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Arthur AndersenはEnronで何をしていたのか監査、文書破棄、最高裁判決まで

Arthur AndersenはEnronで何をしていたのか|監査、文書破棄、最高裁判決まで

企業不祥事・経済犯罪

Enronの財務諸表には、社内の経営陣だけではなく、外部の専門家によるチェックが入っていました。

その中心にいたのが、Arthur Andersen LLPです。

当時、世界の「Big Five」に数えられていた巨大会計事務所で、Enronの外部監査法人を務めていました。

Enronが公表する財務諸表を監査するだけではありません。

Arthur AndersenはEnronへ内部監査やコンサルティングなどのサービスも提供し、複雑な会計処理についても長年関与していました。

それなら、なぜEnronの財務報告上の問題を止められなかったのでしょうか。

そしてEnronが崩壊し始めた2001年秋、なぜArthur Andersenの社員たちは大量のEnron関連文書を破棄することになったのでしょうか。

この問題はさらに複雑です。

Arthur Andersenは2002年、Enron関連文書の破棄をめぐって司法妨害で有罪評決を受けました。

ところが2005年、アメリカ連邦最高裁判所はその有罪判決を全員一致で覆しました。

だからといって、

「最高裁がArthur Andersenの監査に問題はなかったと認定した」

わけではありません。

最高裁が判断したのは、文書破棄をめぐる刑事事件で陪審員へ示された法律上の指示が適切だったかという問題でした。

Enron事件におけるArthur Andersenを理解するには、

  • Enron監査の問題
  • 監査法人としての独立性
  • 2001年秋の文書破棄
  • 2002年の刑事裁判
  • 2005年の最高裁判決

を分けて追う必要があります。

この記事で分かること

  • Arthur AndersenはEnronでどのような仕事をしていたのか
  • 外部監査法人には本来どのような役割があるのか
  • Enronとの近い関係はなぜ問題視されたのか
  • AndersenはEnronの会計上の危険をどこまで把握していたのか
  • 2001年秋、文書破棄はどのように進んだのか
  • Arthur Andersenは何の罪で起訴・有罪となったのか
  • 2005年、最高裁はなぜ有罪判決を覆したのか
  • 最高裁判決を「無罪認定」と単純化できない理由

CASE FILE 36

Enron崩壊特集(全10回)

第6回では、Enronを外側から監査する立場にあったArthur Andersenを扱います。

第5回では、Enron取締役会がFastowの利益相反や高リスク会計を十分に監督できなかった問題を確認しました。しかし財務諸表には外部監査法人による監査も存在しました。

今回は、その外部防衛線がなぜ機能しなかったのか、そしてEnron崩壊後にArthur Andersen自身が刑事事件の被告となった経緯を追います。

  1. Enronはなぜ崩壊したのか|巨大エネルギー企業を破綻させた不正会計の全体像
  2. Enronは何の会社だったのか|ガス会社から「エネルギーを取引する会社」へ変わった仕組み
  3. Enronの利益はどう作られたのか|時価評価会計と「将来利益」を先に計上する仕組み
  4. Enronは負債と損失をどう見えにくくしたのか|SPE、LJM、Raptorの仕組み
  5. Enron取締役会はなぜ止められなかったのか|Fastowの利益相反と企業統治の失敗
  6. Arthur AndersenはEnronで何をしていたのか|監査、文書破棄、最高裁判決まで 【現在の記事】
  7. Enronは2001年にどう崩壊したのか|Skilling辞任から12月2日の破産申請まで
  8. Enronの不正はどう解明されたのか|Powers Report、SEC、FBI、Enron Task Forceの捜査
  9. Enron事件で誰が有罪になったのか|Lay、Skilling、Fastowらの刑事責任を整理する
  10. Enron崩壊は何を変えたのか|SOX法、PCAOB、内部統制と企業監査のその後

先に結論|Arthur Andersenには二つの問題がある

Arthur Andersenをめぐる話は、大きく二つに分ける必要があります。

問題 内容
監査・会計 Enronの複雑で高リスクな会計処理を外部監査法人として適切に検証できていたか
刑事事件 SEC調査が迫る中、社員へ文書破棄を促した行為が司法妨害罪に当たるか

2002年の刑事裁判でArthur Andersenが問われたのは、

「Enronの不正会計を監査で見逃した罪」

ではありません。

Enron関連文書の破棄をめぐるobstruction of justice――司法妨害でした。

この区別は極めて重要です。

そして2005年の最高裁判決が覆したのも、この司法妨害事件の有罪判決です。

最高裁はArthur Andersenの監査内容を全面的に正当化したわけではありません。

Arthur Andersenとはどれほど大きな監査法人だったのか

Arthur Andersenは20世紀を代表する国際会計事務所の一つでした。

PricewaterhouseCoopers、Deloitte & Touche、Ernst & Young、KPMGと並び、当時は世界のBig Fiveの一角を占めていました。

Enronのような巨大上場企業が財務諸表を公表するとき、投資家は経営陣自身が作った数字だけを見るわけではありません。

独立した外部監査法人が、

  • 会計基準に従っているか
  • 重大な虚偽表示がないか
  • 証拠と帳簿が整合しているか
  • 重要な会計判断が合理的か

を検証します。

監査報告書は、その外部チェックが行われたことを市場へ示す役割を持ちます。

つまりArthur Andersenは、Enron経営陣とは別の立場から財務報告を検証する重要なgatekeeperでした。

しかしAndersenは「監査だけ」をしていたわけではない

EnronとArthur Andersenの関係が問題視された理由の一つが、業務範囲の広さです。

最高裁判決でも、Arthur AndersenはEnronの公開財務諸表を監査する一方、内部監査やコンサルティングサービスも提供していたことが確認されています。

つまりEnronにとってAndersenは、

  • 外部監査人
  • 会計上の相談相手
  • 内部監査サービス提供者
  • 各種コンサルティングの提供者

という複数の顔を持っていました。

これが直ちに違法だったわけではありません。

当時、監査法人が顧客へ監査以外のサービスを提供することは広く行われていました。

しかし、外部監査人には経営陣から独立して財務情報を検証する役割があります。

同じ顧客から監査以外にも大きな仕事を受けていれば、

顧客へ厳しい判断を下す独立性が弱くならないか

という疑問が生じます。

Enron崩壊後、この問題は米国の監査制度改革で大きな争点になります。

Enronの会計はAndersenにとって未知ではなかった

EnronのSPE、mark-to-market、LJM、Raptorなどは、崩壊後に初めてArthur Andersenが知った仕組みではありません。

AndersenはEnronの外部監査法人として、こうした取引や財務報告に関与していました。

第5回で見たように、Enron取締役会も、LJMのgovernance structureなどについてAndersenの説明を安心材料の一つとしていました。

これは、Andersenの役割が単なる帳簿の数字合わせではなかったことを意味します。

複雑なSPEについて、

  • 連結する必要があるか
  • 第三者資本は十分か
  • ヘッジとして扱えるか
  • 関連当事者取引をどう開示するか

といった会計判断にも関係していました。

「問題を知っていた」と「不正を共謀していた」は別

ここも慎重に区別する必要があります。

Arthur AndersenがEnronの複雑な会計処理を知っていたことから、

「Enron経営陣と一緒に最初から詐欺を企画していた」

と直結させることはできません。

監査法人は、顧客が採用しようとする会計処理について検討し、それが会計基準の範囲内かどうか判断する立場にあります。

後に問題となった取引でも、

  • 監査人へ完全な情報が渡されていたのか
  • 秘密のサイドディールが開示されていたのか
  • 監査人が会計処理を誤って許容したのか
  • 経営陣の説明を過度に信用したのか

を取引ごとに分ける必要があります。

しかし結果として、Enronが長期間公表していた財務諸表には後に大規模な修正が必要となり、外部監査がその誤りを事前に止められなかったという問題は残りました。

Arthur Andersen社内でもEnronは軽い案件ではなかった

Enronは非常に複雑な取引会社でした。

大量のデリバティブ、SPE、長期契約、mark-to-market評価、投資資産などを扱います。

監査する側にも高度な専門判断が必要です。

Enron監査の中心にいたArthur AndersenのパートナーがDavid Duncanでした。

Duncanが率いるEnron engagement teamは、Enronの財務諸表監査に直接関与していました。

そして2001年にEnronの状況が悪化すると、このDuncanとAndersen社内の法務・会計担当者たちが、後の文書破棄事件の中心へ入っていきます。

2001年8月|Sherron Watkinsの警告がAndersenにも届く

2001年8月14日、CEO Jeffrey Skillingが突然辞任します。

数日後、Enron副社長Sherron WatkinsはKenneth Layへ、Enronが会計問題によって崩壊する可能性を警告しました。

Watkinsの懸念はEnron内部だけに留まりません。

最高裁判決の事実関係によれば、WatkinsはDavid Duncanと、Duncanを監督するArthur AndersenパートナーMichael Odomにも問題を伝えていました。

この時点でAndersen側にも、Enronの会計処理をめぐって重大な問題が表面化する可能性が認識され始めます。

10月|Enronの危機が一気に表面化する

2001年10月16日、Enronは第3四半期決算を発表しました。

純損失は6億1800万ドル。

さらにRaptorやLJMに関連する取引によって、株主資本を約12億ドル減額する必要があることも明らかになっていきます。

翌10月17日、SECはEnronについて問い合わせを開始しました。

10月19日には、EnronからArthur Andersenへ、SECがSPEなどを調査していることが伝えられます。

政府による本格的な調査の可能性が現実のものになっていました。

そこで起きた「文書保存方針」の徹底

企業や会計事務所には通常、document retention policy――文書保存・廃棄方針があります。

すべてのメモ、メール、ドラフトを永久保存するわけではありません。

一定期間が経過した文書や不要なドラフトを、通常業務として廃棄すること自体は違法ではありません。

Arthur Andersenにも文書保存方針がありました。

そしてEnron問題が深刻化していた2001年10月、この文書保存方針を遵守するよう社内で指示が出されました。

ここから刑事事件が始まります。

「文書を捨てた」だけでは司法妨害にならない

重要なのは、文書を廃棄したという事実だけではありません。

企業が通常の保存方針に従って不要文書を破棄することはあります。

刑事責任を問うには、

政府の公式手続で使われる可能性のある文書を失わせるため、不正な意図をもって他人に破棄させたのか

という故意の問題が重要になります。

まさにこの点が、2002年の裁判と2005年の最高裁判決で最大の争点となりました。

司法省が主張した文書破棄の時系列

司法省は2002年の起訴時、Arthur Andersenで大規模な文書破棄が行われたと主張しました。

政府側が示した流れを整理すると、次のようになります。

時期 出来事
2001年10月10日ごろ 政府側が、Enron関連文書破棄の組織的な動きが始まったと主張
10月16日 Enronが6億1800万ドルの第3四半期純損失を発表
10月17日 SECがEnronについて調査・問い合わせを開始
10月19日 EnronがAndersenへSEC調査について通知
10月23日ごろ 政府側によれば、Enron関連文書の大量破棄が本格化
11月8日 SECがArthur AndersenへEnron関連文書の召喚状を送達
11月9日 Enron監査チームへ文書破棄を停止するよう連絡

紙だけではなく電子データも削除された

政府側の裁判資料によれば、破棄されたのは紙文書だけではありません。

Enron engagement teamでは大量の紙資料がシュレッダーへ送られ、電子メールや電子文書も削除されました。

司法省は、通常時を大幅に上回る規模の削除が行われたと主張しました。

また文書破棄はHoustonだけではなく、Portland、Chicago、Londonなど、Enron関連業務に関わる複数拠点にも及んだと起訴状に記載されています。

11月8日にSECの召喚状が届き、翌日になって監査チームへ、正式に文書提出を求められたため破棄を止めるよう連絡が出されました。

問題は「召喚状が来る前なら自由に捨てていいのか」

Arthur Andersen側から見れば重要な反論があります。

SECから正式な召喚状が届いたのは11月8日です。

それ以前に通常のdocument retention policyへ従って文書を処分すること自体は、直ちに犯罪ではありません。

一方、政府側は、正式な召喚状がまだ届いていなくても、SECによる公式手続が近いことを予測し、そこで使用される文書をなくす意図で破棄を促せば司法妨害になり得ると考えました。

つまり刑事事件の核心は、

「いつ捨てたか」だけではなく、「何を予測し、何の目的で捨てさせたのか」

にありました。

2002年3月|Arthur Andersenそのものが起訴される

Enronは2001年12月2日にChapter 11を申請しました。

その後、司法省はEnron Task Forceを設置し、事件の刑事捜査を本格化させます。

2002年3月7日、連邦大陪審はArthur Andersen LLPを起訴。

起訴内容は3月14日に公表されました。

罪名は司法妨害です。

政府は、Arthur Andersenが従業員へEnron関連文書を破棄させ、SECなどの公式手続で利用できなくするためにknowingly, intentionally and corruptly persuadeしたと主張しました。

会計事務所の一部社員ではなく、Arthur Andersenという法人そのものが刑事被告となりました。

David Duncanは有罪を認める

2002年4月、Enron監査を率いていたDavid Duncanは、SEC調査を妨害したとして司法妨害罪について有罪を認めました。

Duncanはその後、政府側の証人となります。

これはArthur Andersen本体の裁判でも重要な意味を持ちました。

ただし、Duncan個人の有罪答弁と、法人Arthur Andersenの刑事責任は別の問題です。

法人を有罪にするためには、Arthur Andersenについて起訴された犯罪の構成要件が立証されなければなりません。

2002年6月15日|Arthur Andersenに有罪評決

Houstonで行われた刑事裁判では、陪審が長期間審議しました。

そして2002年6月15日、Arthur Andersen LLPは司法妨害について有罪評決を受けました。

当時の司法省は、AndersenがEnron関連調査を妨げるため大量の文書・電子情報を破棄したとして評決を評価しました。

2002年10月には、

  • 5年間のprobation
  • 50万ドルの罰金
  • 400ドルのspecial assessment

が科されました。

しかし会社への実際の打撃は判決前から始まっていた

監査法人にとって信用は事業そのものです。

司法妨害で起訴された巨大会計事務所へ、自社の財務諸表監査を任せ続けることには企業側にも大きなリスクがあります。

起訴後、多くの顧客企業がArthur Andersenから別の監査法人へ移っていきました。

そして2002年6月の有罪評決後、Arthur AndersenはSECに対して、原則として同年8月31日までにSEC登録企業に対する監査業務から撤退すると伝えました。

実際にArthur Andersenは2002年8月31日、SECに対する監査実務を停止します。

Big Fiveは事実上Big Fourになりました。

この時点で、Arthur Andersenの大手監査法人としての事業基盤は既に崩壊していました。

それでも刑事事件は終わらなかった

Arthur Andersenは有罪判決を争いました。

争点となったのは、文書を破棄した事実だけではありません。

裁判官が陪審員へ、司法妨害罪の要件をどのように説明したかです。

適用された18 U.S.C. §1512(b)では、当時、

knowingly … corruptly persuades

という文言が重要でした。

つまり、他人へ文書を捨てるよう説得しただけでは足りません。

犯罪として成立するには、「腐敗した目的」を認識しながら行ったことを適切に立証する必要があります。

第一審では「improper purpose」で足りると説明された

Arthur Andersenの裁判で、陪審員は「corruptly」について、おおむねimproper purpose――不適切な目的を持つことだと説明されました。

さらに陪審は、Arthur Andersen側に法律違反だという認識、つまりconsciousness of wrongdoingがなくても有罪にできる形で指示を受けました。

Arthur Andersenは、この指示では犯罪の範囲が広すぎると主張しました。

第五巡回区控訴裁判所は有罪判決を維持しました。

しかし事件は連邦最高裁へ進みます。

2005年5月31日|最高裁が全員一致で有罪判決を覆す

2005年5月31日。

連邦最高裁判所はArthur Andersen LLP v. United Statesで判決を出しました。

結論は全員一致。

Arthur Andersenの有罪判決をreverse and remand――破棄し、下級審へ差し戻すというものでした。

Chief Justice William Rehnquistが法廷意見を書いています。

最高裁が問題にしたのは、第一審の陪審員への指示でした。

最高裁のポイント①|「不適切な目的」だけでは広すぎる

最高裁は、

knowingly … corruptly persuades

という法律の文言を重視しました。

「knowingly」と「corruptly」を組み合わせれば、単に何らかの不適切な目的を持っているだけでは足りません。

最高裁は、刑事責任には自分の行為が不正であることについての認識が必要だと判断しました。

文書保存方針に従うよう上司が社員へ指示すること自体は、通常なら合法です。

政府に見せたくない情報を減らす目的が一部に存在していても、それだけですべての文書整理が犯罪になるわけではありません。

だからこそ「corruptly」という要件を正しく陪審へ説明する必要がありました。

最高裁のポイント②|特定の公式手続とのつながりが必要

もう一つ問題になったのが、official proceeding――公式手続との関係です。

法律上、文書破棄時点で公式手続が既に始まっている必要はありません。

しかし最高裁は、だからといって、

「将来どのような公式手続が起こるか全く意識していなくても有罪になる」

わけではないとしました。

文書を破棄させる行為と、予想される特定の公式手続との間に十分なつながりが必要です。

第一審の陪審指示では、この要件も十分伝えられていないと最高裁は判断しました。

最高裁は何を「認定していない」のか

ここがArthur Andersen事件でもっとも誤解されやすい部分です。

最高裁判決は、

「Arthur Andersenでは文書破棄は行われなかった」

とは言っていません。

大量の文書が破棄された事実そのものを否定した判決ではありません。

また、

「Arthur AndersenのEnron監査は適切だった」

とも判断していません。

監査の質を全面的に審理した事件ではないからです。

そして、

「文書破棄を指示した行為は完全に合法だった」

と認定したわけでもありません。

最高裁が判断したのは、

2002年の有罪判決を成立させた陪審指示では、法律が要求する犯罪要件を正確に伝えていなかった

ということです。

最高裁が判断した 最高裁が判断していない
陪審指示に重大な問題があった Enron監査がすべて適切だった
有罪判決を破棄・差し戻し 文書破棄が存在しなかった
「knowingly corruptly」の主観要件を重視 Andersen関係者に一切問題がなかった
特定の公式手続との関係が必要 Enronの会計処理を正当化した

「有罪判決が覆った」ことと「会社が戻った」ことも別

最高裁判決が出たのは2005年5月です。

しかしArthur AndersenがSEC登録企業への監査業務を停止したのは2002年8月31日。

約3年前でした。

監査法人は、顧客、監査スタッフ、パートナー、評判という人的ネットワークによって成り立っています。

一度顧客が他の監査法人へ移り、大量の専門職員が退職・移籍した後、最高裁が有罪判決を覆しても、2001年以前のArthur Andersenをそのまま復元することはできません。

このためArthur Andersen事件は、法人への刑事訴追が企業そのものへ与える影響を考える際にも頻繁に参照される事例となりました。

FACT CHECK|Arthur Andersen事件で混同しやすい5点

FACT

  • Arthur AndersenはEnronの外部監査法人だった
  • 内部監査・コンサルティングも提供していた
  • 2001年秋に大量のEnron関連文書が破棄された
  • 2002年に司法妨害で有罪評決を受けた
  • 2005年に最高裁が全員一致で判決を覆した

分ける必要がある

  • 監査上の失敗
  • 監査人の独立性
  • 文書破棄
  • 司法妨害罪の構成要件
  • 法人Arthur Andersenと個人Duncanの責任

誤り

  • 最高裁がEnron監査を無問題と認定した
  • 最高裁が文書破棄の事実を否定した
  • Andersenは不正会計そのもので有罪になった
  • 文書保存方針を持つこと自体が違法だった
  • 有罪判決が覆った直後に会社が元へ戻った

監査法人は「経営陣の数字を保証する会社」ではない

Enron事件から監査法人の役割を見るとき、もう一つ注意が必要です。

外部監査は、会社内で起きるすべての不正を100%発見することを保証する制度ではありません。

監査人は証拠を収集し、重要な虚偽表示がないかについて合理的な保証を得ることを目指します。

経営陣が情報を隠したり、秘密のサイドディールを監査人へ知らせなかったりすれば、監査の難易度は上がります。

しかしだからといって、

「監査人は騙されたのだから責任はない」

で終わるわけでもありません。

監査人には、

  • 経営陣の説明を批判的に検証する
  • 異常な取引へ追加手続きを行う
  • 関連当事者取引を確認する
  • 会計上の判断に十分な証拠を求める
  • 経営陣と意見が対立しても独立性を保つ

ことが求められます。

Enronでは、会社内部の統制が弱いだけでなく、その外側にいる監査人がどれだけ独立して厳しい検証を行えたのかも問われました。

Enron事件には「何重もの防衛線」があった

ここまで第3回から第6回を並べると、Enronには本来、複数の防衛線が存在したことが分かります。

防衛線 本来の役割 Enronで問題になったこと
会計部門 正しい財務報告を作る 複雑な評価・SPE処理
リスク管理 取引リスクを検証 高リスク取引を十分抑止できず
経営陣 会社全体を管理 利益目標と財務報告の圧力
取締役会 経営陣を監督 LJM利益相反への監督不足
外部監査 財務諸表を独立検証 Arthur Andersenの監査・独立性問題

一つの担当者がミスをしても、別の層で発見する。

それが企業統治と監査の基本的な考え方です。

ところがEnronでは、複数の防衛線を越えて問題が蓄積しました。

これも、この事件を単なる「Fastowが数字を隠した事件」として終わらせられない理由です。

Arthur Andersen事件が後の制度改革につながる

Enron崩壊とArthur Andersen問題は、アメリカの監査制度そのものへの信頼を揺るがしました。

「会社が選び、会社が報酬を支払う監査法人は、本当に会社から独立できるのか」

「監査とコンサルティングを同じ法人が提供してよいのか」

「監査法人自身を誰が監督するのか」

という疑問です。

2002年にはSarbanes-Oxley Actが成立。

監査法人を監督するPCAOB――Public Company Accounting Oversight Board――が設けられ、監査人の独立性や非監査業務についても新たな制限が導入されていきます。

この制度改革については、第10回で詳しく扱います。

要点まとめ

Arthur AndersenはEnronの外部監査法人であり、公開財務諸表の監査だけでなく、内部監査やコンサルティングサービスも提供していました。

Enronが利用していたmark-to-market、SPE、LJM、Raptorなどについて、Arthur Andersenは外部監査人として重要な会計判断に関与していました。

しかしEnronの財務諸表には後に大規模な修正が必要となり、外部監査が問題を事前に止められなかったことが問われます。

2001年8月にはSherron Watkinsの懸念がEnron監査責任者David DuncanらArthur Andersen側にも伝わりました。

同年10月、Enronの巨額損失とSEC調査が表面化すると、Arthur Andersenでは文書保存方針の徹底が進められ、Enron関連の紙文書や電子データが大量に破棄されました。

2002年3月、Arthur Andersen LLPそのものが司法妨害で起訴されます。

4月にはDavid Duncanが有罪を認め、6月15日にはArthur Andersen本体も有罪評決を受けました。

その後、多数の顧客を失い、Arthur Andersenは2002年8月31日までにSEC登録企業への監査実務から事実上撤退しました。

しかし2005年5月31日、連邦最高裁判所はArthur Andersenの有罪判決を全員一致で覆しました。

理由は、第一審で陪審員へ与えられた指示が、司法妨害罪の「knowingly … corruptly persuades」という要件を正確に説明していなかったことなどです。

これは、Arthur Andersenの監査を正当化した判決でも、大量の文書破棄が存在しなかったと認定した判決でもありません。

つまりEnronにおけるArthur Andersen問題には、

監査法人としてEnronを十分チェックできなかった問題

と、

Enron崩壊時の文書破棄が刑法上の司法妨害に当たるかという問題

の二つがあり、その最終的な法的結論は同じではありません。

そして2001年秋、Enron本体ではこれらの問題が次々と公表され、わずか数か月で巨大企業の信用が消えていきます。

次回は、Jeffrey Skillingの突然の辞任から、Sherron Watkinsの警告、SEC調査、Dynegyによる救済交渉、信用格付けの崩壊、そして12月2日のChapter 11申請まで――Enronが2001年に崩壊した約4か月間を時系列で追います。

CASE FILE 36

Enron崩壊特集(全10回)

  1. Enronはなぜ崩壊したのか|巨大エネルギー企業を破綻させた不正会計の全体像
  2. Enronは何の会社だったのか|ガス会社から「エネルギーを取引する会社」へ変わった仕組み
  3. Enronの利益はどう作られたのか|時価評価会計と「将来利益」を先に計上する仕組み
  4. Enronは負債と損失をどう見えにくくしたのか|SPE、LJM、Raptorの仕組み
  5. Enron取締役会はなぜ止められなかったのか|Fastowの利益相反と企業統治の失敗
  6. Arthur AndersenはEnronで何をしていたのか|監査、文書破棄、最高裁判決まで 【現在の記事】
  7. Enronは2001年にどう崩壊したのか|Skilling辞任から12月2日の破産申請まで
  8. Enronの不正はどう解明されたのか|Powers Report、SEC、FBI、Enron Task Forceの捜査
  9. Enron事件で誰が有罪になったのか|Lay、Skilling、Fastowらの刑事責任を整理する
  10. Enron崩壊は何を変えたのか|SOX法、PCAOB、内部統制と企業監査のその後

主な参照資料

  • Supreme Court of the United States:Arthur Andersen LLP v. United States, 544 U.S. 696(2005)
  • U.S. Department of Justice:Arthur Andersen LLP v. United States — Brief for the United States
  • U.S. Department of Justice:Arthur Andersen Indictment / News Conference(2002年3月14日)
  • U.S. Department of Justice:Statement on the Arthur Andersen Verdict(2002年6月15日)
  • U.S. Department of Justice:Statement on Arthur Andersen Sentencing(2002年10月16日)
  • U.S. Securities and Exchange Commission:Statement Regarding Andersen Case Conviction(2002年6月15日)
  • U.S. Senate Permanent Subcommittee on Investigations:The Role of the Board of Directors in Enron’s Collapse(2002年)

※Arthur Andersenをめぐる「監査上の問題」と「文書破棄をめぐる刑事責任」は分離して記述しています。Arthur Andersen LLPが2002年に有罪評決を受けた刑事事件は、Enronの不正会計そのものではなく、18 U.S.C. §1512(b)に基づく文書破棄・司法妨害事件です。2005年5月31日の連邦最高裁判決は、第一審の陪審指示が「knowingly … corruptly persuades」の犯罪要件や公式手続との関係を十分に伝えていなかったとして有罪判決を破棄・差し戻したもので、Enron監査の適切性や文書破棄の事実そのものについてArthur Andersenを全面的に免責した判決ではありません。また、2001年10月以降の文書破棄の意図に関する記述では、司法省が起訴・裁判で主張した内容と、最高裁が最終的に示した法解釈を区別しています。