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侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのかシリカ判事とマコード書簡

侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

政治スキャンダル・権力乱用

1973年1月、ウォーターゲート事件は法廷へ移った。
前年6月に民主党全国委員会本部へ侵入した5人と、作戦を指揮したG・ゴードン・リディ、E・ハワード・ハントが刑事責任を問われることになったのである。

通常なら、ここで事件は一つの区切りを迎える。
侵入犯が有罪となり、刑を受ければ、1972年6月17日の事件については司法手続が進んだことになる。

ところがウォーターゲートでは逆のことが起きた。
裁判が進むほど、担当判事ジョン・J・シリカは「法廷に出ている7人だけで本当に事件全体を説明できるのか」と疑うようになった。

そして判決後、侵入犯ジェームズ・マコードがシリカへ一通の手紙を送った。
そこには、被告たちへ有罪を認めて沈黙するよう政治的圧力がかけられたこと、裁判で偽証があったこと、さらに事件に関係した別の人物が明らかにされていないことが書かれていた。

1973年3月23日、シリカがその書簡を法廷で読み上げる。
侵入事件を処理するために始まった刑事裁判は、ここから「誰が侵入したか」ではなく、「誰がその背後にいて、なぜ事実を隠そうとしたのか」を追う入口へ変わった。

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ウォーターゲート事件 1972–1974|全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

    [現在の記事]

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

先に結論|なぜ裁判が事件を終わらせなかったのか

ウォーターゲート侵入事件の裁判そのものは、被告7人全員の有罪という結果に終わった。
しかし、そのことは「事件の全貌が解明された」ことを意味しなかった。

むしろ裁判を担当したジョン・シリカ判事は、審理を通じて、法廷で示された説明だけでは事件の背景を十分に説明できないと考えるようになった。

5人は現場で逮捕されている。
監視・盗聴機材も残っている。
リディとハントが作戦を指揮したことも捜査で明らかになっていた。

それでも疑問は残った。

なぜ大統領再選運動に関係する人間が、民主党本部へ侵入するほどの政治工作を実行したのか。
資金はどこから来たのか。
誰が計画を承認したのか。
逮捕後、なぜ被告たちへ秘密の金が支払われたのか。

裁判は「実行犯を有罪にする」ことには成功した。
しかし「事件がどこまで上層部につながっていたのか」については、多くの疑問を残した。

そこへマコード書簡が届いた。

この書簡によって、シリカが抱いていた「まだ何か隠されているのではないか」という疑問が、単なる推測ではなく、被告自身による具体的な告発へ変わったのである。

1972年9月15日|7人が起訴された

ウォーターゲート侵入から約3か月後の1972年9月15日、連邦大陪審は事件に関係した7人を起訴した。

人物 事件での位置づけ
G. Gordon Liddy 侵入工作を計画・指揮する側
E. Howard Hunt 侵入工作を指揮する側
James W. McCord Jr. DNC本部内で逮捕。ニクソン再選委員会の警備担当
Bernard Barker DNC本部内で逮捕
Virgilio Gonzalez DNC本部内で逮捕
Eugenio Martinez DNC本部内で逮捕
Frank Sturgis DNC本部内で逮捕

National Archivesには、この刑事事件「United States v. Liddy」の裁判記録が現在も保存されている。
侵入現場の写真、建物図面、工具、盗聴装置など、前回までに見た物証もこの裁判で政府側証拠として使用された。

ここで起訴されたのは、現場の5人と、侵入作戦を直接指揮したリディ、ハントまでだった。
ホワイトハウス高官やニクソン再選委員会上層部は、この侵入事件の起訴対象には含まれていなかった。

それが本当に事件の全体だったのか。
この疑問が、後にシリカ判事の姿勢を大きく左右することになる。

1973年1月|侵入事件の裁判が始まる

National Archivesの公式年表では、ウォーターゲート侵入事件の裁判は1973年1月8日に始まった。

しかし、7人全員が最後まで陪審裁判を続けたわけではない。

1月11日、E・ハワード・ハントが有罪を認めた。
続いて1月15日、バーカー、スタージス、マルティネス、ゴンザレスの4人も有罪答弁を行った。

最後まで裁判を続けたのは、G・ゴードン・リディとジェームズ・マコードだった。

そして1月30日、両者はウォーターゲート侵入事件に関する起訴内容について有罪となった。

日付 裁判の動き
1973年1月8日 侵入事件の裁判開始
1月11日 E・ハワード・ハントが有罪答弁
1月15日 バーカー、スタジス、マルティネス、ゴンザレスが有罪答弁
1月30日 リディとマコードが全訴因で有罪

結果だけを見ると、検察側の事件処理は順調に見える。
7人全員について有罪が成立したからである。

しかしシリカ判事は、むしろこの過程に疑問を持った。

ジョン・シリカ判事は何を疑っていたのか

ジョン・J・シリカは、ワシントンD.C.連邦地方裁判所の首席判事だった。
ウォーターゲート侵入事件では、United States v. Liddyの裁判を担当した。

米上院の公式史は、数週間の証言を聞いたシリカについて、「事件のすべての事実が明らかになっているのか疑問を持った」と整理している。

シリカが気にしていたのは、単に被告が有罪か無罪かという問題だけではなかった。

政治的な侵入工作を実行するには、計画、資金、情報、指示系統が必要になる。
ところが法廷に現れた事件像では、その構造がリディとハント付近で途切れていた。

一方、裁判の外ではすでにFBIや報道機関が、侵入犯とニクソン再選組織との資金・人的関係を追っていた。

シリカは法廷でも、事件の背後に別の人物がいないのかを強く問題視した。

National Archivesに保存される裁判記録には、1973年1月24日の審理について「Judge Sirica’s suggestions as to further investigation」と整理された記録も残っている。

つまり判事自身が、起訴された7人を有罪にして終了するだけでは不十分だと考えていたことが分かる。

シリカは被告たちに「協力」を求めた

有罪となった被告たちは次に量刑を受ける。
そこでシリカは、被告たちが事件の全貌を明らかにするために捜査へ協力するかどうかを重視した。

米上院の公式史では、シリカが量刑を待つ被告たちに対し、まもなく設置される上院特別委員会への協力を促したと記録されている。

この点は後に議論も呼んだ。
刑事事件の判事が重い刑を背景に被告へ協力を迫ることについて、司法上の適切性を問題視する見方もあったからである。

そのため、「シリカが英雄的に被告を脅して真実を話させた」と単純化するのは避けた方がよい。

ただし事実として、シリカは「裁判で出た説明だけでは足りない」と考え、被告が捜査機関や議会へ情報を提供することを強く求めていた。

その圧力を最も早く受け止めた人物の一人が、ジェームズ・マコードだった。

上院委員会はマコード書簡より前に作られていた

ここで時系列を一度整理しておく必要がある。

ウォーターゲート事件を説明する際、「マコードが手紙を書いたため上院調査が始まった」という形で語られることがあるが、これは正確ではない。

米上院は1973年2月7日、すでに「Select Committee on Presidential Campaign Activities」を設置していた。
後に上院ウォーターゲート委員会と呼ばれる組織である。

委員会には、1972年大統領選挙における違法・不適切・非倫理的な活動だけでなく、ウォーターゲート侵入事件と、その後の隠蔽について調査する権限が与えられた。

したがって、マコードの書簡が上院委員会を誕生させたわけではない。

書簡の重要性は、すでに進み始めていたFBI、連邦検察、上院委員会の調査に対し、

「実行犯の一人が、裁判で重要な事実が隠されていたと認めた」

という新しい証言源を提供したことにある。

1973年3月19日|マコードがシリカへ書簡を書く

ジェームズ・マコードは1973年3月19日付で、シリカ判事宛てに書簡を書いた。

マコードは元FBI職員、元CIA職員で、事件当時はニクソン再選委員会の警備担当者だった。
6月17日にDNC本部で逮捕され、1973年1月30日に有罪となっている。

書簡は長大な告白文ではない。
短い文書の中に、裁判の前提を揺るがす複数の主張が並んでいた。

マコードの主張 意味
被告に有罪答弁と沈黙を求める政治的圧力があった 有罪答弁が被告個人の判断だけではなかった可能性を示した
裁判で重大な点について偽証が行われた 司法手続そのものが不完全な情報で進んだ可能性を示した
ウォーターゲートに関与した別の人物が特定されていない 起訴された7人より上・外側に関係者が存在すると示唆した
ウォーターゲート作戦はCIAの作戦ではない 「国家安全保障上の秘密作戦」という説明を否定した

特に4点目は、第4回で見たCIA問題と直接つながる。

マコードは書簡の中で、ウォーターゲート作戦はCIAの作戦ではなかったと明言している。
実行グループのキューバ系メンバーがCIA作戦だと誤解させられていた可能性には触れつつも、自分はCIA作戦ではなかったことを知っていると述べた。

つまり、ホワイトハウス側がFBI捜査を制限するために使おうとした「CIAの秘密活動」という説明に対して、現場側の重要人物が否定的な情報を出したことになる。

マコード書簡は「誰が黒幕か」を書いた手紙ではない

一方で、この書簡を実際より大きく描くのも正確ではない。

3月19日の書簡に、ニクソン、ハルデマン、アーリックマン、ミッチェルらの詳細な犯罪行為がすべて書かれていたわけではない。

書簡の段階でマコードが示したのは、

  • 沈黙するよう圧力があった
  • 裁判で偽証があった
  • 関係者が他にもいる
  • CIA作戦ではない

という告発だった。

つまり「答え」を示した文書ではない。

それまで閉じられていた捜査対象を、

「7人より外側へ調べる必要がある」

と明確にした文書だった。

具体的な人物や隠蔽の構造は、その後マコードが捜査側や上院委員会へ協力する過程でさらに明らかになっていく。

3月21日|ホワイトハウスでも危機感が高まっていた

マコード書簡が表に出る時期と、前回扱ったジョン・ディーンの「大統領職に広がる癌」会話はほぼ重なっている。

1973年3月21日、ディーンはニクソン大統領へ、ウォーターゲート侵入後の隠蔽、被告への資金、関係者の刑事責任について説明した。

Watergate Special Prosecution Forceが後に作成したRoad Map関連資料でも、この時期にマコードがシリカへ書簡を送り、裁判で偽証があり、被告への沈黙のための支払いが存在したと主張したことが、政権内部の危機と並行して整理されている。

つまり1973年3月下旬には、二つの方向から隠蔽が崩れ始めていた。

外側 内側
マコードが裁判所へ「沈黙圧力・偽証・未特定の関係者」を告発 ディーンが大統領へ隠蔽継続の危険性を警告

この二つが同じ時期に進んだことで、ウォーターゲートを「侵入犯だけの事件」として封じ込めることは急速に難しくなっていった。

3月23日|シリカが法廷で書簡を読み上げる

1973年3月23日、ウォーターゲート被告の量刑手続が行われた。

そこでシリカは、マコードから送られていた書簡を公開法廷で読み上げた。

Watergate Special Prosecution ForceのRoad Mapでは、この日について、マコード書簡が公開され、裁判で偽証があったこと、別の人物がウォーターゲートに関与していたこと、被告に有罪を認めて沈黙するよう圧力がかけられていたことを告発した、と整理されている。

書簡の内容は、それまでの事件像を大きく変えた。

それまでもFBIや報道機関は再選委員会とのつながりを追っていたが、今度は事件の内部にいた人物自身が「法廷で全貌は語られていない」と述べたからである。

法廷が事件を確定する場所だったはずが、逆に法廷から新しい捜査が始まることになった。

なぜ「偽証」がそれほど重大だったのか

マコードが書簡で使った重要な言葉の一つが「perjury」、つまり偽証だった。

偽証とは、宣誓した証人が故意に虚偽の証言をすることである。
単に記憶を間違えたこととは異なる。

もしウォーターゲート裁判で、上層部の関係を隠すために重要人物が意図的な虚偽証言を行っていたのであれば、問題は侵入事件だけでは済まない。

司法手続そのものを誤った情報へ誘導しようとした可能性が出てくるからである。

さらに、被告へ「有罪を認めて黙れ」という政治的圧力が本当に存在したのであれば、

侵入事件
→ 被告への沈黙圧力
→ 裁判での虚偽
→ 上層部の関与を隠す

という一連の隠蔽構造が成立する可能性がある。

マコード書簡が重大だったのは、この構造を調べる必要性を被告本人が裁判所へ提示した点にあった。

「行政恩赦」の話も調査対象になる

マコードが協力を始めると、被告側へ伝えられていた行政恩赦――executive clemencyの話も調査対象となった。

後の上院公聴会では、元ホワイトハウス職員ジャック・コーフィールドが、マコードへ恩赦の可能性を示すメッセージを伝えた経緯について証言している。

ただし、この点でも事実の階層を分ける必要がある。

コーフィールドは「上の方」から権限があるという趣旨の説明を受けたと証言したが、ニクソン本人から直接恩赦を約束されたわけではない。

したがって、

「ニクソンがマコードへ直接、黙れば恩赦すると約束した」

と断定するのは強すぎる。

確認できるのは、被告を沈黙させる文脈で恩赦の可能性を示す働きかけが行われ、その経路と権限の出所が後に上院調査で検証されたことである。

マコードは裁判所から捜査側へ向かった

3月23日の書簡公開後、マコードは事件についてさらに情報を提供する側へ移っていった。

National Archivesによるウォーターゲート展示資料の内部検証では、シリカが被告に対して連邦検察だけでなく上院ウォーターゲート委員会へも協力することを求め、マコードはその意思を受けて委員会側との接触を始めたと整理されている。

ここから事件は二つの経路で拡大していく。

司法・捜査 議会調査
連邦検察・大陪審が隠蔽と上層部の関係を追う 上院委員会が大統領選挙運動、侵入、隠蔽を調査する

さらに4月に入ると、ジョン・ディーンやJ・eb・マグルーダーも連邦検察への協力へ動き始める。

National Archivesの資料では、ディーンの弁護士が4月2日に連邦検察へ接触し、ディーン自身が免責を得て情報提供する可能性を探り始めたとされる。
マグルーダーも別に検察へ協力し、自身がリディの情報活動を立ち上げる過程に関与したことなどを明らかにしていった。

3月末から4月にかけて、隠蔽を維持していた「全員が黙る」という前提そのものが崩れていったのである。

4月30日|政権中枢から3人が去る

マコード書簡から約1か月後の1973年4月30日、ホワイトハウスでは大きな人事変動が起きた。

H・R・ハルデマン首席補佐官、ジョン・アーリックマン大統領補佐官、ジョン・ディーン大統領法律顧問が職を去った。

もちろん、3月23日のマコード書簡一通だけが直接3人の退任を引き起こしたわけではない。

その間に連邦検察、大陪審、上院委員会の調査が進み、ディーンやマグルーダーなど政権・再選組織内部の人物が情報提供へ動き始めていた。

重要なのは、書簡が「隠蔽は内部で維持できている」という状態を崩す初期の大きな亀裂になったことである。

3月下旬までには、被告本人が裁判所へ口を開き、4月にはホワイトハウス内部の人物も検察へ情報を持ち込むようになった。

時系列|裁判はどのように「第二段階」へ変わったのか

侵入事件の刑事裁判から隠蔽捜査へ移る約3か月を並べると、転換点が分かりやすい。

日付 出来事
1973年1月8日 ウォーターゲート侵入事件の裁判開始
1月11日 E・ハワード・ハントが有罪答弁
1月15日 バーカー、スタジス、マルティネス、ゴンザレスが有罪答弁
1月30日 リディとマコードが有罪となる
2月7日 上院がウォーターゲート調査の特別委員会を設置
3月19日 マコードがシリカ判事へ書簡を書く
3月21日 ジョン・ディーンがニクソンへ隠蔽の危険を説明
3月23日 シリカが公開法廷でマコード書簡を読み上げる
4月初旬~ ディーン、マグルーダーらが連邦検察への協力へ動く
4月30日 ハルデマン、アーリックマン、ディーンがホワイトハウスを去る
5月17日 上院ウォーターゲート委員会が公開公聴会を開始

この流れを見ると、3月23日は一連の調査の「始まり」ではない。
FBI捜査も上院委員会もすでに存在していた。

しかし、事件内部の当事者が「法廷で全貌が語られていない」と公に告発したことで、調査の焦点が大きく変わった日だった。

FACT CHECK|シリカ判事とマコード書簡で誤解しやすいこと

マコード書簡がきっかけで上院ウォーターゲート委員会が作られた?

いいえ。
上院特別委員会は1973年2月7日に設置されており、マコード書簡が法廷で公開された3月23日より前である。

書簡は既存の上院調査に、事件内部の人物から得られた重要な情報源を提供したと考えるのが正確である。

7人全員が陪審裁判で有罪になった?

いいえ。
E・ハワード・ハントと4人の侵入犯は途中で有罪を認めた。
最後まで裁判を続けたリディとマコードが1月30日に有罪となった。

結果として7人全員に有罪が成立したが、その経路は同じではない。

マコード書簡にはニクソンの犯罪がすべて書かれていた?

いいえ。
書簡は、被告への沈黙圧力、裁判での偽証、未特定の関係者、CIA作戦ではないことなどを告発した文書である。

ニクソン本人を含む隠蔽の詳細は、その後の証言、捜査、ホワイトハウス録音などによって明らかになっていった。

シリカ判事だけがウォーターゲート事件を解明した?

それも正確ではない。
シリカは裁判の説明に疑問を持ち、被告の協力を強く求めた重要人物だった。

しかし事件の解明には、FBI、連邦検察、大陪審、上院委員会、特別検察官、報道機関、後には下院司法委員会や連邦最高裁判所まで関与している。

ウォーターゲート事件は、一人の判事や一人の記者が「真相を暴いた」事件ではない。
複数の制度が異なる方向から隠蔽を崩していった事件である。

シリカの被告への圧力にはまったく問題がなかった?

そこも単純化できない。
シリカは事件の全貌を明らかにするため被告の協力を強く促したが、量刑と協力を結びつけるような姿勢は後に司法上の議論も招いた。

したがって本記事では、シリカを「真相解明の英雄」とだけ描かず、事件の説明不足を見抜き、裁判所の立場から追加協力を強く求めた判事として位置づける。

裁判が終わっても、事件は終わらなかった

1973年1月30日の時点で、ウォーターゲート侵入事件の刑事裁判には一つの答えが出ていた。

現場の5人と、作戦を指揮したリディ、ハント。
7人全員について有罪が成立した。

それだけを見れば、侵入事件は解決したように見える。

しかしシリカ判事は、裁判で語られた内容だけでは事件の仕組みを説明できないと考えた。
そしてマコードは、裁判所へ「沈黙するよう政治的圧力があった」「偽証があった」「他にも関係者がいる」と告発した。

ここで捜査の問いが変化する。

誰がウォーターゲートへ入ったのか。

ではなく、

誰が彼らを黙らせようとしたのか。
誰のために偽証が必要だったのか。
まだ名前の出ていない人物は誰なのか。

事件の中心が、侵入現場からワシントンの政治組織とホワイトハウスへ移り始めたのである。

まとめ|一通の手紙が「7人で終わる事件」を壊した

1973年1月のウォーターゲート裁判では、7人の被告全員について有罪が成立した。

しかしジョン・シリカ判事は、裁判で事件の全貌が明らかになったとは考えなかった。
そして量刑を前に、被告へ捜査・議会調査への協力を強く求めた。

その中でジェームズ・マコードが書いたのが、1973年3月19日付の書簡だった。

そこには、被告へ有罪を認めて沈黙するよう政治的圧力がかけられたこと、裁判で偽証があったこと、まだ明らかになっていない関係者が存在すること、そしてウォーターゲート作戦はCIAの作戦ではなかったことが記されていた。

3月23日、書簡が公開される。

これによって「侵入犯7人を処罰して終わる」という事件像は維持しにくくなった。

しかも同じ時期、ホワイトハウス内部ではジョン・ディーンがニクソンへ、隠蔽が大統領職を危険にさらしていると警告していた。

外側ではマコードが口を開き、内側ではディーンが危機を訴える。
4月にはさらに政権内部の人物が検察へ協力し始める。

次に事件が向かう場所は、公開された上院公聴会だった。

そこではジョン・ディーンがホワイトハウス内部の隠蔽について長時間証言し、さらにアレクサンダー・バターフィールドが、それまでほとんど誰も知らなかった決定的な事実を明らかにする。

大統領執務室などでの会話が、自動的に録音されていたのである。

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CASE FILE 31|ウォーターゲート事件 1972–1974 全10回


  1. 第1回 ウォーターゲート事件とは?|侵入事件からニクソン辞任までの全貌

  2. 第2回 1972年6月17日、何が起きたのか|民主党本部侵入事件の計画と5人の逮捕

  3. 第3回 5人の侵入犯は誰につながっていたのか|資金・再選委員会・FBI捜査

  4. 第4回 ホワイトハウスは何を隠そうとしたのか|口止め料・CIA・FBI捜査妨害

  5. 第5回 侵入事件はなぜ政権中枢へ広がったのか|シリカ判事とマコード書簡

    [現在の記事]

  6. 第6回 上院公聴会は何を暴いたのか|ジョン・ディーン証言と録音システム発覚

  7. 第7回 録音テープをめぐる攻防|特別検察官と「土曜夜の虐殺」はなぜ起きたのか

  8. 第8回 大統領はテープ提出を拒めるのか|United States v. Nixonと最高裁判決

  9. 第9回 「決定的な録音」からニクソン辞任へ|弾劾条項と1974年8月9日

  10. 第10回 ウォーターゲートは何を変えたのか|刑事責任・選挙資金・情報公開改革

出典・参考資料

本記事はNational Archives、Richard Nixon Presidential Library、U.S. Senate、Watergate Special Prosecution Forceの公的記録を中心に構成しています。マコード書簡が上院ウォーターゲート委員会を設置したという因果関係は採用していません。委員会は書簡公開以前の1973年2月7日にすでに設置されており、書簡は既存の司法・議会調査へ重要な突破口を与えたものとして整理しています。また、シリカ判事の量刑と被告協力をめぐる姿勢については、その歴史的役割と司法上の議論を分けて扱っています。