1916年4月9日午前11時。
Patience Campの足元を支えていた海氷が、3隻の救命艇の真下を横切るように割れた。
前年10月にエンデュアランス号を捨ててから約5か月半。28人は、割れながら漂流する氷盤の上で生活を続けてきた。
しかし、この日はもう待てなかった。
波のうねりによって氷盤そのものが曲げられ、キャンプの下に亀裂が走る。氷がさらに細かく砕ければ、人間を載せられる場所を失う一方、救命艇を進水させるだけの水路さえ確保できなくなる可能性があった。
午後1時、シャクルトンは3隻の艇を海へ出した。
James Caird、Dudley Docker、Stancomb Wills。
この瞬間から、28人の問題は再び変わる。
海氷上では「動けないこと」が最大の問題だった。
艇へ乗った後は、
冷たい海、波、風、潮流、浮氷、そして3隻が離れないことが生存条件になる。
この記事で分かること
今回は1916年4月9日の救命艇進水から、エレファント島へ上陸し、4月17日にCape Wildへ移るまでを時系列で追う。
- 3隻の救命艇には何人ずつ乗ったのか
- なぜ最初からエレファント島を目指したわけではないのか
- オールと帆を使ってどのように進んだのか
- 小さなStancomb Willsがなぜ大きな負担になったのか
- なぜ航海したのに、位置が出発地点より東へ戻っていたのか
- Hope BayではなくElephant Islandを選んだ理由
- なぜ飲料水不足が深刻になったのか
- なぜ4月15日の上陸後、さらに4月17日に移動したのか
エレファント島到着後、シャクルトンら6人がJames Cairdでサウスジョージア島へ向かう航海は、第7回で扱う。
CASE FILE 28
シャクルトンとエンデュアランス号遠征|全10回
- 第1回 シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
- 第2回 シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
- 第3回 なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
- 第4回 エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
- 第5回 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
- 第6回 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出【現在の記事】
- 第7回 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
- 第8回 なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
- 第9回 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
- 第10回 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか
4月9日、キャンプの氷盤そのものが割れた
4月8日には、Patience Campの氷盤はすでに大きく揺れ始めていた。
海から入ってくる長いうねりによって、氷盤は固定された地面ではなく、巨大な筏のように上下していた。
夕方にはJames Cairdの真下にも亀裂が走った。
翌9日朝、周囲には開水路が見え始める。
しかし「水が見える」ことと、「小型艇を安全に通せる」ことは同じではない。
氷盤の間には砕けた氷が大量に詰まり、波によって押し合っていた。艇を出せば、開閉する氷の間へ挟まれる可能性もあった。
そこで28人はすぐ出発せず、テントを畳み、食料と装備を艇へ積める状態にして待機した。
午前11時、状況はさらに悪化する。
氷盤が3隻の救命艇の下を横切る形で完全に割れた。
これまで何か月も寝ていたテントの場所まで水路になった。
もうキャンプを維持する余裕はない。
午後1時ごろ、水路が一時的に航行可能な状態になる。
Dudley DockerとStancomb Willsが先に進水し、最後に最も大型で物資を多く積んだJames Cairdが氷を離れた。
午後2時には3艇とも、それまで生活していた氷盤から約1マイル離れていた。
28人は3隻へ均等に分かれたわけではない
3艇は同じ大きさ、同じ航海性能ではなかった。
そのため人員も均等には配分されていない。
| 艇 | 主な責任者 | 当初の人数 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| James Caird | シャクルトン、フランク・ワイルド | 13人 | 3艇中最大。主要な物資も多く積載 |
| Dudley Docker | フランク・ワースリー | 10人 | 航海士ワースリーが指揮 |
| Stancomb Wills | ヒューバート・ハドソン、トム・クリーン | 5人 | 最も小さく、航走性能でも不利 |
このうちJames CairdとDudley Dockerは比較的使いやすい帆を持っていた。
Stancomb Willsは小型で、帆走性能も十分ではない。
後の航海では、この性能差が大きな問題になる。
艇を出した直後から、氷に潰される危険が続いた
進水したからといって、すぐ開けた海へ出たわけではない。
周囲には依然として多数の氷盤が浮かんでいた。
4月9日午後、潮流によって巨大な氷塊が互いに近づき、3艇へ迫る場面があった。
シャクルトンの一次記録では、氷とそれに伴う水の動きは約3ノットと推定されている。
3ノットは約5.6km/h。
数字だけなら遅く見えるが、小型の手こぎ艇から見れば、数百~数千トン規模になり得る氷盤がその速度で迫ることになる。
James Cairdが先頭で回避し、Dudley Dockerが続いた。
最後尾のStancomb Willsは、かなり危険な位置まで氷に追い込まれた。
さらにDudley Dockerは、近道をしようとして2つの氷塊の間に挟まれ、一時動けなくなる。
James Cairdからロープを渡して引き出した。
艇へ移った初日から、
「最短経路を通る」ことより「氷に挟まれないこと」が優先された。
夜は、再び氷の上へ艇を引き上げた
4月9日夜、28人は適当な氷盤を見つけ、艇を引き上げてテントを張った。
これは以前のPatience Campへ戻ったわけではない。
日中は艇で進み、夜になれば比較的安全な氷盤へ艇ごと上がるという運用である。
ところが、この氷盤も安全ではなかった。
夜、うねりによって氷盤が曲げられ、テントの下に亀裂が走った。
乗組員のホルネスは寝袋に入ったまま海へ落ちたが、すぐ引き上げられた。
数秒後には氷盤の両側が再び激しく衝突した。
Enduranceを失った後に続けてきた「安全な氷盤を探して泊まる」という方法も、海氷崩壊の進行によって次第に使えなくなっていた。
氷山のような氷塊へ乗り移って夜を越した
その後も艇と氷上待機を組み合わせながら進んだ。
4月11日には、艇を引き上げていた比較的大きな氷塊の周囲を荒れたパックアイスが激しく動き続けた。
うねりによって氷塊の端は削られ、キャンプできる面積が少しずつ小さくなっていく。
シャクルトン、ワースリー、ワイルドは何度も高い場所へ登り、遠くに開水路が現れないか探した。
ようやく水路が近づくと、3艇を再び海へ出した。
このときJames CairdとDudley Dockerは帆を使って進むことができた。
しかしStancomb Willsでは帆が小さく、十分な推進力を得られなかった。
艇が氷へ流されそうになったため、Dudley Dockerが戻って救援し、Stancomb Willsを曳航する。
この作業だけで約2時間を失った。
3隻で航海する最大の問題は「最も遅い艇に全体を合わせる」ことだった
3隻のうち1隻だけ速く進めても意味はない。
28人全員を生還させるには、3艇を一つの船団として維持する必要がある。
Stancomb Willsが遅れれば、James CairdとDudley Dockerも待つ。
曳航が必要なら、他艇の速度も下がる。
視界の悪い夜に一艇だけ離れれば、無線も照明設備もないため再合流できない可能性がある。
そのため航海全体の速度は、
最も性能の低いStancomb Willsによって制限される場面が多かった。
一方、この小さな艇をOcean Campから苦労して回収した判断が正しかったことも分かる。
28人全員を海へ移すには、3艇すべての浮力が必要だった。
氷上キャンプより、艇の中の方がさらに寒かった
氷上では少なくともテントを張り、寝袋へ入ることができた。
艇では事情が違う。
3隻は救命艇であって、居住用キャビンを持つ船ではない。
人間と食料、テント、寝袋、航海装備を積むと内部はほとんど満員になった。
波を受ければ海水が入り、衣類は濡れる。
濡れた衣類へ冷たい風が当たり、さらに塩水が凍りつく。
4月12日の朝、シャクルトンはJames Cairdに乗る仲間の顔が、疲労で明らかにやつれていることを記録している。
気温は華氏10度前後、摂氏では約-12度。
漕ぎ手の衣類には氷が付き、身体を動かすたびに小さな氷片が落ちた。
適当な氷盤を見つけると上陸し、ブリバー・ストーブで温かい食事を作った。
しかし休める時間は短い。
氷が再び動けば、すぐ艇へ戻らなければならない。
航海したのに「30マイル後ろへ戻っていた」
4月12日、ワースリーは太陽を観測し、現在位置を計算した。
乗組員には期待があった。
4月9日に艇へ乗ってから西へ漕ぎ、東風も利用していたため、少なくとも30マイル、楽観的には60マイルほど目的地へ近づいたと考えていた。
結果は逆だった。
観測位置は、
4月9日の出発位置から約30マイル東だった。
人間は西へ漕いでいた。
しかし海水と海氷を動かす潮流は、それ以上の力で艇を東へ運んでいた。
これはPatience Camp時代と同じ問題である。
自分たちの艇が水面に対してどれだけ進んだかと、地球上の位置がどれだけ移動したかは同じではない。
艇の速度 − 逆向きの潮流 = 実際の対地移動
となる。
極端な条件では、何時間漕いでも地図上では後退することがあった。
目的地は、状況によって何度も変わった
4月9日に艇を出した時点で、「最初からElephant Islandだけを目指す」と完全に固定されていたわけではない。
周囲には複数の避難候補があった。
- Clarence Island
- Elephant Island
- Deception Island
- Hope Bay
どこが最適かは、
- 現在位置
- 風向
- 潮流
- 海氷の分布
- 艇の状態
- 乗員の体力
によって変わる。
4月12日の観測ではDeception Islandへの到達は難しくなっていた。
Elephant Islandは最も近かったが、風向が不利だった。
そこでシャクルトン、ワースリー、ワイルドは、一時南極半島側のHope Bayを目標として検討した。
Hope Bayはその時点で約80マイル。
しかし翌13日、風向とパックアイスの状態が変わる。
Hope Bayへ向かう南側の海氷が閉じた一方、Elephant Island方向には利用できる風が吹き始めた。
そこでシャクルトンは目的地をElephant Islandへ変更した。
4月13日――もう「安全な氷盤を探して泊まる」余裕もなかった
4月13日になると、人間側の状態も悪化していた。
唇はひび割れ、目は塩水で赤くなり、顔や髭には塩と氷が付着していた。
ここからは「安全な場所で休みながら進む」という考えを維持しにくくなる。
できるだけ早く陸地へ着かなければ、低体温、凍傷、疲労、脱水が積み上がる。
シャクルトンは3艇へ物資を再分配した。
理由は、艇が途中で離れた場合に、1隻だけで最低限生存できるようにするためである。
さらに、開けた海へ出た後は艇を軽くする必要があるため、捨てる予定の食料についてはその場でできるだけ食べるよう指示した。
Patience Campで食料を温存していた段階とは逆になった。
今度は重量を減らしながら、乗員へカロリーを移す方が有利になった。
James Cairdが先頭で氷を受けた
Elephant Islandへ進路を定めた3艇は、まだ完全な外洋には出ていなかった。
浮氷を避けながら帆とオールで進む。
各艇の船首には氷を監視する人員を置き、避けきれない氷片は折れたオールなどで押しのけた。
先頭はJames Cairdだった。
そのため、見えにくい氷片との接触も最初に受ける。
実際、鋭い氷によってJames Cairdは水線より上に穴を開けられている。
水線上だったため、ただちに沈没する損傷にはならなかった。
しかし風が強くなれば、艇の速度が上がるほど浮氷への衝突も激しくなる。
そこで帆を縮め、衝突速度を下げる必要もあった。
正午、ついにパックアイスを抜けた
4月13日正午ごろ。
3艇は、長期間自分たちを閉じ込めていたパックアイスの外へ出た。
目の前には開けた南大洋が広がった。
氷に囲まれていた時代は終わった。
しかしこれは「安全な海へ出た」という意味ではない。
遮る氷がなくなれば、南大洋の波を直接受ける。
深く荷物を積んだ救命艇は波をかぶり、水を汲み出し続けなければならない。
夜に3艇が離れれば、再合流できる保証もない。
そこでシャクルトンは、夜間にそのままElephant Islandを目指し続ける提案を退け、一度3艇を連結して漂泊する判断をした。
Dudley Dockerを先頭に、
Dudley Docker
↓
James Caird
↓
Stancomb Wills
という順でロープにつないだ。
オールを使って簡易的なシーアンカーも作った。
速く到着することより、
夜の間に3艇を失わないことを優先した。
氷がなくなると、今度は飲料水を失った
氷に囲まれていた時代には、少なくとも氷そのものは周囲にあった。
燃料さえあれば溶かして水にできる。
外洋へ出ると、その氷がなくなる。
3艇はパックアイスを突然抜けたため、融かすための氷を十分積み込む時間がなかった。
Dudley Dockerに残っていた約10ポンドの氷を、28人で分けた。
小さな氷片を口に入れて渇きを抑える。
しかし冷たい氷を直接口で融かせば、身体の熱も奪われる。
塩水を飲むことはできない。
アザラシ肉を噛んで血液から水分を得ようとすると、塩分でかえって喉が渇いた。
極地で「周囲が水だらけ」なのに脱水するという、直感に反する状況だった。
凍結した海水が艇そのものを重くした
夜、波しぶきは艇へ降り続けた。
気温が低いため、その海水が船首や船尾、帆、ロープ、オールへ凍り付く。
氷が増えれば艇は重くなる。
船首に氷が集中すれば姿勢も変わり、波へ突っ込みやすくなる。
そのため乗組員は夜明けとともに、艇へ付着した氷を削り落とした。
水面に入っていたオールには非常に厚い氷が付き、そのままでは艇内へ戻せないほどだった。
氷上生活を脱出した後も、
氷は別の形で航海性能を奪おうとしていた。
Elephant Islandが見えた――しかし上陸できる場所がない
夜が明けると、Elephant Islandが視界に入った。
島の位置はワースリーが計算していた方位と一致していた。
数日間、潮流とパックアイスの中を蛇行し、夜には漂流していたにもかかわらず、航海士は島を捉えていた。
しかし「島が見える」と「上陸できる」は別問題である。
Elephant Islandの海岸には高い崖と氷河が海まで落ち込み、多くの場所に安全な浜がない。
潮流も速い。
風向と潮流が逆になれば波は短く高くなり、小型艇にとってさらに危険になる。
3艇は島の沿岸を進みながら、上陸可能な場所を探した。
夜の吹雪でDudley Dockerを見失った
島へ近づく段階でも、3艇は完全にはまとまっていられなかった。
ワースリーのDudley Dockerは比較的航走性能が良く、先行して上陸地点を探すことになった。
ところが夜間に雪が強くなり、視界を失う。
James CairdとStancomb Willsから、Dudley Dockerが見えなくなった。
無線はない。
James Cairdではコンパス灯を帆へ当て、光を見せようとした。
Dudley Docker側でも灯りを使って応答していたが、互いには確認できなかった。
しかもDudley Dockerでは艇のコンパスが壊れ、ワースリーは小型のポケットコンパスを使って方向を確認していた。
この夜、3艇のうち1隻を失う可能性は現実的なものになっていた。
108時間近く、ほとんど眠らず艇を維持した
ワースリーの記録では、Elephant Island沿岸へ到達するころまでに、乗組員は約108時間にわたる漕艇、寒さ、波、濡れにさらされていた。
十分な睡眠はほとんど取れていない。
凍傷も増えた。
パーシー・ブラックボロウは特に両足の凍傷が悪化していた。
ワースリー自身も長時間の操舵で身体が固まり、交代時には他の隊員に身体を伸ばしてもらわなければならないほどだったと記録している。
この段階では、
より理想的な上陸地点を探し続ける余力そのものがなくなりつつあった。
4月15日、狭い石浜を見つけた
島沿岸には崖や氷河が続き、艇を上げられる浜がほとんどなかった。
やがてJames CairdとStancomb Willsは、岩礁の間に細い入口を持つ小さな石浜を発見する。
Dudley Dockerも別方向から同じ場所へ接近してきた。
最も小さく取り回しやすいStancomb Willsを先に入れる。
波のタイミングに合わせ、岩礁の切れ目を通過して艇を浜へ乗り上げた。
最初に上陸させる人物として、シャクルトンは遠征隊最年少のパーシー・ブラックボロウを選んだ。
しかしブラックボロウの両足は重度の凍傷になっていた。
艇から降ろされると、その場に座り込んでしまった。
他の隊員がすぐ引き上げる。
その後、調理担当者、燃料、乾燥乳などを先に陸へ上げ、残る2艇を岩礁の間へ誘導した。
James Cairdは重すぎてそのまま浜へ上げられず、一部の物資を外で別艇へ移す必要もあった。
やがて3艇とも浜へ引き上げられた。
497日ぶりの「動かない地面」だった
1914年12月5日、Enduranceがサウスジョージア島を出航して以来、彼らは陸地へ足を付けていなかった。
Enduranceの甲板。
海氷。
救命艇。
そのどれも、海の動きから完全には切り離されていない。
1916年4月15日、28人は約497日ぶりに固い陸地へ立った。
シャクルトンの記録には、隊員が浜の石を拾い、指の間から落としながら喜ぶ様子が残されている。
氷盤と違い、石は割れて流れていかない。
その単純な事実が、彼らにとって大きな意味を持った。
FACT CHECK|Elephant Island到着は4月15日か、4月17日か
ここは資料を読むと混乱しやすい。
| 1916年4月15日 | Elephant Islandへの最初の上陸。シャクルトン自身の『South』とRoyal Geographical Societyの年表はこちらを初上陸日としている。 |
|---|---|
| 1916年4月17日 | 最初の浜を離れ、約7マイル西のより安全な砂礫の岬へ3艇で移動。ここが後のCape Wildとなる。 |
一部の概説資料では4月17日をElephant Island到着として簡略化しているが、本シリーズでは一次記録に従い、
「4月15日=初上陸」「4月17日=Cape Wildへの移転」
と区別する。
ここで、4月15日の最初の上陸地点と4月17日の移転先が島のどこにあるか、現在のElephant Islandの地理で確認しておく。
Elephant Islandの現在位置。1916年4月15日の最初の上陸は島東端のCape Valentine、4月17日の移転先は現在の公的地名でPoint Wildに当たる。シャクルトンの記録では後者をCape Wildと呼ぶ。現在のGoogle Mapは、4月9日から15日までの海氷、潮流、3隻の実航跡、目的地変更を再現するものではない。
GoogleマップでElephant Islandを大きく見る
Royal Geographical Societyの航跡図でEnduranceからElephant Islandまでを確認する
上陸した場所は、冬を越せる場所ではなかった
4月15日に到達した最初の浜は、とりあえず艇を上げられるという点では重要だった。
しかしシャクルトンは、その日のうちに長期滞在には不適切だと判断している。
海岸のすぐ後ろには崖があり、落石の危険がある。
高潮や東寄りの強風が来れば、波が浜の奥まで到達する可能性もある。
人間だけなら崖へ逃げられる場所があっても、3隻の救命艇を安全な場所まで運べない。
そしてこの救命艇は、まだ「不要になった装備」ではない。
Elephant Islandは無人島であり、救助を呼ぶ手段もないため、今後さらに海へ出る必要がある。
したがって長期キャンプ地には、
- 高潮から艇を守れる
- 落石を避けられる
- 風をある程度避けられる
- アザラシやペンギンを確保できる
- 数週間~数か月滞在できる
という条件が必要だった。
ワイルドが7マイル西に、より安全な場所を見つけた
シャクルトンはフランク・ワイルドへ、Stancomb Willsで海岸沿いを偵察するよう命じた。
ワイルドはマーストン、クリーン、ヴィンセント、マッカーシーとともに西へ向かった。
その日の夜、ワイルドは戻ってくる。
約7マイル西に、長さ約200ヤードの砂礫の岬があることを報告した。
完璧な場所ではない。
強風にはさらされる。
それでも最初の狭い浜よりは、救命艇を引き上げ、キャンプを設置する余地がある。
長期間の待機場所としてはこちらの方が有利だった。
4月17日、せっかく得た陸地を離れて再び海へ出た
4月17日朝、天候は一時穏やかだった。
しかし沖には再びパックアイスが接近していた。
氷に海岸を塞がれれば、3艇を移動させる機会を失う。
そこでシャクルトンは、ワイルドが見つけた岬へ移ることを決めた。
ところが艇を浜へ下ろす段階で、ローラーとして使っていたオール3本を折ってしまう。
3艇にとってオールはエンジンそのものだった。
本数が減れば艇同士で使い回さなければならない。
午前11時ごろ、再び3艇は出航した。
島沿岸のわずか7マイルが、最後の難関になった
目的地まで約7マイル。
外洋航海と比べれば短い。
しかし出発後まもなく、島の高い崖からwillywawと呼ばれる突然の強風が吹き下ろした。
風は南から南西へ変わり、艇の正面から吹き付ける。
3本のオールを失っていたことが、ここで大きく影響した。
最も重いJames Cairdには十分な漕ぎ手を残す必要がある。
Dudley DockerとStancomb Willsは不足したオールを交代で使った。
強風と波に押されれば、沿岸の岩壁へ叩き付けられる。
外洋へ離れすぎれば、さらに大きな波を受ける。
3艇は崖の近くを進みながら、岩礁の隙間を抜けた。
Dudley Dockerがまた見えなくなった
強い横風の中で、Dudley Dockerは風下へ押し流された。
James CairdとStancomb Willsは岩礁の内側へ入ることができたが、Dudley Dockerは同じ経路を取れなかった。
シャクルトンからDudley Dockerの姿が消える。
しかしJames Caird自身も強風の中で前進するだけで限界だった。
救援に戻れば、自艇まで岩へ押し付けられる可能性がある。
ここでも、
「助けに行く」ことが必ずしも全体の安全につながらない
状況になった。
午後5時ごろ、James CairdとStancomb Willsはワイルドが見つけた岬へ到着した。
物資を浜へ運び始めてから約30分後、Dudley Dockerも波の中から姿を現し、無事上陸した。
3艇は再び揃った。
ここがCape Wildになった
4月17日に到達した砂礫の岬は、後にCape Wildと呼ばれる。
名前はフランク・ワイルドに由来する。
広い土地ではない。
岩と砂礫が海へ突き出した小さな場所で、周囲には崖、氷河、海がある。
しかし3隻の艇を高潮線より上へ引き上げられる。
岩が多少の風除けになる。
アザラシやペンギンも利用できる。
少なくとも、前の浜よりは長期滞在に適していた。
その夜から28人にとって、Cape Wildが新しい拠点になる。
後にシャクルトンら6人が島を離れた後、残る22人はここで約4か月半、救助を待つことになる。
8日間の艇航海で、何が変わったのか
4月9日にPatience Campを離れた時点で、28人には陸地がなかった。
4月17日には、人間と3艇すべてがCape Wildに到達していた。
その間に起きたことを整理すると、単純な「100マイルのボート航海」ではないことが分かる。
| 段階 | 問題 | 対応 |
|---|---|---|
| 4月9日 | Patience Campの氷盤崩壊 | 3艇を進水 |
| 氷海内部 | 水路が開閉、艇性能に差 | 曳航し、3艇を維持 |
| 4月12日 | 潮流で実際には東へ後退 | 目的地を再検討 |
| 4月13日 | Hope Bay側の氷閉鎖・風向変化 | Elephant Islandへ変更 |
| 外洋 | 波、凍結、飲料水不足 | 艇を連結し、夜間分離を防止 |
| 島沿岸 | 崖と氷河で上陸地点不足 | 安全な浜を探索 |
| 4月15日 | 最初の浜へ到達 | 28人全員と3艇を上陸 |
| 4月17日 | 最初の浜が長期滞在に不適 | Cape Wildへ移転 |
この区間でも、最初に決めた計画を最後まで維持してはいない。
目的地を変える。
艇を曳航する。
夜に進むか止まるかを変える。
食料を残す方針から、食べて艇を軽くする方針へ変える。
一度上陸しても、危険なら再び海へ出る。
氷上生活と同じく、
観測された結果に応じて計画を更新し続けている。
なぜElephant Island到達だけでは救助にならなかったのか
4月17日、28人はようやく安定した陸地を確保した。
しかしElephant Islandは無人島である。
捕鯨基地も町も港もない。
通常の船舶航路からも離れている。
Enduranceがどこで失われたかを外部の誰も正確には知らない以上、Cape Wildで待ち続ければ救助船が自然に現れる可能性は低かった。
つまりエレファント島は、
「海で死ぬ危険から逃れられる場所」ではあっても、「文明へ戻れる場所」ではなかった。
次の問題は、外部へ救援要請を届けることになる。
しかし南米方面へ小型艇で向かうには距離が大きく、海況も厳しい。
シャクルトンが選んだのは、約800マイル離れたサウスジョージア島だった。
そこで使用されるのが、3艇のうち最大だったJames Cairdである。
まとめ|海氷を離れたことは「脱出」ではなく、危険の種類が変わっただけだった
1916年4月9日、Patience Campの氷盤が崩壊し始めたことで、28人は3隻の救命艇へ移った。
James Caird、Dudley Docker、Stancomb Wills。
艇には性能差があり、とくに小型のStancomb Willsは単独で他の2艇についていくことが難しかった。
そのため曳航し、速度を合わせ、視界の悪い時間には離れないよう運用した。
航海中は潮流に押し戻され、4月12日の測位では、何日も西へ漕いだはずなのに4月9日の位置から約30マイル東にいた。
候補だったDeception IslandやHope Bayへの航路も再検討し、風と海氷の変化から最終的にElephant Islandを目指した。
4月13日にパックアイスを抜けると、今度は南大洋の波、艇への着氷、睡眠不足、凍傷、そして飲料水不足が問題になる。
やがて島は見えた。
しかし崖と氷河が海まで続き、上陸場所がほとんどない。
4月15日、ようやく狭い石浜を見つけ、28人全員が上陸した。
1914年12月5日以来、約497日ぶりの陸地だった。
それでも最初の浜は冬を越せる場所ではなかった。
ワイルドが西へ約7マイル離れた新しい場所を発見し、4月17日、3艇は再び海へ出る。
強風でDudley Dockerを見失いながらも、夕方までに3艇すべてが新しい岬へ到達した。
ここがCape Wildとなる。
28人はようやく、漂流しない地面と長期キャンプ地を手に入れた。
しかし、救助を呼ぶ手段はまだない。
そこでシャクルトンは、3隻の中からJames Cairdを選ぶ。
艇を改造し、自分を含む6人だけで南大洋へ出る計画だった。
目的地は約800マイル――約1,300km先のサウスジョージア島。
第7回では、なぜこの小さな救命艇で約800マイルを渡ることが可能だったのか。James Cairdの改造、6人の選定、ワースリーの天測航法、17日間の航海を技術面から追う。
今回出てきた言葉
- James Caird
- Enduranceから持ち出された3隻の救命艇のうち最大の艇。氷海脱出では主要物資を積載し、後に6人でサウスジョージア島を目指す艇となった。
- Dudley Docker
- フランク・ワースリーが主に指揮した救命艇。Elephant Islandへの航海ではStancomb Willsの曳航や上陸地点探索にも関わった。
- Stancomb Wills
- 3艇のうち最も小型の救命艇。航走性能が低く、他艇から曳航される場面があった一方、最初のElephant Island上陸には取り回しやすさが利用された。
- Hope Bay
- 南極半島北端付近の湾。4月12日時点ではElephant Islandへの風向が不利だったため、一時的な目的地候補となった。
- Elephant Island
- サウス・シェトランド諸島の東端付近にある無人島。1916年4月15日、28人が約497日ぶりに陸地へ上がった。
- Cape Wild
- Elephant Island北岸の砂礫の岬。フランク・ワイルドが発見した長期キャンプ候補地で、4月17日から隊の拠点となった。
- willywaw
- 山地や高い沿岸部から急激に吹き下ろす強風。4月17日のCape Wildへの移動でも3艇を苦しめた。
- 対地移動
- 水面に対する艇の速度ではなく、地球上の位置としてどれだけ移動したかを見る考え方。逆向きの潮流が強ければ、艇が前へ進んでも実際の位置は後退することがある。
CASE FILE 28|全記事
- シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
- シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
- なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
- エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
- 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
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出典・参考資料
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Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
4月9日のPatience Camp崩壊と進水、3艇の人員配置、氷中航海、4月12日の測位、目的地変更、Elephant Islandへの接近、4月15日の初上陸、4月17日の新キャンプへの移動についての一次資料として使用。 -
Royal Geographical Society — Endurance22 Interactive
4月9日の救命艇進水、4月15日のElephant Island上陸、EnduranceからElephant Islandへ至る航跡の確認に使用。 -
Royal Geographical Society — Shackleton Endurance Expedition Timeline
4月15日の初上陸と、その2日後にCape Wildへ移動したという時系列の照合に使用。 -
Royal Museums Greenwich — History of Antarctic Explorers
Endurance側28人が3隻の救命艇でElephant Islandへ脱出し、その後James Caird航海へ移行した遠征全体の確認に使用。 -
Royal Museums Greenwich — Frank Worsley / Shackleton collections
Dudley Dockerを指揮したフランク・ワースリーと、後のJames Caird航海につながる航海技術・人物関係の補助確認に使用。
本記事では、シャクルトン本人の『South』を1916年4月9日から17日までの一次記録の中心としています。Elephant Island到着日について資料の表現に差がありますが、『South』およびRoyal Geographical Societyの年表に従い、4月15日を最初の上陸日、4月17日を後にCape Wildと呼ばれる長期キャンプ地への移動日として区別しています。また、目的地についても「最初からElephant Islandだけを目指した」と単純化せず、当時の風向、潮流、海氷の状態によってHope Bayなどが検討された経緯を反映しています。