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800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海

探検・遠征

1916年4月24日正午ごろ、エレファント島のCape Wildから1隻の小型艇が海へ出た。

艇の名はJames Caird(ジェームズ・ケアード)

乗っていたのは6人だけだった。

アーネスト・シャクルトン、フランク・ワースリー、トム・クリーン、ハリー・マクニッシュ、ティモシー・マッカーシー、ジョン・ヴィンセント。

島にはフランク・ワイルドを中心とする22人が残った。

外部は彼らの正確な現在地を知らない。Elephant Islandは通常航路から外れ、無線設備もない。待っているだけで救助船が現れる可能性は低かった。

そこでシャクルトンが選んだのが、約800マイル離れたサウスジョージア島だった。

現在の航海研究では、この航程は約800海里、約1,500kmとして扱われる。

一方、使用するJames Cairdは全長約6.9m。
大型ヨットでも沿岸巡視船でもない。Enduranceから持ち出した救命艇を、海岸で手に入る材料だけで改造したものだった。

さらに航路上には、南大洋の強風と大波がある。

GPSはない。

無線もない。

エンジンもない。

サウスジョージア島を通り過ぎれば、風上へ戻れる保証もない。

この航海を成立させたのは、「勇気」だけではなかった。

小型艇を外洋航海へ耐えさせる改造、艇を安定させる重量、限られた天測機会を利用する航法、そして16日間にわたり艇を機能させ続ける運用が必要だった。

この記事で分かること

今回は4月24日のElephant Island出航から、5月10日にSouth GeorgiaのKing Haakon Bayへ上陸するまでを扱う。

  • なぜ近いフォークランド諸島ではなくSouth Georgiaを選んだのか
  • 6人はどのような役割で選ばれたのか
  • James Cairdは外洋航海用にどう改造されたのか
  • なぜ砂袋と石を大量に積んだのか
  • ワースリーはGPSなしでどう位置を求めたのか
  • 「太陽を4回しか見られなかった」はどこまで正確なのか
  • なぜ艇へ付着する氷が転覆につながるのか
  • 食料より飲料水が先に危険になった理由
  • South Georgiaを見つけた後も、なぜ2日間上陸できなかったのか

5月10日の上陸後、なぜ捕鯨基地まで島内部を徒歩で横断しなければならなかったのかは、第8回で詳しく扱う。

なぜ、近いフォークランド諸島ではなくSouth Georgiaだったのか

Cape Wildから外部へ助けを求める場合、候補はSouth Georgiaだけではなかった。

シャクルトン自身は『South』で、確実に支援を得られる港としてフォークランド諸島のPort Stanleyも検討している。

距離だけなら約540マイルで、South Georgiaより近い。

それでも選ばなかった。

理由はだった。

この海域では西寄りの風が卓越する。

小さなJames Cairdでフォークランド諸島へ向かう場合、長距離にわたって風に逆らって進まなければならない可能性が高かった。

艇は帆を持っているとはいえ、本格的な外洋ヨットではない。帆面積も小さく、波の高い南大洋で長期間風上へ切り上がる能力には限界がある。

一方、South Georgiaは約800マイル離れているが、西風帯を利用しやすい位置にある。

さらに島の反対側には、Enduranceが1914年12月に出航した捕鯨基地がある。

島へさえ到達できれば、人間、船、通信手段を確実に見つけられる。

つまり選択基準は単純な最短距離ではなかった。

距離 × 卓越風 × 艇の風上性能 × 到着後に確実に救援を得られるか

を考えた結果、South Georgiaが選ばれた。

航路の位置関係【SELF-DIAGRAM|James Caird 1916】

※Elephant IslandのCape WildからSouth GeorgiaのKing Haakon Bayまでの地理的スケールと、
South Georgiaを選んだ理由を理解するための非縮尺模式図。
Frank Worsleyの原航海日誌を再解析したCanterbury Museumの研究と、
James Caird航海の記録を基礎にしている。
正確な日別航跡、1916年当時の海氷範囲、風向・海流の時系列変化は再現していない。

James Caird航海の広域位置関係 Elephant Island Cape Wild、Falkland Islands、South Georgia King Haakon Bayの位置関係と、 卓越する西寄りの風を利用してSouth Georgiaへ向かった航海の概略を示す。 正確な航跡を示す図ではない。

北 ↑ NOT TO SCALE

西

Falkland Islands 距離は比較的近い候補

Elephant Island Cape Wild|4月24日出航

South Georgia King Haakon Bay|5月10日上陸

卓越する西寄りの風(概念)

初期:北寄りへ進み Elephant Island周辺の氷域から離脱

James Caird 約800海里/約1,500km ※正確な日別航跡ではない

より近い候補だったが、 風上航行の負担が大きい

この図で見るポイント ・最短距離だけで目的地を選んでいない ・西寄りの風を利用しやすいSouth Georgia ・島を東へ外すと戻れない危険が大きい

この図で重要なのは、South Georgiaが単に「遠い島」だったのではなく、
Elephant Islandから見て東寄りにあり、西寄りの風を利用しやすい救援先だったことである。
一方、Falkland Islandsはより近い候補だったが、小型艇で長距離を風上へ進む負担が大きかった。

またWorsleyの航法では、South Georgiaを東へ外すことが致命的だった。
そのため航海終盤には最短線だけを狙うのではなく、誤差があっても島を捉えられるよう進路を管理した。


Canterbury Museum|Worsley原航海日誌の再解析を見る


James Caird Society|航海記録を確認する

22人を残す以上、島にも指揮官が必要だった

航海へ出る人選では、能力の高い人間を全員艇へ集めればよいわけではない。

Elephant Islandには22人が残る。

しかもJames Cairdが失敗すれば、彼ら自身で冬を越し、場合によっては翌春に別の脱出手段を考えなければならない。

シャクルトンとともに何度も極地遠征を経験していたフランク・ワイルドは、James Cairdへの同行を希望した。

しかしシャクルトンは断った。

理由は明確だった。

自分がいない間、22人をまとめられる人物としてWildをElephant Islandへ残す必要があったからである。

航海チームだけを最強にしても、残留隊が崩壊すれば救助作戦全体は成功しない。

James Cairdへ乗った6人

最終的に選ばれたのは次の6人だった。

人物 主な役割・強み
Ernest Shackleton 遠征隊長。航海全体の意思決定
Frank Worsley Endurance船長。航海士として位置計算を担当
Tom Crean 第二航海士。Scott隊などでも長距離極地行動を経験
Harry McNish 船大工。James Cairdの改造・修理に不可欠
Timothy McCarthy 熟練した船員
John Vincent 船員。漕艇・操帆要員

特に代替が難しいのはWorsleyとMcNishだった。

Worsleyがいなければ、外洋上でSouth Georgiaへ艇を誘導する航法能力が大きく低下する。

McNishがいなければ、救命艇を外洋航行仕様へ改造し、航海中に損傷を修理する専門技能を失う。

この航海は6人が同じ仕事をするのではなく、航海・操船・艇体維持という異なる機能を6人で成立させる構成だった。

James Cairdは、そのままでは800マイルを渡れない

James CairdはEnduranceの救命艇として作られた艇である。

現在の航海研究では全長22½フィート、約6.9mとして扱われている。

この大きさの開放艇で南大洋を横断するには、決定的な問題があった。

上から波をかぶれば、艇内へ直接大量の水が入る。

船体中央が大波の谷へ落ち、船首と船尾だけが持ち上げられれば、長い船体は中央から折れる方向へ曲がろうとする。

長時間の波浪でこの曲げを繰り返せば、木造艇の接合部にも大きな負担がかかる。

そこでMcNishを中心に、Cape Wildで改造作業が始まった。

艇の中央を折らせないため、内部に「背骨」を追加した

McNishはStancomb WillsのマストをJames Caird内部へ前後方向に取り付けた。

目的は艇の縦方向剛性を高めることだった。

波の頂点に船首と船尾が乗り、中央部が空中へ浮くような状態になると、艇は中央が下へ曲がる方向――あるいは逆方向――の大きな曲げ荷重を受ける。

こうした変形を少しでも抑えるため、艇内部へ長い構造材を追加した。

シャクルトン自身は、この補強を艇が「hogging」することを防ぐためと説明している。

つまりJames Cairdの改造は単なる雨よけではない。

救命艇の船体構造そのものを、外洋の長周期波へ対応させる補強も含まれていた。

箱の蓋とそりのランナーで「屋根」を作った

次に必要なのがデッキだった。

通常の救命艇は上部が大きく開いている。

沿岸で短時間使用するなら問題にならなくても、南大洋で大波を連続して受ければ艇内が水で満たされる。

しかしCape Wildに、船舶用の合板や防水デッキ材はない。

そこで使われたのが、

  • 物資箱の蓋
  • そりのランナー
  • 帆布

だった。

そりのランナーと箱材で骨組みを作り、その上をキャンバスで覆う。

帆布は凍結して硬くなっていたため、ブリバー・ストーブで少しずつ融かしながら加工した。

完成したデッキは完全な防水構造ではない。

実際、航海が始まると波の衝撃で箱材が動き、帆布がたわみ、複数箇所から水が漏れた。

それでも、上部が完全に開いた艇よりは大幅に浸水量を減らせる。

シャクルトンは後に、この簡易デッキなしでは航海を生き延びられなかっただろうと評価している。

軽くするのではなく、約450kgの砂袋まで積んだ

小型艇で長距離航海するなら、荷物をできるだけ減らした方がよいように思える。

しかしJames Cairdには、逆に大量のバラストが積まれた。

シャクルトンの記録では、毛布で袋を作って砂を入れ、その総重量は約1,000ポンド――約450kg。

さらに丸石も積んだ。

理由は艇の復原性を確保するためである。

帆へ横風を受けると艇は傾く。

波で横方向へ振られても傾く。

船底近くへ重いバラストを置けば重心が下がり、傾いた艇が元へ戻ろうとするモーメントを大きくできる。

ただし、重量を増やせば喫水は深くなる。

その分だけ波をかぶりやすくなり、船体への負荷も増える。

つまり「重いほど安全」でも「軽いほど安全」でもない。

安定性と浮力余裕のトレードオフを取る必要があった。

飲料水36ガロンと250ポンドの氷を積んだ

6人が持ち込んだ食料は、約1か月分として計画されていた。

保存食、ビスケット、砂糖、乾燥乳などに加え、Primusストーブと燃料も積み込まれた。

飲料水は36ガロン

さらに約250ポンドの氷を積み、溶ければ淡水として利用する計画だった。

問題は出航前から起きる。

水樽をStancomb WillsでJames Cairdへ運ぶ際、波で樽の一つが岩へぶつかった。

小さく損傷した樽へ海水が入り、内部の淡水は塩気を帯びた。

そのときは小さな事故に見えた。

しかし航海終盤、飲料水が不足すると、この海水混入が大きく影響する。

FACT CHECK|James Cairdは20フィート? 22フィート? 23フィート?

資料によって表記が異なる。

シャクルトン本人の『South』ではJames Cairdを「20-ft boat」と表現している一方、Frank Worsleyの原航海日誌を解析したCanterbury Museumの2018年研究では22½フィート(6.9m)としている。

現在James Cairdを所蔵するDulwich Collegeも、一般向けには約23フィートの救命艇として紹介している。

測定位置や改造後の寸法、丸め方による差があるため、本記事では現代の航海研究に合わせて約6.9mとする。

4月24日――出航する前から2人が海へ落ちた

4月24日の朝、James Cairdへ砂、石、食料、飲料水、航海器具を積み込んだ。

しかしCape Wildの波はすでに高くなっていた。

艇を海へ下ろす際、James Cairdは岩の間で転覆しかけ、VincentとMcNishが海へ投げ出された。

2人はすぐ救助された。

問題は、これから濡れた衣服を乾燥させる場所がほとんどないことである。

他の残留隊員から乾いた服を交換してもらい、出航準備を続けた。

正午ごろ、積載が完了する。

シャクルトンは最後にWildへ残留隊の指揮を託した。

そしてJames CairdはCape Wildを離れた。

出航後、まずSouth Georgiaとは違う方向へ進んだ

James Cairdの最終目的地は東寄りにあるSouth Georgiaだった。

しかしシャクルトンは、最初の約2日間は北方向へ進む方針を取った。

理由は二つあった。

一つは、Elephant Island周辺のパックアイスから早く離れること。

もう一つは、少しでも低緯度へ移動し、より温暖な海域へ出ることだった。

出航当日もJames Cairdは再びパックアイスへ入り、一時は氷を避けながら東へ迂回している。

午後5時30分ごろ、ようやくパックアイスを抜けた。

ここから本当の外洋航海が始まった。

GPSなしで、どうやって約1,500km先の島を見つけるのか

この航海で最も代替の難しい技術が、Frank Worsleyの航法だった。

船の位置は、

  • 緯度
  • 経度

の組み合わせで決まる。

1916年にGPSは存在しない。

天体が見えるときは六分儀(sextant)で太陽などの高度を測定する。

正確な時刻にはクロノメーターを使う。

さらに航海暦や計算表を利用して位置を求める。

Royal Museums Greenwichには、James Caird航海で使用されたと考えられているThomas Mercer製クロノメーターが現存している。

問題は、測定する場所が安定した大型船のブリッジではないことである。

James Cairdは大波の斜面を上下する。

艇が波の谷へ入れば水平線が見えない。

甲板も傾く。

空は雲で覆われる。

その状態で太陽と水平線が一瞬見えた時に、六分儀の角度を読む必要があった。

天体が見えなければ「推測航法」でつなぐ

太陽が見えない時間の方が長かった。

その間は推測航法(dead reckoning)を使う。

基本的には、

前回確認した位置

進んだ方位

推定速度 × 時間

風・波・潮流による流され方の推定

から現在位置を計算する。

問題は、それぞれに誤差があることだった。

艇速を正確に測り続ける装置はない。

潮流も完全には分からない。

横波を受ければ艇は横へ流される。

推測航法を何日も続ければ、わずかな誤差が積み重なっていく。

そしてSouth Georgiaは大洋の中の島である。

島を通過して風下へ出れば、James Cairdの性能では戻れない可能性が高かった。

FACT CHECK|ワースリーは「太陽を4回しか見られなかった」のか

James Caird航海については、「Worsleyが太陽を観測できたのは4回だけ」という説明が広く使われている。
James Caird Societyなどもこの表現を採用している。

ただし、Canterbury Museumに残るWorsleyの原航海日誌を詳細に再解析した2018年の研究では、航法計算を「4回」という単純な回数だけでは整理していない。

研究者は原日誌に残る複数の正午高度観測や時角観測を再計算しており、「何を1回の観測として数えるか」によって数字が変わる。

したがって本記事では、
「天測機会が極端に限られ、航海の大部分を推測航法でつなぐ必要があった」
ことを確定事項として扱う。

「正確に4回だけ」という表現は、一般向けの簡略化として扱う。

艇内は「3人が働き、3人が休む」構造になった

6人は大きく2組に分かれた。

シャクルトンの記録では、通常4時間ごとに当直を交代する。

甲板側にいる3人は、

  • 舵を取る
  • 帆を管理する
  • 艇内の水を汲み出す

という仕事を分担した。

休憩側の3人はキャンバスデッキの下へ潜り、濡れた寝袋へ入る。

ただし「4時間休める」という意味ではない。

艇内はケース、石、砂袋、水樽で埋まっている。

デッキからは水が漏れる。

艇が大きく傾けば、人間や荷物の位置を変えてトリムを修正しなければならない。

寝袋も濡れていた。

完全な休息はほとんど得られなかった。

簡易デッキは「防水」ではなく「浸水を減らす」装置だった

航海3日目ごろから強風が増えると、簡易デッキの限界が表れた。

波が上から叩くたび、箱の蓋やそりランナーが少しずつ動く。

キャンバスがたわみ、その上へ海水が溜まる。

打ち付けた釘も十分な長さがなく、複数の隙間から冷水が艇内へ落ちてきた。

それでもデッキは必要だった。

波を丸ごと艇内へ入れるのではなく、大部分を外へ流し、一部だけを漏らす。

入ってきた分は人力で排出する。

James Cairdの水密性を完全にするのではなく、

流入量 < 人間が排水できる量

の状態を維持する考え方だった。

ポンプがあっても「人が汲み続ける」必要があった

艇には簡易ポンプもあった。

これはFrank HurleyがEndurance時代に方位磁針用ケースなどを利用して作ったものだった。

しかし能力は大きくない。

当直の1人は、ほぼ常時排水を担当した。

ポンプが使えないときは容器で水を汲み出す。

艇内の水が増えるとJames Cairdは重くなる。

喫水が深くなれば、さらに波をかぶりやすくなる。

これは正のフィードバックになる。

浸水

艇が重くなる

波をかぶりやすくなる

さらに浸水

となるため、排水を止めることはできなかった。

5日目、帆を降ろしてシーアンカーを入れた

航海5日目ごろには、強い南西風と高い波のため通常航行が難しくなった。

帆を張ったままでは速度が出すぎ、艇が波へ突っ込む。

そこで帆を減らし、シーアンカーを投入した。

シーアンカーは海底へ引っ掛ける通常の錨ではない。

水中で抵抗を作り、艇首を波へ向けながら漂流速度を抑える装置である。

横波を直接受けると転覆しやすい小型艇では、船首を大波へ向け続けること自体が重要になる。

James Cairdはこの状態で嵐をやり過ごそうとした。

6日目、艇に付着した氷で復原性が悪化した

低温の海では、波しぶきが艇へ付着してそのまま凍る。

一晩でJames Cairdの、

  • デッキ
  • 船首
  • 舷側
  • オール
  • ロープ

に氷が増えていった。

翌朝、6人は艇の動きが明らかに鈍くなっていることに気づく。

問題は単なる重量増加ではない。

バラストの石は船底にあるため、重心を下げる方向へ働く。

一方、デッキや舷側上部へ付着した氷は高い位置の重量である。

上部重量が増えれば重心が上がり、艇が傾いたときに元へ戻る復原力が小さくなる。

つまり着氷は、

艇を重くする

重心を上げる

という二重の問題を生む。

予備オールと寝袋まで海へ捨てた

着氷が進んだ6日目、6人は艇を軽くする作業を始める。

氷に完全に覆われた予備オールを外し、海へ捨てた。

さらに完全に濡れて凍結した毛皮の寝袋2つも捨てた。

1つ約40ポンド、約18kgとシャクルトンは見積もっている。

寝袋は本来なら防寒に不可欠である。

しかし濡れて凍った寝袋は断熱材ではなく、大きな重量物になる。

「必要な装備だから残す」ではなく、
現在どの機能を実際に果たしているかで再評価された。

残した寝袋は4つ。

6人分すら残さなかった。

その直後、シーアンカーまで失った

艇から氷を削り落とし、少し復原性を取り戻した直後、別の問題が起きる。

シーアンカーをつないでいたロープが切れた。

艇首を波へ向けるために使っていた装置を失った。

James Cairdは横波を受けやすい姿勢になり、激しくローリングする。

回収は不可能だった。

そこで凍りついた帆を叩いて氷を落とし、再び帆を張る。

以後、荒天時にも帆を使って艇首方向を管理しなければならなくなった。

食事を作るにも3人必要だった

航海中、温かい食事と飲み物は体温と体力を維持するために重要だった。

しかしPrimusストーブへ火をつければ終わりではない。

艇は大きく揺れる。

鍋が滑れば熱い内容物を失うだけでなく、火災や火傷にもつながる。

シャクルトンによれば、調理には3人必要な場面もあった。

1人がストーブを押さえ、2人が鍋を保持する。

艇が大きく傾けば鍋を火から上げ、戻れば再び載せる。

その作業を狭いデッキ下で行う。

「食べる」ことにも、航海能力の一部を投入しなければならなかった。

マッチ1本も消耗品として管理された

Primusを使うには火が必要になる。

航海中盤になると、マッチも厳しく管理された。

ストーブを点火するときは原則として1回1本

初期には夜間にコンパスを確認するためマッチを擦ることもあったが、消耗を抑えるため後には中止した。

食料や水だけではない。

火を作る手段まで使い切れば、温かい飲み物を作れない。

濡れた人間が低温環境で行動し続けるうえでは、マッチ1本にも生存上の価値があった。

5月5日――シャクルトンが巨大な波を目撃した

航海11日目にあたる5月5日、海況はさらに悪化した。

夜、シャクルトンは操舵中、遠くに白く見えるものを最初は雲の切れ目だと思った。

実際には巨大な波の頂部だった。

シャクルトンは後に、26年間の航海経験でもこれほど巨大な波を経験したことがなかったと記している。

これは彼自身の回想であり、波高を客観的に測定した記録ではない。

しかし結果は確認できる。

波を受けたJames Cairdは大量の水をかぶり、艇内は一時半分近くまで水で満たされた。

6人は利用できる容器を総動員し、約10分間にわたって排水した。

艇が沈まなかったのは、簡易デッキが一部の波を受け流したこと、艇自体の浮力、そしてすぐ排水できたことが組み合わさった結果だった。

5月6日――South Georgiaまで100マイル以内

翌5月6日は天候がやや改善し、太陽が見えた。

Worsleyが位置を確認すると、South Georgia北西端まで約100マイル以内に来ていると判断された。

この時点で航海技術上は成功が近づいていた。

しかし別の資源が限界へ近づいていた。

飲料水である。

Elephant Islandから積んだ氷はすでに使い切った。

残るのは水樽の水だけだった。

ところが出航時に損傷した樽には海水が混入している。

飲めば塩気がある。

さらに6人は一日中海水の飛沫を浴び、口や唇に塩が付着していた。

喉の渇きは急速に悪化した。

水は1人1日約半パイントまで減らされた

シャクルトンは飲料水の配給を、1人あたり1日半パイント程度まで削減した。

約280mLである。

現在位置から見れば、South Georgiaまでは近い。

しかし風向が変われば、到着は数日遅れる。

今飲み切れば、島の直前で水を失う。

かといって配給を減らせば、脱水で判断力と身体能力が低下する。

ここでも、

今日の身体能力を維持する水量

到着が遅れた場合に生き残る予備量

のトレードオフがあった。

島を「正確に狙う」のではなく、外さない方向へ航路をずらした

South Georgiaへ近づくと、航法上の考え方も変わった。

島の中央を最短距離で狙えばよいわけではない。

位置計算には誤差がある。

もし島の北端を少し通り過ぎれば、その後は風下へ流され、James Cairdで戻れない可能性があった。

そこでシャクルトンは、島を確実に「捕まえる」ため、進路を調整して海岸線の途中へ当たるようにした。

航法で重要なのは、最短経路そのものより、
誤差があっても致命的な側へ外れないことだった。

5月8日――鳥と海藻が「陸」を先に知らせた

5月8日朝。

空は厚い雲に覆われていた。

島が近いはずだが、まだ陸は見えない。

午前10時ごろ、小さなケルプ(海藻)が流れてきた。

その約1時間後には、大きな海藻の上に2羽の鳥を確認する。

沖合へ長距離出ない種類だったため、陸が近いことを示していた。

12時30分ごろ。

雲の切れ間から、McCarthyがSouth Georgiaの黒い崖を発見した。

Elephant Islandを出てから14日後だった。

Worsleyの航法は、少なくとも島を視認できる範囲まで6人を運んだ。

島を見つけても、その日に上陸できなかった

陸が見えれば航海終了、ではない。

South Georgia西岸には、荒い波を直接受ける岩壁や暗礁が多い。

大波は沿岸の岩へぶつかり、高く砕けていた。

日は暮れ始めている。

暗い中で未知の岩礁地帯へ入れば、James Cairdを失う危険が高い。

6人は激しい喉の渇きに苦しんでいたが、8日の上陸を断念した。

一度沖へ離れ、翌朝を待つ。

目的地を見つけた後にも、「今上陸する危険」と「もう一晩海へ残る危険」を比較する必要があった。

5月9日――今度は島そのものへ叩き付けられそうになった

翌朝、風は急激に強くなった。

James CairdはSouth Georgia沿岸の風下側へ押され始める。

これは帆船にとって特に危険なlee shoreの状態である。

艇の風下に海岸がある。

風と波は艇を陸へ押す。

沖へ逃げるには風上へ進まなければならない。

しかしJames Cairdの風上性能には限界がある。

海岸には港ではなく岩壁がある。

シャクルトンたちは、島が見えているのにそこへ到達できないどころか、
岩壁へ破壊される危険に直面した。

風向が変わったのは、日没直前だった

5月9日夕方まで、James Cairdは海岸方向へ押され続けた。

シャクルトンは、この時点では生存可能性がかなり低くなったと回想している。

午後6時すぎ。

状況が変わった。

風向が変化し、艇は海岸から離れる方向へ進めるようになった。

その直後にはマストを固定するピンが外れた。

嵐の最中に外れていれば、マストを失っていた可能性がある。

James Cairdはもう一度沖へ逃れた。

しかし飲料水はほぼ尽きていた。

最後の水は、ほとんど飲料と呼べない状態だった

5月9日夜。

残った水はごくわずかだった。

シャクルトンの記録では、最後には不純物の混じった約1パイントの液体を、医薬品箱にあったガーゼで濾して飲んでいる。

口は乾き、舌は腫れていた。

この段階では上陸地点を理想的に選ぶ余裕はない。

翌日は、可能な場所へ何としても上陸する必要があった。

5月10日――King Haakon Bayへ向かった

5月10日朝、一時的に風が弱まった。

沿岸へ近づくと、大きく入り込んだ湾が見える。

シャクルトンはこれをKing Haakon Bayと判断した。

湾内へ入れば外洋の波から多少守られる。

現在の地理では、James Cairdが到達したKing Haakon BayがSouth Georgia南西岸のどこにあるかを確認できる。

King Haakon Bayの現在位置。1916年5月10日のJames Caird上陸地点を含む湾の地理を確認するための地図であり、1916年当時の氷河範囲、海況、沿岸形状、James Cairdの正確な航跡を再現するものではない。


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しかし入口には岩礁が並び、その間を通過しなければならない。

湾内に安全な水面が見えているのに、風向が再び変わり、直接入口へ向かえなくなる。

その午後、James Cairdは5回のタックを繰り返しながら岩礁線を突破した。

ようやく湾内へ入る。

夕方、6人はSouth Georgiaへ上陸した

日没が近づくころ、湾の南側に小さな入り江が見つかった。

岩礁の切れ目を抜け、James Cairdを進入させる。

入口は狭く、オールを艇内へ入れなければ通れないほどだった。

波に乗ったJames Cairdが石浜へ触れる。

シャクルトンがロープを持って岩へ飛び移り、続いて他の乗員も上陸した。

そしてすぐ近くで、彼らは水の流れる音を聞く。

淡水の小川だった。

約16日間の航海終盤、深刻な脱水に苦しんでいた6人は、ここで初めて制限なしに淡水を飲むことができた。

FACT CHECK|James Caird航海は16日間? 17日間?

資料によって「16日」「17日」という両方の表現がある。

1916年4月24日 Elephant Islandを出航
1916年5月8日 South Georgiaを初視認
1916年5月10日 King Haakon Bayへ上陸

シャクルトン自身は、出航後の記述で「次の16日間」として航海を扱っている。

一方、Royal Museums Greenwichなどでは、日付を両端含みで数える形で「17日後」と説明する場合がある。

したがって本シリーズでは、4月24日出航、5月10日上陸という日付を固定し、航海期間は約16日と表記する。

FACT CHECK|「800マイル」は約1,300kmか、約1,500kmか

歴史紹介では単に「800 miles」と書かれることが多いため、陸上の法定マイルで換算すると約1,300kmになる。

しかしFrank Worsleyの原航海日誌を解析したCanterbury Museumの2018年研究は、James Caird航海を800 nautical miles=約1,500kmとしている。

海上航程としてはこちらの整理が適切なため、本記事では約800海里、約1,500kmを採用する。

上陸したのに、まだ救助を呼べなかった

6人はSouth Georgiaへ到達した。

しかし目標だった捕鯨基地へ着いたわけではない。

捕鯨基地は島の反対側、北東岸にある。

James Cairdが到達したKing Haakon Bayは南西側だった。

周囲には町も無線局もない。

さらに6人は16日間の航海で著しく衰弱しており、James Cairdも損傷していた。

King Haakon Bayから捕鯨基地まで海路で回るには、再びSouth Georgiaの荒れた海岸を長距離航行しなければならない。

そのため、South Georgiaへの到達は救助作戦の終了ではない。

「救援を得られる島に着いた」だけで、まだ「救援を得られる場所」には着いていなかった。

この航海は、何によって成立したのか

James Caird航海を一つの英雄的判断にまとめると、具体的な成立条件が見えなくなる。

要素 機能
South Georgiaを選択 距離だけでなく西風帯と確実な救援先を考慮
McNishによる補強 船体曲げの抑制と簡易デッキの構築
大量のバラスト 重心を下げ、復原性を確保
Worsleyの航法 限られた天測と推測航法でSouth Georgiaを捕捉
当直制 操舵・帆・排水を24時間維持
人力排水 不完全なデッキから入る水を継続的に排出
着氷除去 上部重量を減らし復原性を回復
装備投棄 機能を失った重量を減らす
水・マッチ管理 到着遅延を想定して消耗品を温存
航路変更 最短距離より、島を外さないことを優先

このどれか一つだけで成功したわけではない。

艇が壊れれば終わる。

位置を外せば終わる。

水を使い切っても終わる。

浸水を排出できなくても終わる。

つまりJames Caird航海は、
複数の限界条件を16日間、同時に外さなかったことによって成立した。

「リーダーシップだけ」で説明すると見えなくなるもの

この航海はシャクルトンの判断力を示す事例として頻繁に紹介される。

それ自体に根拠はある。

しかし具体的な航海を見ると、成果はシャクルトン1人で成立していない。

McNishが艇を補強しなければ、簡易デッキと船体剛性を確保できなかった。

Worsleyが島を捉えられなければ、South Georgiaを通過していた可能性がある。

Crean、McCarthy、Vincentを含む全員が操舵、操帆、排水、調理、着氷除去を交代しなければ、艇を24時間維持できなかった。

そしてElephant IslandではWildが22人を維持する必要があった。

したがってJames Caird航海を正確に表現するなら、

「シャクルトンが一人で救った」ではなく、「シャクルトンが選択した作戦を、異なる技能を持つ人間が成立させた」

と見る方が実態に近い。

まとめ|約7mの艇で800海里を渡れた理由

1916年4月24日、James CairdはElephant Islandを離れた。

艇は約6.9m。

目的地South Georgiaまでは約800海里、約1,500km。

6人はそのままの救命艇で出たわけではない。

McNishらが内部を補強し、そりのランナーと箱材で骨組みを作り、キャンバスの簡易デッキを張った。

船底には約450kgの砂袋と石を積み、復原性を高めた。

食料は約1か月分。

飲料水と氷も積んだ。

航海ではWorsleyが六分儀、クロノメーター、コンパス、航海表を使い、天体が見えない時間は推測航法で位置をつないだ。

簡易デッキからは水が漏れ続け、当直者は操舵、帆、排水を分担した。

艇へ氷が付着して重心が上がると、予備オールや凍った寝袋を捨て、氷を削り落とした。

シーアンカーを失った後も、帆で船首方向を維持した。

5月5日には巨大な波を受け、大量の海水が艇内へ入った。

5月6日にはSouth Georgiaまで約100マイル以内に来た一方、飲料水は限界へ近づいていた。

5月8日、海藻と鳥に続いて島の黒い崖を発見する。

それでも荒波で上陸できず、翌9日には強風によって岩壁へ押し付けられそうになった。

そして5月10日、King Haakon Bayへ進入。

6人はようやくSouth Georgiaへ上陸した。

ただし捕鯨基地は島の反対側にある。

James Cairdは損傷し、McNishとVincentは著しく衰弱していた。

ここから次の選択が必要になる。

船で島を回るのか。

それとも、地図も登山道もほとんどない島の内部を横断するのか。

シャクルトンは後者を選ぶ。

同行するのはWorsleyとCreanの2人だけだった。

第8回では、なぜ6人全員ではなく3人でSouth Georgia島内へ入り、約36時間にわたって氷河と山地を越えてStromness捕鯨基地へ到達したのかを追う。

今回出てきた言葉

James Caird
Enduranceから持ち出された救命艇のうち最大の艇。外洋航海用に改造され、1916年4月24日から5月10日にかけてElephant IslandからSouth Georgiaまで航海した。
Frank Worsley
Endurance船長。James Cairdでは航海士として、天測と推測航法を用いてSouth Georgiaへの航路を維持した。
Harry McNish
Enduranceの船大工。James Cairdの船体補強と簡易デッキ製作を担当した。
六分儀(Sextant)
天体と水平線の角度を測定する航海器具。太陽高度などから船の位置を求めるために使われる。
クロノメーター(Marine Chronometer)
航海用の高精度時計。天測による経度計算では正確な時刻が重要になる。
推測航法(Dead Reckoning)
既知の位置から方位・速度・時間・潮流などを推定し、現在位置を計算する方法。誤差は時間とともに累積する。
バラスト(Ballast)
船の重心や姿勢を調整するために低い位置へ搭載する重量物。James Cairdでは砂袋や石が使用された。
復原性
波や風で船が傾いた際、元の姿勢へ戻ろうとする性質。上部への着氷は重心を上げ、復原性を悪化させる。
シーアンカー(Sea Anchor)
水中抵抗を利用して艇首を波へ向け、漂流速度を抑える装置。James Cairdでは荒天時に使用されたが航海途中で失われた。
King Haakon Bay
South Georgia南西岸の大きな湾。1916年5月10日、James Cairdの6人がこの湾内へ上陸した。

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CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海【現在の記事】
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

  • Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
    South Georgiaを目的地に選んだ理由、6人の選定、James Cairdの改造、4月24日の出航、積載物、航海中の当直・浸水・着氷・飲料水不足、5月8日のSouth Georgia視認、5月10日のKing Haakon Bay上陸についての一次資料として使用。
  • Canterbury Museum — Navigation of the James Caird on the Shackleton Expedition, Records of the Canterbury Museum Vol.32
    Frank Worsleyの原航海日誌を再解析した研究。James Cairdの全長約6.9m、約800海里の航程、天測・推測航法の方法と航海計算の検証に使用。
  • Royal Geographical Society — Shackleton’s Endurance: Uncharted / Endurance22 Interactive
    James Cairdの航海、艇の改造、Worsleyの六分儀による航法、南大洋の波浪条件、4月24日の出航とSouth Georgia到達の確認に使用。
  • Scott Polar Research Institute — The Imperial Trans-Antarctic Expedition
    McNishによるJames Cairdの船体補強、追加マストとキャンバスデッキ、6人の構成、South Georgiaへの航海とKing Haakon Bayへの上陸について確認。
  • Royal Museums Greenwich — Sir Ernest Shackleton / Marine Chronometer 5229
    South Georgia航海の全体像と、James Caird航海に使用されたと考えられている航海用クロノメーターの確認に使用。
  • Dulwich College — The James Caird
    現存するJames Cairdの現在の保存場所、艇の概略寸法、現存船としての確認に使用。

本記事は、シャクルトン本人の『South』を航海経過の一次資料の中心とし、Frank Worsleyの原航海日誌を再解析したCanterbury Museumの研究、Royal Geographical Society、Scott Polar Research Institute、Royal Museums Greenwichなどを照合して構成しています。「太陽を4回しか観測できなかった」「800マイル」「艇長20~23フィート」など、一般向け資料と原資料・研究で数え方や表記が異なる事項は単一値へ無理に統一せず、本文中で区別しています。また巨大波の規模については計測値が存在しないため、シャクルトン本人の回想として扱っています。

なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ

探検・遠征

1916年5月10日。

Elephant Islandを離れて約16日後、James Cairdの6人はついにSouth Georgiaへ上陸した。

約800海里の外洋航海は終わった。

しかし、救助要請はまだできない。

彼らが着いたKing Haakon Bayは島の南西側。

人が暮らす捕鯨基地は、山脈と氷河を挟んだ北東側のStromness、Husvik、Leith Harbour方面にあった。

James Cairdで島の海岸を回り込めばよいようにも思える。

だが16日間の南大洋航海で艇は傷み、乗員も消耗していた。VincentとMcNishは徒歩で山を越えられる状態ではなく、艇をさらに荒れた外洋へ戻すことも危険だった。

そこでシャクルトンが選んだのは、別の方法だった。

Shackleton、Frank Worsley、Tom Creanの3人だけで、South Georgiaの内陸部を徒歩で横断する。

登山用テントはない。

寝袋も持たない。

詳細な内陸地図もない。

装備は食料、Primusストーブ、小型調理器、約15mのロープ、そして船大工の手斧などに絞られた。

1916年5月19日未明、3人はKing Haakon Bayを出発する。

Stromnessの捕鯨基地へ着いたのは翌20日。

その間、ほぼ眠らず山、氷河、クレバス、断崖を越え続けた。

この記事で分かること

  • なぜJames Cairdで捕鯨基地まで航海しなかったのか
  • なぜ6人ではなくShackleton、Worsley、Creanの3人だったのか
  • King Haakon BayのPeggotty Campとは何か
  • 3人が持っていった装備はどれほど少なかったのか
  • なぜ寝袋を持たなかったのか
  • 詳細な地図なしでどう進路を決めたのか
  • なぜ一度登った山を引き返したのか
  • 約900フィートの斜面をなぜ滑り降りたのか
  • 36時間近く眠らず歩いた理由
  • 捕鯨基地の汽笛がなぜ重要だったのか

South Georgiaへ着けば終わり――ではなかった

James Cairdが5月10日にたどり着いたKing Haakon Bayには、人間の居住地がなかった。

South Georgiaに捕鯨基地が存在すること自体は分かっていた。

Enduranceは南極へ向かう前の1914年11~12月、島北東岸のGrytvikenなどに滞在していたからである。

しかしKing Haakon Bayは島の反対側だった。

両者の間にはSouth Georgiaの山岳地帯が横たわっている。

島中央部には高い山々と氷河が連なり、谷の多くは氷で埋められていた。

1916年当時、海岸線について一定の情報はあっても、内陸部を徒歩横断するために使える精密な地形図や登山ルートが整備されていたわけではない。

つまり6人は、

救助を得られる島には到達したが、救助を要請できる場所には到達していなかった。

まず現在の地形で、King Haakon BayとStromnessがSouth Georgiaの反対側にあり、
その間を山岳・氷河帯が隔てていることを確認しておく。

South Georgiaの現在地形。現在のGoogle Mapは、1916年5月19~20日のShackleton、Worsley、Creanの実際の徒歩経路や、当時の氷河形状・積雪状態を再現するものではない。歴史的な横断経路はBritish Antarctic Surveyの詳細地図を優先する。


Googleマップで大きく見る


British Antarctic Surveyで1916年の横断経路を確認する

ここで重要なのは、南西岸のKing Haakon Bayから北東側のStromnessまでを単純な直線として見ることではない。
実際の横断では山稜と氷河を越え、行き止まりや誤進入で引き返しながら進んだため、1916年の行動線は専用の歴史ルート図で補う必要がある。

なぜJames Cairdで島を回り込まなかったのか

地図だけを見ると、King Haakon Bayから海岸沿いに進み、北東側の捕鯨基地へ向かう方法が簡単に思える。

しかしJames Cairdは、すでに限界に近かった。

Elephant IslandからSouth Georgiaまでの航海では、

  • 大波による浸水
  • 艇体への着氷
  • 帆・ロープ類の消耗
  • 簡易デッキからの漏水
  • 長期間の連続航海

に耐えている。

South Georgia西岸は外洋の大波を直接受ける場所も多い。

5月8日に島を発見してからも、6人は荒波のためすぐ上陸できず、9日には岩壁へ押し付けられそうになっている。

その艇でもう一度海へ出て、未知の海岸線を回り込むことは大きな賭けだった。

Royal Geographical Societyも、James Cairdと乗員の状態から、さらに海岸を航海するより徒歩でStromnessへ向かう判断になったと整理している。

そこでいったんKing Haakon Bay内部のより安全な地点へJames Cairdを移し、陸路で救援を求める準備が始まった。

Peggotty Camp|James Cairdそのものを小屋にした

5月15日、6人はKing Haakon Bayの奥へJames Cairdを移動させた。

艇を高潮線より上まで引き上げ、ひっくり返す。

その周囲を石やタソック草で囲み、艇そのものを屋根にした。

この場所がPeggotty Campと呼ばれる。

名前はチャールズ・ディケンズの『David Copperfield』に登場する、船を住居にしたPeggotty一家に由来する。

海岸にはゾウアザラシがおり、肉と脂肪を確保できた。

James Caird航海で衰弱した6人にとって、数日間食事を取り、身体を回復させる場所になった。

だがここに留まり続けることはできない。

Elephant Islandでは22人が救助を待っている。

6人全員ではなく、3人だけで行くことになった

King Haakon Bayから捕鯨基地へ向かえる体力が残っていたのは全員ではなかった。

シャクルトン自身の記録では、John Vincentは徒歩移動できない状態だった。

船大工Harry McNishも大きく衰弱していた。

その2人だけをキャンプへ残すこともできない。

そこでTimothy McCarthyがPeggotty Campへ残り、2人の面倒を見ることになった。

内陸へ向かうのは、

  • Ernest Shackleton
  • Frank Worsley
  • Tom Crean

の3人になった。

内陸横断 Shackleton / Worsley / Crean
Peggotty Camp残留 McCarthy / McNish / Vincent

これは単に「最も有名な3人を選んだ」わけではない。

Worsleyは地形と方位を判断できる航海士であり、Creanは長距離の極地行動経験が豊富だった。

残った3人のうちMcCarthyには、衰弱した2人を維持する役割があった。

最初は「そり」を作るつもりだった

徒歩横断でも、当初は荷物を背負うだけではなく、そりを使う案があった。

McNishが限られた材料から小型そりを製作した。

5月18日、実際に3人でそのそりを氷河付近まで運んでみる。

しかしすぐ問題が分かった。

雪だけなら引けても、South Georgiaの地形には露岩、モレーン、急斜面、氷河が連続している。

岩場では空のそりさえ持ち上げなければならなかった。

シャクルトンは、
この地形で3人がそりを維持することは負担が大きすぎる
と判断する。

そりを捨て、荷物をさらに減らすことになった。

寝袋もテントも持っていかなかった

3人が選んだのは、長期間安全に野営できる装備ではない。

できるだけ軽くし、短時間で突破する装備だった。

持ち出した主要物資は、

  • 3日分のそり用レーションとビスケット
  • Primusストーブ
  • 小型調理器
  • ストーブ用燃料
  • 約50フィート、約15mのロープ
  • 船大工用のadze(手斧)
  • マッチ48本

などだった。

テントはない。

寝袋も置いていった。

これは危険な選択だった。

悪天候で進めなくなった場合、3人には長時間安全に野営する装備がほとんどない。

一方、寝袋や大型装備を持てば、急斜面と氷河で移動速度が落ちる。

シャクルトンたちは、

「止まって安全に夜を越す能力」を捨て、「止まらず短時間で抜ける能力」を選んだ。

FACT CHECK|「何も持たずに山を越えた」のか

ほとんど装備なし、と表現されることがあるが、完全な無装備ではない。

3人は3日分の食料、Primusストーブ、調理器、約15mのロープ、手斧などを携行していた。

ただし本格的な登山装備、テント、寝袋、ピッケル、現代的なクランポンなどは持っていない。

したがって「無装備」より、
極端に軽量化された即席の山岳装備
と表現する方が正確である。

靴底にはJames Cairdのネジを打ち込んだ

氷面を歩くには、滑落を防ぐ装備が必要になる。

しかし3人には現代的な登山用クランポンがない。

特にシャクルトンの靴は状態が悪かった。

そこでMcNishが、James Cairdから外したネジを靴底へ打ち込んだ。

ネジ頭を氷へ食い込ませ、滑り止めとして使う。

後に氷斜面で足場を作るため使われたのは、本格的なアイスアックスではなく船大工用の手斧だった。

装備の多くは、もともと山岳横断を目的として用意された物ではない。

船に残っていた物を別用途へ転用した装備だった。

5月19日午前3時ごろ、3人は出発した

5月19日午前2時、3人は起床した。

食事を作り、満月の下で出発準備を整える。

McNishは約200ヤードだけ一緒に歩いたが、それ以上進むことはできなかった。

そこで3人と別れ、Peggotty Campへ戻っていった。

最初の難関は、キャンプ近くまで伸びる氷河だった。

波のタイミングを見ながら氷河先端と海岸の狭い隙間を抜け、その後は東へ向かう雪斜面を登る。

2時間ほどで標高約2,500フィート、約760mまで上がった。

上から見えたSouth Georgia内部は、彼らが期待したようななだらかな雪原ではなかった。

高い峰。

急斜面。

氷河。

クレバス。

岩稜。

進める谷と、行き止まりの谷を上から見分ける必要があった。

霧の中では、ロープを「進路計」に使った

標高を上げると濃霧に包まれた。

視界がほぼなくなる。

氷河上では進行方向だけでなく、クレバスや断崖も見えない。

3人はロープで身体を結んだ。

ただし用途は転落防止だけではない。

先頭のShackletonと最後尾との間隔を広く取り、先頭が左右へ逸れた場合には、後方の人間が方向を修正する。

シャクルトンはこれを船の操舵になぞらえ、

「port」「starboard」「steady」

のような指示で方向を維持したと記録している。

海で使用していた航海の考え方を、視界のない雪原上へ持ち込んだ形である。

「凍った湖」だと思ったものは海だった

夜が明けて霧が薄くなると、標高約3,000フィートから巨大な平坦面が見えた。

3人には凍った湖のように見えた。

そこで一度、そこへ向かって下降する。

しかし近づくにつれクレバスが増え、氷河上を歩いていることが分かった。

さらに霧が完全に晴れる。

そこで初めて、平坦面の正体が分かった。

湖ではなく海だった。

彼らはPossession Bay側へ降りようとしていた。

そこへ到達しても捕鯨基地はない。

粗い地図と霧によって、最初の進路選択は失敗した。

3人は再び氷河を登り返す。

横断は、最短ルートを最初から知って歩いたものではない。

高所へ登って周囲を見る → 行き止まりなら戻る → 次の谷を試す

という探索を繰り返した。

午前11時、最初の高い稜線で行き止まりになった

その後3人は別の尾根を目指した。

急斜面では手斧で雪と氷を削り、足場を作る。

午前11時ごろ、鋭い稜線へ到達した。

しかし向こう側は下降路ではなかった。

眼下約1,500フィート、約460m下まで切れ落ちた断崖と、崩れた氷が広がっていた。

降りられない。

3時間かけて登った斜面を引き返し、約1時間で下まで戻った。

時間と体力を使ったにもかかわらず、地図上の目的地へはほとんど近づいていない。

山岳ルートを知らないことの代償だった。

標高約4,500フィート――今度は霧に追われた

別ルートを探し、3人は再び登る。

午後には標高約4,500フィート、約1,370mの高所まで達した。

しかしまた、先には簡単に降りられる道が見えない。

さらに西側から霧が迫ってきた。

3人にはテントも寝袋もない。

この高度で霧と夜に捕まれば、停止すること自体が危険になる。

下へ降りなければならない。

だが見つかった斜面は急で、その先が崖になっているかどうか確認できなかった。

約900フィートを「滑って」降りた

3人は急斜面を最初は慎重に下り始めた。

やがて雪面が少し軟らかくなり、傾斜も一定に見えた。

霧は後ろから迫ってくる。

そこでロープを外した。

3人並んで雪面を滑り降りる。

その先が断崖なら止まれない。

しかし高所に留まることもできなかった。

結果として、3人は約900フィート、約270mを数分で下降した。

幸い斜面は下まで続いていた。

これによって迫っていた霧から低地へ逃れることができた。

FACT CHECK|「命懸けで崖から滑り降りた」はどこまで本当か

シャクルトン自身の記録では、霧を避けるため急斜面を下降し、途中から3人で滑り、少なくとも約900フィートを2~3分で下ったとしている。

一方で、彼ら自身も斜面の下端を完全には確認できていなかった。

したがって非常に危険な判断だったことは確かだが、「意図的に崖から飛び降りた」という意味ではない。

なぜ36時間も眠らなかったのか

夕方になっても3人は本格的なキャンプを設営しなかった。

できないからである。

テントも寝袋も持っていない。

止まれば身体が冷える。

夜になっても月明かりがあり、クレバスの縁が影として見える場所では歩き続けられた。

午後6時ごろに温かい食事を取り、その後も前進。

午後8時ごろには満月が出て、雪原を照らした。

午前0時には再び標高約4,000フィートへ達している。

この時点で、出発から20時間以上が経過していた。

それでも歩き続けた。

休息する装備を持たなかった以上、
身体を動かして熱を作りながら、できるだけ早く低地と人間の居住地へ到達すること
が安全策でもあった。

午前1時、30分だけ食事休憩

日付が5月20日に変わったころ、3人は雪に穴を掘り、Primusを点火した。

温かい食事を取る。

休憩は約30分。

そこからまた歩き始めた。

下方に海岸らしき地形が見え、Stromness Bayに到達したと思った。

ところが、近づくと再び氷河が現れた。

Stromnessにはそのような氷河はないとシャクルトンは知っていた。

ここはFortuna Glacierだった。

また進路を間違えたことになる。

3人は疲労した身体で再び登り返した。

眠ったら危険――5分で2人を起こした

午前5時ごろ。

3人は岩陰で休憩することにした。

手斧と杖を雪の上へ置き、その上へ座る。

3人で身体を寄せ、互いに腕を回した。

シャクルトンは30分ほど休むつもりだった。

WorsleyとCreanは1分ほどで眠った。

しかしシャクルトンは、この低温下で3人全員が眠れば危険だと判断する。

約5分後、2人を起こした。

その際には「30分眠った」と伝えたと本人は記録している。

実際には数分しか経っていない。

2人を再び歩かせるためだった。

極度に疲労した状態での睡眠は、低体温によってそのまま覚醒できなくなる危険があった。

午前6時30分、「人間の音」が聞こえた

午前6時ごろ、3人はFortuna Bay方面の稜線を越えた。

まだStromnessまでは距離がある。

シャクルトンが高い場所へ登って地形を確認していた午前6時30分ごろ、遠くから音が聞こえた。

蒸気汽笛のような音だった。

シャクルトンには思い当たることがあった。

捕鯨基地では、決まった時刻に汽笛で作業員を起こす。

そこで3人はクロノメーターを見ながら午前7時を待った。

そして7時。

もう一度、汽笛が聞こえた。

偶然の自然音ではない。

人間が生活している場所が、歩いて到達できる距離にあることが初めて音によって確認された。

1914年12月にStromness Bayを離れて以来、彼らが外部社会から発せられた音を聞いたのは約17か月ぶりだった。

汽笛が聞こえても、まだ安全ではなかった

Stromnessが近いことは分かった。

しかし現在地と捕鯨基地の間には、まだ急斜面がある。

Fortuna Bay側へ下るには青氷の斜面を越えなければならなかった。

WorsleyとCreanが足場を作り、Shackletonをロープで下ろす。

Shackletonは手斧で氷を削り、次の足場を作る。

その作業を繰り返した。

約500フィート下るのに2時間を要した。

途中で削り落とした氷片がそのまま空中へ落ちていくのを見て、直下に崖があることも分かった。

進路を少し横へずらしながら、安全な場所まで下りた。

海岸には「人間がいる証拠」が残っていた

やがて雪面が途切れ、タソック草と砂浜へ到達した。

そこで最近撃たれたアザラシを見つける。

自然死ではなく、弾痕がある。

Stromnessの捕鯨業者がFortuna Bayへアザラシ猟に来ることを、シャクルトンは後に知る。

汽笛に続き、今度は物理的に人間活動の痕跡が現れた。

3人は海岸沿いを急いだ。

最後には、雪で隠れた湖へ踏み込んだ

5月20日正午すぎ。

3人は再び高台を越えていた。

雪原を歩いていたShackletonの足が突然沈む。

膝まで水に入った。

その場所は地面ではなく、薄い雪で表面を覆われた小さな湖だった。

Shackletonはすぐ身体を横に倒し、WorsleyとCreanにも同じようにするよう指示した。

接地面積を増やして雪面へかかる圧力を下げるためである。

3人は慎重に約200ヤード進み、再び安定した地面へ出た。

捕鯨基地が目前に見える段階でも、地形の危険は終わっていなかった。

午後1時30分、Stromnessが見えた

午後1時30分ごろ、最後の稜線を回った。

眼下に小型蒸気船が見えた。

次に帆船のマスト。

建物。

工場設備。

そして、人間が動いている姿。

Stromness Whaling Stationだった。

ここで3人は、ようやく目的地を視覚的に確認した。

しかしそこから標高差はまだ約2,500フィートあった。

最後の下降が残っていた。

最後は滝の中をロープで降りた

捕鯨基地へ向かう斜面で、3人は水の流れる谷筋を利用した。

氷水の中を歩き、腰まで濡れる。

その先で水音が大きくなった。

進路の先には約25~30フィート、約8~9mの滝があった。

左右は氷壁。

引き返して別ルートを探すには、3人はすでに消耗しすぎていた。

そこで岩へロープを固定し、滝の中をそのまま下降する。

最初は体重の重いCrean。

次にShackleton。

最後にWorsley。

3人とも水を浴びながら下りた。

最後のWorsleyが降りると、ロープは回収できなかった。

ここまで来れば、装備を回収する意味はほとんどない。

捕鯨基地は約1.5マイル先だった。

Stromnessの人々は、3人が誰なのか分からなかった

Stromnessへ近づく途中、3人は子どもに出会った。

シャクルトンが管理人の家を尋ねる。

子どもたちは答えず、走って逃げた。

無理もない。

3人は長期間まともに洗っていない。

髪とひげは伸び、衣類は破れ、海水、脂、泥、雪で汚れていた。

捕鯨基地の作業員に会っても、最初は不審者のように見られた。

やがて基地管理人Thoralf Sørlleの家へ案内される。

Sørlleもすぐにはシャクルトンだと分からなかった。

シャクルトンが名乗って、ようやく状況が理解された。

1914年に出発した世界と、1916年の世界は違っていた

Stromnessへ到達した3人は、約1年半にわたって外部社会から切り離されていた。

シャクルトンがSørlleへ最初に尋ねたことの一つが、第一次世界大戦が終わったかどうかだった。

答えは「まだ終わっていない」。

彼らが南極へ向かった1914年末以降、

  • 西部戦線の長期化
  • Lusitania号沈没
  • 毒ガス兵器の使用
  • Gallipoli戦役
  • 潜水艦戦

などが起きていた。

一方、Endurance隊はその間、無線も新聞もない海氷と無人島で生活していた。

Stromnessへの到着は、単に暖かい建物へ入ったというだけではない。

1914年12月以来初めて、外部世界との情報接続を取り戻した瞬間でもあった。

最初の仕事は休むことではなく、残った3人の救助だった

Sørlleは3人へ食事、風呂、衣服を用意した。

同時に、King Haakon BayのPeggotty Campに残された

  • McCarthy
  • McNish
  • Vincent

を回収するための捕鯨船も手配した。

Worsleyが乗り込み、King Haakon Bayへの位置案内を担当する。

3人は無事救出され、James Cairdも回収された。

これでElephant Islandを出た6人全員がSouth Georgiaの有人地域へ到達した。

だが、まだ22人がCape Wildに残っている。

そのためシャクルトンに長期間休む時間はなかった。

次に必要なのは、船を確保してElephant Islandへ戻ることだった。

約36時間の横断を時系列で整理する

時刻・日付 出来事
5月19日 午前2時 Peggotty Campで起床、食事準備
5月19日 午前3時ごろ Shackleton、Worsley、Creanが出発
午前5時ごろ 標高約2,500フィートへ上昇
霧の中をロープで連結して進む
午前7時ごろ Possession Bay方向へ誤って下降、引き返す
午前11時ごろ 最初の稜線で断崖に阻まれ引き返す
午後 再び標高約4,500フィートへ上昇
夕方 霧を避けるため約900フィートの雪斜面を滑降
午後8時ごろ 月明かりを利用して夜間行軍
5月20日 午前0時ごろ 再び標高約4,000フィート
午前1時すぎ 約30分の食事休憩
午前5時ごろ 岩陰で短時間休憩。WorsleyとCreanが眠る
午前6時30分 捕鯨基地の汽笛らしき音を確認
午前7時 定刻の汽笛を確認し、有人基地の存在を確信
午前~昼 Fortuna Bay方面へ下降
午後1時30分ごろ Stromness Whaling Stationを視認
午後 滝をロープで下降
その後 Stromnessへ到着、Sørlleと接触

FACT CHECK|横断距離は何kmだったのか

この横断については、資料によって距離表記に差がある。

シャクルトンの記録では、Peggotty CampからHusvikまでの地図上の直線距離を約17 geographical milesと見積もっていた。

しかし実際には、

  • Possession Bay方向への誤進入
  • 登った稜線からの引き返し
  • Fortuna Glacierからの登り返し
  • 山・氷河を迂回するルート

があるため、歩いた距離は直線距離よりかなり長い。

Royal Museums Greenwichは全行程を約40 milesとして紹介している。

本記事では距離を単一の精密値として扱わず、
「約36時間にわたり、複数の山稜と氷河を迂回しながら横断した」
ことを重視する。

なぜこの横断は成功したのか

South Georgia横断も、「精神力」で一括りにすると実態が見えなくなる。

問題 対応
重いそり 試験後に使用を断念
装備重量 寝袋・テントを置き、最低限の物資だけ携行
滑る氷面 靴底へJames Cairdのネジを打ち込む
クレバス・急斜面 約15mのロープと手斧を使用
濃霧 3人をロープで連結し、後方から進路を修正
行き止まり 無理に突破せず登ったルートを引き返す
霧と夜 安全な低地へ短時間で下降
睡眠による低体温リスク 本格的な睡眠を取らず行動継続
Stromnessの位置 地形、海岸、既知の捕鯨基地情報、汽笛を利用

一つの正しいルートを知っていたわけではない。

むしろ何度も間違えている。

重要だったのは、
行き止まりだと判明した時点で戻り、新しいルートを探し直したこと
だった。

「3人で山を越えた」ことより重要なこと

South Georgia横断はEndurance遠征の中でも、特に劇的な場面として語られる。

だが、この行程だけを切り取ると見落とされる点がある。

彼らは登山記録を作るために山へ入ったのではない。

Elephant Islandに22人が残っていた。

Peggotty Campにも3人を残していた。

横断の目的は頂上到達ではない。

人間と船と通信手段が存在する場所まで最短時間で到達し、救助活動を開始することだった。

そのため装備も、通常の登山とは逆の思想で選ばれている。

快適に泊まる装備を削り、

速く動く。

行き止まりなら戻る。

使い終えた装備は捨てる。

汽笛が聞こえれば、その情報を次の進路判断へ使う。

South Georgia横断は、探検というより救援要請のための緊急移動だった。

まとめ|島へ着くことと、救助へ到達することは別だった

1916年5月10日、James Cairdの6人はSouth Georgiaへ到達した。

しかし上陸したKing Haakon Bayは無人の南西岸だった。

捕鯨基地は島の反対側にある。

James Cairdは消耗し、VincentとMcNishもさらに移動できる状態ではなかった。

そこで艇をPeggotty Campへ残し、Shackleton、Worsley、Creanの3人が内陸横断へ向かった。

荷物は徹底して減らした。

3日分の食料。

Primus。

小型調理器。

約15mのロープ。

船大工用の手斧。

マッチ48本。

テントも寝袋もない。

1916年5月19日未明、3人は出発した。

霧でPossession Bay方向へ誤って降り、登り返す。

別の稜線へ登れば断崖に阻まれ、また戻る。

標高約4,500フィートへ上がったところでは霧に追われ、約900フィートの雪斜面を滑り降りた。

夜も月明かりを利用して歩き続ける。

Fortuna Glacierでも進路を間違えた。

午前5時ごろには、数分休んだだけで2人が眠り込んだ。

午前6時30分。

遠くから汽笛が聞こえる。

午前7時、もう一度汽笛が鳴った。

人間が近くにいることが確認された。

そこからも青氷の斜面、雪に隠れた湖、急斜面が続く。

午後1時30分ごろ、ついにStromness Whaling Stationが見えた。

最後には約8~9mの滝をロープで降り、捕鯨基地へ到達する。

King Haakon Bayを出てから約36時間。

ここでようやく、Enduranceを失ってから初めて外部へ救援を要請できる状態になった。

しかしCape Wildでは、まだ22人が待っている。

しかもSouth Georgiaへ着けば、すぐ迎えに行けたわけではない。

海氷は再び救助船の進路を塞ぐ。

1回目は失敗。

2回目も失敗。

3回目も失敗。

最終的にElephant Islandへ到達できたのは1916年8月30日だった。

そしてもう一つ確認しなければならない。

よく語られる「全員生還」は、本当に遠征隊全体の全員を意味するのか。

第9回では、Elephant Islandの22人がどのように救助されたのか、そしてEndurance側28人全員生還とRoss Sea Partyの3人死亡を分けて検証する。

今回出てきた言葉

King Haakon Bay
South Georgia南西岸にある湾。James Cairdの6人が1916年5月10日に到達した。
Peggotty Camp
King Haakon Bay奥部に設置されたキャンプ。James Cairdを逆さにして屋根として利用し、McCarthy、McNish、Vincentが横断隊出発後も残った。
Stromness Whaling Station
South Georgia北東岸にあったノルウェー系捕鯨基地。1916年5月20日、Shackleton、Worsley、Creanが到達し、救助活動の拠点となった。
Frank Worsley
Endurance船長。James Caird航海で航法を担当し、South Georgia横断にも参加した。
Tom Crean
アイルランド出身の極地探検家。Scottの遠征などでも長距離行動を経験し、South Georgia横断の3人の一人となった。
adze
船大工が木材加工などに使う手斧。South Georgia横断では、氷斜面に足場を切る即席のアイスアックスとして使われた。
Fortuna Glacier
South Georgia北岸側の氷河。3人は一度Stromness方面へ降りたと思ったが、この氷河へ出たことで進路の誤りに気付き登り返した。
Thoralf Sørlle
Stromness捕鯨基地の管理者。3人を受け入れ、Peggotty Campの3人を回収する船や、その後の救助準備に協力した。

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第9回 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ【現在の記事】
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

  • Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
    Peggotty Camp、3人の選定、持参装備、5月19~20日の横断、進路変更、氷河・稜線・滑降、汽笛、Stromness到達についての一次資料として使用。
  • Royal Geographical Society — Shackleton’s Endurance: Part 6 Uncharted
    5月19日の出発、約36時間の横断、当時の装備、King Haakon BayからStromnessへ向かった理由の確認に使用。
  • Royal Geographical Society — Shackleton Expedition Timeline
    5月10日のSouth Georgia上陸、5月15日前後のPeggotty Camp移動、5月19日の内陸横断開始、5月20日のStromness到着という時系列の照合に使用。
  • Royal Museums Greenwich — Sir Ernest Shackleton / History of Antarctic Explorers
    Shackleton、Worsley、Creanの3人が無人側から内陸を横断し、約36時間後にStromnessへ到達した全体経緯の確認に使用。
  • South Georgia Heritage Trust — Endurance Expedition / Saving Shackleton Heritage
    Stromness捕鯨基地、Manager’s Villa、5月20日の3人到着、およびKing Haakon Bayから救援を求めた歴史的背景の確認に使用。

本記事では、South Georgiaの「横断距離」について資料間で表記差があるため、単一の厳密な距離を確定値として扱っていません。Shackleton本人が記した地図上の直線距離と、後世の資料が示す実際の歩行距離推定を区別しています。また「島が完全に未地図化だった」とはせず、海岸情報は存在した一方、内陸部を安全に横断できる詳細なルート情報が乏しかったという形で記述しています。

「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死

探検・遠征

1916年8月30日午前。

濃霧の向こうから、小さな汽船がElephant Islandへ近づいていた。

船はチリ海軍のYelcho(イェルチョ)

乗っていたのは、約3か月前に島を離れたアーネスト・シャクルトンだった。

Cape Wildでは22人が救助を待っていた。

しかし彼らには、シャクルトンがSouth Georgiaへ到達したことも、Stromnessの捕鯨基地へ着いたことも、その後3回も救助に失敗していたことも分からない。

無線はない。

新聞もない。

外部からの情報は一切ない。

22人にできたのは、食料を減らし、壊れた救命艇を屋根にした小屋で暮らし、海の向こうに船が現れるのを待つことだけだった。

午前11時40分ごろ。

YelchoからCape Wildのキャンプが発見された。

島側も船に気づいた。

シャクルトンが浜へ近づき、フランク・ワイルドへ全員の安否を尋ねる。

答えは、

22人全員が生きている。

というものだった。

その約1時間後には、島に残っていた全員がYelchoへ収容された。

これによって、Enduranceに乗っていた28人は全員生還した。

だが、ここで一つ注意が必要になる。

この遠征は、Endurance側だけではなかった。

南極大陸の反対側では、Auroraでロス海へ向かったRoss Sea Partyも活動していた。

そして、そちらでは3人が死亡している。

この記事で分かること

  • Elephant Islandの22人は約4か月半をどう過ごしたのか
  • なぜSouth Georgia到達後もすぐ救助できなかったのか
  • Southern Skyによる第1次救出が失敗した理由
  • Instituto de Pesca No.1による第2次救出が失敗した理由
  • Emmaによる第3次救出が失敗した理由
  • なぜ第4次救出のYelchoだけが島へ到達できたのか
  • 「28人全員生還」は誰を指しているのか
  • Ross Sea Partyでは何が起きていたのか
  • 死亡したSpencer-Smith、Mackintosh、Haywardに何が起きたのか
  • 帝国南極横断探検隊全体を「全員生還」と呼べるのか

シャクルトンが島を離れた時点で、22人には救助予定日がなかった

1916年4月24日、シャクルトンら6人がJames CairdでElephant Islandを離れた。

島に残った22人の指揮を任されたのが、フランク・ワイルドだった。

シャクルトンはSouth Georgiaへ到達できれば救助船を確保するつもりだった。

しかし、それが何日後になるかは誰にも分からない。

James CairdがSouth Georgiaへ到達できる保証さえなかった。

残留隊から見れば、

「救助隊が来ることを確認して待っている」のではなく、「救助要請そのものが成功したか分からない状態で待っている」

ことになる。

最初に必要だったのは、22人が冬を越せる「家」だった

Cape Wildへ到着した時点で、隊員の状態は良くなかった。

長期間の氷上生活と救命艇航海で体力を消耗していた。

衣類や寝袋は濡れている。

ブラックボロウは両足に重度の凍傷を負い、ハドソンも自力で十分に動ける状態ではなかった。

さらにElephant Islandでは、上陸直後から長期間の悪天候が続いた。

テントだけでは長期生活に耐えられない。

そこで残された2隻、

  • Dudley Docker
  • Stancomb Wills

を逆さにし、屋根として利用した。

地面には石を積んで壁を作り、その上へ2艇を並べる。

破れたテント生地で隙間を塞ぐ。

高さは十分ではなく、内部では立って歩けない。

それでもテントよりは強風を防ぐことができた。

この即席小屋が、22人の生活拠点になる。

ブラックボロウは島で足の指を切断された

特に深刻だったのが、パーシー・ブラックボロウの凍傷だった。

Elephant Islandへ向かう救命艇航海で両足を強く凍傷し、状態は改善しなかった。

島に残った医師のアレクサンダー・マックリンとジェームズ・マキルロイは、手術が必要だと判断する。

その結果、ブラックボロウは左足の5本の指を切断された。

現代の手術室ではない。

艇を屋根にした暗く汚れた小屋の中で、限られた医療器具と麻酔薬を使って行われた。

手術は成功し、ブラックボロウは救助まで生き延びた。

つまり22人が「全員無傷で救出された」わけではない。

全員が生存していたという意味での「全員生還」である。

食料はアザラシとペンギンへ依存した

Cape Wildでは保存食だけを食べ続けることはできなかった。

主な食料源となったのは、

  • アザラシ
  • ペンギン

だった。

肉は食料。

脂肪はストーブやランプの燃料になる。

しかし、動物が毎日現れるわけではない。

季節が進むにつれ、獲物は少なくなった。

8月末になると食料事情はかなり悪化していた。

シャクルトンが後にまとめた記録では、救出時にはアザラシとペンギンの肉は残り数日分程度まで減り、隊員たちは貝類や海藻まで利用していた

救助がさらに数週間遅れていた場合、状況は急速に深刻化した可能性がある。

それでも毎朝「今日、シャクルトンが来るかもしれない」と準備した

ワイルドが行ったことでよく知られているのが、毎朝の出発準備だった。

シャクルトンが島を離れてしばらくすると、ワイルドは天候や海氷の状態が良い朝に、

「今日はBossが来るかもしれない」

という趣旨で隊員へ寝袋をまとめさせた。

救助船が来るという情報を持っていたわけではない。

だが船が現れたとき、すぐ撤収できる状態を作ることには実務的な意味がある。

Elephant Island周辺の海氷は短時間で開閉する。

救助船が到達できたとしても、何時間も島の沖で待機できる保証はなかった。

実際、8月30日の救出ではこの問題が現実になる。

5月20日に助けを求められたのに、救助は8月30日だった

シャクルトン、ワースリー、クリーンがStromness捕鯨基地へ到達したのは5月20日。

そこには船も人員もあった。

ならば数日後にはElephant Islandへ戻れそうに思える。

実際、シャクルトンはほとんど時間を置かず救助船を手配した。

それでも救助まで約3か月かかる。

理由は、Enduranceを閉じ込めたのと同じパックアイスだった。

Elephant Islandは冬の海氷に囲まれ、通常船では近づけなかった。

第1次救出|Southern Sky――あと約70マイルで氷に止められた

最初に使われたのは捕鯨船Southern Skyだった。

South GeorgiaのHusvikに係留されていた船で、シャクルトンは所有者と連絡する時間さえ惜しみ、自ら責任を負う形で使用を手配した。

機関の一部は陸上へ外されていたが、捕鯨基地の人々が短期間で復旧させた。

1916年5月23日、Southern SkyはElephant Islandへ向かった。

しかし島へ近づくと海面に新しい氷が現れる。

さらに古いパックアイスが増えた。

5月28日ごろには、島まで約70マイルの地点で明確な海氷帯に阻まれた。

翌日も進入を試したが、厚いパックが続いていた。

Southern Skyは鋼製汽船で、Enduranceのように氷の中へ長時間入ることを想定した船ではない。

さらに搭載石炭にも限界があった。

その場で何週間も氷が開くのを待つことはできない。

シャクルトンは撤退を決めた。

5月31日、Southern SkyはPort Stanleyへ到着する。

第1次救出は失敗した。

第2次救出|Instituto de Pesca No.1――島が見えているのに行けない

次に救助船を提供したのはウルグアイ政府だった。

船は政府所属のトロール船、
Instituto de Pesca No.1

6月10日にPort Stanleyへ到着すると、ほぼそのままElephant Islandへ向かった。

航海3日目の朝。

今度はElephant Islandの山々そのものが見えた。

島は目の前にある。

ところが、島から約20マイルの地点に厚いパックアイスが横たわっていた。

船を少し氷へ入れる試みも行われた。

しかし船体はすぐ氷に拘束され、プロペラを損傷する危険もあったため後退する。

さらに問題だったのが燃料だった。

計画上期待したより船速が遅く、逆に石炭消費は大きかった。

残り石炭は約3日分。

島が見えていても、その20マイルを突破できない。

シャクルトンは再び撤退した。

Elephant Islandの22人には、2回の救出失敗が見えていなかった

Instituto de Pesca No.1は島を視認できる距離まで接近している。

しかしCape Wild付近は霧に覆われていた。

島側から救助船は確認できなかった。

つまり22人から見れば、

5月も何も来ない。

6月も何も来ない。

という状態が続いている。

実際にはシャクルトンはすでに二度、かなり近くまで来ていた。

しかし、その事実を伝える手段がなかった。

第3次救出|Emma――今度は船自体が限界になった

三度目に選ばれたのは、スクーナーEmmaだった。

Punta Arenasの住民やBritish Association of Magallanesが資金を集め、約40年前に建造された木造船をチャーターした。

補助エンジンも搭載していた。

チリ政府はYelchoを提供し、Emmaを航程の途中まで曳航した。

1916年7月12日、救出行動が始まる。

しかし悪天候で曳航ロープは何度も切れた。

Yelcho側では石炭も減り、Emmaと分かれる。

以後Emmaは単独でElephant Islandを目指した。

7月21日。

島まで約100マイルの地点で、再び海氷が現れた。

氷へ入って10分もしないうちに船体装備を損傷し、エンジンの冷却水取入口も氷で詰まる。

さらにエンジン自体も故障。

帆だけで航行しながら何度も南下を試したが、島方向はパックアイスに塞がれていた。

8月8日、EmmaはPort Stanleyへ戻った。

3回目も失敗。

失敗の原因は、3回ともほぼ同じだった

救出 主な障害 結果
第1次 Southern Sky 厚いパックアイス・石炭搭載量 約70マイル手前で撤退
第2次 Instituto de Pesca No.1 島まで約20マイルで厚いパック、燃料不足 撤退
第3次 Emma 海氷、荒天、船体損傷、エンジン故障 撤退

必要なのは単に「もっと大きな船」ではなかった。

Enduranceの遭難で分かったように、海氷へ無理に入れば救助船まで失う可能性がある。

救助船自身が遭難すれば、Elephant Islandの22人を救うどころではない。

したがってシャクルトンは、氷を力ずくで突破するより、
海氷が一時的に開く条件を捉える必要があった。

第4次救出|氷に弱いYelchoをあえて使った

3回目の失敗後、イギリスからはDiscoveryを救援船として派遣する計画が進んでいた。

しかし到着は9月以降になる。

シャクルトンはそこまで待とうとしなかった。

次にチリ政府へ求めたのが、以前Emmaを曳航したYelchoだった。

Yelchoは小型の鋼製汽船。

本格的な砕氷船ではない。

むしろシャクルトン自身、パックアイスへ入れるには不適切な船だと認識していた。

そこで条件を決めた。

氷には突入しない。

海氷が開いているときだけ島へ近づく。

チリ政府は使用を認め、指揮にはLuis Pardo(ルイス・パルド)船長が就いた。

8月25日、Yelchoは南へ出航した。

成功した理由は「Yelchoが強かったから」ではない

Yelchoが過去3隻より強力な砕氷船だったわけではない。

成功を可能にした最大の条件は、海氷の一時的な変化だった。

南からの強風によってElephant Island周辺のパックアイスが北へ動き、島へ接近できる水路が生まれていた。

シャクルトンの記録では、Yelchoが訪れる2日前なら島へ到達できなかった可能性があり、数時間後には再び氷が閉じた可能性もあるとしている。

つまり、

Southern Sky
Instituto de Pesca No.1
Emma

が失敗し、

Yelchoが成功した差は、

船の性能差だけではなく、到着した瞬間の海氷配置

にもあった。

8月30日午前11時40分、Cape Wildを発見

8月30日午前10時ごろ、YelchoはElephant Island近くの氷山と岩礁を確認した。

周囲は濃霧だった。

シャクルトンには待つ余裕がない。

霧が晴れるのを待っているうちに、海氷が再び閉じる可能性がある。

Yelchoは島沿岸を進む。

午前11時40分ごろ。

ワースリーが雪に覆われたCape Wildのキャンプを発見した。

同じころ、島側でも船に気付く。

「Lunch O!」だと思ったら、「Ship O!」だった

島ではちょうど昼食の準備が始まっていた。

その日の食事は、残ったアザラシの骨、貝、海藻などを煮たものだった。

外にいたジョージ・マーストンが船を発見する。

そして、

「Ship O!」

と叫んだ。

ところが小屋の中にいた一部の隊員は、

「Lunch O!」

と聞き間違え、最初は反応しなかった。

もう一度叫び声が上がる。

22人は小屋から飛び出した。

チリ国旗を掲げた船が、海上にいた。

煙を出すため、最後の燃料まで使った

島側は自分たちの場所を知らせる必要がある。

旗は凍りつき、うまく掲げられなかった。

そこで衣類や燃料を使い、丘の上で火を焚いた。

シャクルトン側はすでにCape Wildを認識していた。

Yelchoが向きを変え、浜へ近づいてくる。

小艇が降ろされた。

その船首に立っていたのがシャクルトンだった。

「全員いるのか」――最初に確認したのは人数だった

シャクルトンがまず確認したのは、島で何人が生きているかだった。

ワイルドから返ってきた答えは、

全員無事。

だった。

Cape Wildへ残した22人は1人も欠けていなかった。

シャクルトン自身を含むJames Cairdの6人もSouth Georgiaへ到達している。

したがって、

Enduranceに乗っていた28人全員の生存が、この瞬間に確認された。

救出作業に何時間も使わなかった

通常なら再会を喜び、荷物を整理し、キャンプを撤去する時間を取るように思える。

しかしYelchoに、その余裕はなかった。

海氷が再び戻れば船が島から離れられなくなる可能性がある。

シャクルトンはCape Wildの小屋を見に行くことさえしなかった。

持ち出すのは、

  • 隊員22人
  • 遠征記録
  • 重要な装備

が中心。

不要な物資は置いていく。

救助艇は複数回往復し、全員をYelchoへ移した。

最初に船を発見してから約1時間で22人全員が収容された。

Yelchoはすぐ北へ向かった。

Endurance側28人は、本当に全員生き残った

ここについては曖昧さはない。

Endurance側 人数 結果
James CairdでElephant Islandを出た隊 6人 全員生存
Elephant Island残留隊 22人 全員生存
合計 28人 28人全員生存

したがって、

「Enduranceの28人は全員生還した」

という説明は正しい。

シャクルトンの救出劇が「全員生還」と語られる根拠はここにある。

しかし帝国南極横断探検隊は、Enduranceだけではない

第2回で確認したように、シャクルトンの計画は南極大陸の両側から動く遠征だった。

ウェッデル海側を担当したのがEndurance。

反対側のロス海側を担当したのがAuroraだった。

Ross Sea Partyの任務は、シャクルトンの横断隊が南極点を越えた後に使用する、

  • 食料
  • 燃料

などの補給所をルート上へ設置することだった。

ところが彼らには、重大な情報が届いていない。

Endurance側の横断隊が、そもそも南極大陸へ上陸できていないこと

である。

無線通信がなかったため、Ross Sea Partyは補給所が必要になるものと考え、任務を続行した。

1915年5月、Auroraまで流されてしまった

Ross Sea側でも、Enduranceと異なる形の船舶事故が起きていた。

1915年5月、強風によってAuroraが係留地点から外れ、海氷とともに沖へ流された。

船には多くの物資が残っていた。

陸上には10人が取り残された。

Antarctic Heritage Trustによれば、Auroraには18人が乗った状態で流され、Cape Evans側には10人と限られた装備が残った。

船を失ったEndurance側と似ているようで、条件は違う。

Ross Sea PartyにはScott隊が残したCape EvansやHut Pointの小屋を利用できた。

一方で、遠征本来の物資の多くをAuroraと一緒に失っている。

それでも彼らは補給所設置任務を続けた。

使われることのない補給所を、知らずに作り続けた

1915年10月、9人が本格的な補給所設置行動へ出発する。

彼らはRoss Ice Shelfを南へ進み、横断隊が利用するはずの食料と燃料を設置していった。

その頃、ウェッデル海側ではEnduranceが氷圧で破壊されつつあった。

10月27日には退船。

11月21日には沈没している。

しかしRoss Sea Partyには、その情報がない。

1916年1月26日、彼らは最終的な補給所をMount Hope付近に設置した。

任務そのものは達成された。

ただし、その補給所を使う横断隊は永遠に来なかった。

帰路で壊血病が広がった

問題は帰路だった。

数か月のそり旅行で食生活は偏り、隊員に壊血病の症状が現れる。

脚が腫れる。

筋肉や関節が痛む。

歩行が困難になる。

Arnold Spencer-Smithの状態は特に悪化した。

1月下旬には自力歩行ができなくなり、帰路では寝袋に入ったままそりへ載せられた。

Aeneas Mackintoshも衰弱。

Victor Haywardにも壊血病症状が現れた。

健康な隊員が、病人を載せたそりを引きながら北へ戻ることになった。

1人目|Arnold Spencer-Smith――3月9日死亡

Spencer-Smithは聖職者であり、遠征では写真撮影なども担当していた。

帰路では長期間そりへ載せられて運ばれた。

1916年3月9日。

気温は華氏-29度前後まで低下していた。

午前4時ごろ、Spencer-Smithが体調の異変を訴える。

午前5時45分ごろ、死亡が確認された。

遺体は寝袋に入れたまま雪上へ埋葬され、竹で十字架を作り、雪と氷のケルンが築かれた。

Ross Sea Party最初の死者だった。

それでも残った隊員はHut Pointへ戻った

Spencer-Smithを失った後も、隊員たちは歩き続けた。

MackintoshやHaywardも重い壊血病症状を抱えていた。

健康状態の比較的良い隊員が彼らを支え、ときにはそりに載せる。

最終的に生存者はHut Pointへたどり着いた。

そこでアザラシ肉などの新鮮な食料を得ると、MackintoshとHaywardの状態も徐々に改善した。

しかしCape Evansの本拠地とはMcMurdo Soundの海氷を挟んで隔てられていた。

2人目・3人目|MackintoshとHaywardは海氷上で消えた

1916年5月8日。

Aeneas MackintoshとVictor Haywardは、Hut PointからCape Evansへ向かうことを決めた。

他の隊員は海氷がまだ十分安全ではないとして反対した。

天候も悪化する可能性があった。

それでも2人は軽装で出発した。

午後には吹雪が強くなった。

2人がCape Evansへ到着することはなかった。

5月10日、天候が回復してから捜索が行われる。

雪面には2人の足跡が残っていた。

しかし約2マイル先で、足跡は突然終わっていた。

その先にあったのは、海氷が失われた開水面だった。

2人が歩いていた海氷の一部が、吹雪の間に沖へ流されたと考えられた。

MackintoshとHaywardの遺体は発見されていない。

FACT CHECK|MackintoshとHaywardの「死因」は確定しているのか

2人が1916年5月8日にHut Pointを出て行方不明になったこと、後の捜索で足跡が海氷消失地点まで続いていたことは記録されている。

そのため、吹雪の中で海氷が割れ、流氷とともに海へ流された可能性が高いと判断された。

ただし遺体は発見されていない。

したがって、具体的に「溺死した」「低体温症で死亡した」といった最終的な死因まで断定することはできない。

Ross Sea Partyの死者は3人だった

人物 時期 状況
Arnold Spencer-Smith 1916年3月9日 補給所設置任務の帰路、壊血病で衰弱し死亡
Aeneas Mackintosh 1916年5月8日以降 Hut PointからCape Evansへ海氷上を移動中に行方不明
Victor Hayward 1916年5月8日以降 Mackintoshとともに海氷上で行方不明

残った7人はその後もCape Evansで生活を続けた。

1917年1月10日、Auroraが戻ってきた

Auroraは長期間の漂流後にニュージーランドへ戻り、修理された。

その後、Ross Sea Party救援のため再び南極へ向かった。

この救援航海にはシャクルトンも参加した。

1917年1月10日、AuroraがCape Evansへ到着。

残っていた7人の生存者が救出された。

これによって帝国南極横断探検隊の救助活動は事実上終了する。

FACT CHECK|「シャクルトンが遠征隊全員を生還させた」は正しいか

表現 判定
Enduranceに乗っていた28人は全員生還した 正しい
Elephant Islandに残った22人は全員救助された 正しい
シャクルトンの帝国南極横断探検隊では死者が出なかった 誤り
Ross Sea Partyでは3人が死亡した 正しい

したがって、最も正確なのは、

「Endurance側の28人は全員生還したが、帝国南極横断探検隊全体ではRoss Sea Partyの3人が死亡した」

という表現である。

なぜ「全員生還」というイメージだけが強く残ったのか

理由の一つは、Endurance側の物語が一つの連続したドラマとして理解しやすいことにある。

船が氷に閉じ込められる。

船を失う。

氷上で漂流する。

救命艇でElephant Islandへ渡る。

6人がJames CairdでSouth Georgiaへ向かう。

3人が島を横断する。

シャクルトンが救助船で戻る。

28人全員が助かる。

物語として非常に明確である。

一方、Ross Sea Partyは地理的にもEndurance側から完全に分離しており、別の船、別の指揮系統、別の遭難を経験していた。

その結果、一般的な「Shackleton and Endurance」の物語ではRoss Sea Partyが省略されやすい。

しかし遠征計画上、彼らは付録ではない。

横断隊の後半を支える不可欠な補給部門だった。

しかもRoss Sea Partyは、使われないと知らずに任務を達成した

この3人の死を理解するうえで最も重い事実は、Ross Sea Partyが補給所を設置した時点で、

その物資をシャクルトンが使用する可能性はすでになくなっていた

ことである。

Enduranceは1915年10月に退船され、11月に沈んでいる。

横断隊は南極大陸へ一歩も入っていない。

しかしロス海側にはその情報を伝える無線通信手段がない。

Ross Sea Partyは、

「横断隊が来るかもしれない」

ではなく、

「来るものとして」

補給任務を続けた。

彼らは最終補給所まで設置した。

任務としては達成している。

しかし、その補給物資は一度も横断隊に使われなかった。

「全員生還」を否定するために3人を持ち出すわけではない

ここでRoss Sea Partyの死者を挙げる目的は、

「シャクルトンの全員生還は嘘だった」

と評価を逆転させることではない。

Endurance側28人が1人も失われなかったこと自体は事実である。

船を失い、約5か月半海氷上で暮らし、救命艇でElephant Islandへ渡り、James Cairdで救援要請を行い、最終的に22人を回収した。

この成果は変わらない。

問題は、
どの集団を指して「全員」と呼んでいるか
である。

Endurance乗組員だけを指すなら正しい。

Imperial Trans-Antarctic Expedition全体を指すなら正しくない。

歴史的事実としては、この二つを同時に記録する必要がある。

2つの隊を並べると、遠征全体の姿が見える

Endurance側 Ross Sea側
Endurance Aurora
主要任務 横断隊をWeddell Sea側へ送り込む 横断後半用の補給所を設置
船の問題 海氷に閉じ込められ圧壊・沈没 係留地点から流され岸上隊と分断
通信 外部との連絡不能 Endurance側との連絡不能
任務 大陸横断を開始できず 補給所設置を達成
結果 28人全員生存 3人死亡、7人が1917年救出

両者を合わせて初めて、
帝国南極横断探検隊がどれほど大規模で、通信断絶に弱い計画だったか
が分かる。

まとめ|「全員生還」は正しい。ただしEnduranceの28人についてである

1916年5月20日、シャクルトンはStromness捕鯨基地へ到達した。

しかしElephant Islandの22人を救出できたのは、3か月以上後の8月30日だった。

最初のSouthern Skyは約70マイル手前でパックアイスに阻まれた。

2隻目のInstituto de Pesca No.1は島を視認しながら、約20マイル手前で前進不能になった。

3隻目のEmmaも氷、荒天、船体損傷、エンジン故障で撤退した。

4回目。

チリ政府が提供したYelchoが8月25日に出航する。

南風によってパックアイスが一時的に北へ移動した隙を利用し、8月30日にElephant Islandへ到達した。

午前11時40分ごろにCape Wildを発見。

島に残った22人は全員生存していた。

約1時間後には全員がYelchoへ収容された。

James Cairdで島を離れた6人も生存している。

したがって、

Enduranceの28人は全員生還した。

この事実に誤りはない。

しかし帝国南極横断探検隊全体では、反対側のRoss Sea Partyで、

  • Arnold Spencer-Smith
  • Aeneas Mackintosh
  • Victor Hayward

の3人が死亡した。

Spencer-Smithは補給任務からの帰路、壊血病で死亡。

MackintoshとHaywardはHut PointからCape Evansへ海氷上を移動中に行方不明となった。

そして皮肉なことに、彼らが命を削って設置した補給所を、Endurance側の横断隊が使用することはなかった。

それでもRoss Sea Partyは、自分たちの側から見れば任務を完遂している。

1917年1月10日、Auroraが戻り、7人の生存者が救出された。

これによって1914年に始まった帝国南極横断探検隊の遭難と救助は、ようやく終わった。

ただしEnduranceそのものは、ウェッデル海の海底に残されたままだった。

船長フランク・ワースリーが記録した沈没位置を手掛かりに、その船を探す試みは100年以上後まで続く。

そして2022年3月。

水深3,000mを超える海底で、船尾に刻まれた文字が映し出された。

ENDURANCE。

最終第10回では、1915年に沈んだ船がなぜ107年間見つからず、2022年にどう発見されたのか。そして海底の船体から何が確認されたのかを追う。

今回出てきた言葉

Yelcho
チリ政府が提供した小型汽船。Luis Pardo船長の指揮で1916年8月30日にElephant Islandへ到達し、残留隊22人を救出した。
Southern Sky
South Georgiaの捕鯨船。5月23日に最初のElephant Island救出へ向かったが、海氷に阻まれて撤退した。
Instituto de Pesca No.1
ウルグアイ政府が提供したトロール船。第2次救出ではElephant Islandを視認できる距離まで到達したが、パックアイスを突破できなかった。
Emma
Punta Arenasでチャーターされた木造スクーナー。第3次救出に使用されたが、海氷・悪天候・機関故障により撤退した。
Ross Sea Party
帝国南極横断探検隊のロス海側を担当した隊。横断隊後半用の食料・燃料補給所を設置する役割を担った。
Aurora
Ross Sea側を担当した遠征船。1915年5月に係留地点から流され、岸上の10人が取り残された。修理後、1917年1月に救援船として南極へ戻った。
Arnold Spencer-Smith
Ross Sea Partyの聖職者・写真担当。補給所設置任務の帰路で壊血病が悪化し、1916年3月9日に死亡した。
Aeneas Mackintosh
Ross Sea Partyの指揮官。1916年5月、Victor HaywardとHut PointからCape Evansへ向かう途中で行方不明となった。
Victor Hayward
Ross Sea Party隊員。Mackintoshとともに海氷を渡っている最中に行方不明となり、遺体は発見されなかった。

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第8回 なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ

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第10回 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死【現在の記事】
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

  • Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
    Southern Sky、Instituto de Pesca No.1、Emma、Yelchoによる4回の救出行動、Elephant Island残留隊の生活、8月30日の救出、Ross Sea Partyの活動と3人の死亡についての一次・同時代記録の編集資料として使用。
  • Royal Geographical Society — Endurance22 Interactive / Shackleton Expedition Timeline
    Elephant Island救出の時系列、4回の救援行動、8月30日のYelcho救出、1917年1月のRoss Sea Party救出について確認。
  • Royal Museums Greenwich — History of Antarctic Explorers
    Endurance側28人全員生還と、Ross Sea Partyで3人が死亡したことを区別するために使用。
  • Royal Museums Greenwich — Victor George Hayward Journal Collection
    Ross Sea Party隊員Victor Haywardの1915~1916年の日誌、行方不明と当時の記録資料の確認に使用。
  • Antarctic Heritage Trust — History of Other Expeditions / Ross Sea Party
    AuroraによるRoss Sea Partyの分断、補給所設置任務、Spencer-Smithの壊血病死、MackintoshとHaywardの行方不明、1917年1月の7人救出について確認。

本記事では、「全員生還」という表現の対象範囲を明確に区別しています。Enduranceに乗船していたWeddell Sea側の28人は全員生存しました。一方、帝国南極横断探検隊にはRoss Sea側の隊も含まれ、そちらではArnold Spencer-Smith、Aeneas Mackintosh、Victor Haywardの3人が死亡しています。また、MackintoshとHaywardについては遺体が確認されていないため、海氷崩壊時に行方不明となり死亡したと判断された経緯を記載し、具体的な最終死因は断定していません。

2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

探検・遠征

2022年3月5日、16時05分GMT。

南極・ウェッデル海。

水深3,008mの海底を捜索していた無人潜水機の映像に、木造船の船体が現れた。

海底に横倒しになった残骸ではない。

船はほぼ正立した状態で残っていた。

手すり。

舵輪。

甲板。

外板。

そして船尾には、金色の文字がはっきり残っていた。

ENDURANCE

その下には五芒星――船名Polaris時代から残る星の意匠も確認できた。

1915年11月21日にウェッデル海へ沈んで以来、107年近く誰も見ていなかったアーネスト・シャクルトンの探検船だった。

発見場所は、船長フランク・ワースリーが1915年に残した推定位置から南へ約4海里

100年以上前、六分儀、時計、海氷の漂流推定から残された座標が、現代の海洋ロボットをほぼ船の上まで導いていた。

そして発見されたEnduranceは、単なる「歴史的な沈没船」ではなかった。

氷にどう壊され、どの状態で沈んだのかを検証できる巨大な物証でもあった。

この記事で分かること

  • なぜEnduranceは107年近く見つからなかったのか
  • Frank Worsleyは沈没地点をどこまで正確に記録していたのか
  • 2019年の捜索はなぜ失敗したのか
  • 2022年のEndurance22では何が変わったのか
  • S.A. Agulhas IIとSabertoothは何をしたのか
  • 実際の発見日は3月5日か3月9日か
  • なぜ船体は驚くほど残っていたのか
  • 船体から沈没過程について何が分かったのか
  • なぜ遺物を引き揚げなかったのか
  • 現在Enduranceはどのように保護されているのか

1915年11月21日、最後に位置を記録したのはFrank Worsleyだった

Enduranceが沈んだ場所について、最も重要な資料を残したのは船長Frank Worsleyだった。

ただし、沈没した瞬間にGPSのような装置で緯度・経度を記録したわけではない。

1915年11月21日は曇天で、沈没当日に太陽を利用した六分儀観測を行うことはできなかった。

Worsleyが残した位置は、それ以前の天測結果と、その後の観測、さらに海氷がどの方向へどれだけ漂流したかという推定を組み合わせた推定位置だった。

ここには必然的に誤差が入る。

六分儀観測そのものの誤差。

時計の誤差。

氷盤の移動速度。

風。

海流。

Enduranceの残骸が海面から海底へ沈む間に横方向へ移動した可能性。

3,000mの水柱の下にある船を探すには、数海里の位置誤差でも巨大な探索範囲になる。

それでもWorsleyの記録は、100年以上後の捜索で最も重要な出発点になった。

なぜ沈没船は簡単に見つからなかったのか

Enduranceの位置が分からなかった最大の理由は、水深だけではない。

ウェッデル海そのものが非常に接近しにくい海域だった。

海面には広大なパックアイスが存在する。

氷は固定されておらず、風と海流によって動く。

昨日船が入れた場所が、翌日には閉じていることもある。

大型の耐氷船であっても、氷に挟まれれば自由に移動できなくなる。

海底捜索ではさらに問題が増える。

通常の海域なら調査船を一定の航路で往復させ、ソナーで海底を面状に捜索できる。

ウェッデル海では、海面の船が予定した捜索線を自由に走れるとは限らない。

つまり、

「海底3,000mを探す問題」と「その真上まで調査船を持っていく問題」

を同時に解決しなければならなかった。

2019年、一度目の本格捜索は失敗した

2019年、Weddell Sea ExpeditionがEnduranceの捜索を試みた。

使用されたのは、南アフリカの極地調査・補給船S.A. Agulhas II

Endurance22でも使われる船である。

この遠征はEnduranceだけを目的としたものではなく、Larsen C棚氷周辺の科学調査やウェッデル海の生態系調査も行っていた。

その一部としてEnduranceの沈没地点へ向かった。

しかしRoyal Geographical Societyがまとめているように、2019年には厳しいウェッデル海の海氷条件によって十分な捜索を完了できなかった。

船を沈めたのと同じ種類の障害が、約104年後の捜索隊にも立ちはだかった。

ただし、この失敗は無駄にはならなかった。

海氷下でどのように水中機器を運用するか。

調査船が自由に移動できなくても、海底を広範囲に調べるにはどうすればよいか。

次の遠征では、捜索システムそのものが変更された。

2022年の最大の違い|船ではなく水中ロボットを遠くまで動かす

2022年のEndurance22 Expeditionでも母船はS.A. Agulhas IIだった。

しかし海底捜索の中心となったのは、Saab製のSabertoothだった。

これはAUVとROV双方の特徴を持つハイブリッド型水中車両である。

通常のROVはケーブルで母船とつながり、船の近くを調査する。

AUVは自律航行できるため母船から離れて海底を探せる。

Sabertoothでは、状況に応じてこうした機能を組み合わせることができた。

Endurance22によれば、母船から最大約100マイル離れた地点まで運用可能な能力が想定されていた。

これはウェッデル海で大きな意味を持つ。

S.A. Agulhas IIが海氷で沈没地点の真上まで進めなくても、
水中車両だけを海氷の下へ送り込んで捜索できる
からである。

捜索範囲は約382平方km

Endurance22では、Worsleyの記録を基準に事前の捜索区域が設定された。

公表資料では、その面積は約382平方km

東京都心で考えても非常に広い。

しかも対象は平面の陸地ではない。

水深約3,000mの暗い海底である。

母船S.A. Agulhas IIは海氷を避けながら移動し、Sabertoothを投入する。

水中車両は海底付近へ降下し、一定間隔で航行しながらソナーで周囲を調べる。

疑わしい対象を見つければ、より詳細な映像やレーザー計測を行う。

海底の巨大な面積を、細い線を何本も引くように埋めていく作業だった。

2022年2月5日、Cape Townを出航

Endurance22はFalklands Maritime Heritage Trustによって組織された。

遠征隊長は極地研究者John Shears。

海洋考古学・探索部門を率いたのはMensun Bound。

海洋技術者、AUV運用チーム、科学者、氷海専門家、S.A. Agulhas IIの船員など、国際的なチームが参加した。

2022年2月5日、S.A. Agulhas IIはCape Townを出航した。

計画された航海期間は35日。

必要なら45日まで延長できる設定だった。

つまり捜索できる時間にも限界がある。

見つかるまで何か月でも海底を探せるわけではなかった。

2月18日、捜索海域へ到着

National Geographicの後年の記録によると、S.A. Agulhas IIは2月18日ごろ捜索海域へ到達した。

そこから海底捜索が本格化する。

しかし現代の機器を使えば自動的に船が見つかるわけではない。

水深3,000mでは水中車両の投入・回収だけでも時間がかかる。

機器には故障が起きる。

ケーブルやウインチにも問題が起きる。

海面では氷盤が動き、母船の位置を変えなければならない。

その状況で昼夜を問わず、海底の捜索線を少しずつ埋めていった。

そして海底に、船の形が現れた

3月5日。

Sabertoothが取得したソナー情報に、海底から明確に突出する構造物が現れた。

映像を取得すると木造船であることが分かった。

船は大きく崩壊していない。

海底へほぼ直立している。

さらに詳細な映像が送られてくる。

船尾。

金色の文字。

ENDURANCE。

その下にPolarisを示す五芒星。

別の同型船である可能性はなくなった。

Endurance22 expedition blogによれば、発見時刻は2022年3月5日16時05分GMTだった。

FACT CHECK|Enduranceが見つかったのは3月5日? 3月9日?

2022年3月5日 海底でEnduranceを実際に発見した日。Endurance22の遠征記録では16時05分GMT。
2022年3月9日 Falklands Maritime Heritage Trustが発見を世界へ正式発表した日。

ニュース記事の公開日から「3月9日発見」とされる場合があるが、本シリーズでは3月5日=発見、3月9日=公表と区別する。

水深3,008m――Worsleyの位置から約4海里

Enduranceが確認された水深は3,008m

南極条約事務局が現在登録している位置は、

南緯68度44分21秒、西経52度19分47秒

である。

そしてEndurance22によれば、実際の船体はWorsleyが残した位置から南へ約4海里だった。

100年以上前の推測位置としては非常に近い。

Worsleyには衛星測位も電子計算機もない。

沈没当日は曇天で天測もできなかった。

それでも観測記録と海氷漂流の推定から、数km規模の範囲まで位置を絞り込んでいた。

James Caird航海でSouth Georgiaを捉えた航法技術と同じく、
Worsleyの位置記録が100年以上後にも実用的な情報として残った
ことになる。

船は「ばらばらの残骸」ではなかった

発見時に特に驚かれたのが、船体の保存状態だった。

Enduranceはほぼ正立した状態で海底にある。

Royal Museums Greenwichが映像から確認した範囲では、

  • 船尾
  • 船名
  • 五芒星
  • ガードレール
  • 舵輪
  • コンパニオンウェイ
  • 船体外板
  • 甲板構造

などが明瞭に残っている。

船首楼甲板や右舷側などには損傷がある。

前部マストも折れて甲板上に横たわっている。

しかし船体全体が崩壊して散乱した状態ではなかった。

木造船としての形が認識できるほど残っていた。

なぜ100年以上、木造船がここまで残ったのか

保存状態には複数の条件が関係していると考えられている。

水深3,000mの海底は暗い。

水温も非常に低い。

National Geographicは、低温、光がほぼ存在しないこと、低酸素環境などが保存状態へ寄与したと説明している。

さらにEndurance自体が、極地用として非常に強固に造られた木造船だったことも重要である。

外板には硬いグリーンハート材などが使われていた。

第4回で見たように、Enduranceは海氷へ閉じ込められた後も約9か月以上、激しい圧力へ耐えている。

最終的には構造損傷と浸水で失われたが、
船全体が瞬間的に粉砕されたわけではなかった

船体は「沈没の瞬間」についても新しい証拠を与えた

Endurance発見の価値は、船名を確認できたことだけではない。

1915年に船がどう沈んだかを、物理的な船体から検証できるようになった。

Frank Hurleyの写真や乗組員の記録からは、海氷によってEnduranceが激しく破壊されていく姿が分かっていた。

そのため後世には、海氷で船体下部まで徹底的に押し潰され、ばらばらに近い状態で沈んだようなイメージも存在した。

しかしRoyal Museums Greenwichは2022年の映像から、
Enduranceは大部分を一体のまま海底へ沈んだ可能性が高い
と見ている。

海氷は船体を貫き、浸水を引き起こした。

上部構造の一部も氷によって取り去られた。

しかし船の主要船体は完全には分解されていない。

浸水して重くなった船が、海氷の間が開いた際にそのまま沈下し、海底へ到達したと考えられる。

これは、写真・日記・設計図だけでは確認できなかった情報である。

FACT CHECK|Enduranceは海氷で「完全に圧壊」したのか

海氷によって重大な構造損傷を受け、航行不能・復旧不能になったことは確実である。

一方、2022年の船体は主要部分が一体で海底に残っている。

したがって、

「氷圧で損傷・浸水し沈没した」

は正しいが、

「船体全体が粉々に押し潰された」

というイメージは実物と一致しない。

発見された船体そのものが、沈没過程を再検討する新しい一次物証となった。

Frank Hurleyの写真と、2022年の船体を照合できる

このCASE FILEで何度も登場した写真家Frank Hurleyの記録が、ここで別の役割を持つ。

Hurleyは1914~1915年、Enduranceの甲板、船内、氷上の犬、船体損傷などを多数撮影していた。

2022年の海洋考古学者は、海底映像を、

  • Enduranceの設計図
  • Hurleyの写真
  • 乗組員の日記

と照合できる。

例えば、

どの構造が1915年以前から存在したのか。

遠征用に何が改造されたのか。

氷圧でどこが失われたのか。

沈没後にどの部分が崩れたのか。

を比較できる。

Royal Museums Greenwichは、この

設計図 + 歴史写真 + 実物の海底船体

の3つがそろったことで、Enduranceの最期をより具体的に検証できると評価している。

触らずに、3Dで記録する

Endurance22は船体を発見したあと、遺物の回収を行っていない。

代わりにSabertoothへ搭載した、

  • 高解像度カメラ
  • ソナー
  • レーザースキャナー

などを使用し、船体と周辺のデブリフィールドを記録した。

多数の写真を重ね合わせるフォトグラメトリによって、船体を立体的に再構成することもできる。

レーザー計測を組み合わせれば、単に「きれいな写真を撮る」よりも、各構造物の位置と寸法を考古学的に記録できる。

Endurance22は、陸上の遺跡調査に近い精度で海底船体を記録することを目的としていた。

なぜ船の鐘や舵輪を引き揚げなかったのか

深海の有名沈没船では、船鐘や食器などを回収して博物館へ展示する例もある。

Enduranceでは行われなかった。

理由は法的・文化財的な保護にある。

Enduranceの沈没船は、南極条約体制におけるHistoric Site and Monument No.93(HSM 93)に指定されている。

これは2022年に船体が発見されてから急に決まったものではない。

2019年の段階でEndurance wreck siteはHSMへ追加されていた。

そのためEndurance22の時点から、

見つけても触らない。

遺物を持ち上げない。

船体を動かさない。

という非侵襲的調査が前提だった。

発見後、保護対象は船体だけではなく周囲の遺物まで明文化された

2022年の南極条約協議国会議では、発見された実際の位置を反映してHSM 93の情報が更新された。

保護対象には船そのものだけでなく、

  • 船内に残っている遺物
  • 船から海底へ落ちた可能性のある物品
  • 舵輪
  • ベル
  • 船の装備品
  • 乗組員の私物

なども含まれる。

さらに2024年には保護記述が改定され、周辺の対象範囲も船体から1,500mへ拡大された。

したがって現在のEnduranceは、
「誰かが先に見つけたから引き揚げて所有できる沈没船」ではない。

船と周辺の遺物を一つの歴史遺跡として海底に残す考え方が取られている。

発見された座標は現在、公的記録になっている

1915年には「Worsleyが推定した位置」だったものが、2022年以降は実際の船体位置として記録できるようになった。

項目 現在確認されている内容
実際の発見日 2022年3月5日
発表日 2022年3月9日
水深 3,008m
位置 68°44’21″S, 52°19’47″W
Worsley記録との差 南へ約4海里
船体状態 海底にほぼ正立し、大部分が一体で残存
文化財指定 Historic Site and Monument No.93
調査方法 非接触による映像・ソナー・レーザー・3D記録

発見は「Shackletonが正しかった」と証明したものではない

Enduranceの発見は非常に象徴的な出来事だった。

しかし、船体を見つけたことでシャクルトンのすべての判断が正しかったと証明されたわけではない。

このシリーズで見てきたように、

遠征は本来の南極大陸横断を達成していない。

海氷が厳しいという情報を得たうえでウェッデル海へ進んだ。

上陸可能だった地点を通過した。

Enduranceは氷に閉じ込められ、最終的に失われた。

Ross Sea Partyでは3人が死亡した。

したがってEnduranceを「成功した遠征の船」と呼ぶのは正確ではない。

本来の遠征は失敗している。

一方で、その失敗後の生存行動では、

  • 船を捨てる判断
  • 徒歩移動の中止
  • 氷の漂流利用
  • 食料・燃料管理
  • 3艇によるElephant Island脱出
  • James Cairdの改造
  • Worsleyの航法
  • South Georgia横断
  • 4回にわたる救出試行

が連続している。

2022年の船体は、この物語を英雄伝説へ変えるものではない。

むしろ、
1915年に彼らが何を失ったのかを物理的に確認できる証拠
が戻ってきた、と考える方が適切である。

1915年の記録と2022年の技術がつながった

Endurance発見で特に興味深いのは、1915年の技術と2022年の技術が直接つながっていることだった。

1915年 2022年
Frank Worsleyの六分儀観測 探索区域の設定
クロノメーター 現代の衛星測位
海氷漂流の推定 衛星による海氷観測
Frank Hurleyの写真 海底映像との構造照合
手書きの日誌 船体損傷との比較
肉眼による船体記録 4K映像・レーザー・3Dモデル

最新技術だけで突然見つかったわけではない。

100年前に人間ができる限り正確に残したデータを、現代の技術で拡張した結果だった。

そしてWorsleyの記録は、約4海里しか外れていなかった

CASE FILE 28では、Worsleyは何度も重要な場面に登場した。

Enduranceの船長。

氷上漂流中の測位。

Elephant Islandへの救命艇航海。

James CairdをSouth Georgiaへ導いた航海士。

South Georgia横断の3人の一人。

そして107年後。

最後に残した沈没位置まで、Endurance発見に使用された。

実際の船体はそこから約4海里。

沈没日には太陽すら観測できなかったことを考えると、この位置精度はEndurance遠征に残された航海技術上の重要な成果の一つといえる。

まとめ|107年後に見つかった船は、物語の「最後の証拠」だった

1915年11月21日。

Enduranceはウェッデル海へ沈んだ。

船長Frank Worsleyは、その位置を記録した。

しかしGPSはなく、沈没当日は曇っていた。

残ったのは天測と海氷の漂流をもとにした推定位置だった。

その後100年以上、船の正確な場所は分からなかった。

2019年にはS.A. Agulhas IIを使った捜索が行われたが、ウェッデル海の海氷条件に阻まれた。

2022年。

Falklands Maritime Heritage TrustのEndurance22 Expeditionが再挑戦する。

母船は再びS.A. Agulhas II。

今回はSaab製Sabertooth水中車両を使い、母船から離れた海氷下の海底まで捜索する方式が採用された。

そして3月5日16時05分GMT。

水深3,008mで木造船を発見。

船尾には、

ENDURANCE

の文字が残っていた。

位置はWorsleyが1915年に記録した地点から南へ約4海里。

船体はほぼ正立し、船尾、舵輪、手すり、外板などが驚くほど残っていた。

そしてその状態は、Enduranceが氷圧で完全に粉々になったのではなく、
重大な構造損傷と浸水を受けながらも主要船体を一体のまま沈めた
可能性を示した。

船体は引き揚げられなかった。

Enduranceは南極条約のHistoric Site and Monument No.93として保護され、現在もウェッデル海の海底に残されている。

1914年、シャクルトンが目指した南極横断は達成されなかった。

Enduranceも失われた。

Ross Sea Partyでは3人が死亡した。

その意味では、帝国南極横断探検隊は成功した遠征ではない。

しかしEndurance側の28人は、

船を失い、

氷の上を漂流し、

小型艇で海を渡り、

無人島から約800海里を航海し、

山脈を徒歩で越え、

4回の救助活動の末、

全員が生きて帰った。

そして107年後、その出発点となった船そのものが海底から確認された。

CASE FILE 28を一つの言葉で表すなら、「奇跡」よりもこちらの方が近い。

計画は失敗した。しかし、失敗したあとも状況を観測し、使える資源を残し、次の手段へ切り替え続けた。

Enduranceの船尾に残った名前は、その過程を伝える最後の物証として、現在も水深3,008mのウェッデル海底にある。

今回出てきた言葉

Endurance22 Expedition
Falklands Maritime Heritage Trustが組織した2022年の南極遠征。ウェッデル海でEnduranceの捜索、撮影、海洋考古学的記録を実施した。
S.A. Agulhas II
南アフリカ政府所有の極地調査・補給船。2019年と2022年のEndurance捜索で母船となった。
Sabertooth
Saab製のハイブリッド型水中車両。Endurance22では水深約3,000mの海底捜索と船体調査に使用された。
サイドスキャン/捜索ソナー
音波を利用して海底の形状や物体を探す技術。広範囲の海底から沈没船などの異常構造を検出するために使われる。
フォトグラメトリ
多数の写真を重ね合わせ、対象物の形状や位置を三次元的に再構成する技術。Enduranceの非接触記録にも利用された。
HSM 93
南極条約体制におけるHistoric Site and Monument No.93。Enduranceの船体および周辺遺物を保護対象としている。
Mensun Bound
海洋考古学者。2019年と2022年のEndurance捜索に参加し、Endurance22ではDirector of Explorationを務めた。
John Shears
極地研究者・探検家。Endurance22 Expeditionの遠征隊長。

前の記事:
第9回 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死

CASE FILE 28 最初の記事:
第1回 シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか【現在の記事】

出典・参考資料

  • Falklands Maritime Heritage Trust / Endurance22 — Endurance is Found
    2022年3月5日の発見、水深3,008m、Worsley記録位置から約4海里南、S.A. Agulhas II、Sabertooth、船体の保存状態について確認。
  • Endurance22 — Exploration / Marine Archaeology
    Sabertooth水中車両による海底捜索、レーザー計測、フォトグラメトリ、3D記録などの調査方法について確認。
  • Royal Geographical Society — 2019 Weddell Sea Expedition
    2019年に行われた最初の本格捜索が、ウェッデル海の厳しい条件によってEnduranceを発見できなかったことの確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — Endurance shipwreck discovered: what can the wreck video tell us?
    船尾、舵輪、手すり、外板、マストなどの保存状態と、実船映像から沈没・船体破壊を再検討できることの確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — What can shipwrecks tell us?
    海底船体から、Enduranceが大部分を一体として沈んだ可能性や、氷による船体損傷を再検証できることの確認に使用。
  • Antarctic Treaty Secretariat — Historic Sites and Monuments No.93 / Measure 18 (2022), Measure 18 (2024)
    Endurance wreckの正式位置、水深、保護対象、遺物の扱い、および現在の保護範囲について確認。
  • National Geographic — Shackleton’s legendary ship is finally found
    Endurance22の現場記録、船体の保存環境、海氷、AUVによる発見過程について補助資料として使用。

本記事では「2022年3月5日」を実際のEndurance発見日、「3月9日」をFalklands Maritime Heritage Trustによる公式発表日として区別しています。またWorsleyが1915年に残した座標は沈没当日の直接測位値ではなく、天測記録と海氷漂流を基にした推定位置であることを明記しています。2022年の船体映像から読み取れる沈没過程については、Royal Museums Greenwichなどの海事史・船舶資料による評価を基にし、映像だけから断定できない事項は確定事実として扱っていません。Endurance wreckは現在もHSM 93として南極条約体制下で保護されており、船体・周辺遺物の回収を前提としない非侵襲的調査が基本となっています。

シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか

探検・遠征

1914年12月5日、南大西洋のサウスジョージア島を1隻の木造船が離れた。
船の名はエンデュアランス号(Endurance)。船上には探検隊長アーネスト・シャクルトンを含む28人がいた。

彼らの目的は遭難でも、単なる南極到達でもない。ウェッデル海側から南極大陸へ上陸し、南極点付近を経てロス海側まで抜ける南極大陸横断だった。
しかし、この横断は一歩も始まらなかった。

エンデュアランス号は南極大陸へ到達する前に海氷へ閉じ込められ、そのまま約10か月にわたって氷とともに漂流する。やがて船体は氷圧に耐えられなくなり、1915年10月27日に退船。11月21日にはウェッデル海へ沈んだ。

残された28人の周囲に港も町もなかった。無線で救助を呼ぶこともできない。彼らが立っていたのは、海の上を漂う氷だった。

ここから、エンデュアランス号遠征の目的は完全に変わる。
南極を横断することではなく、28人を生きて帰すことが新しい任務になった。

この記事で分かること

エンデュアランス号の物語は「シャクルトンのリーダーシップ」の一言で紹介されることが多い。しかし実際の遠征を追うと、船を失った後だけでも、氷上漂流、救命艇による航海、無人島での待機、小型艇による外洋横断、山岳地帯の徒歩横断、複数回の救助失敗という異なる局面が続いている。

  • シャクルトンは何を目的に南極へ向かったのか
  • なぜエンデュアランス号は海氷から脱出できなかったのか
  • 船を失った28人はどのように生き延びたのか
  • なぜ約800マイルの小型艇航海が必要になったのか
  • 「全員生還」という説明はどこまで正しいのか
  • 沈没したエンデュアランス号はその後どうなったのか

この第1回では、1914年の出航から1916年の救出、さらに2022年の船体発見までを一度つなげて、CASE FILE 28の全体像を整理する。

CASE FILE 28

シャクルトンとエンデュアランス号遠征|全10回

南極大陸を横断するはずだった探検隊は、大陸へ上陸する前に船を失った。
この特集では、遠征計画、ウェッデル海の海氷、エンデュアランス号沈没、氷上生活、エレファント島への脱出、ジェームズ・ケアード号の航海、サウスジョージア島横断、救出、そして107年後の船体発見までを資料から追う。

  1. 第1回 シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか【現在の記事】
  2. 第2回 シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. 第3回 なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. 第4回 エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 第5回 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 第6回 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 第7回 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. 第8回 なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 第9回 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 第10回 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

そもそも、シャクルトンは何をしようとしていたのか

20世紀初頭の南極探検では、「南極点へ最初に到達すること」が大きな目標だった。だが1911年12月、ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊が南極点へ到達し、ロバート・スコット率いるイギリス隊も翌1912年1月に到達した。

南極点到達という競争が終わったあと、シャクルトンが次の大きな課題として選んだのが南極大陸の横断だった。

計画では、シャクルトン側の隊がウェッデル海から大陸へ上陸する。そして南極点付近を通り、反対側のロス海へ抜ける。一方、ロス海側からは別働隊が入り、横断隊が後半で使用する食料や燃料の補給所を氷原上へ設置することになっていた。

つまり、これはエンデュアランス号1隻だけで完結する探検ではない。
ウェッデル海側とロス海側から挟むように進める、大規模な南極横断計画だった。

シャクルトン自身も後に著書『South』で、アムンセンとスコットが南極点へ到達した後、「海から海へ南極大陸を横断すること」が残された大きな課題だと考えた経緯を書いている。

ところが、横断隊を運ぶエンデュアランス号は予定していた上陸地点へ到達できなかった。

遠征は、大陸へ上陸する前に失敗した

エンデュアランス号は1914年12月5日にサウスジョージア島を離れ、ウェッデル海へ向かった。これは乗組員にとって長期間にわたる最後の陸地となる。

南へ進むほど海面には海氷が増えた。船は氷の間に開いた水路を探しながら進んだが、1915年1月には周囲の氷が密集し、自由に動けなくなった。

Royal Geographical Societyの年表とシャクルトン自身の記録を突き合わせると、1月18日ごろから進路を阻まれ、その後には周囲すべてを密な海氷に囲まれた状態になっている。

ここで重要なのは、エンデュアランス号が「氷山に衝突して沈んだ」わけではないことだ。

船は海氷に包囲され、その氷と一緒に漂流し始めた。

一時的に氷が緩めば航行を再開できる可能性はあった。しかしウェッデル海の氷は船を解放せず、エンデュアランス号は数か月にわたって巨大な流氷群の一部として移動していく。

南極大陸横断計画は、この時点ですでに予定通り実施できる可能性をほぼ失っていた。

10か月後、エンデュアランス号そのものが失われた

船が動けないだけなら、氷が割れる季節まで待つという選択肢がある。しかし問題は、周囲の海氷が静止しているわけではないことだった。

風と海流によって巨大な氷盤が互いに動き、その間にある船体へ横方向から圧力を加える。エンデュアランス号は極地航海を想定して強固に造られていたが、数か月続く氷圧を完全に防ぐことはできなかった。

1915年10月後半、状況は急速に悪化する。

シャクルトンの記録では、船体は氷から激しい圧力を受け、木材が変形し、船内への浸水が始まった。10月27日、シャクルトンはついに退船を命じる。

この日をエンデュアランス号の「沈没日」と書く資料も見られるが、退船と実際の沈没は同じ日ではない。

FACT CHECK|退船と沈没は別の日

1915年10月27日 船体の損傷と浸水により、シャクルトンが退船を命令。
1915年11月21日 エンデュアランス号がウェッデル海へ沈む。

本記事では、Royal Geographical Societyの記録およびシャクルトン自身の記録を基準に、この2段階を分けて扱う。

ここで28人が置かれた状況は特殊だった。

船を捨てたからといって、そこが陸地だったわけではない。彼らが荷物を下ろした場所は漂流する海氷の上だった。

食料、テント、救命艇、犬ぞりなど、生存に必要な物資を船から運び出し、氷の上にキャンプを設営する。ここから先、船は生活拠点でも移動手段でもなくなった。

「歩いて帰る」こともできなかった

船が失われた直後、陸地へ向かって氷上を移動する案も試された。しかし南極の海氷は平坦な雪原ではない。

氷盤同士がぶつかれば巨大な隆起が生まれ、割れれば水路になる。重い救命艇や食料を運びながら進める速度は極端に遅く、地図上では近く見える陸地でも徒歩で到達することは現実的ではなかった。

そこで一行は、氷上にOcean Camp、後にPatience Campと呼ばれるキャンプを設け、海氷そのものと一緒に北へ漂流する方法を取った。

これは積極的に目的地へ向かう移動ではない。
海流と風による漂流を利用して、救命艇を使える海域へ少しずつ近づくまで待つ方法だった。

数か月後、海氷が崩れ始める。

1916年4月9日、28人はついにJames Caird、Dudley Docker、Stancomb-Willsの3隻の救命艇へ乗り込み、氷上生活を終えた。

28人はエレファント島へたどり着いた――しかし救助は来ない

3隻の小艇は、氷と波の間を進みながらエレファント島を目指した。4月中旬、28人はようやく島へ上陸する。

サウスジョージア島を離れて以来、およそ16か月ぶりの安定した陸地だった。

しかし、エレファント島へ着いたことで問題が解決したわけではない。

島は当時の通常航路から大きく外れており、定期的に船が寄る場所ではなかった。外部へ連絡する無線設備もない。そこに留まり続けても、偶然船が発見してくれる保証はなかった。

つまり28人は、海氷上の漂流からは脱出できても、誰にも居場所を知られていない孤島に取り残されたことになる。

そこでシャクルトンは、さらに別の賭けに出る。

6人だけで約800マイル先のサウスジョージア島へ向かった

1916年4月24日、シャクルトンを含む6人がエレファント島を出発した。
使用したのは、大型探検船ではなくエンデュアランス号から持ち出した救命艇ジェームズ・ケアード号(James Caird)だった。

目標は約800マイル先のサウスジョージア島。
現在の距離感でいえば約1,300kmに及ぶ外洋航海になる。

しかも南大洋では強風、大きな波、低温、着氷が続く。現代のGPSは存在せず、航海士フランク・ワースリーは太陽などの観測から位置を計算しなければならなかった。曇天が続いて観測できなければ、現在位置の誤差はそのまま目的地を外す危険につながる。

サウスジョージア島は大洋の中に浮かぶ細長い島である。わずかな方位誤差でも島を通り過ぎれば、その先で救援を得られる可能性は急激に低下する。

約2週間半の航海の末、6人はサウスジョージア島へ到達した。

だが上陸したのは、人の住む捕鯨基地とは反対側だった。

海を渡った後には、島を歩いて越える必要があった

サウスジョージア島へ着いても、ジェームズ・ケアード号をそのまま島の反対側まで安全に航行させられる状態ではなかった。

そこでシャクルトン、フランク・ワースリー、トム・クリーンの3人は島の内部を徒歩で横断する。

当時、島の内部は十分に測量されていない山岳・氷河地帯だった。3人は本格的な登山遠征として用意された装備を持っていたわけでもない。

それでも1916年5月20日、3人はストロムネスの捕鯨基地へ到達した。

ここで初めて、外部社会との連絡手段と救助船を確保できる場所へ戻ったことになる。

サウスジョージア島到達がゴールではなく、「救助を要請できる場所への到達」までが必要だったという点が、この遠征の経路を理解するうえで重要である。

それでもエレファント島の仲間をすぐには救出できなかった

捕鯨基地へ到達した後、シャクルトンはエレファント島に残した仲間の救助へ向かう。

しかしウェッデル海周辺の海氷は、ここでも障害になった。

最初の救出船では島へ到達できず、その後の試みも氷に阻まれる。エレファント島ではフランク・ワイルドを中心とする22人が、救命艇を利用した簡素なシェルターの中で救助を待ち続けていた。

ようやく1916年8月30日、チリ海軍のYelcho(イェルチョ)がエレファント島へ接近することに成功する。

島に残っていた22人は救出された。

エンデュアランス号に乗っていた28人は、1人も失われなかった。

「シャクルトンは全員を生還させた」は正しいのか

この遠征を紹介する際によく使われるのが、「シャクルトンは部下全員を生還させた」という説明である。

ただし、ここでは「全員」が誰を指すのかを区別する必要がある。

対象 結果
エンデュアランス号に乗っていたウェッデル海側の28人 28人全員生還
帝国南極横断探検隊全体 全員生還ではない

帝国南極横断探検隊には、南極大陸の反対側から補給所を設置するロス海支隊(Ross Sea Party)が存在した。

彼らもまた、補給船Auroraが係留を外れて流されるなどして孤立し、厳しい状況に置かれた。予定していた補給所の設置任務は遂行したものの、遠征中にアーノルド・スペンサー=スミス、イニーアス・マッキントッシュ、ヴィクター・ヘイワードの3人が死亡した。

FACT CHECK|「全員生還」の意味

「Endurance側の28人は全員生還した」は正しい。

一方で、「帝国南極横断探検隊の参加者全員が生還した」という説明は正しくない。
ロス海支隊では3人が死亡している。

この違いは、シャクルトンの業績を小さくするためのものではない。
遠征全体の構造を正しく理解するために必要な区別である。

遠征は失敗した。それでも「失敗した探検」とだけ呼べない理由

本来の目的だけで評価すれば、帝国南極横断探検隊は成功していない。

シャクルトンたちは南極大陸を横断できなかった。それどころかウェッデル海側の一行は大陸へ上陸する前に船を失っている。ロス海支隊が危険を冒して設置した補給所も、横断隊がそこまで来なかったため使われなかった。

それでもエンデュアランス号遠征が現在まで語られるのは、当初の目標を達成したからではない。

計画が完全に破綻した後、限られた人員・装備・食料・船を使って生存可能性をつなぎ続けたからである。

その過程には、一つの劇的な決断だけがあったわけではない。

氷から船が解放される可能性を待つ。船を捨てる。氷上を歩く計画を断念する。漂流を利用する。氷が割れれば救命艇へ移る。無人島に到着すれば、6人だけで外洋へ出る。サウスジョージア島の人のいない側へ着けば、今度は徒歩で山を越える。そして救助船が氷に阻まれれば別の船を探す。

遠征開始時の「南極横断」という計画は消えたが、その後は状況が変わるたびに目的と手段を組み替えている。

そのため、このCASEで見るべきものはシャクルトン個人の精神論だけではない。
危機の段階ごとに、どの選択肢が残っていて、何を捨て、何を維持したのかである。

107年後、エンデュアランス号そのものが見つかった

船を離れた乗組員たちは生還したが、1915年に沈んだエンデュアランス号は100年以上、ウェッデル海の海底に残された。

その位置について重要な手掛かりになったのが、船長フランク・ワースリーが残していた沈没位置の記録だった。

2022年、Falklands Maritime Heritage TrustによるEndurance22 Expeditionがウェッデル海を捜索。3月5日に海底で船体を発見し、3月9日に発見が公表された。

船が確認された水深は3,008m
Endurance22によれば、発見位置はワースリーが記録した地点から南へ約4マイルだった。

映像には、海底にほぼ直立した状態で残る木造船と、船尾に刻まれたENDURANCEの文字まで確認できる。

船体は南極条約上のHistoric Site and Monumentとして保護対象になっているため、調査では触れたり遺物を回収したりせず、撮影と記録を中心とする方法が取られた。

1915年に海氷の下へ消えた船が、乗組員の記録を手掛かりに107年後に確認されたことで、エンデュアランス号遠征には物理的な「最後の地点」が加わった。

エンデュアランス号遠征を時系列で見る

細かな時刻や移動経路は各記事で扱うが、シリーズ全体を読む前に主要な転換点だけ整理すると、遠征の性質が大きく変わっていったことが分かる。

日付 出来事 意味
1914年8月8日 エンデュアランス号がプリマスを出航 帝国南極横断探検隊が南へ向かう
1914年12月5日 サウスジョージア島を出航 ウェッデル海へ進入
1915年1月 海氷に閉じ込められる 自由航行を失い漂流開始
1915年10月27日 退船命令 船を生活拠点として使えなくなる
1915年11月21日 エンデュアランス号沈没 帰還手段そのものを喪失
1916年4月9日 3隻の救命艇で海氷を離れる 氷上漂流から海上脱出へ
1916年4月中旬 エレファント島へ上陸 陸地へ到達するが外部連絡なし
1916年4月24日 James Cairdで6人が出航 外部へ救援を求める航海開始
1916年5月 サウスジョージア島到達・島内横断 外部社会との接触に成功
1916年8月30日 エレファント島の22人を救出 Endurance側28人全員が生還
1917年1月 ロス海支隊の生存者を救出 帝国南極横断探検隊の活動が終結
2022年3月 Endurance船体発見 107年ぶりに沈没船を確認

まとめ|船を失ったところから、この遠征の本当の問題が始まった

エンデュアランス号遠征は、計画された南極大陸横断という意味では失敗だった。

1915年、船は南極大陸へ上陸する前に海氷へ閉じ込められ、やがて氷圧で破壊された。船を失った28人は、漂流する氷の上で数か月を過ごし、3隻の救命艇でエレファント島へ脱出した。

そこからシャクルトンら6人が小型のJames Cairdで約800マイルの海を渡り、さらにサウスジョージア島内部を横断して救援を求める。数回の救出失敗を経て、1916年8月30日、エレファント島に残っていた22人も救出された。

Endurance側の28人は全員生還した。

ただし帝国南極横断探検隊全体を見れば、反対側のロス海支隊では3人が死亡している。「全員生還」という言葉を使う場合、この範囲を区別する必要がある。

そして2022年には、水深3,008mの海底からエンデュアランス号そのものが発見された。

次回は、この極限状態が始まる前へ戻る。

そもそもシャクルトンは、なぜ第一次世界大戦が始まった1914年に南極へ向かったのか。そしてウェッデル海側とロス海側の2隊を使って、どのように南極大陸を横断するつもりだったのか。

第2回では、「失敗した計画」の元の姿から確認する。

今回出てきた言葉

帝国南極横断探検隊(Imperial Trans-Antarctic Expedition)
1914~1917年に実施されたシャクルトンの南極探検計画。ウェッデル海からロス海まで南極大陸を横断することを目標としていた。
Endurance
シャクルトン率いるウェッデル海側の隊を運んだ探検船。1915年に海氷で圧壊し、ウェッデル海へ沈没した。
ウェッデル海
南極大陸の大西洋側に位置する海域。密集した海氷がEnduranceの航行を阻み、遠征の計画を根本から変えた。
エレファント島
Enduranceを失った28人が救命艇で到達した島。陸地ではあったが、通常航路から離れており救援を直接求める手段がなかった。
James Caird
Enduranceから持ち出された救命艇の1隻。シャクルトンら6人がエレファント島からサウスジョージア島まで航海した。
ロス海支隊(Ross Sea Party)
南極大陸の反対側から、横断隊用の補給所を設置する任務を担った別働隊。任務中に3人が死亡した。

次の記事:
第2回 シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか【現在の記事】
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

  • Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
    シャクルトン自身による遠征記録。遠征計画、ウェッデル海への進入、船体喪失、氷上生活、James Caird航海、救出、ロス海支隊の確認に使用。
  • Royal Geographical Society — Endurance 22 / Shackleton expedition timeline
    1914~1916年の主要日付、Enduranceの漂流・沈没、救命艇による脱出、Elephant Island、James Caird、救出までの時系列確認に使用。
  • Royal Geographical Society — Documenting Shackleton’s Endurance
    Enduranceの船体、Frank Hurleyによる写真記録、ウェッデル海側とロス海側の遠征構造の確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — History of Antarctic explorers / Sir Ernest Shackleton
    南極横断計画、Endurance側28人の救出、James Caird航海、South Georgia横断、Ross Sea Partyの3人死亡の確認に使用。
  • Falklands Maritime Heritage Trust / Endurance22 — Endurance is Found
    2022年の船体発見、水深3,008m、Frank Worsley記録地点との位置関係、南極条約上の保護状態の確認に使用。
  • National Geographic Documentary Films — Endurance
    歴史的なEndurance遠征と2022年の船体探索を扱う現代の映像資料として参照。

本記事は、シャクルトン本人の遠征記録、Royal Geographical Society、Royal Museums Greenwich、Falklands Maritime Heritage Trust / Endurance22などの資料を照合し、確認できる事実と後世の評価を分けて構成しています。資料間で日付表記に差がある箇所については、一次記録と複数の資料を比較して記載しています。

シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画

探検・遠征

1914年にアーネスト・シャクルトンが南極へ向かった目的は、エンデュアランス号で氷海を探検することではなかった。

目標はもっと大きい。

ウェッデル海側から南極大陸へ上陸し、南極点付近を通って、反対側のロス海まで大陸を横断する。

距離は計画上、約1,800マイル。およそ2,900kmに及ぶ。
しかも、前半約900マイルは当時ほとんど知られていない地域だった。

そのためシャクルトンの「帝国南極横断探検隊(Imperial Trans-Antarctic Expedition)」は、エンデュアランス号と28人だけで完結する計画ではない。
大陸の反対側では、もう1隻の船オーロラ号(Aurora)とロス海支隊が、横断隊のための補給所をあらかじめ設置することになっていた。

つまり本来の計画は、
2隻の船を南極大陸の両側へ送り、複数の隊を同時に動かす大規模な遠征だった。

では、なぜこれほど複雑な方法が必要だったのか。
そして南極点がすでに征服された1914年に、シャクルトンは何を達成しようとしていたのか。

この記事で分かること

今回はエンデュアランス号が氷に閉じ込められる前へ戻り、帝国南極横断探検隊の「設計図」を確認する。

  • なぜ南極点到達の次に「南極大陸横断」が目標になったのか
  • シャクルトンはどのルートを想定していたのか
  • なぜEnduranceとAuroraの2隻が必要だったのか
  • ウェッデル海側とロス海側にはどのような役割があったのか
  • 補給所を事前に設置する必要があった理由
  • 犬ぞりやモーターそりをどう使う予定だったのか
  • 第一次世界大戦が始まったのに、なぜ遠征は中止されなかったのか

この計画を理解すると、第3回で扱う「Enduranceが上陸地点へ届かなかった」という事実が、単なる航海上のトラブルではなく、遠征全体を開始前に崩壊させた出来事だったことが分かる。

南極点は、すでに「誰も到達していない場所」ではなかった

シャクルトンの計画を理解するには、1914年より少し前の南極探検を見る必要がある。

19世紀末から20世紀初頭にかけて続いた「南極探検の英雄時代」では、南極点への到達が最大級の目標になっていた。
シャクルトン自身も1907~1909年のニムロド遠征で南極点を目指し、1909年1月には南緯88度23分まで進んでいる。

南極点までは約100マイルを残していた。
しかし食料と燃料の不足から、シャクルトンは南下を打ち切って引き返した。

その後、南極点到達競争は決着する。

1911年12月14日、ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊が初めて南極点へ到達。
1912年1月17日にはロバート・ファルコン・スコット率いるイギリス隊も到達した。

スコットら5人は帰路で全員死亡したが、地理上の「南極点へ最初に到達する」という目標そのものは達成された。

そこでシャクルトンが次に掲げたのが、南極大陸を一方の海岸から反対側まで横断することだった。

Royal Geographical Societyも、南極点がアムンセンとスコットによって到達された後、シャクルトンがウェッデル海から南極点を経由し、ロス海まで横断する計画を立てたと整理している。

横断距離は約1,800マイル――しかも途中から補給できない

シャクルトンが1919年に刊行した遠征記『South』には、遠征開始前に公表した計画が収録されている。

そこで示された横断距離は約1,800マイル
現在の単位なら、およそ2,900kmになる。

計画ではウェッデル海側へ上陸した横断隊が内陸へ進み、南極点周辺を通過する。
そこから北へ向きを変え、スコットやシャクルトン自身の以前の遠征でも使われたビアードモア氷河(Beardmore Glacier)方面へ進み、ロス海側へ抜けることになっていた。

問題は距離だけではない。

ウェッデル海から南極点へ至る前半部分には、当時ほとんど地理情報がない地域が含まれていた。
シャクルトン自身も『South』で、最初の約900マイルを未知の陸域として説明している。

地形が分からなければ、予定速度も読みづらい。

氷河、クレバス、山地、氷床の勾配によって、同じ10kmでも必要な時間と消耗は大きく変わる。
さらに横断隊は、約2,900km分の食料と燃料を最初からすべて運ぶことも現実的ではなかった。

そこで遠征計画に組み込まれたのが、南極大陸の反対側から補給物資を置いておくという仕組みだった。

Enduranceだけでは成立しない――もう1隻のAurora

現在、帝国南極横断探検隊を象徴する船はEnduranceである。
しかし当初の計画では、もう1隻が同じくらい重要だった。

Aurora(オーロラ号)である。

Enduranceはウェッデル海側へ向かう。
Auroraは地球を回り込むようにして、南極大陸の反対側にあるロス海へ向かう。

担当海域 主要任務
Endurance ウェッデル海側 シャクルトンの横断隊を南極大陸へ送り込む
Aurora ロス海側 横断隊後半用の食料・燃料をルート上へ配置する

つまりAurora側は、横断隊を迎えに行くだけではなかった。

シャクルトンらが南極点を越えたあとに利用する補給所(depot)を、横断隊が来る前に氷上へ設置する必要があった。

これが後に「ロス海支隊(Ross Sea Party)」と呼ばれる人々の主要任務になる。

なぜ反対側から補給所を作る必要があったのか

南極を長距離移動するとき、食料だけを考えればよいわけではない。

人間用の食料、犬用の飼料、調理や雪を溶かして水を作るための燃料、テント、寝具、衣類、科学機材などをそりで運ぶ必要がある。
荷物が増えるほど移動速度は低下し、その分だけ長期間の食料が必要になる。

つまり、全行程の物資を出発地点から積んでいこうとすると、物資を運ぶためにさらに物資が必要になる。

長距離極地遠征では、この問題を避けるために途中へあらかじめ物資を置くデポ方式が使われていた。

シャクルトンの計画では、横断隊はウェッデル海から自分たちの物資を運んで南極点を越える。
しかし後半では、ロス海側から別働隊が置いておいた食料と燃料を利用する。

『South』に記されたシャクルトンの指示では、ロス海支隊はマクマード・サウンド付近を基地とし、グレート・アイス・バリア――現在のロス棚氷――を南へ進み、ビアードモア氷河方向へ補給所を設置することになっていた。

最終的にはビアードモア氷河の麓付近まで補給線を伸ばす計画だった。

横断隊から見れば、南極点を越えたあとにそこへ到達すれば、後半用の物資を得られる。

したがってロス海支隊の仕事は補助的なものではない。
横断隊が自力で全物資を運ばなくても大陸を横断できるようにする、計画上不可欠な後半補給システムだった。

計画上、横断するのは全員ではなく6人だった

もう一つ混同しやすいのが、「Enduranceに乗った28人が全員で南極を横断する予定だった」という理解である。

これは当初の計画とは異なる。

シャクルトンが遠征前に公表したプログラムでは、実際に大陸横断へ出るTrans-continental Partyは6人とされていた。

計画書では、Enduranceによってウェッデル海側へ上陸する人員を14人とし、その役割を次のように分けている。

計画上の人員 役割
6人 南極大陸を横断する主隊
3人 西方向、グレアムランド方面の地理・地質調査
3人 東方向、エンダービーランド方面の調査
2人 基地に残り、生物・気象などの観測

一方、ロス海側でも補給所設置と科学調査が予定されていた。

ここで注意したいのは、この人数が2隻の船に乗る遠征参加者総数ではなく、事前に公表された「上陸後の配置計画」だという点である。

FACT CHECK|「28人」と「横断隊6人」は矛盾しない

Enduranceが後に氷へ閉じ込められた際、船上には28人がいた。

一方、シャクルトンが遠征前に発表した計画で実際に南極大陸横断へ出る予定だったのは6人だった。

遠征全体ではさらにAurora側の人員も存在し、シャクルトンは『South』で最終的に56人を選抜したと記している。
したがって「Enduranceの28人」「横断予定の6人」「遠征全体56人」は、それぞれ対象範囲が異なる数字である。

100頭の犬と、2台のモーターそりを使う計画だった

横断隊の移動手段として重要だったのが犬ぞりである。

シャクルトンが公表した計画では、6人の横断隊に100頭の犬と、プロペラを備えた2台のモーターそりを用意するとしていた。

これは、約2,900kmを人間だけの牽引で進むよりも、輸送能力と速度を高める狙いがあった。

『South』では、訓練後の犬ぞりで1日に15~20マイル程度進めるとの見積もりが示されている。
その速度を前提にすれば、横断は約120日で達成できるとシャクルトンは計算していた。

遠征前に公表した別の見通しでは、ウェッデル海への上陸に成功すれば、約5か月で横断してロス海側へ到達する想定になっていた。

ただし、これはあくまで計画値である。

実際の南極では、海氷、クレバス、天候、積雪、犬や人間の体調などによって速度は大きく変わる。
そして今回の場合、こうした「大陸上での移動性能」を検証する段階にさえ到達しなかった。

最大の前提条件は「ウェッデル海側へ上陸できること」だった

帝国南極横断探検隊には多数の人員、犬、そり、船、補給計画が用意されていた。

しかし、それらすべての前に一つの条件がある。

Enduranceがウェッデル海を通過し、横断隊と物資を南極大陸へ上陸させること。

シャクルトンが候補としていたのは、ドイツのヴィルヘルム・フィルヒナーによる1911~1912年の南極探検で調査されたヴァーゼル湾(Vahsel Bay)付近だった。

そこへ基地を設け、必要なら越冬する。
その後、十分な準備をして横断隊を内陸へ送り出す。

反対側ではロス海支隊が補給所を準備する。

このように計画を分解すると、Enduranceの役割は「南極を横断する船」ではない。

横断を開始できる地点まで、人員・犬・物資・基地設備を運ぶための輸送・支援船だった。

Enduranceが上陸前に使えなくなれば、横断隊はスタート地点そのものを失う。

後に起きた遭難が計画全体へ与えた影響は、ここにある。

遠征には、横断以外にも科学調査が組み込まれていた

この遠征を「記録達成だけを目的とした冒険」と見るのも正確ではない。

シャクルトンが公表した計画には、横断隊以外の科学活動も組み込まれている。

ウェッデル海側からは、グレアムランド方面とエンダービーランド方面へ別々のそり隊を送り、地質資料の収集や地形調査を実施する予定だった。
基地に残る隊員は、生物や気象の観測を行う。

さらにEnduranceとAuroraの両船にも、測深、海洋観測などの科学作業が想定されていた。

実際、Enduranceがウェッデル海で航行できなくなった後も、ジェームズ・ワーディーら科学隊員は可能な範囲で海氷、海洋、生物、気象などの記録を続けている。

横断計画が失われても、遠征が完全に「何も調べない救命待ち」へ変わったわけではなかった。

1913年から準備――応募者は約5,000人

この規模の遠征は、1914年になって突然思いつかれたものではない。

シャクルトン自身によれば、準備を始めたのは1913年半ばだった。
船、装備、人員、資金を、大陸の両側で活動できる形へ整える必要があった。

1914年初頭に計画が公表されると、多数の参加希望者が集まった。

シャクルトンが『South』に記した数字では、応募は約5,000人
そこから遠征全体として56人が選ばれたとしている。

資金面では民間の支援者に加え、イギリス政府やRoyal Geographical Societyからも援助を受けた。

主な支援 シャクルトンが『South』に記した額
ジェームズ・ケアード 24,000ポンド
イギリス政府 10,000ポンド
Royal Geographical Society 1,000ポンド

さらにダドリー・ドッカー、ジャネット・スタンコム=ウィルズらからも支援を受けている。

後にEnduranceから持ち出された3隻の救命艇――James Caird、Dudley Docker、Stancomb-Wills――には、こうした支援者の名前が残されていた。

ところが出航直前、第一次世界大戦が始まった

1914年夏、遠征準備はほぼ完了していた。

その直前、ヨーロッパ情勢が急速に悪化する。

Enduranceは1914年8月1日にロンドンを出航したが、その数日後にはイギリスも第一次世界大戦へ入ることになる。

ここで当然、疑問が生じる。

なぜ戦争が始まろうとしているときに、大規模な南極探検へ出発したのか。

この点については、シャクルトン自身が『South』で経緯を説明している。

彼の記録によれば、イギリスの総動員令を知った後、シャクルトンは遠征の船、物資、隊員のサービスを海軍本部へ提供すると申し出た。

これに対し海軍本部から返ってきた短い電報が、
「Proceed」――計画を続行せよだったという。

その後、ウィンストン・チャーチルからも、科学・地理学関係団体の支持を受けた遠征を続けることを政府当局が望んでいるとの連絡を受けたとシャクルトンは書いている。

1914年8月4日、イギリスはドイツへ宣戦布告。
そして8月8日、Enduranceはプリマスを出航した。

FACT CHECK|「戦争を無視して勝手に南極へ行った」のか

少なくともシャクルトン本人の1919年の記録では、遠征隊は戦争勃発時に船・装備・人員を政府へ提供すると申し出ており、海軍本部から遠征続行の指示を受けたとしている。

したがって「開戦を知りながら政府の意向を無視して出発した」という説明は、この一次記録とは一致しない。

一方、この経緯の中心資料がシャクルトン自身の回想であることも踏まえ、本人の記録として扱う必要がある。

Enduranceは南極へ直行しなかった

1914年8月8日にプリマスを出たEnduranceは、そのままウェッデル海へ直行したわけではない。

まず南米へ向かい、ブエノスアイレスで人員や物資を整えた。
10月26日にブエノスアイレスを出航し、サウスジョージア島へ向かう。

この島には捕鯨基地があり、南極へ入る前の最後の準備地点として使われた。

そして現地の捕鯨関係者から得られる海氷情報は、シャクルトンにとって気になるものだった。

ウェッデル海の氷は例年より厳しい可能性があった。

シャクルトン自身もこの段階で、当初想定していた1914~1915年夏のうちに南極へ上陸し、そのまま横断を開始するのは難しいと考えるようになっている。

『South』では、季節が進み、氷況も不利になっていたため、最初の夏に横断を開始するのは望み薄だと判断したことが記されている。

そのため、南極側で安全な基地を確保し、越冬したうえで翌シーズンに横断を開始する案が現実的になっていた。

計画はすでに出発前のパンフレットどおりではなく、現地条件に応じて修正され始めていたのである。

それでも1914年12月5日、ウェッデル海へ向かった

サウスジョージア島で約1か月を過ごしたEnduranceは、1914年12月5日に南へ出航する。

目標はウェッデル海を南下し、ヴァーゼル湾周辺で上陸地点を確保することだった。

上陸できれば、横断隊の基地を作る。

安全な越冬地点を確保できれば、犬を訓練し、補給所を作り、翌シーズンの長距離横断に備える。
その間、反対側のロス海支隊もAuroraから上陸し、横断隊が後半で使用する補給線を準備する。

この時点では、計画はまだ生きていた。

海氷が厳しくても、目的地へ到達し、船から人員と物資を下ろすことができれば、遠征を翌年へ延期する選択肢が残されていたからである。

しかし、そのためにはまずEnduranceがウェッデル海を突破しなければならない。

この計画の「一点故障」はどこだったのか

後から計画を見ると、帝国南極横断探検隊には一つの特徴がある。

多数の装備と人員を用意し、大陸の両側へ船を配置し、後半用の補給所まで別働隊に準備させている。
一見すると冗長性の高い計画に見える。

しかし、ウェッデル海側についてはEnduranceが上陸地点へ到達することに強く依存していた。

横断隊、犬、そり、食料、基地設備がどれほど充実していても、上陸できなければ使えない。

反対側のロス海支隊が完璧に補給所を設置しても、横断隊が出発できなければ物資は利用されない。

そして両隊の間には、現在の衛星通信のように互いの状況を即時共有する仕組みもなかった。

ロス海側は、ウェッデル海側で横断が始まったかどうかを確認できないまま、自分たちの任務を進めることになる。

実際、Endurance側が南極大陸へ一度も上陸できなかった一方で、ロス海支隊は横断隊が来るものと考え、危険な補給所設置任務を続けた。

この「片側の失敗を反対側が知ることができない」という構造は、後にロス海支隊で起きる悲劇を理解するうえでも重要になる。

まとめ|Enduranceの任務は「生還」ではなく、横断隊をスタート地点へ届けることだった

現在のエンデュアランス号遠征は、どうしても船を失った後の生存劇から語られやすい。

しかし1914年時点での目的はまったく違った。

シャクルトンが計画したのは、ウェッデル海から上陸した6人の主隊が南極点付近を通り、約1,800マイル先のロス海まで大陸を横断する遠征だった。

Enduranceはその横断隊をウェッデル海側へ送り込む。
Auroraは反対側のロス海へ入り、ロス海支隊が横断後半に必要な補給所を設置する。

さらに地質、地理、生物、気象、海洋などの科学調査も同時進行する。

つまり帝国南極横断探検隊とは、Endurance単独の航海ではなく、南極大陸の両側から動く2隻・複数隊によるシステムだった。

そのシステムを成立させる最初の条件が、
Enduranceがウェッデル海を通過して南極大陸へ到達することだった。

だが1915年1月、その前提が崩れる。

Enduranceは上陸予定地まであとわずかな場所で、周囲を海氷に塞がれた。

エンジンを動かしても進めない。
帆を使っても抜けられない。
そして氷そのものが船と一緒に動き始める。

第3回では、なぜ極地用に建造されたEnduranceでさえウェッデル海から脱出できなかったのかを、海氷・海流・地理から追う。

今回出てきた言葉

帝国南極横断探検隊(Imperial Trans-Antarctic Expedition)
1914~1917年に実施されたシャクルトンの南極遠征。ウェッデル海から南極点付近を経てロス海まで、大陸を横断することを主目標としていた。
Trans-continental Party
実際に南極大陸を横断する予定だった主隊。シャクルトンが公表した当初計画では6人で構成する予定だった。
ウェッデル海(Weddell Sea)
南極大陸の大西洋側に広がる海域。Enduranceはここから横断隊を南極大陸へ送り込む計画だった。
ロス海(Ross Sea)
南極大陸の反対側に位置する海域。横断隊の最終目的地で、Auroraとロス海支隊が配置された。
ロス海支隊(Ross Sea Party)
Auroraでロス海側へ入り、横断隊の後半ルートへ食料・燃料などの補給所を設置する任務を担った隊。
デポ(Depot)
長距離のそり旅行で使用する食料・燃料などを、あらかじめルート上へ置いておく補給所。
ビアードモア氷河(Beardmore Glacier)
南極高原とロス棚氷側を結ぶ巨大な氷河。シャクルトンの計画では横断隊後半の重要な経路だった。
Aurora
帝国南極横断探検隊のロス海側を担当した船。ロス海支隊を南極へ送り、補給所設置任務を支える役割を持っていた。

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第1回 シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか

次の記事:
第3回 なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画【現在の記事】
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

  • Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
    遠征の当初計画、約1,800マイルの横断距離、6人の横断隊、犬・モーターそり、ウェッデル海側とロス海側の役割、資金、第一次世界大戦開戦時の経緯、ロス海支隊への指示の確認に使用。
  • Royal Geographical Society — Ernest Shackleton: South Pole expeditions and Endurance
    シャクルトンの1907~1909年遠征、アムンセン・スコットによる南極点到達後に南極大陸横断を次の目標とした経緯、帝国南極横断探検隊の位置づけの確認に使用。
  • Royal Geographical Society — British Imperial Trans-Antarctic Expedition / Endurance materials
    Endurance側の任務、遠征計画、乗組員構成などの確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — Sir Ernest Shackleton / History of Antarctic Explorers
    ウェッデル海からロス海へ南極点経由で横断する計画と、ロス海支隊が後半用の補給所を設置する役割だったことの確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — Victor George Hayward, Ross Sea Party journal collection
    Aurora側のロス海支隊が、シャクルトンの大陸横断を支援するため補給所を設置する任務を負っていたことの確認に使用。

本記事は、シャクルトン本人が1919年に刊行した『South』を一次資料の中心とし、Royal Geographical Society、Royal Museums Greenwichなどの資料と照合して構成しています。『South』に記載された人数・装備の一部は遠征前に公表された計画値であり、後に実際に各船へ乗り組んだ人数とは区別して記載しています。また、第一次世界大戦開戦時の海軍本部とのやり取りについては、シャクルトン本人による回想であることを明示しています。

なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路

探検・遠征

1915年1月19日の朝、エンデュアランス号は南緯76度34分、西経31度30分付近にいた。

南極大陸は東の方向に見えていた。
目的地としていたヴァーゼル湾までは、もう南極航海の終盤に入っているはずだった。

ところが、船は動かなかった。

甲板から見渡しても周囲に開水面はなく、マストの上からわずかな水路が確認できるだけだった。翌20日、シャクルトンは周囲の海氷が「あらゆる方向へ」密集し、Enduranceが完全に海氷へ捕まった状態になったことを記録している。

エンジンはあった。
船体も極地航海を想定して非常に強く造られていた。

それでも脱出できなかった。

理由は、Enduranceが単に「厚い氷を1枚突破できなかった」からではない。
ウェッデル海を埋める大量の海氷そのものが風と海流で動き、船の周囲から逃げ道を消していったからである。

この記事で分かること

今回は1914年12月5日のサウスジョージア島出航から、1915年2月にEnduranceを冬季基地として使う決断をするまでを追う。

  • ウェッデル海は南極のどこにあるのか
  • 「海氷」と「氷山」は何が違うのか
  • なぜ南極の夏なのに大量の氷が残っていたのか
  • シャクルトンは出航前に氷の危険を知っていたのか
  • 1915年1月19日に何が起きたのか
  • エンジンを使ってもなぜ脱出できなかったのか
  • 極地用に強く造られたEnduranceでもなぜ閉じ込められたのか
  • 船は閉じ込められたあと、どの方向へ運ばれていったのか

船体が最終的にどう破壊されたかは第4回で扱う。ここでの焦点は、その前段階――なぜ船が自由を失ったのかである。

ウェッデル海は、南極大陸に囲まれた巨大な湾のような海だった

ウェッデル海は南極大陸の大西洋側に位置する。

東側にはコーツランド、西側には南極半島があり、南側にはフィルヒナー=ロンネ棚氷につながる巨大な氷域が広がる。そのため地図で見ると、南極大陸へ深く入り込んだ巨大な湾のような形をしている。

Enduranceはサウスジョージア島から南東へ進み、このウェッデル海を南下して、南東部のヴァーゼル湾付近へ到達する予定だった。

ここで、Enduranceがサウスジョージア島からウェッデル海へ入り、その後どの方向へ漂流していったのかを航路図で確認しておく。


1919年刊『South』に掲載されたEnduranceの航路・海氷漂流図

航路図|Enduranceのウェッデル海航海と海氷漂流
1919年刊のシャクルトン『South』に掲載された「The Voyage of the Endurance」。
サウスジョージア島からウェッデル海へ向かった航路と、海氷に閉じ込められた後の漂流を確認できる。
この地図は遠征後にまとめられた歴史資料であり、1915年当時の海氷縁を日ごとに精密再現したものではない。
また、第3回の対象期間より後の漂流・救援経過も含んでいる。
画像:Ernest Shackleton / Stanford’s Geographical Establishment, 1919 / Public Domain / Wikimedia Commons

問題は、この海域が大量の海氷(sea ice)に覆われることだった。

南極の海氷は冬になると海水の表面が凍り、南極大陸の周囲へ大きく広がる。夏になるとその多くが融解し、面積は縮小する。

Royal Geographical Societyが現在の観測を使って説明している季節変化では、南極海氷は南半球の冬が終わる9月ごろに最大となり、夏の終盤にあたる2月ごろに最小となる。

シャクルトンが12月から1月にウェッデル海へ入ろうとしたのは、その意味では不自然ではない。夏へ向かって海氷が後退する時期を利用し、できるだけ南へ進もうとしていた。

しかし、海氷は毎年同じ形、同じ時期に後退するわけではなかった。

「氷山」と「海氷」は同じものではない

Enduranceの遭難を理解するとき、最初に分けておきたいのが氷山と海氷である。

種類 でき方 Enduranceとの関係
氷山 氷河や棚氷から分離した巨大な淡水氷 航海中に多数遭遇したが、Enduranceが長期間閉じ込められた直接の主体ではない
海氷 海水そのものが凍結して形成される氷 大量の氷盤が船を包囲し、航路を塞ぎ、最終的に船体へ圧力を加えた

ウェッデル海を覆っていたのは、巨大な1枚の氷床ではない。

大小さまざまな氷盤――フロー(floe)――が集まり、その間に開水面や細い水路ができたり、再び閉じたりしている。

シャクルトンは『South』の中で、このパックアイスを巨大なジグソーパズルのようなものとして説明している。

氷盤が離れているときは、船は隙間を探して進める。
しかし風や海流によって氷盤同士が押し付けられると隙間が消え、船が進む水路そのものがなくなる。

Enduranceが遭遇した問題は、この状態だった。

出航前から「今年の氷は厳しい」と知らされていた

1914年11月、Enduranceは南極へ向かう前にサウスジョージア島へ寄港した。

ここには捕鯨基地があり、現地の船乗りたちは南極周辺の海況を日常的に観察していた。

シャクルトン自身の『South』によれば、捕鯨関係者からは、その年の海氷がかなり北まで残っているという情報を得ている。

シャクルトンはこの情報を無視していたわけではない。

氷との長い格闘を想定して石炭を追加で積み、いったん東側へ回り込んで、比較的緩い氷を探しながらコーツランドへ接近する航路を考えた。

さらに、この時点ですでに「1914~1915年の夏にそのまま大陸横断を開始するのは難しい」と判断しつつあった。安全な場所に上陸して基地を作り、南極で越冬したあと翌春から横断を始める案も想定していた。

したがって、
「氷があることを知らずに突っ込んだ」わけではない。

一方で、Royal Geographical Societyは、現地の捕鯨関係者が例年より厳しい氷況を警告していたにもかかわらず、シャクルトンが出航を選択したことも指摘している。

現在のような衛星画像や広域の海氷観測は存在しない。1914年の船長が得られる情報は、現地船員の経験、目視、過去の航海記録、そして実際に進みながら確認する海況に限られていた。

その判断を「明白な失策」と後知恵だけで断定するのも、「予測不能だった」と切り離すのも正確ではない。

危険情報はあった。しかし、どこまで進めるかを事前に精密に把握する手段はなかった。

12月7日――南極大陸よりはるか北で、最初の厚い氷に阻まれた

Enduranceは1914年12月5日、サウスジョージア島を出航した。

最初から順調だったわけではない。

シャクルトンの記録では、12月7日にはサウス・サンドウィッチ諸島付近で多数の氷山を確認し、その直後には幅約半マイルの重いパックアイスに進路を塞がれている。

一度は氷の中へ入り込んだものの、波で氷片同士が動き、周囲の開水面も縮小したため、Enduranceは進路を変えて氷域から抜けた。

これはまだ脱出できた。

船は開水面や氷の薄い部分を探し、蒸気機関と帆を使い分けながら南下を続ける。

12月11日には南緯59度46分付近で再びパックアイスへ入り、以後は氷の隙間を縫うような航海になった。

12月18日には状況がさらに厳しくなる。

厚い氷が前進を阻み、氷盤同士の圧力で船が約6度傾く場面まで起きた。船を離した直後、その場所では厚さ約4フィートの氷板が互いに押し上げられ、10フィート以上盛り上がったとシャクルトンは記録している。

つまり、本格的に閉じ込められる約1か月前から、海氷が単なる障害物ではなく「船を押す力」を持っていることは確認されていた。

それでもEnduranceは、1か月以上かけて南へ進んだ

12月に氷へ遭遇した時点で航海が終わったわけではない。

氷が緩めば進み、閉じれば待つ。
進めない方向があれば迂回し、マスト上から水路を探す。

1915年1月1日には比較的薄い若い氷を割りながら前進し、1月2日の24時間では124マイル進んだとシャクルトンは記録している。

1月10日には南緯72度02分まで到達していた。

航路の東側には南極大陸沿岸の氷壁が見え始める。

つまりEnduranceは「ウェッデル海の入口で動けなくなった」のではない。

氷域へ出入りしながら数週間かけてかなり深く南下し、南極大陸の沿岸まで到達したうえで捕まった。

この点は重要である。

途中で何度も進めた実績がある以上、「この先も開水路が生まれる」と期待する理由も存在したからだ。

1月15日、上陸できそうな場所を通過していた

後から見ると、特に重要な場面が1915年1月15日にある。

Enduranceは南極大陸沿岸を進みながら、非常に上陸しやすそうな湾を発見した。

シャクルトンがGlacier Bayと名付けた場所である。

彼の記録では、そこには天然の岸壁のような平坦な氷縁があり、風からも比較的守られ、上陸地点として優れた条件に見えた。

しかしシャクルトンは上陸しなかった。

本来の目標だったヴァーゼル湾はさらに南にあったためである。南へ1マイル船で進めれば、その分だけ後のそり横断距離を1マイル短縮できる。

当時の判断としては合理性があった。

しかも、その時点では「数日後に船が完全に閉じ込められる」と知ることはできない。

後にシャクルトン自身は、もし氷に捕まると分かっていれば、この上陸可能地点に基地を作っていただろうと振り返っている。

FACT CHECK|Glacier Bayを通過したことが「遭難原因」なのか

Enduranceが上陸可能に見える地点を通過したことは一次資料で確認できる。

しかし、ここで上陸しなかったことだけを遭難の単一原因とするのは適切ではない。
その時点でもEnduranceは南へ航行可能であり、本来の予定地点はさらに先だった。

「結果を知った現在から見れば重要な分岐点だった」と、「当時も明白な誤判断だった」は分けて考える必要がある。

1月18日から19日――水路が消えた

1月18日、Enduranceは沿岸の氷壁に沿って南西へ進んでいた。

しかしパックアイスに押し戻され、いったん西へ迂回する。
さらに開水面を進んだあと、再び厚い氷に阻まれた。

シャクルトンの記録では、この付近の氷はそれ以前より厚く、深い雪に覆われ、氷盤の間に詰まった細かな氷片も非常に密集していた。

機関を強く使っても、短い距離しか進めなくなる。

そして1915年1月19日の朝。

位置は南緯76度34分、西経31度30分付近

天候自体は悪くなかったが、船の周囲は夜の間に閉じた。
甲板からは水面が見えない。マスト上からわずかな水路が見えるだけだった。

翌20日には北東風が強まり、周囲のパックアイスはさらに固く密集した。

しかも南極の真夏にもかかわらず低温が続き、氷盤の隙間にできた若い氷まで凍結していく。

シャクルトンが危惧したのは、この寒さがばらばらだった氷を「接着」するように一体化させたことだった。

なぜ風が止んでも、氷は開かなかったのか

海氷は固定された地面ではない。

風と海流によって移動する。

Royal Geographical SocietyはEnduranceが閉じ込められた条件について、北東からの強風がウェッデル海のパックアイスを押し詰めたことを挙げている。

ウェッデル海の南部は大陸と棚氷に囲まれているため、風で南西方向へ押された氷には、自由に逃げられる海域が少ない。

複数の氷盤が押し合う。

その間の開水路が閉じる。

さらに低温になると、その隙間にも新しい氷が張る。

こうして、船の周囲にあった「水路を探して抜ける」という選択肢そのものが失われた。

問題はEnduranceのエンジン出力だけではない。

進むべき水面が存在しなくなったのである。

極地用の強い船なら、氷を砕いて進めなかったのか

Enduranceは脆弱な船ではなかった。

ノルウェーで建造された木造の極地航海船で、Royal Museums Greenwichは「探検船としては小型だが、非常に頑丈に造られていた」と説明している。

船体には松やオークが使われ、外板には非常に硬いグリーンハート材も使用されていた。
蒸気機関は約350馬力で、風向きが悪いときや氷の隙間を進む際に利用できた。

だが、ここには耐氷船と砕氷船の違いがある。

Enduranceの強固な船体は、浮遊する氷との接触やある程度の圧力に耐えるためのものだった。

現代の本格的な砕氷船のように、船首を氷へ乗り上げさせ、船体重量で厚い氷を連続的に割りながら進むことを前提とした船ではない。

しかもパックアイスの場合、船首の前にある1枚の氷を割れば終わるわけではない。

割った先にも氷盤があり、そのさらに先も氷で埋まり、後ろでは再び氷が閉じる。

エンジン出力を上げれば無限に突破できる状況ではなかった。

さらに氷海では、プロペラと舵が非常に脆弱な部分になる。
シャクルトンの記録でも、氷を突破するときにプロペラを守るため機関を停止し、帆だけで氷域を抜ける場面がある。

「船体が強い」ことと「密集したウェッデル海の海氷を自由に突破できる」ことは同じではない。

実際に何度も脱出を試みている

Enduranceが1月19日に閉じ込められたあと、シャクルトンたちはすぐに「冬まで待つ」と諦めたわけではない。

海氷に亀裂や水路ができるたびに、船を動かせないか試している。

2月9日には長い亀裂が生じたため蒸気を上げ、若い氷を割って水路へ出ようとした。

船の周囲にできた薄い氷は割れる。

しかし、その外側を囲む古く厚いパックアイスは突破できなかった。

2月11日にも再挑戦したが、結果は同じだった。

2月14日には隊員たちが氷を切って船の前に水路を作ろうとした写真も残されている。

それでも状況は変わらなかった。

ここから分かるのは、
Enduranceが氷へ「凍り付いた」だけではなかったということである。

船のすぐ周囲の氷を切っても、その先に何kmも続く密集したパックアイスが残っていた。

2月、シャクルトンは「船」から「冬季基地」へ考え方を変えた

2月中旬になると、短期間で脱出できる可能性は低くなっていた。

南半球ではこれから秋、そして冬へ向かう。

気温が下がれば海氷は薄くなるのではなく、さらに成長する。

シャクルトンは春まで待つ判断をする。

1915年2月24日、それまでの通常の船内勤務体制を停止し、Enduranceを事実上の冬季基地へ切り替えた。

舵とプロペラの周囲では厚さ約2フィートの氷を切り、万一動かせる機会が来た場合に備える。
犬も船から氷上へ移し、そりの訓練を始めた。

食料や燃料の在庫も確認する。

この時点では、まだ船を捨てる考えではない。

期待していたのは、
冬をEnduranceで越し、春に海氷が緩めば船を再び動かして上陸地点を探すことだった。

遠征計画は大きく遅れたが、まだ完全に消滅したとは考えられていなかった。

閉じ込められたのに、船は止まっていなかった

ここがEndurance遭難で最も直感に反する点の一つである。

船は航行できない。

しかし位置は変わり続ける。

なぜならEnduranceは海底や陸地へ固定されたのではなく、巨大な氷盤群の中へ取り込まれ、その氷と一緒に漂流していたからである。

シャクルトンの記録によれば、1月19日に閉じ込められてから3月31日までの71日間だけでも、船は全体として約95マイル移動している。

周囲に見えていた氷山の相対位置もほとんど変わらなかった。

これは船だけが流されているのではなく、Enduranceを含む広い氷域全体が一つの系として動いていたことを示している。

Royal Geographical Societyは、この移動にウェッデル海の大規模な循環――ウェッデル・ジャイア(Weddell Gyre)――も関係していると説明している。

海流によって海氷はウェッデル海内を大きく循環し、Enduranceもその動きから逃れられなかった。

「南へ進めない」だけではなく、目的地から運び去られていった

漂流がさらに重大だった理由は、時間を失うだけではなかった。

当初目指していたヴァーゼル湾から離れていくからである。

2月22日ごろ、Enduranceは漂流によって南緯77度付近へ達した。
これは航海によって自力で到達した「最南点」というより、海氷に取り込まれたまま運ばれた結果だった。

その後、漂流方向は次第に西、そして北寄りへ変わっていく。

冬を越して春に氷が開いたとしても、その時点で船が当初の上陸地点から何百kmも離れていれば、元の計画へ復帰することは難しくなる。

シャクルトンも2月には「最大の心配は漂流だ」と記している。

船が壊れなくても、氷と一緒に運ばれるだけで遠征計画は少しずつ失われていったのである。

なぜEnduranceは閉じ込められたのか|原因を分解する

Enduranceの氷への閉じ込めを、一つの原因で説明することはできない。

要因 何が起きたか
その年の海氷条件 夏になっても強いパックアイスが広範囲に残っていた
ウェッデル海の地理 大陸と棚氷に囲まれた南部で、押された海氷が密集しやすかった
北東風などが海氷を圧縮し、水路を閉じた
低温 真夏にもかかわらず寒い期間が続き、氷盤間の若い氷が成長した
海流 氷域全体が移動し、船も一緒に漂流した
船の性能限界 Enduranceは非常に強固だったが、密集したパックを自由に砕いて進める現代型砕氷船ではなかった
航海判断 厳しい氷況を認識しながら、より南の本来の上陸地点を目指して航海を継続した

このうち一つだけを取り除けば必ず助かった、とまでは言えない。

特に航海判断については、後世から結果を見て単純化しない注意が必要である。
Enduranceは実際に何度も氷域を突破して南下しており、1月中旬には南極沿岸まで到達していた。

その一方、現地から例年より厳しい海氷について警告を受けていたこと、上陸可能な地点を通過してさらに南へ進んだことも事実である。

最終的には、
自然条件と航海判断、そして当時の船舶・観測技術の限界が重なり、逃げ道を失った
と考えるのが最も実態に近い。

現代の砕氷船でも、ウェッデル海は簡単な海ではない

Endurance遭難を「100年以上前の船だから起きた」とだけ考えるのも適切ではない。

2019年には現代の研究遠征がEnduranceの沈没地点を目指したものの、厳しいウェッデル海の海氷条件によって捜索海域へ十分に到達できず、船体発見を断念している。

2022年のEndurance22遠征では、専用の耐氷研究船S.A. Agulhas IIと現代の衛星情報、海氷データ、測位技術、無人潜水機などを用いて、ようやく沈没船を発見した。

つまり、技術が100年以上進歩しても、ウェッデル海の海氷は航海計画を左右する重要な条件であり続けている。

1915年のEnduranceには衛星画像もGPSも広域海氷予報もない。

マスト上から氷の隙間を見ることが、進路を探す重要な手段だった。

その情報差を考えれば、当時の乗組員が海氷の全体構造を把握することはほぼ不可能だった。

まとめ|Enduranceを止めたのは「1枚の厚い氷」ではなかった

Enduranceは氷山へ衝突して航行不能になったわけではない。

また、船の周囲だけが凍結して動けなくなったわけでもない。

1914年12月から1915年1月にかけて、Enduranceはウェッデル海のパックアイスへ何度も入り、開水面や薄い氷を探しながら南下した。

しかし1月18日から19日にかけ、南極沿岸付近で氷盤が密集する。
北東風による圧縮と低温が重なり、周囲の水路が閉じ、船は広大な海氷の中へ取り込まれた。

Enduranceは非常に強固な極地航海船だった。

それでも、密集したパックアイス全体を砕いて航路を作れる船ではなかった。

周囲の薄い氷を割っても、その先にはさらに氷が続く。
船の機関を動かしても進む水面がない。

そして船が止まったあとも、海氷は止まらない。

Enduranceは氷と一緒に漂流し、本来の上陸地点から徐々に遠ざかっていった。

2月24日、シャクルトンは短期間の脱出を事実上断念し、船を冬季基地へ切り替える。

この時点でもEnduranceはまだ壊れていない。

乗組員たちが期待していたのは、冬を耐え、春になれば氷が緩み、再び航海できることだった。

しかし次に問題となったのは、動けない船の周囲で海氷が押し合い続けることだった。

船を守っていた強固な木造船体は、やがてその圧力を長期間受け続ける。

第4回では、Enduranceの船体構造と氷圧を追い、なぜ頑丈な船が最後には変形し、浸水し、退船に至ったのかを検証する。

今回出てきた言葉

海氷(Sea Ice)
海水が凍って形成された氷。氷河や棚氷から分離してできる氷山とは異なる。
パックアイス(Pack Ice)
多数の海氷の氷盤が集まった状態。氷盤の間に水路ができることもあるが、風や海流によって密集すると船の航行が困難になる。
フロー(Floe)
海面に浮かぶ一つ一つの氷盤。小さなものから広大なものまで大きさはさまざま。
リード(Lead)
海氷の間にできる細長い開水面。Enduranceはマスト上からリードを探し、航路として利用した。
氷圧
風や海流で海氷同士が押し合うことで生じる圧力。氷を盛り上げたり、船体を横方向から押したりする。
ウェッデル・ジャイア(Weddell Gyre)
ウェッデル海に存在する大規模な海洋循環。海水だけでなく海氷の移動にも関係し、Enduranceの漂流を理解する重要な要素となる。
ヴァーゼル湾(Vahsel Bay)
シャクルトンが横断隊の上陸地点として目指していたウェッデル海側の地域。Enduranceは到達する前に海氷へ閉じ込められた。

前の記事:
第2回 シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画

次の記事:
第4回 エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路【現在の記事】
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

  • Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
    サウスジョージア島出航前に把握していた海氷条件、1914年12月から1915年1月までの航海、Glacier Bay、1月19~20日の海氷包囲、脱出の試み、漂流距離、2月24日の冬季基地化などの一次記録として使用。
  • Royal Geographical Society — Shackleton’s Endurance: Setting out from South Georgia
    ウェッデル海の地理、南極海氷の季節変化、1914年の海氷状況について現地の捕鯨関係者から警告を受けていたことの確認に使用。
  • Royal Geographical Society — Shackleton’s Endurance: Abandon Ship!
    北東風によるパックアイスの圧縮、ウェッデル海の地形、海氷の漂流、ウェッデル・ジャイア、冬季基地への移行について確認。
  • Royal Museums Greenwich — Documenting Shackleton’s Endurance
    Enduranceの船体が極地航海用として非常に強固に建造されていたこと、機関出力、船の基本構造、Frank Hurleyによる氷海写真について確認。
  • Royal Museums Greenwich — Endurance shipwreck discovered: what can the wreck video tell us?
    Enduranceの木造船体、松・オーク・グリーンハート材などの構造、氷圧によって最終的に船体が損傷したことの確認に使用。
  • Royal Geographical Society — 2019 Weddell Sea Expedition
    現代の耐氷船と観測技術を使用しても、ウェッデル海の海氷が航海・沈没船捜索を妨げた事例の確認に使用。

本記事は、シャクルトン本人の『South』を1914~1915年の航海に関する一次資料の中心とし、Royal Geographical Society、Royal Museums Greenwichの地理・船舶資料と照合して構成しています。「シャクルトンの判断ミスだけが遭難原因だった」「完全に予測不能だった」といった単純化は避け、当時確認されていた海氷情報、航行実績、風・低温・海流、船舶性能を分けて記載しています。

エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで

探検・遠征

1915年10月27日午後4時ごろ、ウェッデル海を漂流していたエンデュアランス号の船尾が、海氷の圧力によって持ち上げられた。

横方向へ動く巨大な氷盤が船尾を押し、舵を破壊する。続いてラダーポストとスターンポスト――舵や船尾構造を支える重要な部材――が引き裂かれた。

船内では甲板が持ち上がり、梁が曲がり、折れた。下部からは水が流れ込んでいた。

午後5時、アーネスト・シャクルトンは全員へ船を離れるよう命じる。

これは、1915年1月から9か月以上にわたって28人を守ってきたエンデュアランス号が、生活拠点としての役割を終えた瞬間だった。

ただし、この日に船が海底へ沈んだわけではない。

退船後も壊れた船体は約3週間、海氷の中に残った。そして1915年11月21日、船首からウェッデル海へ沈んでいった。

なぜ、極地航海のため非常に強固に造られた木造船がここまで破壊されたのか。

答えは「氷が硬かったから」という一言では足りない。
Enduranceは局所的な衝撃ではなく、何か月も繰り返された圧縮・持ち上げ・ねじりを受け、最後には船体全体の形を維持できなくなった。

この記事で分かること

今回は1915年8月から11月までを中心に、Enduranceの船体がどのような順序で破壊されたのかを確認する。

  • Enduranceはどのような船だったのか
  • 「極地用の頑丈な船」でも壊れた理由
  • 海氷は船体へどのような力を加えたのか
  • 8月・9月・10月に何が起きていたのか
  • なぜ船尾から大量の浸水が始まったのか
  • 乗組員は浸水を止めようと何をしたのか
  • 10月27日、なぜシャクルトンは退船を決断したのか
  • 退船と沈没の日付が違う理由

船を失った28人がその後どのように氷上生活へ移行したかは、第5回で詳しく扱う。

Enduranceは、もともと非常に強く造られた木造船だった

Enduranceが海氷に破壊されたという結果だけを見ると、船の構造そのものに問題があったようにも見える。

しかし確認できる資料は、むしろ逆の姿を示している。

Enduranceはノルウェーで建造された木造極地船で、当初はPolarisという名だった。もともとは極地での航海を想定した船として設計され、その後シャクルトンが南極遠征用に購入してEnduranceと改名している。

Royal Museums Greenwichが所蔵する設計資料によると、船体には松とオークが使用され、外側にはグリーンハートと呼ばれる非常に硬く耐久性の高い木材が使われていた。

3本マストを持つ帆船である一方、補助動力として蒸気機関も備えている。

風だけに頼らず、海氷の隙間へ機関で入り込むことができる構成だった。

つまりEnduranceは、普通の貨物船をそのまま南極へ持ち込んだものではない。

氷のある海域で活動することを前提とした、当時としては非常に強固な船だった。

それでも「壊れない船」ではない

強い船体が意味するのは、どのような力を受けても変形しないということではない。

木造船の船体は、船底、外板、フレーム、梁、甲板、船首・船尾構造など多数の部材が一体となって形状を維持している。

通常の航海では、主に船そのものの重量、積荷、波浪による曲げ、局所的な衝撃などを受ける。

海氷の場合には、そこへ別の荷重が加わる。

左右から氷盤が接近すれば船体は横方向から圧縮される。

船底へ氷が入り込めば船体を持ち上げる力が働く。

船首と船尾で氷の動く方向が違えば、船体全体へ曲げやねじりも生じる。

しかも問題は一度の荷重ではない。

ウェッデル海のパックアイスは動き続けるため、

圧縮される

緩む

再び別方向から圧縮される

という状態が何度も繰り返された。

Enduranceが耐えていたのは、岩へ一度衝突するような単発の事故ではなかった。

巨大な氷盤群の中で、船体を何か月も繰り返し変形させられる状況だった。

8月1日――冬の途中で、最初の大きな危機が来た

Enduranceが海氷へ閉じ込められたのは1915年1月だったが、本格的に船体への圧力が危険になったのは南極の冬を越えるころからである。

1915年8月1日、シャクルトンは周囲の氷盤が突然割れ始めたことを記録している。

午前中から船の周囲に亀裂が広がり、海氷が圧力で押し合った。

Enduranceは前後、左右へ何度も動かされ、右舷側の船底には古い氷盤が入り込んだ。

一時は船体が10度以上傾く。

シャクルトンは犬とそりを船へ戻し、救命艇をすぐ降ろせる状態にした。乗組員にも最も暖かい衣類を手元へ置き、必要なら短時間で退船できるよう警戒させている。

つまり8月の段階ですでに、
「船を失う可能性」は具体的な非常事態として想定されていた。

それでもこのときEnduranceは耐えた。

船体は激しく動かされたが、決定的な浸水には至らなかった。

9月30日――船体内部まで変形する圧力

9月末になると、周囲から聞こえる氷圧の音が再び大きくなった。

9月30日午後3時ごろ、Enduranceはそれまででも特に強い圧力を受ける。

左舷前方を巨大な氷盤が押した。

シャクルトンの記録では、甲板が震え、梁が湾曲し、支柱が曲がって揺れた。

船体は単純に横へ押されていたのではない。

外板からフレーム、甲板、内部の支柱まで、船全体へ荷重が伝わっていたことが分かる。

シャクルトンは全員へ緊急事態に備えるよう命じた。

だがこのときも、Enduranceは助かった。

船を押していた巨大な氷盤そのものに亀裂が入り、圧力が逃げたからである。

船長フランク・ワースリーは、繰り返し巨大な圧力を受けながら耐えるEnduranceについて、その頑丈さを高く評価する記録を残している。

船が弱かったために早々と壊れたのではない。

むしろ何度も「限界直前」に見える荷重を受けながら、それまで耐えていた。

10月18日――船体が30度傾いた

南極に春が戻ると、乗組員には希望も生まれていた。

気温が上がり、海氷に開水面が見えることも増えた。10月には船内を冬仕様から通常航海へ戻す準備も始めている。

しかし氷が動きやすくなることは、必ずしも安全を意味しなかった。

10月17日から再び大きな圧力が始まる。

翌18日午後、左右の氷盤が互いに横方向へ動き、Enduranceを挟んだ。

左舷側の氷盤が割れ、巨大な氷塊が船底の下から押し上げられる。

数秒のうちに、Enduranceは左舷へ約30度傾いた。

甲板上の犬舎が崩れ、固定されていない物は低い側へ滑り落ちた。乗組員は甲板へ横木を打ち付け、傾いた船内を歩けるようにした。

フランク・ハーレーは、この異常な状態のEnduranceを写真に残している。

午後8時ごろになると氷盤が開き、船はほぼ直立状態へ戻った。

この出来事だけを見れば、

「船体は傾いたが、また戻った」

とも言える。

しかし船に加わっていた応力が消えたことを意味するわけではない。

氷が次にどの方向へ動くかは予測できず、今度は船の別の部分が固定されたまま押される可能性があった。

10月24日――「沈まないようにする戦い」が始まる

決定的な変化が起きたのは1915年10月24日だった。

午後6時45分ごろ、Enduranceは再び激しい圧力を受ける。

このときの条件について、シャクルトンは自著『South』に模式図まで残している。

船の周囲には新しく凍った薄い氷の水面があり、その外側から厚い氷盤とプレッシャー・リッジが迫っていた。

右舷後部が氷盤へ押し付けられる。

船尾構造がねじられ、外板の接合部が開いた。

さらに氷は前後方向だけでなく横方向にも動いたため、船体そのものがねじられ、曲げられていった。

ここでEnduranceは急速に浸水し始める。

これは、それまでの「氷圧に耐えられるか」という問題から、

「流入する水を排出し続けなければ船が失われる」

という段階へ移ったことを意味する。

船尾が壊れると、なぜ浸水が止まらないのか

Enduranceで特に深刻な損傷が生じたのは船尾だった。

船尾には、単なる外板だけでなく、舵を保持する構造やプロペラ軸周辺など重要な機構が集中している。

10月24日の氷圧では、スターンポストがねじられ、外板の端部がずれた。

木造船の外板は、各板が密着し、その隙間を防水処理することで船内への水を防いでいる。

ところが船体全体が曲げられれば、個々の板そのものが壊れていなくても、板と板の接合部が開く

そこから海水が侵入する。

船体を元の形へ完全に戻せなければ、ポンプで水を出しても、次の氷圧で再び隙間が広がる。

これは船底に小さな穴が1個開いた事故とは違う。

船体構造そのものが変形し、防水構造を維持できなくなり始めていた。

毛布まで使って浸水を止めようとした

10月24日夜、乗組員たちはただ船が壊れるのを見ていたわけではない。

ポンプを動かし、浸水した水を排出した。

しかし長期間の凍結によって主ポンプの一部はすぐ使える状態ではなく、凍結した部分を取り除く作業が必要だった。

船大工ハリー・マクニッシュらは、機関室後方にコファーダムと呼ばれる応急の防水区画を作ろうとした。

完全な修理材料があるわけではない。

毛布を細く切って隙間へ詰め、板材を打ち付けて水を止める。

乗組員は夜通し交代でポンプを動かした。

翌朝までに、流入量をある程度抑えることには成功した。

この時点ではまだ、
「浸水した=即退船」ではなかった。

排水量が流入量を上回っている限り、船を維持できる可能性は残っていたからである。

10月25日――修理できても、氷そのものを止めることはできなかった

10月25日、ポンプとコファーダムによって浸水は一定程度管理できていた。

しかし船外の状況は改善しなかった。

Enduranceの周囲では巨大なプレッシャー・リッジが次々に形成されていた。

厚い氷盤同士がぶつかり、一方の氷がもう一方へ乗り上げる。その力で何トンもある氷塊が持ち上げられていく。

シャクルトンは、この日すでにEnduranceが生き残る可能性について悲観的になっている。

重要なのは、
修理班が直している対象と、損傷を作り続けている原因の規模がまったく違ったことである。

乗組員は外板の隙間を塞ぐことができる。

ポンプで水を排出できる。

荷物を移動し、船内の安全を確保できる。

しかし、周囲の何kmにも及ぶ海氷の動きを止めることはできない。

一度修理しても、次の圧力方向が変われば別の場所が損傷する。

この時点で問題は、船の修理技術より大きなスケールへ移っていた。

10月26日――外板の継ぎ目が10cm以上開いた

10月26日、圧力は再び強くなった。

船体からは木材がきしむ音、部材が動く音が聞こえ続けた。

午後7時ごろにはさらに激しい氷圧がかかる。

シャクルトンによれば、右舷側の外板の接合部は4~5インチ、約10~13cmも開いた。

さらに橋楼から見ると、船体そのものが弓のように湾曲していることが分かった。

Enduranceは再び激しく浸水した。

午後9時、シャクルトンは救命艇、食料、そり、装備を船から氷上へ降ろすよう命じた。

まだ正式な退船命令ではない。

しかし、
「船が失われても生き残れる状態」を先に作り始めたのである。

この判断によって、翌日船を捨てることになっても、重要な食料や救命艇まで船と一緒に失うことは避けられた。

10月27日――船尾構造が破壊された

10月27日朝。

位置は南緯69度05分、西経51度30分付近。

天候だけを見れば、激しい吹雪ではなかった。

しかし海氷から船体へ加わる圧力は増え続けた。

午後4時ごろ、氷圧が最も激しくなる。

船尾が持ち上げられた。

横方向へ動く氷盤が船尾を押し抜くように進み、

  • ラダーポスト
  • スターンポスト

を破壊した。

氷の圧力が一時的に緩むと船体は沈み込み、今度は甲板が下側から押し上げられるように壊れていった。

船内へ水が流れ込む。

梁は曲がり、やがて折れる。

これは、船尾の一部だけを修理すれば済む段階ではない。

船体を構成していた主要構造が複数箇所で変形・破断し、船としての形そのものが失われ始めていた。

午後5時――「Abandon Ship」

午後5時、シャクルトンは全員を氷上へ移す決断をした。

Enduranceを修理して航海へ戻すことは、もはや現実的ではなかった。

しかも船が沈むまで待っていれば、食料や救命艇、そり、テントなど、生き残るための装備まで同時に失う可能性がある。

したがって退船は、
船を救うことを諦める判断であると同時に、人員と装備を船の運命から切り離す判断だった。

シャクルトンは同日の記録で、Enduranceが281日間にわたって氷へ閉じ込められ、その間に北西方向へ大きく漂流したことを書いている。

横断遠征の輸送船は、この日完全に失われた。

代わって探検隊の目的は、

28人全員を陸地へ到達させること

へ変わる。

FACT CHECK|1915年10月27日は「沈没日」ではない

Enduranceについては、資料によって10月27日を「lost」「sank」などと簡略化して記載しているものがある。

しかしシャクルトン本人の『South』では、10月27日は退船した日である。

日付 出来事
1915年10月27日 船体が復旧不能となり、全員がEnduranceを退船
1915年11月21日 残っていた船体が海氷の下へ沈没

本シリーズでは一次記録とRoyal Geographical Societyの年表に従い、退船と沈没を別の出来事として扱う。

船を離れても、使える物資は回収した

10月27日に退船したあとも、Enduranceはすぐ完全に水没したわけではない。

船体は大きく壊れていたが、一部は氷上から確認できる状態で残っていた。

そのため乗組員は安全を確認しながら船へ戻り、利用できる物資を回収している。

特に重要だったのが写真家フランク・ハーレーの記録だった。

ハーレーが撮影したガラス乾板は、現在私たちがEnduranceの漂流や氷圧を視覚的に確認できる重要な一次資料になっている。

しかし大量のガラス乾板をこれから氷上で運ぶことはできない。

最終的にシャクルトンとハーレーは保存する写真を絞り込み、約120枚の乾板を残した。

それ以外は、再び船へ取りに戻ろうとする誘惑をなくすため破棄されたとRoyal Geographical Societyの記録は整理している。

生存に必要な重量だけを残す。

ここでも遠征の優先順位は、すでに「記録を残すこと」から「人間を移動させること」へ変化していた。

11月21日――約3週間後、Enduranceが消えた

退船後も乗組員たちは、氷上のキャンプから壊れたEnduranceを見ることができた。

しかし船首側は氷に押し潰され、マストや索具も崩れ、もはや船として利用できる状態ではなかった。

1915年11月21日夕方。

キャンプにいた乗組員はシャクルトンの声を聞き、壊れた船の方向を見た。

Enduranceは船首側から沈み始める。

最後には船尾を空中へ持ち上げるようにして海面下へ消え、海氷がその上を閉じた。

船長フランク・ワースリーは沈没地点の位置を記録した。

その記録が、100年以上後の船体捜索で重要な手掛かりになる。

なぜEnduranceは沈んだのか|破壊の流れを整理する

一連の出来事を構造的に見ると、Enduranceは「突然真っ二つになって沈没した」のではない。

段階 船体で起きたこと 意味
1月~冬 海氷に固定され漂流 航行不能だが船体は健全
8月 氷盤に繰り返し押され、傾斜・持ち上げ 船体への本格的な氷圧が始まる
9月30日 梁・支柱などが大きく変形 船体全体へ荷重が伝達
10月18日 約30度傾斜 氷盤が船体下へ入り込む
10月24日 船尾構造・外板に損傷、浸水開始 構造問題が水密性喪失へ発展
10月26日 外板接合部が大きく開き、船体が湾曲 修復不能に近い全体変形
10月27日 舵・ラダーポスト・スターンポスト破壊、甲板・梁破断 退船
11月21日 残存船体が沈降 Endurance完全喪失

つまり、

海氷の移動 → 船体への圧縮・曲げ・ねじり → 構造変形 → 外板接合部の開き → 浸水 → 主要船尾構造の破壊 → 退船 → 沈没

という連鎖だった。

「氷に押されたら船が上へ逃げる」は機能しなかったのか

極地船には、氷に挟まれたときに船体が完全に潰されるより、氷上方向へ持ち上げられる方が有利という考え方がある。

Enduranceにも実際、そのような挙動は見られた。

9月30日の圧力では船を押していた氷盤が割れ、10月17日には船体そのものが氷によって持ち上げられている。

つまり船がある程度「逃げる」ことで、即座に圧壊することを防いだ場面はあった。

しかし、この仕組みが常に成立する保証はない。

船体の一部が氷に固定された状態で、別の方向から氷盤が動けば、船全体を均等に持ち上げるのではなく、特定部分だけを押したり、ねじったりする。

10月24日以降に起きたのがこの状態だった。

特に船尾では、右舷後部への圧力、横方向の氷の移動、船底への持ち上げが組み合わさった。

船体を氷上へ逃がす力そのものが、条件によっては船を曲げる荷重へ変わった。

2022年の船体発見は、Enduranceの「弱さ」ではなく頑丈さも示した

Enduranceがどれほど破壊されたかについて、新しい物証が得られたのは2022年だった。

Endurance22遠征が水深3,008mのウェッデル海底で船体を発見した。

映像を見ると、Enduranceは海底にほぼ直立した状態で残っている。

船首側などには損傷があるものの、船尾の名称、舵輪、甲板構造、外板の多くは識別できるほど保存されていた。

Royal Museums Greenwichは、この保存状態をEnduranceの建造品質を示すものとしても評価している。

これは、

「船が粗末だったから海氷で壊れた」

という説明とは整合しない。

むしろEnduranceは長期間にわたる強烈な氷圧へ耐え続けた末に、最終的に構造限界を超えたと見る方が資料に合う。

船体を失わせたのは単一の設計欠陥ではなく、ウェッデル海で繰り返された巨大な外力だった。

まとめ|Enduranceは「氷に負けた」のではなく、9か月以上耐えた末に構造を失った

Enduranceは、氷海航行を想定した非常に頑丈な木造船だった。

それでも1915年1月に海氷へ閉じ込められた後、船体は長期間にわたってパックアイスの動きを受け続けることになった。

8月には周囲の氷盤が船を前後・左右へ動かし始める。

9月30日には甲板、梁、支柱までが変形するほどの圧力を受けた。

10月18日には約30度傾き、10月24日には船尾構造がねじられて外板が開き、本格的な浸水が始まる。

乗組員はポンプを動かし、毛布と板まで使って応急的な防水を試みた。

しかし氷圧は止まらない。

10月26日には船体が弓のように曲がり、外板接合部が10cm以上開く。

そして10月27日、船尾が持ち上げられ、舵、ラダーポスト、スターンポストが破壊された。甲板と梁も壊れ、水が流入する。

午後5時、シャクルトンは退船を命じた。

船そのものは11月21日まで海氷の中に残り、最後は船首からウェッデル海へ沈んだ。

ここから28人には、別の問題が始まる。

船内には寝台があり、厨房があり、食料庫があり、機関があり、壁と屋根があった。

そのすべてがなくなった。

彼らの足元にあるのは陸地ではない。

漂流する海氷である。

しかも最も近い現実的な目的地までは数百kmあった。

第5回では、船を失った28人が何を持ち出し、どこにキャンプを作り、食料・燃料・犬・救命艇をどう管理しながら氷上で生き延びたのかを追う。

今回出てきた言葉

グリーンハート(Greenheart)
非常に硬く耐久性に優れた木材。Enduranceでは船体外側の補強材として使用されていた。
スターンポスト(Sternpost)
船尾の主要な構造材。Enduranceでは1915年10月の氷圧で損傷し、最終的に船尾構造の破壊へつながった。
ラダーポスト(Rudder Post)
舵を支持する船尾側の構造。10月27日の激しい氷圧で舵とともに破壊された。
氷圧
風や海流によって移動する海氷同士が押し合うことで発生する力。Enduranceでは圧縮だけでなく、持ち上げ・曲げ・ねじりを船体へ与えた。
プレッシャー・リッジ(Pressure Ridge)
海氷同士が圧縮され、一方の氷が上や下へ押し出されて形成される隆起。巨大な氷塊が積み重なることもある。
コファーダム(Cofferdam)
水の流入を抑えるために設ける隔壁・空間。Enduranceでは船大工マクニッシュらが船尾側の浸水に対して応急的に設置した。
Ocean Camp
1915年10月27日にEnduranceを退船した後、乗組員が海氷上へ設置したキャンプ。第5回で詳しく扱う。

前の記事:
第3回 なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路

次の記事:
第5回 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで【現在の記事】
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

  • Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
    1915年8月1日、9月30日、10月17~27日の氷圧、船体変形、ポンプ作業、応急防水、退船、11月21日の沈没に関する一次記録として使用。
  • Royal Geographical Society — Endurance22 / Shackleton expedition timeline
    10月27日の退船、11月21日の沈没、Ocean Campへの移行など主要日付の確認に使用。
  • Royal Geographical Society — Shackleton’s Endurance: Abandon Ship!
    氷圧による船体損傷、退船準備、フランク・ハーレーの写真資料などの確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — Endurance shipwreck discovered: what can the wreck video tell us?
    Enduranceの建造、松・オーク・グリーンハート材、氷圧による船尾構造の破壊、2022年に確認された船体状態の確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — ‘Endurance’ heeled to port by the ice
    1915年10月18日前後にEnduranceが大きく傾いた状況、スターンポスト・外板損傷、フランク・ハーレーの写真資料の確認に使用。
  • Falklands Maritime Heritage Trust / Endurance22
    2022年3月の船体発見、水深3,008m、船体の保存状態、海洋考古学調査結果の確認に使用。

本記事では、1915年10月27日を「退船日」、11月21日を「沈没日」として区別しています。これはシャクルトン本人の『South』およびRoyal Geographical Societyの年表に基づきます。また、Enduranceの破壊を単一の部材破損や設計欠陥へ単純化せず、一次記録に残る氷圧、船体変形、船尾損傷、浸水の進行を時系列で再構成しています。

船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々

探検・遠征

1915年10月27日、エンデュアランス号を捨てた28人が立っていたのは、南極大陸ではなかった。

港でも島でもない。

彼らの足元にあったのは、ウェッデル海を漂う海氷だった。

船内にあった寝台、厨房、食料庫、機関、壁、屋根は使えなくなった。救助を呼べる無線もない。最寄りの現実的な避難先と考えられたポーレット島までは、当初約346マイル離れていた。

28人に残された大型の移動手段は、エンデュアランス号から降ろした3隻の救命艇だった。

ところが、その救命艇をすぐ海へ浮かべることもできない。

周囲は船を走らせられるほど開いておらず、かといって重い艇をそりに載せて何百kmも引けるほど平坦な氷でもなかった。

この状況でシャクルトンたちが始めたのは、「ひたすら耐える」ことではない。

食料、燃料、重量、犬、救命艇、氷の状態、漂流方向を管理しながら、次に移動できる条件が成立するまで生存時間を延ばすことだった。

この記事で分かること

今回は1915年10月27日の退船から、1916年4月に救命艇へ乗り移る直前までを扱う。

  • 船を捨てた直後、28人は何を持ち出したのか
  • なぜ個人の荷物をほとんど捨てたのか
  • なぜ徒歩でポーレット島へ向かう計画を断念したのか
  • Ocean CampとPatience Campは何が違ったのか
  • 食料をどのように確保したのか
  • アザラシの脂肪がなぜ燃料として重要だったのか
  • 犬ぞりはどこまで役に立ったのか
  • なぜ犬を処分する判断に至ったのか
  • 「氷と一緒に漂流する」ことがなぜ合理的だったのか

4月9日に実際に救命艇へ乗り込んでからエレファント島へ到達する航海は、第6回で詳しく追う。

退船した瞬間から「持っていける重量」が生存条件になった

船を離れた直後、エンデュアランス号の乗組員は可能な限りの物資を氷上へ降ろした。

特に重要だったのは、

  • 3隻の救命艇
  • そり
  • テント
  • 食料
  • 燃料になる物資
  • 寝袋・防寒着
  • 調理器具
  • 航海・測位器具

だった。

ここで一つ問題になる。

船に残っている物をすべて持っていくことはできない。

いずれ陸地へ向かってそりを引くのであれば、荷物の重量は人間と犬が自力で移動させなければならない。1kg余分に持てば、それだけ移動速度と体力消耗に影響する。

そのためシャクルトンは、個人が持てる私物を1人2ポンド、約0.9kgまでに制限した。

金銭や不要な装備よりも、家族の写真など精神的に重要な物を残す者もいた。

シャクルトン自身の記録には、この判断を象徴する一文がある。

金貨は捨てられ、写真は残された。

単なる「断捨離」ではない。

これからの移動では、物の価値を価格ではなく、生存に対する重量当たりの価値で再評価する必要があった

救命艇だけは、どれほど重くても捨てられなかった

一方、最も重い荷物でありながら絶対に捨てられないものがあった。

救命艇である。

Enduranceからは、

  • James Caird
  • Dudley Docker
  • Stancomb-Wills

の3隻が氷上へ降ろされた。

これらは後に海氷が崩壊したとき、28人が海上へ脱出するための唯一の手段になる。

つまり救命艇には矛盾した性質があった。

氷上では 非常に重く、移動速度を大きく低下させる
氷が割れた後は 全員の生存に不可欠

軽量化だけを優先すれば艇を捨てたくなる。

しかし艇を失えば、海氷が開いた瞬間に移動手段を失う。

したがってシャクルトンたちは、移動効率を犠牲にしてでも救命艇を保持する必要があった。

最初の計画は「氷の上を歩いて陸へ行く」ことだった

退船直後、シャクルトンはただその場で救助を待つつもりではなかった。

最初の目標として考えられたのはポーレット島(Paulet Island)だった。

退船時点で約346マイル離れていたが、そこには1902年のスウェーデン南極探検隊救援時に使われた小屋と、非常用の物資が残されていることをシャクルトンは知っていた。

距離だけを見れば非常に遠い。

それでも何もない海氷の上に留まり続けるより、物資のある陸地へ近づく方が安全に思える。

そこで救命艇をそりへ載せ、犬と人間で西から北西方向へ引く計画が始まった。

しかし実際に動いてみると、地図上の距離とは別の問題が現れた。

1日歩いても「1マイル」しか進まなかった

海氷は雪原ではない。

氷盤同士がぶつかってできたプレッシャー・リッジ、亀裂、開水路、軟らかい雪、薄い若い氷が入り混じっていた。

進路上に高さ数mの氷の隆起があれば、つるはしとシャベルで崩して道を作る。

亀裂があれば迂回する。

救命艇は1隻ずつ前へ運び、また戻って次の荷物を取りに行く。

シャクルトンの一次記録では、最初の移動では直線距離でわずか約1マイル進むために、迂回や往復を含め人員によっては6~10マイル近く動いている。

しかも雪が深い場所では腰近くまで沈んだ。

重い救命艇を載せたそりにとって、この路面状態は致命的だった。

数日試した結果、シャクルトンは長距離行軍を停止する。

より厚く安定した氷盤を探し、そこへキャンプを移した。

これがOcean Campである。

Ocean Camp|「移動する」から「条件が変わるまで待つ」へ

Ocean Campが設置された氷盤は、当初およそ1マイル四方の比較的大きな古い氷だった。

沈んだEnduranceの残骸からは約1.5マイル離れていた。

この場所で28人は約2か月を過ごす。

ここで戦略は一度変わった。

人力で陸地まで進むのではなく、
氷そのものが北西方向へ漂流するのを利用し、移動可能な条件が来るまで待つ

ただし、完全に何もしなかったわけではない。

乗組員は、

  • 氷の亀裂を監視する
  • 船の残骸から使える物資を回収する
  • アザラシやペンギンを探す
  • 犬を訓練・管理する
  • 救命艇とそりを整備する
  • 食料在庫を計算する
  • 測位して漂流位置を確認する

という作業を続けた。

待機とは、停止ではない。

次に動ける瞬間に備えるための運用状態だった。

食料は「持ってきた物」だけでは到底足りなかった

退船直後、28人にはそり旅行用の非常食があった。

しかしシャクルトンは、それを最初から大量に消費しない方針を取った。

救命艇へ乗り込んだ後は、狩猟できる保証がない。

そのため保存性が高く重量あたりのエネルギー密度も高いそり用レーションは、最後の移動段階のために温存する必要があった。

氷上生活の主な食料になったのは、

  • アザラシ
  • ペンギン
  • 残存する小麦粉
  • ペミカン
  • 乾燥乳
  • 砂糖や乾燥野菜など残存備蓄

だった。

Ocean Campでは、シャクルトンは可能な限りアザラシとペンギンで日常の食事を賄い、貴重なそり用レーションを節約する方針を明記している。

11月初旬の記録では、人間と犬を合わせて維持するにはおおむね1日1頭のアザラシが必要になる状況もあった。

ここで狩猟は「食事を豪華にするため」ではない。

保存食の消費速度を下げることで、救命艇へ移るまでの生存可能期間を延ばすためだった。

アザラシは「食料」であると同時に「燃料」だった

氷上生活では、カロリーだけ確保しても生きられない。

飲料水を作るには氷や雪を溶かさなければならない。

肉を調理するにも熱源がいる。

しかしEnduranceを失った28人には、何か月も使い続けられる大量の石炭や灯油はなかった。

そこで重要になったのがアザラシの脂肪、ブリバー(blubber)だった。

脂肪を燃やし、調理や雪・氷を溶かす熱源にする。

Ocean Campでは、金属製の油樽などを加工した簡易ストーブも作られた。

Patience Campでも同じ考え方が続く。

つまり1頭のアザラシは、

人間と犬の食料
脂肪 調理・飲料水確保の燃料

という二つの役割を持っていた。

アザラシが見つからなくなることは、
食料不足と燃料不足が同時に進むことを意味した。

水も「氷が無限にあるから問題ない」わけではない

周囲には見渡す限り氷がある。

一見すると、飲料水だけは不足しないように思える。

しかし氷をそのまま大量に飲むことはできない。

溶かすには熱が必要になる。

Patience Campで燃料不足が深刻になると、1日1回しか温かい飲み物を作れない時期もあった。

シャクルトンの記録には、金属缶へ氷片を入れて寝袋や衣服の中で体温を利用して溶かし、少量の水を得た例も残されている。

氷そのものは大量にあっても、

「飲める水へ変換するためのエネルギー」が不足すれば、水も制約資源になる。

極地での燃料管理が食料管理と同じくらい重要だった理由である。

犬は荷物を運ぶ重要な戦力だった

Enduranceには多数のそり犬が乗っていた。

本来は南極大陸横断で使用する予定だった犬たちである。

船が氷へ閉じ込められていた時期から、犬たちは氷上で訓練されていた。

船を失った後は、救命艇や物資を運ぶため、さらに重要になった。

人間だけでは到底運べない量の荷物を、犬ぞりなら比較的効率よく移動できる。

実際、Ocean Campへ移る際には、犬14頭が人間18人と同等かそれ以上の仕事をしたとシャクルトンは評価している。

しかし犬には別の問題がある。

働いていない間も食料が必要になる。

氷上を長距離行軍できない状態が続けば、犬の輸送能力は利用できない一方、アザラシ肉などを毎日消費する。

犬を維持すること自体が資源負担になっていった。

10月29日、すでに「維持できない命」を選別していた

退船から2日後の10月29日、シャクルトンの記録では28人と49頭の犬が氷上にいた。

この日、幼い犬や状態の弱い動物、そして船大工ハリー・マクニッシュが飼っていた猫Mrs Chippyなどが処分された。

理由は明確だった。

これからの条件では維持できないと判断されたためである。

現代の感覚では非常に厳しい判断に見える。

しかし、この時点で人間28人の食料すら外部から補給される見込みはない。

動物を維持するために必要な食料を確保できなければ、最終的には人間側の備蓄まで消費することになる。

この判断は後にさらに拡大する。

12月、もう一度「歩いて脱出する」ことを試した

Ocean Campに留まる間、海氷は徐々に北へ漂流していた。

12月に入ると南半球は夏となり、気温が上昇する。

氷が崩れ始めれば救命艇を使える可能性が高まる一方、まだ十分に水路が開いていなければ船では進めない。

12月20日、シャクルトンはフランク・ワイルドと相談し、もう一度西へ向かって歩くことを決めた。

目標はポーレット島との距離を縮めることだった。

偵察すると、比較的大きく平坦な氷盤が先に続いているように見えた。

そこで12月23日早朝、28人は再びキャンプを畳んだ。

James CairdとDudley Dockerの2隻をそりへ載せ、夜間の低温で雪面が少し硬くなる時間帯を利用して移動する。

Stancomb-Willsは一時Ocean Campへ残された。

再び「漂流を待つ」から「自力で陸へ近づく」へ戦略を変更したのである。

7日間で進めたのは、直線距離7.5マイルだった

二度目の行軍でも、問題は同じだった。

気温が上がった夏の海氷は表面が軟らかく、人間が膝まで沈む。

亀裂や開水路が進路を塞ぐ。

プレッシャー・リッジをつるはしで崩して道を作る。

重い救命艇は約60ヤードずつリレー方式で動かす。

12月27日の夜には、最初の約200ヤードを突破するだけで約5時間を費やしている。

そして7日間の結果は、直線距離で約7.5マイルだった。

人間は疲労し、食料も減っていた。

シャクルトンは計算する。

この速度では西の陸地へ到達するまで300日以上かかる。

しかし手元の行軍用食料は約42日分しかない。

計算上、成立しない。

FACT CHECK|なぜ「頑張って歩き続ける」を選ばなかったのか

行軍を中止した理由は、単なる疲労ではない。

実績 7日間で直線距離約7.5マイル
この速度で陸地へ向かった場合 300日以上必要とシャクルトンは試算
当時の行軍用食料 約42日分

加えて、救命艇を損傷させれば海氷崩壊後の脱出手段も失う。

したがって行軍継続は「勇敢だが危険」というより、資源と時間の収支が成立していない選択肢だった。

Patience Camp|「自分たちが進む」のをやめ、氷に運ばせる

12月29日、前方の氷が通行不能になった。

シャクルトンは強固な氷盤へ戻り、再びキャンプを設置する。

この場所にはPatience Camp――「忍耐のキャンプ」という名前が付けられた。

結果として、ここが約3か月半の生活拠点になる。

名前どおり待つことになるが、その判断には物理的な理由があった。

彼らが乗っている海氷は完全に停止しているわけではない。

風とウェッデル海の海流によって、全体として北方向へ漂流している。

人力で1日に1マイル前後しか進めないのであれば、
巨大な氷盤そのものに28人と救命艇を運ばせた方が効率的な場合がある。

実際、1916年1月の6日間の吹雪では、Patience Campの氷盤は約84マイル北へ移動した。

人力で同じ距離を救命艇ごと移動することは、当時の氷面では事実上不可能だった。

Patience Campでは「備蓄」より狩猟の成否が生活を左右した

Patience Camp設置時点で、そり用の予備食を除くと、シャクルトンは約110ポンドのペミカンと約300ポンドの小麦粉などが残っていたと記録している。

Ocean Campへ戻った隊はさらに、

  • 乾燥乳 約130ポンド
  • 犬用ペミカン 約50ポンド
  • ジャム 約50ポンド
  • 缶詰肉

などを回収した。

しかし28人が数か月生活するには十分ではない。

主食は次第にアザラシ肉とペンギンへ偏った。

小麦粉や高エネルギーのそり用レーションは、艇へ乗り込んだ後のために可能な限り残した。

この運用は一種の在庫の階層化だった。

日常的に使用 現地で捕獲できるアザラシ・ペンギン
補助的に使用 小麦粉、乾燥乳、ペミカンなど
最後まで温存 救命艇航海用のそりレーション

いつ捕れるか分からない野生動物を優先して食べ、確実に残っている非常食を後へ回す。

一見逆に見えるが、予測不能な救命艇航海に確実な食料を残すためには合理的な順序だった。

1月、犬の大半を維持できなくなった

Patience Campで食料不足が進むと、犬を維持する意味も変わった。

徒歩脱出を試していた時期、犬は重要な牽引力だった。

しかし長距離の氷上移動を諦め、最後は救命艇で海へ出る方針になれば、犬ぞりを使う場面は減っていく。

それでも犬には毎日食料が必要になる。

シャクルトンは食料不足から、最終的に2チームを残して他の犬を処分する判断をした。

4月2日には残っていた最後の2チームも処分された。

一部は食料として利用されたことも一次記録に残っている。

犬は遠征開始時には南極横断のための重要設備だった。

船を失った後には救命艇輸送の重要な戦力となった。

しかし最後に必要になるのが海上航行へ変わったことで、維持コストに対して役割を持てなくなった

極限環境では、当初重要だった装備や資源であっても、状況が変われば評価を変えなければならなかった。

「全員同じ量を食べれば公平」だけでは生存できない

シャクルトンの記録を見ると、食事内容は固定されていない。

獲物の量、燃料、残存備蓄、今後の行動予定によって配給は頻繁に変更されている。

食料が不足すれば減らす。

救命艇へ出る可能性が高くなれば、体力を戻すため配給を増やす準備をする。

そり用レーションは極力触らない。

アザラシが捕れれば少し増やす。

つまり配給量は「公平な固定値」ではなく、
現在の在庫と今後必要になる仕事量から逆算して決める変数だった。

3月21日ごろには肉が約10日分、脂肪はそれより少ない状態となり、昼食がビスケット1枚まで減った時期もある。

一方、40日分のそり用レーションはほぼ手を付けずに残されていた。

これが後の救命艇航海で使われる。

キャンプ生活で最も危険だったのは「足元が土地ではない」こと

Ocean CampとPatience Campには、通常の野営地と決定的に違う条件がある。

キャンプそのものが動き、割れる。

夜に寝た場所へ朝まで安全にいられる保証がない。

氷盤には亀裂が入り、数時間で開水路になることもあった。

Ocean CampからPatience Campへ物資を取りに戻ったマックリンとハーレーは、薄い氷を踏み抜いて腰まで水につかりながら移動している。

2月2日にStancomb-Willsを回収した際も、艇を載せた重いそりが氷を破り、ほとんど浮いた状態になる場面があった。

その翌日には亀裂がさらに広がり、Ocean Campへ戻るルートは失われた。

「昨日通れた道」が翌日も通れるとは限らない。

そのため、物資を離れた場所へ大量に残すこと自体がリスクになる。

最後の救命艇Stancomb-WillsもPatience Campへ回収した

12月の徒歩脱出では、重量を減らすためStancomb-WillsをOcean Campへ残していた。

しかし徒歩で陸地へ到達する計画を諦めた後、3隻目の艇を残しておく理由はなくなった。

28人が海へ出るなら、3艇すべてが必要になる可能性が高い。

1916年2月2日、フランク・ワイルド率いる18人がOcean Campへ戻り、食料や衣類とともにStancomb-Willsを回収した。

帰路ではプレッシャー・リッジを崩し、開き始めた亀裂を氷塊で埋めながら艇を引いた。

Ocean Campへ向かう空そりより、艇を積んだ帰路には約3倍の時間がかかった。

それでもこの回収は重要だった。

数か月前には「重すぎる荷物」だった3隻目が、
海氷の崩壊が近づくほど「必要な浮力」へ価値を変えていたからである。

ポーレット島は近づいた。それでも行けなかった

氷盤は北へ漂流し続け、ポーレット島との距離は縮まった。

2月22日ごろには約80マイルまで近づいている。

3月にはさらに近づき、3月17日には緯度上ほぼ同じ位置まで漂流した。

それでも到達できなかった。

島は約60マイル西にあり、その間の海氷は徒歩で渡れるほど連続しておらず、救命艇で航行できるほど完全に開いてもいなかった。

シャクルトンにとって最も厄介なのは、

「歩けないが、まだ船でも進めない」

という中間状態だった。

結局、28人はポーレット島を東側から通り過ぎる。

目的地は次第に別の島へ変更されていった。

4月、Patience Campそのものが壊れ始めた

南極の夏が終わりに近づくにつれ、海氷は薄くなり、広い開水面が増えていった。

これは救命艇を使える条件が近づいたことを意味する。

同時に、キャンプの足元が失われることも意味していた。

氷盤には頻繁に亀裂が入り、波のうねりも感じられるようになる。

28人は、

  • 救命艇
  • そり用レーション
  • 飲料水
  • 寝袋
  • 航海器具

をすぐ積み込める状態にした。

ここまで数か月、「氷がもっと開くこと」を待ってきた。

だが開きすぎれば、今度はキャンプしている氷盤そのものが消える。

待ち続けることにも限界が来ていた。

なぜ28人は氷上で約5か月生き延びられたのか

エンデュアランス号退船後の生存を「シャクルトンのリーダーシップ」という一語で説明すると、実際に行われたことが見えにくくなる。

氷上生活を支えた要素を分解すると、より具体的である。

管理対象 取った方法
重量 私物を約2ポンドへ制限し、生存に不要な物を捨てた
救命艇 重くても最後まで保持し、損傷を避けた
食料 アザラシ・ペンギンを優先して食べ、航海用レーションを温存
燃料 アザラシの脂肪を調理・融雪に利用
移動時には牽引力として利用し、役割低下後は維持頭数を削減
移動 徒歩移動の実績が成立しないと判断した時点で中止
漂流 海氷の自然な北向き漂流を移動手段として利用
位置 ワースリーらが天測を行い、現在位置と漂流を把握
キャンプ 氷盤の安定性に応じてOcean CampからPatience Campへ変更

重要なのは、一つの計画を最後まで守っていないことである。

徒歩で行けると思えば歩く。

進めないと分かれば止まる。

漂流が有利なら氷に運ばせる。

必要なら残した艇を回収する。

犬が役立つ間は使い、維持できなくなれば資源配分を変える。

「正しい計画を最初から持っていた」のではなく、現場の結果を見て計画を捨て直し続けたことが、生存につながった大きな特徴だった。

FACT CHECK|28人は「何か月もその場で救助を待っていた」のか

単純に救助を待っていたわけではない。

外部はEnduranceがどこで失われたかを知らず、救助船が直接来る見込みはなかった。

乗組員は二度にわたり徒歩脱出を試し、その実績から長距離移動が成立しないと判断した。

その後は漂流によって陸地との距離を縮めながら、海氷が十分開いた時点で救命艇へ移る戦略へ変更している。

したがってOcean CampとPatience Campでの待機は、「救助待ち」ではなく「救命艇を使用できる環境待ち」と見る方が実態に近い。

1916年4月9日――ついに氷上生活が終わる

4月上旬、周囲の海氷は急速に不安定になった。

4月2日には最後まで残っていた犬ぞり2チームも処分される。

4月5日にはアザラシを確保でき、食料事情は一時的に改善した。

しかし最大の変化は食料ではない。

氷の亀裂が拡大し、波のうねりがキャンプまで届き始めていた。

1916年4月9日、Patience Campの氷盤はもはや安全な生活基盤ではなくなった。

シャクルトンは決断する。

3隻の救命艇、

  • James Caird
  • Dudley Docker
  • Stancomb-Wills

を海へ降ろし、28人全員が乗り込んだ。

1915年10月27日にEnduranceを離れてから、約5か月半。

ようやく彼らは漂流する氷の上から離れた。

ただし、ここで安全になったわけではない。

むしろ28人は初めて、屋根も暖房もない小型の木造艇で、氷と波の混じる南極海そのものへ出る。

そして目的地もまだ確定していなかった。

まとめ|生存を支えたのは「我慢」ではなく、資源配分と計画変更だった

Enduranceを失った28人が直面した問題は、寒さだけではなかった。

何百kmも離れた陸地。

移動できない海氷。

重い救命艇。

減り続ける食料。

不足する燃料。

犬の維持。

そして、自分たちを支える氷盤そのものがいつ割れるか分からない。

退船直後、彼らは荷物を減らし、救命艇をそりへ載せて陸地を目指した。

しかし実際に進めた距離から、長距離徒歩移動は成立しないと判断する。

Ocean Campで漂流を待ち、12月には再び移動を試した。

ところが7日間で進めた直線距離は約7.5マイルだった。

そこでPatience Campを設置し、人力移動をやめ、海氷そのものの北向き漂流を利用する戦略へ切り替えた。

食料ではアザラシとペンギンを利用し、最後の救命艇航海に必要な非常食を温存した。

アザラシの脂肪は燃料にもした。

犬は荷物の牽引に使ったが、維持する食料と今後の役割が釣り合わなくなると頭数を減らした。

そして海氷が十分に割れた1916年4月9日、28人は3隻の救命艇へ移った。

つまり氷上での生存は、

「耐え続けた」結果ではない。

移動するか、止まるか。

食べるか、残すか。

持っていくか、捨てるか。

人力で進むか、氷に運ばせるか。

状況が変わるたびに、この判断を更新した結果だった。

しかし救命艇へ乗った瞬間から、問題の種類が変わる。

今度は氷上のキャンプではなく、3隻の小舟で荒れる海を渡らなければならない。

第6回では、28人がJames Caird、Dudley Docker、Stancomb-Willsに分乗し、どのようにしてエレファント島へ到達したのかを時系列で追う。

今回出てきた言葉

Dump Camp
Endurance退船直後、船の近くの海氷上に設けられた最初の臨時キャンプ。物資が集積され、その後より安定したOcean Campへ移った。
Ocean Camp
Enduranceの残骸から約1.5マイル離れた比較的大きな氷盤上に設置されたキャンプ。乗組員はここで約2か月生活した。
Patience Camp
1915年12月末、二度目の徒歩脱出を断念した後に設置されたキャンプ。1916年4月9日に救命艇へ移るまで主要な生活拠点となった。
ポーレット島(Paulet Island)
退船後に最初の避難目標となった島。過去の南極探検隊が使用した小屋と非常用物資が存在することをシャクルトンは知っていた。
ペミカン(Pemmican)
肉と脂肪などを利用した高エネルギーの保存食。極地でのそり旅行用レーションに使われた。
ブリバー(Blubber)
アザラシなど海生哺乳類の厚い脂肪層。キャンプでは食用だけでなく、調理や氷を溶かすための燃料として重要だった。
フランク・ワイルド(Frank Wild)
シャクルトンの主要な副官の一人。Ocean Camp、Patience Camp、後のElephant Islandでも隊の管理に重要な役割を担った。

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第4回 エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで

次の記事:
第6回 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々【現在の記事】
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

本記事は、シャクルトン本人の『South』を一次資料の中心とし、Royal Geographical Societyなどの資料と照合して構成しています。犬やMrs Chippyの処分については、極限環境下の食料・輸送資源管理を理解するために必要な範囲で記載し、過度に感情的・残酷な描写は行っていません。また、「待機」を単なる消極策とはせず、実際の徒歩移動速度、食料残量、救命艇保持の必要性、海氷の漂流を踏まえて説明しています。

28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出

探検・遠征

1916年4月9日午前11時。

Patience Campの足元を支えていた海氷が、3隻の救命艇の真下を横切るように割れた。

前年10月にエンデュアランス号を捨ててから約5か月半。28人は、割れながら漂流する氷盤の上で生活を続けてきた。

しかし、この日はもう待てなかった。

波のうねりによって氷盤そのものが曲げられ、キャンプの下に亀裂が走る。氷がさらに細かく砕ければ、人間を載せられる場所を失う一方、救命艇を進水させるだけの水路さえ確保できなくなる可能性があった。

午後1時、シャクルトンは3隻の艇を海へ出した。

James Caird、Dudley Docker、Stancomb Wills。

この瞬間から、28人の問題は再び変わる。

海氷上では「動けないこと」が最大の問題だった。

艇へ乗った後は、
冷たい海、波、風、潮流、浮氷、そして3隻が離れないことが生存条件になる。

この記事で分かること

今回は1916年4月9日の救命艇進水から、エレファント島へ上陸し、4月17日にCape Wildへ移るまでを時系列で追う。

  • 3隻の救命艇には何人ずつ乗ったのか
  • なぜ最初からエレファント島を目指したわけではないのか
  • オールと帆を使ってどのように進んだのか
  • 小さなStancomb Willsがなぜ大きな負担になったのか
  • なぜ航海したのに、位置が出発地点より東へ戻っていたのか
  • Hope BayではなくElephant Islandを選んだ理由
  • なぜ飲料水不足が深刻になったのか
  • なぜ4月15日の上陸後、さらに4月17日に移動したのか

エレファント島到着後、シャクルトンら6人がJames Cairdでサウスジョージア島へ向かう航海は、第7回で扱う。

4月9日、キャンプの氷盤そのものが割れた

4月8日には、Patience Campの氷盤はすでに大きく揺れ始めていた。

海から入ってくる長いうねりによって、氷盤は固定された地面ではなく、巨大な筏のように上下していた。

夕方にはJames Cairdの真下にも亀裂が走った。

翌9日朝、周囲には開水路が見え始める。

しかし「水が見える」ことと、「小型艇を安全に通せる」ことは同じではない。

氷盤の間には砕けた氷が大量に詰まり、波によって押し合っていた。艇を出せば、開閉する氷の間へ挟まれる可能性もあった。

そこで28人はすぐ出発せず、テントを畳み、食料と装備を艇へ積める状態にして待機した。

午前11時、状況はさらに悪化する。

氷盤が3隻の救命艇の下を横切る形で完全に割れた。

これまで何か月も寝ていたテントの場所まで水路になった。

もうキャンプを維持する余裕はない。

午後1時ごろ、水路が一時的に航行可能な状態になる。

Dudley DockerとStancomb Willsが先に進水し、最後に最も大型で物資を多く積んだJames Cairdが氷を離れた。

午後2時には3艇とも、それまで生活していた氷盤から約1マイル離れていた。

28人は3隻へ均等に分かれたわけではない

3艇は同じ大きさ、同じ航海性能ではなかった。

そのため人員も均等には配分されていない。

主な責任者 当初の人数 特徴
James Caird シャクルトン、フランク・ワイルド 13人 3艇中最大。主要な物資も多く積載
Dudley Docker フランク・ワースリー 10人 航海士ワースリーが指揮
Stancomb Wills ヒューバート・ハドソン、トム・クリーン 5人 最も小さく、航走性能でも不利

このうちJames CairdとDudley Dockerは比較的使いやすい帆を持っていた。

Stancomb Willsは小型で、帆走性能も十分ではない。

後の航海では、この性能差が大きな問題になる。

艇を出した直後から、氷に潰される危険が続いた

進水したからといって、すぐ開けた海へ出たわけではない。

周囲には依然として多数の氷盤が浮かんでいた。

4月9日午後、潮流によって巨大な氷塊が互いに近づき、3艇へ迫る場面があった。

シャクルトンの一次記録では、氷とそれに伴う水の動きは約3ノットと推定されている。

3ノットは約5.6km/h。

数字だけなら遅く見えるが、小型の手こぎ艇から見れば、数百~数千トン規模になり得る氷盤がその速度で迫ることになる。

James Cairdが先頭で回避し、Dudley Dockerが続いた。

最後尾のStancomb Willsは、かなり危険な位置まで氷に追い込まれた。

さらにDudley Dockerは、近道をしようとして2つの氷塊の間に挟まれ、一時動けなくなる。

James Cairdからロープを渡して引き出した。

艇へ移った初日から、
「最短経路を通る」ことより「氷に挟まれないこと」が優先された。

夜は、再び氷の上へ艇を引き上げた

4月9日夜、28人は適当な氷盤を見つけ、艇を引き上げてテントを張った。

これは以前のPatience Campへ戻ったわけではない。

日中は艇で進み、夜になれば比較的安全な氷盤へ艇ごと上がるという運用である。

ところが、この氷盤も安全ではなかった。

夜、うねりによって氷盤が曲げられ、テントの下に亀裂が走った。

乗組員のホルネスは寝袋に入ったまま海へ落ちたが、すぐ引き上げられた。

数秒後には氷盤の両側が再び激しく衝突した。

Enduranceを失った後に続けてきた「安全な氷盤を探して泊まる」という方法も、海氷崩壊の進行によって次第に使えなくなっていた。

氷山のような氷塊へ乗り移って夜を越した

その後も艇と氷上待機を組み合わせながら進んだ。

4月11日には、艇を引き上げていた比較的大きな氷塊の周囲を荒れたパックアイスが激しく動き続けた。

うねりによって氷塊の端は削られ、キャンプできる面積が少しずつ小さくなっていく。

シャクルトン、ワースリー、ワイルドは何度も高い場所へ登り、遠くに開水路が現れないか探した。

ようやく水路が近づくと、3艇を再び海へ出した。

このときJames CairdとDudley Dockerは帆を使って進むことができた。

しかしStancomb Willsでは帆が小さく、十分な推進力を得られなかった。

艇が氷へ流されそうになったため、Dudley Dockerが戻って救援し、Stancomb Willsを曳航する。

この作業だけで約2時間を失った。

3隻で航海する最大の問題は「最も遅い艇に全体を合わせる」ことだった

3隻のうち1隻だけ速く進めても意味はない。

28人全員を生還させるには、3艇を一つの船団として維持する必要がある。

Stancomb Willsが遅れれば、James CairdとDudley Dockerも待つ。

曳航が必要なら、他艇の速度も下がる。

視界の悪い夜に一艇だけ離れれば、無線も照明設備もないため再合流できない可能性がある。

そのため航海全体の速度は、
最も性能の低いStancomb Willsによって制限される場面が多かった。

一方、この小さな艇をOcean Campから苦労して回収した判断が正しかったことも分かる。

28人全員を海へ移すには、3艇すべての浮力が必要だった。

氷上キャンプより、艇の中の方がさらに寒かった

氷上では少なくともテントを張り、寝袋へ入ることができた。

艇では事情が違う。

3隻は救命艇であって、居住用キャビンを持つ船ではない。

人間と食料、テント、寝袋、航海装備を積むと内部はほとんど満員になった。

波を受ければ海水が入り、衣類は濡れる。

濡れた衣類へ冷たい風が当たり、さらに塩水が凍りつく。

4月12日の朝、シャクルトンはJames Cairdに乗る仲間の顔が、疲労で明らかにやつれていることを記録している。

気温は華氏10度前後、摂氏では約-12度。

漕ぎ手の衣類には氷が付き、身体を動かすたびに小さな氷片が落ちた。

適当な氷盤を見つけると上陸し、ブリバー・ストーブで温かい食事を作った。

しかし休める時間は短い。

氷が再び動けば、すぐ艇へ戻らなければならない。

航海したのに「30マイル後ろへ戻っていた」

4月12日、ワースリーは太陽を観測し、現在位置を計算した。

乗組員には期待があった。

4月9日に艇へ乗ってから西へ漕ぎ、東風も利用していたため、少なくとも30マイル、楽観的には60マイルほど目的地へ近づいたと考えていた。

結果は逆だった。

観測位置は、
4月9日の出発位置から約30マイル東だった。

人間は西へ漕いでいた。

しかし海水と海氷を動かす潮流は、それ以上の力で艇を東へ運んでいた。

これはPatience Camp時代と同じ問題である。

自分たちの艇が水面に対してどれだけ進んだかと、地球上の位置がどれだけ移動したかは同じではない。

艇の速度 − 逆向きの潮流 = 実際の対地移動

となる。

極端な条件では、何時間漕いでも地図上では後退することがあった。

目的地は、状況によって何度も変わった

4月9日に艇を出した時点で、「最初からElephant Islandだけを目指す」と完全に固定されていたわけではない。

周囲には複数の避難候補があった。

  • Clarence Island
  • Elephant Island
  • Deception Island
  • Hope Bay

どこが最適かは、

  • 現在位置
  • 風向
  • 潮流
  • 海氷の分布
  • 艇の状態
  • 乗員の体力

によって変わる。

4月12日の観測ではDeception Islandへの到達は難しくなっていた。

Elephant Islandは最も近かったが、風向が不利だった。

そこでシャクルトン、ワースリー、ワイルドは、一時南極半島側のHope Bayを目標として検討した。

Hope Bayはその時点で約80マイル。

しかし翌13日、風向とパックアイスの状態が変わる。

Hope Bayへ向かう南側の海氷が閉じた一方、Elephant Island方向には利用できる風が吹き始めた。

そこでシャクルトンは目的地をElephant Islandへ変更した。

4月13日――もう「安全な氷盤を探して泊まる」余裕もなかった

4月13日になると、人間側の状態も悪化していた。

唇はひび割れ、目は塩水で赤くなり、顔や髭には塩と氷が付着していた。

ここからは「安全な場所で休みながら進む」という考えを維持しにくくなる。

できるだけ早く陸地へ着かなければ、低体温、凍傷、疲労、脱水が積み上がる。

シャクルトンは3艇へ物資を再分配した。

理由は、艇が途中で離れた場合に、1隻だけで最低限生存できるようにするためである。

さらに、開けた海へ出た後は艇を軽くする必要があるため、捨てる予定の食料についてはその場でできるだけ食べるよう指示した。

Patience Campで食料を温存していた段階とは逆になった。

今度は重量を減らしながら、乗員へカロリーを移す方が有利になった。

James Cairdが先頭で氷を受けた

Elephant Islandへ進路を定めた3艇は、まだ完全な外洋には出ていなかった。

浮氷を避けながら帆とオールで進む。

各艇の船首には氷を監視する人員を置き、避けきれない氷片は折れたオールなどで押しのけた。

先頭はJames Cairdだった。

そのため、見えにくい氷片との接触も最初に受ける。

実際、鋭い氷によってJames Cairdは水線より上に穴を開けられている。

水線上だったため、ただちに沈没する損傷にはならなかった。

しかし風が強くなれば、艇の速度が上がるほど浮氷への衝突も激しくなる。

そこで帆を縮め、衝突速度を下げる必要もあった。

正午、ついにパックアイスを抜けた

4月13日正午ごろ。

3艇は、長期間自分たちを閉じ込めていたパックアイスの外へ出た。

目の前には開けた南大洋が広がった。

氷に囲まれていた時代は終わった。

しかしこれは「安全な海へ出た」という意味ではない。

遮る氷がなくなれば、南大洋の波を直接受ける。

深く荷物を積んだ救命艇は波をかぶり、水を汲み出し続けなければならない。

夜に3艇が離れれば、再合流できる保証もない。

そこでシャクルトンは、夜間にそのままElephant Islandを目指し続ける提案を退け、一度3艇を連結して漂泊する判断をした。

Dudley Dockerを先頭に、

Dudley Docker

James Caird

Stancomb Wills

という順でロープにつないだ。

オールを使って簡易的なシーアンカーも作った。

速く到着することより、
夜の間に3艇を失わないことを優先した。

氷がなくなると、今度は飲料水を失った

氷に囲まれていた時代には、少なくとも氷そのものは周囲にあった。

燃料さえあれば溶かして水にできる。

外洋へ出ると、その氷がなくなる。

3艇はパックアイスを突然抜けたため、融かすための氷を十分積み込む時間がなかった。

Dudley Dockerに残っていた約10ポンドの氷を、28人で分けた。

小さな氷片を口に入れて渇きを抑える。

しかし冷たい氷を直接口で融かせば、身体の熱も奪われる。

塩水を飲むことはできない。

アザラシ肉を噛んで血液から水分を得ようとすると、塩分でかえって喉が渇いた。

極地で「周囲が水だらけ」なのに脱水するという、直感に反する状況だった。

凍結した海水が艇そのものを重くした

夜、波しぶきは艇へ降り続けた。

気温が低いため、その海水が船首や船尾、帆、ロープ、オールへ凍り付く。

氷が増えれば艇は重くなる。

船首に氷が集中すれば姿勢も変わり、波へ突っ込みやすくなる。

そのため乗組員は夜明けとともに、艇へ付着した氷を削り落とした。

水面に入っていたオールには非常に厚い氷が付き、そのままでは艇内へ戻せないほどだった。

氷上生活を脱出した後も、
氷は別の形で航海性能を奪おうとしていた。

Elephant Islandが見えた――しかし上陸できる場所がない

夜が明けると、Elephant Islandが視界に入った。

島の位置はワースリーが計算していた方位と一致していた。

数日間、潮流とパックアイスの中を蛇行し、夜には漂流していたにもかかわらず、航海士は島を捉えていた。

しかし「島が見える」と「上陸できる」は別問題である。

Elephant Islandの海岸には高い崖と氷河が海まで落ち込み、多くの場所に安全な浜がない。

潮流も速い。

風向と潮流が逆になれば波は短く高くなり、小型艇にとってさらに危険になる。

3艇は島の沿岸を進みながら、上陸可能な場所を探した。

夜の吹雪でDudley Dockerを見失った

島へ近づく段階でも、3艇は完全にはまとまっていられなかった。

ワースリーのDudley Dockerは比較的航走性能が良く、先行して上陸地点を探すことになった。

ところが夜間に雪が強くなり、視界を失う。

James CairdとStancomb Willsから、Dudley Dockerが見えなくなった。

無線はない。

James Cairdではコンパス灯を帆へ当て、光を見せようとした。

Dudley Docker側でも灯りを使って応答していたが、互いには確認できなかった。

しかもDudley Dockerでは艇のコンパスが壊れ、ワースリーは小型のポケットコンパスを使って方向を確認していた。

この夜、3艇のうち1隻を失う可能性は現実的なものになっていた。

108時間近く、ほとんど眠らず艇を維持した

ワースリーの記録では、Elephant Island沿岸へ到達するころまでに、乗組員は約108時間にわたる漕艇、寒さ、波、濡れにさらされていた。

十分な睡眠はほとんど取れていない。

凍傷も増えた。

パーシー・ブラックボロウは特に両足の凍傷が悪化していた。

ワースリー自身も長時間の操舵で身体が固まり、交代時には他の隊員に身体を伸ばしてもらわなければならないほどだったと記録している。

この段階では、
より理想的な上陸地点を探し続ける余力そのものがなくなりつつあった。

4月15日、狭い石浜を見つけた

島沿岸には崖や氷河が続き、艇を上げられる浜がほとんどなかった。

やがてJames CairdとStancomb Willsは、岩礁の間に細い入口を持つ小さな石浜を発見する。

Dudley Dockerも別方向から同じ場所へ接近してきた。

最も小さく取り回しやすいStancomb Willsを先に入れる。

波のタイミングに合わせ、岩礁の切れ目を通過して艇を浜へ乗り上げた。

最初に上陸させる人物として、シャクルトンは遠征隊最年少のパーシー・ブラックボロウを選んだ。

しかしブラックボロウの両足は重度の凍傷になっていた。

艇から降ろされると、その場に座り込んでしまった。

他の隊員がすぐ引き上げる。

その後、調理担当者、燃料、乾燥乳などを先に陸へ上げ、残る2艇を岩礁の間へ誘導した。

James Cairdは重すぎてそのまま浜へ上げられず、一部の物資を外で別艇へ移す必要もあった。

やがて3艇とも浜へ引き上げられた。

497日ぶりの「動かない地面」だった

1914年12月5日、Enduranceがサウスジョージア島を出航して以来、彼らは陸地へ足を付けていなかった。

Enduranceの甲板。

海氷。

救命艇。

そのどれも、海の動きから完全には切り離されていない。

1916年4月15日、28人は約497日ぶりに固い陸地へ立った。

シャクルトンの記録には、隊員が浜の石を拾い、指の間から落としながら喜ぶ様子が残されている。

氷盤と違い、石は割れて流れていかない。

その単純な事実が、彼らにとって大きな意味を持った。

FACT CHECK|Elephant Island到着は4月15日か、4月17日か

ここは資料を読むと混乱しやすい。

1916年4月15日 Elephant Islandへの最初の上陸。シャクルトン自身の『South』とRoyal Geographical Societyの年表はこちらを初上陸日としている。
1916年4月17日 最初の浜を離れ、約7マイル西のより安全な砂礫の岬へ3艇で移動。ここが後のCape Wildとなる。

一部の概説資料では4月17日をElephant Island到着として簡略化しているが、本シリーズでは一次記録に従い、
「4月15日=初上陸」「4月17日=Cape Wildへの移転」
と区別する。

ここで、4月15日の最初の上陸地点と4月17日の移転先が島のどこにあるか、現在のElephant Islandの地理で確認しておく。

Elephant Islandの現在位置。1916年4月15日の最初の上陸は島東端のCape Valentine、4月17日の移転先は現在の公的地名でPoint Wildに当たる。シャクルトンの記録では後者をCape Wildと呼ぶ。現在のGoogle Mapは、4月9日から15日までの海氷、潮流、3隻の実航跡、目的地変更を再現するものではない。


GoogleマップでElephant Islandを大きく見る


Royal Geographical Societyの航跡図でEnduranceからElephant Islandまでを確認する

上陸した場所は、冬を越せる場所ではなかった

4月15日に到達した最初の浜は、とりあえず艇を上げられるという点では重要だった。

しかしシャクルトンは、その日のうちに長期滞在には不適切だと判断している。

海岸のすぐ後ろには崖があり、落石の危険がある。

高潮や東寄りの強風が来れば、波が浜の奥まで到達する可能性もある。

人間だけなら崖へ逃げられる場所があっても、3隻の救命艇を安全な場所まで運べない。

そしてこの救命艇は、まだ「不要になった装備」ではない。

Elephant Islandは無人島であり、救助を呼ぶ手段もないため、今後さらに海へ出る必要がある。

したがって長期キャンプ地には、

  • 高潮から艇を守れる
  • 落石を避けられる
  • 風をある程度避けられる
  • アザラシやペンギンを確保できる
  • 数週間~数か月滞在できる

という条件が必要だった。

ワイルドが7マイル西に、より安全な場所を見つけた

シャクルトンはフランク・ワイルドへ、Stancomb Willsで海岸沿いを偵察するよう命じた。

ワイルドはマーストン、クリーン、ヴィンセント、マッカーシーとともに西へ向かった。

その日の夜、ワイルドは戻ってくる。

約7マイル西に、長さ約200ヤードの砂礫の岬があることを報告した。

完璧な場所ではない。

強風にはさらされる。

それでも最初の狭い浜よりは、救命艇を引き上げ、キャンプを設置する余地がある。

長期間の待機場所としてはこちらの方が有利だった。

4月17日、せっかく得た陸地を離れて再び海へ出た

4月17日朝、天候は一時穏やかだった。

しかし沖には再びパックアイスが接近していた。

氷に海岸を塞がれれば、3艇を移動させる機会を失う。

そこでシャクルトンは、ワイルドが見つけた岬へ移ることを決めた。

ところが艇を浜へ下ろす段階で、ローラーとして使っていたオール3本を折ってしまう。

3艇にとってオールはエンジンそのものだった。

本数が減れば艇同士で使い回さなければならない。

午前11時ごろ、再び3艇は出航した。

島沿岸のわずか7マイルが、最後の難関になった

目的地まで約7マイル。

外洋航海と比べれば短い。

しかし出発後まもなく、島の高い崖からwillywawと呼ばれる突然の強風が吹き下ろした。

風は南から南西へ変わり、艇の正面から吹き付ける。

3本のオールを失っていたことが、ここで大きく影響した。

最も重いJames Cairdには十分な漕ぎ手を残す必要がある。

Dudley DockerとStancomb Willsは不足したオールを交代で使った。

強風と波に押されれば、沿岸の岩壁へ叩き付けられる。

外洋へ離れすぎれば、さらに大きな波を受ける。

3艇は崖の近くを進みながら、岩礁の隙間を抜けた。

Dudley Dockerがまた見えなくなった

強い横風の中で、Dudley Dockerは風下へ押し流された。

James CairdとStancomb Willsは岩礁の内側へ入ることができたが、Dudley Dockerは同じ経路を取れなかった。

シャクルトンからDudley Dockerの姿が消える。

しかしJames Caird自身も強風の中で前進するだけで限界だった。

救援に戻れば、自艇まで岩へ押し付けられる可能性がある。

ここでも、
「助けに行く」ことが必ずしも全体の安全につながらない
状況になった。

午後5時ごろ、James CairdとStancomb Willsはワイルドが見つけた岬へ到着した。

物資を浜へ運び始めてから約30分後、Dudley Dockerも波の中から姿を現し、無事上陸した。

3艇は再び揃った。

ここがCape Wildになった

4月17日に到達した砂礫の岬は、後にCape Wildと呼ばれる。

名前はフランク・ワイルドに由来する。

広い土地ではない。

岩と砂礫が海へ突き出した小さな場所で、周囲には崖、氷河、海がある。

しかし3隻の艇を高潮線より上へ引き上げられる。

岩が多少の風除けになる。

アザラシやペンギンも利用できる。

少なくとも、前の浜よりは長期滞在に適していた。

その夜から28人にとって、Cape Wildが新しい拠点になる。

後にシャクルトンら6人が島を離れた後、残る22人はここで約4か月半、救助を待つことになる。

8日間の艇航海で、何が変わったのか

4月9日にPatience Campを離れた時点で、28人には陸地がなかった。

4月17日には、人間と3艇すべてがCape Wildに到達していた。

その間に起きたことを整理すると、単純な「100マイルのボート航海」ではないことが分かる。

段階 問題 対応
4月9日 Patience Campの氷盤崩壊 3艇を進水
氷海内部 水路が開閉、艇性能に差 曳航し、3艇を維持
4月12日 潮流で実際には東へ後退 目的地を再検討
4月13日 Hope Bay側の氷閉鎖・風向変化 Elephant Islandへ変更
外洋 波、凍結、飲料水不足 艇を連結し、夜間分離を防止
島沿岸 崖と氷河で上陸地点不足 安全な浜を探索
4月15日 最初の浜へ到達 28人全員と3艇を上陸
4月17日 最初の浜が長期滞在に不適 Cape Wildへ移転

この区間でも、最初に決めた計画を最後まで維持してはいない。

目的地を変える。

艇を曳航する。

夜に進むか止まるかを変える。

食料を残す方針から、食べて艇を軽くする方針へ変える。

一度上陸しても、危険なら再び海へ出る。

氷上生活と同じく、
観測された結果に応じて計画を更新し続けている。

なぜElephant Island到達だけでは救助にならなかったのか

4月17日、28人はようやく安定した陸地を確保した。

しかしElephant Islandは無人島である。

捕鯨基地も町も港もない。

通常の船舶航路からも離れている。

Enduranceがどこで失われたかを外部の誰も正確には知らない以上、Cape Wildで待ち続ければ救助船が自然に現れる可能性は低かった。

つまりエレファント島は、

「海で死ぬ危険から逃れられる場所」ではあっても、「文明へ戻れる場所」ではなかった。

次の問題は、外部へ救援要請を届けることになる。

しかし南米方面へ小型艇で向かうには距離が大きく、海況も厳しい。

シャクルトンが選んだのは、約800マイル離れたサウスジョージア島だった。

そこで使用されるのが、3艇のうち最大だったJames Cairdである。

まとめ|海氷を離れたことは「脱出」ではなく、危険の種類が変わっただけだった

1916年4月9日、Patience Campの氷盤が崩壊し始めたことで、28人は3隻の救命艇へ移った。

James Caird、Dudley Docker、Stancomb Wills。

艇には性能差があり、とくに小型のStancomb Willsは単独で他の2艇についていくことが難しかった。

そのため曳航し、速度を合わせ、視界の悪い時間には離れないよう運用した。

航海中は潮流に押し戻され、4月12日の測位では、何日も西へ漕いだはずなのに4月9日の位置から約30マイル東にいた。

候補だったDeception IslandやHope Bayへの航路も再検討し、風と海氷の変化から最終的にElephant Islandを目指した。

4月13日にパックアイスを抜けると、今度は南大洋の波、艇への着氷、睡眠不足、凍傷、そして飲料水不足が問題になる。

やがて島は見えた。

しかし崖と氷河が海まで続き、上陸場所がほとんどない。

4月15日、ようやく狭い石浜を見つけ、28人全員が上陸した。

1914年12月5日以来、約497日ぶりの陸地だった。

それでも最初の浜は冬を越せる場所ではなかった。

ワイルドが西へ約7マイル離れた新しい場所を発見し、4月17日、3艇は再び海へ出る。

強風でDudley Dockerを見失いながらも、夕方までに3艇すべてが新しい岬へ到達した。

ここがCape Wildとなる。

28人はようやく、漂流しない地面と長期キャンプ地を手に入れた。

しかし、救助を呼ぶ手段はまだない。

そこでシャクルトンは、3隻の中からJames Cairdを選ぶ。

艇を改造し、自分を含む6人だけで南大洋へ出る計画だった。

目的地は約800マイル――約1,300km先のサウスジョージア島。

第7回では、なぜこの小さな救命艇で約800マイルを渡ることが可能だったのか。James Cairdの改造、6人の選定、ワースリーの天測航法、17日間の航海を技術面から追う。

今回出てきた言葉

James Caird
Enduranceから持ち出された3隻の救命艇のうち最大の艇。氷海脱出では主要物資を積載し、後に6人でサウスジョージア島を目指す艇となった。
Dudley Docker
フランク・ワースリーが主に指揮した救命艇。Elephant Islandへの航海ではStancomb Willsの曳航や上陸地点探索にも関わった。
Stancomb Wills
3艇のうち最も小型の救命艇。航走性能が低く、他艇から曳航される場面があった一方、最初のElephant Island上陸には取り回しやすさが利用された。
Hope Bay
南極半島北端付近の湾。4月12日時点ではElephant Islandへの風向が不利だったため、一時的な目的地候補となった。
Elephant Island
サウス・シェトランド諸島の東端付近にある無人島。1916年4月15日、28人が約497日ぶりに陸地へ上がった。
Cape Wild
Elephant Island北岸の砂礫の岬。フランク・ワイルドが発見した長期キャンプ候補地で、4月17日から隊の拠点となった。
willywaw
山地や高い沿岸部から急激に吹き下ろす強風。4月17日のCape Wildへの移動でも3艇を苦しめた。
対地移動
水面に対する艇の速度ではなく、地球上の位置としてどれだけ移動したかを見る考え方。逆向きの潮流が強ければ、艇が前へ進んでも実際の位置は後退することがある。

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第5回 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々

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第7回 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海

CASE FILE 28|全記事

  1. シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
  2. シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
  3. なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
  4. エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
  5. 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
  6. 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出【現在の記事】
  7. 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
  8. なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
  9. 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
  10. 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか

出典・参考資料

  • Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
    4月9日のPatience Camp崩壊と進水、3艇の人員配置、氷中航海、4月12日の測位、目的地変更、Elephant Islandへの接近、4月15日の初上陸、4月17日の新キャンプへの移動についての一次資料として使用。
  • Royal Geographical Society — Endurance22 Interactive
    4月9日の救命艇進水、4月15日のElephant Island上陸、EnduranceからElephant Islandへ至る航跡の確認に使用。
  • Royal Geographical Society — Shackleton Endurance Expedition Timeline
    4月15日の初上陸と、その2日後にCape Wildへ移動したという時系列の照合に使用。
  • Royal Museums Greenwich — History of Antarctic Explorers
    Endurance側28人が3隻の救命艇でElephant Islandへ脱出し、その後James Caird航海へ移行した遠征全体の確認に使用。
  • Royal Museums Greenwich — Frank Worsley / Shackleton collections
    Dudley Dockerを指揮したフランク・ワースリーと、後のJames Caird航海につながる航海技術・人物関係の補助確認に使用。

本記事では、シャクルトン本人の『South』を1916年4月9日から17日までの一次記録の中心としています。Elephant Island到着日について資料の表現に差がありますが、『South』およびRoyal Geographical Societyの年表に従い、4月15日を最初の上陸日、4月17日を後にCape Wildと呼ばれる長期キャンプ地への移動日として区別しています。また、目的地についても「最初からElephant Islandだけを目指した」と単純化せず、当時の風向、潮流、海氷の状態によってHope Bayなどが検討された経緯を反映しています。