1916年8月30日午前。
濃霧の向こうから、小さな汽船がElephant Islandへ近づいていた。
船はチリ海軍のYelcho(イェルチョ)。
乗っていたのは、約3か月前に島を離れたアーネスト・シャクルトンだった。
Cape Wildでは22人が救助を待っていた。
しかし彼らには、シャクルトンがSouth Georgiaへ到達したことも、Stromnessの捕鯨基地へ着いたことも、その後3回も救助に失敗していたことも分からない。
無線はない。
新聞もない。
外部からの情報は一切ない。
22人にできたのは、食料を減らし、壊れた救命艇を屋根にした小屋で暮らし、海の向こうに船が現れるのを待つことだけだった。
午前11時40分ごろ。
YelchoからCape Wildのキャンプが発見された。
島側も船に気づいた。
シャクルトンが浜へ近づき、フランク・ワイルドへ全員の安否を尋ねる。
答えは、
22人全員が生きている。
というものだった。
その約1時間後には、島に残っていた全員がYelchoへ収容された。
これによって、Enduranceに乗っていた28人は全員生還した。
だが、ここで一つ注意が必要になる。
この遠征は、Endurance側だけではなかった。
南極大陸の反対側では、Auroraでロス海へ向かったRoss Sea Partyも活動していた。
そして、そちらでは3人が死亡している。
この記事で分かること
- Elephant Islandの22人は約4か月半をどう過ごしたのか
- なぜSouth Georgia到達後もすぐ救助できなかったのか
- Southern Skyによる第1次救出が失敗した理由
- Instituto de Pesca No.1による第2次救出が失敗した理由
- Emmaによる第3次救出が失敗した理由
- なぜ第4次救出のYelchoだけが島へ到達できたのか
- 「28人全員生還」は誰を指しているのか
- Ross Sea Partyでは何が起きていたのか
- 死亡したSpencer-Smith、Mackintosh、Haywardに何が起きたのか
- 帝国南極横断探検隊全体を「全員生還」と呼べるのか
CASE FILE 28
シャクルトンとエンデュアランス号遠征|全10回
- 第1回 シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
- 第2回 シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
- 第3回 なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
- 第4回 エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
- 第5回 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
- 第6回 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
- 第7回 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
- 第8回 なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
- 第9回 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死【現在の記事】
- 第10回 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか
シャクルトンが島を離れた時点で、22人には救助予定日がなかった
1916年4月24日、シャクルトンら6人がJames CairdでElephant Islandを離れた。
島に残った22人の指揮を任されたのが、フランク・ワイルドだった。
シャクルトンはSouth Georgiaへ到達できれば救助船を確保するつもりだった。
しかし、それが何日後になるかは誰にも分からない。
James CairdがSouth Georgiaへ到達できる保証さえなかった。
残留隊から見れば、
「救助隊が来ることを確認して待っている」のではなく、「救助要請そのものが成功したか分からない状態で待っている」
ことになる。
最初に必要だったのは、22人が冬を越せる「家」だった
Cape Wildへ到着した時点で、隊員の状態は良くなかった。
長期間の氷上生活と救命艇航海で体力を消耗していた。
衣類や寝袋は濡れている。
ブラックボロウは両足に重度の凍傷を負い、ハドソンも自力で十分に動ける状態ではなかった。
さらにElephant Islandでは、上陸直後から長期間の悪天候が続いた。
テントだけでは長期生活に耐えられない。
そこで残された2隻、
- Dudley Docker
- Stancomb Wills
を逆さにし、屋根として利用した。
地面には石を積んで壁を作り、その上へ2艇を並べる。
破れたテント生地で隙間を塞ぐ。
高さは十分ではなく、内部では立って歩けない。
それでもテントよりは強風を防ぐことができた。
この即席小屋が、22人の生活拠点になる。
ブラックボロウは島で足の指を切断された
特に深刻だったのが、パーシー・ブラックボロウの凍傷だった。
Elephant Islandへ向かう救命艇航海で両足を強く凍傷し、状態は改善しなかった。
島に残った医師のアレクサンダー・マックリンとジェームズ・マキルロイは、手術が必要だと判断する。
その結果、ブラックボロウは左足の5本の指を切断された。
現代の手術室ではない。
艇を屋根にした暗く汚れた小屋の中で、限られた医療器具と麻酔薬を使って行われた。
手術は成功し、ブラックボロウは救助まで生き延びた。
つまり22人が「全員無傷で救出された」わけではない。
全員が生存していたという意味での「全員生還」である。
食料はアザラシとペンギンへ依存した
Cape Wildでは保存食だけを食べ続けることはできなかった。
主な食料源となったのは、
- アザラシ
- ペンギン
だった。
肉は食料。
脂肪はストーブやランプの燃料になる。
しかし、動物が毎日現れるわけではない。
季節が進むにつれ、獲物は少なくなった。
8月末になると食料事情はかなり悪化していた。
シャクルトンが後にまとめた記録では、救出時にはアザラシとペンギンの肉は残り数日分程度まで減り、隊員たちは貝類や海藻まで利用していた。
救助がさらに数週間遅れていた場合、状況は急速に深刻化した可能性がある。
それでも毎朝「今日、シャクルトンが来るかもしれない」と準備した
ワイルドが行ったことでよく知られているのが、毎朝の出発準備だった。
シャクルトンが島を離れてしばらくすると、ワイルドは天候や海氷の状態が良い朝に、
「今日はBossが来るかもしれない」
という趣旨で隊員へ寝袋をまとめさせた。
救助船が来るという情報を持っていたわけではない。
だが船が現れたとき、すぐ撤収できる状態を作ることには実務的な意味がある。
Elephant Island周辺の海氷は短時間で開閉する。
救助船が到達できたとしても、何時間も島の沖で待機できる保証はなかった。
実際、8月30日の救出ではこの問題が現実になる。
5月20日に助けを求められたのに、救助は8月30日だった
シャクルトン、ワースリー、クリーンがStromness捕鯨基地へ到達したのは5月20日。
そこには船も人員もあった。
ならば数日後にはElephant Islandへ戻れそうに思える。
実際、シャクルトンはほとんど時間を置かず救助船を手配した。
それでも救助まで約3か月かかる。
理由は、Enduranceを閉じ込めたのと同じパックアイスだった。
Elephant Islandは冬の海氷に囲まれ、通常船では近づけなかった。
第1次救出|Southern Sky――あと約70マイルで氷に止められた
最初に使われたのは捕鯨船Southern Skyだった。
South GeorgiaのHusvikに係留されていた船で、シャクルトンは所有者と連絡する時間さえ惜しみ、自ら責任を負う形で使用を手配した。
機関の一部は陸上へ外されていたが、捕鯨基地の人々が短期間で復旧させた。
1916年5月23日、Southern SkyはElephant Islandへ向かった。
しかし島へ近づくと海面に新しい氷が現れる。
さらに古いパックアイスが増えた。
5月28日ごろには、島まで約70マイルの地点で明確な海氷帯に阻まれた。
翌日も進入を試したが、厚いパックが続いていた。
Southern Skyは鋼製汽船で、Enduranceのように氷の中へ長時間入ることを想定した船ではない。
さらに搭載石炭にも限界があった。
その場で何週間も氷が開くのを待つことはできない。
シャクルトンは撤退を決めた。
5月31日、Southern SkyはPort Stanleyへ到着する。
第1次救出は失敗した。
第2次救出|Instituto de Pesca No.1――島が見えているのに行けない
次に救助船を提供したのはウルグアイ政府だった。
船は政府所属のトロール船、
Instituto de Pesca No.1。
6月10日にPort Stanleyへ到着すると、ほぼそのままElephant Islandへ向かった。
航海3日目の朝。
今度はElephant Islandの山々そのものが見えた。
島は目の前にある。
ところが、島から約20マイルの地点に厚いパックアイスが横たわっていた。
船を少し氷へ入れる試みも行われた。
しかし船体はすぐ氷に拘束され、プロペラを損傷する危険もあったため後退する。
さらに問題だったのが燃料だった。
計画上期待したより船速が遅く、逆に石炭消費は大きかった。
残り石炭は約3日分。
島が見えていても、その20マイルを突破できない。
シャクルトンは再び撤退した。
Elephant Islandの22人には、2回の救出失敗が見えていなかった
Instituto de Pesca No.1は島を視認できる距離まで接近している。
しかしCape Wild付近は霧に覆われていた。
島側から救助船は確認できなかった。
つまり22人から見れば、
5月も何も来ない。
6月も何も来ない。
という状態が続いている。
実際にはシャクルトンはすでに二度、かなり近くまで来ていた。
しかし、その事実を伝える手段がなかった。
第3次救出|Emma――今度は船自体が限界になった
三度目に選ばれたのは、スクーナーEmmaだった。
Punta Arenasの住民やBritish Association of Magallanesが資金を集め、約40年前に建造された木造船をチャーターした。
補助エンジンも搭載していた。
チリ政府はYelchoを提供し、Emmaを航程の途中まで曳航した。
1916年7月12日、救出行動が始まる。
しかし悪天候で曳航ロープは何度も切れた。
Yelcho側では石炭も減り、Emmaと分かれる。
以後Emmaは単独でElephant Islandを目指した。
7月21日。
島まで約100マイルの地点で、再び海氷が現れた。
氷へ入って10分もしないうちに船体装備を損傷し、エンジンの冷却水取入口も氷で詰まる。
さらにエンジン自体も故障。
帆だけで航行しながら何度も南下を試したが、島方向はパックアイスに塞がれていた。
8月8日、EmmaはPort Stanleyへ戻った。
3回目も失敗。
失敗の原因は、3回ともほぼ同じだった
| 救出 | 船 | 主な障害 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 第1次 | Southern Sky | 厚いパックアイス・石炭搭載量 | 約70マイル手前で撤退 |
| 第2次 | Instituto de Pesca No.1 | 島まで約20マイルで厚いパック、燃料不足 | 撤退 |
| 第3次 | Emma | 海氷、荒天、船体損傷、エンジン故障 | 撤退 |
必要なのは単に「もっと大きな船」ではなかった。
Enduranceの遭難で分かったように、海氷へ無理に入れば救助船まで失う可能性がある。
救助船自身が遭難すれば、Elephant Islandの22人を救うどころではない。
したがってシャクルトンは、氷を力ずくで突破するより、
海氷が一時的に開く条件を捉える必要があった。
第4次救出|氷に弱いYelchoをあえて使った
3回目の失敗後、イギリスからはDiscoveryを救援船として派遣する計画が進んでいた。
しかし到着は9月以降になる。
シャクルトンはそこまで待とうとしなかった。
次にチリ政府へ求めたのが、以前Emmaを曳航したYelchoだった。
Yelchoは小型の鋼製汽船。
本格的な砕氷船ではない。
むしろシャクルトン自身、パックアイスへ入れるには不適切な船だと認識していた。
そこで条件を決めた。
氷には突入しない。
海氷が開いているときだけ島へ近づく。
チリ政府は使用を認め、指揮にはLuis Pardo(ルイス・パルド)船長が就いた。
8月25日、Yelchoは南へ出航した。
成功した理由は「Yelchoが強かったから」ではない
Yelchoが過去3隻より強力な砕氷船だったわけではない。
成功を可能にした最大の条件は、海氷の一時的な変化だった。
南からの強風によってElephant Island周辺のパックアイスが北へ動き、島へ接近できる水路が生まれていた。
シャクルトンの記録では、Yelchoが訪れる2日前なら島へ到達できなかった可能性があり、数時間後には再び氷が閉じた可能性もあるとしている。
つまり、
Southern Sky
Instituto de Pesca No.1
Emma
が失敗し、
Yelchoが成功した差は、
船の性能差だけではなく、到着した瞬間の海氷配置
にもあった。
8月30日午前11時40分、Cape Wildを発見
8月30日午前10時ごろ、YelchoはElephant Island近くの氷山と岩礁を確認した。
周囲は濃霧だった。
シャクルトンには待つ余裕がない。
霧が晴れるのを待っているうちに、海氷が再び閉じる可能性がある。
Yelchoは島沿岸を進む。
午前11時40分ごろ。
ワースリーが雪に覆われたCape Wildのキャンプを発見した。
同じころ、島側でも船に気付く。
「Lunch O!」だと思ったら、「Ship O!」だった
島ではちょうど昼食の準備が始まっていた。
その日の食事は、残ったアザラシの骨、貝、海藻などを煮たものだった。
外にいたジョージ・マーストンが船を発見する。
そして、
「Ship O!」
と叫んだ。
ところが小屋の中にいた一部の隊員は、
「Lunch O!」
と聞き間違え、最初は反応しなかった。
もう一度叫び声が上がる。
22人は小屋から飛び出した。
チリ国旗を掲げた船が、海上にいた。
煙を出すため、最後の燃料まで使った
島側は自分たちの場所を知らせる必要がある。
旗は凍りつき、うまく掲げられなかった。
そこで衣類や燃料を使い、丘の上で火を焚いた。
シャクルトン側はすでにCape Wildを認識していた。
Yelchoが向きを変え、浜へ近づいてくる。
小艇が降ろされた。
その船首に立っていたのがシャクルトンだった。
「全員いるのか」――最初に確認したのは人数だった
シャクルトンがまず確認したのは、島で何人が生きているかだった。
ワイルドから返ってきた答えは、
全員無事。
だった。
Cape Wildへ残した22人は1人も欠けていなかった。
シャクルトン自身を含むJames Cairdの6人もSouth Georgiaへ到達している。
したがって、
Enduranceに乗っていた28人全員の生存が、この瞬間に確認された。
救出作業に何時間も使わなかった
通常なら再会を喜び、荷物を整理し、キャンプを撤去する時間を取るように思える。
しかしYelchoに、その余裕はなかった。
海氷が再び戻れば船が島から離れられなくなる可能性がある。
シャクルトンはCape Wildの小屋を見に行くことさえしなかった。
持ち出すのは、
- 隊員22人
- 遠征記録
- 重要な装備
が中心。
不要な物資は置いていく。
救助艇は複数回往復し、全員をYelchoへ移した。
最初に船を発見してから約1時間で22人全員が収容された。
Yelchoはすぐ北へ向かった。
Endurance側28人は、本当に全員生き残った
ここについては曖昧さはない。
| Endurance側 | 人数 | 結果 |
|---|---|---|
| James CairdでElephant Islandを出た隊 | 6人 | 全員生存 |
| Elephant Island残留隊 | 22人 | 全員生存 |
| 合計 | 28人 | 28人全員生存 |
したがって、
「Enduranceの28人は全員生還した」
という説明は正しい。
シャクルトンの救出劇が「全員生還」と語られる根拠はここにある。
しかし帝国南極横断探検隊は、Enduranceだけではない
第2回で確認したように、シャクルトンの計画は南極大陸の両側から動く遠征だった。
ウェッデル海側を担当したのがEndurance。
反対側のロス海側を担当したのがAuroraだった。
Ross Sea Partyの任務は、シャクルトンの横断隊が南極点を越えた後に使用する、
- 食料
- 燃料
などの補給所をルート上へ設置することだった。
ところが彼らには、重大な情報が届いていない。
Endurance側の横断隊が、そもそも南極大陸へ上陸できていないこと
である。
無線通信がなかったため、Ross Sea Partyは補給所が必要になるものと考え、任務を続行した。
1915年5月、Auroraまで流されてしまった
Ross Sea側でも、Enduranceと異なる形の船舶事故が起きていた。
1915年5月、強風によってAuroraが係留地点から外れ、海氷とともに沖へ流された。
船には多くの物資が残っていた。
陸上には10人が取り残された。
Antarctic Heritage Trustによれば、Auroraには18人が乗った状態で流され、Cape Evans側には10人と限られた装備が残った。
船を失ったEndurance側と似ているようで、条件は違う。
Ross Sea PartyにはScott隊が残したCape EvansやHut Pointの小屋を利用できた。
一方で、遠征本来の物資の多くをAuroraと一緒に失っている。
それでも彼らは補給所設置任務を続けた。
使われることのない補給所を、知らずに作り続けた
1915年10月、9人が本格的な補給所設置行動へ出発する。
彼らはRoss Ice Shelfを南へ進み、横断隊が利用するはずの食料と燃料を設置していった。
その頃、ウェッデル海側ではEnduranceが氷圧で破壊されつつあった。
10月27日には退船。
11月21日には沈没している。
しかしRoss Sea Partyには、その情報がない。
1916年1月26日、彼らは最終的な補給所をMount Hope付近に設置した。
任務そのものは達成された。
ただし、その補給所を使う横断隊は永遠に来なかった。
帰路で壊血病が広がった
問題は帰路だった。
数か月のそり旅行で食生活は偏り、隊員に壊血病の症状が現れる。
脚が腫れる。
筋肉や関節が痛む。
歩行が困難になる。
Arnold Spencer-Smithの状態は特に悪化した。
1月下旬には自力歩行ができなくなり、帰路では寝袋に入ったままそりへ載せられた。
Aeneas Mackintoshも衰弱。
Victor Haywardにも壊血病症状が現れた。
健康な隊員が、病人を載せたそりを引きながら北へ戻ることになった。
1人目|Arnold Spencer-Smith――3月9日死亡
Spencer-Smithは聖職者であり、遠征では写真撮影なども担当していた。
帰路では長期間そりへ載せられて運ばれた。
1916年3月9日。
気温は華氏-29度前後まで低下していた。
午前4時ごろ、Spencer-Smithが体調の異変を訴える。
午前5時45分ごろ、死亡が確認された。
遺体は寝袋に入れたまま雪上へ埋葬され、竹で十字架を作り、雪と氷のケルンが築かれた。
Ross Sea Party最初の死者だった。
それでも残った隊員はHut Pointへ戻った
Spencer-Smithを失った後も、隊員たちは歩き続けた。
MackintoshやHaywardも重い壊血病症状を抱えていた。
健康状態の比較的良い隊員が彼らを支え、ときにはそりに載せる。
最終的に生存者はHut Pointへたどり着いた。
そこでアザラシ肉などの新鮮な食料を得ると、MackintoshとHaywardの状態も徐々に改善した。
しかしCape Evansの本拠地とはMcMurdo Soundの海氷を挟んで隔てられていた。
2人目・3人目|MackintoshとHaywardは海氷上で消えた
1916年5月8日。
Aeneas MackintoshとVictor Haywardは、Hut PointからCape Evansへ向かうことを決めた。
他の隊員は海氷がまだ十分安全ではないとして反対した。
天候も悪化する可能性があった。
それでも2人は軽装で出発した。
午後には吹雪が強くなった。
2人がCape Evansへ到着することはなかった。
5月10日、天候が回復してから捜索が行われる。
雪面には2人の足跡が残っていた。
しかし約2マイル先で、足跡は突然終わっていた。
その先にあったのは、海氷が失われた開水面だった。
2人が歩いていた海氷の一部が、吹雪の間に沖へ流されたと考えられた。
MackintoshとHaywardの遺体は発見されていない。
FACT CHECK|MackintoshとHaywardの「死因」は確定しているのか
2人が1916年5月8日にHut Pointを出て行方不明になったこと、後の捜索で足跡が海氷消失地点まで続いていたことは記録されている。
そのため、吹雪の中で海氷が割れ、流氷とともに海へ流された可能性が高いと判断された。
ただし遺体は発見されていない。
したがって、具体的に「溺死した」「低体温症で死亡した」といった最終的な死因まで断定することはできない。
Ross Sea Partyの死者は3人だった
| 人物 | 時期 | 状況 |
|---|---|---|
| Arnold Spencer-Smith | 1916年3月9日 | 補給所設置任務の帰路、壊血病で衰弱し死亡 |
| Aeneas Mackintosh | 1916年5月8日以降 | Hut PointからCape Evansへ海氷上を移動中に行方不明 |
| Victor Hayward | 1916年5月8日以降 | Mackintoshとともに海氷上で行方不明 |
残った7人はその後もCape Evansで生活を続けた。
1917年1月10日、Auroraが戻ってきた
Auroraは長期間の漂流後にニュージーランドへ戻り、修理された。
その後、Ross Sea Party救援のため再び南極へ向かった。
この救援航海にはシャクルトンも参加した。
1917年1月10日、AuroraがCape Evansへ到着。
残っていた7人の生存者が救出された。
これによって帝国南極横断探検隊の救助活動は事実上終了する。
FACT CHECK|「シャクルトンが遠征隊全員を生還させた」は正しいか
| 表現 | 判定 |
|---|---|
| Enduranceに乗っていた28人は全員生還した | 正しい |
| Elephant Islandに残った22人は全員救助された | 正しい |
| シャクルトンの帝国南極横断探検隊では死者が出なかった | 誤り |
| Ross Sea Partyでは3人が死亡した | 正しい |
したがって、最も正確なのは、
「Endurance側の28人は全員生還したが、帝国南極横断探検隊全体ではRoss Sea Partyの3人が死亡した」
という表現である。
なぜ「全員生還」というイメージだけが強く残ったのか
理由の一つは、Endurance側の物語が一つの連続したドラマとして理解しやすいことにある。
船が氷に閉じ込められる。
船を失う。
氷上で漂流する。
救命艇でElephant Islandへ渡る。
6人がJames CairdでSouth Georgiaへ向かう。
3人が島を横断する。
シャクルトンが救助船で戻る。
28人全員が助かる。
物語として非常に明確である。
一方、Ross Sea Partyは地理的にもEndurance側から完全に分離しており、別の船、別の指揮系統、別の遭難を経験していた。
その結果、一般的な「Shackleton and Endurance」の物語ではRoss Sea Partyが省略されやすい。
しかし遠征計画上、彼らは付録ではない。
横断隊の後半を支える不可欠な補給部門だった。
しかもRoss Sea Partyは、使われないと知らずに任務を達成した
この3人の死を理解するうえで最も重い事実は、Ross Sea Partyが補給所を設置した時点で、
その物資をシャクルトンが使用する可能性はすでになくなっていた
ことである。
Enduranceは1915年10月に退船され、11月に沈んでいる。
横断隊は南極大陸へ一歩も入っていない。
しかしロス海側にはその情報を伝える無線通信手段がない。
Ross Sea Partyは、
「横断隊が来るかもしれない」
ではなく、
「来るものとして」
補給任務を続けた。
彼らは最終補給所まで設置した。
任務としては達成している。
しかし、その補給物資は一度も横断隊に使われなかった。
「全員生還」を否定するために3人を持ち出すわけではない
ここでRoss Sea Partyの死者を挙げる目的は、
「シャクルトンの全員生還は嘘だった」
と評価を逆転させることではない。
Endurance側28人が1人も失われなかったこと自体は事実である。
船を失い、約5か月半海氷上で暮らし、救命艇でElephant Islandへ渡り、James Cairdで救援要請を行い、最終的に22人を回収した。
この成果は変わらない。
問題は、
どの集団を指して「全員」と呼んでいるか
である。
Endurance乗組員だけを指すなら正しい。
Imperial Trans-Antarctic Expedition全体を指すなら正しくない。
歴史的事実としては、この二つを同時に記録する必要がある。
2つの隊を並べると、遠征全体の姿が見える
| Endurance側 | Ross Sea側 | |
|---|---|---|
| 船 | Endurance | Aurora |
| 主要任務 | 横断隊をWeddell Sea側へ送り込む | 横断後半用の補給所を設置 |
| 船の問題 | 海氷に閉じ込められ圧壊・沈没 | 係留地点から流され岸上隊と分断 |
| 通信 | 外部との連絡不能 | Endurance側との連絡不能 |
| 任務 | 大陸横断を開始できず | 補給所設置を達成 |
| 結果 | 28人全員生存 | 3人死亡、7人が1917年救出 |
両者を合わせて初めて、
帝国南極横断探検隊がどれほど大規模で、通信断絶に弱い計画だったか
が分かる。
まとめ|「全員生還」は正しい。ただしEnduranceの28人についてである
1916年5月20日、シャクルトンはStromness捕鯨基地へ到達した。
しかしElephant Islandの22人を救出できたのは、3か月以上後の8月30日だった。
最初のSouthern Skyは約70マイル手前でパックアイスに阻まれた。
2隻目のInstituto de Pesca No.1は島を視認しながら、約20マイル手前で前進不能になった。
3隻目のEmmaも氷、荒天、船体損傷、エンジン故障で撤退した。
4回目。
チリ政府が提供したYelchoが8月25日に出航する。
南風によってパックアイスが一時的に北へ移動した隙を利用し、8月30日にElephant Islandへ到達した。
午前11時40分ごろにCape Wildを発見。
島に残った22人は全員生存していた。
約1時間後には全員がYelchoへ収容された。
James Cairdで島を離れた6人も生存している。
したがって、
Enduranceの28人は全員生還した。
この事実に誤りはない。
しかし帝国南極横断探検隊全体では、反対側のRoss Sea Partyで、
- Arnold Spencer-Smith
- Aeneas Mackintosh
- Victor Hayward
の3人が死亡した。
Spencer-Smithは補給任務からの帰路、壊血病で死亡。
MackintoshとHaywardはHut PointからCape Evansへ海氷上を移動中に行方不明となった。
そして皮肉なことに、彼らが命を削って設置した補給所を、Endurance側の横断隊が使用することはなかった。
それでもRoss Sea Partyは、自分たちの側から見れば任務を完遂している。
1917年1月10日、Auroraが戻り、7人の生存者が救出された。
これによって1914年に始まった帝国南極横断探検隊の遭難と救助は、ようやく終わった。
ただしEnduranceそのものは、ウェッデル海の海底に残されたままだった。
船長フランク・ワースリーが記録した沈没位置を手掛かりに、その船を探す試みは100年以上後まで続く。
そして2022年3月。
水深3,000mを超える海底で、船尾に刻まれた文字が映し出された。
ENDURANCE。
最終第10回では、1915年に沈んだ船がなぜ107年間見つからず、2022年にどう発見されたのか。そして海底の船体から何が確認されたのかを追う。
今回出てきた言葉
- Yelcho
- チリ政府が提供した小型汽船。Luis Pardo船長の指揮で1916年8月30日にElephant Islandへ到達し、残留隊22人を救出した。
- Southern Sky
- South Georgiaの捕鯨船。5月23日に最初のElephant Island救出へ向かったが、海氷に阻まれて撤退した。
- Instituto de Pesca No.1
- ウルグアイ政府が提供したトロール船。第2次救出ではElephant Islandを視認できる距離まで到達したが、パックアイスを突破できなかった。
- Emma
- Punta Arenasでチャーターされた木造スクーナー。第3次救出に使用されたが、海氷・悪天候・機関故障により撤退した。
- Ross Sea Party
- 帝国南極横断探検隊のロス海側を担当した隊。横断隊後半用の食料・燃料補給所を設置する役割を担った。
- Aurora
- Ross Sea側を担当した遠征船。1915年5月に係留地点から流され、岸上の10人が取り残された。修理後、1917年1月に救援船として南極へ戻った。
- Arnold Spencer-Smith
- Ross Sea Partyの聖職者・写真担当。補給所設置任務の帰路で壊血病が悪化し、1916年3月9日に死亡した。
- Aeneas Mackintosh
- Ross Sea Partyの指揮官。1916年5月、Victor HaywardとHut PointからCape Evansへ向かう途中で行方不明となった。
- Victor Hayward
- Ross Sea Party隊員。Mackintoshとともに海氷を渡っている最中に行方不明となり、遺体は発見されなかった。
CASE FILE 28|全記事
- シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
- シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
- なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
- エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
- 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
- 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
- 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
- なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
- 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死【現在の記事】
- 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか
出典・参考資料
-
Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
Southern Sky、Instituto de Pesca No.1、Emma、Yelchoによる4回の救出行動、Elephant Island残留隊の生活、8月30日の救出、Ross Sea Partyの活動と3人の死亡についての一次・同時代記録の編集資料として使用。 -
Royal Geographical Society — Endurance22 Interactive / Shackleton Expedition Timeline
Elephant Island救出の時系列、4回の救援行動、8月30日のYelcho救出、1917年1月のRoss Sea Party救出について確認。 -
Royal Museums Greenwich — History of Antarctic Explorers
Endurance側28人全員生還と、Ross Sea Partyで3人が死亡したことを区別するために使用。 -
Royal Museums Greenwich — Victor George Hayward Journal Collection
Ross Sea Party隊員Victor Haywardの1915~1916年の日誌、行方不明と当時の記録資料の確認に使用。 -
Antarctic Heritage Trust — History of Other Expeditions / Ross Sea Party
AuroraによるRoss Sea Partyの分断、補給所設置任務、Spencer-Smithの壊血病死、MackintoshとHaywardの行方不明、1917年1月の7人救出について確認。
本記事では、「全員生還」という表現の対象範囲を明確に区別しています。Enduranceに乗船していたWeddell Sea側の28人は全員生存しました。一方、帝国南極横断探検隊にはRoss Sea側の隊も含まれ、そちらではArnold Spencer-Smith、Aeneas Mackintosh、Victor Haywardの3人が死亡しています。また、MackintoshとHaywardについては遺体が確認されていないため、海氷崩壊時に行方不明となり死亡したと判断された経緯を記載し、具体的な最終死因は断定していません。