1916年5月10日。
Elephant Islandを離れて約16日後、James Cairdの6人はついにSouth Georgiaへ上陸した。
約800海里の外洋航海は終わった。
しかし、救助要請はまだできない。
彼らが着いたKing Haakon Bayは島の南西側。
人が暮らす捕鯨基地は、山脈と氷河を挟んだ北東側のStromness、Husvik、Leith Harbour方面にあった。
James Cairdで島の海岸を回り込めばよいようにも思える。
だが16日間の南大洋航海で艇は傷み、乗員も消耗していた。VincentとMcNishは徒歩で山を越えられる状態ではなく、艇をさらに荒れた外洋へ戻すことも危険だった。
そこでシャクルトンが選んだのは、別の方法だった。
Shackleton、Frank Worsley、Tom Creanの3人だけで、South Georgiaの内陸部を徒歩で横断する。
登山用テントはない。
寝袋も持たない。
詳細な内陸地図もない。
装備は食料、Primusストーブ、小型調理器、約15mのロープ、そして船大工の手斧などに絞られた。
1916年5月19日未明、3人はKing Haakon Bayを出発する。
Stromnessの捕鯨基地へ着いたのは翌20日。
その間、ほぼ眠らず山、氷河、クレバス、断崖を越え続けた。
この記事で分かること
- なぜJames Cairdで捕鯨基地まで航海しなかったのか
- なぜ6人ではなくShackleton、Worsley、Creanの3人だったのか
- King Haakon BayのPeggotty Campとは何か
- 3人が持っていった装備はどれほど少なかったのか
- なぜ寝袋を持たなかったのか
- 詳細な地図なしでどう進路を決めたのか
- なぜ一度登った山を引き返したのか
- 約900フィートの斜面をなぜ滑り降りたのか
- 36時間近く眠らず歩いた理由
- 捕鯨基地の汽笛がなぜ重要だったのか
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シャクルトンとエンデュアランス号遠征|全10回
- 第1回 シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
- 第2回 シャクルトンは何を目指していたのか|帝国南極横断探検隊と「南極大陸横断」計画
- 第3回 なぜエンデュアランス号は氷に閉じ込められたのか|ウェッデル海と海氷が塞いだ航路
- 第4回 エンデュアランス号はどう壊れ、沈んだのか|海氷の圧力と船を捨てるまで
- 第5回 船を失った28人は氷の上でどう生き延びたのか|キャンプ生活と漂流の日々
- 第6回 28人はどうエレファント島へたどり着いたのか|3隻の救命艇による氷海脱出
- 第7回 800マイルの海をどう渡ったのか|ジェームズ・ケアード号と6人のサウスジョージア航海
- 第8回 なぜサウスジョージア島を歩いて横断したのか|無人の海岸からストロムネス捕鯨基地へ【現在の記事】
- 第9回 「全員生還」はどこまで本当か|エレファント島救出とロス海支隊3人の死
- 第10回 2022年、海底で見つかったエンデュアランス号|107年後の船体発見で何が分かったのか
South Georgiaへ着けば終わり――ではなかった
James Cairdが5月10日にたどり着いたKing Haakon Bayには、人間の居住地がなかった。
South Georgiaに捕鯨基地が存在すること自体は分かっていた。
Enduranceは南極へ向かう前の1914年11~12月、島北東岸のGrytvikenなどに滞在していたからである。
しかしKing Haakon Bayは島の反対側だった。
両者の間にはSouth Georgiaの山岳地帯が横たわっている。
島中央部には高い山々と氷河が連なり、谷の多くは氷で埋められていた。
1916年当時、海岸線について一定の情報はあっても、内陸部を徒歩横断するために使える精密な地形図や登山ルートが整備されていたわけではない。
つまり6人は、
救助を得られる島には到達したが、救助を要請できる場所には到達していなかった。
まず現在の地形で、King Haakon BayとStromnessがSouth Georgiaの反対側にあり、
その間を山岳・氷河帯が隔てていることを確認しておく。
South Georgiaの現在地形。現在のGoogle Mapは、1916年5月19~20日のShackleton、Worsley、Creanの実際の徒歩経路や、当時の氷河形状・積雪状態を再現するものではない。歴史的な横断経路はBritish Antarctic Surveyの詳細地図を優先する。
ここで重要なのは、南西岸のKing Haakon Bayから北東側のStromnessまでを単純な直線として見ることではない。
実際の横断では山稜と氷河を越え、行き止まりや誤進入で引き返しながら進んだため、1916年の行動線は専用の歴史ルート図で補う必要がある。
なぜJames Cairdで島を回り込まなかったのか
地図だけを見ると、King Haakon Bayから海岸沿いに進み、北東側の捕鯨基地へ向かう方法が簡単に思える。
しかしJames Cairdは、すでに限界に近かった。
Elephant IslandからSouth Georgiaまでの航海では、
- 大波による浸水
- 艇体への着氷
- 帆・ロープ類の消耗
- 簡易デッキからの漏水
- 長期間の連続航海
に耐えている。
South Georgia西岸は外洋の大波を直接受ける場所も多い。
5月8日に島を発見してからも、6人は荒波のためすぐ上陸できず、9日には岩壁へ押し付けられそうになっている。
その艇でもう一度海へ出て、未知の海岸線を回り込むことは大きな賭けだった。
Royal Geographical Societyも、James Cairdと乗員の状態から、さらに海岸を航海するより徒歩でStromnessへ向かう判断になったと整理している。
そこでいったんKing Haakon Bay内部のより安全な地点へJames Cairdを移し、陸路で救援を求める準備が始まった。
Peggotty Camp|James Cairdそのものを小屋にした
5月15日、6人はKing Haakon Bayの奥へJames Cairdを移動させた。
艇を高潮線より上まで引き上げ、ひっくり返す。
その周囲を石やタソック草で囲み、艇そのものを屋根にした。
この場所がPeggotty Campと呼ばれる。
名前はチャールズ・ディケンズの『David Copperfield』に登場する、船を住居にしたPeggotty一家に由来する。
海岸にはゾウアザラシがおり、肉と脂肪を確保できた。
James Caird航海で衰弱した6人にとって、数日間食事を取り、身体を回復させる場所になった。
だがここに留まり続けることはできない。
Elephant Islandでは22人が救助を待っている。
6人全員ではなく、3人だけで行くことになった
King Haakon Bayから捕鯨基地へ向かえる体力が残っていたのは全員ではなかった。
シャクルトン自身の記録では、John Vincentは徒歩移動できない状態だった。
船大工Harry McNishも大きく衰弱していた。
その2人だけをキャンプへ残すこともできない。
そこでTimothy McCarthyがPeggotty Campへ残り、2人の面倒を見ることになった。
内陸へ向かうのは、
- Ernest Shackleton
- Frank Worsley
- Tom Crean
の3人になった。
| 内陸横断 | Shackleton / Worsley / Crean |
|---|---|
| Peggotty Camp残留 | McCarthy / McNish / Vincent |
これは単に「最も有名な3人を選んだ」わけではない。
Worsleyは地形と方位を判断できる航海士であり、Creanは長距離の極地行動経験が豊富だった。
残った3人のうちMcCarthyには、衰弱した2人を維持する役割があった。
最初は「そり」を作るつもりだった
徒歩横断でも、当初は荷物を背負うだけではなく、そりを使う案があった。
McNishが限られた材料から小型そりを製作した。
5月18日、実際に3人でそのそりを氷河付近まで運んでみる。
しかしすぐ問題が分かった。
雪だけなら引けても、South Georgiaの地形には露岩、モレーン、急斜面、氷河が連続している。
岩場では空のそりさえ持ち上げなければならなかった。
シャクルトンは、
この地形で3人がそりを維持することは負担が大きすぎる
と判断する。
そりを捨て、荷物をさらに減らすことになった。
寝袋もテントも持っていかなかった
3人が選んだのは、長期間安全に野営できる装備ではない。
できるだけ軽くし、短時間で突破する装備だった。
持ち出した主要物資は、
- 3日分のそり用レーションとビスケット
- Primusストーブ
- 小型調理器
- ストーブ用燃料
- 約50フィート、約15mのロープ
- 船大工用のadze(手斧)
- マッチ48本
などだった。
テントはない。
寝袋も置いていった。
これは危険な選択だった。
悪天候で進めなくなった場合、3人には長時間安全に野営する装備がほとんどない。
一方、寝袋や大型装備を持てば、急斜面と氷河で移動速度が落ちる。
シャクルトンたちは、
「止まって安全に夜を越す能力」を捨て、「止まらず短時間で抜ける能力」を選んだ。
FACT CHECK|「何も持たずに山を越えた」のか
ほとんど装備なし、と表現されることがあるが、完全な無装備ではない。
3人は3日分の食料、Primusストーブ、調理器、約15mのロープ、手斧などを携行していた。
ただし本格的な登山装備、テント、寝袋、ピッケル、現代的なクランポンなどは持っていない。
したがって「無装備」より、
極端に軽量化された即席の山岳装備
と表現する方が正確である。
靴底にはJames Cairdのネジを打ち込んだ
氷面を歩くには、滑落を防ぐ装備が必要になる。
しかし3人には現代的な登山用クランポンがない。
特にシャクルトンの靴は状態が悪かった。
そこでMcNishが、James Cairdから外したネジを靴底へ打ち込んだ。
ネジ頭を氷へ食い込ませ、滑り止めとして使う。
後に氷斜面で足場を作るため使われたのは、本格的なアイスアックスではなく船大工用の手斧だった。
装備の多くは、もともと山岳横断を目的として用意された物ではない。
船に残っていた物を別用途へ転用した装備だった。
5月19日午前3時ごろ、3人は出発した
5月19日午前2時、3人は起床した。
食事を作り、満月の下で出発準備を整える。
McNishは約200ヤードだけ一緒に歩いたが、それ以上進むことはできなかった。
そこで3人と別れ、Peggotty Campへ戻っていった。
最初の難関は、キャンプ近くまで伸びる氷河だった。
波のタイミングを見ながら氷河先端と海岸の狭い隙間を抜け、その後は東へ向かう雪斜面を登る。
2時間ほどで標高約2,500フィート、約760mまで上がった。
上から見えたSouth Georgia内部は、彼らが期待したようななだらかな雪原ではなかった。
高い峰。
急斜面。
氷河。
クレバス。
岩稜。
進める谷と、行き止まりの谷を上から見分ける必要があった。
霧の中では、ロープを「進路計」に使った
標高を上げると濃霧に包まれた。
視界がほぼなくなる。
氷河上では進行方向だけでなく、クレバスや断崖も見えない。
3人はロープで身体を結んだ。
ただし用途は転落防止だけではない。
先頭のShackletonと最後尾との間隔を広く取り、先頭が左右へ逸れた場合には、後方の人間が方向を修正する。
シャクルトンはこれを船の操舵になぞらえ、
「port」「starboard」「steady」
のような指示で方向を維持したと記録している。
海で使用していた航海の考え方を、視界のない雪原上へ持ち込んだ形である。
「凍った湖」だと思ったものは海だった
夜が明けて霧が薄くなると、標高約3,000フィートから巨大な平坦面が見えた。
3人には凍った湖のように見えた。
そこで一度、そこへ向かって下降する。
しかし近づくにつれクレバスが増え、氷河上を歩いていることが分かった。
さらに霧が完全に晴れる。
そこで初めて、平坦面の正体が分かった。
湖ではなく海だった。
彼らはPossession Bay側へ降りようとしていた。
そこへ到達しても捕鯨基地はない。
粗い地図と霧によって、最初の進路選択は失敗した。
3人は再び氷河を登り返す。
横断は、最短ルートを最初から知って歩いたものではない。
高所へ登って周囲を見る → 行き止まりなら戻る → 次の谷を試す
という探索を繰り返した。
午前11時、最初の高い稜線で行き止まりになった
その後3人は別の尾根を目指した。
急斜面では手斧で雪と氷を削り、足場を作る。
午前11時ごろ、鋭い稜線へ到達した。
しかし向こう側は下降路ではなかった。
眼下約1,500フィート、約460m下まで切れ落ちた断崖と、崩れた氷が広がっていた。
降りられない。
3時間かけて登った斜面を引き返し、約1時間で下まで戻った。
時間と体力を使ったにもかかわらず、地図上の目的地へはほとんど近づいていない。
山岳ルートを知らないことの代償だった。
標高約4,500フィート――今度は霧に追われた
別ルートを探し、3人は再び登る。
午後には標高約4,500フィート、約1,370mの高所まで達した。
しかしまた、先には簡単に降りられる道が見えない。
さらに西側から霧が迫ってきた。
3人にはテントも寝袋もない。
この高度で霧と夜に捕まれば、停止すること自体が危険になる。
下へ降りなければならない。
だが見つかった斜面は急で、その先が崖になっているかどうか確認できなかった。
約900フィートを「滑って」降りた
3人は急斜面を最初は慎重に下り始めた。
やがて雪面が少し軟らかくなり、傾斜も一定に見えた。
霧は後ろから迫ってくる。
そこでロープを外した。
3人並んで雪面を滑り降りる。
その先が断崖なら止まれない。
しかし高所に留まることもできなかった。
結果として、3人は約900フィート、約270mを数分で下降した。
幸い斜面は下まで続いていた。
これによって迫っていた霧から低地へ逃れることができた。
FACT CHECK|「命懸けで崖から滑り降りた」はどこまで本当か
シャクルトン自身の記録では、霧を避けるため急斜面を下降し、途中から3人で滑り、少なくとも約900フィートを2~3分で下ったとしている。
一方で、彼ら自身も斜面の下端を完全には確認できていなかった。
したがって非常に危険な判断だったことは確かだが、「意図的に崖から飛び降りた」という意味ではない。
なぜ36時間も眠らなかったのか
夕方になっても3人は本格的なキャンプを設営しなかった。
できないからである。
テントも寝袋も持っていない。
止まれば身体が冷える。
夜になっても月明かりがあり、クレバスの縁が影として見える場所では歩き続けられた。
午後6時ごろに温かい食事を取り、その後も前進。
午後8時ごろには満月が出て、雪原を照らした。
午前0時には再び標高約4,000フィートへ達している。
この時点で、出発から20時間以上が経過していた。
それでも歩き続けた。
休息する装備を持たなかった以上、
身体を動かして熱を作りながら、できるだけ早く低地と人間の居住地へ到達すること
が安全策でもあった。
午前1時、30分だけ食事休憩
日付が5月20日に変わったころ、3人は雪に穴を掘り、Primusを点火した。
温かい食事を取る。
休憩は約30分。
そこからまた歩き始めた。
下方に海岸らしき地形が見え、Stromness Bayに到達したと思った。
ところが、近づくと再び氷河が現れた。
Stromnessにはそのような氷河はないとシャクルトンは知っていた。
ここはFortuna Glacierだった。
また進路を間違えたことになる。
3人は疲労した身体で再び登り返した。
眠ったら危険――5分で2人を起こした
午前5時ごろ。
3人は岩陰で休憩することにした。
手斧と杖を雪の上へ置き、その上へ座る。
3人で身体を寄せ、互いに腕を回した。
シャクルトンは30分ほど休むつもりだった。
WorsleyとCreanは1分ほどで眠った。
しかしシャクルトンは、この低温下で3人全員が眠れば危険だと判断する。
約5分後、2人を起こした。
その際には「30分眠った」と伝えたと本人は記録している。
実際には数分しか経っていない。
2人を再び歩かせるためだった。
極度に疲労した状態での睡眠は、低体温によってそのまま覚醒できなくなる危険があった。
午前6時30分、「人間の音」が聞こえた
午前6時ごろ、3人はFortuna Bay方面の稜線を越えた。
まだStromnessまでは距離がある。
シャクルトンが高い場所へ登って地形を確認していた午前6時30分ごろ、遠くから音が聞こえた。
蒸気汽笛のような音だった。
シャクルトンには思い当たることがあった。
捕鯨基地では、決まった時刻に汽笛で作業員を起こす。
そこで3人はクロノメーターを見ながら午前7時を待った。
そして7時。
もう一度、汽笛が聞こえた。
偶然の自然音ではない。
人間が生活している場所が、歩いて到達できる距離にあることが初めて音によって確認された。
1914年12月にStromness Bayを離れて以来、彼らが外部社会から発せられた音を聞いたのは約17か月ぶりだった。
汽笛が聞こえても、まだ安全ではなかった
Stromnessが近いことは分かった。
しかし現在地と捕鯨基地の間には、まだ急斜面がある。
Fortuna Bay側へ下るには青氷の斜面を越えなければならなかった。
WorsleyとCreanが足場を作り、Shackletonをロープで下ろす。
Shackletonは手斧で氷を削り、次の足場を作る。
その作業を繰り返した。
約500フィート下るのに2時間を要した。
途中で削り落とした氷片がそのまま空中へ落ちていくのを見て、直下に崖があることも分かった。
進路を少し横へずらしながら、安全な場所まで下りた。
海岸には「人間がいる証拠」が残っていた
やがて雪面が途切れ、タソック草と砂浜へ到達した。
そこで最近撃たれたアザラシを見つける。
自然死ではなく、弾痕がある。
Stromnessの捕鯨業者がFortuna Bayへアザラシ猟に来ることを、シャクルトンは後に知る。
汽笛に続き、今度は物理的に人間活動の痕跡が現れた。
3人は海岸沿いを急いだ。
最後には、雪で隠れた湖へ踏み込んだ
5月20日正午すぎ。
3人は再び高台を越えていた。
雪原を歩いていたShackletonの足が突然沈む。
膝まで水に入った。
その場所は地面ではなく、薄い雪で表面を覆われた小さな湖だった。
Shackletonはすぐ身体を横に倒し、WorsleyとCreanにも同じようにするよう指示した。
接地面積を増やして雪面へかかる圧力を下げるためである。
3人は慎重に約200ヤード進み、再び安定した地面へ出た。
捕鯨基地が目前に見える段階でも、地形の危険は終わっていなかった。
午後1時30分、Stromnessが見えた
午後1時30分ごろ、最後の稜線を回った。
眼下に小型蒸気船が見えた。
次に帆船のマスト。
建物。
工場設備。
そして、人間が動いている姿。
Stromness Whaling Stationだった。
ここで3人は、ようやく目的地を視覚的に確認した。
しかしそこから標高差はまだ約2,500フィートあった。
最後の下降が残っていた。
最後は滝の中をロープで降りた
捕鯨基地へ向かう斜面で、3人は水の流れる谷筋を利用した。
氷水の中を歩き、腰まで濡れる。
その先で水音が大きくなった。
進路の先には約25~30フィート、約8~9mの滝があった。
左右は氷壁。
引き返して別ルートを探すには、3人はすでに消耗しすぎていた。
そこで岩へロープを固定し、滝の中をそのまま下降する。
最初は体重の重いCrean。
次にShackleton。
最後にWorsley。
3人とも水を浴びながら下りた。
最後のWorsleyが降りると、ロープは回収できなかった。
ここまで来れば、装備を回収する意味はほとんどない。
捕鯨基地は約1.5マイル先だった。
Stromnessの人々は、3人が誰なのか分からなかった
Stromnessへ近づく途中、3人は子どもに出会った。
シャクルトンが管理人の家を尋ねる。
子どもたちは答えず、走って逃げた。
無理もない。
3人は長期間まともに洗っていない。
髪とひげは伸び、衣類は破れ、海水、脂、泥、雪で汚れていた。
捕鯨基地の作業員に会っても、最初は不審者のように見られた。
やがて基地管理人Thoralf Sørlleの家へ案内される。
Sørlleもすぐにはシャクルトンだと分からなかった。
シャクルトンが名乗って、ようやく状況が理解された。
1914年に出発した世界と、1916年の世界は違っていた
Stromnessへ到達した3人は、約1年半にわたって外部社会から切り離されていた。
シャクルトンがSørlleへ最初に尋ねたことの一つが、第一次世界大戦が終わったかどうかだった。
答えは「まだ終わっていない」。
彼らが南極へ向かった1914年末以降、
- 西部戦線の長期化
- Lusitania号沈没
- 毒ガス兵器の使用
- Gallipoli戦役
- 潜水艦戦
などが起きていた。
一方、Endurance隊はその間、無線も新聞もない海氷と無人島で生活していた。
Stromnessへの到着は、単に暖かい建物へ入ったというだけではない。
1914年12月以来初めて、外部世界との情報接続を取り戻した瞬間でもあった。
最初の仕事は休むことではなく、残った3人の救助だった
Sørlleは3人へ食事、風呂、衣服を用意した。
同時に、King Haakon BayのPeggotty Campに残された
- McCarthy
- McNish
- Vincent
を回収するための捕鯨船も手配した。
Worsleyが乗り込み、King Haakon Bayへの位置案内を担当する。
3人は無事救出され、James Cairdも回収された。
これでElephant Islandを出た6人全員がSouth Georgiaの有人地域へ到達した。
だが、まだ22人がCape Wildに残っている。
そのためシャクルトンに長期間休む時間はなかった。
次に必要なのは、船を確保してElephant Islandへ戻ることだった。
約36時間の横断を時系列で整理する
| 時刻・日付 | 出来事 |
|---|---|
| 5月19日 午前2時 | Peggotty Campで起床、食事準備 |
| 5月19日 午前3時ごろ | Shackleton、Worsley、Creanが出発 |
| 午前5時ごろ | 標高約2,500フィートへ上昇 |
| 朝 | 霧の中をロープで連結して進む |
| 午前7時ごろ | Possession Bay方向へ誤って下降、引き返す |
| 午前11時ごろ | 最初の稜線で断崖に阻まれ引き返す |
| 午後 | 再び標高約4,500フィートへ上昇 |
| 夕方 | 霧を避けるため約900フィートの雪斜面を滑降 |
| 午後8時ごろ | 月明かりを利用して夜間行軍 |
| 5月20日 午前0時ごろ | 再び標高約4,000フィート |
| 午前1時すぎ | 約30分の食事休憩 |
| 午前5時ごろ | 岩陰で短時間休憩。WorsleyとCreanが眠る |
| 午前6時30分 | 捕鯨基地の汽笛らしき音を確認 |
| 午前7時 | 定刻の汽笛を確認し、有人基地の存在を確信 |
| 午前~昼 | Fortuna Bay方面へ下降 |
| 午後1時30分ごろ | Stromness Whaling Stationを視認 |
| 午後 | 滝をロープで下降 |
| その後 | Stromnessへ到着、Sørlleと接触 |
FACT CHECK|横断距離は何kmだったのか
この横断については、資料によって距離表記に差がある。
シャクルトンの記録では、Peggotty CampからHusvikまでの地図上の直線距離を約17 geographical milesと見積もっていた。
しかし実際には、
- Possession Bay方向への誤進入
- 登った稜線からの引き返し
- Fortuna Glacierからの登り返し
- 山・氷河を迂回するルート
があるため、歩いた距離は直線距離よりかなり長い。
Royal Museums Greenwichは全行程を約40 milesとして紹介している。
本記事では距離を単一の精密値として扱わず、
「約36時間にわたり、複数の山稜と氷河を迂回しながら横断した」
ことを重視する。
なぜこの横断は成功したのか
South Georgia横断も、「精神力」で一括りにすると実態が見えなくなる。
| 問題 | 対応 |
|---|---|
| 重いそり | 試験後に使用を断念 |
| 装備重量 | 寝袋・テントを置き、最低限の物資だけ携行 |
| 滑る氷面 | 靴底へJames Cairdのネジを打ち込む |
| クレバス・急斜面 | 約15mのロープと手斧を使用 |
| 濃霧 | 3人をロープで連結し、後方から進路を修正 |
| 行き止まり | 無理に突破せず登ったルートを引き返す |
| 霧と夜 | 安全な低地へ短時間で下降 |
| 睡眠による低体温リスク | 本格的な睡眠を取らず行動継続 |
| Stromnessの位置 | 地形、海岸、既知の捕鯨基地情報、汽笛を利用 |
一つの正しいルートを知っていたわけではない。
むしろ何度も間違えている。
重要だったのは、
行き止まりだと判明した時点で戻り、新しいルートを探し直したこと
だった。
「3人で山を越えた」ことより重要なこと
South Georgia横断はEndurance遠征の中でも、特に劇的な場面として語られる。
だが、この行程だけを切り取ると見落とされる点がある。
彼らは登山記録を作るために山へ入ったのではない。
Elephant Islandに22人が残っていた。
Peggotty Campにも3人を残していた。
横断の目的は頂上到達ではない。
人間と船と通信手段が存在する場所まで最短時間で到達し、救助活動を開始することだった。
そのため装備も、通常の登山とは逆の思想で選ばれている。
快適に泊まる装備を削り、
速く動く。
行き止まりなら戻る。
使い終えた装備は捨てる。
汽笛が聞こえれば、その情報を次の進路判断へ使う。
South Georgia横断は、探検というより救援要請のための緊急移動だった。
まとめ|島へ着くことと、救助へ到達することは別だった
1916年5月10日、James Cairdの6人はSouth Georgiaへ到達した。
しかし上陸したKing Haakon Bayは無人の南西岸だった。
捕鯨基地は島の反対側にある。
James Cairdは消耗し、VincentとMcNishもさらに移動できる状態ではなかった。
そこで艇をPeggotty Campへ残し、Shackleton、Worsley、Creanの3人が内陸横断へ向かった。
荷物は徹底して減らした。
3日分の食料。
Primus。
小型調理器。
約15mのロープ。
船大工用の手斧。
マッチ48本。
テントも寝袋もない。
1916年5月19日未明、3人は出発した。
霧でPossession Bay方向へ誤って降り、登り返す。
別の稜線へ登れば断崖に阻まれ、また戻る。
標高約4,500フィートへ上がったところでは霧に追われ、約900フィートの雪斜面を滑り降りた。
夜も月明かりを利用して歩き続ける。
Fortuna Glacierでも進路を間違えた。
午前5時ごろには、数分休んだだけで2人が眠り込んだ。
午前6時30分。
遠くから汽笛が聞こえる。
午前7時、もう一度汽笛が鳴った。
人間が近くにいることが確認された。
そこからも青氷の斜面、雪に隠れた湖、急斜面が続く。
午後1時30分ごろ、ついにStromness Whaling Stationが見えた。
最後には約8~9mの滝をロープで降り、捕鯨基地へ到達する。
King Haakon Bayを出てから約36時間。
ここでようやく、Enduranceを失ってから初めて外部へ救援を要請できる状態になった。
しかしCape Wildでは、まだ22人が待っている。
しかもSouth Georgiaへ着けば、すぐ迎えに行けたわけではない。
海氷は再び救助船の進路を塞ぐ。
1回目は失敗。
2回目も失敗。
3回目も失敗。
最終的にElephant Islandへ到達できたのは1916年8月30日だった。
そしてもう一つ確認しなければならない。
よく語られる「全員生還」は、本当に遠征隊全体の全員を意味するのか。
第9回では、Elephant Islandの22人がどのように救助されたのか、そしてEndurance側28人全員生還とRoss Sea Partyの3人死亡を分けて検証する。
今回出てきた言葉
- King Haakon Bay
- South Georgia南西岸にある湾。James Cairdの6人が1916年5月10日に到達した。
- Peggotty Camp
- King Haakon Bay奥部に設置されたキャンプ。James Cairdを逆さにして屋根として利用し、McCarthy、McNish、Vincentが横断隊出発後も残った。
- Stromness Whaling Station
- South Georgia北東岸にあったノルウェー系捕鯨基地。1916年5月20日、Shackleton、Worsley、Creanが到達し、救助活動の拠点となった。
- Frank Worsley
- Endurance船長。James Caird航海で航法を担当し、South Georgia横断にも参加した。
- Tom Crean
- アイルランド出身の極地探検家。Scottの遠征などでも長距離行動を経験し、South Georgia横断の3人の一人となった。
- adze
- 船大工が木材加工などに使う手斧。South Georgia横断では、氷斜面に足場を切る即席のアイスアックスとして使われた。
- Fortuna Glacier
- South Georgia北岸側の氷河。3人は一度Stromness方面へ降りたと思ったが、この氷河へ出たことで進路の誤りに気付き登り返した。
- Thoralf Sørlle
- Stromness捕鯨基地の管理者。3人を受け入れ、Peggotty Campの3人を回収する船や、その後の救助準備に協力した。
CASE FILE 28|全記事
- シャクルトンとエンデュアランス号遠征とは?|船を失った28人はどう南極から生還したのか
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出典・参考資料
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Ernest Shackleton — South: The Story of Shackleton’s Last Expedition 1914–1917
Peggotty Camp、3人の選定、持参装備、5月19~20日の横断、進路変更、氷河・稜線・滑降、汽笛、Stromness到達についての一次資料として使用。 -
Royal Geographical Society — Shackleton’s Endurance: Part 6 Uncharted
5月19日の出発、約36時間の横断、当時の装備、King Haakon BayからStromnessへ向かった理由の確認に使用。 -
Royal Geographical Society — Shackleton Expedition Timeline
5月10日のSouth Georgia上陸、5月15日前後のPeggotty Camp移動、5月19日の内陸横断開始、5月20日のStromness到着という時系列の照合に使用。 -
Royal Museums Greenwich — Sir Ernest Shackleton / History of Antarctic Explorers
Shackleton、Worsley、Creanの3人が無人側から内陸を横断し、約36時間後にStromnessへ到達した全体経緯の確認に使用。 -
South Georgia Heritage Trust — Endurance Expedition / Saving Shackleton Heritage
Stromness捕鯨基地、Manager’s Villa、5月20日の3人到着、およびKing Haakon Bayから救援を求めた歴史的背景の確認に使用。
本記事では、South Georgiaの「横断距離」について資料間で表記差があるため、単一の厳密な距離を確定値として扱っていません。Shackleton本人が記した地図上の直線距離と、後世の資料が示す実際の歩行距離推定を区別しています。また「島が完全に未地図化だった」とはせず、海岸情報は存在した一方、内陸部を安全に横断できる詳細なルート情報が乏しかったという形で記述しています。