1916年4月24日正午ごろ、エレファント島のCape Wildから1隻の小型艇が海へ出た。
艇の名はJames Caird(ジェームズ・ケアード)。
乗っていたのは6人だけだった。
アーネスト・シャクルトン、フランク・ワースリー、トム・クリーン、ハリー・マクニッシュ、ティモシー・マッカーシー、ジョン・ヴィンセント。
島にはフランク・ワイルドを中心とする22人が残った。
外部は彼らの正確な現在地を知らない。Elephant Islandは通常航路から外れ、無線設備もない。待っているだけで救助船が現れる可能性は低かった。
そこでシャクルトンが選んだのが、約800マイル離れたサウスジョージア島だった。
現在の航海研究では、この航程は約800海里、約1,500kmとして扱われる。
一方、使用するJames Cairdは全長約6.9m。
大型ヨットでも沿岸巡視船でもない。Enduranceから持ち出した救命艇を、海岸で手に入る材料だけで改造したものだった。
さらに航路上には、南大洋の強風と大波がある。
GPSはない。
無線もない。
エンジンもない。
サウスジョージア島を通り過ぎれば、風上へ戻れる保証もない。
この航海を成立させたのは、「勇気」だけではなかった。
小型艇を外洋航海へ耐えさせる改造、艇を安定させる重量、限られた天測機会を利用する航法、そして16日間にわたり艇を機能させ続ける運用が必要だった。
この記事で分かること
今回は4月24日のElephant Island出航から、5月10日にSouth GeorgiaのKing Haakon Bayへ上陸するまでを扱う。
- なぜ近いフォークランド諸島ではなくSouth Georgiaを選んだのか
- 6人はどのような役割で選ばれたのか
- James Cairdは外洋航海用にどう改造されたのか
- なぜ砂袋と石を大量に積んだのか
- ワースリーはGPSなしでどう位置を求めたのか
- 「太陽を4回しか見られなかった」はどこまで正確なのか
- なぜ艇へ付着する氷が転覆につながるのか
- 食料より飲料水が先に危険になった理由
- South Georgiaを見つけた後も、なぜ2日間上陸できなかったのか
5月10日の上陸後、なぜ捕鯨基地まで島内部を徒歩で横断しなければならなかったのかは、第8回で詳しく扱う。
CASE FILE 28
シャクルトンとエンデュアランス号遠征|全10回
- 第1回 シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
- 第2回 シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
- 第3回 なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
- 第4回 エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
- 第5回 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
- 第6回 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
- 第7回 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海【現在の記事】
- 第8回 なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ
- 第9回 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
- 第10回 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか
なぜ、近いフォークランド諸島ではなくSouth Georgiaだったのか
Cape Wildから外部へ助けを求める場合、候補はSouth Georgiaだけではなかった。
シャクルトン自身は『South』で、確実に支援を得られる港としてフォークランド諸島のPort Stanleyも検討している。
距離だけなら約540マイルで、South Georgiaより近い。
それでも選ばなかった。
理由は風だった。
この海域では西寄りの風が卓越する。
小さなJames Cairdでフォークランド諸島へ向かう場合、長距離にわたって風に逆らって進まなければならない可能性が高かった。
艇は帆を持っているとはいえ、本格的な外洋ヨットではない。帆面積も小さく、波の高い南大洋で長期間風上へ切り上がる能力には限界がある。
一方、South Georgiaは約800マイル離れているが、西風帯を利用しやすい位置にある。
さらに島の反対側には、Enduranceが1914年12月に出航した捕鯨基地がある。
島へさえ到達できれば、人間、船、通信手段を確実に見つけられる。
つまり選択基準は単純な最短距離ではなかった。
距離 × 卓越風 × 艇の風上性能 × 到着後に確実に救援を得られるか
を考えた結果、South Georgiaが選ばれた。
航路の位置関係【SELF-DIAGRAM|James Caird 1916】
※Elephant IslandのCape WildからSouth GeorgiaのKing Haakon Bayまでの地理的スケールと、
South Georgiaを選んだ理由を理解するための非縮尺模式図。
Frank Worsleyの原航海日誌を再解析したCanterbury Museumの研究と、
James Caird航海の記録を基礎にしている。
正確な日別航跡、1916年当時の海氷範囲、風向・海流の時系列変化は再現していない。
この図で重要なのは、South Georgiaが単に「遠い島」だったのではなく、
Elephant Islandから見て東寄りにあり、西寄りの風を利用しやすい救援先だったことである。
一方、Falkland Islandsはより近い候補だったが、小型艇で長距離を風上へ進む負担が大きかった。
またWorsleyの航法では、South Georgiaを東へ外すことが致命的だった。
そのため航海終盤には最短線だけを狙うのではなく、誤差があっても島を捉えられるよう進路を管理した。
22人を残す以上、島にも指揮官が必要だった
航海へ出る人選では、能力の高い人間を全員艇へ集めればよいわけではない。
Elephant Islandには22人が残る。
しかもJames Cairdが失敗すれば、彼ら自身で冬を越し、場合によっては翌春に別の脱出手段を考えなければならない。
シャクルトンとともに何度も極地遠征を経験していたフランク・ワイルドは、James Cairdへの同行を希望した。
しかしシャクルトンは断った。
理由は明確だった。
自分がいない間、22人をまとめられる人物としてWildをElephant Islandへ残す必要があったからである。
航海チームだけを最強にしても、残留隊が崩壊すれば救助作戦全体は成功しない。
James Cairdへ乗った6人
最終的に選ばれたのは次の6人だった。
| 人物 | 主な役割・強み |
|---|---|
| Ernest Shackleton | 遠征隊長。航海全体の意思決定 |
| Frank Worsley | Endurance船長。航海士として位置計算を担当 |
| Tom Crean | 第二航海士。Scott隊などでも長距離極地行動を経験 |
| Harry McNish | 船大工。James Cairdの改造・修理に不可欠 |
| Timothy McCarthy | 熟練した船員 |
| John Vincent | 船員。漕艇・操帆要員 |
特に代替が難しいのはWorsleyとMcNishだった。
Worsleyがいなければ、外洋上でSouth Georgiaへ艇を誘導する航法能力が大きく低下する。
McNishがいなければ、救命艇を外洋航行仕様へ改造し、航海中に損傷を修理する専門技能を失う。
この航海は6人が同じ仕事をするのではなく、航海・操船・艇体維持という異なる機能を6人で成立させる構成だった。
James Cairdは、そのままでは800マイルを渡れない
James CairdはEnduranceの救命艇として作られた艇である。
現在の航海研究では全長22½フィート、約6.9mとして扱われている。
この大きさの開放艇で南大洋を横断するには、決定的な問題があった。
上から波をかぶれば、艇内へ直接大量の水が入る。
船体中央が大波の谷へ落ち、船首と船尾だけが持ち上げられれば、長い船体は中央から折れる方向へ曲がろうとする。
長時間の波浪でこの曲げを繰り返せば、木造艇の接合部にも大きな負担がかかる。
そこでMcNishを中心に、Cape Wildで改造作業が始まった。
艇の中央を折らせないため、内部に「背骨」を追加した
McNishはStancomb WillsのマストをJames Caird内部へ前後方向に取り付けた。
目的は艇の縦方向剛性を高めることだった。
波の頂点に船首と船尾が乗り、中央部が空中へ浮くような状態になると、艇は中央が下へ曲がる方向――あるいは逆方向――の大きな曲げ荷重を受ける。
こうした変形を少しでも抑えるため、艇内部へ長い構造材を追加した。
シャクルトン自身は、この補強を艇が「hogging」することを防ぐためと説明している。
つまりJames Cairdの改造は単なる雨よけではない。
救命艇の船体構造そのものを、外洋の長周期波へ対応させる補強も含まれていた。
箱の蓋とそりのランナーで「屋根」を作った
次に必要なのがデッキだった。
通常の救命艇は上部が大きく開いている。
沿岸で短時間使用するなら問題にならなくても、南大洋で大波を連続して受ければ艇内が水で満たされる。
しかしCape Wildに、船舶用の合板や防水デッキ材はない。
そこで使われたのが、
- 物資箱の蓋
- そりのランナー
- 帆布
だった。
そりのランナーと箱材で骨組みを作り、その上をキャンバスで覆う。
帆布は凍結して硬くなっていたため、ブリバー・ストーブで少しずつ融かしながら加工した。
完成したデッキは完全な防水構造ではない。
実際、航海が始まると波の衝撃で箱材が動き、帆布がたわみ、複数箇所から水が漏れた。
それでも、上部が完全に開いた艇よりは大幅に浸水量を減らせる。
シャクルトンは後に、この簡易デッキなしでは航海を生き延びられなかっただろうと評価している。
軽くするのではなく、約450kgの砂袋まで積んだ
小型艇で長距離航海するなら、荷物をできるだけ減らした方がよいように思える。
しかしJames Cairdには、逆に大量のバラストが積まれた。
シャクルトンの記録では、毛布で袋を作って砂を入れ、その総重量は約1,000ポンド――約450kg。
さらに丸石も積んだ。
理由は艇の復原性を確保するためである。
帆へ横風を受けると艇は傾く。
波で横方向へ振られても傾く。
船底近くへ重いバラストを置けば重心が下がり、傾いた艇が元へ戻ろうとするモーメントを大きくできる。
ただし、重量を増やせば喫水は深くなる。
その分だけ波をかぶりやすくなり、船体への負荷も増える。
つまり「重いほど安全」でも「軽いほど安全」でもない。
安定性と浮力余裕のトレードオフを取る必要があった。
飲料水36ガロンと250ポンドの氷を積んだ
6人が持ち込んだ食料は、約1か月分として計画されていた。
保存食、ビスケット、砂糖、乾燥乳などに加え、Primusストーブと燃料も積み込まれた。
飲料水は36ガロン。
さらに約250ポンドの氷を積み、溶ければ淡水として利用する計画だった。
問題は出航前から起きる。
水樽をStancomb WillsでJames Cairdへ運ぶ際、波で樽の一つが岩へぶつかった。
小さく損傷した樽へ海水が入り、内部の淡水は塩気を帯びた。
そのときは小さな事故に見えた。
しかし航海終盤、飲料水が不足すると、この海水混入が大きく影響する。
FACT CHECK|James Cairdは20フィート? 22フィート? 23フィート?
資料によって表記が異なる。
シャクルトン本人の『South』ではJames Cairdを「20-ft boat」と表現している一方、Frank Worsleyの原航海日誌を解析したCanterbury Museumの2018年研究では22½フィート(6.9m)としている。
現在James Cairdを所蔵するDulwich Collegeも、一般向けには約23フィートの救命艇として紹介している。
測定位置や改造後の寸法、丸め方による差があるため、本記事では現代の航海研究に合わせて約6.9mとする。
4月24日――出航する前から2人が海へ落ちた
4月24日の朝、James Cairdへ砂、石、食料、飲料水、航海器具を積み込んだ。
しかしCape Wildの波はすでに高くなっていた。
艇を海へ下ろす際、James Cairdは岩の間で転覆しかけ、VincentとMcNishが海へ投げ出された。
2人はすぐ救助された。
問題は、これから濡れた衣服を乾燥させる場所がほとんどないことである。
他の残留隊員から乾いた服を交換してもらい、出航準備を続けた。
正午ごろ、積載が完了する。
シャクルトンは最後にWildへ残留隊の指揮を託した。
そしてJames CairdはCape Wildを離れた。
出航後、まずSouth Georgiaとは違う方向へ進んだ
James Cairdの最終目的地は東寄りにあるSouth Georgiaだった。
しかしシャクルトンは、最初の約2日間は北方向へ進む方針を取った。
理由は二つあった。
一つは、Elephant Island周辺のパックアイスから早く離れること。
もう一つは、少しでも低緯度へ移動し、より温暖な海域へ出ることだった。
出航当日もJames Cairdは再びパックアイスへ入り、一時は氷を避けながら東へ迂回している。
午後5時30分ごろ、ようやくパックアイスを抜けた。
ここから本当の外洋航海が始まった。
GPSなしで、どうやって約1,500km先の島を見つけるのか
この航海で最も代替の難しい技術が、Frank Worsleyの航法だった。
船の位置は、
- 緯度
- 経度
の組み合わせで決まる。
1916年にGPSは存在しない。
天体が見えるときは六分儀(sextant)で太陽などの高度を測定する。
正確な時刻にはクロノメーターを使う。
さらに航海暦や計算表を利用して位置を求める。
Royal Museums Greenwichには、James Caird航海で使用されたと考えられているThomas Mercer製クロノメーターが現存している。
問題は、測定する場所が安定した大型船のブリッジではないことである。
James Cairdは大波の斜面を上下する。
艇が波の谷へ入れば水平線が見えない。
甲板も傾く。
空は雲で覆われる。
その状態で太陽と水平線が一瞬見えた時に、六分儀の角度を読む必要があった。
天体が見えなければ「推測航法」でつなぐ
太陽が見えない時間の方が長かった。
その間は推測航法(dead reckoning)を使う。
基本的には、
前回確認した位置
+
進んだ方位
+
推定速度 × 時間
+
風・波・潮流による流され方の推定
から現在位置を計算する。
問題は、それぞれに誤差があることだった。
艇速を正確に測り続ける装置はない。
潮流も完全には分からない。
横波を受ければ艇は横へ流される。
推測航法を何日も続ければ、わずかな誤差が積み重なっていく。
そしてSouth Georgiaは大洋の中の島である。
島を通過して風下へ出れば、James Cairdの性能では戻れない可能性が高かった。
FACT CHECK|ワースリーは「太陽を4回しか見られなかった」のか
James Caird航海については、「Worsleyが太陽を観測できたのは4回だけ」という説明が広く使われている。
James Caird Societyなどもこの表現を採用している。
ただし、Canterbury Museumに残るWorsleyの原航海日誌を詳細に再解析した2018年の研究では、航法計算を「4回」という単純な回数だけでは整理していない。
研究者は原日誌に残る複数の正午高度観測や時角観測を再計算しており、「何を1回の観測として数えるか」によって数字が変わる。
したがって本記事では、
「天測機会が極端に限られ、航海の大部分を推測航法でつなぐ必要があった」
ことを確定事項として扱う。
「正確に4回だけ」という表現は、一般向けの簡略化として扱う。
艇内は「3人が働き、3人が休む」構造になった
6人は大きく2組に分かれた。
シャクルトンの記録では、通常4時間ごとに当直を交代する。
甲板側にいる3人は、
- 舵を取る
- 帆を管理する
- 艇内の水を汲み出す
という仕事を分担した。
休憩側の3人はキャンバスデッキの下へ潜り、濡れた寝袋へ入る。
ただし「4時間休める」という意味ではない。
艇内はケース、石、砂袋、水樽で埋まっている。
デッキからは水が漏れる。
艇が大きく傾けば、人間や荷物の位置を変えてトリムを修正しなければならない。
寝袋も濡れていた。
完全な休息はほとんど得られなかった。
簡易デッキは「防水」ではなく「浸水を減らす」装置だった
航海3日目ごろから強風が増えると、簡易デッキの限界が表れた。
波が上から叩くたび、箱の蓋やそりランナーが少しずつ動く。
キャンバスがたわみ、その上へ海水が溜まる。
打ち付けた釘も十分な長さがなく、複数の隙間から冷水が艇内へ落ちてきた。
それでもデッキは必要だった。
波を丸ごと艇内へ入れるのではなく、大部分を外へ流し、一部だけを漏らす。
入ってきた分は人力で排出する。
James Cairdの水密性を完全にするのではなく、
流入量 < 人間が排水できる量
の状態を維持する考え方だった。
ポンプがあっても「人が汲み続ける」必要があった
艇には簡易ポンプもあった。
これはFrank HurleyがEndurance時代に方位磁針用ケースなどを利用して作ったものだった。
しかし能力は大きくない。
当直の1人は、ほぼ常時排水を担当した。
ポンプが使えないときは容器で水を汲み出す。
艇内の水が増えるとJames Cairdは重くなる。
喫水が深くなれば、さらに波をかぶりやすくなる。
これは正のフィードバックになる。
浸水
↓
艇が重くなる
↓
波をかぶりやすくなる
↓
さらに浸水
となるため、排水を止めることはできなかった。
5日目、帆を降ろしてシーアンカーを入れた
航海5日目ごろには、強い南西風と高い波のため通常航行が難しくなった。
帆を張ったままでは速度が出すぎ、艇が波へ突っ込む。
そこで帆を減らし、シーアンカーを投入した。
シーアンカーは海底へ引っ掛ける通常の錨ではない。
水中で抵抗を作り、艇首を波へ向けながら漂流速度を抑える装置である。
横波を直接受けると転覆しやすい小型艇では、船首を大波へ向け続けること自体が重要になる。
James Cairdはこの状態で嵐をやり過ごそうとした。
6日目、艇に付着した氷で復原性が悪化した
低温の海では、波しぶきが艇へ付着してそのまま凍る。
一晩でJames Cairdの、
- デッキ
- 船首
- 舷側
- オール
- ロープ
に氷が増えていった。
翌朝、6人は艇の動きが明らかに鈍くなっていることに気づく。
問題は単なる重量増加ではない。
バラストの石は船底にあるため、重心を下げる方向へ働く。
一方、デッキや舷側上部へ付着した氷は高い位置の重量である。
上部重量が増えれば重心が上がり、艇が傾いたときに元へ戻る復原力が小さくなる。
つまり着氷は、
艇を重くする
+
重心を上げる
という二重の問題を生む。
予備オールと寝袋まで海へ捨てた
着氷が進んだ6日目、6人は艇を軽くする作業を始める。
氷に完全に覆われた予備オールを外し、海へ捨てた。
さらに完全に濡れて凍結した毛皮の寝袋2つも捨てた。
1つ約40ポンド、約18kgとシャクルトンは見積もっている。
寝袋は本来なら防寒に不可欠である。
しかし濡れて凍った寝袋は断熱材ではなく、大きな重量物になる。
「必要な装備だから残す」ではなく、
現在どの機能を実際に果たしているかで再評価された。
残した寝袋は4つ。
6人分すら残さなかった。
その直後、シーアンカーまで失った
艇から氷を削り落とし、少し復原性を取り戻した直後、別の問題が起きる。
シーアンカーをつないでいたロープが切れた。
艇首を波へ向けるために使っていた装置を失った。
James Cairdは横波を受けやすい姿勢になり、激しくローリングする。
回収は不可能だった。
そこで凍りついた帆を叩いて氷を落とし、再び帆を張る。
以後、荒天時にも帆を使って艇首方向を管理しなければならなくなった。
食事を作るにも3人必要だった
航海中、温かい食事と飲み物は体温と体力を維持するために重要だった。
しかしPrimusストーブへ火をつければ終わりではない。
艇は大きく揺れる。
鍋が滑れば熱い内容物を失うだけでなく、火災や火傷にもつながる。
シャクルトンによれば、調理には3人必要な場面もあった。
1人がストーブを押さえ、2人が鍋を保持する。
艇が大きく傾けば鍋を火から上げ、戻れば再び載せる。
その作業を狭いデッキ下で行う。
「食べる」ことにも、航海能力の一部を投入しなければならなかった。
マッチ1本も消耗品として管理された
Primusを使うには火が必要になる。
航海中盤になると、マッチも厳しく管理された。
ストーブを点火するときは原則として1回1本。
初期には夜間にコンパスを確認するためマッチを擦ることもあったが、消耗を抑えるため後には中止した。
食料や水だけではない。
火を作る手段まで使い切れば、温かい飲み物を作れない。
濡れた人間が低温環境で行動し続けるうえでは、マッチ1本にも生存上の価値があった。
5月5日――シャクルトンが巨大な波を目撃した
航海11日目にあたる5月5日、海況はさらに悪化した。
夜、シャクルトンは操舵中、遠くに白く見えるものを最初は雲の切れ目だと思った。
実際には巨大な波の頂部だった。
シャクルトンは後に、26年間の航海経験でもこれほど巨大な波を経験したことがなかったと記している。
これは彼自身の回想であり、波高を客観的に測定した記録ではない。
しかし結果は確認できる。
波を受けたJames Cairdは大量の水をかぶり、艇内は一時半分近くまで水で満たされた。
6人は利用できる容器を総動員し、約10分間にわたって排水した。
艇が沈まなかったのは、簡易デッキが一部の波を受け流したこと、艇自体の浮力、そしてすぐ排水できたことが組み合わさった結果だった。
5月6日――South Georgiaまで100マイル以内
翌5月6日は天候がやや改善し、太陽が見えた。
Worsleyが位置を確認すると、South Georgia北西端まで約100マイル以内に来ていると判断された。
この時点で航海技術上は成功が近づいていた。
しかし別の資源が限界へ近づいていた。
飲料水である。
Elephant Islandから積んだ氷はすでに使い切った。
残るのは水樽の水だけだった。
ところが出航時に損傷した樽には海水が混入している。
飲めば塩気がある。
さらに6人は一日中海水の飛沫を浴び、口や唇に塩が付着していた。
喉の渇きは急速に悪化した。
水は1人1日約半パイントまで減らされた
シャクルトンは飲料水の配給を、1人あたり1日半パイント程度まで削減した。
約280mLである。
現在位置から見れば、South Georgiaまでは近い。
しかし風向が変われば、到着は数日遅れる。
今飲み切れば、島の直前で水を失う。
かといって配給を減らせば、脱水で判断力と身体能力が低下する。
ここでも、
今日の身体能力を維持する水量
と
到着が遅れた場合に生き残る予備量
のトレードオフがあった。
島を「正確に狙う」のではなく、外さない方向へ航路をずらした
South Georgiaへ近づくと、航法上の考え方も変わった。
島の中央を最短距離で狙えばよいわけではない。
位置計算には誤差がある。
もし島の北端を少し通り過ぎれば、その後は風下へ流され、James Cairdで戻れない可能性があった。
そこでシャクルトンは、島を確実に「捕まえる」ため、進路を調整して海岸線の途中へ当たるようにした。
航法で重要なのは、最短経路そのものより、
誤差があっても致命的な側へ外れないことだった。
5月8日――鳥と海藻が「陸」を先に知らせた
5月8日朝。
空は厚い雲に覆われていた。
島が近いはずだが、まだ陸は見えない。
午前10時ごろ、小さなケルプ(海藻)が流れてきた。
その約1時間後には、大きな海藻の上に2羽の鳥を確認する。
沖合へ長距離出ない種類だったため、陸が近いことを示していた。
12時30分ごろ。
雲の切れ間から、McCarthyがSouth Georgiaの黒い崖を発見した。
Elephant Islandを出てから14日後だった。
Worsleyの航法は、少なくとも島を視認できる範囲まで6人を運んだ。
島を見つけても、その日に上陸できなかった
陸が見えれば航海終了、ではない。
South Georgia西岸には、荒い波を直接受ける岩壁や暗礁が多い。
大波は沿岸の岩へぶつかり、高く砕けていた。
日は暮れ始めている。
暗い中で未知の岩礁地帯へ入れば、James Cairdを失う危険が高い。
6人は激しい喉の渇きに苦しんでいたが、8日の上陸を断念した。
一度沖へ離れ、翌朝を待つ。
目的地を見つけた後にも、「今上陸する危険」と「もう一晩海へ残る危険」を比較する必要があった。
5月9日――今度は島そのものへ叩き付けられそうになった
翌朝、風は急激に強くなった。
James CairdはSouth Georgia沿岸の風下側へ押され始める。
これは帆船にとって特に危険なlee shoreの状態である。
艇の風下に海岸がある。
風と波は艇を陸へ押す。
沖へ逃げるには風上へ進まなければならない。
しかしJames Cairdの風上性能には限界がある。
海岸には港ではなく岩壁がある。
シャクルトンたちは、島が見えているのにそこへ到達できないどころか、
岩壁へ破壊される危険に直面した。
風向が変わったのは、日没直前だった
5月9日夕方まで、James Cairdは海岸方向へ押され続けた。
シャクルトンは、この時点では生存可能性がかなり低くなったと回想している。
午後6時すぎ。
状況が変わった。
風向が変化し、艇は海岸から離れる方向へ進めるようになった。
その直後にはマストを固定するピンが外れた。
嵐の最中に外れていれば、マストを失っていた可能性がある。
James Cairdはもう一度沖へ逃れた。
しかし飲料水はほぼ尽きていた。
最後の水は、ほとんど飲料と呼べない状態だった
5月9日夜。
残った水はごくわずかだった。
シャクルトンの記録では、最後には不純物の混じった約1パイントの液体を、医薬品箱にあったガーゼで濾して飲んでいる。
口は乾き、舌は腫れていた。
この段階では上陸地点を理想的に選ぶ余裕はない。
翌日は、可能な場所へ何としても上陸する必要があった。
5月10日――King Haakon Bayへ向かった
5月10日朝、一時的に風が弱まった。
沿岸へ近づくと、大きく入り込んだ湾が見える。
シャクルトンはこれをKing Haakon Bayと判断した。
湾内へ入れば外洋の波から多少守られる。
現在の地理では、James Cairdが到達したKing Haakon BayがSouth Georgia南西岸のどこにあるかを確認できる。
King Haakon Bayの現在位置。1916年5月10日のJames Caird上陸地点を含む湾の地理を確認するための地図であり、1916年当時の氷河範囲、海況、沿岸形状、James Cairdの正確な航跡を再現するものではない。
しかし入口には岩礁が並び、その間を通過しなければならない。
湾内に安全な水面が見えているのに、風向が再び変わり、直接入口へ向かえなくなる。
その午後、James Cairdは5回のタックを繰り返しながら岩礁線を突破した。
ようやく湾内へ入る。
夕方、6人はSouth Georgiaへ上陸した
日没が近づくころ、湾の南側に小さな入り江が見つかった。
岩礁の切れ目を抜け、James Cairdを進入させる。
入口は狭く、オールを艇内へ入れなければ通れないほどだった。
波に乗ったJames Cairdが石浜へ触れる。
シャクルトンがロープを持って岩へ飛び移り、続いて他の乗員も上陸した。
そしてすぐ近くで、彼らは水の流れる音を聞く。
淡水の小川だった。
約16日間の航海終盤、深刻な脱水に苦しんでいた6人は、ここで初めて制限なしに淡水を飲むことができた。
FACT CHECK|James Caird航海は16日間? 17日間?
資料によって「16日」「17日」という両方の表現がある。
| 1916年4月24日 | Elephant Islandを出航 |
|---|---|
| 1916年5月8日 | South Georgiaを初視認 |
| 1916年5月10日 | King Haakon Bayへ上陸 |
シャクルトン自身は、出航後の記述で「次の16日間」として航海を扱っている。
一方、Royal Museums Greenwichなどでは、日付を両端含みで数える形で「17日後」と説明する場合がある。
したがって本シリーズでは、4月24日出航、5月10日上陸という日付を固定し、航海期間は約16日と表記する。
FACT CHECK|「800マイル」は約1,300kmか、約1,500kmか
歴史紹介では単に「800 miles」と書かれることが多いため、陸上の法定マイルで換算すると約1,300kmになる。
しかしFrank Worsleyの原航海日誌を解析したCanterbury Museumの2018年研究は、James Caird航海を800 nautical miles=約1,500kmとしている。
海上航程としてはこちらの整理が適切なため、本記事では約800海里、約1,500kmを採用する。
上陸したのに、まだ救助を呼べなかった
6人はSouth Georgiaへ到達した。
しかし目標だった捕鯨基地へ着いたわけではない。
捕鯨基地は島の反対側、北東岸にある。
James Cairdが到達したKing Haakon Bayは南西側だった。
周囲には町も無線局もない。
さらに6人は16日間の航海で著しく衰弱しており、James Cairdも損傷していた。
King Haakon Bayから捕鯨基地まで海路で回るには、再びSouth Georgiaの荒れた海岸を長距離航行しなければならない。
そのため、South Georgiaへの到達は救助作戦の終了ではない。
「救援を得られる島に着いた」だけで、まだ「救援を得られる場所」には着いていなかった。
この航海は、何によって成立したのか
James Caird航海を一つの英雄的判断にまとめると、具体的な成立条件が見えなくなる。
| 要素 | 機能 |
|---|---|
| South Georgiaを選択 | 距離だけでなく西風帯と確実な救援先を考慮 |
| McNishによる補強 | 船体曲げの抑制と簡易デッキの構築 |
| 大量のバラスト | 重心を下げ、復原性を確保 |
| Worsleyの航法 | 限られた天測と推測航法でSouth Georgiaを捕捉 |
| 当直制 | 操舵・帆・排水を24時間維持 |
| 人力排水 | 不完全なデッキから入る水を継続的に排出 |
| 着氷除去 | 上部重量を減らし復原性を回復 |
| 装備投棄 | 機能を失った重量を減らす |
| 水・マッチ管理 | 到着遅延を想定して消耗品を温存 |
| 航路変更 | 最短距離より、島を外さないことを優先 |
このどれか一つだけで成功したわけではない。
艇が壊れれば終わる。
位置を外せば終わる。
水を使い切っても終わる。
浸水を排出できなくても終わる。
つまりJames Caird航海は、
複数の限界条件を16日間、同時に外さなかったことによって成立した。
「リーダーシップだけ」で説明すると見えなくなるもの
この航海はシャクルトンの判断力を示す事例として頻繁に紹介される。
それ自体に根拠はある。
しかし具体的な航海を見ると、成果はシャクルトン1人で成立していない。
McNishが艇を補強しなければ、簡易デッキと船体剛性を確保できなかった。
Worsleyが島を捉えられなければ、South Georgiaを通過していた可能性がある。
Crean、McCarthy、Vincentを含む全員が操舵、操帆、排水、調理、着氷除去を交代しなければ、艇を24時間維持できなかった。
そしてElephant IslandではWildが22人を維持する必要があった。
したがってJames Caird航海を正確に表現するなら、
「シャクルトンが一人で救った」ではなく、「シャクルトンが選択した作戦を、異なる技能を持つ人間が成立させた」
と見る方が実態に近い。
まとめ|約7mの艇で800海里を渡れた理由
1916年4月24日、James CairdはElephant Islandを離れた。
艇は約6.9m。
目的地South Georgiaまでは約800海里、約1,500km。
6人はそのままの救命艇で出たわけではない。
McNishらが内部を補強し、そりのランナーと箱材で骨組みを作り、キャンバスの簡易デッキを張った。
船底には約450kgの砂袋と石を積み、復原性を高めた。
食料は約1か月分。
飲料水と氷も積んだ。
航海ではWorsleyが六分儀、クロノメーター、コンパス、航海表を使い、天体が見えない時間は推測航法で位置をつないだ。
簡易デッキからは水が漏れ続け、当直者は操舵、帆、排水を分担した。
艇へ氷が付着して重心が上がると、予備オールや凍った寝袋を捨て、氷を削り落とした。
シーアンカーを失った後も、帆で船首方向を維持した。
5月5日には巨大な波を受け、大量の海水が艇内へ入った。
5月6日にはSouth Georgiaまで約100マイル以内に来た一方、飲料水は限界へ近づいていた。
5月8日、海藻と鳥に続いて島の黒い崖を発見する。
それでも荒波で上陸できず、翌9日には強風によって岩壁へ押し付けられそうになった。
そして5月10日、King Haakon Bayへ進入。
6人はようやくSouth Georgiaへ上陸した。
ただし捕鯨基地は島の反対側にある。
James Cairdは損傷し、McNishとVincentは著しく衰弱していた。
ここから次の選択が必要になる。
船で島を回るのか。
それとも、地図も登山道もほとんどない島の内部を横断するのか。
シャクルトンは後者を選ぶ。
同行するのはWorsleyとCreanの2人だけだった。
第8回では、なぜ6人全員ではなく3人でSouth Georgia島内へ入り、約36時間にわたって氷河と山地を越えてStromness捕鯨基地へ到達したのかを追う。
今回出てきた言葉
- James Caird
- Enduranceから持ち出された救命艇のうち最大の艇。外洋航海用に改造され、1916年4月24日から5月10日にかけてElephant IslandからSouth Georgiaまで航海した。
- Frank Worsley
- Endurance船長。James Cairdでは航海士として、天測と推測航法を用いてSouth Georgiaへの航路を維持した。
- Harry McNish
- Enduranceの船大工。James Cairdの船体補強と簡易デッキ製作を担当した。
- 六分儀(Sextant)
- 天体と水平線の角度を測定する航海器具。太陽高度などから船の位置を求めるために使われる。
- クロノメーター(Marine Chronometer)
- 航海用の高精度時計。天測による経度計算では正確な時刻が重要になる。
- 推測航法(Dead Reckoning)
- 既知の位置から方位・速度・時間・潮流などを推定し、現在位置を計算する方法。誤差は時間とともに累積する。
- バラスト(Ballast)
- 船の重心や姿勢を調整するために低い位置へ搭載する重量物。James Cairdでは砂袋や石が使用された。
- 復原性
- 波や風で船が傾いた際、元の姿勢へ戻ろうとする性質。上部への着氷は重心を上げ、復原性を悪化させる。
- シーアンカー(Sea Anchor)
- 水中抵抗を利用して艇首を波へ向け、漂流速度を抑える装置。James Cairdでは荒天時に使用されたが航海途中で失われた。
- King Haakon Bay
- South Georgia南西岸の大きな湾。1916年5月10日、James Cairdの6人がこの湾内へ上陸した。
CASE FILE 28|全記事
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出典・参考資料
-
Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
South Georgiaを目的地に選んだ理由、6人の選定、James Cairdの改造、4月24日の出航、積載物、航海中の当直・浸水・着氷・飲料水不足、5月8日のSouth Georgia視認、5月10日のKing Haakon Bay上陸についての一次資料として使用。 -
Canterbury Museum — Navigation of the James Caird on the Shackleton Expedition, Records of the Canterbury Museum Vol.32
Frank Worsleyの原航海日誌を再解析した研究。James Cairdの全長約6.9m、約800海里の航程、天測・推測航法の方法と航海計算の検証に使用。 -
Royal Geographical Society — Shackleton’s Endurance: Uncharted / Endurance22 Interactive
James Cairdの航海、艇の改造、Worsleyの六分儀による航法、南大洋の波浪条件、4月24日の出航とSouth Georgia到達の確認に使用。 -
Scott Polar Research Institute — The Imperial Trans-Antarctic Expedition
McNishによるJames Cairdの船体補強、追加マストとキャンバスデッキ、6人の構成、South Georgiaへの航海とKing Haakon Bayへの上陸について確認。 -
Royal Museums Greenwich — Sir Ernest Shackleton / Marine Chronometer 5229
South Georgia航海の全体像と、James Caird航海に使用されたと考えられている航海用クロノメーターの確認に使用。 -
Dulwich College — The James Caird
現存するJames Cairdの現在の保存場所、艇の概略寸法、現存船としての確認に使用。
本記事は、シャクルトン本人の『South』を航海経過の一次資料の中心とし、Frank Worsleyの原航海日誌を再解析したCanterbury Museumの研究、Royal Geographical Society、Scott Polar Research Institute、Royal Museums Greenwichなどを照合して構成しています。「太陽を4回しか観測できなかった」「800マイル」「艇長20~23フィート」など、一般向け資料と原資料・研究で数え方や表記が異なる事項は単一値へ無理に統一せず、本文中で区別しています。また巨大波の規模については計測値が存在しないため、シャクルトン本人の回想として扱っています。