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ウォーターゲートは何を変えたのか刑事責任・選挙資金・情報公開改革

ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

政治スキャンダル・権力乱用

1974年8月9日、リチャード・ニクソンは大統領職を辞任した。

ウォーターゲート事件を「大統領が辞任して終わった事件」と考えるなら、ここが結末になる。

しかし司法手続は続いた。

元司法長官ジョン・ミッチェル、元大統領首席補佐官H・R・ハルデマン、元大統領補佐官ジョン・アーリックマンらは、ウォーターゲート隠蔽事件の刑事裁判にかけられた。

一方、辞任したニクソン本人についても、司法妨害などで刑事訴追すべきかが特別検察官内部で検討された。

その状況を大きく変えたのが、後任大統領ジェラルド・フォードだった。

1974年9月8日。
フォードはニクソンに対して、大統領在任中に行った、または行った可能性のある連邦犯罪について全面的な恩赦を与えた。

さらに事件後の議会では、選挙資金、政府情報の公開、行政官の倫理、大統領記録、独立した捜査制度などが次々と議論される。

ウォーターゲートが残したものは、一人の大統領の辞任だけではない。


権力者が秘密を持つことそのものではなく、その秘密を誰が、どの制度を使って、どの証拠から検証できるのか。

CASE FILE 31最終回では、刑事責任、ニクソン恩赦、選挙資金改革、情報公開、政府倫理、大統領記録までを整理し、ウォーターゲート事件がアメリカの制度に何を残したのかを確認する。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

    [現在の記事]

先に結論|ウォーターゲート後に何が残ったのか

ウォーターゲート後の変化は、大きく5つに整理できる。

分野 ウォーターゲート後の主な動き
刑事責任 侵入犯だけでなく、ミッチェル、ハルデマン、アーリックマンなど政権中枢の人物も有罪となった
ニクソン本人 刑事訴追の可能性が検討されたが、フォード大統領が1974年9月8日に全面的恩赦を与えた
選挙資金 1974年のFECA改正で寄付・支出規制、開示、Federal Election Commissionなどの制度が強化された
政府情報 1974年のFOIA改正などにより、行政機関の記録へ外部からアクセスする制度が強化された
倫理・記録 1978年Ethics in Government Act、Presidential Records Actなどで、政府高官の倫理・大統領記録をめぐる制度が整備された

ただし、ここには重要な注意点がある。

これらすべてが「ウォーターゲート事件だけを理由に成立した法律」ではない。

選挙資金規制も情報公開も、事件以前から改革運動が存在していた。
ベトナム戦争、ペンタゴン・ペーパーズ、CIA・FBIをめぐる問題、政府への不信など、1970年代には複数の要因が重なっていた。

したがって本記事では、

ウォーターゲートが直接の対象となった制度

と、

ウォーターゲートを含む1970年代の権力監視強化の中で成立した制度

を分けて扱う。

大統領が辞任しても、刑事裁判は続いた

ニクソンが大統領を辞任した1974年8月9日の時点で、ウォーターゲート関連の刑事事件は終わっていなかった。

National Archivesに保存されているWatergate Special Prosecution Forceの記録には、侵入事件だけでなく、

  • ウォーターゲート隠蔽
  • 違法な選挙資金
  • 政治的な「dirty tricks」
  • ホワイトハウス「Plumbers」の活動
  • Daniel Ellsbergの精神科医事務所への侵入

など、複数の捜査班・刑事事件が記録されている。

ウォーターゲートは、1972年6月17日のDNC本部侵入事件だけを処理すれば終わる刑事事件ではなくなっていた。

最初の7人はどうなったのか

DNC本部への侵入事件で最初に起訴されたのは7人だった。

現場で逮捕された5人に、作戦を指揮したG・ゴードン・リディとE・ハワード・ハントを加えた7人である。

ハントと4人の侵入犯は1973年1月の裁判中に有罪を認めた。

リディとジェームズ・マコードは裁判を続け、1月30日に有罪となった。

つまり侵入事件そのものについては、7人全員に有罪が成立した。

しかし、そこからさらに調査を進めた結果、事件は政権中枢へ広がった。

ジョン・ディーンも有罪を認めた

ホワイトハウス法律顧問だったジョン・ディーンは、1973年10月19日、司法妨害の共謀について有罪を認めた。

ディーンは隠蔽に関与した一方で、その後は連邦検察や上院ウォーターゲート委員会へ協力し、ニクソンや側近との会話について証言した人物でもある。

1974年8月2日、ディーンには1年以上4年以下の懲役刑が言い渡された。

その後、捜査・裁判への協力などを踏まえ刑期は短縮され、1975年1月に服役期間を「time served」とする形で釈放された。

ここでも、

「内部告発したので無罪になった」

わけではない。

ディーン自身の隠蔽への関与について刑事責任が問われ、そのうえで捜査協力が量刑へ影響した。

1974年3月1日|政権中枢7人が起訴された

1974年3月1日、連邦大陪審はウォーターゲート隠蔽事件について、ニクソン政権・再選組織の中枢にいた7人を起訴した。

  • John N. Mitchell
  • H. R. Haldeman
  • John D. Ehrlichman
  • Charles W. Colson
  • Robert C. Mardian
  • Kenneth W. Parkinson
  • Gordon Strachan

元司法長官。
大統領首席補佐官。
大統領補佐官。
大統領特別顧問。
再選委員会関係者。

事件発生当初の「5人の侵入犯」から見ると、刑事捜査は明らかに別の段階へ進んでいた。

ニクソン本人も「unindicted co-conspirator」とされた

このときウォーターゲート大陪審は、リチャード・ニクソン自身をunindicted co-conspirator――起訴されていない共謀者として扱った。

National Archivesは、その理由について、特別検察官レオン・ジャウォースキーが「現職大統領は起訴できない」と考え、大統領本人に関する証拠は憲法上の弾劾権限を持つ下院司法委員会が扱うべきだと判断していたためと説明している。

ここで重要なのは、

「起訴されなかった=証拠がなかった」

という意味ではないことである。

現職大統領を刑事起訴できるのかという憲法上の問題があり、当時の特別検察官側は刑事起訴ではなく、証拠を下院の弾劾調査へ送る方法を選んだ。

辞任した瞬間、ニクソンは「一般市民」になった

1974年8月9日、ニクソンが辞任すると状況は変わった。

現職大統領ではなくなったため、

「現職大統領を起訴できるのか」

という問題は少なくともそのままでは存在しなくなった。

Watergate Special Prosecution Force内部では、辞任当日の8月9日付で、ニクソンを司法妨害について刑事訴追すべきかを検討する文書が作成されている。

そこでは、

「十分な証拠があるなら、元大統領も他の市民と同様に法に服する」

という考えと、

大統領辞任、弾劾手続、国家への影響などをどう考慮するかが検討された。

つまり辞任したから自動的に刑事問題が消えたわけではない。

1974年9月8日|フォードがニクソンを全面恩赦

状況を決定的に変えたのは、大統領を引き継いだジェラルド・フォードだった。

1974年9月8日、フォードはPresidential Proclamation 4311を発表した。

内容は、ニクソンに対するfull, free, and absolute pardon――全面的、無条件の大統領恩赦だった。

対象期間は、

1969年1月20日から1974年8月9日まで

である。

つまりニクソンが大統領に就任してから辞任するまでに、

「アメリカ合衆国に対して犯した、または犯した可能性がある、あるいは関与した可能性があるすべての犯罪」

を広く対象とする恩赦だった。

恩赦は「有罪判決」ではない

フォードの恩赦については、意味を慎重に区別する必要がある。

ニクソンはウォーターゲートについて刑事裁判を受け、有罪判決を受けた後に恩赦されたわけではない。

訴追される前に恩赦が与えられた。

したがって、

「恩赦されたから裁判で有罪だったことが確定した」

とは言えない。

逆に、

「有罪判決がないから完全に無実だった」

とも言えない。

刑事裁判による最終的な有罪・無罪判断が行われる前に、恩赦によって対象期間の連邦犯罪について訴追する道が閉じられた、と整理するのが最も正確である。

フォードはなぜ恩赦したのか

フォードは9月8日の声明で、ニクソンをめぐる刑事手続が長期間続けば、国家がウォーターゲート問題から離れられず、政治的対立が続くと説明した。

フォードは、大統領として事件を終結させ、国内の安定を取り戻す必要があると考えた。

しかし恩赦は強い批判も受けた。

大統領を辞任した人物が刑事裁判を受けずに済むことで、

「権力者だけが特別扱いされたのではないか」

という疑問が生まれたからである。

フォードがニクソンから辞任と引き換えに恩赦を約束していたのではないかという疑惑も出た。

フォードは後に下院小委員会へ自ら出席し、ニクソン辞任と恩赦との間に事前の取引は存在しなかったと説明している。

ニクソンはその後も大陪審で証言した

恩赦によってニクソン自身の刑事訴追問題が終わっても、他のウォーターゲート捜査は続いた。

National Archivesによれば、Watergate Special Prosecution Forceは1975年、元大統領ニクソンから事情を聴く必要があると判断した。

1975年6月23日と24日、ニクソンはカリフォルニアで宣誓証言を行った。

その証言記録は長く非公開だったが、現在はNational Archivesによって公開されている。

つまり恩赦は、

「ウォーターゲートについて二度と質問されない」

ことを意味したわけではない。

ニクソン自身への刑事処罰を行う道と、他の事件・人物を捜査するために証言を求めることは別だった。

ミッチェル、ハルデマン、アーリックマンの裁判

ウォーターゲート隠蔽事件の中心的な刑事裁判は、ニクソン辞任後も続いた。

National ArchivesにはUnited States v. Mitchell et al.として、その捜査記録、証人資料、裁判記録、録音テープの書き起こしなどが保存されている。

1975年1月1日、陪審は主要被告について評決を出した。

特に重要なのが、

  • 元司法長官 John N. Mitchell
  • 元大統領首席補佐官 H. R. Haldeman
  • 元大統領補佐官 John D. Ehrlichman

の3人である。

3人はいずれもウォーターゲート隠蔽に関連する罪で有罪となった。

後に実刑判決を受け、服役している。

フォード大統領図書館のウォーターゲート資料では、ハルデマンとアーリックマンはいずれも約18か月、ミッチェルは約19か月服役したと整理されている。

全員が同じ結果になったわけではない

一方、隠蔽事件で起訴された人物全員が同じ結末を迎えたわけではない。

Kenneth Parkinsonは陪審で無罪となった。

Robert Mardianも一度は有罪評決を受けたが、その後控訴審で有罪判決が破棄された。

Gordon Strachanについては裁判が分離され、最終的に起訴が取り下げられた。

Charles Colsonは別の事件に関連する司法妨害について有罪を認め、ウォーターゲート隠蔽事件の起訴はその後取り下げられた。

この違いは重要である。

「ニクソン政権関係者は全員有罪になった」

という説明は正確ではない。

人物ごとに起訴内容、答弁、裁判結果、控訴結果は異なっている。

事件の刑事責任はどこまで広がったのか

ウォーターゲート特別検察官の捜査対象は非常に広かった。

侵入事件だけでなく、違法な選挙献金、政治工作、Plumbers、政府機関の利用など多くの事件が捜査された。

そのため「ウォーターゲートで何人が有罪になったか」は、どこまでをウォーターゲート関連事件に含めるかによって数字が変わる。

本記事では一つの数字へ単純化しない。

確実に言えるのは、刑事責任が現場の侵入犯だけに留まらず、司法長官経験者、大統領首席補佐官、大統領補佐官、再選組織幹部など政権中枢へ到達したことである。

ウォーターゲート委員会は制度改革を勧告した

上院ウォーターゲート委員会は、証人を呼んで事件を解明するだけの組織ではなかった。

1974年6月27日に提出した最終報告では、事件で明らかになった制度上の問題を踏まえ、立法改革も提案した。

米上院の公式史では、主な勧告を次の3分野に整理している。

  • 選挙活動・選挙献金の規制
  • 常設的な特別検察官制度
  • 議会が行政部門との法的争いに対応するための恒久的な法律機能

すべてがそのまま法律になったわけではない。

しかし、事件後の制度改革を考える出発点の一つになった。

1974年|選挙資金規制が大幅に強化された

ウォーターゲートでは、侵入工作だけでなく、選挙資金の集め方・管理方法そのものが重大な問題になった。

第3回で扱ったように、大統領再選運動へ提供された資金の一部が侵入犯側へ流れていた。

さらに特別検察官は、企業からの違法献金など選挙資金に関する多数の事件も捜査した。

選挙資金規制自体はウォーターゲート以前から存在している。
1971年にはすでにFederal Election Campaign Actが成立していた。

しかしFECの公式史は、1972年大統領選挙で深刻な資金上の不正が報告されたことを受け、議会が1974年にFECAを大幅改正したと説明している。

1974年FECA改正で何が変わったのか

Federal Election Campaign Act Amendments of 1974では、

  • 連邦選挙候補者への献金上限
  • 政党や政治委員会などへの規制
  • 選挙資金の記録・報告制度
  • 選挙運動支出への制限
  • 大統領選挙の公的資金制度
  • Federal Election Commissionの設置

などが整備・強化された。

特に大きかったのがFederal Election Commission――FECの設立である。

それ以前も選挙資金法は存在したが、FEC公式史によれば、規制を一元的に執行する中央機関が存在せず、執行が困難だった。

1974年改正によって、独立した連邦機関としてFECが設置され、1975年に活動を開始した。

ただし1974年の規制がそのまま現在まで残ったわけではない

1974年改正には、候補者や政治団体の「支出」を制限する規定も含まれていた。

しかし1976年、連邦最高裁判所はBuckley v. Valeoで、その多くを憲法上認められないと判断した。

最高裁は、

  • 候補者への献金上限
  • 選挙資金の開示・記録制度
  • 大統領選挙の公的資金制度

などは基本的に認めた。

一方、

  • 候補者自身の選挙支出上限
  • 独立支出への上限
  • 候補者自身の資金使用制限

などは表現の自由を不当に制限するとして退けた。

また、当初のFEC委員任命方式にも憲法上の問題があると判断された。

そのため1976年にはFECAが再び改正され、現在につながる制度へ修正されている。

「ウォーターゲート後、政治献金と選挙支出を厳しく規制した制度がそのまま定着した」

という説明では不十分である。

事件後に強い規制が導入され、その一部を最高裁が憲法上修正しながら現在の選挙資金制度が形成された。

1974年|FOIAも強化された

政府情報へのアクセスという点でも、1970年代半ばは重要な転換期だった。

Freedom of Information Act――FOIAは1966年に成立している。

したがって、ウォーターゲートを受けて初めて情報公開制度が作られたわけではない。

しかし1974年、議会はFOIAを大幅に改正した。

米司法省が整理する1974年改正には、

  • 行政機関の回答期限
  • 拒否理由の明確化
  • 裁判所による文書の非公開審査
  • 勝訴した請求者への弁護士費用
  • 法執行記録に関する適用除外の見直し
  • 公開可能部分を分離して開示する仕組み

などが含まれた。

フォード大統領は一度この改正法案へ拒否権を行使したが、議会が拒否権を覆し、1974年11月21日に改正法が成立した。

FOIA改正を「ウォーターゲート法」と呼べるのか

ここは因果関係を慎重に扱う必要がある。

FOIA改革にはウォーターゲートだけでなく、政府秘密、ベトナム戦争、情報機関、行政機関の非公開性をめぐる長年の議論があった。

したがって、

「ウォーターゲート事件が起きたのでFOIAが作られた」

という説明は誤りである。

一方、米上院のウォーターゲート公式史は、事件後の議会が行政部門への監視能力を強める改革の一つとして1974年FOIA改正を位置づけている。

つまり、

ウォーターゲートを含む1970年代の政府不信と監視強化の流れの中でFOIAが大幅強化された

と整理するのが妥当である。

1978年|Ethics in Government Act

ウォーターゲートから数年後の1978年、議会はEthics in Government Actを成立させた。

この法律では、政府高官の倫理・利益相反を監視する制度が大きく整備された。

Office of Government Ethicsの公式史によれば、1978年10月26日の法律成立によってOGEが設置され、高官の財務情報開示制度や行政部門の倫理政策を統一的に扱う仕組みが作られた。

上院のウォーターゲート公式史も、この法律をウォーターゲート後の改革の一つとして位置づけている。

主な内容には、

  • 行政・司法部門高官の財務情報開示
  • 利益相反を監督する政府倫理制度
  • Office of Government Ethicsの設置
  • 一定の場合に特別検察官を任命する仕組み

などがあった。

「大統領を捜査する検察官」をどう独立させるか

ウォーターゲートで制度上もっとも難しかった問題の一つが、特別検察官だった。

大統領は行政部門の長である。

司法省も行政部門に属する。

では、

行政部門の最高責任者である大統領自身を、行政部門内部の検察官がどう独立して捜査するのか。

アーチボルド・コックスは大統領録音を要求し、ニクソンの命令によって解任された。

「土曜夜の虐殺」は、通常の司法省組織だけでは政治的独立性に疑問が生じることを示した。

1978年Ethics in Government Actでは、一定の高官に対する捜査について特別検察官を任命する仕組みが法律化された。

後に名称はIndependent Counselへ変わり、制度は1999年に失効する。

したがって、ウォーターゲート後に作られた独立検察制度が、そのまま現在まで同じ形で存続しているわけではない。

ニクソンの録音テープは誰のものなのか

ウォーターゲートが残したもう一つの重要な問題が、大統領記録だった。

現在では、大統領が職務として作成した記録は国家の公的記録として管理される。

しかしニクソン辞任当時、大統領文書をめぐる制度は現在とは異なっていた。

歴代大統領の文書は、伝統的に大統領本人の私有財産として扱われる部分が大きかった。

では、ニクソンの録音テープやホワイトハウス文書は辞任後、本人が持ち出したり処分したりできるのか。

ウォーターゲートの証拠となった資料だけに、これは非常に重大な問題だった。

1974年|ニクソン資料だけを対象にした特別法

議会は1974年、Presidential Recordings and Materials Preservation Actを成立させた。

この法律は一般の歴代大統領を対象にしたものではなく、ニクソン大統領資料を特別に扱う法律だった。

National Archivesによれば、

  • 政府権力の濫用
  • ウォーターゲート
  • 大統領とホワイトハウス職員の憲法・法律上の職務

に関係する録音・資料をNational Archivesが保存し、処理し、公開へ向けて管理することが定められた。

ニクソン個人の純粋に私的な資料については分離して返却する仕組みも設けられた。

これは、ウォーターゲートそのものを対象にした直接的な制度対応の一つである。

1978年|Presidential Records Act

その後1978年には、より一般的なPresidential Records Actが成立した。

National Archivesによれば、この法律は大統領・副大統領の公的記録について、

法的所有権を個人から公的所有へ変更した

ことが最大の特徴である。

大統領が退任すると、公的な大統領記録はNational Archivesの管理へ移る。

一定期間後にはFOIAなどを通じて国民がアクセスできる制度も設けられた。

法律の適用は1981年1月20日以降に作成・受領された大統領記録、つまりレーガン政権以降である。

ニクソン資料そのものは、先ほどの1974年特別法によって別に扱われる。

「大統領の記録」が歴史資料から証拠へ変わった

ウォーターゲートでは、大統領記録が単なる歴史資料ではなかった。

6月23日のSmoking Gun Tapeは刑事捜査と弾劾判断に直結した。

3月21日の「Cancer on the Presidency」会話は、ジョン・ディーンの証言を検証する資料になった。

つまり大統領の記録には、

  • 歴史を保存する価値
  • 政策決定を検証する価値
  • 刑事事件の証拠としての価値
  • 議会が大統領権限を監視するための価値

が存在する。

ウォーターゲート後の記録制度を見ると、「大統領の文書を誰が所有し、誰が保存し、いつ国民がアクセスできるのか」が民主的統治の一部になったことが分かる。

ウォーターゲートは議会の監視も変えた

米上院の公式史は、ウォーターゲート後の改革について、選挙資金や政府倫理だけでなく、議会による行政監視能力の強化も挙げている。

上院ウォーターゲート委員会では、

  • 証人召喚
  • 文書提出要求
  • 公開公聴会
  • 政権高官への証言要求

が使われた。

一方で大統領側が行政特権を主張すれば、議会と行政の法的対立を誰が扱うのかという問題も浮上した。

事件後、議会は行政部門を監視するための法的・制度的能力を拡大していく。

ウォーターゲートは、「議会調査とは政治家が質問する場」というだけではなく、行政権をチェックする憲法上の機能であることを強く示した事件でもあった。

「-gate」がスキャンダルを意味する言葉になった

制度とは別に、ウォーターゲートは言葉にも痕跡を残した。

Watergateの「gate」は、本来スキャンダルを意味する言葉ではない。

事件現場だったWatergate Complexという建物名の一部である。

しかし事件の影響があまりにも大きかったため、その後は政治・企業・スポーツなどのスキャンダルへ「-gate」を付ける表現が世界中で使われるようになった。

この使い方は、ウォーターゲート事件が一つの固有事件名を超え、

「権力や組織が隠そうとした不正が明るみに出る事件」

の代名詞になったことを示している。

一方で「ウォーターゲート後は権力濫用が防げるようになった」わけではない

制度改革が行われたからといって、政府の不正や権力濫用がなくなったわけではない。

選挙資金法はその後も繰り返し改正され、最高裁判決によって制度の範囲も変わった。

独立検察制度も永続しなかった。

行政特権と議会の調査権をめぐる対立も、その後何度も起きている。

情報公開制度にも多数の例外が存在する。

したがってウォーターゲートを、

「事件を教訓にアメリカが制度を完成させた」

という成功物語だけで終わらせることはできない。

より重要なのは、

制度による監視には常に権限の境界、例外、政治的対立が存在し、それでも証拠を検証できる経路を残す必要がある

という点である。

FACT CHECK|ウォーターゲート後について誤解しやすいこと

ニクソンはウォーターゲート事件で有罪判決を受けた?

いいえ。

大陪審はニクソンを起訴されていない共謀者として扱い、辞任後には特別検察官内部で刑事訴追が検討された。

しかし1974年9月8日にフォード大統領が全面的恩赦を与えたため、対象期間の連邦犯罪についてニクソン本人の刑事裁判は行われなかった。

恩赦は裁判所による「無罪判決」?

いいえ。

大統領恩赦は司法による無罪判決ではない。
ニクソンについては、刑事裁判による最終的な事実認定が行われる前に、連邦犯罪について訴追する道が閉じられた。

ウォーターゲート関係者は全員有罪になった?

いいえ。

ミッチェル、ハルデマン、アーリックマンらは有罪となったが、Kenneth Parkinsonは無罪となり、Robert Mardianの有罪判決は控訴審で破棄され、Gordon Strachanの起訴も最終的に取り下げられた。

ウォーターゲート事件でFOIAが初めて作られた?

いいえ。

FOIAは1966年成立である。
1974年、ウォーターゲートを含む政府への不信と行政監視強化の流れの中で、大幅な改正が行われた。

1974年の選挙資金規制は現在もそのまま?

いいえ。

1976年のBuckley v. Valeoで、最高裁は献金上限や情報開示制度などを認める一方、多くの選挙支出上限を違憲とした。
その後FECAも再改正された。

Presidential Records Actはニクソンのテープに直接適用された?

いいえ。

ニクソン資料には1974年のPresidential Recordings and Materials Preservation Actという特別法が適用される。

1978年のPresidential Records Actは、1981年1月20日以降に作成・受領された大統領記録を対象とする一般制度である。

ウォーターゲート後、常設の独立検察制度が現在まで残った?

いいえ。

1978年Ethics in Government Actで設けられた特別検察官・Independent Counsel制度は、その後改正を重ね、1999年に法定制度として失効した。

時系列|辞任後から制度改革まで

日付 出来事
1974年8月9日 ニクソンが大統領を辞任
同日 Watergate Special Prosecution Force内部で元大統領を刑事訴追すべきか検討
9月8日 フォード大統領がニクソンへ全面的恩赦を付与
10月15日 Federal Election Campaign Act Amendments of 1974成立
11月21日 議会が大統領拒否権を覆し、FOIA改正成立
12月 Presidential Recordings and Materials Preservation Act成立。ニクソン資料の保存制度を整備
1975年1月1日 ウォーターゲート隠蔽裁判でミッチェル、ハルデマン、アーリックマンらに有罪評決
1975年 Federal Election Commissionが本格的に活動開始
1975年6月23~24日 元大統領ニクソンがWatergate Special Prosecution Forceのため宣誓証言
1976年1月30日 Buckley v. Valeoで最高裁が1974年選挙資金規制の一部を違憲と判断
1978年10月26日 Ethics in Government Act成立
1978年 Presidential Records Act成立

結局、ウォーターゲートは何によって暴かれたのか

CASE FILE 31を最初から振り返ると、一つの機関だけが事件を解決したわけではない。

警備員フランク・ウィルズがドアの異変を見つけた。

警察が5人を逮捕した。

FBIが人物と資金を追った。

新聞記者が事件を継続して報じた。

シリカ判事が「7人だけで事件は終わっていない」と疑った。

マコードが沈黙を破った。

ジョン・ディーンがホワイトハウス内部の隠蔽を証言した。

上院委員会が公開公聴会を行った。

バターフィールドが録音システムの存在を明らかにした。

特別検察官がテープを召喚した。

裁判所が大統領側の主張を審査した。

最高裁がテープ提出を命じた。

下院司法委員会が弾劾条項を採択した。

そして大統領自身の録音が、大統領自身の説明を崩した。

ウォーターゲートの特徴は、

一人の英雄が真相を暴いたことではなく、別々の目的を持つ制度が証拠を受け渡しながら、隠蔽できる範囲を少しずつ狭めたこと

にある。

「制度が機能した事件」とだけ評価してよいのか

ウォーターゲートはしばしば、

「最終的にアメリカの民主制度が機能した証拠」

として語られる。

確かに、警察、FBI、裁判所、議会、特別検察官、最高裁、報道機関などがそれぞれ役割を果たし、現職大統領の行動まで調査対象になった。

しかし事件が発覚してから大統領辞任まで約2年2か月かかっている。

その間、

  • FBI捜査への介入
  • 被告への秘密資金
  • 偽証
  • 証拠提出拒否
  • 特別検察官解任

など、調査を止めようとする行為も繰り返された。

制度は自動的に機能したわけではない。

各段階で人間が証拠を残し、要求し、拒否し、争い、裁判所へ持ち込み、公開する判断をした結果として機能した。

ウォーターゲートが残した最も大きな問い

1972年6月17日の侵入現場から1978年の制度改革までを追うと、一つの共通した問いが残る。

「権力者が情報を持っているとき、その権力者自身が情報を隠すかどうかを最終決定してよいのか」

という問題である。

FBIが資金を追えば、CIAを理由に止めようとする。

上院が証言を求めれば、行政特権が問題になる。

特別検察官がテープを求めれば、解任問題になる。

最高裁が提出を命じれば、大統領は従わなければならない。

大統領が辞任すれば、その記録を誰が所有するのかが問題になる。

だからウォーターゲート後の制度改革には、

  • 金の流れを公開する
  • 行政情報へアクセスする
  • 政府高官の財務情報を公開する
  • 大統領記録を公的に保存する
  • 政権中枢を捜査する仕組みを作る

という共通した方向が見える。

権力をなくすのではなく、権力の外側に検証経路を置く。

ウォーターゲートが制度史に残した最大の意味は、そこにある。

まとめ|5人の侵入から、制度を変える事件へ

ウォーターゲート事件は、1972年6月17日、民主党全国委員会本部で5人が逮捕されたところから始まった。

そこからFBIが資金を追い、侵入犯とニクソン再選組織との関係が浮かび上がった。

ホワイトハウス内部では、CIAを使ったFBI捜査への介入、被告への秘密資金、事件を封じ込めるための隠蔽が進んだ。

裁判でマコードが沈黙を破り、上院公聴会でジョン・ディーンが証言し、バターフィールドによって秘密録音システムの存在が明らかになった。

テープをめぐる争いは「土曜夜の虐殺」を引き起こし、United States v. Nixonで最高裁まで到達した。

そして1974年8月5日、事件発生6日後のSmoking Gun Tapeが公開される。

ニクソンの議会支持は崩れ、8月9日に大統領職を辞任した。

しかし、それが事件の終わりではなかった。

ミッチェル、ハルデマン、アーリックマンらは刑事裁判で有罪となった。

ニクソン本人は刑事訴追の可能性を残したまま、9月8日にフォードから全面的恩赦を受けた。

その後、選挙資金規制、情報公開、政府倫理、特別検察官、大統領記録をめぐる制度が見直された。

すべての改革をウォーターゲートだけの結果と考えることはできない。

それでも事件が示した問題は共通している。

秘密の政治資金。
秘密の政治工作。
秘密の録音。
秘密の口止め料。
秘密にしようとした捜査妨害。

その秘密を崩したのもまた、

銀行記録、裁判記録、議会証言、召喚状、録音テープという記録だった。

ウォーターゲート事件は「大統領が辞任したスキャンダル」としてだけではなく、

権力の内部で起きたことを、権力の外側からどこまで証拠で検証できるのかを試した事件

として見ると、その全体像が最も理解しやすい。

1972年6月17日の小さなドアのテープから始まった事件は、最終的に大統領職、司法、議会、選挙制度、情報公開、政府記録のあり方まで問い直すことになった。

それが、ウォーターゲート事件が半世紀を過ぎても政治スキャンダルの基準点として残り続けている理由である。

前の記事:

第9回|「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

シリーズ最初から:

第1回|ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

    [現在の記事]

出典・参考資料

本記事はNational Archives、Watergate Special Prosecution Force、Gerald R. Ford Presidential Library、U.S. Senate、Federal Election Commission、U.S. Department of Justice、U.S. Office of Government Ethicsなどの公的資料を中心に構成しています。事件後に成立・改正された制度については、ウォーターゲートだけを単一の原因とせず、事件を直接対象とした制度対応と、1970年代の広い行政監視・政府倫理改革の流れを区別しています。ニクソンについては刑事裁判による有罪判決はなく、辞任後に訴追が検討されたものの、1974年9月8日のフォード大統領による全面的恩赦によって対象期間の連邦犯罪を訴追する道が閉じられたものとして整理しています。