthetized Patients in the Thailand Cave Rescue,”
New England Journal of Medicine,
2019. -
van Waart H, Harris RJ, Gant N, et al.,
“Deep anaesthesia: The Thailand cave rescue and its implications for management of the unconscious diver underwater,”
Diving and Hyperbaric Medicine,
2020. -
National Geographic Documentary Films,
“The Rescue,”
2021. -
Entertainment Weekly,
Interview with Rick Stanton on Thirteen Lives,
2022. -
The Guardian,
“Going underground: inside Ron Howard’s explosive movie about the Thai cave rescue,”
22 July 2022. -
William Nicholson interviews regarding the screenplay and composite characters for Thirteen Lives,
2022.
本記事では映画『13人の命』を史実の最終根拠にはせず、British Cave Rescue Council、英国政府、米国防総省、救出参加医師らによる医学論文と照合した。映画の制作過程については、監督ロン・ハワード、脚本家ウィリアム・ニコルソン、実際の救出ダイバーで映画の技術顧問を務めたリック・スタントンらのインタビューを使用した。スタントン本人は実際の洞窟潜水と映画の最大の差として水中視界を挙げており、実際には映画より著しく視界が悪かった。また、脚本家ニコルソンは複数の親を統合した架空の複合キャラクターを作ったこと、実話の枠内でも台詞などを創作する必要があったことを明らかにしている。このため、本記事では「救出手順・主要人物・結果は史実に近い」「水中表現・時間配置・人物・会話には映画上の再構成がある」と整理した。映画は有用な入口ではあるが、公的記録や医学資料の代替とは扱っていない。