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5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

政治スキャンダル・権力乱用

1972年6月17日、民主党全国委員会本部で5人の男が逮捕された。
警察が捕まえたのは、バーナード・バーカー、ヴァージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルティネス、ジェームズ・マコード、フランク・スタージスだった。

この段階で最大の疑問は、「彼らは誰のためにDNC本部へ入ったのか」だった。
5人の中には元CIA関係者や反カストロ活動に関わった人物が含まれていたが、それだけならホワイトハウスとの関係を証明するものにはならない。

ところが、逮捕者の一人ジェームズ・マコードには、もっと直接的な肩書きがあった。
彼はリチャード・ニクソン大統領を再選させるための組織「Committee for the Re-Election of the President」の警備担当者だった。

そしてFBIが現金、小切手、銀行口座を追うと、侵入犯の手元にあった資金の一部が大統領再選運動へとつながっていった。
ウォーターゲート事件でしばしば使われる「Follow the money――金を追え」というイメージは、単なる映画的な表現ではない。
実際の捜査でも、資金経路は事件の背後にある組織を解明する重要な入口になった。

今回は、5人の侵入犯からFBIがどのようにニクソン再選委員会へ近づいたのかを追う。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

    [現在の記事]

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

逮捕された瞬間から、再選委員会への接点があった

ウォーターゲート事件では、FBIが何か月も捜査した末に初めてニクソン陣営との関係を発見したわけではない。
侵入犯が逮捕された当日の段階から、大統領再選組織へつながる人物が含まれていた。

FBIの公式記録によれば、1972年6月17日、FBI長官代行L・パトリック・グレイには、ウォーターゲートで5人が逮捕され、その一人が「Committee to Re-Elect the President」の警備担当者であることがテレタイプで報告された。
その人物がジェームズ・W・マコード・ジュニアだった。

マコードは元FBI職員であり、その後CIAでも勤務した経歴を持つ。
1971年秋ごろからニクソン再選組織に関わり、FBIの捜査記録では1972年初めから常勤のStaff Security Officerとして勤務していたことが確認されている。

つまり、「再選委員会との関係」は後から推測で加えられたものではない。
現場で逮捕された5人の身元を確認した時点で、大統領選挙運動につながる線が存在していた。

Committee for the Re-Election of the Presidentとは何だったのか

Committee for the Re-Election of the Presidentは、1972年大統領選挙で共和党の現職大統領リチャード・ニクソンを再選させるために組織された選挙運動組織である。
資料ではCRPなどと略される。

ウォーターゲート関連の記事や書籍では、しばしば「CREEP」という呼称も登場する。
これは公式な組織名ではなく、Committee for the Re-Election of the Presidentを皮肉的に略した呼び方である。
本記事では、正式な組織を指す場合は「ニクソン再選委員会」または「CRP」とする。

再選委員会には通常の選挙活動だけでなく、資金調達、広報、世論調査、警備など多くの機能が存在した。
また、資金面ではFinance Committee to Re-elect the Presidentが選挙運動に関係する支出を扱っていた。

ここで注意したいのは、「再選委員会の人物が事件に関係していた」という事実と、「再選委員会にいたすべての人物が侵入計画を知っていた」という主張はまったく別だということである。

捜査で必要だったのは、組織名だけから責任を推定することではない。
誰が誰へ指示し、どの資金がどこへ動き、誰がその支出を承認したのかを具体的に追跡することだった。

侵入犯は3,500ドルを超える現金を持っていた

米上院のウォーターゲート委員会に関する公式史では、逮捕された侵入犯は3,500ドルを超える現金と、高度な監視・電子機器を所持していたと記録されている。

現金を持っていたこと自体は、それだけで犯罪組織や政治組織との関係を示す証拠にはならない。
重要なのは、紙幣には銀行を通過した履歴をたどれる場合があり、その資金がどの口座・小切手から現金化されたものなのかを調べられることである。

FBIは侵入犯の所持金や銀行記録を調べ始めた。
この過程で、捜査線はワシントンD.C.からフロリダ州マイアミの銀行へ伸びていく。

FBIは現金をマイアミの銀行へ遡った

National Archivesに残るウォーターゲート展示資料の検証記録では、FBIは侵入犯が持っていた新しい100ドル紙幣を、バーナード・バーカーが複数の小切手を換金していたマイアミの銀行へ遡ったと整理されている。

バーカーは6月17日にDNC本部内で逮捕された5人の一人である。
キューバ生まれの米国人で、CIAとの関係を持った経歴があり、E・ハワード・ハントのもとで活動していた。

National Archivesの記録では、バーカーが換金した小切手は5枚、合計約11万4,000ドルに達していた。
そして、この小切手類はG・ゴードン・リディからバーカーへ渡された資金だったとされる。

リディは大統領再選組織に関係し、ウォーターゲート侵入工作を計画する側にいた人物である。

ここで捜査は一段階進んだ。
「侵入犯の一人が再選委員会の警備担当だった」という人的な接点だけでなく、侵入グループに流れた資金についても再選運動側へたどれる可能性が出てきたのである。

2万5,000ドルの「Dahlberg Check」

資金追跡の中で象徴的な証拠となったのが、2万5,000ドルの小切手だった。
後に「Dahlberg Check」と呼ばれることになる。

この資金の経路は少し複雑なので、「ある支援者が侵入犯へ直接2万5,000ドルを渡した」と単純化すると正確ではない。

National Archivesによる資料検証では、実業家ドウェイン・アンドレアスが選挙資金として2万5,000ドルを現金で提供し、ニクソン陣営の資金調達担当者ケネス・ダールバーグが、それを2万5,000ドルの銀行小切手へ換えたと整理されている。

その小切手が最終的にバーナード・バーカーの銀行口座へ入った。

段階 資金の流れ
1 ドウェイン・アンドレアスが2万5,000ドルを選挙資金として提供
2 再選陣営の資金調達担当ケネス・ダールバーグが銀行小切手へ換える
3 小切手がウォーターゲート侵入犯バーナード・バーカー側へ流れる
4 FBIが銀行記録から資金経路を追跡する

この経路が重要なのは、「金が大統領再選運動の世界から侵入グループへ移動していた」という具体的な接点を示したからである。

もちろん、この小切手だけでニクソン本人が侵入を命令したことを証明できるわけではない。
また、元の寄付者がウォーターゲート侵入のために資金を出したことを意味するものでもない。

証明できたのは、もっと限定的だが重要な事実だった。
選挙運動に提供された資金の一部が、侵入犯側の銀行取引へ入り込んでいたのである。

なぜ「金の流れ」が危険だったのか

選挙運動では、多数の人物・企業・支援者から資金が集まり、さまざまな活動に支出される。
したがって「再選運動の資金が存在した」というだけでは犯罪にはならない。

問題は、民主党本部への秘密侵入・盗聴という違法活動を行った人物の口座へ、再選陣営から来たと確認できる資金が流れ込んでいたことだった。

人物同士の関係なら、「知人だった」「仕事で面識があった」と説明する余地がある。
しかし銀行小切手には、金額、発行者、銀行、口座、裏書などの記録が残る。

そのため資金追跡は、「誰と誰が知り合いだったか」という曖昧な関係図を、金融記録によって検証可能な経路へ変えることができる。

ウォーターゲートでは、この違いが大きかった。
侵入犯の身元から再選委員会へつながり、さらに金銭記録からも同じ方向へ線が伸びていったからである。

事件発生6日後、ホワイトハウスも「資金追跡」を問題にしていた

FBIによる資金追跡がどれほど重要だったのかは、後に公開されたホワイトハウス録音からも確認できる。

1972年6月23日、事件発生からわずか6日後、ニクソン大統領と首席補佐官H・R・ハルデマンは大統領執務室でウォーターゲート捜査について話していた。

ニクソン大統領図書館が公開する録音記録では、ハルデマンがFBIの捜査について説明する中で、捜査側が資金を追跡しており、「Ken Dahlberg」という名前まで到達していることをニクソンへ伝えている。

会話では、2万5,000ドルの小切手がバーカーへ入ったことも話題になった。

この点は重要である。
資金追跡は、後年になって歴史家が見つけた周辺的な事実ではない。
事件発生から1週間も経たない時点で、ホワイトハウス内部が警戒する捜査線の一つになっていた。

そして同じ6月23日の会話では、FBIの資金追跡へCIAを介して働きかける案が話し合われた。
この問題は、次回扱う「捜査妨害・隠蔽」の中心へつながっていく。

FBIの捜査は一つの部署だけで完結しなかった

ウォーターゲート捜査は、ワシントンD.C.の侵入現場だけを調べれば終わる事件ではなかった。
銀行記録、電話、人物関係、選挙資金などを追うため、捜査は各地へ広がった。

FBIの公式史では、最終的にほぼすべてのFBI地方局がウォーターゲート事件に何らかの形で関与したとされる。
特別検察官からの依頼に基づくだけでも、FBIは約2,600件の聴取を実施したという。

FBI研究所や指紋部門も捜査を支援した。

もちろん、これは6月17日直後に2,600件の聴取を行ったという意味ではない。
事件が特別検察官、上院調査、関連刑事事件へ拡大していく中で、捜査量がそこまで膨らんだということである。

ウォーターゲートを「新聞社が一つのスクープを追った事件」と理解するだけでは、この巨大な捜査構造が抜け落ちる。

ワシントン・ポストは何をしたのか

一方で、報道が重要でなかったわけでもない。
ワシントン・ポストの若い記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインは、事件直後から侵入犯とニクソン陣営の関係を追った。

米上院の公式史も、両記者の継続的な報道がニクソン再選陣営と侵入犯の関係について疑問を提起し、事件への注目を維持したことを記録している。

1972年8月には、2万5,000ドルの選挙資金がケネス・ダールバーグを経由して侵入犯側へ流れていたことも報じられた。

ただし、ここでも「記者がゼロから銀行記録をすべて発見し、事件を解決した」と考えるのは正確ではない。
FBIと連邦検察は並行して同じ事件を捜査していた。
報道側には捜査機関内部から情報が流れていたことも後に明らかになっている。

「Deep Throat」は誰だったのか

ウッドワードとバーンスタインの秘密情報源として後に有名になったのが、「Deep Throat」と呼ばれた人物である。

その正体は長く公表されなかったが、2005年に元FBI副長官W・マーク・フェルトが、自分がDeep Throatだったことを明らかにした。
FBIも現在、フェルトをその人物として公式史で紹介している。

フェルトはFBI内部でも上位に位置する人物だったため、捜査状況へ接することができた。
FBI公式史では、彼がウォーターゲート捜査に関する情報を報道機関へ漏らしていたことも明記されている。

ただし、Deep Throatを「ウォーターゲートのすべてを記者に教えた人物」と理解するのも行き過ぎである。

事件解明には、現場捜査、銀行記録、連邦大陪審、刑事裁判、上院委員会、特別検察官、ホワイトハウス録音、最高裁判所など、互いに異なる経路が関わっている。

フェルトからの情報はその一部であり、事件全体の証拠そのものではなかった。

捜査と報道は「同じ仕事」ではない

ウォーターゲート事件を扱った映画『大統領の陰謀(All the President’s Men)』の影響もあり、事件はウッドワードとバーンスタインの調査報道を中心に記憶されやすい。

しかし、報道機関とFBIには役割の違いがある。

主体 主な役割
警察・FBI 現場、人物、銀行記録、証拠、関係者の捜査
連邦検察・大陪審 刑事責任を立証するための証拠収集・起訴
報道機関 独自取材を通じて事件を公共の問題として継続的に報道
上院委員会 選挙運動・政治工作・隠蔽を議会権限で調査
特別検察官 政権中枢を含む刑事捜査を独立性の高い立場から進める

これらは競合する場合もあれば、情報が一方から他方へ流れる場合もあった。

ウォーターゲート事件の特徴は、一人の探偵や一つの新聞社が真相を見つけたことではない。
複数の制度・組織が異なる目的で同じ事件へ入り込み、それぞれの記録が後に重なったことにある。

誰が誰につながっていたのか

第2回までに登場した人物関係を、ここで一度整理しておく。

人物 関係 この段階で重要な理由
James McCord 侵入犯/ニクソン再選委員会の警備担当 逮捕現場から再選組織へ直接つながる人物
Bernard Barker 侵入犯 再選運動由来の資金が入った銀行口座の名義人
G. Gordon Liddy 再選陣営に関係/侵入工作を計画する側 侵入グループと再選陣営を結ぶ重要人物
E. Howard Hunt 元CIA職員/工作を指揮する側 バーカーら実行グループとの接点
Kenneth Dahlberg ニクソン陣営の資金調達担当 2万5,000ドルの小切手を通じて資金追跡に登場

こうして見ると、5人の逮捕者からホワイトハウスへ一直線に線が引かれたわけではないことが分かる。

最初に見えたのは再選委員会だった。
そこからリディ、ハント、資金調達担当者、銀行口座と、一段ずつ外側へ関係が広がっていった。

FACT CHECK|「Follow the money」は実際にDeep Throatが言った?

「Follow the money」という言葉はウォーターゲート捜査の実際の有名発言?

注意が必要である。
「Follow the money」という言葉はウォーターゲート事件を象徴する表現として非常に有名だが、Deep Throatが実際にウッドワードへこの言葉を発したことを示す同時代の記録は確認されていない。

この表現が広く定着した大きな理由は、1976年公開の映画『All the President’s Men』で使われたことにある。
したがって本記事では、実在の引用としては扱わない。

ただし、FBIが実際に銀行記録、小切手、現金の経路を追ったこと自体は公的資料で確認できる。
「Follow the money」は史実上の直接引用ではなくても、捜査手法の特徴を表す言葉として後世に定着したものと考えるのが適切である。

2万5,000ドルを寄付した人物は、侵入計画を知っていた?

そのようには扱わない。
資金が侵入犯側へ到達したことと、元の寄付者がウォーターゲート侵入の目的を知っていたことは別問題である。

重要なのは、通常の選挙資金として提供された金が、どのような経路を通って侵入工作側へ移動したのかという資金管理上の問題である。

「CREEP」は再選委員会の正式な略称?

いいえ。
正式名称はCommittee for the Re-Election of the Presidentで、CRPと略される。
「CREEP」は事件後広く使われた皮肉的な呼称である。

資金の流れだけで「ニクソンの命令」は証明できない

ここまでを見ると、侵入グループとニクソン再選組織の関係はかなり明確に見える。
しかし、この段階で証明できる範囲を超えてはいけない。

ジェームズ・マコードが再選委員会に勤務していた。
リディが再選陣営に関係していた。
選挙資金の一部がバーカー側へ流れていた。

これらは、それぞれ公的記録によって確認できる。

一方で、これだけを根拠として「ニクソン大統領自身がDNCへの侵入を命令した」と結論づけることはできない。
ウォーターゲート事件で大統領自身の法的・政治的責任を大きくしたのは、侵入計画そのものへの直接命令より、事件発生後の隠蔽と捜査妨害をめぐる行動だった。

そして、その問題は事件発生からすでに数日のうちに始まっていた。

6月23日の会話が示す次の段階

FBIが金を追い、ダールバーグの名前に到達していたころ、ホワイトハウス側もその動きを把握していた。

6月23日の大統領執務室録音では、ハルデマンがニクソンへ、FBIが資金の流れを調べていることを説明している。

問題はここからだった。

政権側が捜査を静観し、「何が起きたのかを調べればよい」と判断したのであれば、事件は侵入犯と再選組織の刑事事件として進んだ可能性がある。

しかし実際には、FBIの資金追跡に対してCIAを使って働きかける案が検討された。

侵入事件そのものとは別の犯罪問題――捜査を妨害し、事件と政権との関係を隠そうとしたのではないかという疑問が、ここから生まれる。

ウォーターゲートが本当に大統領職を揺るがす事件へ変わるのは、この「侵入後」の段階だった。

まとめ|5人から「組織」へ、人物から「金」へ

6月17日に逮捕された5人は、孤立した侵入グループではなかった。
少なくともジェームズ・マコードは、ニクソン大統領の再選委員会で警備を担当していた。

捜査を進めると、G・ゴードン・リディやE・ハワード・ハントなど、侵入工作を指揮した人物が浮上する。
さらにFBIが銀行記録と現金を追うと、バーナード・バーカーが換金した資金の中に、大統領再選運動へ提供された2万5,000ドルの小切手が含まれていたことが分かった。

これは「誰かが誰かを知っていた」という人的なつながりとは違う。
金額と銀行記録を伴った、検証可能な経路だった。

そして6月23日には、ホワイトハウス内部でもFBIがこの資金を追っていることが問題になっていた。

ここでウォーターゲート事件の焦点は変わる。

「誰が侵入したのか」から、
「誰がその背後にいたのか」へ。

そして次には、
「政権は事件が発覚した後、何をしたのか」へ進む。

次回は、口止め料、CIA、FBI捜査への介入、そして1972年6月23日の録音を中心に、ウォーターゲート事件で「侵入」以上に重大な問題となった隠蔽工作を追う。

前の記事:

第2回|1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

次の記事:

第4回|ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

    [現在の記事]

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  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

本記事はFBI、National Archives、U.S. Senate、Richard Nixon Presidential Libraryの公的資料を中心に構成しています。選挙資金が侵入犯側へ流れた事実と、元の寄付者が違法な侵入計画を認識していたかどうかは分離しています。また、資金の流れだけからリチャード・ニクソン本人がDNC本部への侵入を直接命令したとは判断していません。報道機関、FBI、検察、議会調査の役割についても、それぞれを別の調査経路として扱っています。

ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

政治スキャンダル・権力乱用

1972年6月17日、ウォーターゲート・ビルの民主党全国委員会本部で5人の侵入犯が逮捕された。
その6日後、6月23日。
ホワイトハウスの大統領執務室では、リチャード・ニクソン大統領と首席補佐官H・R・ハルデマンがFBIの捜査について話していた。

問題になっていたのは、FBIが侵入犯の持っていた金を追跡し、ニクソン再選運動へ近づきつつあったことだった。
会話の中では、CIAからFBIへ働きかけ、これ以上の捜査を抑えさせる案が話し合われた。

この録音は、後に「Smoking Gun」と呼ばれる。
ウォーターゲート侵入事件からわずか6日後に、大統領自身が捜査を止める方法について話していたことを示したからである。

しかし、ウォーターゲートの「隠蔽」は、この一回の会話だけではない。
侵入犯への秘密の現金支払い、証言や刑事責任への対応、CIAを利用したFBI捜査への介入、そして事件とホワイトハウスとの関係を小さく見せようとする一連の動きが重なっていた。

今回は、侵入事件後にホワイトハウスとニクソン再選組織の周辺で何が行われ、それがなぜ「侵入」以上に重大な問題となったのかを追う。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

    [現在の記事]

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

先に結論|「隠蔽」とは何をしたことなのか

ウォーターゲート事件の隠蔽は、一つの行為ではない。
大きく分けると、少なくとも3つの流れが存在した。

隠蔽の流れ 何が問題だったのか
FBI捜査への介入 CIAを利用して、侵入犯の資金を追うFBI捜査を抑えようとした
秘密の現金支払い 侵入犯や関係者へ秘密裏に資金を渡し、沈黙を維持しようとした
事件との関係を小さく見せる ホワイトハウスや再選陣営上層部まで捜査が広がることを防ごうとした

このうち、ニクソン本人との関係を最も直接的に示したのが、1972年6月23日のホワイトハウス録音だった。

一方、侵入犯への秘密の現金支払いはその後も続き、1973年3月にはホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーンがニクソンに対して、隠蔽が大統領職そのものを危険にさらしていると説明するところまで進んでいた。

つまりウォーターゲートの隠蔽は、

捜査を止める → 関係者の沈黙を維持する → 事件を限定された範囲に封じ込める

という複数の手段を組み合わせたものだった。

6月23日|FBIは「金」を追っていた

前回見たように、FBIは侵入犯から押収された現金と銀行記録を追い、バーナード・バーカーの口座、ケネス・ダールバーグの2万5,000ドルの小切手などを通じて、ニクソン再選運動へ近づいていた。

この資金追跡が、ホワイトハウス側にとって重大な問題になった。

H・R・ハルデマンが1972年6月23日に残した日記でも、FBIが侵入犯の資金を「われわれの寄付者の一人」へ追跡し、メキシコの銀行を通過した資金についても調べているため、捜査が制御不能になりつつあるとの認識が記されている。

つまり事件発生からまだ1週間も経っていない段階で、ホワイトハウス内部では「侵入犯が捕まったこと」より、その背後の資金をFBIがどこまで追うかが問題になっていた。

そこで浮上したのが、CIAを利用してFBI捜査を制限する方法だった。

「CIAにFBIを止めさせる」という案

6月23日、ニクソンとハルデマンは大統領執務室でウォーターゲート捜査について話した。
現在、この会話はRichard Nixon Presidential Libraryによって公開されている。

図書館はこの会話を「The Smoking Gun conversation」と明記している。
その要約では、二人がFBIによる侵入犯の資金源追跡について話し、CIAからFBIへ働きかけ、ウォーターゲート侵入事件の捜査を止めさせる案を検討したとされる。

その際に使おうとした理屈が、「これ以上FBIが調べるとCIAの秘密活動に影響する」というものだった。

National Archivesも、この録音について、ニクソンがCIAを通じてFBIにウォーターゲート捜査を打ち切るよう求めようとした記録として説明している。

ここで重要なのは、CIAがウォーターゲート侵入事件そのものを実行したという意味ではないことである。
侵入犯の中には過去にCIAと関係した人物がいたが、CIAという組織がDNC侵入を実行したという話とは別である。

むしろ問題は逆だった。
実際のCIA作戦ではない事件について、「CIAの秘密活動に触れる可能性がある」とFBIへ伝え、政治的な捜査を止める理由として利用しようとしたことが問題になった。

なぜCIAを使おうとしたのか

FBIの資金追跡はメキシコの銀行取引にも及んでいた。
ホワイトハウス側は、この部分をCIAの秘密活動と結びつければ、国家安全保障上の理由からFBIが捜査を抑える可能性があると考えた。

CIAの公式史料では、元司法長官で当時ニクソン再選委員会を率いていたジョン・ミッチェルの考えをもとに、ハルデマンがCIA副長官ヴァーノン・ウォルターズからFBI長官代行L・パトリック・グレイへ働きかけさせる案が進められたと整理されている。

しかし、この時点でホワイトハウス側は、FBIが追っている資金経路が実際にCIAの秘密作戦を危険にさらすと確認していたわけではない。

CIA側の後の記録でも、ウォーターゲート捜査を進めれば危険にさらされるようなCIA活動は確認されなかった。

つまり、

「CIAの秘密を守るためにFBI捜査を止める」のではなく、CIAという機関を理由にして政治的に危険な捜査線を止めようとする構図

だったことが重要になる。

ヴァーノン・ウォルターズはFBIへ向かった

計画は会話だけでは終わらなかった。

6月23日、CIA長官リチャード・ヘルムズと副長官ヴァーノン・ウォルターズがホワイトハウスへ呼ばれた。
その後、ウォルターズはFBI長官代行L・パトリック・グレイと面会した。

ウォルターズは、FBIの捜査がメキシコ方面へ広がることでCIAの秘密活動へ触れる可能性があるという趣旨を伝えた。

ただしCIA内部では、ウォーターゲート事件へ組織を巻き込むことへの警戒も強かった。
ウォルターズはその後、ホワイトハウスからさらにCIAを利用しようとする動きに対して距離を取り、CIAが事件へ関与しているように見せることを拒んでいる。

結果として、FBIのウォーターゲート捜査そのものを永久に止めることはできなかった。

だが、問題は「成功したかどうか」だけではない。
大統領と側近が、刑事捜査を抑えるために別の政府機関を利用する方法を検討し、実際にCIA幹部からFBIへ働きかけさせたこと自体が後に重大な証拠となった。

侵入犯への「口止め料」はいつ始まったのか

捜査への介入と並行して進んだのが、ウォーターゲート事件の被告たちへの秘密の現金支払いだった。

National Archivesが公開しているウォーターゲート特別検察官の「Road Map」関連資料では、1972年6月26日ごろから、CRP幹部やジョン・ディーン、ジョン・アーリックマンらの周辺で、逮捕された5人に加え、リディとハントへ秘密裏に現金を渡す方法が検討され始めたと整理されている。

その資料では、支払いの目的について、7人がCRPやホワイトハウス上層部のウォーターゲート関与を明らかにしないよう、沈黙を維持するためだったとされる。

実際の支払いには弁護士費用や収入補填という名目も含まれていた。
そのため、金を渡したという行為だけを見てすべて違法な「口止め料」と断定するのではなく、誰が何の目的で支払いを手配したのかを見る必要がある。

特別検察官側が問題にしたのは、それらの資金が秘密裏に動かされ、被告たちが上層部との関係を明かさない状態を維持する仕組みとして機能したことである。

ハーバート・カルムバックが資金調達を担う

秘密の支払いを実際に動かす役割を担った人物の一人が、ハーバート・カルムバックだった。
カルムバックはニクソンの個人弁護士で、選挙資金にも関係していた。

特別検察官資料によれば、ジョン・ディーンはCIAから資金面での協力を得ることができなかった後、カルムバックに資金の調達と配布を調整させた。

カルムバックはCRP側から秘密資金を受け取り、元ニューヨーク市警察官アンソニー・ウラセヴィッチなどを介して、E・ハワード・ハントやその家族、さらに他の被告側へ資金を渡したとされる。

この方法には特徴がある。

資金提供者から被告へ直接銀行振込するのではなく、現金と仲介者を使うことで、通常の会計記録から支払いの目的を見えにくくしていた。

しかし支払いが続けば、関与する人物も増える。
誰が資金を集め、誰が許可し、誰が運び、誰が受け取ったのかという別の証拠経路が生まれていくことになる。

秘密の35万ドルも支払いへ使われた

1972年後半になると、カルムバックはそれ以上の支払いに関与することを拒むようになり、別の資金源が必要になった。

National Archivesの特別検察官資料では、1972年12月ごろ、ハルデマンの管理下にあった約35万ドルの秘密現金基金の一部を、ウォーターゲート被告側への支払いに利用することが承認されたと記録されている。

ゴードン・ストラカンからフレッド・ラルーへ約5万ドルが渡され、さらにラルーから被告側の弁護士へ資金が動いた記録も残っている。

1973年1月には、この基金の残額についても被告側への支払いに使用することが承認されたとされる。

こうして口止めの問題は、事件直後の一時的な対応ではなくなった。

1972年夏から選挙後、さらに侵入犯の裁判が始まる1973年初頭まで、秘密の現金を維持する仕組みへ変わっていたのである。

なぜ被告たちへ金を払い続ける必要があったのか

侵入犯たちは刑事訴追を受けていた。
逮捕後には弁護士費用が発生し、仕事を失った人物や家族への経済的負担も生じる。

しかし上層部にとって、それ以上に危険だったのは、被告の誰かが捜査側へ協力することだった。

侵入を実行した人物は、

  • 誰から指示を受けたのか
  • 資金を誰から受け取ったのか
  • リディやハントが何を指示したのか
  • 再選委員会内部の誰が計画を知っていたのか

を証言できる可能性がある。

そのため、被告の生活費や弁護士費用を支えることと、「沈黙を維持させること」は切り離しにくくなった。

特にE・ハワード・ハントは、資金だけでなく将来的な恩赦・刑の軽減についても期待を持っていたことが後の録音や捜査資料から明らかになっている。

秘密資金を渡し続ければ、当面は証言を抑えられるかもしれない。
しかし同時に、その支払い自体が新たな捜査対象となる。

隠蔽を続けるほど、隠さなければならない事実が増えていった。

1972年8月|「ホワイトハウスは関係していない」

事件後、政権側はウォーターゲートとホワイトハウスの間に重大な関係はないという立場を公に維持した。

National Archivesの年表では、1972年8月30日、ニクソンはジョン・ディーンがウォーターゲート盗聴事件について調査を行い、ホワイトハウス関係者の関与はなかったと発表したと記録されている。

当時は大統領選挙まで約2か月だった。

しかしその裏では、6月23日の段階ですでにFBI捜査をCIA経由で抑える案が実行に移され、6月末からは被告側への秘密資金の手配が始まっていた。

後に録音や証言が公開されると、公に説明されていた事件像と、内部で実際に話されていた内容との差が問題になっていく。

1973年3月21日|ジョン・ディーンが大統領へ警告する

隠蔽を長期間維持することは次第に難しくなった。

1973年3月21日、ジョン・ディーンはニクソンと大統領執務室で長時間会談した。
この会話もホワイトハウスの録音システムに残され、後にウォーターゲート刑事裁判で公開されている。

ニクソン大統領図書館は、この録音を「Cancer on the Presidency」会話と呼んでいる。

ディーンは大統領へ、侵入事件後に進められてきた隠蔽の経過を説明した。
そこでは偽証、脅迫、被告への資金、そして隠蔽を維持することの危険性が話し合われた。

特に問題になったのが、今後も被告たちへ金を払い続けるためにどれほどの資金が必要になるかだった。

ディーンは、今後2年間で約100万ドルが必要になる可能性を示した。
ニクソンは、100万ドルなら調達することは可能であり、現金でも用意できるという趣旨の発言をしている。

ただし、この会話を「ニクソンがその場で100万ドルの口止め料支払いを正式決定した」とだけ要約するのも正確ではない。

会話の中では、支払いを続けることの危険性や、刑務所に入る被告たちを金だけで長期間抑え続けることが現実的なのかについても議論されている。

重要なのは、1973年3月21日の時点で大統領が、これまで秘密の現金が被告側へ支払われてきたこと、さらに今後の支払い要求が問題になっていることを具体的に知らされていたことである。

「大統領職に広がる癌」とは何を意味したのか

ディーンが使った「cancer on the Presidency」という表現は、ウォーターゲートを象徴する言葉の一つになった。

ここでいう「癌」は、侵入事件そのものを指すだけではない。

侵入を隠すための支払い。
その支払いを隠すための説明。
証言を抑えるための対応。
捜査を制限するための働きかけ。

一つの隠蔽を維持するために、別の行為が必要になり、それがさらに新しい刑事責任や政治的危険を生んでいた。

侵入事件なら、実行した7人と計画関係者を刑事責任の対象として処理できる可能性があった。

しかし隠蔽へホワイトハウス高官が関わり、大統領自身も捜査への介入や秘密資金について認識していたとなれば、問題は再選委員会の一部職員では済まなくなる。

ディーンが警告したのは、その構造だった。

「司法妨害」は侵入事件とは別の問題だった

ウォーターゲート事件を理解するうえで最も重要な区別の一つがここにある。

1972年6月17日のDNC本部への侵入と、侵入発覚後の捜査妨害は別の行為である。

仮に大統領本人が侵入計画を事前に知らなかったとしても、事件発覚後に刑事捜査を妨害したのであれば、それ自体が新たな重大問題になる。

だからこそ、1974年に下院司法委員会が採択した最初の弾劾条項は、DNC本部への侵入を命じたことではなく、ウォーターゲート事件の捜査と司法手続を妨害したことを中心としていた。

「ニクソンは侵入を命令したのか」という疑問だけを追うと、ウォーターゲート事件の核心を外してしまう。

大統領職を最終的に崩したのは、

事件発生後、真相が捜査によって明らかになることを防ごうとしたのか

という問題だった。

時系列|隠蔽はどのように拡大したのか

ウォーターゲートの隠蔽は、6月23日の一度きりの指示ではなかった。
事件直後から翌年春まで並べると、長期化していった過程が分かる。

時期 主な出来事
1972年6月17日 DNC本部で5人の侵入犯が逮捕される
6月23日 ニクソンとハルデマンがFBIの資金追跡について協議。CIAからFBIへ働きかけて捜査を抑える案を進める
6月23日 CIA副長官ヴァーノン・ウォルターズがFBI長官代行L・パトリック・グレイと面会
6月26日ごろ~ ウォーターゲート被告らへ秘密の現金を渡すための手配が始まる
1972年夏 ハーバート・カルムバックらを介した現金支払いが続く
8月30日 ニクソンが、ジョン・ディーンの調査ではホワイトハウスの関与はなかったと発表
12月ごろ ハルデマン管理下にあった秘密の現金基金から追加支払いが行われる
1973年1月 ウォーターゲート侵入事件の刑事裁判が始まる
3月21日 ジョン・ディーンがニクソンへ隠蔽の危険を説明。「Cancer on the Presidency」録音が残る

この時系列を見ると、隠蔽は選挙前だけの短期的な政治対応ではなかったことが分かる。
1972年6月から翌年3月まで、被告への支払いと事件の封じ込めは継続していた。

FACT CHECK|ウォーターゲートの隠蔽で誤解しやすいこと

CIAがウォーターゲート侵入事件を実行した?

そのようには確認されていない。
侵入犯には元CIA関係者が含まれていたが、CIAという組織がDNC本部侵入を実行したという意味ではない。

問題になったのは、ホワイトハウス側がFBI捜査を制限する理由としてCIAの秘密活動を利用しようとしたことである。

6月23日の録音は「ニクソンが侵入を命令した証拠」?

いいえ。
「Smoking Gun」録音の決定的な意味は、DNC本部への侵入をニクソン本人が命令したことを記録している点ではない。

侵入発覚後にFBIが資金を追っている状況で、CIAを利用してその捜査を抑える案をニクソンとハルデマンが話している点にある。

被告への支払いはすべて単純な「口止め料」だった?

支払いには弁護士費用や収入補填などの名目も存在した。
したがって、すべての現金を名目だけで一律に違法と扱うのは適切ではない。

特別検察官側が問題視したのは、秘密の資金経路を使い、被告たちが上層部との関係を明らかにしない状態を維持する目的で支払いが行われていたことである。

1973年3月21日にニクソンは100万ドルの支払いを即座に命令した?

録音では、ディーンが今後約100万ドル必要になる可能性を説明し、ニクソンがその金額なら調達できるという趣旨で応じている。

一方で会話では、支払いを続けること自体の危険性や実効性についても議論している。
したがって、「この場で100万ドルの支払いを正式決裁した」と単純化するより、秘密支払いの存在と継続要求を大統領が具体的に認識した会話として見る方が正確である。

なぜ6月23日の録音が決定的だったのか

6月23日の録音が作られた時点では、一般国民も議会もその存在を知らなかった。

ニクソン政権は1972年大統領選挙を乗り切り、ニクソンは大差で再選した。
その後も大統領は、ウォーターゲート事件への個人的な関与を否定し続けた。

ところが1973年7月、上院ウォーターゲート委員会の調査でホワイトハウスに自動録音システムが存在することが明らかになる。

すると「ニクソンが何を知っていたのか」は、側近の証言だけで判断する必要がなくなった。

大統領自身の会話が残っていたからである。

そして1974年、最高裁判所の判断によって録音提出を避けられなくなった後、6月23日の会話が表に出る。

その内容は、侵入直後から捜査を抑える方法について大統領自身が話していたことを示していた。

この録音によって、それまでの説明を維持することが極めて難しくなった。
だからこそ後に「Smoking Gun――決定的証拠」と呼ばれるようになったのである。

まとめ|ウォーターゲートを大統領の事件へ変えたもの

ウォーターゲート事件を大統領辞任まで発展させた核心は、民主党本部への侵入だけではなかった。

事件発生から6日後には、FBIが侵入犯の金を追って再選運動へ近づいていることがホワイトハウス内部で問題になり、CIAを利用して捜査を抑える案が大統領と側近の間で話し合われた。

その後、侵入犯や関係者へ秘密の現金を渡す仕組みが作られた。
カルムバック、ラルー、ストラカンなど複数の人物と秘密資金が関係し、支払いは1973年まで続いた。

そして1973年3月21日、ジョン・ディーンはニクソンへ、隠蔽が「大統領職に広がる癌」になっていることを警告した。

侵入事件を隠すために始まった対応が、新たな証拠と新たな責任を生み続けていたのである。

だが、この段階でも隠蔽が完全に崩れたわけではない。

大きな転換点になるのは、ウォーターゲート侵入事件の裁判だった。

侵入犯ジェームズ・マコードは、判事ジョン・シリカへ一通の手紙を送る。
そこには、裁判で偽証するよう圧力を受けたこと、そして事件について明らかにされていない事実が存在することが書かれていた。

次回は、なぜ侵入犯の裁判が事件を終わらせるのではなく、ホワイトハウス中枢へ向かう新しい入口になったのかを追う。

前の記事:

第3回|5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

次の記事:

第5回|侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

    [現在の記事]

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

本記事はRichard Nixon Presidential Library、National Archives、FBI、CIAおよびWatergate Special Prosecution Forceの公的記録を中心に構成しています。DNC本部への侵入計画と、侵入発覚後の隠蔽・捜査妨害は別の行為として扱っています。また、CIAという組織がウォーターゲート侵入を実行したとはしておらず、ホワイトハウス側がFBI捜査を制限する手段としてCIAを利用しようとした事実と分離しています。被告への現金支払いについても、支払いの存在、名目、秘密性、沈黙を維持する目的を区別して記述しています。

侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

政治スキャンダル・権力乱用

1973年1月、ウォーターゲート事件は法廷へ移った。
前年6月に民主党全国委員会本部へ侵入した5人と、作戦を指揮したG・ゴードン・リディ、E・ハワード・ハントが刑事責任を問われることになったのである。

通常なら、ここで事件は一つの区切りを迎える。
侵入犯が有罪となり、刑を受ければ、1972年6月17日の事件については司法手続が進んだことになる。

ところがウォーターゲートでは逆のことが起きた。
裁判が進むほど、担当判事ジョン・J・シリカは「法廷に出ている7人だけで本当に事件全体を説明できるのか」と疑うようになった。

そして判決後、侵入犯ジェームズ・マコードがシリカへ一通の手紙を送った。
そこには、被告たちへ有罪を認めて沈黙するよう政治的圧力がかけられたこと、裁判で偽証があったこと、さらに事件に関係した別の人物が明らかにされていないことが書かれていた。

1973年3月23日、シリカがその書簡を法廷で読み上げる。
侵入事件を処理するために始まった刑事裁判は、ここから「誰が侵入したか」ではなく、「誰がその背後にいて、なぜ事実を隠そうとしたのか」を追う入口へ変わった。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

    [現在の記事]

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

先に結論|なぜ裁判が事件を終わらせなかったのか

ウォーターゲート侵入事件の裁判そのものは、被告7人全員の有罪という結果に終わった。
しかし、そのことは「事件の全貌が解明された」ことを意味しなかった。

むしろ裁判を担当したジョン・シリカ判事は、審理を通じて、法廷で示された説明だけでは事件の背景を十分に説明できないと考えるようになった。

5人は現場で逮捕されている。
監視・盗聴機材も残っている。
リディとハントが作戦を指揮したことも捜査で明らかになっていた。

それでも疑問は残った。

なぜ大統領再選運動に関係する人間が、民主党本部へ侵入するほどの政治工作を実行したのか。
資金はどこから来たのか。
誰が計画を承認したのか。
逮捕後、なぜ被告たちへ秘密の金が支払われたのか。

裁判は「実行犯を有罪にする」ことには成功した。
しかし「事件がどこまで上層部につながっていたのか」については、多くの疑問を残した。

そこへマコード書簡が届いた。

この書簡によって、シリカが抱いていた「まだ何か隠されているのではないか」という疑問が、単なる推測ではなく、被告自身による具体的な告発へ変わったのである。

1972年9月15日|7人が起訴された

ウォーターゲート侵入から約3か月後の1972年9月15日、連邦大陪審は事件に関係した7人を起訴した。

人物 事件での位置づけ
G. Gordon Liddy 侵入工作を計画・指揮する側
E. Howard Hunt 侵入工作を指揮する側
James W. McCord Jr. DNC本部内で逮捕。ニクソン再選委員会の警備担当
Bernard Barker DNC本部内で逮捕
Virgilio Gonzalez DNC本部内で逮捕
Eugenio Martinez DNC本部内で逮捕
Frank Sturgis DNC本部内で逮捕

National Archivesには、この刑事事件「United States v. Liddy」の裁判記録が現在も保存されている。
侵入現場の写真、建物図面、工具、盗聴装置など、前回までに見た物証もこの裁判で政府側証拠として使用された。

ここで起訴されたのは、現場の5人と、侵入作戦を直接指揮したリディ、ハントまでだった。
ホワイトハウス高官やニクソン再選委員会上層部は、この侵入事件の起訴対象には含まれていなかった。

それが本当に事件の全体だったのか。
この疑問が、後にシリカ判事の姿勢を大きく左右することになる。

1973年1月|侵入事件の裁判が始まる

National Archivesの公式年表では、ウォーターゲート侵入事件の裁判は1973年1月8日に始まった。

しかし、7人全員が最後まで陪審裁判を続けたわけではない。

1月11日、E・ハワード・ハントが有罪を認めた。
続いて1月15日、バーカー、スタージス、マルティネス、ゴンザレスの4人も有罪答弁を行った。

最後まで裁判を続けたのは、G・ゴードン・リディとジェームズ・マコードだった。

そして1月30日、両者はウォーターゲート侵入事件に関する起訴内容について有罪となった。

日付 裁判の動き
1973年1月8日 侵入事件の裁判開始
1月11日 E・ハワード・ハントが有罪答弁
1月15日 バーカー、スタジス、マルティネス、ゴンザレスが有罪答弁
1月30日 リディとマコードが全訴因で有罪

結果だけを見ると、検察側の事件処理は順調に見える。
7人全員について有罪が成立したからである。

しかしシリカ判事は、むしろこの過程に疑問を持った。

ジョン・シリカ判事は何を疑っていたのか

ジョン・J・シリカは、ワシントンD.C.連邦地方裁判所の首席判事だった。
ウォーターゲート侵入事件では、United States v. Liddyの裁判を担当した。

米上院の公式史は、数週間の証言を聞いたシリカについて、「事件のすべての事実が明らかになっているのか疑問を持った」と整理している。

シリカが気にしていたのは、単に被告が有罪か無罪かという問題だけではなかった。

政治的な侵入工作を実行するには、計画、資金、情報、指示系統が必要になる。
ところが法廷に現れた事件像では、その構造がリディとハント付近で途切れていた。

一方、裁判の外ではすでにFBIや報道機関が、侵入犯とニクソン再選組織との資金・人的関係を追っていた。

シリカは法廷でも、事件の背後に別の人物がいないのかを強く問題視した。

National Archivesに保存される裁判記録には、1973年1月24日の審理について「Judge Sirica’s suggestions as to further investigation」と整理された記録も残っている。

つまり判事自身が、起訴された7人を有罪にして終了するだけでは不十分だと考えていたことが分かる。

シリカは被告たちに「協力」を求めた

有罪となった被告たちは次に量刑を受ける。
そこでシリカは、被告たちが事件の全貌を明らかにするために捜査へ協力するかどうかを重視した。

米上院の公式史では、シリカが量刑を待つ被告たちに対し、まもなく設置される上院特別委員会への協力を促したと記録されている。

この点は後に議論も呼んだ。
刑事事件の判事が重い刑を背景に被告へ協力を迫ることについて、司法上の適切性を問題視する見方もあったからである。

そのため、「シリカが英雄的に被告を脅して真実を話させた」と単純化するのは避けた方がよい。

ただし事実として、シリカは「裁判で出た説明だけでは足りない」と考え、被告が捜査機関や議会へ情報を提供することを強く求めていた。

その圧力を最も早く受け止めた人物の一人が、ジェームズ・マコードだった。

上院委員会はマコード書簡より前に作られていた

ここで時系列を一度整理しておく必要がある。

ウォーターゲート事件を説明する際、「マコードが手紙を書いたため上院調査が始まった」という形で語られることがあるが、これは正確ではない。

米上院は1973年2月7日、すでに「Select Committee on Presidential Campaign Activities」を設置していた。
後に上院ウォーターゲート委員会と呼ばれる組織である。

委員会には、1972年大統領選挙における違法・不適切・非倫理的な活動だけでなく、ウォーターゲート侵入事件と、その後の隠蔽について調査する権限が与えられた。

したがって、マコードの書簡が上院委員会を誕生させたわけではない。

書簡の重要性は、すでに進み始めていたFBI、連邦検察、上院委員会の調査に対し、

「実行犯の一人が、裁判で重要な事実が隠されていたと認めた」

という新しい証言源を提供したことにある。

1973年3月19日|マコードがシリカへ書簡を書く

ジェームズ・マコードは1973年3月19日付で、シリカ判事宛てに書簡を書いた。

マコードは元FBI職員、元CIA職員で、事件当時はニクソン再選委員会の警備担当者だった。
6月17日にDNC本部で逮捕され、1973年1月30日に有罪となっている。

書簡は長大な告白文ではない。
短い文書の中に、裁判の前提を揺るがす複数の主張が並んでいた。

マコードの主張 意味
被告に有罪答弁と沈黙を求める政治的圧力があった 有罪答弁が被告個人の判断だけではなかった可能性を示した
裁判で重大な点について偽証が行われた 司法手続そのものが不完全な情報で進んだ可能性を示した
ウォーターゲートに関与した別の人物が特定されていない 起訴された7人より上・外側に関係者が存在すると示唆した
ウォーターゲート作戦はCIAの作戦ではない 「国家安全保障上の秘密作戦」という説明を否定した

特に4点目は、第4回で見たCIA問題と直接つながる。

マコードは書簡の中で、ウォーターゲート作戦はCIAの作戦ではなかったと明言している。
実行グループのキューバ系メンバーがCIA作戦だと誤解させられていた可能性には触れつつも、自分はCIA作戦ではなかったことを知っていると述べた。

つまり、ホワイトハウス側がFBI捜査を制限するために使おうとした「CIAの秘密活動」という説明に対して、現場側の重要人物が否定的な情報を出したことになる。

マコード書簡は「誰が黒幕か」を書いた手紙ではない

一方で、この書簡を実際より大きく描くのも正確ではない。

3月19日の書簡に、ニクソン、ハルデマン、アーリックマン、ミッチェルらの詳細な犯罪行為がすべて書かれていたわけではない。

書簡の段階でマコードが示したのは、

  • 沈黙するよう圧力があった
  • 裁判で偽証があった
  • 関係者が他にもいる
  • CIA作戦ではない

という告発だった。

つまり「答え」を示した文書ではない。

それまで閉じられていた捜査対象を、

「7人より外側へ調べる必要がある」

と明確にした文書だった。

具体的な人物や隠蔽の構造は、その後マコードが捜査側や上院委員会へ協力する過程でさらに明らかになっていく。

3月21日|ホワイトハウスでも危機感が高まっていた

マコード書簡が表に出る時期と、前回扱ったジョン・ディーンの「大統領職に広がる癌」会話はほぼ重なっている。

1973年3月21日、ディーンはニクソン大統領へ、ウォーターゲート侵入後の隠蔽、被告への資金、関係者の刑事責任について説明した。

Watergate Special Prosecution Forceが後に作成したRoad Map関連資料でも、この時期にマコードがシリカへ書簡を送り、裁判で偽証があり、被告への沈黙のための支払いが存在したと主張したことが、政権内部の危機と並行して整理されている。

つまり1973年3月下旬には、二つの方向から隠蔽が崩れ始めていた。

外側 内側
マコードが裁判所へ「沈黙圧力・偽証・未特定の関係者」を告発 ディーンが大統領へ隠蔽継続の危険性を警告

この二つが同じ時期に進んだことで、ウォーターゲートを「侵入犯だけの事件」として封じ込めることは急速に難しくなっていった。

3月23日|シリカが法廷で書簡を読み上げる

1973年3月23日、ウォーターゲート被告の量刑手続が行われた。

そこでシリカは、マコードから送られていた書簡を公開法廷で読み上げた。

Watergate Special Prosecution ForceのRoad Mapでは、この日について、マコード書簡が公開され、裁判で偽証があったこと、別の人物がウォーターゲートに関与していたこと、被告に有罪を認めて沈黙するよう圧力がかけられていたことを告発した、と整理されている。

書簡の内容は、それまでの事件像を大きく変えた。

それまでもFBIや報道機関は再選委員会とのつながりを追っていたが、今度は事件の内部にいた人物自身が「法廷で全貌は語られていない」と述べたからである。

法廷が事件を確定する場所だったはずが、逆に法廷から新しい捜査が始まることになった。

なぜ「偽証」がそれほど重大だったのか

マコードが書簡で使った重要な言葉の一つが「perjury」、つまり偽証だった。

偽証とは、宣誓した証人が故意に虚偽の証言をすることである。
単に記憶を間違えたこととは異なる。

もしウォーターゲート裁判で、上層部の関係を隠すために重要人物が意図的な虚偽証言を行っていたのであれば、問題は侵入事件だけでは済まない。

司法手続そのものを誤った情報へ誘導しようとした可能性が出てくるからである。

さらに、被告へ「有罪を認めて黙れ」という政治的圧力が本当に存在したのであれば、

侵入事件
→ 被告への沈黙圧力
→ 裁判での虚偽
→ 上層部の関与を隠す

という一連の隠蔽構造が成立する可能性がある。

マコード書簡が重大だったのは、この構造を調べる必要性を被告本人が裁判所へ提示した点にあった。

「行政恩赦」の話も調査対象になる

マコードが協力を始めると、被告側へ伝えられていた行政恩赦――executive clemencyの話も調査対象となった。

後の上院公聴会では、元ホワイトハウス職員ジャック・コーフィールドが、マコードへ恩赦の可能性を示すメッセージを伝えた経緯について証言している。

ただし、この点でも事実の階層を分ける必要がある。

コーフィールドは「上の方」から権限があるという趣旨の説明を受けたと証言したが、ニクソン本人から直接恩赦を約束されたわけではない。

したがって、

「ニクソンがマコードへ直接、黙れば恩赦すると約束した」

と断定するのは強すぎる。

確認できるのは、被告を沈黙させる文脈で恩赦の可能性を示す働きかけが行われ、その経路と権限の出所が後に上院調査で検証されたことである。

マコードは裁判所から捜査側へ向かった

3月23日の書簡公開後、マコードは事件についてさらに情報を提供する側へ移っていった。

National Archivesによるウォーターゲート展示資料の内部検証では、シリカが被告に対して連邦検察だけでなく上院ウォーターゲート委員会へも協力することを求め、マコードはその意思を受けて委員会側との接触を始めたと整理されている。

ここから事件は二つの経路で拡大していく。

司法・捜査 議会調査
連邦検察・大陪審が隠蔽と上層部の関係を追う 上院委員会が大統領選挙運動、侵入、隠蔽を調査する

さらに4月に入ると、ジョン・ディーンやJ・eb・マグルーダーも連邦検察への協力へ動き始める。

National Archivesの資料では、ディーンの弁護士が4月2日に連邦検察へ接触し、ディーン自身が免責を得て情報提供する可能性を探り始めたとされる。
マグルーダーも別に検察へ協力し、自身がリディの情報活動を立ち上げる過程に関与したことなどを明らかにしていった。

3月末から4月にかけて、隠蔽を維持していた「全員が黙る」という前提そのものが崩れていったのである。

4月30日|政権中枢から3人が去る

マコード書簡から約1か月後の1973年4月30日、ホワイトハウスでは大きな人事変動が起きた。

H・R・ハルデマン首席補佐官、ジョン・アーリックマン大統領補佐官、ジョン・ディーン大統領法律顧問が職を去った。

もちろん、3月23日のマコード書簡一通だけが直接3人の退任を引き起こしたわけではない。

その間に連邦検察、大陪審、上院委員会の調査が進み、ディーンやマグルーダーなど政権・再選組織内部の人物が情報提供へ動き始めていた。

重要なのは、書簡が「隠蔽は内部で維持できている」という状態を崩す初期の大きな亀裂になったことである。

3月下旬までには、被告本人が裁判所へ口を開き、4月にはホワイトハウス内部の人物も検察へ情報を持ち込むようになった。

時系列|裁判はどのように「第二段階」へ変わったのか

侵入事件の刑事裁判から隠蔽捜査へ移る約3か月を並べると、転換点が分かりやすい。

日付 出来事
1973年1月8日 ウォーターゲート侵入事件の裁判開始
1月11日 E・ハワード・ハントが有罪答弁
1月15日 バーカー、スタジス、マルティネス、ゴンザレスが有罪答弁
1月30日 リディとマコードが有罪となる
2月7日 上院がウォーターゲート調査の特別委員会を設置
3月19日 マコードがシリカ判事へ書簡を書く
3月21日 ジョン・ディーンがニクソンへ隠蔽の危険を説明
3月23日 シリカが公開法廷でマコード書簡を読み上げる
4月初旬~ ディーン、マグルーダーらが連邦検察への協力へ動く
4月30日 ハルデマン、アーリックマン、ディーンがホワイトハウスを去る
5月17日 上院ウォーターゲート委員会が公開公聴会を開始

この流れを見ると、3月23日は一連の調査の「始まり」ではない。
FBI捜査も上院委員会もすでに存在していた。

しかし、事件内部の当事者が「法廷で全貌が語られていない」と公に告発したことで、調査の焦点が大きく変わった日だった。

FACT CHECK|シリカ判事とマコード書簡で誤解しやすいこと

マコード書簡がきっかけで上院ウォーターゲート委員会が作られた?

いいえ。
上院特別委員会は1973年2月7日に設置されており、マコード書簡が法廷で公開された3月23日より前である。

書簡は既存の上院調査に、事件内部の人物から得られた重要な情報源を提供したと考えるのが正確である。

7人全員が陪審裁判で有罪になった?

いいえ。
E・ハワード・ハントと4人の侵入犯は途中で有罪を認めた。
最後まで裁判を続けたリディとマコードが1月30日に有罪となった。

結果として7人全員に有罪が成立したが、その経路は同じではない。

マコード書簡にはニクソンの犯罪がすべて書かれていた?

いいえ。
書簡は、被告への沈黙圧力、裁判での偽証、未特定の関係者、CIA作戦ではないことなどを告発した文書である。

ニクソン本人を含む隠蔽の詳細は、その後の証言、捜査、ホワイトハウス録音などによって明らかになっていった。

シリカ判事だけがウォーターゲート事件を解明した?

それも正確ではない。
シリカは裁判の説明に疑問を持ち、被告の協力を強く求めた重要人物だった。

しかし事件の解明には、FBI、連邦検察、大陪審、上院委員会、特別検察官、報道機関、後には下院司法委員会や連邦最高裁判所まで関与している。

ウォーターゲート事件は、一人の判事や一人の記者が「真相を暴いた」事件ではない。
複数の制度が異なる方向から隠蔽を崩していった事件である。

シリカの被告への圧力にはまったく問題がなかった?

そこも単純化できない。
シリカは事件の全貌を明らかにするため被告の協力を強く促したが、量刑と協力を結びつけるような姿勢は後に司法上の議論も招いた。

したがって本記事では、シリカを「真相解明の英雄」とだけ描かず、事件の説明不足を見抜き、裁判所の立場から追加協力を強く求めた判事として位置づける。

裁判が終わっても、事件は終わらなかった

1973年1月30日の時点で、ウォーターゲート侵入事件の刑事裁判には一つの答えが出ていた。

現場の5人と、作戦を指揮したリディ、ハント。
7人全員について有罪が成立した。

それだけを見れば、侵入事件は解決したように見える。

しかしシリカ判事は、裁判で語られた内容だけでは事件の仕組みを説明できないと考えた。
そしてマコードは、裁判所へ「沈黙するよう政治的圧力があった」「偽証があった」「他にも関係者がいる」と告発した。

ここで捜査の問いが変化する。

誰がウォーターゲートへ入ったのか。

ではなく、

誰が彼らを黙らせようとしたのか。
誰のために偽証が必要だったのか。
まだ名前の出ていない人物は誰なのか。

事件の中心が、侵入現場からワシントンの政治組織とホワイトハウスへ移り始めたのである。

まとめ|一通の手紙が「7人で終わる事件」を壊した

1973年1月のウォーターゲート裁判では、7人の被告全員について有罪が成立した。

しかしジョン・シリカ判事は、裁判で事件の全貌が明らかになったとは考えなかった。
そして量刑を前に、被告へ捜査・議会調査への協力を強く求めた。

その中でジェームズ・マコードが書いたのが、1973年3月19日付の書簡だった。

そこには、被告へ有罪を認めて沈黙するよう政治的圧力がかけられたこと、裁判で偽証があったこと、まだ明らかになっていない関係者が存在すること、そしてウォーターゲート作戦はCIAの作戦ではなかったことが記されていた。

3月23日、書簡が公開される。

これによって「侵入犯7人を処罰して終わる」という事件像は維持しにくくなった。

しかも同じ時期、ホワイトハウス内部ではジョン・ディーンがニクソンへ、隠蔽が大統領職を危険にさらしていると警告していた。

外側ではマコードが口を開き、内側ではディーンが危機を訴える。
4月にはさらに政権内部の人物が検察へ協力し始める。

次に事件が向かう場所は、公開された上院公聴会だった。

そこではジョン・ディーンがホワイトハウス内部の隠蔽について長時間証言し、さらにアレクサンダー・バターフィールドが、それまでほとんど誰も知らなかった決定的な事実を明らかにする。

大統領執務室などでの会話が、自動的に録音されていたのである。

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第4回|ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

次の記事:

第6回|上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

    [現在の記事]

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

本記事はNational Archives、Richard Nixon Presidential Library、U.S. Senate、Watergate Special Prosecution Forceの公的記録を中心に構成しています。マコード書簡が上院ウォーターゲート委員会を設置したという因果関係は採用していません。委員会は書簡公開以前の1973年2月7日にすでに設置されており、書簡は既存の司法・議会調査へ重要な突破口を与えたものとして整理しています。また、シリカ判事の量刑と被告協力をめぐる姿勢については、その歴史的役割と司法上の議論を分けて扱っています。

上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

政治スキャンダル・権力乱用

1973年6月25日、元ホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーンが、上院ウォーターゲート委員会の公開公聴会に姿を現した。

ディーンは数か月前までリチャード・ニクソン大統領の側近だった。
その人物がテレビカメラの前で、ウォーターゲート侵入事件後の隠蔽について証言し、大統領自身もその過程を知っていたと主張した。

しかし大統領側は、その説明を否定した。

ここで問題が生じる。

ディーンの証言が正しいのか。
それともホワイトハウスの説明が正しいのか。

側近と大統領の説明が食い違っていても、会話が密室で行われていれば、後から完全に再現することは難しい。
ところが1973年7月、上院委員会はそれまでほとんど知られていなかった事実へ到達した。

ニクソン大統領の執務室などには、会話を自動的に記録する録音システムが設置されていた。

7月16日、元大統領副補佐官アレクサンダー・バターフィールドが公開公聴会でその存在を認める。

ウォーターゲート事件は、この瞬間から大きく変わった。
証言と証言を比較する事件ではなく、「実際の会話が録音されたテープを誰が入手できるのか」を争う事件へ移ったのである。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

    [現在の記事]

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

上院ウォーターゲート委員会は何を調べる組織だったのか

米上院は1973年2月7日、「Select Committee on Presidential Campaign Activities」を設置した。
一般には上院ウォーターゲート委員会と呼ばれる。

委員会は民主党4人、共和党3人の7人で構成され、ノースカロライナ州選出の民主党上院議員サム・アーヴィンが委員長、テネシー州選出の共和党上院議員ハワード・ベーカーが副委員長を務めた。

調査対象はウォーターゲート侵入事件だけではなかった。

委員会には、侵入後の隠蔽、大統領選挙における政治スパイ活動、選挙資金、その他1972年大統領選挙に関係する違法・不適切・非倫理的な行為まで調べる権限が与えられた。

つまり「5人がなぜDNC本部へ入ったのか」から始まった事件を、選挙運動と政権内部の仕組みまで広げて調査できる組織だった。

1973年5月17日|公開公聴会が始まる

委員会の公開公聴会は1973年5月17日に始まった。

ここからウォーターゲート事件は、捜査機関や裁判所だけが扱う事件ではなくなる。
証人が議員の質問へ答える姿を、一般国民がテレビで直接見ることができるようになったからである。

米上院公式史によれば、主要テレビネットワークは1973年5月の公聴会を連日中継し、PBSも全米150以上の系列局で夜間に放送した。

テレビによって、事件の構造が初めて大量の国民へ連続した形で提示された。

新聞記事なら、侵入、資金、口止め、CIA、ホワイトハウス高官といった論点を別々の日の記事として読むことになる。

公聴会では、同じ委員会が証人を次々と呼び、証言をつなげていった。

ウォーターゲートは、一つの侵入事件ではなく、組織と権力の使い方を調べる事件として可視化され始めた。

共和党のハワード・ベーカーが示した問い

委員会は民主党だけで構成されていたわけではない。
共和党議員も参加していた。

その中で特に知られるようになったのが、副委員長ハワード・ベーカーだった。

ベーカーがウォーターゲート調査で示した問いは、後に事件全体を象徴するものとなる。

「大統領は何を知っていたのか。そして、いつ知ったのか」

事件の核心はまさにここにあった。

DNC本部への侵入を誰が実行したかは、すでにかなり分かっている。
リディ、ハント、マコードらの刑事責任も裁判で問われた。

問題は、大統領本人がどの段階で何を知り、その後どのような行動を取ったのかだった。

この問いに対して、6月末に最も具体的な答えを提示した証人がジョン・ディーンだった。

ジョン・ディーンとは誰だったのか

ジョン・W・ディーン3世は、1970年から1973年までホワイトハウス法律顧問を務めた。

ウォーターゲート侵入事件後、ディーンは隠蔽工作の内部に深く関わった人物でもある。

第4回で見たように、侵入犯への秘密支払い、FBI捜査への対応、ホワイトハウス内部の情報整理などに関係した。

つまりディーンは「外部から政権を告発した人物」ではない。

本人自身が隠蔽に関与した当事者だった。

だからこそ、彼の証言には二つの側面がある。

一方では、ホワイトハウス内部の会話を直接知る重要証人。

もう一方では、自身の刑事責任を軽くするために情報提供する動機を持つ人物でもあった。

したがって上院委員会にとって必要だったのは、ディーンの話をそのまま信じることではない。

彼が話した内容を、別の証言や文書、記録によって確認することだった。

6月25日|ディーンが公開証言を始める

ディーンは1973年6月25日から29日まで、上院ウォーターゲート委員会で証言した。

ニクソン大統領図書館には、6月25日から続いたテレビ公聴会の映像記録が多数保存されている。

ディーンは長時間にわたり、ウォーターゲート侵入事件後にホワイトハウスで行われた対応を説明した。

その中心には、

  • 侵入事件発覚後の隠蔽
  • 侵入犯への秘密の現金支払い
  • 恩赦をめぐる話
  • FBI捜査への対応
  • ハルデマン、アーリックマン、ミッチェルらとの関係
  • ニクソン大統領との会話

があった。

これは非常に重大な証言だった。

それまでニクソンは、自身がウォーターゲート侵入を事前に知らなかったこと、そして隠蔽にも関与していないとの立場を維持していた。

ディーンは、その説明とは異なる事件像を提示したのである。

「大統領は隠蔽を知っていた」とディーンは証言した

米上院公式史は、ディーンの証言について、ニクソン大統領がホワイトハウスとウォーターゲート侵入事件との関係を隠す計画を承認していたとディーンが証言した、と整理している。

これは1973年6月時点では極めて重大な告発だった。

しかし、ここでFACTとCLAIMを分ける必要がある。

FACT:
ディーンが上院委員会で、そのような内容を証言した。

当時まだ検証が必要だった点:
その証言内容が事実として正しいか。

ニクソン側はディーンの説明を否定していた。

そのため問題は「ディーンが何を証言したか」から、

「その証言を裏付ける客観的な記録が存在するか」

へ移っていく。

ディーンが再現した「大統領職に広がる癌」

ディーンの証言で注目された会話の一つが、1973年3月21日にニクソンと行った面談だった。

第4回で扱った「Cancer on the Presidency――大統領職に広がる癌」と呼ばれる会話である。

ディーンは、隠蔽を維持するために偽証や秘密の資金が必要になり、問題が拡大していると大統領へ警告したと証言した。

しかし、この証言にも同じ問題があった。

3月21日の会談室に上院議員はいなかった。

ディーンは自分の記憶から会話内容を説明している。
ニクソン側が異なる説明をすれば、どちらが正確かを外部から完全に判断することは難しい。

この時点ではまだ一般には知られていなかったが、その3月21日の会話そのものが録音されていた。

ディーン対ホワイトハウス|「言った、言わない」の問題

ウォーターゲート委員会は、非常に典型的な証拠上の問題に直面していた。

ジョン・ディーン側 ニクソン側
大統領は隠蔽について知っていたと証言 大統領は隠蔽への関与を否定
大統領との会話内容を詳細に説明 ディーンの説明の正確性を否定

証言だけなら、最終的には証人の信用性を評価するしかない。

ディーン自身も隠蔽へ関与していた。
検察への協力によって自分の刑事責任が軽くなる可能性もある。

そのため、ディーンの証言だけで大統領の責任を確定することは危険だった。

委員会には独立した裏付けが必要だった。

そして偶然にも、ディーンの証言内容を直接確認できる可能性を持つ記録がホワイトハウス内部に存在していた。

ホワイトハウスには「自動録音システム」があった

ニクソン政権では、大統領の会話を記録するための録音システムが設置されていた。

Richard Nixon Presidential Libraryによれば、システムは1971年2月16日に稼働を開始した。

最初に録音対象となったのは大統領執務室と閣議室だった。

その後、

  • 旧行政府ビル内の大統領執務室
  • 大統領執務室の電話
  • リンカーン・シッティングルームの電話
  • キャンプ・デービッドの大統領執務空間と電話

などにも録音設備が追加された。

特徴的だったのは、多くが音声によって自動的に作動する方式だったことである。

大統領が会談のたびに録音ボタンを押す方式ではない。
対象となる部屋で会話が始まれば、原則としてシステム側が記録する。

その結果、ウォーターゲートだけを目的とした録音ではなく、外交、国内政治、人事、日常的な会談を含む膨大な大統領会話が残った。

なぜニクソンは会話を録音していたのか

「秘密録音」と聞くと、ニクソンがウォーターゲートの証拠を残すために設置したようにも見える。

もちろん、そうではない。

システムはウォーターゲート侵入事件より1年以上前の1971年2月から稼働していた。

ニクソン図書館によれば、首席補佐官H・R・ハルデマンは、会談記録や将来の回想録などに利用できる完全な記録を残すことを念頭に、録音システム導入を提案した。

ニクソン本人が録音操作を忘れないよう、できるだけ手間のかからない音声作動方式が採用された。

そのため大統領自身も日常的には録音システムを意識せず会話していた可能性がある。

後から見れば皮肉な構造だった。

本来は大統領自身のために残された記録が、ウォーターゲートでは大統領の説明を検証する証拠になったからである。

録音システムを知っていた人は少なかった

録音設備の存在はホワイトハウス職員全体に共有されていたわけではない。

National Archivesに掲載されたハルデマンの回想では、システムを知る人物は意図的に限定されていた。

ニクソン、ハルデマン、ローレンス・ヒグビー、アレクサンダー・バターフィールド、そして設置・保守を担当した一部のシークレットサービス職員などである。

ジョン・ディーンも、少なくとも長い間は録音システムの存在を知らなかった。

だからこそディーンは上院で、自分の記憶をもとに大統領との会話を証言していた。

その証言が終わったあと、委員会側が「実際には会話が記録されている可能性」に到達する。

7月13日|バターフィールドが調査スタッフへ事実を明かす

アレクサンダー・P・バターフィールドは、ニクソン政権で大統領副補佐官を務めた人物だった。

録音システムの設置にも関わっていたため、その存在を知っていた数少ない人物の一人である。

1973年7月13日、上院委員会スタッフがバターフィールドへ非公開で事情聴取を行った。

Richard Nixon Presidential Libraryによれば、この聴取でバターフィールドはホワイトハウスに録音システムが存在することを明らかにした。

バターフィールド自身は、委員会側がすでに録音システムの存在を知っており、自分はそれを確認している程度だと考えていたという。

実際には、この情報は委員会にとって決定的だった。

「大統領とディーンの会話が本当に存在するなら、録音を聞けば証言の正否を確認できる」

という新しい捜査経路が生まれたからである。

7月16日|バターフィールドが公開公聴会で認める

1973年7月16日、バターフィールドは上院ウォーターゲート委員会の公開公聴会へ出席した。

そこで、ニクソン大統領の会話を記録するシステムがホワイトハウスに設置されていることを公に認めた。

ニクソン大統領図書館には、この日の公聴会映像が現在も所蔵されており、「Butterfield reveals the existence of the White House taping system」と整理されている。

この証言が持つ意味は非常に大きかった。

それまで上院委員会が持っていたのは、主として人間の証言と文書だった。

しかし今度は、

大統領と側近が実際に何を話したのかを記録した可能性のある音声

が存在すると分かった。

テープがあれば、ディーンの証言を検証できる

米上院公式史は、バターフィールド証言後の状況を明確に整理している。

録音テープがあれば、ディーンが証言した「大統領が隠蔽を知っていた」という説明を裏付けることも、逆に否定することもできる。

委員会にとってテープは、最初から「ニクソン有罪の証拠」だったわけではない。

どちらの説明が正しいのかを確認する一次資料だった。

この点は重要である。

バターフィールド証言の時点では、委員会側はまだ6月23日の「Smoking Gun」録音を自由に聞いていない。

「テープの中に決定的証拠がある」と確定したのではなく、

決定的な証拠になり得る記録が存在すると分かった

段階だった。

録音はいつからいつまで残っていたのか

ニクソンのホワイトハウス録音システムは、1971年2月から1973年7月まで稼働した。

時期 録音システム
1971年2月16日 大統領執務室・閣議室で録音開始
1971年4月 旧行政府ビルの大統領執務室や電話へ拡張
1972年5月 キャンプ・デービッドの一部施設へ追加
1972年6月17日 ウォーターゲート侵入事件発覚
1973年7月16日 バターフィールドが公開公聴会でシステムの存在を明らかにする
1973年7月 録音システム停止

つまり、ウォーターゲート侵入事件発生直後から、隠蔽が崩れ始める1973年春までの重要な期間の多くが録音対象期間と重なっていた。

6月23日のFBI捜査への介入を話した会話も、
3月21日にディーンが「大統領職に広がる癌」について警告した会話も、
録音システムが稼働していた時期に行われている。

すべての会話が録音されていたわけではない

ただし、「ニクソンの全会話が完全に録音されていた」と考えるのも正確ではない。

録音設備が設置されていない場所で行われた会話は記録されない。

機器の不具合、テープ交換、録音対象施設の違いなどもある。

さらに録音には音質が悪い部分や、後に大きな論争となる欠落部分も存在する。

したがって、テープはウォーターゲートのすべてを自動的に説明する「完全なブラックボックス」ではない。

それでも、大統領と側近が特定の日付・場所で交わした会話を一次資料として確認できる価値は極めて大きかった。

7月16日、委員会はテープ提出へ動く

バターフィールドの証言を受け、上院委員会は録音テープの入手へ動いた。

委員長サム・アーヴィンは、テープによってディーンの証言と大統領側の説明のどちらが正しいか確認できると考えた。

米上院公式史によれば、委員会は7月16日にホワイトハウスの録音や文書を召喚する方針を全会一致で決めた。

7月23日には、上院委員会と特別検察官アーチボルド・コックスが、それぞれホワイトハウスの録音・文書を正式に要求する。

ここからウォーターゲート事件は新しい段階へ入った。

ニクソン側は、大統領の会話には秘密保持が必要であり、議会や検察へ無制限に提出すべきではないと主張する。

委員会と特別検察官は、刑事事件と議会調査に必要な証拠としてテープを要求する。

「テープは存在するのか」という問いは終わった。

次の問いは、

「大統領は、そのテープを提出しなければならないのか」

だった。

FACT CHECK|上院公聴会と録音テープで誤解しやすいこと

ディーンの証言でニクソンの隠蔽関与はその場で確定した?

いいえ。
ディーンは大統領が隠蔽を知り、承認していたという趣旨の重大な証言を行ったが、当時ニクソン側はその説明を否定していた。

したがって、6月末の段階ではディーンの証言は重要な証拠・主張ではあっても、それだけで最終的な事実認定が完了したわけではない。

その証言を客観的に検証できる可能性を開いたのが、後に発覚した録音テープだった。

バターフィールドは「秘密を暴露するため」に上院へ出てきた?

そのように単純化するのは適切ではない。

バターフィールドは7月13日の非公開聴取で委員会スタッフから質問を受け、録音システムの存在を認めた。
ニクソン図書館によれば、本人は委員会側がすでにその存在を知っていると思っていた。

その後7月16日の公開公聴会で、録音システムの存在を公式に証言した。

ニクソンはウォーターゲートを録音するためにシステムを作った?

いいえ。
録音システムは1971年2月に稼働を開始しており、1972年6月のウォーターゲート侵入より1年以上前から存在していた。

ウォーターゲート専用の監視装置ではなく、大統領の会談・電話などを広く記録するシステムだった。

バターフィールド証言の時点で「Smoking Gun」が発見された?

いいえ。
1973年7月16日に明らかになったのは、録音システムが存在するという事実だった。

1972年6月23日の「Smoking Gun」会話がニクソンを決定的に追い詰めるのは、テープ提出をめぐる長い法的争いを経た1974年である。

ホワイトハウスの会話はすべて録音されていた?

いいえ。
録音対象となった部屋・電話は限定されており、設備のない場所での会話などは記録されていない。

「大統領の日常会話の非常に広い範囲が自動録音されていた」と理解する方が正確である。

証言から「一次資料」へ|事件の性質が変わった

上院公聴会が始まった時点では、委員会の中心的な証拠は人間だった。

マコードが語る。
ディーンが語る。
カルムバックが語る。
ホワイトハウス側が反論する。

議会は証言を比較し、文書や捜査資料によって裏付ける必要があった。

ところが録音システムの存在が分かったことで、証拠の質が変わった。

1972年6月23日。
1973年3月21日。
その他、ウォーターゲートの重要局面で行われた大統領と側近の会話が記録されている可能性がある。

「ニクソンは何を知っていたのか」

という問いに対して、本人や側近の記憶だけではなく、その場で録音された音声を確認できる可能性が生まれたのである。

これはウォーターゲート事件最大の転換の一つだった。

委員会が「ニクソンを倒した」のではない

上院公聴会が大きな社会的影響を持ったことは確かだが、ここでも因果関係を単純化してはいけない。

上院委員会だけでニクソンを大統領職から追放できるわけではない。

刑事捜査は特別検察官と大陪審が進める。
大統領の弾劾は下院が発議し、上院が裁判を行う別の憲法手続である。
録音提出をめぐる司法判断には連邦裁判所と最高裁判所が関わる。

上院委員会の大きな役割は、侵入・選挙工作・隠蔽の構造を公の場で調査し、証拠と証言を集めることだった。

そしてその調査の中で録音システムの存在へ到達した。

この発見が、後の特別検察官による召喚、司法判断、下院弾劾調査へつながる証拠経路を大きく広げたのである。

時系列|公聴会から録音システム発覚まで

1973年春から夏までの流れを並べると、事件の焦点が「証言」から「テープ」へ移った過程が分かりやすい。

日付 出来事
1973年2月7日 上院がウォーターゲート調査の特別委員会を設置
3月23日 シリカ判事がマコード書簡を公開
4月30日 ハルデマン、アーリックマン、ディーンがホワイトハウスを去る
5月17日 上院ウォーターゲート委員会の公開公聴会開始
5月25日 アーチボルド・コックスがウォーターゲート特別検察官に就任
6月25~29日 ジョン・ディーンが上院委員会で証言
7月7日 ニクソンが上院委員会への本人出席と大統領文書へのアクセスを拒否すると通知
7月13日 非公開聴取でバターフィールドが委員会スタッフへ録音システムの存在を明らかにする
7月16日 バターフィールドが公開公聴会でホワイトハウス録音システムの存在を証言
7月23日 上院委員会と特別検察官コックスがホワイトハウスの録音・文書を要求

まとめ|「誰を信じるか」から「テープを聞けば分かる」へ

1973年5月に始まった上院ウォーターゲート委員会の公開公聴会は、事件をアメリカ国民の目の前へ持ち出した。

その中で最も重大な証人の一人となったのが、元ホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーンだった。

ディーンは6月25日から、侵入後の隠蔽と大統領自身の認識について詳細に証言した。

しかし、ディーン自身も隠蔽へ関与した人物だった。
大統領側はその説明を否定している。

この段階では、

「ディーンとニクソンのどちらを信じるのか」

という証言の対立が残っていた。

そこへ7月16日、アレクサンダー・バターフィールドが現れる。

ホワイトハウスには、大統領の会話を自動的に記録する録音システムが存在していた。

もしディーンが説明した大統領との会話が録音されているなら、記憶や政治的主張だけに頼る必要はない。
実際の会話を確認できる。

事件は一気に単純になったようにも見えた。

テープを入手して聞けばよい。

ところが、ここから約1年間にわたる新たな争いが始まる。

大統領には、側近との秘密の会話を守る権利があるのか。
議会や刑事捜査のためなら提出しなければならないのか。
大統領が提出を拒否した場合、誰が強制できるのか。

そして1973年10月20日、テープを要求し続けた特別検察官アーチボルド・コックスを解任するよう、ニクソンは司法省へ命じる。

司法長官は辞任し、司法副長官も命令を実行しない。

後に「土曜夜の虐殺」と呼ばれる政治・司法上の危機である。

次回は、録音テープをめぐって大統領と特別検察官が正面衝突し、司法省上層部が崩れるまでの過程を追う。

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第5回|侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

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CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

    [現在の記事]

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

本記事はU.S. Senate、National Archives、Richard Nixon Presidential Libraryの公的記録を中心に構成しています。ジョン・ディーンが上院公聴会で述べた内容は、証言された事実と、その証言内容自体が真実であるかという事実認定を分離しています。1973年6月時点ではニクソン側がディーンの説明を否定しており、バターフィールドによる録音システムの発覚によって初めて、両者の説明を同時代の音声記録で検証できる可能性が生じたと整理しています。また、録音システムはウォーターゲート専用に設置されたものではなく、事件発生以前の1971年から大統領会話の記録目的で運用されていた点にも留意しています。

録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

政治スキャンダル・権力乱用

1973年10月20日、土曜日の夜。
アメリカ司法省で、異例の命令が上から順に降りていった。

リチャード・ニクソン大統領は、ウォーターゲート特別検察官アーチボルド・コックスを解任するよう司法長官エリオット・リチャードソンに命じた。
リチャードソンは拒否し、辞任した。

次に命令を受ける立場となった司法副長官ウィリアム・ラッケルズハウスも解任を拒否し、職を解かれた。

最終的に司法省の指揮を引き継いだ訟務長官ロバート・ボークが、大統領の命令を実行した。
コックスは特別検察官を解任された。

この一連の出来事は、後に「Saturday Night Massacre――土曜夜の虐殺」と呼ばれる。
もちろん実際の殺傷事件ではない。
司法省上層部が一夜のうちに相次いで職を離れ、現職大統領を捜査していた特別検察官が解任された政治・司法上の危機を表す呼称である。

なぜ、録音テープをめぐる争いがここまで拡大したのか。

今回は、アーチボルド・コックスの就任からテープ召喚、行政特権をめぐる裁判、Stennis compromise、そして1973年10月20日の「土曜夜の虐殺」までを追う。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

    [現在の記事]

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

先に結論|なぜ「テープ」が特別検察官解任まで発展したのか

1973年夏以降の争点は、驚くほど明確だった。

ホワイトハウスには、ウォーターゲート事件の重要期間に行われたニクソン大統領と側近の会話を記録した録音テープが存在する。

特別検察官アーチボルド・コックスは、それを刑事捜査に必要な証拠として要求した。

一方のニクソンは、大統領が側近と自由に話すためには秘密保持が必要であり、その会話を検察や議会へ簡単に渡せば大統領職そのものが機能しにくくなると主張した。

この対立には、双方に制度上の論点があった。

特別検察官側 大統領側
刑事事件の事実確認に必要な証拠を入手したい 大統領と側近の秘密の会話を保護したい
証拠の関連性は捜査側・裁判所が判断すべき 行政内部の資料を他部門へ無制限に渡すべきではない
大統領も刑事司法手続の外にはいない 三権分立上、大統領の独立性を守る必要がある

問題は、この争いを誰が最終的に判断するのかだった。

ニクソンが自分自身で「このテープは提出しない」と最終決定できるのか。
それとも裁判所が提出を命じられるのか。

1973年秋、その争いは裁判所でニクソン側に不利な方向へ進んだ。

そこでホワイトハウスは原テープをコックスへ渡さず、第三者が内容を確認して要約を提供する妥協案を提示した。

コックスは拒否した。

ニクソンはコックスの解任を決断する。

「土曜夜の虐殺」は、突然起きた人事騒動ではない。
誰が証拠を見る権限を持つのかという数か月の対立が、最後に人事権の行使へ変わった事件だった。

アーチボルド・コックスとは誰だったのか

アーチボルド・コックスはハーバード大学法科大学院教授で、ジョン・F・ケネディ政権ではアメリカ合衆国訟務長官を務めた法律家だった。

1973年5月、エリオット・リチャードソンが司法長官へ就任する際、ウォーターゲート事件を通常の司法省組織だけで捜査するのではなく、一定の独立性を持った特別検察官を置くことが重要な条件になっていた。

5月25日、コックスはウォーターゲート特別検察官に就任した。

ここでいう「特別検察官」は、司法省から完全に切り離された独立機関ではない。
制度上は司法省の中に置かれていた。

一方で、捜査対象には大統領、ホワイトハウス職員、大統領任命職まで含まれる可能性がある。
司法長官や大統領が都合の悪い捜査を自由に止められるなら、特別検察官を置く意味がなくなる。

そのためコックスには、通常の検察官より強い独立性が与えられた。

この仕組みが、10月20日の解任問題を特に重大なものにした。

特別検察官は「大統領の部下」なのか

組織図だけを見れば、ウォーターゲート特別検察官は司法省内の機関だった。

しかし、その任務は現職大統領とホワイトハウスを含めて捜査することにある。

ここには最初から緊張関係がある。

大統領は行政部門の長であり、司法省も行政部門に属する。
その行政部門の内部で、大統領自身の行為を刑事捜査する検察官にどれほど独立性を持たせるのか。

コックスの任命時には、この問題を緩和するため、司法長官が特別検察官の捜査判断へ原則として干渉しない仕組みが設けられた。

だからこそリチャードソンは、後にニクソンから「コックスを解任せよ」と命じられた時、単純に上司の命令を実行しなかった。

自分が上院で約束し、特別検察官制度を成立させた際の独立性そのものが問われたからである。

7月16日|すべてを変えた録音システムの発覚

第6回で見たように、1973年7月16日、アレクサンダー・バターフィールドが上院ウォーターゲート委員会で、ホワイトハウスに自動録音システムが存在すると証言した。

この情報は、特別検察官にとって極めて重要だった。

ジョン・ディーンらの証言だけでなく、大統領自身と側近の会話を一次資料で確認できる可能性が生じたからである。

例えば、

  • 侵入直後にFBI捜査について何が話されたのか
  • 被告への秘密支払いを大統領がいつ知ったのか
  • ジョン・ディーンと大統領の説明のどちらが記録と一致するのか

を、実際の会話から検証できる可能性があった。

そこでコックスは録音テープの提出を求める。

7月23日|特別検察官がテープを召喚する

1973年7月23日、上院ウォーターゲート委員会と特別検察官コックスは、それぞれホワイトハウスの録音テープと関連文書を要求した。

コックス側では、連邦大陪審の召喚状を使って特定の大統領会話の録音提出を求めた。

これは「ニクソンのテープを全部公開せよ」という要求とは違う。

刑事捜査上重要と考えられる特定の会話について、証拠として提出を求めたものだった。

ところが7月25日、ニクソンは要求に応じない姿勢を示した。

大統領の説明は、単純な「隠したくないから拒否した」というものではなかった。

大統領と側近の会話には機密性が必要であり、議会・検察が要求するたびに内部会話を提出する前例を作れば、大統領が率直な助言を受けにくくなる。

これが、後に最高裁まで争われる「行政特権」の核心だった。

行政特権とは何なのか

行政特権(executive privilege)とは、大統領や行政部門が一定の内部情報を議会や司法手続から秘密にできるという考え方である。

外交、軍事、国家安全保障だけでなく、大統領が側近から率直な助言を受けるためには、内部会話が常に外部へ公開されるわけではないという保証が必要だという理屈がある。

ウォーターゲート事件の時点でも、大統領の秘密保持という考え方そのものが突然生まれたわけではなかった。

ただし問題は、

その秘密保持が刑事捜査に必要な証拠まで拒否できる「絶対的な権限」なのか

という点だった。

ニクソン側は大統領職の独立性を重視した。
コックス側は、大統領であっても刑事司法に必要な証拠を一方的に遮断できるわけではないと考えた。

この時点では、後のUnited States v. Nixonで示される最高裁の最終判断はまだ存在していない。

シリカ判事はテープ提出を命じた

争いは連邦地方裁判所へ持ち込まれた。

ウォーターゲート侵入事件の裁判を担当したジョン・シリカ判事が、今度は大統領録音テープをめぐる争いを扱うことになる。

1973年8月29日、シリカはホワイトハウスに対し、召喚された録音と資料を裁判所へ提出するよう命じる判断を示した。

重要なのは、「録音をそのまま新聞社や一般国民へ公開せよ」という判断ではなかったことである。

裁判所が内容を確認し、刑事捜査に必要な部分を判断するという司法手続だった。

ニクソン側はこれを受け入れず、上級審へ争いを持ち込んだ。

10月12日|控訴裁判所でもニクソン側が敗れる

1973年10月12日、連邦控訴裁判所は特別検察官側を支持し、ニクソンに録音をシリカ判事へ提出するよう求めた。

ニクソン大統領図書館の解説では、控訴裁判所は大統領が法の上にいるわけではないとの考えを示す一方、両者へ法廷外で妥協案を探すことも促している。

この段階でホワイトハウスは難しい状況に入った。

原テープを提出すれば、録音内容が捜査側へ渡る。

拒否を続ければ、裁判所の命令に逆らう構図になる。

そこで提示されたのが、原テープそのものをコックスへ渡さない「妥協案」だった。

Stennis compromiseとは何だったのか

1973年10月、ニクソン政権はミシシッピ州選出の民主党上院議員ジョン・ステニスを第三者として使う案を提示した。

一般に「Stennis compromise」と呼ばれる。

構想の基本は、

コックスへ原テープを直接渡す代わりに、ホワイトハウス側が内容を整理し、ステニスが原録音と照合・確認したうえで要約または記録を捜査側へ提供する

というものだった。

大統領側から見れば、これには利点がある。

国家安全保障や無関係な私的会話を含む原テープをそのまま捜査側へ渡さずに済む。
それでも第三者の上院議員が内容を確認するため、「ホワイトハウスの自己申告だけではない」という形を作れる。

しかしコックス側から見ると、重大な問題があった。

何が捜査に関連するのかを、証拠を持っている側が先に選別することになるからである。

検察官自身が原資料を確認できなければ、ホワイトハウス側が「無関係」と判断して除外した部分に重要な証拠があっても確認できない。

なぜコックスは妥協案を拒否したのか

コックスは、単に「どうしても原テープが欲しい」という理由だけで拒否したのではない。

刑事捜査では、証拠を持っている側が自分で「この部分だけが関係する」と決め、その要約だけを検察へ渡す仕組みでは、証拠の完全性を検証できない。

特にウォーターゲートでは、問題になっていたのがホワイトハウス自身の行動だった。

捜査対象となり得る側が、

「この会話は見せる」

「この部分は関係ない」

と先に選別することを、特別検察官がそのまま受け入れるわけにはいかなかった。

ニクソン図書館の記録では、10月18日ごろまでにコックスは、この提案では証拠の範囲を一方的に限定されるとして受け入れない姿勢を示している。

10月20日、コックスは記者会見を開き、妥協案を受け入れないと公に表明した。

争点が「テープ」から「特別検察官を解任できるか」へ変わる

コックスが妥協案を拒否すると、ニクソンには大きく二つの選択肢が残った。

一つは、裁判所の判断に従い原テープを提出すること。

もう一つは、テープ提出を要求し続ける特別検察官を職から外すこと。

ニクソンは後者を選んだ。

1973年10月20日、大統領は司法長官エリオット・リチャードソンへ、コックスの解任を命じた。

しかし、ここで別の問題が生じる。

特別検察官はリチャードソン自身が独立性を約束して設置した制度だった。

その司法長官が、大統領に不都合な証拠を要求したことを理由に特別検察官を解任すれば、制度の独立性は事実上失われる。

エリオット・リチャードソンは命令を拒否して辞任した

リチャードソンは、ニクソンの解任命令を実行しなかった。

National Archivesの記録では、リチャードソンは大統領との非公開会談で、上院での司法長官承認過程において特別検察官の独立性へ干渉しないと約束していたことから、コックスを解任するのではなく辞任する道を選んだと整理されている。

この点が、「大統領の命令へ反抗した一官僚」というだけではない理由である。

司法長官自身が作った特別検察官制度について、自分が議会へ与えた保証と大統領命令が衝突した。

リチャードソンは保証を破ってコックスを解任するのではなく、司法長官職を辞した。

次はウィリアム・ラッケルズハウスへ命令が移った

司法長官が辞任すると、司法省で次に指揮権を持つ立場へ命令が移る。

司法副長官ウィリアム・ラッケルズハウスだった。

ラッケルズハウスも、コックスの解任を拒否した。

この部分は資料や後世の要約で「辞任した」と書かれることもあるが、National Archivesのウォーターゲート資料では、ラッケルズハウスは命令を拒否し、その結果解任されたと整理されている。

一夜のうちに、

司法長官は辞任。

司法副長官は解任。

それでもコックスはまだ特別検察官の職にいた。

ロバート・ボークが解任命令を実行した

次に司法省の指揮を引き継いだのが、訟務長官ロバート・H・ボークだった。

訟務長官は、連邦最高裁判所などでアメリカ政府を代表する司法省高官である。

ボークはニクソンの命令を実行した。

1973年10月20日、アーチボルド・コックスはウォーターゲート特別検察官を解任された。

National Archivesの記録では、その後ボークはFBIに特別検察官事務所を封印させ、記録が失われないよう措置したとされる。

後日、Watergate Special Prosecution Force自体はいったん司法省刑事局へ機能を移される。

こうして一夜のうちに、ニクソンを捜査していた特別検察官と、司法省の上位2人がそれぞれの職を失った。

なぜ「土曜夜の虐殺」と呼ばれたのか

「Saturday Night Massacre」という名称だけを見ると、暴力的な事件を想像しやすい。

実際には人が殺害された事件ではない。

意味しているのは、土曜日の夜に司法省の指揮系統が次々と崩れたことである。

人物 役職 10月20日の結果
Elliot Richardson 司法長官 コックス解任を拒否して辞任
William Ruckelshaus 司法副長官 解任を拒否し、職を解かれる
Robert Bork 訟務長官 司法省の指揮を引き継ぎ、コックス解任を実行
Archibald Cox ウォーターゲート特別検察官 解任

通常の人事異動なら、ここまで大きな政治危機にはならない。

しかし解任されたのは、現職大統領に関係する刑事捜査を行い、その大統領へ証拠提出を要求していた検察官だった。

しかもその解任命令を、司法省トップ2人が相次いで拒否した。

だから「人事」ではなく、

大統領権限と刑事司法の独立性が正面衝突した事件

として受け止められた。

大統領にはコックスを解任する権限がなかったのか

ここは単純に「違法な解任だった」と一文で整理しない方がよい。

ウォーターゲート特別検察官は司法省の中に設置された職であり、大統領は行政部門の長である。

そのため、大統領の人事権と司法長官の権限が存在すること自体は否定できない。

一方、コックスの任命時には特別な独立性が約束されていた。

リチャードソンも議会に対し、特別検察官の捜査判断へ政治的に干渉しないことを保証していた。

したがって10月20日の核心は、

「大統領が形式上まったく命令できない人間を違法に解雇した」

という単純な話ではない。

自分自身が関係する刑事捜査で証拠提出を要求された大統領が、捜査を担当する特別検察官の解任へ人事権を使った

ことが、制度の信頼性を大きく揺るがしたのである。

FACT CHECK|「土曜夜の虐殺」で誤解されやすいこと

「土曜夜の虐殺」で死者が出た?

いいえ。
「Massacre」は政治的な呼称であり、殺傷事件ではない。

司法長官辞任、司法副長官の職務喪失、特別検察官解任が短時間に連続したことを指している。

リチャードソンとラッケルズハウスは2人とも辞任した?

公的記録では区別した方が正確である。

リチャードソンはコックス解任を拒否して辞任した。
ラッケルズハウスも解任命令を拒否したが、National Archives資料では、その結果本人が解任されたと整理されている。

ボークはニクソンの「共犯者」だった?

そのような表現は適切ではない。

ボークが実行したのは、大統領から司法省へ出されたコックス解任命令だった。
その判断の政治的・制度的評価と、ウォーターゲート隠蔽そのものへの刑事関与は別問題として扱う必要がある。

コックスは「大統領を逮捕しようとして」解任された?

いいえ。
直接の対立点はホワイトハウス録音テープの提出だった。

コックスは刑事捜査に必要な証拠として録音を召喚し、ホワイトハウス側は提出を拒否していた。

Stennis compromiseならテープは完全公開された?

いいえ。
むしろ原テープを特別検察官へ直接渡さないための妥協案だった。

第三者が録音内容を確認し、その内容を要約・認証して捜査側へ提供する構想であり、コックスは証拠を持つ側が範囲を一方的に選ぶ問題を解消できないとして拒否した。

コックスを解任したことでテープ問題は終わった?

逆だった。

解任は大きな政治的反発を引き起こし、その後ニクソンは召喚対象となったテープを裁判所へ提出する方向へ転じた。

解任はむしろ政治的反発を拡大させた

ニクソン側から見れば、コックスを解任すればテープをめぐる直接対立を終わらせられるようにも見えた。

しかし実際には、逆の効果を生んだ。

現職大統領を捜査していた検察官を、大統領自身が解任させたという事実が、議会と世論の警戒を一気に強めたからである。

ニクソン大統領図書館の資料でも、コックス解任後、議会と国民から強い批判が起きたと整理されている。

論点はウォーターゲート侵入事件だけではなくなった。

大統領が自分自身に関係する捜査へどこまで介入できるのか。

司法省は大統領の命令にどこまで従うべきなのか。

特別検察官に「独立性」があると言えるのか。

事件は制度そのものの問題へ進んでいった。

10月23日|ニクソンはテープ提出へ転じる

「土曜夜の虐殺」からわずか3日後の1973年10月23日、ニクソンは召喚対象となった録音テープを裁判所へ提出することに同意した。

National Archivesの公式年表でも、この日、大統領が召喚に従いテープを渡すことに合意したと記録されている。

つまりコックスを解任しても、テープ提出そのものを永久に阻止することはできなかった。

むしろ解任による政治的損失を受けたうえで、最終的には録音を提出する方向へ動くことになった。

ここに「土曜夜の虐殺」の逆説がある。

証拠へのアクセスを制限しようとした強硬策が、結果的には証拠提出を求める政治的・制度的圧力を強めたのである。

11月1日|レオン・ジャウォースキーが後任になる

コックスが解任されても、ウォーターゲート捜査そのものは消えなかった。

1973年11月1日、テキサス州出身の弁護士レオン・ジャウォースキーが新しい特別検察官に指名された。

さらに11月2日には、司法省内にWatergate Special Prosecution Forceが再設置された。

後任の特別検察官には、コックス解任を受けて、独立性をより明確にする制度上の保証が設けられた。

司法省は後年、この特別検察官について「司法長官の法的責任と両立する最大限の独立性」を持つものとして規定されたと説明している。

そしてジャウォースキーも、ニクソンに対する録音テープ要求を続ける。

次の争いは、1973年の9本のテープでは終わらない。

1974年4月、ジャウォースキーはウォーターゲート隠蔽事件の刑事裁判に必要な64本の録音を新たに召喚する。

その争いが、ついに連邦最高裁判所へ到達する。

18分半の空白|「土曜夜の虐殺」の後に出てきた新しい問題

1973年11月には、テープ問題にもう一つ不可解な事実が加わった。

上院委員会は11月21日、1972年6月20日のニクソンとハルデマンの会話を記録したテープに、約18分半の空白が存在することを発表した。

これはウォーターゲート侵入事件から3日後の会話だった。

ホワイトハウス側は消去は事故だったと説明し、ニクソンの秘書ローズ・メアリー・ウッズは、自分が誤って一部を消去した可能性について説明した。

しかし、約18分半すべてがどのように消えたのかについては長く議論が続くことになる。

この第7回では原因を断定しない。

確認できるのは、

重要時期の大統領録音の一部に約18分半の欠落が存在する

という事実である。

後世の「決定的な内容が意図的に消された」という説明は、確認事実と推測を分けて扱う必要がある。

時系列|テープ発覚から「土曜夜の虐殺」まで

1973年夏から秋までの出来事を並べると、10月20日の人事危機が突然起きたものではないことが分かる。

日付 出来事
1973年5月25日 アーチボルド・コックスがウォーターゲート特別検察官に就任
7月16日 バターフィールドがホワイトハウス録音システムの存在を公開証言
7月23日 上院委員会とコックスが録音テープ・文書を要求
7月25日 ニクソンがコックスの召喚への対応を拒否
8月29日 シリカ判事が録音・資料を裁判所へ提出するよう求める判断
10月12日 連邦控訴裁判所が特別検察官側を支持
10月19日 ニクソンがStennis compromiseを提示
10月20日 コックスが妥協案を拒否
同日 ニクソンがリチャードソン司法長官へコックス解任を命令
同日 リチャードソンが命令を拒否して辞任
同日 ラッケルズハウス司法副長官も命令を拒否し、職を解かれる
同日 ロバート・ボークがコックスを解任
10月23日 ニクソンが召喚対象のテープ提出へ同意
11月1日 レオン・ジャウォースキーが後任特別検察官に指名される
11月21日 上院委員会が6月20日録音の約18分半の空白を公表

「土曜夜の虐殺」が重要なのは、コックス一人の問題ではない

1973年10月20日の出来事を「頑固な検察官と大統領が喧嘩し、検察官がクビになった」と理解すると、本質を外す。

問題だったのは、現職大統領を含む可能性のある刑事捜査について、その捜査対象となり得る大統領が行政部門の人事権を使って特別検察官を排除したことである。

その命令に、司法長官と司法副長官が従わなかった。

つまり危機は、

ニクソン対コックス

だけではない。

大統領権限、司法省の独立性、刑事捜査、議会への約束、裁判所の命令が一か所で衝突した

ことにある。

そしてこの衝突によって、次の問いを避けることはできなくなった。

大統領は「行政特権」を理由に刑事事件の証拠を拒否できるのか。

大統領と検察官が争った場合、最終的に誰が判断するのか。

その答えを出すことになるのが、1974年7月24日の連邦最高裁判所だった。

まとめ|テープを守ろうとした結果、争いは最高裁へ向かった

1973年7月、ホワイトハウス録音システムの存在が明らかになると、ウォーターゲート事件の証拠構造は一変した。

アーチボルド・コックス特別検察官は、刑事捜査に必要な大統領録音を召喚した。

ニクソンは、大統領と側近の秘密の会話を保護する必要があるとして提出を拒んだ。

シリカ判事、そして連邦控訴裁判所は特別検察官側を支持した。

ホワイトハウスは第三者による確認を使ったStennis compromiseを提示したが、コックスは原証拠を捜査側が確認できないとして拒否した。

そして1973年10月20日、ニクソンはコックスの解任を命じる。

司法長官リチャードソンは拒否して辞任。
司法副長官ラッケルズハウスも拒否し、職を解かれる。
最後にロバート・ボークが解任命令を実行した。

これが「土曜夜の虐殺」である。

だが、コックスを解任しても録音テープ問題は消えなかった。

わずか3日後、ニクソンは召喚されたテープの提出へ同意する。
さらに後任のレオン・ジャウォースキーは捜査を継続した。

1974年には、再び大統領録音の提出をめぐる争いが発生する。

今度は妥協案でも、特別検察官の解任でも終わらない。

事件は連邦最高裁判所へ向かう。

次回は「United States v. Nixon」を中心に、大統領の行政特権にはどこまで限界があるのか、なぜ最高裁が大統領へ録音テープの提出を命じたのかを追う。

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第8回|大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

    [現在の記事]

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

  • National Archives — Watergate and the Constitution: Chronology

    1973年5月25日のコックス就任、7月23日の録音召喚、7月25日の拒否、10月19日のStennis compromise、10月20日の「土曜夜の虐殺」、10月23日のテープ提出同意、11月の後任特別検察官・18分半の空白など主要日付の確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — White House Tapes

    シリカ判事による録音提出判断、連邦控訴裁判所の判断、Stennis compromiseの構造、コックスの拒否、10月20日のコックス解任までの経緯確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — October 20, 1973

    コックス記者会見、ホワイトハウス発表、当日のテレビニュース記録、「Saturday Night Massacre」に関する同時代映像資料の所在確認に使用。
  • U.S. Department of Justice — Solicitor General: Archibald Cox

    コックスの経歴、ウォーターゲート特別検察官就任、録音召喚、ニクソンによる解任命令、リチャードソンらの拒否、ボークによる解任実行の確認に使用。
  • National Archives — Records of the Watergate Special Prosecution Force

    Watergate Special Prosecution Forceの設置・廃止・再設置、司法省内での制度的位置、ホワイトハウス録音をめぐる捜査記録の所在確認に使用。
  • National Archives — Watergate Exhibit Historical Review Memorandum

    リチャードソンが解任命令を拒否して辞任したこと、ラッケルズハウスが拒否後に職を解かれたこと、ボークによるコックス解任と特別検察官事務所封印の経過確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — August 29, 1973

    シリカ判事による大統領録音・文書提出命令と、ホワイトハウス側の対応確認に使用。

本記事はNational Archives、U.S. Department of Justice、Richard Nixon Presidential Libraryの公的資料を中心に構成しています。「土曜夜の虐殺」は殺傷事件ではなく、1973年10月20日に司法省上層部とウォーターゲート特別検察官をめぐって起きた政治・司法上の人事危機を指す歴史的呼称として使用しています。リチャードソン司法長官は解任命令を拒否して辞任し、ラッケルズハウス司法副長官についてはNational Archivesの記録に基づき、命令拒否後に解任されたものとして整理しています。また、コックス解任そのものをウォーターゲート隠蔽への刑事責任と直ちに同一視せず、大統領権限、特別検察官の独立性、司法手続との衝突として分離して記述しています。

大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

政治スキャンダル・権力乱用

1974年7月24日、アメリカ連邦最高裁判所は、現職大統領リチャード・ニクソンに対して、ウォーターゲート刑事裁判で召喚されていたホワイトハウス録音テープを提出しなければならないと判断した。

事件名はUnited States v. Nixon

最高裁の判断は8対0。
ウィリアム・レンキスト判事は審理に参加せず、参加した8人の判事全員がニクソン側の主張を退けた。

ただし、この判決を

「最高裁が大統領の行政特権を否定した」

とだけ理解すると正確ではない。

最高裁はむしろ、大統領と側近の秘密の会話には憲法上保護される利益が存在すると認めた。

そのうえで、

一般的な秘密保持の必要性だけを理由に、刑事裁判で具体的に必要とされる証拠を絶対的に拒否することはできない

と判断したのである。

大統領には秘密を守る権限がある。
しかし、その権限は無制限ではない。

ウォーターゲート事件で長く続いてきた「テープを誰が聞けるのか」という争いに、最高裁が憲法上の答えを示した瞬間だった。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

    [現在の記事]

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

先に結論|最高裁は何を決めたのか

United States v. Nixonで最高裁が決めたことを簡潔に整理すると、次のようになる。

争点 最高裁の判断
大統領に秘密の会話を守る権限はあるか 一定の憲法上の保護があると認めた
その権限は絶対的か 絶対的ではない
一般的な秘密保持を理由に刑事裁判の証拠提出を拒めるか 拒めない
軍事・外交・国家安全保障上の秘密も同じ扱いか その種の秘密にはより強い配慮が必要とした
召喚されたテープはどうなるか 連邦地方裁判所へ提出し、裁判所が内容を確認する

つまり最高裁は、

「行政特権は存在する。しかし刑事司法より常に上に立つ絶対的な特権ではない」

という境界線を示した。

なぜ1974年に再びテープ問題が起きたのか

第7回で見たように、1973年10月の「土曜夜の虐殺」後、ニクソンは当時召喚されていた録音テープを裁判所へ提出する方向へ転じた。

しかし、それですべての録音問題が終わったわけではない。

特別検察官アーチボルド・コックスの後任となったレオン・ジャウォースキーは、ウォーターゲート隠蔽事件の刑事捜査を継続した。

提出された初期の録音は、ホワイトハウス高官らに対する捜査を裏付ける重要資料となった。

1974年3月1日には、連邦大陪審がジョン・ミッチェル、H・R・ハルデマン、ジョン・アーリックマンら複数の元政権高官をウォーターゲート隠蔽事件で起訴する。

刑事裁判を準備するため、特別検察官側はさらに大統領会話の録音が必要だと判断した。

1974年4月16日|ジャウォースキーが64本の録音を召喚

1974年4月16日、特別検察官レオン・ジャウォースキーは、大統領と側近の会話を記録した追加の録音テープを求める召喚状を出した。

ニクソン大統領図書館は、この要求を64本の追加録音に対する召喚と整理している。

目的は政治的にニクソンを追及することではなく、すでに起訴されていたウォーターゲート隠蔽事件の被告らに対する刑事裁判で使用する証拠を得ることだった。

この点が非常に重要である。

United States v. Nixonは、

「議会が大統領へ資料を求めた事件」

ではない。

刑事裁判のために特別検察官が証拠を召喚した事件

である。

議会の召喚と刑事裁判の召喚は別問題

ウォーターゲートでは、上院委員会も下院司法委員会も大統領資料を求めていた。

そのため、複数の「テープ提出問題」が混同されやすい。

要求主体 目的
上院ウォーターゲート委員会 議会調査
下院司法委員会 弾劾調査
ウォーターゲート特別検察官 刑事捜査・刑事裁判

United States v. Nixonで最高裁が直接判断したのは、3番目である。

最高裁自身も、この判決で議会による情報要求との関係を全面的に判断したわけではない。

したがって、

「United States v. Nixonによって、議会はいつでも大統領の秘密資料を入手できるようになった」

という理解は正しくない。

ニクソン側はなぜ提出を拒否したのか

ニクソン側は、再び行政特権と三権分立を理由に召喚へ抵抗した。

大統領の主張には、制度的な根拠がまったくなかったわけではない。

大統領が政策を決めるためには、側近が率直に意見を述べる必要がある。

もし大統領との会話が後から簡単に裁判所、議会、一般社会へ公開されるのであれば、側近は自由に意見を言いにくくなる。

その結果、大統領の意思決定能力が低下する可能性がある。

現在「presidential communications privilege」と呼ばれる考え方の中心も、ここにある。

ニクソン側は、この秘密保持利益に加え、行政部門と司法部門は独立しており、司法が大統領へ証拠提出を強制すること自体が三権分立を侵すと主張した。

「行政特権」という言葉は憲法本文には書かれていない

アメリカ合衆国憲法には、「executive privilege」という言葉そのものは明記されていない。

しかし最高裁はUnited States v. Nixonで、大統領の秘密保持利益が憲法上まったく存在しないとは考えなかった。

大統領が憲法上の職務を効果的に行うためには、大統領と側近の一定の秘密の意思決定過程を保護する必要がある。

その意味で、秘密保持の利益は三権分立と大統領権限から導かれる憲法上の利益だと認めた。

この点は、ニクソン側にとって部分的には重要な勝利でもあった。

最高裁は、

「大統領に秘密保持の権利など存在しない」

とは言っていないからである。

争点は、その強さだった。

ニクソン側が求めたのは「絶対的な特権」だった

問題となった録音について、ニクソン側は外交や軍事上の具体的秘密が含まれているという主張を中心にしていたわけではなかった。

より一般的な、

「大統領と側近の会話は秘密でなければならない」

という利益を根拠にしていた。

そしてニクソン側は、三権分立と大統領職の独立性から、裁判所がその判断へ介入すべきではないという強い立場を取った。

最高裁が受け入れなかったのは、この「絶対性」である。

判決は、三権分立も高官間の秘密保持の必要性も、それだけでは司法手続から完全に免れる絶対的・無条件の大統領特権を支えられないとした。

5月20日|シリカ判事が再びニクソン側を退ける

召喚をめぐる争いは、再びジョン・シリカ判事の連邦地方裁判所へ持ち込まれた。

1974年5月20日、シリカはニクソン側の主張を退け、召喚対象の録音を提出するよう命じた。

ニクソン側はこれを不服として上級審へ争う方針を取った。

一方、ジャウォースキーは事件の重大性と時間的緊急性から、通常の控訴手続を最後まで待たず、最高裁に直接問題を扱うよう求めた。

最高裁は事件を受理する。

こうして大統領と特別検察官の争いは、アメリカ司法の最終審へ到達した。

最高裁は「大統領と特別検察官の争い」を裁けるのか

United States v. Nixonには、テープの内容以前にもう一つ重要な問題があった。

大統領も特別検察官も、広い意味では行政部門の中にいる。

それなら、

「行政部門内部の争いを裁判所が判断してよいのか」

という問題である。

ニクソン側には、これは司法が判断すべき事件ではないという主張もあった。

しかし最高裁は、この争いを司法判断できる事件として扱った。

特別検察官には司法省の規則によって独立した捜査・訴追権限が与えられており、その権限を使って有効な刑事召喚を行っている。

その召喚へ大統領が法的な特権を主張した以上、裁判所がその有効性を判断できるとしたのである。

1974年7月8日|最高裁で口頭弁論

1974年7月8日、最高裁で口頭弁論が行われた。

特別検察官側と、ニクソンの弁護士ジェームズ・D・セントクレアがそれぞれ主張を行った。

争点は単に、

「ニクソンは怪しいからテープを出せ」

というものではない。

大統領の秘密保持利益と、刑事裁判で事実を明らかにする司法の必要性を、憲法上どのように調整するかという問題だった。

最高裁はこの重大事件を迅速に審理した。

口頭弁論から判決まで16日しかかかっていない。

7月24日|8対0の判決

1974年7月24日、最高裁は判決を言い渡した。

首席判事ウォーレン・バーガーが法廷意見を書いた。

結果は8対0。

ウィリアム・レンキスト判事は、ニクソン政権の司法省で勤務していた経歴などからこの事件の審理に参加しなかった。

そのため「9人全員一致」ではない。

参加した8人の判事による全員一致

と表現するのが正確である。

最高裁は行政特権を認めた

判決の最も重要な点の一つは、最高裁がニクソンの主張を全面否定しなかったことである。

最高裁は、大統領が職務を果たすためには秘密の助言や自由な議論が必要であり、大統領と側近の会話には保護される利益が存在すると認めた。

大統領の意思決定過程を何でも無制限に外部へ公開させれば、行政機能へ悪影響を与える可能性がある。

したがって行政特権には憲法上の基盤がある。

ここまではニクソン側の論理の一部を認めている。

しかし、その次が決定的だった。

「秘密であること」だけでは刑事司法を止められない

今回のテープについてニクソン側が主張していたのは、主として大統領会話に対する一般的な秘密保持利益だった。

最高裁は、それだけでは刑事裁判で具体的に必要な証拠の提出を拒むには足りないと判断した。

刑事司法には、被告の有罪・無罪を正しく判断するため、関連する証拠を可能な限り利用できることが重要になる。

証拠が大統領の手元にあるという理由だけで司法手続から完全に除外されれば、裁判所が事実を確認する機能が損なわれる。

最高裁は、大統領の秘密保持利益と司法の証拠需要を比較した結果、今回の状況では後者が優越すると判断した。

軍事・外交秘密なら同じ結論になるとは限らない

最高裁は、あらゆる大統領機密を同じ強さで扱ったわけではない。

判決では、軍事・外交・国家安全保障に関する秘密について、裁判所が伝統的に大きな配慮を与えてきたことも指摘している。

今回問題となったニクソンの主張は、そのような具体的な国家安全保障上の秘密ではなく、大統領会話全般に対する一般的な秘密保持だった。

したがって、

「最高裁は国家安全保障上の大統領機密もすべて刑事裁判へ提出せよと命じた」

という理解も正しくない。

判決は、どのような秘密が問題になっているのかを区別している。

テープはすぐ一般公開されたのか

いいえ。

最高裁は召喚対象のテープを直ちに新聞社や一般国民へ公開するよう命じたわけではない。

テープはまず連邦地方裁判所へ提出される。

シリカ判事が内容を非公開で確認し、刑事裁判に関連する部分を特別検察官側へ渡す。

これをin camera reviewと呼ぶ。

つまり最高裁は、

大統領の秘密保持利益を完全に無視する

のではなく、

裁判所が間に入り、必要な証拠だけを刑事司法へ提供する

という仕組みを認めた。

判決当日、ニクソンは従うと表明した

1974年7月24日、最高裁判決を受け、ニクソンは裁判所の判断に従う意向を表明した。

ここで「大統領が最高裁判決を無視する」という憲政上さらに深刻な局面には進まなかった。

ニクソン側は録音テープをシリカ判事へ提出する作業に入る。

そしてその中に含まれていたのが、1972年6月23日のニクソンとH・R・ハルデマンの会話だった。

後に「Smoking Gun」と呼ばれる録音である。

最高裁判決そのものがニクソンを辞任させたわけではない

ここでも因果関係を分ける必要がある。

7月24日の最高裁判決は、

「ニクソンは有罪である」

「ニクソンを弾劾せよ」

「ニクソンは辞任せよ」

と判断したものではない。

最高裁が判断したのは、刑事裁判のために召喚された録音テープを行政特権だけで拒否できるかという法的問題である。

大統領の刑事責任や弾劾責任を最終判断した判決ではない。

それでも政治的影響が極めて大きかった理由は明確だった。

判決によって、これまでホワイトハウス内部に留められていた録音を捜査側が入手できるようになったからである。

判決そのものではなく、

判決によって提出された証拠の内容

がニクソンの立場を決定的に悪化させることになる。

同じ週、下院では弾劾手続が進んでいた

最高裁判決が出た時点で、下院司法委員会ではニクソン大統領の弾劾調査がすでに最終段階へ入っていた。

判決から3日後の7月27日、司法委員会は第1の弾劾条項を採択する。

中心となったのはウォーターゲート捜査への司法妨害だった。

7月29日には権力濫用を内容とする第2条項。

7月30日には議会の召喚要求へ従わなかったことを扱う第3条項が採択された。

つまり1974年7月下旬、大統領は二つの制度から同時に圧力を受けていた。

司法 議会
最高裁が刑事召喚へのテープ提出を命じる 下院司法委員会が弾劾条項を審議・採択

ただし両者は同じ手続ではない。

最高裁は刑事司法に必要な証拠提出を判断し、下院は大統領を弾劾すべきかを憲法上の政治手続として判断していた。

FACT CHECK|United States v. Nixonで誤解しやすいこと

最高裁は「行政特権は存在しない」と判断した?

いいえ。

むしろ最高裁は、大統領の職務と三権分立に由来する秘密保持利益を認めた。

そのうえで、それが一般的な秘密保持を理由とする限り、刑事司法から完全に免れる絶対的特権ではないと判断した。

判決は9対0だった?

正確には8対0である。

ウィリアム・レンキスト判事は審理に参加しなかったため、参加した8判事による全員一致だった。

最高裁はニクソンを有罪と認定した?

いいえ。

United States v. Nixonはニクソン本人の有罪・無罪を判断する刑事裁判ではない。
録音テープに対する刑事召喚へ大統領が行政特権を主張できる範囲を争った事件である。

最高裁がニクソンへ「辞任せよ」と命じた?

いいえ。

辞任は8月にニクソン自身が行った政治的判断である。
最高裁が命じたのは召喚された証拠の提出だった。

この判決で議会は大統領資料を自由に召喚できるようになった?

いいえ。

United States v. Nixonが直接扱ったのは刑事裁判の召喚であり、議会調査における行政特権とのバランスを全面的に判断した判決ではない。

テープは判決直後に一般公開された?

いいえ。

まず地方裁判所へ提出され、裁判所が非公開で内容を確認し、刑事事件に必要な部分を扱う手続が取られた。

なぜこの判決が現在まで重要なのか

United States v. Nixonは、単にウォーターゲート事件の一場面として重要なのではない。

大統領権限と司法権の境界について、現在まで引用され続ける基本判例となった。

判決が示したのは、

大統領職には独自の憲法上の権限が存在する。

しかし、

三権分立は「各部門が他部門から完全に切り離される」という意味ではない

という考え方だった。

司法には刑事裁判で事実を明らかにする憲法上の役割がある。

大統領が一般的な秘密保持を主張するだけで、裁判所がその証拠を一切確認できなくなれば、司法権そのものが機能しなくなる。

だから最高裁は、大統領の秘密保持利益を認めながら、それを司法手続より常に優先する絶対的な権限とはしなかった。

司法が判断したのは「誰が正しいか」ではなく「誰が証拠を見られるか」

ウォーターゲート事件では、人間の証言が何度も食い違った。

ディーンは大統領が隠蔽を知っていたと証言する。

ニクソン側は否定する。

側近たちも、自分の責任と他人の責任について異なる説明をする。

そこで重要になったのが、ホワイトハウス録音だった。

United States v. Nixonで最高裁が直接判断したのは、

「ディーンが正しい」

でも、

「ニクソンが嘘をついている」

でもない。

刑事裁判で必要な証拠なら、裁判所がそのテープを確認できなければならない

という手続上の原則だった。

しかし、その手続上の判断によって、最終的には録音内容そのものが表へ出る。

制度が証拠への道を開き、その証拠が政治的結論を変える。

ウォーターゲート事件を象徴する流れの一つである。

時系列|64本の召喚から最高裁判決まで

日付 出来事
1974年3月1日 ウォーターゲート隠蔽事件で元政権高官らが起訴される
4月16日 特別検察官ジャウォースキーが64本の追加録音を召喚
4月30日 ニクソンが編集されたホワイトハウス録音の書き起こしを公表
5月20日 シリカ判事がニクソン側の主張を退け、召喚への対応を命じる
その後 ニクソン側が上級審へ争い、ジャウォースキーが最高裁による迅速な審理を求める
7月8日 連邦最高裁判所で口頭弁論
7月24日 最高裁が8対0でニクソン側の主張を退け、録音提出を命じる
7月27日 下院司法委員会が第1弾劾条項を採択
7月29日 第2弾劾条項を採択
7月30日 第3弾劾条項を採択
8月5日 1972年6月23日の「Smoking Gun」録音内容が公表される

最高裁判決の後に残ったもの

7月24日の時点でも、ニクソンが辞任することは法的に決定していなかった。

下院本会議で弾劾されてもいない。
上院で弾劾裁判が行われてもいない。

しかし最高裁判決により、ニクソンがこれまで行政特権で守ってきた録音を提出しなければならないことが確定した。

その中に何が入っているのか。

それが次の焦点になる。

そして提出された資料の中から、1972年6月23日の会話が現れる。

ウォーターゲート侵入事件発生からわずか6日後。

ニクソンとH・R・ハルデマンが、FBIの資金追跡をCIA経由で抑える方法について話していた録音である。

この会話は、それまでの大統領側の説明と両立しにくかった。

「大統領が隠蔽へ関与したことを示す決定的証拠」と受け止められ、後にSmoking Gun Tapeと呼ばれる。

まとめ|「大統領だから出さなくてよい」は通らなかった

United States v. Nixonは、行政特権を破壊した判決ではない。

最高裁は、大統領と側近の秘密の会話には憲法上保護される利益があることを認めた。

しかし、その利益を絶対的なものとはしなかった。

一般的な秘密保持の必要性だけを理由に、刑事裁判で具体的に必要とされる証拠を完全に遮断することはできない。

参加した8人の最高裁判事は全員、この結論で一致した。

1974年7月24日、ニクソンは召喚された録音を裁判所へ提出しなければならなくなった。

ただし最高裁がニクソンを有罪と認定したわけではない。
辞任を命じたわけでもない。

最高裁が開いたのは、証拠への扉だった。

そして、その扉の向こうにあった録音が、ニクソンの政治的立場を決定的に変える。

8月5日、「Smoking Gun」と呼ばれる1972年6月23日の会話が公開される。

それまでニクソンを支持していた共和党議員の間でも、支持を維持することが難しくなっていく。

一方、下院司法委員会はすでに3つの弾劾条項を採択していた。

残された時間は短かった。

次回は、最高裁判決からSmoking Gun Tapeの公開、下院司法委員会の3つの弾劾条項、そして1974年8月9日のニクソン辞任までを追う。

前の記事:

第7回|録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

次の記事:

第9回|「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

    [現在の記事]

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

  • Constitution Annotated — Overview of Executive Privilege

    行政特権が憲法本文に明記された権限ではないこと、大統領職と三権分立から導かれる秘密保持利益であることの確認に使用。
  • Constitution Annotated — Presidential Communications Privilege Generally

    大統領と側近の自由な意思決定・率直な助言を守るため、presidential communications privilegeが認められる理論的根拠の確認に使用。
  • Constitution Annotated — Prosecutorial and Grand Jury Access to Presidential Information

    United States v. Nixonが刑事召喚に対する行政特権を扱った判例であること、一般的秘密保持では絶対的な司法手続免除を認めなかったことの確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — White House Tapes

    1974年4月16日の64本の録音召喚、5月20日のシリカ判決、7月8日の口頭弁論、7月24日の8対0判決、レンキスト判事の不参加、判決後にSmoking Gun録音へ到達した流れの確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — July 24, 1974

    United States v. Nixon判決当日の記録、ニクソンが最高裁判決に従う意向を表明したことの確認に使用。
  • National Archives — Watergate and the Constitution: Chronology

    1974年4月16日の追加テープ召喚、7月24日の最高裁判決、7月27~30日の3つの弾劾条項、8月9日の辞任までの主要日付確認に使用。
  • National Archives — Records of the Watergate Special Prosecution Force

    レオン・ジャウォースキー特別検察官の捜査、ホワイトハウスからの証拠取得、ウォーターゲート隠蔽事件の刑事裁判に関する記録の所在確認に使用。

本記事はConstitution Annotated、National Archives、Richard Nixon Presidential Library、Watergate Special Prosecution Forceの公的資料を中心に構成しています。United States v. Nixonは行政特権そのものを否定した判決ではなく、大統領の意思決定を保護する秘密保持利益を憲法上認めたうえで、一般的な秘密保持を理由とする絶対的・無条件の司法手続免除を否定した判決として整理しています。また、本件は刑事裁判で使用する証拠の召喚をめぐる事件であり、議会による大統領資料の要求一般について最高裁が全面的に判断した事件とはしていません。最高裁判決そのものがニクソンの有罪、弾劾、辞任を決定したわけではなく、判決によって提出された録音内容がその後の政治過程へ重大な影響を与えたものとして区別しています。

「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

政治スキャンダル・権力乱用

1974年8月5日、ホワイトハウスは新たに3つの会話記録を公表した。

その中に、1972年6月23日――ウォーターゲート侵入事件からわずか6日後――に行われたリチャード・ニクソン大統領と首席補佐官H・R・ハルデマンの会話が含まれていた。

そこで二人は、FBIが侵入犯の資金を追跡していることを話し、CIAからFBIへ働きかけ、捜査を抑える方法を検討していた。

現在、この録音は「Smoking Gun Tape」と呼ばれている。

重要なのは、録音が単に「ニクソンに不利な発言」を含んでいたことではない。

それまでニクソンは、自分がウォーターゲート隠蔽に関与したという見方を否定してきた。
ところが録音は、事件発生直後の段階から大統領自身がFBI捜査を制限する方法について話していたことを示していた。

しかも8月5日の時点で、下院司法委員会はすでに司法妨害、権力濫用、議会侮辱という3つの弾劾条項を採択していた。

Smoking Gun Tapeの公開によって、それまでニクソンを支持していた共和党議員の間でも防御は急速に崩れる。

8月8日夜、ニクソンはテレビ演説で辞任を発表した。
翌8月9日、アメリカ史上初めて大統領が任期途中で辞任する。

今回は、最高裁判決からわずか16日後に大統領辞任へ至った最後の局面を追う。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

    [現在の記事]

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

先に結論|ニクソンはなぜ辞任したのか

ニクソン辞任を「Smoking Gun Tapeが出たため」と一文で説明することはできる。

しかし、実際には複数の制度がすでに大統領を追い詰めていた。

制度・証拠 1974年夏の状況
特別検察官 ウォーターゲート隠蔽事件を刑事捜査し、大統領録音を召喚
連邦最高裁判所 7月24日、大統領に召喚対象テープの提出を命じる
下院司法委員会 7月27~30日、3つの弾劾条項を採択
Smoking Gun Tape 8月5日、侵入直後の捜査介入を示す会話が公表される
議会内の政治的支持 それまで大統領を擁護していた共和党議員まで急速に離反

Smoking Gun Tapeが重要だったのは、ゼロから弾劾問題を生み出したからではない。

すでに進んでいた弾劾手続の中で、

「大統領自身が隠蔽へ関与したのか」という最大の争点に直接答える録音が現れた

からである。

その結果、下院本会議で弾劾され、さらに上院で有罪となって罷免される可能性が現実的になった。

ニクソンはその手続が完了する前に辞任した。

弾劾とは何なのか|刑事裁判とは別の制度

ここで「弾劾」を簡単に整理しておく。

アメリカ大統領を任期途中で罷免するためには、通常の刑事裁判とは別に、憲法上の弾劾手続がある。

大まかな流れは次のとおりである。

段階 機関 役割
1 下院 弾劾条項を採決。過半数で可決すれば大統領は「弾劾」される
2 上院 弾劾裁判を行う
3 上院 出席議員の3分の2が有罪と判断すれば罷免

下院司法委員会は、この最初の段階へ進む前に、弾劾すべき根拠が存在するかを調査・審議する役割を担った。

したがって、司法委員会が弾劾条項を採択しただけでは、ニクソンはまだ下院によって正式に弾劾されたことにはならない。

1974年2月6日|下院が正式な弾劾調査を承認

ウォーターゲートをめぐるニクソン大統領の行為について、下院では1973年から弾劾を求める動きが強まっていた。

1974年2月6日、下院は司法委員会に対し、ニクソンを弾劾する十分な根拠が存在するか正式に調査する権限を与えた。

司法委員会は証拠を収集し、ホワイトハウスへ資料を召喚し、5月から本格的な弾劾審理を進めた。

焦点はDNC本部への侵入をニクソン自身が命じたかという一点ではない。

侵入後の司法妨害、大統領権限の濫用、FBIやCIAなど連邦機関の利用、議会召喚への不服従など、大統領職の行使全体が対象となった。

7月27日|第1弾劾条項「司法妨害」

1974年7月27日、下院司法委員会は最初の弾劾条項を採択した。

採決は27対11

内容の中心は、ウォーターゲート侵入事件とその後の捜査に対する司法妨害だった。

委員会が問題とした行為には、

  • 捜査機関へ虚偽・誤解を招く情報を与えること
  • 重要な証拠や情報を隠すこと
  • 被告や関係者へ秘密の資金を渡すこと
  • 証人の証言へ影響を与えること
  • FBI、司法省、特別検察官などの捜査を妨害すること
  • CIAを利用してFBI捜査を制限しようとすること

などが含まれた。

第1条の核心は、「大統領が侵入を命令した」という告発ではない。

侵入発覚後の捜査と司法手続を妨害するため、大統領権限を含むさまざまな手段を使った

という告発だった。

7月29日|第2弾劾条項「権力濫用」

7月29日、司法委員会は第2の弾劾条項を28対10で採択した。

こちらの範囲はウォーターゲート隠蔽だけより広い。

大統領が憲法上の権限を、政治的利益や政敵への圧力のために利用したという「権力濫用」が問題になった。

委員会報告では、FBI、CIA、IRSなど連邦政府機関の不適切な利用、違法・不適切な監視、行政機関への干渉、大統領職を使った情報収集や政治的圧力などが問題として整理された。

つまり第1条が「ウォーターゲート隠蔽」を中心にしているのに対し、第2条はより広く、

大統領権限そのものをどのように使ったのか

を問う条項だった。

7月30日|第3弾劾条項「議会召喚への不服従」

翌7月30日には、第3の弾劾条項が21対17で採択された。

問題となったのは、下院司法委員会が発した複数の召喚状へニクソンが十分に応じなかったことだった。

司法委員会は、弾劾調査のために必要な録音や文書を要求していた。

しかし大統領側は行政特権や三権分立を理由として、一部の提出要求を拒否した。

委員会はこれを、憲法上の弾劾調査を行う下院の権限に対する不当な抵抗と判断した。

採択されたのは3つ|他の弾劾案は否決された

司法委員会では、ニクソンに関するあらゆる問題が自動的に弾劾条項となったわけではない。

7月30日には、カンボジア爆撃を議会から隠した問題や、税金・私有地への政府支出などを扱う追加条項も検討された。

しかし、これら2案はいずれも12対26で否決された。

この点は重要である。

司法委員会は「ニクソンに関係する疑惑をすべて採択した」のではない。

審議の結果、

  • 司法妨害
  • 権力濫用
  • 議会召喚への不服従

の3条項を下院本会議へ勧告することを決めた。

この時点ではSmoking Gun Tapeはまだ公表されていなかった

ここがウォーターゲート最後の局面を理解する重要なポイントである。

3つの弾劾条項は7月27日から30日に採択された。

一方、Smoking Gun Tapeの内容が公表されたのは8月5日である。

つまり司法委員会は、

6月23日の決定的な会話を公に確認する前から、すでに弾劾を勧告するだけの証拠が存在すると判断していた

ことになる。

Smoking Gun Tapeが「弾劾手続をゼロから始めた」のではない。

すでに採択された弾劾条項に対する大統領側の防御を、大幅に弱めた証拠だった。

8月5日|ニクソン自身が3つの会話記録を公表する

最高裁判決に従う過程で、ホワイトハウスは召喚された録音を確認した。

その中に、1972年6月23日にニクソンとハルデマンが行った会話があった。

1974年8月5日、ニクソンはこの日に行われた3つの会話の書き起こしを下院司法委員会へ提供し、一般にも公表した。

ニクソン自身の同日の声明も重要である。

大統領は、6月23日の会話の一部が、それまで自分が行ってきた説明と一致していないことを認めた。

さらに、これまで自分を擁護してきた弁護士や議員が、不完全で一部誤った情報をもとに判断していたことについて、自ら責任を認めた。

つまり8月5日は、外部の調査機関だけが「大統領の説明は間違っていた」と指摘した日ではない。

ニクソン自身が、過去の説明と新たに公開する録音との間に矛盾があることを認めざるを得なくなった日だった。

Smoking Gun Tapeには何が録音されていたのか

問題の会話は1972年6月23日、大統領執務室で行われた。

参加者はニクソンとH・R・ハルデマン。

ウォーターゲート侵入事件発生から6日後である。

ニクソン大統領図書館が公開する録音要約では、二人はFBIが侵入犯の資金源を追跡していることを話している。

そしてCIAからFBIへ働きかけ、ウォーターゲート捜査を止めさせる方法を検討した。

建前として使われようとしていたのは、捜査を続ければ国家安全保障上の秘密やCIA活動へ影響するという説明だった。

しかし実際には、資金追跡によってニクソン再選委員会側の人物へ捜査が近づいていた。

だからこの録音は、

「ウォーターゲート侵入をニクソンが命令した証拠」

ではなく、

侵入発覚直後から、ニクソン自身がFBI捜査を抑える方法について話していた証拠

として決定的な意味を持った。

なぜ「Smoking Gun」と呼ばれたのか

英語の「smoking gun」は、直訳すれば「煙を出している銃」である。

事件直後、容疑者の手に発砲直後の銃が残っていれば、犯行との直接性が極めて高い。

そこから「決定的証拠」を意味する表現として使われる。

6月23日の録音も、後世から見ればそれに近い性格を持っていた。

ニクソンがいつ隠蔽を知ったのか。

この問いについて、事件から6日後の本人の会話が残されていたからである。

なぜ8月5日まで決定的にならなかったのか

録音自体は1972年6月23日に存在していた。

しかし証拠は、存在するだけでは政治や裁判を動かせない。

1973年7月まで、外部は録音システムの存在そのものを知らなかった。

存在が明らかになった後も、ニクソンは行政特権を理由に録音提出へ抵抗した。

特別検察官との争いは「土曜夜の虐殺」へ発展し、1974年にはUnited States v. Nixonとして最高裁へ進んだ。

7月24日の最高裁判決がなければ、6月23日の会話を捜査側が確認する道はさらに困難だった可能性がある。

つまりSmoking Gun Tapeは、

録音システムの発覚
→ 召喚
→ 大統領の拒否
→ 特別検察官との争い
→ 最高裁判決
→ テープ提出

という制度的な過程を経て、ようやく大統領本人の外へ出た証拠だった。

8月5日以降、共和党内でも支持が崩れた

弾劾手続が進んでいても、ニクソンにはそれまで一定の共和党支持が残っていた。

下院本会議で弾劾条項が可決されても、最終的な罷免には上院で3分の2の有罪票が必要になる。

したがって、共和党上院議員が大統領支持を維持できれば、ニクソンが上院で罷免を回避する可能性は残っていた。

Smoking Gun Tapeは、その政治計算を変えた。

8月5日、録音が公開されると、それまで大統領を擁護していた議員の間でも離反が広がった。
ニクソン図書館に保存されている当時のニュース記録でも、共和党議員による擁護が急速に崩れていく状況が確認できる。

もはや問題は、

「下院で弾劾されるか」

だけではない。

上院の弾劾裁判でも大統領職を維持できない可能性が高まった

のである。

8月7日|共和党指導部がホワイトハウスへ向かう

1974年8月7日、ニクソンは共和党の主要議会指導者と会談した。

参加したのは、

  • 上院少数党院内総務ヒュー・スコット
  • 下院少数党院内総務ジョン・ローズ
  • 上院の重鎮バリー・ゴールドウォーター

だった。

ニクソン大統領図書館には、3人がホワイトハウスでニクソンと会談し、その後記者団へ状況を説明する写真・音声・映像記録が残っている。

彼らが伝えたのは、議会内の状況が極めて厳しいという現実だった。

とりわけ重要なのは、ゴールドウォーターが反ニクソン派の民主党議員だったわけではないことである。

1964年共和党大統領候補で、保守派を代表する大物共和党議員だった。

そのような人物を含む党指導部からも、議会で大統領を守ることが難しい状況を伝えられた。

ニクソンに残された政治的選択肢は急速に狭まっていた。

「辞任」か「弾劾手続を最後まで受ける」か

それでも、ニクソンに辞任の法的義務が生じたわけではない。

大統領には、下院本会議の弾劾採決を受け、可決された場合は上院の弾劾裁判まで進む選択肢があった。

理論上は、最後まで無罪を主張することもできた。

しかし政治的には、

  • 下院司法委員会が3条項を採択済み
  • 最高裁判所がテープ提出を命令
  • Smoking Gun Tapeが公表
  • これまでの大統領説明との矛盾が明確化
  • 共和党指導部の支持も崩壊

という状況になっていた。

仮に弾劾手続を続けても、下院本会議での可決、さらに上院での有罪・罷免へ進む可能性が高まっていた。

8月8日|ニクソンがテレビ演説で辞任を発表

1974年8月8日夜、ニクソンは大統領執務室から全米へテレビ・ラジオ演説を行った。

そこで、大統領職を辞任することを発表した。

ニクソンは演説の中で、ウォーターゲート問題を最後まで憲法上の手続に委ねたいと考えていたものの、議会でそれを続けるだけの政治的基盤を失ったと説明した。

ここは辞任理由を理解するうえで重要である。

辞任演説でニクソンが、

「自分はウォーターゲート犯罪で有罪だから辞任する」

と認めたわけではない。

むしろ、大統領として政策を遂行するために必要な議会支持を失い、これ以上弾劾問題を続けることが国益にならないという政治的理由を説明している。

辞任演説でニクソンは「弾劾」という言葉を使わなかった

National Archivesの展示解説では、ニクソンの辞任演説について興味深い点が指摘されている。

約16分の演説で、ニクソンは外交政策など大統領としての成果にも触れ、自分が政治的基盤を失ったことを辞任理由として説明した。

一方、「impeachment――弾劾」という言葉は使用しなかった。

また、大統領権力濫用について全面的な責任を認める演説でもなかった。

そのため、辞任したことと、ウォーターゲートに関するすべての法的・歴史的評価を本人が受け入れたことは分けて考える必要がある。

1974年8月9日|非常に短い辞表

翌8月9日朝、ニクソンは正式な辞表へ署名した。

文書は驚くほど短い。

国務長官ヘンリー・キッシンジャーへ宛て、大統領職を辞任することだけを簡潔に伝えた文書である。

National Archivesには現在も原本が保存されている。

辞任文書が国務長官へ送られたのは、1792年以来の法律上、大統領の辞任が国務長官へ提出される仕組みになっていたためである。

辞任は「正午」ではなく11時35分に法的効力を持った

ここには細かながら重要な時刻上の違いがある。

8月8日のテレビ演説でニクソンは、翌日正午をもって辞任すると発表した。

しかしNational Archivesが保存する辞表原本には、キッシンジャーのイニシャルと11:35 AMという記載がある。

National Archivesは、辞任文書がキッシンジャーによって受領・確認された1974年8月9日午前11時35分に効力を持ったと説明している。

その後、正午にジェラルド・フォードが大統領宣誓を行った。

したがって、

政治的には「正午で辞任」と発表されていたが、正式な辞任文書は11時35分に効力を持った

と区別すると正確である。

ホワイトハウスを去るニクソン

8月9日朝、ニクソンはホワイトハウス職員へ最後の演説を行った。

その後、家族とともにホワイトハウスを離れ、サウスローンから大統領専用ヘリコプターへ乗った。

階段上で両腕を上げ、「V」のサインを示す姿は、ニクソン辞任を象徴する写真として残っている。

ニクソンはカリフォルニアへ向かった。

その日の正午、ジェラルド・フォード副大統領が第38代アメリカ合衆国大統領に就任した。

1972年6月17日に始まったウォーターゲート事件は、ここで現職大統領の辞任という前例のない結果へ達した。

ニクソンは「弾劾された大統領」なのか

結論から言えば、正式には違う。

下院司法委員会は3つの弾劾条項を採択し、下院本会議へ勧告することを決めた。

しかしニクソンは、本会議で弾劾条項が採決される前に辞任した。

そのため、

ニクソンは「下院によって弾劾された大統領」ではない。

より正確には、

下院司法委員会が弾劾条項を採択し、本会議での弾劾が迫る中で辞任した大統領

である。

当然、上院による弾劾裁判も実施されていない。

FACT CHECK|ニクソン辞任で誤解しやすいこと

Smoking Gun Tapeが公開されて初めて弾劾手続が始まった?

いいえ。

下院は1974年2月6日に正式な弾劾調査を承認しており、司法委員会は7月27~30日に3つの弾劾条項を採択している。

Smoking Gun Tapeの公表は8月5日で、その後である。

Smoking Gun Tapeはニクソンが侵入を命令した証拠?

いいえ。

決定的だったのは、侵入発覚から6日後の時点で、ニクソン自身がCIAを利用してFBIの資金追跡を抑える方法について話していたことである。

下院司法委員会は全会一致で弾劾を勧告した?

いいえ。

第1条は27対11、第2条は28対10、第3条は21対17で採択された。

党派を越えた賛成は存在したが、全会一致ではない。

ニクソンは下院で弾劾された後に辞任した?

いいえ。

下院本会議での弾劾条項採決が行われる前に辞任した。

最高裁がニクソンを辞任させた?

いいえ。

United States v. Nixonで最高裁が命じたのは刑事裁判に必要な録音テープの提出である。

その結果提出された録音内容がニクソンの政治的立場を決定的に悪化させた。

8月9日正午ちょうどにニクソンの辞任が成立した?

公に発表された予定では正午だった。

しかしNational Archivesによれば、正式な辞表は国務長官キッシンジャーが午前11時35分に受領・イニシャルした時点で効力を持った。
フォードは正午に宣誓した。

時系列|最高裁判決から辞任までの16日間

日付 出来事
1974年7月24日 United States v. Nixon。最高裁が召喚対象テープの提出を命じる
7月27日 下院司法委員会が第1弾劾条項「司法妨害」を27対11で採択
7月29日 第2弾劾条項「権力濫用」を28対10で採択
7月30日 第3弾劾条項「議会召喚への不服従」を21対17で採択
8月5日 ニクソンが6月23日の3つの会話記録を公開。「Smoking Gun」録音が表に出る
8月5~7日 共和党議員を含む議会内の大統領支持が急速に崩れる
8月7日 ヒュー・スコット、ジョン・ローズ、バリー・ゴールドウォーターがニクソンと会談
8月8日夜 ニクソンがテレビ演説で辞任を発表
8月9日 11時35分 辞表を国務長官キッシンジャーが受領し、正式に効力を持つ
8月9日 正午 ジェラルド・フォードが第38代大統領に就任

なぜ「証拠」が最後に政治を変えたのか

ウォーターゲート事件では、ニクソンへの疑惑は1972年から存在していた。

新聞報道もあった。
FBI捜査もあった。
マコードの告発もあった。
ジョン・ディーンの証言もあった。
上院公聴会もあった。

それでも、大統領本人がどこまで隠蔽へ関与したのかという点には長く争いが残った。

ニクソン側は、側近の犯罪と大統領自身の行動を分けて説明することができた。

しかし6月23日の録音は違った。

そこに記録されていたのは、第三者が記憶をもとに説明した会話ではない。

ニクソン本人とハルデマンの同時代の音声だった。

しかも録音時点は、事件発生からわずか6日後。

後から作られた説明より、はるかに事件の初期へ近い一次資料だった。

この証拠が、それまで大統領を支持してきた議員にとっても無視しにくいものになった。

ウォーターゲートは「政敵が大統領を倒した事件」ではない

ニクソンは共和党の大統領だった。
下院では民主党が多数を占めていた。

そのためウォーターゲートを、単純な政党間闘争として説明することもできる。

しかし最後の局面を見ると、それだけでは説明できない。

司法委員会の弾劾条項には共和党議員も賛成した。

8月5日の録音公開後には、共和党指導部の支持も崩れた。

8月7日にホワイトハウスへ状況を伝えたゴールドウォーター、スコット、ローズも共和党の主要人物だった。

最終局面で問題になったのは、民主党対共和党というより、

公開された証拠を前に、それでも大統領を支持し続けられるか

という判断だった。

まとめ|5人の逮捕から、アメリカ史上初の大統領辞任へ

1972年6月17日、DNC本部に侵入した5人が逮捕された。

そこからFBIが資金を追い、侵入犯とニクソン再選組織との関係が明らかになった。

侵入後にはFBI捜査への介入、秘密資金、口止め、偽証など隠蔽の問題が浮上した。

侵入犯マコードが裁判所へ告発し、ジョン・ディーンが上院で証言し、バターフィールドがホワイトハウス録音システムの存在を明らかにした。

特別検察官が録音を要求すると、大統領は行政特権を主張した。

争いは「土曜夜の虐殺」を経て最高裁へ進み、1974年7月24日、United States v. Nixonでニクソンは録音提出を命じられた。

同じ時期、下院司法委員会は3つの弾劾条項を採択した。

そして8月5日。

1972年6月23日のSmoking Gun Tapeが公表された。

録音は、侵入事件発生直後にニクソン自身がFBI捜査を抑える方法について話していたことを示していた。

議会で大統領を守る政治的基盤は崩れた。

8月8日、ニクソンは辞任を発表。
翌9日、正式に大統領職を離れた。

ウォーターゲート事件は、現職大統領の辞任という形で政治的な頂点を迎えた。

しかし事件そのものは終わっていない。

ニクソンの側近たちはどう処罰されたのか。
ニクソン本人は刑事訴追されたのか。
ジェラルド・フォードによる恩赦は何を意味したのか。

そしてウォーターゲート後、選挙資金、情報公開、大統領記録、政府倫理の制度はどこまで変わったのか。

最終回では、ウォーターゲート事件が残した刑事責任と制度改革を整理する。

前の記事:

第8回|大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

次の記事:

第10回|ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

    [現在の記事]

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

  • U.S. House of Representatives: History, Art & Archives — Watergate

    1974年2月の弾劾調査承認、7月27・29・30日の司法妨害・権力濫用・議会侮辱に関する3弾劾条項、8月5日の録音公開までの経過確認に使用。
  • House Judiciary Committee — Impeachment of Richard M. Nixon, President of the United States

    第1条27対11、第2条28対10、第3条21対17という委員会採決、追加2条項が12対26で否決されたこと、各弾劾条項の内容確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — Watergate Trial Tapes

    1972年6月23日の「Smoking Gun」録音、ニクソンとH・R・ハルデマンがFBIの資金追跡とCIAを利用した捜査制限について話した内容の確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — August 5, 1974

    3つの新たな録音書き起こしの公表、議会と報道の反応、共和党内での支持崩壊の確認に使用。
  • Richard Nixon — Statement Announcing Availability of Additional Transcripts of Presidential Tape Recordings, August 5, 1974

    6月23日の録音が過去の大統領声明と一致しないこと、これまで不完全・一部誤った情報に基づいて弁護と審議が行われたことをニクソン自身が認めた点の確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — August 7, 1974

    バリー・ゴールドウォーター、ヒュー・スコット、ジョン・ローズがホワイトハウスでニクソンと会談したこと、共和党内の政治状況が急速に悪化していたことの確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum — August 8, 1974

    ニクソンによる大統領辞任演説の音声・映像・演説資料確認に使用。
  • National Archives — Nixon and Watergate

    1974年8月9日の正式な辞表、国務長官ヘンリー・キッシンジャーによる11時35分の受領、ニクソンのホワイトハウス退去に関する記録確認に使用。
  • National Archives — A President Resigns

    8月8日の辞任発表、8月9日の辞任、ジェラルド・フォードへの大統領職移行に関する確認に使用。

本記事はU.S. House of Representatives、House Judiciary Committee、National Archives、Richard Nixon Presidential Libraryの公的記録を中心に構成しています。ニクソンは下院司法委員会による3つの弾劾条項採択後、下院本会議による正式な弾劾採決が行われる前に辞任しているため、「下院で弾劾された大統領」とは記述していません。また、1972年6月23日のSmoking Gun Tapeはニクソン本人がDNC本部侵入を事前に命令したことを示す録音ではなく、侵入発覚後のFBI捜査をCIA経由で制限する方法について大統領自身が話していた記録として位置づけています。辞任時刻については、8月8日の演説で発表された正午という予定と、National Archivesが正式な辞表の効力発生時刻として示す8月9日午前11時35分を区別しています。

ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

政治スキャンダル・権力乱用

1974年8月9日、リチャード・ニクソンは大統領職を辞任した。

ウォーターゲート事件を「大統領が辞任して終わった事件」と考えるなら、ここが結末になる。

しかし司法手続は続いた。

元司法長官ジョン・ミッチェル、元大統領首席補佐官H・R・ハルデマン、元大統領補佐官ジョン・アーリックマンらは、ウォーターゲート隠蔽事件の刑事裁判にかけられた。

一方、辞任したニクソン本人についても、司法妨害などで刑事訴追すべきかが特別検察官内部で検討された。

その状況を大きく変えたのが、後任大統領ジェラルド・フォードだった。

1974年9月8日。
フォードはニクソンに対して、大統領在任中に行った、または行った可能性のある連邦犯罪について全面的な恩赦を与えた。

さらに事件後の議会では、選挙資金、政府情報の公開、行政官の倫理、大統領記録、独立した捜査制度などが次々と議論される。

ウォーターゲートが残したものは、一人の大統領の辞任だけではない。


権力者が秘密を持つことそのものではなく、その秘密を誰が、どの制度を使って、どの証拠から検証できるのか。

CASE FILE 31最終回では、刑事責任、ニクソン恩赦、選挙資金改革、情報公開、政府倫理、大統領記録までを整理し、ウォーターゲート事件がアメリカの制度に何を残したのかを確認する。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

    [現在の記事]

先に結論|ウォーターゲート後に何が残ったのか

ウォーターゲート後の変化は、大きく5つに整理できる。

分野 ウォーターゲート後の主な動き
刑事責任 侵入犯だけでなく、ミッチェル、ハルデマン、アーリックマンなど政権中枢の人物も有罪となった
ニクソン本人 刑事訴追の可能性が検討されたが、フォード大統領が1974年9月8日に全面的恩赦を与えた
選挙資金 1974年のFECA改正で寄付・支出規制、開示、Federal Election Commissionなどの制度が強化された
政府情報 1974年のFOIA改正などにより、行政機関の記録へ外部からアクセスする制度が強化された
倫理・記録 1978年Ethics in Government Act、Presidential Records Actなどで、政府高官の倫理・大統領記録をめぐる制度が整備された

ただし、ここには重要な注意点がある。

これらすべてが「ウォーターゲート事件だけを理由に成立した法律」ではない。

選挙資金規制も情報公開も、事件以前から改革運動が存在していた。
ベトナム戦争、ペンタゴン・ペーパーズ、CIA・FBIをめぐる問題、政府への不信など、1970年代には複数の要因が重なっていた。

したがって本記事では、

ウォーターゲートが直接の対象となった制度

と、

ウォーターゲートを含む1970年代の権力監視強化の中で成立した制度

を分けて扱う。

大統領が辞任しても、刑事裁判は続いた

ニクソンが大統領を辞任した1974年8月9日の時点で、ウォーターゲート関連の刑事事件は終わっていなかった。

National Archivesに保存されているWatergate Special Prosecution Forceの記録には、侵入事件だけでなく、

  • ウォーターゲート隠蔽
  • 違法な選挙資金
  • 政治的な「dirty tricks」
  • ホワイトハウス「Plumbers」の活動
  • Daniel Ellsbergの精神科医事務所への侵入

など、複数の捜査班・刑事事件が記録されている。

ウォーターゲートは、1972年6月17日のDNC本部侵入事件だけを処理すれば終わる刑事事件ではなくなっていた。

最初の7人はどうなったのか

DNC本部への侵入事件で最初に起訴されたのは7人だった。

現場で逮捕された5人に、作戦を指揮したG・ゴードン・リディとE・ハワード・ハントを加えた7人である。

ハントと4人の侵入犯は1973年1月の裁判中に有罪を認めた。

リディとジェームズ・マコードは裁判を続け、1月30日に有罪となった。

つまり侵入事件そのものについては、7人全員に有罪が成立した。

しかし、そこからさらに調査を進めた結果、事件は政権中枢へ広がった。

ジョン・ディーンも有罪を認めた

ホワイトハウス法律顧問だったジョン・ディーンは、1973年10月19日、司法妨害の共謀について有罪を認めた。

ディーンは隠蔽に関与した一方で、その後は連邦検察や上院ウォーターゲート委員会へ協力し、ニクソンや側近との会話について証言した人物でもある。

1974年8月2日、ディーンには1年以上4年以下の懲役刑が言い渡された。

その後、捜査・裁判への協力などを踏まえ刑期は短縮され、1975年1月に服役期間を「time served」とする形で釈放された。

ここでも、

「内部告発したので無罪になった」

わけではない。

ディーン自身の隠蔽への関与について刑事責任が問われ、そのうえで捜査協力が量刑へ影響した。

1974年3月1日|政権中枢7人が起訴された

1974年3月1日、連邦大陪審はウォーターゲート隠蔽事件について、ニクソン政権・再選組織の中枢にいた7人を起訴した。

  • John N. Mitchell
  • H. R. Haldeman
  • John D. Ehrlichman
  • Charles W. Colson
  • Robert C. Mardian
  • Kenneth W. Parkinson
  • Gordon Strachan

元司法長官。
大統領首席補佐官。
大統領補佐官。
大統領特別顧問。
再選委員会関係者。

事件発生当初の「5人の侵入犯」から見ると、刑事捜査は明らかに別の段階へ進んでいた。

ニクソン本人も「unindicted co-conspirator」とされた

このときウォーターゲート大陪審は、リチャード・ニクソン自身をunindicted co-conspirator――起訴されていない共謀者として扱った。

National Archivesは、その理由について、特別検察官レオン・ジャウォースキーが「現職大統領は起訴できない」と考え、大統領本人に関する証拠は憲法上の弾劾権限を持つ下院司法委員会が扱うべきだと判断していたためと説明している。

ここで重要なのは、

「起訴されなかった=証拠がなかった」

という意味ではないことである。

現職大統領を刑事起訴できるのかという憲法上の問題があり、当時の特別検察官側は刑事起訴ではなく、証拠を下院の弾劾調査へ送る方法を選んだ。

辞任した瞬間、ニクソンは「一般市民」になった

1974年8月9日、ニクソンが辞任すると状況は変わった。

現職大統領ではなくなったため、

「現職大統領を起訴できるのか」

という問題は少なくともそのままでは存在しなくなった。

Watergate Special Prosecution Force内部では、辞任当日の8月9日付で、ニクソンを司法妨害について刑事訴追すべきかを検討する文書が作成されている。

そこでは、

「十分な証拠があるなら、元大統領も他の市民と同様に法に服する」

という考えと、

大統領辞任、弾劾手続、国家への影響などをどう考慮するかが検討された。

つまり辞任したから自動的に刑事問題が消えたわけではない。

1974年9月8日|フォードがニクソンを全面恩赦

状況を決定的に変えたのは、大統領を引き継いだジェラルド・フォードだった。

1974年9月8日、フォードはPresidential Proclamation 4311を発表した。

内容は、ニクソンに対するfull, free, and absolute pardon――全面的、無条件の大統領恩赦だった。

対象期間は、

1969年1月20日から1974年8月9日まで

である。

つまりニクソンが大統領に就任してから辞任するまでに、

「アメリカ合衆国に対して犯した、または犯した可能性がある、あるいは関与した可能性があるすべての犯罪」

を広く対象とする恩赦だった。

恩赦は「有罪判決」ではない

フォードの恩赦については、意味を慎重に区別する必要がある。

ニクソンはウォーターゲートについて刑事裁判を受け、有罪判決を受けた後に恩赦されたわけではない。

訴追される前に恩赦が与えられた。

したがって、

「恩赦されたから裁判で有罪だったことが確定した」

とは言えない。

逆に、

「有罪判決がないから完全に無実だった」

とも言えない。

刑事裁判による最終的な有罪・無罪判断が行われる前に、恩赦によって対象期間の連邦犯罪について訴追する道が閉じられた、と整理するのが最も正確である。

フォードはなぜ恩赦したのか

フォードは9月8日の声明で、ニクソンをめぐる刑事手続が長期間続けば、国家がウォーターゲート問題から離れられず、政治的対立が続くと説明した。

フォードは、大統領として事件を終結させ、国内の安定を取り戻す必要があると考えた。

しかし恩赦は強い批判も受けた。

大統領を辞任した人物が刑事裁判を受けずに済むことで、

「権力者だけが特別扱いされたのではないか」

という疑問が生まれたからである。

フォードがニクソンから辞任と引き換えに恩赦を約束していたのではないかという疑惑も出た。

フォードは後に下院小委員会へ自ら出席し、ニクソン辞任と恩赦との間に事前の取引は存在しなかったと説明している。

ニクソンはその後も大陪審で証言した

恩赦によってニクソン自身の刑事訴追問題が終わっても、他のウォーターゲート捜査は続いた。

National Archivesによれば、Watergate Special Prosecution Forceは1975年、元大統領ニクソンから事情を聴く必要があると判断した。

1975年6月23日と24日、ニクソンはカリフォルニアで宣誓証言を行った。

その証言記録は長く非公開だったが、現在はNational Archivesによって公開されている。

つまり恩赦は、

「ウォーターゲートについて二度と質問されない」

ことを意味したわけではない。

ニクソン自身への刑事処罰を行う道と、他の事件・人物を捜査するために証言を求めることは別だった。

ミッチェル、ハルデマン、アーリックマンの裁判

ウォーターゲート隠蔽事件の中心的な刑事裁判は、ニクソン辞任後も続いた。

National ArchivesにはUnited States v. Mitchell et al.として、その捜査記録、証人資料、裁判記録、録音テープの書き起こしなどが保存されている。

1975年1月1日、陪審は主要被告について評決を出した。

特に重要なのが、

  • 元司法長官 John N. Mitchell
  • 元大統領首席補佐官 H. R. Haldeman
  • 元大統領補佐官 John D. Ehrlichman

の3人である。

3人はいずれもウォーターゲート隠蔽に関連する罪で有罪となった。

後に実刑判決を受け、服役している。

フォード大統領図書館のウォーターゲート資料では、ハルデマンとアーリックマンはいずれも約18か月、ミッチェルは約19か月服役したと整理されている。

全員が同じ結果になったわけではない

一方、隠蔽事件で起訴された人物全員が同じ結末を迎えたわけではない。

Kenneth Parkinsonは陪審で無罪となった。

Robert Mardianも一度は有罪評決を受けたが、その後控訴審で有罪判決が破棄された。

Gordon Strachanについては裁判が分離され、最終的に起訴が取り下げられた。

Charles Colsonは別の事件に関連する司法妨害について有罪を認め、ウォーターゲート隠蔽事件の起訴はその後取り下げられた。

この違いは重要である。

「ニクソン政権関係者は全員有罪になった」

という説明は正確ではない。

人物ごとに起訴内容、答弁、裁判結果、控訴結果は異なっている。

事件の刑事責任はどこまで広がったのか

ウォーターゲート特別検察官の捜査対象は非常に広かった。

侵入事件だけでなく、違法な選挙献金、政治工作、Plumbers、政府機関の利用など多くの事件が捜査された。

そのため「ウォーターゲートで何人が有罪になったか」は、どこまでをウォーターゲート関連事件に含めるかによって数字が変わる。

本記事では一つの数字へ単純化しない。

確実に言えるのは、刑事責任が現場の侵入犯だけに留まらず、司法長官経験者、大統領首席補佐官、大統領補佐官、再選組織幹部など政権中枢へ到達したことである。

ウォーターゲート委員会は制度改革を勧告した

上院ウォーターゲート委員会は、証人を呼んで事件を解明するだけの組織ではなかった。

1974年6月27日に提出した最終報告では、事件で明らかになった制度上の問題を踏まえ、立法改革も提案した。

米上院の公式史では、主な勧告を次の3分野に整理している。

  • 選挙活動・選挙献金の規制
  • 常設的な特別検察官制度
  • 議会が行政部門との法的争いに対応するための恒久的な法律機能

すべてがそのまま法律になったわけではない。

しかし、事件後の制度改革を考える出発点の一つになった。

1974年|選挙資金規制が大幅に強化された

ウォーターゲートでは、侵入工作だけでなく、選挙資金の集め方・管理方法そのものが重大な問題になった。

第3回で扱ったように、大統領再選運動へ提供された資金の一部が侵入犯側へ流れていた。

さらに特別検察官は、企業からの違法献金など選挙資金に関する多数の事件も捜査した。

選挙資金規制自体はウォーターゲート以前から存在している。
1971年にはすでにFederal Election Campaign Actが成立していた。

しかしFECの公式史は、1972年大統領選挙で深刻な資金上の不正が報告されたことを受け、議会が1974年にFECAを大幅改正したと説明している。

1974年FECA改正で何が変わったのか

Federal Election Campaign Act Amendments of 1974では、

  • 連邦選挙候補者への献金上限
  • 政党や政治委員会などへの規制
  • 選挙資金の記録・報告制度
  • 選挙運動支出への制限
  • 大統領選挙の公的資金制度
  • Federal Election Commissionの設置

などが整備・強化された。

特に大きかったのがFederal Election Commission――FECの設立である。

それ以前も選挙資金法は存在したが、FEC公式史によれば、規制を一元的に執行する中央機関が存在せず、執行が困難だった。

1974年改正によって、独立した連邦機関としてFECが設置され、1975年に活動を開始した。

ただし1974年の規制がそのまま現在まで残ったわけではない

1974年改正には、候補者や政治団体の「支出」を制限する規定も含まれていた。

しかし1976年、連邦最高裁判所はBuckley v. Valeoで、その多くを憲法上認められないと判断した。

最高裁は、

  • 候補者への献金上限
  • 選挙資金の開示・記録制度
  • 大統領選挙の公的資金制度

などは基本的に認めた。

一方、

  • 候補者自身の選挙支出上限
  • 独立支出への上限
  • 候補者自身の資金使用制限

などは表現の自由を不当に制限するとして退けた。

また、当初のFEC委員任命方式にも憲法上の問題があると判断された。

そのため1976年にはFECAが再び改正され、現在につながる制度へ修正されている。

「ウォーターゲート後、政治献金と選挙支出を厳しく規制した制度がそのまま定着した」

という説明では不十分である。

事件後に強い規制が導入され、その一部を最高裁が憲法上修正しながら現在の選挙資金制度が形成された。

1974年|FOIAも強化された

政府情報へのアクセスという点でも、1970年代半ばは重要な転換期だった。

Freedom of Information Act――FOIAは1966年に成立している。

したがって、ウォーターゲートを受けて初めて情報公開制度が作られたわけではない。

しかし1974年、議会はFOIAを大幅に改正した。

米司法省が整理する1974年改正には、

  • 行政機関の回答期限
  • 拒否理由の明確化
  • 裁判所による文書の非公開審査
  • 勝訴した請求者への弁護士費用
  • 法執行記録に関する適用除外の見直し
  • 公開可能部分を分離して開示する仕組み

などが含まれた。

フォード大統領は一度この改正法案へ拒否権を行使したが、議会が拒否権を覆し、1974年11月21日に改正法が成立した。

FOIA改正を「ウォーターゲート法」と呼べるのか

ここは因果関係を慎重に扱う必要がある。

FOIA改革にはウォーターゲートだけでなく、政府秘密、ベトナム戦争、情報機関、行政機関の非公開性をめぐる長年の議論があった。

したがって、

「ウォーターゲート事件が起きたのでFOIAが作られた」

という説明は誤りである。

一方、米上院のウォーターゲート公式史は、事件後の議会が行政部門への監視能力を強める改革の一つとして1974年FOIA改正を位置づけている。

つまり、

ウォーターゲートを含む1970年代の政府不信と監視強化の流れの中でFOIAが大幅強化された

と整理するのが妥当である。

1978年|Ethics in Government Act

ウォーターゲートから数年後の1978年、議会はEthics in Government Actを成立させた。

この法律では、政府高官の倫理・利益相反を監視する制度が大きく整備された。

Office of Government Ethicsの公式史によれば、1978年10月26日の法律成立によってOGEが設置され、高官の財務情報開示制度や行政部門の倫理政策を統一的に扱う仕組みが作られた。

上院のウォーターゲート公式史も、この法律をウォーターゲート後の改革の一つとして位置づけている。

主な内容には、

  • 行政・司法部門高官の財務情報開示
  • 利益相反を監督する政府倫理制度
  • Office of Government Ethicsの設置
  • 一定の場合に特別検察官を任命する仕組み

などがあった。

「大統領を捜査する検察官」をどう独立させるか

ウォーターゲートで制度上もっとも難しかった問題の一つが、特別検察官だった。

大統領は行政部門の長である。

司法省も行政部門に属する。

では、

行政部門の最高責任者である大統領自身を、行政部門内部の検察官がどう独立して捜査するのか。

アーチボルド・コックスは大統領録音を要求し、ニクソンの命令によって解任された。

「土曜夜の虐殺」は、通常の司法省組織だけでは政治的独立性に疑問が生じることを示した。

1978年Ethics in Government Actでは、一定の高官に対する捜査について特別検察官を任命する仕組みが法律化された。

後に名称はIndependent Counselへ変わり、制度は1999年に失効する。

したがって、ウォーターゲート後に作られた独立検察制度が、そのまま現在まで同じ形で存続しているわけではない。

ニクソンの録音テープは誰のものなのか

ウォーターゲートが残したもう一つの重要な問題が、大統領記録だった。

現在では、大統領が職務として作成した記録は国家の公的記録として管理される。

しかしニクソン辞任当時、大統領文書をめぐる制度は現在とは異なっていた。

歴代大統領の文書は、伝統的に大統領本人の私有財産として扱われる部分が大きかった。

では、ニクソンの録音テープやホワイトハウス文書は辞任後、本人が持ち出したり処分したりできるのか。

ウォーターゲートの証拠となった資料だけに、これは非常に重大な問題だった。

1974年|ニクソン資料だけを対象にした特別法

議会は1974年、Presidential Recordings and Materials Preservation Actを成立させた。

この法律は一般の歴代大統領を対象にしたものではなく、ニクソン大統領資料を特別に扱う法律だった。

National Archivesによれば、

  • 政府権力の濫用
  • ウォーターゲート
  • 大統領とホワイトハウス職員の憲法・法律上の職務

に関係する録音・資料をNational Archivesが保存し、処理し、公開へ向けて管理することが定められた。

ニクソン個人の純粋に私的な資料については分離して返却する仕組みも設けられた。

これは、ウォーターゲートそのものを対象にした直接的な制度対応の一つである。

1978年|Presidential Records Act

その後1978年には、より一般的なPresidential Records Actが成立した。

National Archivesによれば、この法律は大統領・副大統領の公的記録について、

法的所有権を個人から公的所有へ変更した

ことが最大の特徴である。

大統領が退任すると、公的な大統領記録はNational Archivesの管理へ移る。

一定期間後にはFOIAなどを通じて国民がアクセスできる制度も設けられた。

法律の適用は1981年1月20日以降に作成・受領された大統領記録、つまりレーガン政権以降である。

ニクソン資料そのものは、先ほどの1974年特別法によって別に扱われる。

「大統領の記録」が歴史資料から証拠へ変わった

ウォーターゲートでは、大統領記録が単なる歴史資料ではなかった。

6月23日のSmoking Gun Tapeは刑事捜査と弾劾判断に直結した。

3月21日の「Cancer on the Presidency」会話は、ジョン・ディーンの証言を検証する資料になった。

つまり大統領の記録には、

  • 歴史を保存する価値
  • 政策決定を検証する価値
  • 刑事事件の証拠としての価値
  • 議会が大統領権限を監視するための価値

が存在する。

ウォーターゲート後の記録制度を見ると、「大統領の文書を誰が所有し、誰が保存し、いつ国民がアクセスできるのか」が民主的統治の一部になったことが分かる。

ウォーターゲートは議会の監視も変えた

米上院の公式史は、ウォーターゲート後の改革について、選挙資金や政府倫理だけでなく、議会による行政監視能力の強化も挙げている。

上院ウォーターゲート委員会では、

  • 証人召喚
  • 文書提出要求
  • 公開公聴会
  • 政権高官への証言要求

が使われた。

一方で大統領側が行政特権を主張すれば、議会と行政の法的対立を誰が扱うのかという問題も浮上した。

事件後、議会は行政部門を監視するための法的・制度的能力を拡大していく。

ウォーターゲートは、「議会調査とは政治家が質問する場」というだけではなく、行政権をチェックする憲法上の機能であることを強く示した事件でもあった。

「-gate」がスキャンダルを意味する言葉になった

制度とは別に、ウォーターゲートは言葉にも痕跡を残した。

Watergateの「gate」は、本来スキャンダルを意味する言葉ではない。

事件現場だったWatergate Complexという建物名の一部である。

しかし事件の影響があまりにも大きかったため、その後は政治・企業・スポーツなどのスキャンダルへ「-gate」を付ける表現が世界中で使われるようになった。

この使い方は、ウォーターゲート事件が一つの固有事件名を超え、

「権力や組織が隠そうとした不正が明るみに出る事件」

の代名詞になったことを示している。

一方で「ウォーターゲート後は権力濫用が防げるようになった」わけではない

制度改革が行われたからといって、政府の不正や権力濫用がなくなったわけではない。

選挙資金法はその後も繰り返し改正され、最高裁判決によって制度の範囲も変わった。

独立検察制度も永続しなかった。

行政特権と議会の調査権をめぐる対立も、その後何度も起きている。

情報公開制度にも多数の例外が存在する。

したがってウォーターゲートを、

「事件を教訓にアメリカが制度を完成させた」

という成功物語だけで終わらせることはできない。

より重要なのは、

制度による監視には常に権限の境界、例外、政治的対立が存在し、それでも証拠を検証できる経路を残す必要がある

という点である。

FACT CHECK|ウォーターゲート後について誤解しやすいこと

ニクソンはウォーターゲート事件で有罪判決を受けた?

いいえ。

大陪審はニクソンを起訴されていない共謀者として扱い、辞任後には特別検察官内部で刑事訴追が検討された。

しかし1974年9月8日にフォード大統領が全面的恩赦を与えたため、対象期間の連邦犯罪についてニクソン本人の刑事裁判は行われなかった。

恩赦は裁判所による「無罪判決」?

いいえ。

大統領恩赦は司法による無罪判決ではない。
ニクソンについては、刑事裁判による最終的な事実認定が行われる前に、連邦犯罪について訴追する道が閉じられた。

ウォーターゲート関係者は全員有罪になった?

いいえ。

ミッチェル、ハルデマン、アーリックマンらは有罪となったが、Kenneth Parkinsonは無罪となり、Robert Mardianの有罪判決は控訴審で破棄され、Gordon Strachanの起訴も最終的に取り下げられた。

ウォーターゲート事件でFOIAが初めて作られた?

いいえ。

FOIAは1966年成立である。
1974年、ウォーターゲートを含む政府への不信と行政監視強化の流れの中で、大幅な改正が行われた。

1974年の選挙資金規制は現在もそのまま?

いいえ。

1976年のBuckley v. Valeoで、最高裁は献金上限や情報開示制度などを認める一方、多くの選挙支出上限を違憲とした。
その後FECAも再改正された。

Presidential Records Actはニクソンのテープに直接適用された?

いいえ。

ニクソン資料には1974年のPresidential Recordings and Materials Preservation Actという特別法が適用される。

1978年のPresidential Records Actは、1981年1月20日以降に作成・受領された大統領記録を対象とする一般制度である。

ウォーターゲート後、常設の独立検察制度が現在まで残った?

いいえ。

1978年Ethics in Government Actで設けられた特別検察官・Independent Counsel制度は、その後改正を重ね、1999年に法定制度として失効した。

時系列|辞任後から制度改革まで

日付 出来事
1974年8月9日 ニクソンが大統領を辞任
同日 Watergate Special Prosecution Force内部で元大統領を刑事訴追すべきか検討
9月8日 フォード大統領がニクソンへ全面的恩赦を付与
10月15日 Federal Election Campaign Act Amendments of 1974成立
11月21日 議会が大統領拒否権を覆し、FOIA改正成立
12月 Presidential Recordings and Materials Preservation Act成立。ニクソン資料の保存制度を整備
1975年1月1日 ウォーターゲート隠蔽裁判でミッチェル、ハルデマン、アーリックマンらに有罪評決
1975年 Federal Election Commissionが本格的に活動開始
1975年6月23~24日 元大統領ニクソンがWatergate Special Prosecution Forceのため宣誓証言
1976年1月30日 Buckley v. Valeoで最高裁が1974年選挙資金規制の一部を違憲と判断
1978年10月26日 Ethics in Government Act成立
1978年 Presidential Records Act成立

結局、ウォーターゲートは何によって暴かれたのか

CASE FILE 31を最初から振り返ると、一つの機関だけが事件を解決したわけではない。

警備員フランク・ウィルズがドアの異変を見つけた。

警察が5人を逮捕した。

FBIが人物と資金を追った。

新聞記者が事件を継続して報じた。

シリカ判事が「7人だけで事件は終わっていない」と疑った。

マコードが沈黙を破った。

ジョン・ディーンがホワイトハウス内部の隠蔽を証言した。

上院委員会が公開公聴会を行った。

バターフィールドが録音システムの存在を明らかにした。

特別検察官がテープを召喚した。

裁判所が大統領側の主張を審査した。

最高裁がテープ提出を命じた。

下院司法委員会が弾劾条項を採択した。

そして大統領自身の録音が、大統領自身の説明を崩した。

ウォーターゲートの特徴は、

一人の英雄が真相を暴いたことではなく、別々の目的を持つ制度が証拠を受け渡しながら、隠蔽できる範囲を少しずつ狭めたこと

にある。

「制度が機能した事件」とだけ評価してよいのか

ウォーターゲートはしばしば、

「最終的にアメリカの民主制度が機能した証拠」

として語られる。

確かに、警察、FBI、裁判所、議会、特別検察官、最高裁、報道機関などがそれぞれ役割を果たし、現職大統領の行動まで調査対象になった。

しかし事件が発覚してから大統領辞任まで約2年2か月かかっている。

その間、

  • FBI捜査への介入
  • 被告への秘密資金
  • 偽証
  • 証拠提出拒否
  • 特別検察官解任

など、調査を止めようとする行為も繰り返された。

制度は自動的に機能したわけではない。

各段階で人間が証拠を残し、要求し、拒否し、争い、裁判所へ持ち込み、公開する判断をした結果として機能した。

ウォーターゲートが残した最も大きな問い

1972年6月17日の侵入現場から1978年の制度改革までを追うと、一つの共通した問いが残る。

「権力者が情報を持っているとき、その権力者自身が情報を隠すかどうかを最終決定してよいのか」

という問題である。

FBIが資金を追えば、CIAを理由に止めようとする。

上院が証言を求めれば、行政特権が問題になる。

特別検察官がテープを求めれば、解任問題になる。

最高裁が提出を命じれば、大統領は従わなければならない。

大統領が辞任すれば、その記録を誰が所有するのかが問題になる。

だからウォーターゲート後の制度改革には、

  • 金の流れを公開する
  • 行政情報へアクセスする
  • 政府高官の財務情報を公開する
  • 大統領記録を公的に保存する
  • 政権中枢を捜査する仕組みを作る

という共通した方向が見える。

権力をなくすのではなく、権力の外側に検証経路を置く。

ウォーターゲートが制度史に残した最大の意味は、そこにある。

まとめ|5人の侵入から、制度を変える事件へ

ウォーターゲート事件は、1972年6月17日、民主党全国委員会本部で5人が逮捕されたところから始まった。

そこからFBIが資金を追い、侵入犯とニクソン再選組織との関係が浮かび上がった。

ホワイトハウス内部では、CIAを使ったFBI捜査への介入、被告への秘密資金、事件を封じ込めるための隠蔽が進んだ。

裁判でマコードが沈黙を破り、上院公聴会でジョン・ディーンが証言し、バターフィールドによって秘密録音システムの存在が明らかになった。

テープをめぐる争いは「土曜夜の虐殺」を引き起こし、United States v. Nixonで最高裁まで到達した。

そして1974年8月5日、事件発生6日後のSmoking Gun Tapeが公開される。

ニクソンの議会支持は崩れ、8月9日に大統領職を辞任した。

しかし、それが事件の終わりではなかった。

ミッチェル、ハルデマン、アーリックマンらは刑事裁判で有罪となった。

ニクソン本人は刑事訴追の可能性を残したまま、9月8日にフォードから全面的恩赦を受けた。

その後、選挙資金規制、情報公開、政府倫理、特別検察官、大統領記録をめぐる制度が見直された。

すべての改革をウォーターゲートだけの結果と考えることはできない。

それでも事件が示した問題は共通している。

秘密の政治資金。
秘密の政治工作。
秘密の録音。
秘密の口止め料。
秘密にしようとした捜査妨害。

その秘密を崩したのもまた、

銀行記録、裁判記録、議会証言、召喚状、録音テープという記録だった。

ウォーターゲート事件は「大統領が辞任したスキャンダル」としてだけではなく、

権力の内部で起きたことを、権力の外側からどこまで証拠で検証できるのかを試した事件

として見ると、その全体像が最も理解しやすい。

1972年6月17日の小さなドアのテープから始まった事件は、最終的に大統領職、司法、議会、選挙制度、情報公開、政府記録のあり方まで問い直すことになった。

それが、ウォーターゲート事件が半世紀を過ぎても政治スキャンダルの基準点として残り続けている理由である。

前の記事:

第9回|「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

シリーズ最初から:

第1回|ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

    [現在の記事]

出典・参考資料

本記事はNational Archives、Watergate Special Prosecution Force、Gerald R. Ford Presidential Library、U.S. Senate、Federal Election Commission、U.S. Department of Justice、U.S. Office of Government Ethicsなどの公的資料を中心に構成しています。事件後に成立・改正された制度については、ウォーターゲートだけを単一の原因とせず、事件を直接対象とした制度対応と、1970年代の広い行政監視・政府倫理改革の流れを区別しています。ニクソンについては刑事裁判による有罪判決はなく、辞任後に訴追が検討されたものの、1974年9月8日のフォード大統領による全面的恩赦によって対象期間の連邦犯罪を訴追する道が閉じられたものとして整理しています。

ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

政治スキャンダル・権力乱用

1972年6月17日未明、アメリカ・ワシントンD.C.のウォーターゲート・コンプレックスで、5人の男が逮捕された。
侵入先は、民主党全国委員会(Democratic National Committee:DNC)の本部だった。

現場からは盗聴や監視に使う機材が見つかり、逮捕された人物の一人は、当時のリチャード・ニクソン大統領の再選組織と関係を持っていた。
一見すると政治組織を狙った不法侵入事件だったが、捜査が進むにつれて、問題は侵入犯だけでは終わらなくなっていく。

資金の流れ、ホワイトハウス関係者の対応、口止め、FBI捜査への干渉、上院での証言、そして大統領執務室などに残されていた秘密録音。
事件発生から約2年後の1974年8月9日、ニクソンはアメリカ史上初めて任期途中で辞任した大統領となった。

ウォーターゲート事件の核心は、「大統領の政敵の事務所に侵入した」という一点だけではない。
侵入後に何が隠され、誰が捜査を止めようとし、その事実がどのような証拠によって明らかになったのか。
本記事では、1972年の侵入事件から1974年の大統領辞任までを一続きに整理する。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回

5人の侵入犯から始まった事件は、FBI、裁判所、上院、特別検察官、下院、そして連邦最高裁判所へと調査の舞台を広げていった。
この特集では、政治的な党派論ではなく、何が証拠として確認され、制度がどのように機能して大統領辞任へ至ったのかを追う。

  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌
    [現在の記事]

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

先に結論|なぜ「一件の侵入事件」が大統領辞任まで発展したのか

ウォーターゲート事件を理解するうえで最も重要なのは、1972年6月17日の侵入そのものと、その後に起きた隠蔽を分けて考えることである。
侵入犯が民主党本部へ入っただけなら、重大な政治犯罪であっても、それだけで現職大統領が辞任する展開には直結しない。

事件を大統領職そのものの問題へ変えたのは、侵入後に捜査を抑えようとする動きや口止め、証拠をめぐる対立が次々と明らかになり、その中に大統領自身の行動を示す録音記録が存在したことだった。

特に1972年6月23日にホワイトハウスで録音されたニクソンと首席補佐官H・R・ハルデマンの会話では、侵入犯が所持していた資金を追跡するFBI捜査について話し合い、CIAを通じて捜査を抑える案が検討されていた。
この録音は後に「Smoking Gun」と呼ばれ、ニクソンが侵入事件発生直後の段階から隠蔽に関わっていたことを示す重要証拠となった。

したがってウォーターゲート事件は、「侵入犯が捕まった事件」から始まり、「大統領権限を使って捜査や証拠開示をどこまで妨げることができるのか」という憲法上・司法上の問題へ発展した事件だったと整理できる。

ウォーターゲート事件の基本情報

事件名になった「ウォーターゲート」は、ワシントンD.C.にある住宅、ホテル、オフィスなどから構成された複合施設の名称である。
1972年当時、民主党全国委員会はそのオフィス棟に本部を置いていた。

事件名 ウォーターゲート事件(Watergate Scandal)
発端 1972年6月17日の民主党全国委員会本部への侵入と5人の逮捕
場所 アメリカ・ワシントンD.C.、ウォーターゲート・コンプレックス
中心となる問題 不法侵入、盗聴工作、資金の流れ、捜査妨害、口止め、証拠提出拒否、大統領権限の濫用
主要な調査主体 FBI、連邦司法当局、上院ウォーターゲート委員会、特別検察官、下院司法委員会、連邦最高裁判所
大きな転換点 ホワイトハウスの秘密録音システムの存在が明らかになったこと
結末 1974年8月9日、リチャード・ニクソン大統領が辞任

現場はどこだったのか|ウォーターゲート・コンプレックス

事件の出発点になったのはホワイトハウスそのものではない。
民主党全国委員会が入っていたウォーターゲート・コンプレックスのオフィス棟だった。
現在もワシントンD.C.のポトマック川近くに建物群が残っており、ホワイトハウスから見てもそれほど離れていない。

現在のウォーターゲート・コンプレックス周辺。1972年当時とテナントや内部配置は異なるため、この地図は現在の地理的位置を確認するためのものとして見る必要がある。


Googleマップで大きく見る

ウォーターゲート事件は後にホワイトハウス、議会、司法省、連邦裁判所へと舞台を広げる。
しかし最初に起きたことは非常に物理的だった。
夜間のオフィスへ侵入した人物が、その場で警察に逮捕されたのである。

1972年6月17日|5人の男が民主党本部で逮捕された

1972年6月17日未明、ウォーターゲート・オフィス・ビルの警備員フランク・ウィルズは、建物内のドアに不審なテープが貼られていることに気づいた。
警察へ通報した結果、民主党全国委員会本部内にいた5人が逮捕された。

FBIやNational Archivesの記録によれば、現場では盗聴・監視に使う機材や偽造身分証などが確認された。
さらに逮捕されたジェームズ・マコードは、ニクソン再選委員会の警備関係者だった。
この接点によって、事件は単なる窃盗や不法侵入として処理できない性格を帯びた。

しかも6月17日が最初の侵入ではなかった。
National Archivesの年表では、5月28日に民主党本部へ盗聴装置が設置されており、6月17日の侵入はその監視機器への作業を目的としたものだったことが記録されている。

ここから捜査の焦点は、「5人は誰なのか」だけではなく、「誰のために動いていたのか」「資金はどこから来たのか」へ広がっていった。

侵入犯とニクソン再選組織との接点

逮捕された人物とニクソン再選陣営の関係が判明すると、FBIは資金や人物関係を追い始めた。
事件関係者には、元CIA関係者E・ハワード・ハントや、再選陣営で情報活動を担当したG・ゴードン・リディらも含まれていた。

ここで注意したいのは、「侵入犯がニクソン陣営につながっていた」ことと、「ニクソン自身が侵入計画を直接命令した」ことは同じではない点である。
ウォーターゲート事件で大統領職を決定的に追い詰めた証拠は、侵入前の直接命令を証明したものではなく、事件発生後の捜査や隠蔽をめぐる大統領自身の行動だった。

この区別をしないと、ウォーターゲート事件は単純な「大統領が部下に盗聴を命じて発覚した事件」と誤って理解されやすい。
実際の事件は、侵入犯、再選組織、ホワイトハウス高官、司法当局、議会が段階的につながっていく過程そのものに特徴がある。

1972年の大統領選挙では、事件はニクソン再選を止めなかった

ウォーターゲート侵入事件は大統領選挙の約5か月前に発生したが、当時の段階では事件の全体構造は明らかになっていなかった。
ニクソン政権はホワイトハウスが侵入事件に関与したとの見方を否定し、捜査も継続中だった。

1972年11月7日の大統領選挙で、ニクソンは民主党候補ジョージ・マクガヴァンに大差をつけて再選された。
選挙人票はニクソン520票、マクガヴァン17票だった。
つまり「ウォーターゲート事件が発覚したためニクソンが選挙に敗れた」という経過ではない。

むしろ事件の政治的・法的な重大性が一気に高まるのは、再選後の1973年だった。
侵入犯の裁判、上院調査、元ホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーンの証言などによって、侵入後の隠蔽工作が具体的に検証され始める。

侵入事件から「隠蔽事件」へ

1973年に入ると、ウォーターゲート事件を見る焦点は変化した。
問題は「誰が民主党本部へ入ったのか」だけではなく、「侵入後、政権内部で何が行われたのか」へ移っていった。

侵入犯への口止め料、捜査への対応、CIAとFBIの関係、ホワイトハウス高官の証言などが調査対象となった。
そのなかで重要なのが、事件発生から6日後にあたる1972年6月23日の大統領執務室での会話だった。

この日、ニクソンとハルデマンは、FBIが侵入犯の資金源を追っていることについて話し合っていた。
ニクソン大統領図書館が公開している録音記録では、CIAからFBIへ働きかけ、捜査を抑える案が議論されている。

ただし、この録音が一般に知られるのは事件直後ではない。
録音システム自体の存在が公になるのは1973年夏であり、決定的な6月23日の会話が公開されるのは1974年8月だった。
この「証拠が存在していたが、まだ誰も自由に聞けなかった」という状況が、ウォーターゲート事件後半の大きな軸になる。

上院ウォーターゲート委員会|調査がテレビの前へ出る

1973年2月7日、アメリカ上院は大統領選挙運動に関する不正活動を調査する特別委員会を設置した。
一般に「上院ウォーターゲート委員会」あるいは委員長サム・アーヴィンの名から「アーヴィン委員会」と呼ばれる。

公開公聴会は1973年5月17日に始まった。
そこで大きな意味を持った人物の一人が、元ホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーンだった。
ディーンはホワイトハウス内部で行われた隠蔽について証言し、大統領自身の認識が問題となった。

しかし証言だけでは、「誰の説明が正しいのか」という争いが残る。
その状況を一変させたのが、元大統領副補佐官アレクサンダー・バターフィールドだった。

1973年7月16日、バターフィールドはホワイトハウスに自動録音システムが存在することを明らかにした。
ニクソンと側近の会話が実際に記録されている可能性が生じたことで、事件は証言の比較から、録音という一次資料をめぐる争いへ移行した。

録音テープを誰が聞けるのか|大統領と捜査側の対立

録音システムの存在が明らかになると、上院委員会や特別検察官アーチボルド・コックスはテープの提出を求めた。
一方、ニクソン側は大統領の会話には秘密保持が必要だとして、行政特権(executive privilege)や三権分立を根拠に提出へ抵抗した。

これは単なる「証拠を隠した、見つかった」という問題ではない。
大統領が職務上の秘密を保持できる範囲と、刑事司法が証拠を求める権限が正面から衝突したのである。

1973年10月20日には、テープ提出を求め続けたコックス特別検察官を解任するようニクソンが命じた。
司法長官エリオット・リチャードソンは命令を拒否して辞任し、司法副長官ウィリアム・ラッケルズハウスも職を離れ、最終的に司法長官代行ロバート・ボークがコックスを解任した。

この一連の出来事は「Saturday Night Massacre(サタデー・ナイト・マサカー/土曜夜の虐殺)」と呼ばれる。
物理的な暴力事件を意味する名称ではなく、司法省上層部が相次いで職を離れ、特別検察官が解任された政治・司法上の危機を指す呼称である。

最高裁判所は大統領にテープ提出を命じた

録音テープをめぐる争いは最終的に連邦最高裁判所へ進んだ。
事件名は「United States v. Nixon」。

1974年7月24日、最高裁は特別検察官が求めた録音について、大統領側の包括的な行政特権の主張を認めず、提出を求める判断を示した。
ウィリアム・レンキスト判事は審理に参加せず、参加した8人の判事による全員一致の判断だった。

最高裁は大統領に秘密保持の利益が存在しないとしたわけではない。
外交や国家安全保障などに関係しない一般的な秘密保持の主張が、刑事裁判で具体的に必要とされる証拠を無条件に遮断するものではないと判断したことが重要だった。

この判決によって、ウォーターゲート事件は「大統領がテープを出すかどうか」という政治的交渉では済まなくなった。
司法判断に従って録音が提出され、その内容を捜査側や議会が確認できる段階へ進んだ。

「Smoking Gun」録音が残っていた

1974年8月5日、ホワイトハウスは新たな録音記録を公開した。
その中に含まれていたのが、1972年6月23日のニクソンとハルデマンの会話だった。

録音は事件発生からわずか6日後のもので、FBIによる資金追跡を抑えるため、CIAからFBIへ働きかける案が話し合われていた。
それまでニクソンは自身が隠蔽に関与したとの見方を否定してきたため、この記録は説明と実際の会話の食い違いを示す決定的な材料となった。

後にこの会話は「Smoking Gun Tape」と呼ばれるようになった。
「犯行現場から煙の出ている銃が見つかる」という英語表現から、直接性の高い決定的証拠という意味で使われる言葉である。

この録音の公開によって、議会内でもニクソンを支持し続けることが難しくなった。
しかし下院司法委員会の弾劾手続は、実は録音公開より先にすでに進んでいた。

下院司法委員会が3つの弾劾条項を採択

1974年2月6日、下院は司法委員会に対し、ニクソン大統領を弾劾すべき根拠が存在するか調査する権限を正式に与えた。
その後、委員会は証拠と証言を検討し、同年7月末に3つの弾劾条項を採択した。

日付 弾劾条項 中心的な問題
1974年7月27日 第1条 ウォーターゲート捜査に対する司法妨害
1974年7月29日 第2条 大統領権限の濫用
1974年7月30日 第3条 議会の召喚要求への不服従

ここで重要なのは、ニクソンが下院本会議で正式に弾劾された後に辞任したわけではないことである。
司法委員会は弾劾条項を採択したが、下院全体による採決が行われる前にニクソンが辞任した。

したがって「ニクソンは弾劾された大統領」と表現するのは正確ではない。
より正確には、弾劾手続が進み、下院司法委員会が3つの弾劾条項を採択した段階で辞任した大統領である。

1974年8月9日|ニクソンが大統領を辞任

1974年8月8日、ニクソンはテレビ演説で大統領職を辞任する意向を表明した。
翌8月9日、辞任は正式に発効した。

National Archivesによれば、辞表は国務長官ヘンリー・キッシンジャーが1974年8月9日11時35分に受領したことで効力を持った。
ニクソンはアメリカ史上、任期途中で辞任した最初の大統領となった。

副大統領ジェラルド・フォードが同日、第38代アメリカ合衆国大統領に就任した。
約1か月後の9月8日、フォードはニクソンに対して大統領在任中に行った可能性のある連邦犯罪について全面的な恩赦を与えた。

1972年6月17日の侵入から、ここまで約2年2か月。
5人の逮捕から始まった事件は、大統領の辞任というアメリカ政治史上前例のない結末に達した。

時系列で見るウォーターゲート事件

ウォーターゲート事件は登場人物が多いため、個人名だけで追うと全体像を失いやすい。
「侵入」「捜査」「隠蔽」「議会調査」「テープ」「司法判断」「弾劾」という段階で見ると構造が分かりやすい。

日付 出来事
1972年5月28日 民主党全国委員会本部に盗聴装置が設置される
1972年6月17日 ウォーターゲート・ビルへ再侵入した5人を警察が逮捕
1972年6月23日 ニクソンとハルデマンがFBI捜査への対応を話し合う。後の「Smoking Gun」録音
1972年11月7日 ニクソンが大統領選挙で再選
1973年1月 侵入事件の裁判が進む
1973年2月7日 上院がウォーターゲート調査の特別委員会を設置
1973年5月17日 上院委員会の公開公聴会開始
1973年7月16日 アレクサンダー・バターフィールドがホワイトハウス録音システムの存在を明らかにする
1973年10月20日 「土曜夜の虐殺」。特別検察官アーチボルド・コックスが解任される
1974年2月6日 下院が司法委員会に弾劾調査権限を与える
1974年7月24日 United States v. Nixonで最高裁が録音提出を求める判断
1974年7月27~30日 下院司法委員会が3つの弾劾条項を採択
1974年8月5日 「Smoking Gun」録音を含む追加記録が公表される
1974年8月8日 ニクソンがテレビ演説で辞任を発表
1974年8月9日 ニクソン辞任。ジェラルド・フォードが大統領に就任

FACT CHECK|ウォーターゲート事件で誤解されやすいこと

「ニクソン自身が民主党本部への侵入を命令した」と確定している?

このシリーズでは、そのようには扱わない。
ニクソン大統領を辞任まで追い詰めた決定的な証拠は、侵入計画を本人が直接命令したことを示す記録ではなく、侵入後の捜査妨害・隠蔽をめぐる行動を示した録音や証拠だった。

「新聞記者2人が事件を暴いて大統領を辞任させた」?

ワシントン・ポストのボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインの報道は、事件を追ううえで重要な役割を果たした。
ただし事件全体の解明は、FBI捜査、連邦検察、侵入犯の裁判、上院調査、特別検察官、下院司法委員会、連邦裁判所など複数の経路によって進んだ。
報道だけで事件が解決したと整理すると、実際の制度的な過程を見失う。

ニクソンは「弾劾されて辞任した」?

正確には、下院司法委員会が3つの弾劾条項を採択したものの、下院本会議による弾劾採決の前に辞任した。
そのため、下院によって正式に弾劾された大統領ではない。

ウォーターゲート事件で本当に問われたもの

ウォーターゲート事件は、政党同士の争いだけで理解すると重要な部分が見えにくい。
共和党のニクソン政権と民主党の対立は事件の背景に存在するが、1973年から1974年にかけて実際に問われたのは、行政権力が刑事捜査や議会調査からどこまで情報を隠すことができるのかという問題だった。

FBIは侵入犯と資金を追い、連邦裁判所は侵入事件を審理し、上院は公開公聴会を通じて政権内部の行動を調べた。
特別検察官は録音テープを求め、最高裁は行政特権の限界を判断し、下院司法委員会は大統領の行動が弾劾に値するかを検討した。

この事件が現在まで重要なのは、権力者の不正があったという事実だけではない。
権力の内部で行われた行為を、別の機関がどのような証拠と権限を使って検証できるのかが、現実の事件を通して試されたからである。

そしてウォーターゲートの場合、その証拠の中心に置かれたのは、大統領自身の執務空間で自動的に記録されていた会話だった。
隠蔽を維持するためには秘密でなければならなかった会話が、最終的には隠蔽を崩す資料になったのである。

まとめ|5人の逮捕から大統領辞任まで

1972年6月17日、民主党全国委員会本部へ侵入した5人が逮捕された時点では、その事件が2年後に大統領を辞任させることになるとは決まっていなかった。

事件を拡大させたのは、侵入犯とニクソン再選組織との接点だけではない。
侵入後の資金処理、口止め、捜査への干渉、議会調査への抵抗、そしてホワイトハウスに残された録音が積み重なったことで、事件は現職大統領自身の行動を問うものへ変化した。

上院公聴会で秘密録音システムの存在が判明し、特別検察官がテープ提出を求め、大統領が拒み、最終的に最高裁判所が提出を命じた。
公開された1972年6月23日の録音は、ニクソンの従来の説明を維持できなくする証拠となった。

下院司法委員会は司法妨害、権力濫用、議会侮辱に関する3つの弾劾条項を採択した。
そして1974年8月9日、ニクソンは下院本会議での弾劾採決を待たずに辞任した。

次回は、この長い事件の出発点へ戻る。
1972年6月17日未明、ウォーターゲート・ビルの中で5人は何をしていたのか。
警備員フランク・ウィルズは何を見つけ、警察は現場から何を押収したのか。
「最も有名な侵入事件」の一夜を、確認できる記録から詳しく追う。

次の記事:

第2回|1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回

  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌
    [現在の記事]

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

本記事は、米国立公文書記録管理局、FBI、米上院、米下院、ニクソン大統領図書館などの公的資料を中心に照合し、確認できる事実と後世の単純化を分けて構成しています。ウォーターゲート侵入事件と、侵入後の隠蔽・捜査妨害を区別し、ニクソン本人が侵入計画を直接命令したと確認されていない点にも留意しています。

1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

政治スキャンダル・権力乱用

1972年6月17日午前1時47分ごろ、ワシントンD.C.のウォーターゲート・オフィス・ビルから警察へ通報が入った。
通報したのは、夜間警備員のフランク・ウィルズだった。

ウィルズが見つけたのは、壊された金庫でも、割られた窓でもない。
地下駐車場から建物内部へ通じるドアのラッチ部分に貼られた、目立たないテープだった。
ドアは閉じているように見えても、鍵が掛からない状態になっていた。

いったんテープを取り除いたウィルズが再び確認すると、同じ場所にはまたテープが貼られていた。
そこで彼は警察へ連絡した。
建物内を捜索した警察官は、6階にあった民主党全国委員会――DNCの本部で5人の男を発見し、逮捕した。

しかし、この夜の侵入は最初の試みではなかった。
約3週間前の5月28日、同じグループはすでにDNC本部へ侵入し、盗聴装置を設置していた。
6月17日の行動は、うまく機能していなかった盗聴装置への作業と、さらなる情報収集を目的とした再侵入だった。

ウォーターゲート事件は、ここから始まった。
今回は後の隠蔽や大統領辞任ではなく、1972年6月17日の一夜に焦点を絞り、「誰が、なぜ、どのようにDNC本部へ入り、何を残して逮捕されたのか」を追う。

CASE FILE 31

ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

    [現在の記事]

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

6月17日の侵入は「最初の侵入」ではなかった

ウォーターゲート事件について「1972年6月17日、5人がDNC本部へ侵入した」と説明されることが多い。
だが、この表現だけでは重要な前提が抜け落ちる。
6月17日は、グループにとって少なくとも2度目の侵入だった。

National Archivesの年表では、5月28日に民主党全国委員会本部へ電子監視装置が設置されたことが確認されている。
National Archivesが作成したウォーターゲート展示資料では、DNC委員長ラリー・オブライエンと、州民主党委員長組織の幹部スペンサー・オリバーの電話を対象とした盗聴工作が行われたと整理されている。

しかし、工作は期待どおりに機能しなかった。
オブライエン側の盗聴器は正常に機能せず、もう一方から得られた内容も政治的に有用な情報にはならなかったとされる。

そこで再びDNC本部へ入り、機器への作業を行うことになった。
National Archivesの公式年表も、6月17日に逮捕された5人について「監視装置を修理しようとしていた」と記録している。

つまり、6月17日の侵入は偶発的な窃盗ではない。
政治組織の内部へ秘密裏に侵入し、電子的な監視を継続しようとする計画の一部だった。

誰が作戦を動かしていたのか

侵入作戦の中心人物として後に起訴されたのが、G・ゴードン・リディとE・ハワード・ハントだった。
リディはニクソン大統領再選陣営に関係する情報活動を担当し、ハントは元CIA職員で、当時ホワイトハウス周辺の秘密工作にも関わっていた人物である。

National Archivesの資料では、5月の盗聴によって十分な情報を得られなかった後、リディらの側から再侵入が進められたと整理されている。
実際に建物内部へ入ったのは、リディやハント自身ではなく、別の5人だった。

人物 6月17日の位置づけ
Bernard L. Barker DNC本部内で逮捕された5人の一人
Virgilio R. Gonzalez DNC本部内で逮捕された5人の一人
Eugenio R. Martinez DNC本部内で逮捕された5人の一人
James W. McCord Jr. DNC本部内で逮捕。ニクソン再選委員会の警備関係者
Frank A. Sturgis DNC本部内で逮捕された5人の一人
G. Gordon Liddy 侵入工作を指揮する側。建物内では逮捕されていない
E. Howard Hunt 侵入工作を指揮する側。建物内では逮捕されていない

この関係は、事件を理解するうえで重要である。
「ウォーターゲートで7人が逮捕された」とする説明は正確ではない。
6月17日の現場で逮捕されたのは5人で、リディとハントを含む7人が後に侵入事件をめぐって起訴された。

現場はウォーターゲートの6階だった

民主党全国委員会は当時、ウォーターゲート・コンプレックスのオフィス部分に入っていた。
ニクソン大統領図書館は、DNC本部が6階にあったことを確認している。

ウォーターゲートという名称から、ホテルの客室へ侵入した事件と誤解されることがあるが、侵入先は複合施設内のオフィスだった。
同じ施設群にはホテル、住宅、オフィスなどが存在しており、事件名だけでは建物構成が分かりにくい。

現在のウォーターゲート・コンプレックス。1972年のDNC本部は施設内のオフィス棟6階に置かれていた。現在のテナントや内部構成は当時とは異なるため、Google Mapは位置関係の確認用として使用する。


Googleマップで大きく見る

National Archivesには、後の裁判で政府側証拠となったウォーターゲート・コンプレックスと向かい側の建物を含む平面図・立面図も保存されている。
侵入グループは単に建物へ入っただけではなく、外部から状況を確認する役割と建物内部で作業する役割に分かれていた。

フランク・ウィルズが見つけた「テープ」

計画を崩したのは、高度な防犯装置ではなかった。
夜間警備員フランク・ウィルズが、ドアのラッチ部分に貼られたテープへ気づいたことだった。

National Archivesに残された警備記録と関連資料によると、ウィルズは地下駐車場側から建物内部へ通じる複数のドアで、ラッチが掛からないよう細工されていることに気づいた。
最初は清掃・保守作業員が残したものと考え、テープを取り除いた。

それだけなら事件は発覚しなかった可能性がある。
ウィルズが再び確認したところ、取り除いたはずの場所に再度テープが貼られていた。
誰かが意図的にドアを開錠状態にしている可能性が高くなったため、彼は警察へ連絡した。

National Archivesが保存する当日の警備員記録には、警察へ電話した時刻として午前1時47分が残っている。
後世の短い説明では「警備員がテープを発見して通報した」と一文で済まされることが多いが、実際には一度取り除いた細工が復活していたことが、ウィルズの判断を変えた重要な点だった。

警察が建物内部を捜索する

通報を受けた警察はウォーターゲートへ入り、建物内部を確認した。
その捜索によって、DNC本部内にいた5人が発見された。

ここで作戦側には致命的な問題が起きていた。
侵入そのものを秘密にして情報を持ち出す計画だった以上、警察が建物内へ入った時点で、目的を達成して静かに撤収する余地は急速に失われる。

約3週間前の5月28日には、同じDNC本部へ侵入しても発見されずに退出できていた。
しかし今回は、ドアへ施した小さな細工が警備員に発見され、そこから警察の建物捜索へつながった。

設備そのものが侵入者を検知したというより、人が日常的な状態との差異へ気づいたことで計画が崩れた点は、この事件の特徴の一つである。

DNC本部で逮捕された5人

警察が逮捕したのは、バーナード・バーカー、ヴァージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルティネス、ジェームズ・マコード、フランク・スタージスの5人だった。

この中で、事件直後から特に重要な意味を持ったのがジェームズ・マコードである。
FBIの公式史では、逮捕者の一人が「Committee to Re-Elect the President」の警備担当者だったことが、FBI長官代行L・パトリック・グレイに早い段階で伝えられている。

Committee to Re-Elect the Presidentは、ニクソンを1972年大統領選挙で再選させるための組織だった。
後に一般に「CREEP」または「CRP」と呼ばれるこの組織との接点が、事件を通常の侵入事件とは違うものにした。

逮捕された人物の身元を調べるだけで、大統領再選運動へつながる線が存在したからである。

現場から何が見つかったのか

「政治目的の侵入だった」という評価は、後から付け加えられただけではない。
National Archivesには、後の連邦裁判で政府側証拠として提出された実物・写真・図面が多数保存されている。

デジタル公開されている裁判資料には、侵入に使用された工具類、ロックピック、手袋、電子的な盗聴・監視機材、カメラ、マイクなどが含まれている。
特に、口紅ほどの小さな容器に組み込まれたマイクなど、秘密裏の録音・監視を目的とした装置も裁判証拠として残されている。

National Archivesが公開するGovernment Exhibit 8には、工具や盗聴装置などを運ぶために使われたバッグも保存されている。
Government Exhibit 133には、ChapStickの容器に収められたBell & Howell製の小型マイクが記録されている。

したがって、現場の状況は「夜中に政治団体のオフィスへ5人がいた」というだけではなかった。
所持品と設備から見ても、情報収集を目的とした組織的な侵入として捜査する十分な理由が存在していた。

なぜ発覚したのか|計画の小さな弱点

結果だけを見れば、侵入グループは大統領再選組織と関係する人員や監視機材を抱えながら、警備員が見つけたテープによって逮捕された。
非常に大きな政治事件へ発展したため、後世から見ると奇妙なほど単純な発覚経路に見える。

しかし、問題は「テープを貼るという稚拙なミスをした」の一言では説明しきれない。
5月28日の最初の侵入では、同様の秘密工作を行いながら発見されずに退出している。
成功経験があったからこそ、再侵入というリスクのある選択が可能になった面もある。

さらに6月17日は、単に新しい盗聴装置を置くための作戦ではなかった。
先に設置した機器から十分な情報が得られなかったため、再び危険を冒して建物へ入る必要が生じていた。

情報を得られない。
そのため再侵入する。
再侵入するためドアを開錠状態にする。
その細工が警備員に見つかる。

ウォーターゲート事件の入口だけを見ても、目的を達成できなかった前回の工作が、新たなリスクを生み、そのリスクが発覚につながる因果関係が見えてくる。

時系列|6月17日未明まで何が起きていたのか

6月17日の逮捕だけを見るより、約3週間前の最初の侵入から並べる方が、この夜に再びDNC本部へ入った理由を理解しやすい。

時期 確認できる出来事
1972年5月28日 グループがDNC本部へ侵入し、電子監視・盗聴用の装置を設置する。
5月末~6月 設置された装置の一部が正常に機能せず、得られた情報も期待した政治情報にならなかった。
6月16日夜~17日未明 グループが再びウォーターゲートへ入り、DNC本部で監視装置への作業を行う。
6月17日未明 警備員フランク・ウィルズがドアのラッチを無効にするテープを発見し、いったん取り除く。
その後 同じ場所が再び細工されているのをウィルズが確認する。
午前1時47分 ウィルズが警察へ通報したことが警備記録に残る。
その後 警察がDNC本部内で5人を発見し、逮捕する。

ここでは、後世の再現記事などで示される分単位の細かな行動時刻を無理に採用していない。
一次記録によって確認できる1時47分の通報を基準にし、それ以外は資料の精度に合わせて記述する方が安全である。

FACT CHECK|6月17日の侵入について誤解しやすいこと

6月17日が最初の侵入だった?

いいえ。
National Archivesの公式年表では、5月28日にすでにDNC本部へ電子監視装置が設置されている。
6月17日は、その装置への作業を目的とした再侵入だった。

現場で逮捕されたのは7人?

いいえ。
DNC本部内で6月17日に逮捕されたのは5人である。
G・ゴードン・リディとE・ハワード・ハントを加えた7人が、後に6月の侵入事件をめぐって起訴された。

侵入者は単に書類を盗もうとしていた?

その説明では不十分である。
5月28日に電子監視装置が設置され、6月17日はその機器への作業を含む情報収集活動の一部だったことが公的記録から確認できる。
後の裁判証拠にも盗聴・監視用機材や工具が残されている。

フランク・ウィルズは一度テープを見ただけで警察を呼んだ?

National Archivesに残る資料では、ウィルズは最初にテープを取り除き、その後再び同じように細工されていることへ気づいて警察へ連絡している。
この二度目の発見が、不審な侵入を疑う重要な理由になった。

逮捕された瞬間、すでに「普通の侵入事件」ではなかった

6月17日の時点では、ホワイトハウスによる隠蔽も、上院公聴会も、秘密録音テープも世間には知られていない。
ニクソン大統領が2年後に辞任することも、もちろん決まってはいなかった。

それでも、警察が5人を逮捕した時点で通常の窃盗事件とは異なる兆候はいくつも存在した。
侵入先が大統領選挙期間中の民主党全国委員会本部だったこと。
監視・盗聴用の機材が存在したこと。
そして逮捕者のジェームズ・マコードが、ニクソン大統領の再選組織と関係していたことである。

FBIも後年の公式史で、事件について「最初から普通の侵入事件ではないことは明らかだった」と振り返っている。
FBIにとっても、現職大統領の再選運動につながる人物が政治的対立組織への侵入で逮捕された以上、極めて政治的に敏感な捜査になった。

そして次の疑問が生まれる。

5人は、本当に現場だけで完結したグループだったのか。
誰が費用を出し、誰が指示し、再選委員会とはどこまでつながっていたのか。

その答えを探すため、捜査側は人物関係だけでなく「金の流れ」を追うことになる。

まとめ|ウォーターゲート事件は、小さな異変から発覚した

1972年6月17日の事件は、その夜だけを切り取っても計画的な政治工作だった。
DNC本部には約3週間前から盗聴装置が設置されており、十分な成果が得られなかったため、グループは再び建物へ入っていた。

その再侵入を発見したのが、夜間警備員フランク・ウィルズだった。
ウィルズはドアを開錠状態にする細工を見つけ、いったん取り除いた。
それが再び施されているのを確認し、午前1時47分に警察へ通報した。

警察はDNC本部内で5人を逮捕した。
現場と後の裁判記録には、工具、監視・盗聴用の装置などが残り、逮捕者の一人ジェームズ・マコードはニクソン再選委員会と関係していた。

この時点ではまだ、「大統領を辞任させる事件」ではない。
しかし、逮捕された5人を調べれば、彼らの背後に別の人物と組織が見えてくる状態にはなっていた。

次回は、警察が捕まえた5人から一段外側へ進む。
侵入犯は誰とつながり、活動資金はどこから来ていたのか。
FBIの捜査と資金追跡が、ウォーターゲート事件をニクソン再選組織へ近づけていく過程を追う。

前の記事:

第1回|ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

次の記事:

第3回|5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

    [現在の記事]

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

  • National Archives and Records Administration —
    Watergate and the Constitution: Chronology

    1972年5月28日の電子監視装置設置、6月17日の再侵入・逮捕、後の起訴日程確認に使用。
  • National Archives and Records Administration —
    U.S. v. Liddy Trial Records and Government Exhibits

    ウォーターゲート・コンプレックスの平面図、侵入に使用された工具・バッグ・盗聴装置、ChapStick型マイクなど、連邦裁判で提出された実物証拠の確認に使用。
  • National Archives and Records Administration —
    Records of the Watergate Special Prosecution Force

    1972年6月17日の警備員記録、裁判資料、ウォーターゲート関連公文書の所在確認に使用。
  • National Archives —
    “Wills on Duty:” The Guard that Discovered the Watergate Break-in

    フランク・ウィルズがドアの細工を発見し、いったん取り除いた後、再びテープが貼られていることを確認して警察へ連絡した経過の確認に使用。
  • Richard Nixon Presidential Library and Museum —
    Watergate Break-in, 50th Anniversary

    DNC本部が6階にあったこと、5月28日の最初の侵入、6月17日の警備記録、逮捕された5人の氏名確認に使用。
  • Federal Bureau of Investigation —
    Watergate

    6月17日の逮捕直後から、逮捕者の一人がニクソン再選委員会の警備関係者と判明していたこと、FBIが政治的に極めて敏感な事件として捜査を開始した経過確認に使用。

本記事はNational Archives、FBI、Richard Nixon Presidential Libraryなどの公的記録を中心に構成しています。6月17日の現場で確認できる事実と、後の捜査・裁判によって明らかになった関係を混同しないよう分離し、再現記事などに見られる分単位の細かな行動時刻については、公的記録で十分確認できないものを本文の確定時刻として採用していません。